白子とシロコ   作:気弱

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ホシノ、白子の新たな友達

ここはゲヘナ学園。自由と混沌を校風に掲げている――といえば聞こえはいいが、要するに規律という概念が最初から木っ端微塵に破綻している学園だ

 

生徒たちの有り余るエネルギーと、それを抑え込むべき法律の不在。そのせいで、校舎のどこかからは毎日のように火薬の爆発音が轟き、何かしらの派閥抗争やくだらない小競り合いが絶えることはなかった。廊下を歩けば銃弾が飛び交い、窓の外を見れば重戦車が中庭を堂々と横切っていく。それがゲヘナにおける「ありふれた日常」だった

 

コンコン

 

そんな喧騒から辛うじて隔絶された、情報部の重厚な鉄扉の前に立ち、ヒナは小さく息を整えてからノックを二回響かせた

 

「失礼します」

 

まだ生地が硬く、袖口の通ったばかりの新品の軍服。ヒナは自分の背丈よりも少し長い、繊細な銀色の髪が制服の襟元で乱れていないかを軽く手で気にしながら、緊張した面持ちで部屋の中へと足を踏み入れた

 

重い扉が静かに閉まる音を背に聞きながら、軍学校の基本姿勢通り、両手を後ろに回してピシッと直立不動の姿勢を取る

 

「1年生、空崎ヒナ。ただいま帰りました。指示された任務の完了、および、基礎訓練の全日程終了を報告します」

 

部屋の奥、天井に届きそうなほど山積みにされた書類のタワーと、怪しく緑色に明滅する古い情報端末の光の向こう側から、くすくすと低く掠れた笑い声が漏れ聞こえてきた

 

「――お疲れ様、空崎ヒナさん。まさか上級生の部隊や、ほとんどのタフな1年生が初日で匙を投げかけたあの超過酷な基礎訓練を、文字通り『簡単に』、しかも完璧にクリアしちゃったのが、こんなに小さな女の子だったなんてね。現物を見てみないと、本当に信じられないものね」

 

デスクに深く肘をつき、情報部特有の目深に被った軍帽のツバの陰から、その人物――ヒナの直属の先輩にあたる上級生――が、面白そうに細めた瞳でヒナの全身を観察するように呟いた

 

空崎ヒナ

ゲヘナ学園に入学したばかりの1年生

 

彼女は、新入生全員に義務として課される「基礎訓練」という名の実戦を模した超過酷な適性検査において、過去数十年のデータをすべて塗り替える「ほぼ満点」という異次元の成績を叩き出していた。銃器の取り扱い技術、戦術的なシチュエーション理解度、そして何より単独での圧倒的な戦闘継続能力。そのどれもが、すでに前線で戦う一般の風紀委員や戦闘員を遥かに凌駕していたのだ

 

しかし、その類稀なる才能のおかげか、あるいはその才能がもたらした不運のせいなのか

 

1年生という、本来なら学園の混沌に慣れるための「猶予期間」であるはずの身でありながら、彼女は今日に至るまで、暴動の武力鎮圧、敵対派閥のデータ隠滅、危険地帯での強行情報収集など、ありとあらゆる裏仕事に便利屋のごとく引っ張り回されていた

 

先ほど終えてきたばかりの任務も、本来なら重武装の上級生部隊が編成されて当たるべき、極めて危険度の高い作戦だったのだ

 

(……はぁ。やっぱり、また面倒な仕事を押し付けられるのね……)

 

直立不動の姿勢を崩さないまま、ヒナの頭の中をそんな暗い思考がよぎる

 

帽子の隙間から見える先輩のデスクには、すでに「極秘」と真っ赤なスタンプの押された、真新しいファイルがいくつか用意されているのが見えた

 

正直なところ、ヒナは心の中で深くため息をついていた。いくら実力があるからといって、まだ入学して数ヶ月の1年生にここまで過酷な実戦や裏仕事をこなさせるこの学園の体制は、どう考えても組織として破綻しているのではないか、と

 

ゲヘナの連中が狂っているのは今に始まったことではないけれど、あまりにも自分という個人の武力に対する依存度が高すぎる

 

しかし、『現在』の空崎ヒナには、そんな理不尽な不満を堂々と口にできるほどの権力も、確固たる立場も、あるいはそれを傲慢に跳ね退けるだけの我が儘さも持ち合わせていなかった。学園を揺るがすような絶大な武力をその小さな身体に秘めていながらも、今の彼女はただの「有能な最下級生」に過ぎない。だから、内心の大きなため息を精一杯の無表情で覆い隠しながら、ただ静かに次の命令が下るのを待つしかなかった

 

「……それで、先輩。今回の呼び出しは、その……次の任務のブリーフィング、でしょうか。もしそうなら、すぐにでも取り掛かりますが」

 

「あはは、そんなに身構えないでよ、空崎さん。君が有能すぎて、上の人たちがみんな君を使いたがってるのは事実だけどさ……。まぁ、まずはそこに座って。冷たい炭酸飲料でも飲む?」

 

先輩はそう言って、引き出しから無造作に冷えたアルミ缶を取り出した

 

カシュッ、と小気味よい音が室内に響き、微かな炭酸の泡がパチパチと弾ける。デスクの上を滑るようにして差し出されたその缶を、ヒナは困惑し、眉をひそめながらも両手で受け取った

 

「えっと……ありがとうございます」

 

いつも任務のブリーフィングをする時は、もっと冷徹で事務的な空気の中、「これをやってこい」と血生臭い紙切れを投げ渡されるだけだった。それなのに、今日の先輩は妙に距離が近く、声色もどこか甘い

 

この「異常な優しさ」の裏には、絶対に何かとてつもない厄介事が隠されているに違いない――ヒナの警戒心は、かえって野生動物のように鋭く研ぎ澄まされていく

 

「ほら、突っ立ってないで座って座って。ここは私のプライベートな領地みたいなものだから、そんな軍人みたいな堅苦しい姿勢じゃなくていいわよ」

 

「……はぁ」

 

ヒナは促されるままに、デスクの前に置かれた古い回転椅子に腰を下ろした。座面がギシりと軋んだ音を立てる。ヒナは一度だけ、斜め向かいの先輩の顔をチラリと盗み見た。帽子を目深に被っているせいでその表情は読み取れないが、唇の端が僅かに歪んで持ち上がっているのが分かる

 

何かをすべて見透かしているような、底の知れない食えない笑みだ

 

(……勧められたものを飲まないのは、流石に失礼になるわよね)

 

不気味な沈黙が続くのは得策ではない。ヒナは迷いながらもプルタブに指をかけ、静かに引き上げた。微かな金属音が部屋に響く

 

(…美味しいけど…ぬるいわね…)

 

一口含むと、常温に近い少し生ぬるい炭酸水だったが、喉を通り過ぎる清涼感は、連日の任務で火照っていたヒナの心身には十分すぎるほど美味しく感じられた

 

先輩はヒナが小さく喉を鳴らしたのを確認してから、ようやく手元の分厚いファイルをデスクの中央へと厳かに滑り込ませた。さっきまでの雑談めいた生緩い空気は一瞬で霧散し、鋭利な刃物のような緊張感が部屋の隅々までを満たしていく

 

「今日、あなたに任せたい特別な任務があるの。……このファイルの中身を確認して」

 

ヒナは無言でファイルを開く。そこには、ある一人の少女の写真と、おびただしい数の監視記録、そして詳細な戦闘行動の解析データが収められていた

 

「空崎さん、あなたは『暁のホルス』って二つ名、聞いたことはある?」

 

その名前が出た瞬間、ヒナの漆黒の瞳がわずかに細められた。入学したばかりの1年生である自分でも、その不穏な名は耳にしたことがある

 

各地の武装勢力や無法者から死神のように危険視され、常にマークされ続けているアビドス高等学校の生徒。ゲヘナの風紀委員会内部でも、要注意人物リストの最上位にその名を連ねる伝説的な存在だ

 

「……噂は聞いています。アビドスの冷酷な戦闘狂、ともっぱらの評判ですが」

 

「それなら話は早いわ。元々、自分の地域を守るために、ヘルメット団やゴロツキたちの拠点を単騎で容赦なく蹴散らしていたのは有名なんだけど……。でもね、それがここ数ヶ月で、彼女の活動数が激増しているのよ。それも、戦術的に見て異常なほどにね」

 

先輩が白手袋をはめた指先で、書類のグラフをトントンと叩く。そこには、右肩上がりに急増する不気味な赤い線が描かれていた

 

「具体的に数字でいこうか。『暁のホルス』――小鳥遊ホシノ。彼女が本格的に動き出す前、そして入学して数週間までは、彼女が個人的に潰す拠点は一日平均4から6ほどだったわ。それが今や、一日のうちに16から24にまで跳ね上がっているのよ」

 

「……16から24? それは、倒した敵の人数……でしょうか?」

 

「いいえ。一日で完全に壊滅させたヘルメット団や、地元の悪党たちの『アジトの数』よ」

 

その数字が意味するところを正しく理解した瞬間、ヒナは言葉を失い、思わず絶句した。それだけ潰されても次々に這い上がってくるアビドスの治安の悪さにも驚きだが、一日のうちに20近くのアジトを単独で壊滅させるなど、生身の生徒が物理的にこなせるスケジュールではない

 

銃火器の残弾・補給管理、最速の移動ルート策定、索敵、そして敵の殲滅。それらをすべてたった一人で、それも日常のルーティンとして行っているというのか

 

(……アビドスという場所は、ゲヘナと同じくらい……いや、ある意味ではそれ以上に狂った治安環境だというの?)

