わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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王立学院
わたし、壊れてるらしいです


王都の空は、高い。

 

馬車の幌をめくって見上げた空が、どこまでも続いていた。

雲が薄く伸びて、風に千切られながら東へ流れていく。

ヴェルダの山の上で見た空とは違う。

あっちの空は狭かった。

山と森に切り取られて、覗き穴みたいに丸く見えるだけの空。

 

まあ、収容所の天井よりはずっといい。

 

馬車が石畳の上で跳ねて、わたしの体が揺れた。

荷台に敷かれた藁の上で尻が滑る。

隣に座っていた商人のおじさんが「もうすぐ王都だよ」と言ってくれたのは、もう一刻も前のことだ。

もうすぐ、の基準が人によって違うのは、どこの国でも同じらしい。

 

幌の隙間から、石造りの建物が見え始めた。

二階建て、三階建て。屋根に赤い瓦を載せた家が、通りの両側にぎっしり並んでいる。

道を歩く人の数が増えてきた。

荷車を引く男、籠を抱えた女、走り回る子供。

誰も武装していない。

腰に剣を帯びているのは、交差点に立つ衛兵くらいのものだ。

 

当たり前だ。

ここは王都で、戦争は終わっている。

 

わたしは幌を戻して、膝の上に置いた包みを確認した。

着替えが二組と、審問官からもらった入学許可証。

あの人の目を覚えている。冷たくて、まっすぐで、わたしを見ているのにわたしを見ていなかった。何か別のものを計っている目だった。

まあ、あの目のおかげでここにいるんだから、感謝すべきなのかもしれない。

それだけ。

荷物が少ないのは慣れている。

前線では、自分の体重の半分以上の装備を背負って走ったこともあったけど、今のわたしの全財産はこの包み一つだ。

身軽でいい。

逃げるときに楽だから。

 

いや、逃げる予定はないんだった。

 

幌の外で、子供の笑い声がした。

石畳の上を走る足音が、かたかたと軽い。

わたしは包みの紐を結び直しながら、その足音を聞いていた。

子供が走り回れる街だ。

ヴェルダの村では、子供は走り回る前に隠れ方を覚えた。

砲撃が来たら伏せろ。金属音が聞こえたら建物に入れ。

ここの子供たちは、そんなこと知らなくていいんだろう。

 

いいことだ。

知らなくていいことは、知らないほうがいい。

 

馬車が速度を落とした。

前方に大きな門が見える。

商人のおじさんが荷台の奥から身を乗り出して、「ここだよ、王立学院」と指さした。

 

「ありがとうございます、おじさん。助かりました」

 

わたしは荷台から飛び降りて、商人のおじさんに頭を下げた。

王都までの乗り合い馬車の代金は、審問官が払ってくれていた。

道中、おじさんはわたしの出身を聞かなかった。

聞かない優しさなのか、興味がないだけなのかはわからない。

どちらでもありがたかった。

 

おじさんは「がんばれよ」と手を振って、馬車を走らせていった。

 

さて。

 

門の前に立つ。

白い石でできた門が、わたしを見下ろしている。

高さは、そうだな、見張り塔の半分くらいか。

左右に太い柱が立っていて、柱の上に翼を広げた鷲の彫刻が載っていた。

エルドレア王国の紋章。

 

この紋章を最後に見たのは、降伏の日だった。

白旗の横に、この鷲が翻っていた。

わたしたちの小隊長が剣を地面に置いて、膝をついた。

その背中を、わたしは後ろから見ていた。

 

今日は白旗じゃなくて、入学許可証を持って、この門をくぐる。

面白いものだ。

 

門に近づくと、幅が五人並んで通れるくらいあることがわかった。

門の向こうに、芝生の広場と、その奥に石造りの大きな建物が見えた。

 

まあ、牢屋よりは広いかな。

 

門の脇に詰所があって、衛兵が二人立っていた。

わたしは入学許可証を取り出して差し出す。

衛兵がちらりと許可証を見て、ちらりとわたしを見た。

視線が一瞬、わたしの髪の色に止まる。

亜麻色。ヴェルダの北方に多い髪の色だ。

でも何も言わず、「中へどうぞ」と門を開けてくれた。

 

衛兵の右腰に剣。左腰に短剣。防具は革鎧の上に胸甲。

装備の確認は、目が勝手にやっていた。

 

門をくぐる。

 

足元が石畳から、手入れされた砂利道に変わった。

砂利を踏む音が、じゃり、と小さく鳴る。

左右に植え込み。白い花が咲いている。

名前は知らない。

花の名前なんて、覚える機会がなかった。

「これは何の花?」と聞ける相手は、たいてい先に死んだ。

 

砂利道の先に、本館の建物が構えている。

三階建ての石造り。窓が規則正しく並んでいて、屋根の上に時計塔がある。

時計塔の針は、午前の九時を少し過ぎたところを指していた。

 

入学式は十時からだと、許可証に書いてあった。

一時間の余裕がある。

いい。

余裕があるのは、いいことだ。

余裕がないと、死ぬ。

 

いや、入学式に遅刻しても死なないか。たぶん。

 

「あの、新入生の方ですか?」

 

声をかけられて振り向くと、若い女性が立っていた。

二十代半ばくらい。薄い茶色の髪をきっちり結い上げて、胸元に学院の紋章が入った制服を着ている。

教員だ、とわたしは判断した。

右利き。腰に武器なし。体格は細身で、戦闘訓練は受けていない。魔法の杖も持っていない。

事務か、教務の担当だろう。

 

「はい。今日入学の、リーネ・カルヴァスです」

 

わたしはできるだけ明るく笑って、許可証を見せた。

 

「まあ、ヴェルダ公国からの。お待ちしていましたよ」

 

教員の女性は柔らかく笑った。

嫌な顔はしない。

「融和政策」の一環で受け入れる生徒だと、事前に知らされているのだろう。

「融和」。

いい言葉だ。

わたしたちの国を踏み潰しておいて、手を差し伸べるふりをすることを、この国ではそう呼ぶ。

 

まあ、差し伸べてもらえるだけありがたい。

踏み潰されたまま放っておかれるよりは、ずっといい。

 

「案内しますね。まず寮にお荷物を置いて、制服に着替えてから入学式に出ていただきます」

 

「はい、お願いします」

 

教員の後について歩く。

砂利道を進んで、本館の脇を抜け、渡り廊下を通って奥の建物へ。

歩きながら、わたしは周囲を見ていた。

本館の窓の位置。渡り廊下の柱の間隔。建物と建物の隙間の幅。

どこから出られるか。どこに隠れられるか。どこが死角になるか。

北側の建物の裏手に、低い石塀。あれは越えられる。東の木立は身を隠すのに使える。

 

癖だ。

新しい場所に来たら、まず地形を把握する。

それは兵士として最初に叩き込まれたことだった。