 

ヒナの頭の中で、ただの「砂漠に埋もれた貧しい廃校寸前の学校」だと思っていたアビドスへのイメージが、急速に書き換えられていく。そこにはゲヘナの戦場と何ら変わらない、あるいはそれ以上の、過酷で血生臭い現実が渦巻いているのかもしれない

 

「それで……その小鳥遊ホシノを、私はどうしたらいいのでしょうか」

 

ヒナはファイルから顔を上げ、じっと先輩を見据えた。冷淡な問いかけだが、その奥には「組織の真の目的は何だ」という確かな探究心が隠れている

 

先輩は空になった缶を軽く指先で揺らし、楽しげに肩をすくめた

 

「簡単な話よ。……ゲヘナの上層部にとって、この小鳥遊ホシノという制御不能な怪物が、将来的に我々にとって大きな脅威にならないかどうか。それを現地に潜入して、あなたのその優れた目で直接監視してほしいの」

 

それは単なる情報収集の域を超えていた。もし少しでも「ゲヘナの脅威になる」と判断されれば、1年生の自分を刺客として、彼女を秘密裏に排除せよと命じるつもりなのだろう

 

ヒナはしばし沈黙を守りながら、パタンと静かにファイルを閉じた。その薄い紙の束の重みは、まるでこれから自分が背負うことになる任務の重圧そのもののようだった

 

「分かりました。お引き受けします」

 

ヒナは一言そう告げると、手元に残っていた生ぬるいジュースを一気に飲み干した。小さく息を吐き出し、空になったアルミ缶を少しだけ強く握りしめて立ち上がる

 

「ああ、それと……」

 

ヒナが重い鉄扉に手をかけ、まさに部屋を出ようとしたその瞬間。背後から、先輩が今思い出したかのように、ひどく平板で、温度のない声で呟いた

 

「分かってはいるとは思うけど、相手はあの『暁のホルス』よ。何をしでかすか分からない、本物の危険人物。こちら側の意図を少しでも察知されるわけにはいかないから、潜入中、決して直接的な接触は避けなさい。……もし見つかったら、ただじゃ済まないと思っておきなさいね」

 

扉のノブを握るヒナの小さな手が、わずかに強張る

 

「……ご忠告、ありがとうございます。肝に銘じておきます」

 

感情のまったく読めない声でそう応じ、ヒナは流れるような動作で扉を閉めた。廊下に出ると、ゲヘナ特有の火薬の焦げ臭い風がヒナの前髪を通り抜けていく

 

(さてと。さっさとアビドスに行って、適当に任務を終わらせて、今度こそ帰って部屋で休まないとね……)

 

今回の任務はあくまで隠密による動向監視だ。接敵さえしなければ、あの凶悪な怪物と戦う羽目になる確率は低いはず。ヒナは心の中で「どうか面倒な戦闘になりませんように」とだけ祈り、最低限の潜入装備を整えるために足早に自室へと戻る

 

今回も手早く仕事を終わらせて帰る――はずだった

 

そして時は流れ、現在

 

「……ユメ先輩? 何か私に言うこと、ありますよね?」

 

「ひぃん……! 許して……ホシノちゃん……っ! 私が悪かったからぁ!」

 

「えっと……部外者の私が言うことではないと思うけれど、そのくらいにしておいた方がいいわよ……?」

 

アビドス高校の古びた生徒会室。目の前で繰り広げられている、上級生が下級生にガチ泣きで説教されているというあまりにも異様な光景に、潜入してきたはずのヒナは、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった

 

なぜか今、ヒナの目の前では、アビドス生徒会長である梔子ユメが床に小さくなって正座させられており、その目の前には、こめかみに特大の青筋を立てて般若のような表情をしたターゲット――『暁のホルス』こと、小鳥遊ホシノが立ちはだかっていた

 

(……本当におかしいわね。なんで私、接敵厳禁と言われていた最重要監視対象と、こうして普通に木製テーブルを挟んでお茶を飲みながら喋っているのかしら……)

 

ヒナは湯呑みを握ったまま、心の中で盛大に頭を抱えた。ゲヘナの情報部で叩き込まれた諜報員としてのプライドと鉄の規律が、現在のあり得ない状況を完全に拒絶している

 

しかし、そんなヒナの困惑を余所に、ホシノの怒声はさらにボリュームを増していく

 

「あなたはとりあえず黙っててください! 一応、ユメ先輩が勝手に招き入れた『お客様』って形になってますけど、まだゲヘナが送り込んできたスパイの可能性は消えてないんですからね! ……それに、今の問題はそっちじゃなくて、このユメ先輩です! 先輩がまた勝手に危機感ゼロの行動をしたのが全部悪いんです!」

 

「ひぃぃん! そんなに大きな声で怒らなくてもいいじゃん、ホシノちゃん〜! 私はただ、困っている子がいたから親切にしてあげただけだよぅ……」

 

『ワン! ワンワン!』

 

激昂するホシノの足元で、なぜか真っ白な中型犬が、楽しそうに尻尾をブンブンと千切れんばかりに振りながら二人の顔を見つめていた。緊迫感の欠片もないその無邪気な鳴き声が、夕暮れの生徒会室に虚しく響き渡る

 

(……そう。この子。この白い犬さえいなければ、こんな事態にはならなかったんだけど……)

 

ヒナの脳裏に、数時間前に起きた「隠密計画の完全なる崩壊」の瞬間が、鮮明な映像となって蘇る

 

それは、アビドス高等学校の敷地内に密かに侵入し、距離を保った状態で隠密での動向調査を開始しようとした時のことだった。ヒナはゲヘナの超過酷な基礎訓練で培った最新の隠密術を駆使し、砂に埋もれた遮蔽物の影から影へと身を潜めながら、慎重に校舎へと近づいていた

 

その時、たまたまその近くの砂地で、この白い犬――白子を散歩させていたユメが通りかかったのだ

 

(あれは確か……アビドスの生徒会長、梔子ユメね。……ここはじっと息を潜めて、彼女が通り過ぎるのを待つのが最善か)

 

ヒナは気配を完全に消し、息を止めて壁の窪みに同化した。ユメ本人はおっとりとした性格のせいか、ヒナの完璧な潜入に全くもって気がついていなかった。しかし、人間の五感を完璧に騙しきる流れるような隠密術も、獣の驚異的な嗅覚までは騙しきれなかった

 

『ワンっ!』

 

突如として、白い犬がヒナの潜んでいる障害物に向かって一直線に走り、猛烈に吠え始めたのだ

 

「あれ? どうしたの白子ちゃん、急に走り出して……。……あ、あれれっ!? 誰かいる……!?」

 

「あっ……」

 

犬に手袋のリードを引っ張られるようにして物陰を覗き込んできたユメと、ヒナは至近距離でバッチリと目を合わせてしまった。言い訳のしようもない、不審者としての完全なる現行犯だった

 

「あれれ? 他の学校の制服……ゲヘナの子かな? こんな砂漠の真ん中にある学校に、何か用なの?」

 

あまりにも無防備に、敵対心ゼロで首を傾げて尋ねてくるユメ。ヒナは心臓が口から飛び出そうになるのを必死に抑え、背中に大量の冷や汗を流しながら、人生で一番下手くそな、子供騙しにもならない言い訳を口にした

 

「えっと……その、近くの砂漠を通りかかったら、少し道を迷ってしまって……気づいたら、敷地内に入り込んでしまったの。決して怪しい者ではないわ……」

 

言い終えた瞬間、自分でも「こんな雑な嘘、怪しまれるに決まっている」と絶望した。ゲヘナの常識なら……いや、キヴォトスの一般的な学園であっても、対立派閥の奇襲やスパイを疑われ、即座に武器を突きつけられて拘束されるか、あるいはその場でハチの巣にされるレベルの不審挙動だ

 

しかし、アビドスの生徒会長は、ヒナの想像の遥か斜め上を行く存在だった

 

「そっかぁ! 道に迷っちゃったんだねぇ。こんな暑い砂漠の中を歩くなんて、とっても大変だったでしょ! 気がつかなくてごめんね?」

 

ユメは微塵も疑うことなくそう言うと、なおも警戒して低く唸る犬のリードをグイと引っ張り、「コラ、白子ちゃん。お客様に失礼でしょ。お腹が空いてピリピリしてるのかな?」と嗜めた。そして、完全に呆気にとられているヒナの小さな手を両手で優しく包み込むように握ると、そのままトコトコと生徒会室へと案内してしまったのだ

 

そればかりか、「まずは冷たいものでも飲んで落ち着いてね」と、丁寧に淹れた麦茶と、どこか素朴な市販のお菓子まで出して大歓迎してくれる始末だった

 

(それにしても……アビドスの警備体制は本当にこれで大丈夫なのかしら。いくら僻地の廃校寸前の学校だからって、潜入してきた他校の人間を、素性も役職も確かめずにここまで簡単に招き入れるなんて、危機管理能力が機能していないわ……)

 

ヒナは困惑と、ほんの少しの呆れが混ざった複雑な思考を巡らせていた。ゲヘナであれば、部外者の不審な侵入など即座に重大な治安問題であり、臨戦態勢に入るのが常識だ。こんな無防備な優しさを向けられたのは、生まれて初めての経験だった

 

そんなヒナの内心の戸惑いを置き去りにするように、古ぼけた生徒会室の木製の扉がガタガタと大きな音を立てて開いた

 

「ただいま戻りました、ユメ先輩。頼まれていた白子のドッグフード……」

 

入ってきたのは、両手でずっしりと重そうなドッグフードの大袋を抱えた少女――小鳥遊ホシノだった。まだ幼さの残る小柄な顔立ち。けれど、ヒナの鋭い視線が彼女の姿を捉えた瞬間、全身の肌がピリピリと粟立つような、強烈なプレッシャーを感じた

 

ホシノは、見慣れないゲヘナの軍服を着たヒナの姿を認識した刹那、その場に動きをピタリと止めた。その瞳の奥に、一瞬にして冷徹な「狩人の光」が宿る

 

「……誰ですか、あなた」

 

低く、地を幾重にも這うような声。ドッグフードの袋を床へ静かに下ろすその一連の動作には、いつでも腰のショットガンに手を伸ばし、敵を確実に仕留められるだけの、一切の隙がない戦闘狂としての身のこなしがあった

 

(……そう。これよ。この張り詰めた反応こそが、ゲヘナの、いえ、このキヴォトスの『普通の対応』よね)

 

ヒナの背中に冷たい汗がどっと流れ落ちる。身体の奥底から湧き上がる本能的な恐怖を、ヒナは持ち前の鉄の意志で力ずくで押さえ込んだ

 

脳細胞をフル回転させ、ゲヘナの情報部員として、この一触即発の場を切り抜けるための最適な嘘の言葉を紡ぎ出そうとした、まさにその時だった

 

「こら、ホシノちゃん! そんなに怖い目をして、入ってきたばかりのお客様を睨みつけちゃダメだよ!」

 

一気に張り詰めた部屋の空気を完全にぶち壊すように、ユメがホシノの前に立ちはだかり、ぷんぷんと両手を振って怒って見せたのだ

 

「……お客様? ユメ先輩、その制服はどう見てもゲヘナの……」

 

「この子はね、ただ砂漠で道に迷っちゃっていただけなの! ゲヘナ学園からわざわざこんな遠くまで来ちゃって、そこで困っていたんだよ? だから怪しい人じゃないの!」

 

「……迷子、ですか?」

 

ホシノの声のトーンが、一瞬にして怒りから純粋な困惑、そして極限の呆れへとシフトしていくのが分かった

 

「うん! さっきそこで白子ちゃんのお散歩をしてたら出会ってね。行き先も分からなくて可哀想だったから、お茶でも飲んで休んでもらおうと思って、私がここまで連れてきたの♪」

 

誇らしげに薄い胸を張って、えっへん、と微笑むユメ

 

ホシノは長い沈黙の後、ゆっくりと片手で頭を押さえ、深いため息をついた。その視線が、部屋の隅で硬直しているヒナへと向けられる。その瞳には、すでに戦意ではなく、底知れない頭痛に耐えるような光が浮かんでいた

 

「………すみません、そこのゲヘナの人。少しの間だけ、そこで待ってて貰えますか?」

 

「え、ええ……。構わないけれど……」

 

「? ホシノちゃん、どうしたの?」

 

ユメが小首を傾げた瞬間、ホシノの顔から一切の感情が消え失せた

 

「ユメ先輩。……そこに、正座してください」

 

「え……ほ、ホシノちゃん……? どうしたの、そんなに怖い顔をして……ど、ドッグフード、安く買えなかったのかな……?」

 

ユメは頬をひきつらせ、ぎこちない笑顔をホシノに向けながら、じりじりと後ずさりをする。今出会ったばかりのヒナにすら、ユメが「なぜホシノがここまで怒っているのか」を本当の意味で理解していないことが一目で分かった

 

ユメはただ、いつものように自分のふにゃりとした笑顔で、この場をなあなあに収めようとしているだけなのだ

 

しかし、ヒナよりも遥かに長い時間を彼女と共に過ごしてきたホシノが、その甘えを見逃すはずがなかった

 

「安売りなんて関係ありません! どこの馬の骨とも分からない、しかもゲヘナの不審者を、警戒もせずホイホイ生徒会室に招き入れるなんて……一体全体、何考えてるんですかーーーっっっ!!!!」

 

「ひぃーーーっ!? ごめんなさい! 後でちゃんと反省するから、その顔は怖ーーーい!!」

 

「後でじゃなくて今してください!!」

 

(ゲヘナの先輩は『見つかったらただじゃ済まない』って言ってたけど……別の意味で、ただじゃ済まないことになってるじゃない……)

 

目の前でシクシクと涙目を浮かべ、小さく縮こまって健気に正座をし直している生徒会長、梔子ユメ。そして、そのすぐ目の前で、相変わらず怒りが全く収まらない様子でガッチリと腕を組み、冷徹な仁王立ちのまま容赦のない説教をマシンガンのごとく浴びせ続けている1年生、小鳥遊ホシノ

 

「ううぅ、ホシノちゃんが鬼だよぅ……。アビドスの砂漠よりも心が冷たいよぅ……」

 

「先輩、泣けば済むと思ったら大間違いですからね。だいたい先輩はいつもそうやって――」

 

ヒナは手元に残った、すっかり冷めかけたお茶を、そっと音を立てないようにズズ……と静かにすすりながら、本日何度目になるかもう数えるのも諦めた特大のため息を、心の中で静かにつくのだった

 

(……私、一体ここで何をしているのかしら)

 

ゲヘナ学園の威信をかけた極秘の隠密諜報員として、完璧な戦術シミュレーションの元に送り出されたはずだった。それなのに、まさか標的である他校の生徒会室の片隅で、身内の上級生が下級生にガチで説教されている情けない様子を、特等席でお茶を飲みながら眺める羽目になるとは

 

出発前、ゲヘナで緊張しながらブリーフィングを受けていたあの瞬間の自分に、これから起こる顛末をどれほど懇切丁寧に説明されたとしても、絶対に信じなかっただろう

 

「……反省の色が1ミリも見えませんね。ユメ先輩は、今日から丸3日間、おやつ抜きです。購買の限定クレープも、戸棚に隠してあるチョコチップクッキーも、一切禁止ですからね」

 

「そ、そんなあぁーーーっ! 3日は長すぎるよぅ、ホシノちゃん!私の命綱なんだよ!? せめて、せめて今日の分のチョコクランチだけでも見逃してぇー!」

 

「駄目です。不審者に対する警戒心という概念がその頭に身につくまで、一切の糖分は没収です。それと、私が良いと言うまでそこから1歩も動かず正座ですからね。わかりましたか」

 

「ひぃん……鬼だ、アビドスのホルスが鬼の形相で行く手を阻んでるよぅ……」

 

一通り怒涛の説教が終わったのだろう。床の上で文字通りシクシクと涙を流し、悲劇のヒロインのように大袈裟に落ち込んでいるユメを完全に他所に置いて、ホシノは「はぁ……」と大きく首を振った。それから、どさりと重い音を立てて、ヒナの真向かいにある古い椅子に腰を下ろす

 

その瞬間、ホシノの纏う空気に再びピリッとした鋭い緊張感が戻った。オッドアイの瞳が、射抜くような鋭さでヒナを真っ正面から見据える

 

「……さて。身内の恥を晒すような前置きはここまでです。それで? ゲヘナの人間が、うちの無防備すぎる先輩を騙してまで、このアビドスに一体何をしに来たんですか」

 

冷徹で、いつでも引き金を引ける者だけが持つ声音。しかし、ヒナは怯むどころか、どこか冷めた眼差しでホシノを見つめ返す。そして、手元の湯呑みをトンと机に置き、小さく肩をすくめる

 

「……一言だけ、言わせてもちょうだい」

 

「なんですか? 言い訳なら、内容次第ではそのゲヘナの制服ごと、今すぐ窓の外の砂漠へ叩き出しますけど」

 

「今更そんな風にシリアスに私を睨みつけて凄んでみせても、さっきの身内のコントのせいで、緊迫感が完全に台無しよ?」

 

「うっ……!」

 

ホシノは綺麗に言葉を詰まらせ、顔を僅かに引きつらせた。先ほどまでの「アビドスを守る冷酷な守護者」のメッキが見事に剥がれ、ただの苦労人としての素顔が覗く

 

「……っ、あ、あれは今すぐ記憶から抹消してください……! ユメ先輩のあの度を越した能天気さと危機感のなさには、私も毎日、本当に胃を痛めながら頭を抱えているんですから……。少しは私の苦労というか、胃の痛さも考えてほしいものです」

 

薄桃色の前髪をくしゃくしゃとかき回しながら、心底疲れたように深いため息をつくホシノ。その姿をじっと見ていたヒナの胸の奥に、なぜだか奇妙な、そして今までのゲヘナでの生活では決して感じたことのないような、強い親近感がじわじわと湧き上がってきた

 

「……あなたも、その『先輩』という存在には、相当な苦労をさせられているのね」

 

ヒナのポツリと漏らした同情の呟きに、ホシノは弾かれたようにガタッと顔を上げた。その瞳が、同志を見つけたかのように輝く

 

「そうなんです……!! 分かりますか!? この、どれだけキツく言っても響かない暖簾に腕押しな感じ! 外部からヘルメット団が奇襲を仕掛けてくるより、身内が笑顔で勝手に防衛線のゲートを開け放つ方がよっぽど恐ろしいっていう、この防衛担当としての絶望的な気持ち!」

 

「ええ、痛いほどよく分かるわ。私の方は、あなたとは少し環境や事情が違うけれど……。ゲヘナに入学してからというもの、実力を認められたせいで、上が私に休む暇も与えてくれないくらい、次から次へと面倒な任務や泥臭い裏仕事ばかり押し付けてくるの。……それだけならまだしも、同級生には、私の手柄や成績が気に入らないからって、陰湿な嫌がらせや突飛なトラブルを仕掛けてくる人までいるしね」

 

ヒナの頭の裏には、あの悪魔的な「キキキ!」という高笑いを響かせながら、いつもトラブルを引き起こしては自分の処理すべき報告書を物理的に倍増させる、あの銀髪の同級生の顔が不愉快極まりなく浮かんでいた

 

「同級生ですか……。ゲヘナの生徒ともなると、一体どんな陰湿な嫌がらせを?」

 

ホシノがパイプ椅子ごと身を乗り出して尋ねる。お互いに「組織の理不尽なトラブルに振り回される唯一の常識人・苦労人」としてのシンパシーを完全に感じ取ったのか、いつの間にか尋問の空気は完全に消え去り、場には深夜の居酒屋の愚痴大会のような、奇妙に落ち着いた連帯感が漂い始めていた

 

「そうね、私の成果が気に入らないのか、周囲に私の悪質なデマやあることないことを吹き込んだり、自分がサボりたいからって、山のような予算申請書や活動報告書の束を私の机に無断で押し付けたり……。挙句の果てには、私が休もうとすると、勝手に自分で爆破予告を出して私を強制的に呼び出したりするわ」

 

「うわぁ……なんですかその人、絵に描いたような最低人間ですね……。ゲヘナってやっぱりマフィアの巣窟というか、脳のネジが数本まとめてぶっ飛んでる奴しかいないんですか?」

 

「明確な否定ができないのが、我が校の悲しいところね。……でも、あなたの方だって、その正座している先輩から色々と風変わりな実害を受けているんじゃないの?」

 

ヒナが冷ややかな視線で、未だに床で丸くなっているユメを指し示すと、ホシノは待ってましたと言わんばかりに、これまでの鬱憤を一気に吐き出し始めた

 

「聞いてくださいよ! 私の方は、私が生徒会に入ったお祝いにと先輩が買ってきたホールケーキに、何故か本物の爆竹をローソク代わりにぶっ刺して火をつけようとしたんですよ!? お陰で火がついた瞬間大爆発して、私達の顔も壁も天井も、全部生クリームだらけ! 他にも、拾ってきたこの子に、信じられないくらい不名誉で変な名前を強制的に付けようとしたりされましたね」

 

『わふぅ……♪』

 

ホシノの足元にぴったりと寄り添っていた白い犬が、自分の話題が出たのを察したのか、嬉しそうに尻尾を振った。ホシノがその真っ白な頭を愛おしそうに優しく撫でてあげると、気持ちよさそうに目を細め、自分からホシノの手に頭を擦り付ける

 

その自然な動作一つから、二人の間にどれほど深い信頼と絆があるかが、言葉にせずとも手に取るように伝わってきた

 

「ひ、ひぃん……! それはもう、あの時泣きながらちゃんと謝ったじゃんー……! 私はただ、「ミニホシノちゃん」って名前が可愛いと思っただけで、悪気はなかったんだよぅ……」

 

床に正座したまま、ユメが消え入るような声で小さな反論を試みる。しかし、ホシノの冷徹な追撃が容赦なく鼓膜を貫いた

 

「悪気がないのが一番怖いんです! 謝った次の日の朝、この子に向かって『あなたの名前はミニホシノちゃんだよ〜、さあ覚えてね〜』って、怪しい洗脳教育を施そうとしてたのはどこの誰ですか? 却下されて当然です」

 

「うぐっ……!」

 

ユメは一瞬で言葉を詰まらせ、完全にぐうの音も出なくなって再び小さく丸まった

 

「……ところで」

 

ヒナは、先ほどからずっと喉の奥に引っかかっていた、この部屋で一番奇妙で愛くるしい存在について、ようやく本質的な問いを口にした

 

「その子は、一体なんなの? その……アビドスには多額の借金があって困窮しているって聞いたのだけど……。この学校で飼っている、ただの番犬かしら?」

 

その問いに対して、ホシノはそれまでの不機嫌そうな顔をガラリと変え、どこか誇らしげに、ふふん、と小さく胸を張ってみせた。

 

「ああ、この子の名前は『白子(シロコ)』と言うんです。数ヶ月前、砂漠で行き倒れて倒れていたこの子を、ユメ先輩がたまたま拾ってきて……。今ではただのペットや飼い犬じゃなく、私たちアビドス生徒会の大切な『3人目のメンバー』なんですよ」

 

「3人目のメンバー……ね」

 

「?」

 

ヒナはホシノに聞こえないほど小さな声で、ぽつりと呟いた

 

もう一度麦茶を口に含みながら、ゲヘナの情報部から渡された分厚い極秘ファイルを脳内で再現する

 

そこに書かれていたのは、短期間で数多くの武装組織を容赦なく壊滅に追い込み、各地のゴロツキから死神のように恐怖され、ゲヘナの風紀委員会ですら最上級の警戒を強めている冷酷な怪物――『暁のホルス』の恐るべき戦闘記録だったはずだ

 

『わふ!』

 

「わっ……ちょっと、白子! 駄目だってば、お客さんの前で顔は舐めないで……っ、冷たい! あはは、もう、くすぐったいなぁ!」

 

しかしいざ目の前にいるのは、天然すぎる先輩の突飛な言動に本気で頭を抱え、フワフワの白い犬に顔中を舐め回されながら、怒り混じりに、けれど本当に幸せそうに声を上げて笑う、自分と大して変わらない年相応の女の子だった

 

(本当に、こんな普通の女の子が、他の勢力からあれほど狂犬のように危険視されるような人物なのかしら……)

 

ユメとホシノの漫才のようなやり取りのせいで、部屋を満たしていたはずの張り詰めた緊張感は、今や完全に霧散してしまっている。後半の愚痴の言い合いにいたっては、ただの苦労人同士の深いシンパシーしか残っていなかった

 

(………でも、最初のあの目は……)

 

だが、ヒナは明確に思い出す。この部屋にホシノがドッグフードを抱えて入ってきた瞬間、初めて目が合ったあの刹那の恐怖を。あの時の小鳥遊ホシノのオッドアイの瞳には、一切の容赦も油断もない、獲物を確実に仕留める「狩る者」としての絶対的な冷徹さと武力の光が、確かに宿っていたのだ

 

あの一瞬の輝きこそが本物であると、ヒナの戦術本能が告げている

 

ヒナはお茶を飲み干した湯呑みをトントンと机に置き、背筋を少し伸ばして、笑顔を収めたホシノを真っ直ぐに見据えた

 

「ねぇ……あなたの噂はゲヘナまで届いているの。本当にあなたは、一人でそれだけ多くの武装組織の基地を……」

 

壊滅させたの?

 

そう聞き終えるよりも早く、アビドス生徒会室の空気が爆発した

 

『ワンっ!!』

 

「きゃっ!? ――な、何っ!?」

 

突然、それまでホシノの傍らで大人しく撫でられていた白子が、床の古びたリノリウムを力強く蹴り、弾かれたようにヒナに向かって一直線に突進してきたのだ

 

あまりに俊敏、かつ一切の前触れのない挙動

 

ゲヘナで修羅場を潜り抜けてきたヒナの優れた反射神経をもってしても、不意を突かれすぎて完全な回避が間に合わない

 

ドスッ! と小柄な胸元にまともに飛び込まれ、華奢な体躯では中型犬の凄まじい推進力を受け止めることもできず、ガタタン! と派手な金属音を立ててパイプ椅子ごと後ろへひっくり返ってしまった

 

「痛っ……! な、なんなのよ、急に……っ、ちょっと、待って! あははっ! やめて、くすぐったい……っ、離して!」

 

床に無様に倒れ込んだヒナの胸の上にドカッと四肢で乗り、白子はまるで長年離れ離れになっていた大親友に再会したかのように、親愛の情を限界まで爆発させていた

 

小さく「クゥーン、クゥーン」と鼻を鳴らしながら、ヒナの尖った顎や白い頬、果ては耳の裏まで一生懸命にペロペロと猛烈な勢いで舐め回し始める

 

高級感のあるゲヘナの黒い軍服には、白子の毛と大量のよだれが容赦なく擦り付けられていく。あまりの猛勢と想定外の事態にまともな抵抗もできず、ヒナは顔を真っ赤に染めながら、必死に身をよじって笑うしかなかった

 

パイプ椅子の影から、そんな完全に形勢を逆転されたヒナの姿を覗き込むようにして、ホシノはしばらく呆然と目を見開いていたが、やがてすべてを察したように、ふっと得心のいったような緩い笑みを浮かべた

 

「あー……。なるほどね。あなた、実はもの凄く優しい人なんですか?」

 

「な、何よそれ……っ! どういう文脈よ、早くこの、この子を退けて……っ! 顔、顔がベタベタになる……っ!」

 

ヒナは涙目で顔を必死に背けながら、両手で白子のフワフワな胴体を押し戻そうとするが、白子は「わふー♪」と嬉しそうにさらに体重をかけてくる

 

「どういう意味も何も、文字通りの意味ですよ」

 

ホシノはそう言うと、よっこらしょと床にしゃがみ込み、白子の引き締まった背中をポンポンと優しく叩いた

 

「この白子はね、相手の感情とか本質にすごく敏感なんですよ。あなたがどれだけゲヘナの威圧的な軍服を着て、怪しい嘘をついて偵察に潜入してきても……。私たちに対して、本当の意味での『敵対心』や『悪意』をこれっぽっちも持っていない。だからこうやって、白子が100%安心して全力で甘えてるんです」

 

「……え?」

 

ヒナの抵抗していた手の動きが、その一言でピタリと止まる

 

胸の上の白子は、ヒナが急に大人しくなったのを見届けると、満足そうに『わふっ』と短く鼻を鳴らし、今度は彼女の首元にフニフニとした温かい顔をすっぽりと埋めて、丸くなってしまった

 

「野生の直感ってやつですかね。この子がここまで初対面の人間相手に警戒を解いて懐くなんて、めったにないことなんだけどな」

 

「うん、そうだねぇ! 白子ちゃん、ゲヘナの可愛いお客様のことが一目で大好きになっちゃったんだね! よかったねぇ、新しいお友達ができて!」

 

未だに正座の足を1ミリも崩さないまま、ユメが我が事のように嬉しそうにパチパチと両手を叩いて微笑む。その様子は、アビドスが直面しているという悲惨な現実を忘れさせるほどに、ただただ温かかった

 

砂漠化によるアビドスの壊滅的な治安環境、それを一人で支えているという『暁のホルス』の圧倒的で冷酷な戦闘力。そして、そんなゲヘナ情報部のガチガチの警戒網を、根底から無効化してしまうほどに穏やかで緩い、この学校の奇妙な空気

 

(……敵対心、か。そんなもの、最初からあるわけないじゃない)

 

ただ、上層部の身勝手な命令に逆らえず、お茶を濁すためにここに来ただけ。本当は、ゲヘナのあの騒がしくて毎日どこかが爆発している火薬臭い日常から逃れて、静かな場所で本でも読みながら、泥のように眠って休みたかっただけなのだ

 

ヒナは、自分の首元で「スースー」と規則正しい寝息を立て始めた白子の心地よい温もりを全身で受け止めながら、完全に降参したように、ふぅ……と長いため息を吐き出した

 

シミだらけの古びた生徒会室の天井を見上げて、自嘲気味に、けれど完全に毒気の抜けた顔で小さく微笑む

 

「はぁ……なんだか、色々と馬鹿らしくなってきたわ」

 

白子をその重たい身体ごと退かすことを完全に諦め、ヒナは埃っぽい床の上で大の字に寝転がった

 

これまでの人生、これほど無防備に、他校の床へ寝転がった「空崎ヒナ」がいただろうか。完璧に組み立てられていたはずの潜入シミュレーションも、情報部直伝の高度な隠密交渉術も、このアビドスという予測不能な空間のせいで粉々に打ち砕かれていた。ここまで調子を狂わされてしまっては、もう真面目に任務を継続する気力など湧くはずもない

 

「おや、何がそんなに馬鹿らしくなってきたんですか?」

 

ホシノは床に寝そべるヒナの顔を上から覗き込みながら、不思議そうに首を傾げた。瞳からは、先ほどの刺すような鋭さは完全に消え失せている

 

「なんでもないわよ。ゲヘナの日常が、どれだけ異常で狂っていたかを今更実感しただけ。……それより、この子が私を歓迎してくれている理由は分かったから、流石にそろそろ退かしてくれると助かるわ。私、別に犬嫌いってわけじゃないけれど、これじゃあ身動きが取れなくて困るの」

 

「うへ、そうですね。あなたのその仕立ての良さそうな立派な軍服、もう白子のヨダレと抜け毛でえらいことになってますからね……。ほら、おいで、白子。『お客さん』が潰れちゃうよ」

 

(…お客さん)

 

ホシノがパン、と自分の膝を叩いて名前を呼ぶと、それまでヒナの胸元に文字通り埋まっていた白い塊が、名残惜しそうにピクリと耳を震わせた

 

『わんっ♪』

 

白子は短く一鳴きすると、滑るようにヒナの身体から降りていき、トコトコとホシノの足元へと歩み寄る

 

ようやく重量から解放されたヒナは、軍服の胸元についた盛大な白い毛と湿り気を見つめながら、「やれやれ」と頭を振って上半身を起こした

 

そんな二人を、床のさらに低い視点から見上げていた人物が、ブルブルと震える手とおぼつかない声で挙手した

 

「あの、ね、ねぇー? ホシノちゃん……そろそろ、その、正座を解いてもいいかなー……? さっきから、こう、足の感覚が完全になくなっちゃって、ビリビリして限界なんだよぅー……。助けてぇ……」

 

ユメが涙目で、哀願するように下級生の顔色を窺う。しかし、ホシノは白子の頭を優しく撫で回しながら、声のトーンだけを極低温に落としてピシャリと言い放った

 

「ダメです。まだ反省の色が全く見えません。先輩のそのガバガバな危機管理能力を叩き直すまで、あと1時間はそのままです」

 

「ひぃぃん! 1時間は絶対無理だよぅ、感覚が消えてそのまま消滅しちゃうよぅ!」

 

ユメの情けない悲鳴が生徒会室に虚しく響き渡る中、ホシノは慣れた手つきで白子の顎の下を擽っている

 

ヒナは床に座り直したまま、そんなアビドス生徒会の、ある種の日常の縮図のような光景を、じっと静かに観察していた

 

(……この調子なら、ゲヘナの上層部や情報部の先輩たちが危惧しているような事態は、まず起こり得そうにないわね)

 

確かに小鳥遊ホシノ個人の戦闘能力、そしてその危険度についてのゲヘナ側の情報に間違いはない。彼女は間違いなく本物の怪物だ。だが、その怪物は今、目の前で嬉しそうに自分を慕う白子を愛おしそうに撫で回し、能天気な先輩に対してブツブツと小言を漏らしている

 

この数十分の奇妙な会話と、白子が見せた無警戒な態度だけでも、十分すぎるほどの確信が得られた

 

こちら側からアビドスに対して、彼女らの逆鱗に触れるような致命的な被害や実害を直接与えさえしなければ、この3人がゲヘナに対して牙を向くことなど、天地がひっくり返ってもあり得ないだろう。彼女らはただ、この静かで過酷な砂漠の境界線の中で、身を寄せ合って懸命に大切な日常を生きているだけなのだ

 

(……調査報告書の文面は、適当に危険性なしとでも書いておけばいいわ。これで私の任務は実質的に完了。このままゲヘナに帰ってもいいんだけど……)

 

そこまで考えて、ヒナの脳裏に、これから自分が戻るべき「我が家」の情景が鮮明に思い浮かんだ

 

いつも火薬と硝煙の匂いが立ち込め、どこかの部活が勝手に校舎を爆破し、風紀委員会が怒号を飛び交わせている混沌の魔窟。そして何より、自分が予想よりも遥か早く仕事を終わらせて帰還した後に待っているであろう、最悪のシナリオが頭をよぎったのだ

 

あの無駄に声が大きくて、尊大な態度を崩さない同級生――羽沼マコトの、あの嫌味ったらしいニヤケ顔が鮮明にフラッシュバックする

 

『キキキ! さすがはゲヘナの“エリート”の空崎ヒナ様! でもなぁ、そんなに早く帰ってくるなんて、任務を適当に切り上げてサボってきたんじゃないのかぁ? エリート様がそんな怠慢なことでいいのかな? これを情報部の先輩方に報告したら……お前のその大事な地位、一瞬で無くなっちゃうかもしれないな! それが嫌なら、ほら、この山積みの予算申請書を今日中にやっておけよ! キキキキ!』

 

……あの女なら、絶対にそう言って、自分の机の上にさらに倍の量の残務処理の書類を「嫌がらせ」として高笑いと共に叩きつけてくるに決まっている

 

早く仕事が終わりすぎたのだ。ならば、ほんの少しの時間くらい、ここで寄り道をして、誰にも知られずに息を抜いたとしても、バチは当たらないはずだ。毎日毎日、学園の治安維持のために睡眠時間を削って身を粉にして働いているのだから、これくらいの「猶予」は1学生としての当然の権利だろう

 

ヒナはもう一度、今度は自分の意思で、ふぅと深いため息をついた。そして、軍服の埃をパッパッと手で払いながら、ホシノの足元で丸くなっている白い犬をじっと見つめる

 

「ねぇ。その子……白子って言ったかしら。その子は普段、この学校でどんなことをして過ごしているの? 散歩以外にも、何かお気に入りの場所とか、好きなことでもあるのかしら」

 

ヒナの口から出た、任務とは一切関係のない、純粋な日常への興味

 

ゲヘナ学園に入学して以来、あらゆる規則と義務、そして周囲の期待に縛られ続けてきた空崎ヒナが、人生で初めて、自らの意志で「サボる」ことを決めた瞬間だった

 

その言葉を聞いたホシノは、白子を撫でる手をピタリと止めて、床に座り直したヒナの顔をじっと見つめた

 

凛としていて、隙のないゲヘナの軍服に身を包んだエリートの少女。けれど、その小さな肩はどこか重苦しそうに落ちており、帽子の隙間から覗く瞳の奥には、すべてを投げ出してしまいたいような、色濃い疲労の影が張り付いていた

 

それが、毎日くだらない身内のトラブルや不条理な義務に追われ、息をつく暇さえ奪われている「同類」の表情であることに、ホシノが気づかないはずもなかった

 

すべてを察したホシノの口元が、いたずらっぽく、どこか楽しげにニヤリと歪む

 

「ふふふ……。ゲヘナのエリート優等生さんが、まさかアビドスの廃校寸前のボロ校舎でサボりたがるなんてねぇ。うへ、これは傑作だなぁ」

 

ホシノは悪戯が成功した子供のように喉を鳴らし、オッドアイの片目をパチリとウィンクさせてみせた

 

「いいですよ、せっかくここまで足を運んでもらったんですから。これから、うちの自慢の3人目のメンバー……白子のスペシャルな『特別迎撃トレーニング』をお見せしましょう」

 

「……なんだか、もの凄く不穏で、含みがあるような言い方ね」

 

ヒナは少し決まり悪そうにツンとそっぽを向き、軍服の襟元を直しながら小さく息を吐いた

 

「まあ、お言葉に甘えて、そのトレーニングとやらに付き合わせてもらうわ。……正直、今のゲヘナに大急ぎで戻ったところで、私を待っているのはろくでもない残務処理と、あの馬鹿からの嫌がらせの日常だけだしね。少し時間を潰すくらい、誰も文句は言わせないわ」

 

ヒナが少し拗ねたような子供っぽさを滲ませて視線を逸らすと、まるでその言葉に「大賛成!」とでも言うかのように、ホシノの足元で白子が元気よく、力強く吠えた

 

『わふっ!』

 

「お、白子もやる気満々みたいですね。それじゃあ、冷たいお茶をすすりながらジジむさく座って愚痴を言い合っているよりも、思いっきり身体を動かしに外へ行きましょうか! 砂漠の空気は、ゲヘナの硝煙よりずっと身体にいいですよ」

 

「ええ、そうね。少し……本当に、少しだけ風に当たりたかったところよ」

 

ホシノが「行くよ、白子」と短く声をかけると、白子は嬉しそうにその周囲を跳ね回る。二人の軽やかな足取りに導かれるように、ヒナもまた、長年背負い続けていた重い肩の荷がふっと下りたような、不思議と軽い足取りで、生徒会室の古びた扉へと向かって歩き出した

 

――その時だった

 

部屋の片隅、完全に意識の外へと追いやられていた場所から、この世の終わりかのような情けない悲鳴が響き渡った

 

「あれ……? あれれれれ? 待って、二人とも!? 私、私は!? 私はこのまま、ここに放置なのーーー!?」

 

そこには、涙目で床に張り付いたままのユメの姿があった

 

「嘘でしょ、ホシノちゃん! あと50分は正座って言ったのに、お客様と一緒にそのまま私を置いていって、完全に忘れちゃうつもりなの!? 待ってよぉー! 置いてかないでぇー! ホシノちゃーん! ゲヘナの可愛い人ーーーっ!」

 

このまま誰もいなくなった、夕暮れ時の薄暗い生徒会室で、一人寂しく足の激痛と痺れに耐え続ける未来を本能的に察知したのだろう。ユメは必死の形相で、まるで生まれたての小鹿のようにガクガクと小刻みに震える両足を動かし、正座を崩して床を這うような猛烈な勢いで、二人の後ろを追いかけてきた

 

校舎の外へ一歩足を踏み出すと、そこにはどこまでも、世界の果てまで広がるようなアビドスの大砂漠が、夕前の優しく、どこか切ない黄金色の光に照らされて静かに横たわっていた

 

遮るものの何一つない、吸い込まれそうなほどに高い青空。そして地平線の彼方まで続く、波打つ黄金の砂の海。それは、ゲヘナの、常に黒い硝煙と不快な爆発音、そして殺風景な灰色のアスファルトにまみれた歪な景色とは正反対の、絶対的な静寂と、圧倒的なまでの開放感に満ちあふれていた。ヒナは思わず足を止め、その壮大な景色を胸いっぱいに吸い込む

 

「よし、白子。まずはいつもの『対ヘルメット団用・障害物突破走』の成果を見せてあげて!」

 

『ワン!』

 

ホシノがパッと指差した先には、風化し、砂に半ば埋もれた古いドラム缶や、かつての戦闘の痕跡である崩れかけたコンクリートの防壁が、点々と不規則に並んでいた。ホシノが唇を尖らせて鋭い口笛を鳴らした瞬間、それまでヒナに甘えていた白子の目の色が一変した

 

四肢の強靭なバネを爆発させ、文字通り弾丸のような勢いで砂を大きく蹴り上げる

 

一歩間違えれば足をとられて体勢を崩すはずの、深く重い砂地。しかし白子は、そんな悪条件を全く感じさせないほどの猛スピードで、ドラム缶の間を鋭いジグザグの軌道ですり抜け、崩れた防壁をステップにして軽々と空間を跳び越えていく

 

その無駄のないルート取り、そして一切の減速がない流れるような身のこなしは、よく訓練された特殊部隊の最精鋭の突撃兵を見ているかのようだった

 

「……凄い。ただの『犬』の動きじゃないわね、あれは。ゲヘナの並の戦闘員はおろか、風紀委員会の突撃兵であっても、あの過酷な砂地であそこまで正確かつ、無駄のない実戦機動は不可能よ。驚いたわ……」

 

ヒナが本気で感嘆の声を漏らすと、ようやく後ろから追いついたユメが、まだ少し痺れの残る足をさすりながらも、自分のことのように嬉しそうにふんわりと胸を張った

 

「でしょでしょ! 白子ちゃん、とっても賢くて、とっても強いんだよ! ま、ホシノちゃんが毎日毎日、すっごく厳しく鍛えた成果なんだけどね〜」

 

「うへ、ユメ先輩が教官をやってたら、今頃白子はただの『お昼寝のプロフェッショナル』になって、一日中ゴロゴロしてましたよ。ほら、次はこれです!」

 

『ワン!』

 

ホシノが制服のポケットから取り出したのは、アビドス高等学校のロゴマークが、砂に擦れてすっかりかすれて消えかかっている、古びたプラスチック製のフリスビーだった

 

ホシノが手首を鋭く、スナップを利かせてそれを遠くの空へと放り投げる。フリスビーは砂漠特有の強い向かい風を捉え、茜色に染まり始めた空を、大きく、綺麗な弧を描いて飛んでいった

 

白子は空中を舞う円盤をその水色の瞳で一瞬で見据え、地面を蹴った

 

「……あんなに遠くまで、風に流されて……届くかしら」

 

ヒナが少しハラハラしながら見守る中、白子はフリスビーが失速し、砂に落ちるまさにその直前、目一杯に身体を伸ばして大跳躍を敢行した。空中で見事にそのプラスチックの円盤を「ガシッ!」と力強く咥え込み、見事な着地と共に砂煙を上げる。そして、自慢げに千切れんばかりに尻尾をブンブンと振りながら、ヒナたちの元へと一目散に駆けて戻ってきた

 

「はい、よくできました」

 

『わふ……♪』

 

ホシノがくわえられたフリスビーを受け取り、白子の頭をくしゃくしゃと、愛おしそうに何度も撫でる

 

白子は満足そうに喉を鳴らしていたが、ふと、その口から放されたフリスビーを、ヒナの靴のすぐ足元に「ポトリ」と落とした。そして、じっと潤んだ瞳でヒナの顔を見上げてくる

 

「……え? 私に、これを投げろって言っているの?」

 

「うへ、完全に気に入られちゃいましたねー。ゲヘナのエリート様の卓越した投擲技術、是非とも拝見させてもらいましょうか?」

 

「だから……その、からかうような呼び方はやめてって言っているでしょう。……加減が難しそうだけど、やるからには、ね」

 

ヒナは少し不器用な、けれど無駄のない動作で地面のフリスビーを拾い上げると、風向きを読み、狙いを定めて思い切り細い腕を振った

 

――シュオッ!! ――

 

鋭く重い風切り音が砂漠に響く。ゲヘナの戦闘の第一線で戦い続けるヒナの、無意識の力加減のせいか、フリスビーはホシノの時よりも遥かに速く、風を引き裂くようにして、遥か遠くの地平線へと飛んでいく

 

『わふーーーっ!!』

 

白子はこれ以上ないほどの歓喜の声を上げるように吠えると、砂を激しく巻き上げて、再び地平線に向かって全力疾走を始めた

 

「わあぁぁ! すっごく飛んだね! フォームがすっごく綺麗、やっぱりゲヘナの人は運動神経も抜群なんだねぇ!」

 

ユメが目を輝かせて拍手する

 

「……本当に、嬉しそうに…楽しそうに走るのね……」

 

遠くでフリスビーを完璧にキャッチし、また嬉しそうに、誇らしげにこちらへ向かって走ってくる白い塊を見つめながら、ヒナの唇から、そしてその凍りついていた表情から、自然と張り詰めた「義務」のトゲが消え去っていく

 

それからは、任務のことなど誰も口にしなかった。ただ純粋な、言葉通りの「放課後の遊び」の時間だった

 

「白子!私と競走ですよ!」

 

『ワン!』

 

ヒナが全力を出しすぎて遠くへ投げ、ホシノがそれに負けじと並走して白子とフリスビーを競い合い、ユメが「がんばれー! みんながんばれー!」と的外れな応援をしては、砂に足をとられて派手にドスンと転び、みんなでそれを見てお腹を抱えて笑い合う

 

ゲヘナでの息の詰まるような政治的駆け引き、マコトからの執拗でくだらない嫌がらせ、終わりのない報告書の山、そして風紀委員長という重すぎる肩書き

 

そんな泥臭く、自分を縛り付けていた現実のすべてが、アビドスの乾いた温かい風に吹かれて、砂の彼方へとサラサラと消え去っていくようだった

 

何度も何度もフリスビーを追いかけ、時には瞬発力の特訓と称した鬼ごっこに発展し、みんなで髪や服を砂まみれにして笑い転げているうちに、気づけばアビドスの広大な空は、燃えるような鮮やかな茜色から、深い紫色の美しいグラデーションへと移り変わっていた

 

地平線の向こうへとゆっくりと沈みゆく巨大な夕日が、3人と1匹の影を、砂漠の上に、長く、どこまでも長く伸ばしていく

 

心地よい、けれどどこか酷く愛おしい疲労感に包まれながら、ヒナは夕日に赤く照らされる自分の靴を見つめた

 

黒い軍服はすっかり白子の白い毛だらけで、お気に入りの靴の中には砂が容赦なく入り込んでしまっている。ゲヘナに戻れば、間違いなく「貴方、一体何をされていたんですか、その格好は…」と小言を言われるだろう

 

(でも……不思議ね。こんなに汚れて、ボロボロになってしまったのに。今、私の心…信じられないくらい軽いわ。……こんな気持ち、いつ以来かしら)

 

すぐ隣では、すっかり遊び疲れた白子が、ホシノの足元で満足そうに丸くなって目を細めており、ユメが「あ〜、楽しかったぁ。ねぇ、ホシノちゃん、今日の夕飯は何にしようかなぁ。お腹空いちゃった」とのんびり呟いている

 

じっとりと肌を濡らしていた昼間の熱気が、砂漠の夜の訪れを告げる、少し冷ややかな夜風によって優しく拐われていく

 

初めてサボった、アビドスの放課後。薄紫色の帳が下りつつある空の下、夕暮れの涼しい風が、ヒナの少し乱れた美しい髪を優しく揺らしていた

 

砂まみれになったフリスビーを小脇に抱え、ホシノたちが「うへ〜、確かにお腹空きましたね。先輩の隠し財産から引いたおやつ代で、何か美味しいものでも買いましょうか」と呟きながら、古びた校舎の方へとゆっくり歩みを戻そうとする

 

その、どこか温かい二人の背中を見送りながら、ヒナは自分のゲヘナの軍服の裾をパッパッと小さく叩き、その場に静かに足を止めた

 

「……私は、そろそろ帰るわ」

 

その、名残惜しさをほんの少しだけ孕んだ静かな声音に、ホシノがピタリと足を止め、肩越しに、その不思議なオッドアイの瞳を振り返らせた

 

「そうですか。……で、実際のところどうでした? 少しは、その、気は晴れましたかね?」

 

ホシノが歩みを緩め、歩幅を合わせるようにして尋ねてきた。夕暮れの風が、彼女の短いピンクの髪を柔らかく撫でていく

 

「ええ。想像以上に、いい気分転換になったわ」

 

ヒナはふっと、自嘲気味な、けれど酷く毒気の抜けた微笑みを唇に浮かべる

 

「ゲヘナにいたら、こんな風にただ砂塗れになって、時間を忘れて笑うだけの放課後なんて……逆立ちしても手に入らなかったでしょうしね。あそこにあるのは、終わりのない混沌と、他人の足を引っ張ることしか考えていない身内のトラブルだけよ」

 

その寂しげな気配を敏感に察知したのだろう。ホシノの足元からトコトコと軽い砂音を立てて、白子が近づいてきた

 

ヒナのブーツの足元に、すんすんと小さく温かい鼻先を寄せると、まるで別れを惜しむかのように、その短い尾をパタパタと小さく振っている

 

『わぅ……? クゥォン』

 

「ふふ、本当にいい子ね、あなたは。私の周りにも、あなたくらい素直に感情を伝えてくれる人がいてくれたら、どれだけ胃が救われるかしら……」

 

ヒナは顔を綻ばせると、高級な布地であるはずのゲヘナの軍服が汚れることも厭わず、すんなりと砂地に膝をついた。そして白子のフワフワとした、まだ少し日差しの温もりが残る首元を優しく、愛おしそうに撫でてやった

 

白子は気持ちよさそうに目を細め、「くぅ〜」と喉を鳴らしながら、ヒナの小さな掌に自らの頭の重みを全面的に預けてくる

 

『わふ……♪』

 

「うへ〜、完全に骨抜きにされちゃってますね。アビドスの誇り高き番犬としてのプライドは、一体どこの砂漠に落っことしてきたんだか」

 

「あら、最初は私に見事な突撃をかましてくれたもの。この子にはちゃんと戦士としてのプライドがあるわよ。……どこかの、ガバガバな危機管理能力をお持ちの生徒会長さんと違ってね」

 

「あはは、確かに。一理ありますね」

 

ホシノが呆れたように、けれどどこか誇らしげに微笑む

 

その様子を少し離れた場所から眺めながら、人差し指を顎に当てて「んーーー」と何やら深刻そうに思案の声を漏らしていたユメが、名案を思いついたように、ポンッ! と景気よく両手を叩いた

 

「そうだ! ゲヘナの可愛いお客様も、お洋服とか色々白子ちゃんの毛だらけだし、砂まみれになっちゃってるし……。良かったら、うちのお風呂に入って、さっぱりしてから帰るのはどうかな!?」

 

「……お、お風呂?」

 

あまりに予想の斜め上をいくアットホームな提案に、ヒナは白子を撫でた姿勢のまま、キョトンと大きな瞳を丸くした

 

キヴォトスの他校に単身潜入した他校の生徒が、作戦行動の最中に、あろうことか標的である学園の風呂を借りて湯船に浸かるなど、前代未聞どころかゲヘナの戦術教本がひっくり返るレベルの珍事である

 

「あ、それは名案かも。アビドスの砂漠の砂は粒子が細かいですからね、服の隙間に入り込むと後でチクチクして、ゲヘナまでの帰り道で最悪な気分になりますよ」

 

ホシノが我が事のように同意し、足元の白子もタイミングよく声をあげる

 

『わんっ!』

 

「ほら、白子も『たまにはユメ先輩もまともでいい事言いますね』って太鼓判を押してますよ」

 

「ちょっとホシノちゃん酷い! それじゃあ私、普段は変なことしか言ってないポンコツ人みたいじゃんー!」

 

「自覚がないのが一番タチ悪いんですよ、先輩。毎回毎回、何かしらの怪しいトラブルや借金に繋がる案件をアビドスに引っ張ってくるのは、他ならぬユメ先輩なんですから」

 

ホシノはジトっとした半目で、容赦なく身内のトップを睨みつける。ユメは「ううっ、返す言葉もないよぅ……」と声を詰まらせて大袈裟に身悶えした

 

ヒナは少しの間、ゲヘナに帰った後に待っている羽沼マコトのあの不愉快なニヤケ顔と、アビドスが提示してくれた温かい湯船の誘惑を脳内の天秤にかけ――

 

今日だけは完全に理性のタガを外すことにした

 

「……そうね。そこまで言ってくれるなら、お言葉に甘えて、お風呂までお邪魔させてもらおうかしら。流石にこの、砂と白子のヨダレ塗れの格好のままゲヘナに戻るのも、威厳に関わるし」

 

「やったー! 決まりだね! そうと決まればみんなでお風呂だー! 裸の付き合いだよー!」

 

ユメは子供のように無邪気に両手を上げて飛び跳ねた

 

「それじゃあ、私が浴場まで案内しますね。ユメ先輩は、私たちの着替えの準備をお願いします。確か生徒会室の奥の備品棚に、予備のアビドス指定の体操服があったはずですから。お客様の小柄なサイズに合いそうなやつを、上手く繕っておいてくださいね」

 

「はーい! 任せておいて! 一番小さくて可愛いお下がりを探してくるね!」

 

「余計な一言はいいから、早く行きなさい……」

 

ヒナが少し顔を赤くして急かすと、ユメは「タタタッ」と廊下を軽快に走っていった

 

蛍光灯がチカチカと明滅する薄暗い校舎裏を歩きながら、ホシノが「ユメ先輩、今日はゲヘナの貴重なお客さんもいるんですから、いくらテンションが上がっても湯船へのダイビングは絶対に禁止ですからね」「ええー、つまんないなぁ」といった、極めて緊張感の欠片もない微笑ましい会話を交わしつつ、ようやく到着したアビドスの大浴場

 

古いながらも隅々まで綺麗に掃除された浴場には、砂漠の慢性的な水不足の学校とは思えないほど、並々と温かく、透明な湯が張られていた

 

3人と1匹は、それぞれの砂と汗の汚れをシャワーできれいに洗い流し(白子もホシノに丁寧に洗われていた)、一斉に広い湯船へと、その身体を深く沈めた

 

「はぅーーー……。やっぱり、一日の終わりのこれがお楽しみだよねぇ。ね、ゲヘナのお客様も、気持ちいい?」

 

ユメがお湯に肩までどっぷりと浸かりながら、ふにゃりと完全に顔を弛ませて声をかけてくる

 

「……そうね。信じられないくらい、気持ちいいわ。こんな風に、誰の目も、動向も気にせずに、ゆっくりと湯船に浸かるなんて、いつ以来かしら。……本当に、身体の芯から、重たい疲れが溶けて飛んでいくような気がするわ」

 

普段の冷徹で厳しい表情はどこへやら、長い銀髪をお団子のような形に頭の上で不器用にしがみつかせたヒナは、あまりの心地よさと温かさに蕩けそうになりながら、湯気に顔を半分ほど埋めていた

 

お湯の心地よい熱気が室内に満ち、贅沢な沈黙が流れる中、ふと思い出したかのように、ホシノがお湯をパチャパチャと手で揺らしながら尋ねてきた

 

「そういえば……あなた、名前はなんて言うんですか?」

 

「……? どうして今更、そんな事を聞くのよ」

 

ヒナは湯気の中から、不思議そうに首を傾げた

 

ここまで数時間、不審者として捕まり、一緒に戦術の愚痴を言い合い、フリスビーを全力で投げ合っていたというのに、お互いに「お前」や「ゲヘナの人」、「お客さん」としか呼び合っていなかったのだ。ヒナ自身も、元々は隠密偵察任務の身。わざわざ自分から本名を名乗る必要もないと判断して、その不自然な距離感をあえて受け入れていた

 

ホシノは、お湯の熱気のせいなのか、あるいは自分から他人に一歩歩み寄るのが気恥ずかしいのか、少し頬を朱に染めながら視線を泳がせ、小さく呟いた

 

「……いや、その。ここまでその……腹を割って、何でもない日常の話をできる他校の人って、私にはいなかったですから。……今後のためにも、名前くらい聞いておいても損はないかな、なんてね」

 

「あ! ホシノちゃん照れてる、照れてるねー! 実はアビドスで同世代のお友達がいないから、どうやって声をかけたらいいか恥ずか……がぼがぼがぼ!!?」

 

ニコニコと余計な事実を嬉々として暴露しようとしたユメの頭を、顔を真っ赤に沸騰させたホシノが、湯船の中から電撃的なスピードで掴み、そのままお湯の底へと容赦なく沈めた

 

「よ、余計なことを大声で言わないでくださいって、いつも言ってるでしょうが、この馬鹿先輩!!」

 

「……あなた達って、本当に1分に1回は漫才を挟まないと気が済まないのね」

 

ヒナが呆れたように、けれどクスクスと笑いながらそれを見つめる

 

「ち、違いますよ!? これは我がアビドス生徒会の、厳格な規律と秘密保持のための正当防衛行動です!」

 

「湯船に沈めるのが正当防衛になる規律なんて、聞いたことがないわよ」

 

「ぶはっ!? げほっ、ごほっ……し、死んじゃう! 本当にお湯を飲んで死んじゃうよ、ホシノちゃん!」

 

『わふ…♪』

 

お湯から這い上がってきたユメが盛大に咳き込み、洗い場でぬくぬくとしていた白子が呆れたように鳴く

 

そんな二人のあまりにも微笑ましく、眩しいほどのやり取りを見ていたヒナの口角が、今度は明確に、綺麗な弧を描いて上方へと持ち上がった

 

「ふふ……。いいわ、改めて、こちらから自己紹介するわね。私はゲヘナ学園1年生の――空崎ヒナよ」

 

「……へぇ、1年生、だったんですね……」

 

ホシノは湯船から目を丸くしてヒナを見つめ、それから何かを企むように、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた

 

「何によ、その目は。文句でもあるの?」

 

「いえ〜? ふふふ、てっきり、どこかの中学校から迷い込んできた、可愛いマスコットキャラクターか何かが軍服を着ているのかと思ってました」

 

「……確実に分かってて言っているわね、あなた? その喧嘩、今ここで買ってあげてもいいのよ?」

 

バチバチと、白い湯気の中で1年生同士の静かな火花が散る。ヒナが負けじとホシノを睨みつけたその時、洗い場の隅から白子がとことこと歩み寄り、二人の座る湯船の縁の間に入って、短く一言、遮るように吠えた

 

『わふっ!』

 

それを見たホシノは、降参と言わんばかりに肩をすくめて苦笑いを浮かべた

 

「……おっと。白子大先輩から、『お風呂場での私闘は禁止』だそうですよ?」

 

「……そうみたいね。そんな風に的確に上役の喧嘩を止められる優秀な猟犬なら、ゲヘナにも一頭欲しいくらいだわ」

 

ホシノはお湯から濡れた片手を伸ばし、ヒナに向けて小さく振った

 

「改めて……アビドス高等学校1年、小鳥遊ホシノ。よろしくね、ヒナ」

 

「ええ、よろしく。ホシノ」

 

二人が初めて対等に名前で呼び合い、小さくも確かな絆を結んだその瞬間、湯船の端からお湯を激しく跳ね上げながら、もう一人の上級生が文字通りダイナミックに割り込んできた

 

「私も! 私も混ぜてー! アビドス高等学校3年生、生徒会長の梔子ユメだよ! よろしくね、ヒナちゃん!」

 

「「知ってます / 知ってるわ」」

 

息の合った二人の冷ややかな即答が、ユメの熱烈な自己紹介を綺麗に遮る

 

「ひぃぃん! 出会ったばかりの1年生二人が、結託して私をいじめるよーーー!」

 

お湯をバシャバシャと叩いてシクシクと泣き真似をするユメと、それを完全にスルーしてお湯を楽しむホシノ、そして

 

(……本当に、最高のサボりだわ)

 

ヒナは再び温かなお湯に深く身体を沈め、首まで湯船に委ねた

 

アビドスの、騒がしくもどこか陽だまりのように温かい放課後の余韻が、お湯と共にじわじわと肌から染み込み、これまでゲヘナで凝り固まっていた心を、芯から優しく解きほぐしていくのを、いつまでも、いつまでも感じ続けるのだった

 

――それからしばらくして、すっかりのぼせる寸前まで湯浴みを楽しんだ一同は、ようやく脱衣所へと上がった

 

「はい、お待たせー! これがアビドス指定の、伝統ある予備の体操服だよ! ちゃんと私がお洗濯して天日干ししてあるから、すっごくお日様の匂いがして綺麗だからね!」

 

脱衣所のパタパタとした引き戸を開けて、ユメが満面の笑みで差し出してきたのは、どこか懐かしい石鹸の匂いのする、小豆色のジャージ上下だった

 

「……ありがとう。助かるわ」

 

ヒナは軽く会釈をしてそれを受け取った。しかし、何気なくその布地を広げ、自分の身体に当てて鏡を見た瞬間、ふとある決定的な違和感に気づいて小さく眉をひそめた

 

「……ねぇ、生徒会長さん。これ、ずいぶんと……何ていうか、全体的に丈が小さすぎないかしら? 特にこのショートパンツの裾とか、いくらなんでも短すぎる気がするのだけれど」

 

すると、隣のロッカーで同じく小豆色の体操服に手際よく着替えていたホシノが、ふいと気まずそうに目を逸らしながら、頭の後ろを掻いてぶつぶつと呟いた

 

「うへ……。それ、私が教室の奥に予備として置いておいた私物だから、サイズは完全に私と同じですね。……っていうか、同じだと思ってましたが、並べて当ててみると、ヒナの方が実はちょっとだけ太ももが発育良いっていうか、肉付きが健康的なんですね。うへへ、想定外」

 

「なっ……! な、何よそれ、変なところを観察しないで! 私はあなたより少しだけ骨格が――」

 

ヒナが顔を真っ赤にして必死に言い返そうとした瞬間、横で二人の様子をニコニコと眺めていたユメが、「あはははは!」と無邪気で容赦のない爆笑を狭い脱衣所に炸裂させた

 

「本当だぁ! 二人とも同じ体操服を着て並ぶと、まるでちっちゃくて可愛い双子の姉妹みたいだよ! サイズがぴったりなんて、これもう運命の出会いだねぇ! アビドス双子ちゃんズの結成だー!」

 

「「…………」」

 

一瞬、脱衣所の空気が絶対零度へと凍りついた

 

ヒナがゴミを見るかのような冷ややかな侮蔑の視線をユメに送るのと完全に同時に、ホシノの瞳から光が消え、完全に「ガチ」の目が据わった

 

ホシノは一切の声を発せず、恐ろしいほどの無表情のまま、すたすたと一歩前へ踏み出すと、笑い転げるユメの無防備な腰のあたりをガシッ!! と両腕で強固にホールドした

 

「え? あ、あれれ? ホシノちゃ――」

 

ドダァァァンッッ!!!

 

狭い脱衣所全体が激しく揺れるほどの、肉体と床が衝突する凄まじい衝撃音が響き渡った

 

ホシノが放ったのは、一切の手加減も慈悲もない、教科書に載せられるほど完璧なブリッジフォームのバックドロップだった

 

「ひぎゃあァァァーーー!? あ、頭が、私の頭が割れちゃうよぉぉお!」

 

床にしこたま叩きつけられ、芋虫のようにのたうち回って涙目を流す生徒会長。ホシノは乱れた髪を直すこともせず、ジャージのパイル地でパッパッと手を払いながら、冷徹な視線をユメへと見下ろした

 

「口は災いの元、先輩の無神経な発言に対する風紀粛清はアビドスの正当な権利です。さっき説教したばかりですよね、ユメ先輩」

 

「……ナイスよ、ホシノ。無神経でガバガバな上役を黙らせるには、時として圧倒的な暴力(パワー)しかないわ。ゲヘナでもよくあることよ」

 

ヒナは深く共感したように親指を立てながら、アビドスの体操服に袖を通した。少し太ももが窮屈ではあったが、砂とヨダレまみれになっていたゲヘナの重い軍服に比べれば驚くほど軽やかで、何より、アビドスという学校が持つ不思議な温もりが、布地を通して肌に心地よく残っているような気がした

 

すっかり夜の帳が下りたアビドスの校門前。満天の星空が広がる中、ヒナは制服の入ったバッグを抱え、アビドスの面々と向き合っていた

 

「それじゃあ、また……今度は正式に、この学校に遊びに来るわ。その時は、ちゃんとお土産を持ってね」

 

『くぅ〜ん……』

 

「ふふ、白子もまたね。次に来る時は、もっと遠くまでフリスビーを投げてあげるわ」

 

『……わぅーーーーん!』

 

校門で見送られ、白子に名白く遠吠えをされながら、ヒナは夜の静かな砂漠を歩き始めた

 

夜も更け、日付が変わる頃のゲヘナ学園・情報本部

 

いつもなら深夜であっても爆破予告やテロ、暴動の緊急報告で怒号が飛び交い、耳が痛くなるような騒がしい廊下を巧みに潜り抜け、ヒナは誰にも見つからないように、足早に自分の自室へと滑り込んだ

 

「……はぁ」

 

パタン、と重い扉を閉めると、そこはいつもの見慣れた、処理しきれない書類の山に囲まれた、冷たくて殺風景な部屋だった。だが、今のヒナの胸のうちは、アビドスに出発する前のあの圧迫感とは比べ物にならないほど、驚くほど軽くなっていた

 

カバンを床に置き、ゲヘナの軍服ではなく、そのまま着て帰ってきたアビドスの体操服姿のまま、ヒナは吸い込まれるようにして、自分の部屋のふかふかなベッドへと勢いよくダイブした

 

沈み込むマットレスと、包み込んでくれるシーツの感触が、泥のように疲れた身体に心地よく染み渡る

 

「ぷはぁ……。やっと、自分のベッドに戻ってこれた……」

 

枕に深く顔を埋め、胸の溜まった息をすべて吐き出す

 

ふと目を向ければ、机の上には、明日になれば嫌でも処理しなければならない膨大な治安報告書や、情報部への提出書類が、文字通り物理的な山をなして執行を待っている

 

明日になればまた、羽沼マコトがどんな嫌がらせや無理難題を仕掛けてくるかも分からない

 

(……うん。洗濯も……報告書の作成も、全部、明日でいいわ。今日だけは、もう何も考えたくない)

 

ヒナはベッドの中でゴロンと寝返りを打ち、静かな天井を見つめた

 

胸の奥に次々と去来するのは、今日体験した、あまりにも奇妙で、そして信じられないほど愛おしい放課後の出来事の数々だ

 

完璧だったはずの潜入計画を、圧倒的な親愛の情で粉々に台無しにしてくれた、あのフワフワで可愛い白い犬、白子

 

こちらの疲労や事情をすべて察した上で、ニヤリと悪戯っぽく笑ってフリスビーを投げてくれた、不器用だけど誰よりも優しい苦労人のホシノ

 

そして、どこまでも能天気でガバガバで、下級生にバックドロップされるほど怒られてばかりだけど、アビドスという場所を信じられないほど温かい陽だまりにしてくれている、生徒会長のユメ

 

「ふふ……。ゲヘナの上層部があれだけ警戒していた隠密任務だったのに……。終わってみれば、まるでただの、楽しい放課後の休暇みたいだったわね」

 

潜入先という、本来ならば最も警戒すべき場所で出来た、人生で初めての「気兼ねのない友人たち」の顔を思い浮かべながら、ヒナの口元に自然と、今日一番の優しい微笑みがこぼれる

 

アビドスの砂漠を吹き抜けていた、あの乾いた、けれどどこか心地よい放課後の夜風の音を耳の奥に聞きながら、空崎ヒナは数ヶ月ぶり、あるいは数年ぶりとなる、何の重圧も義務もない、深く穏やかな眠りへと、ゆっくりと落ちていくのだった




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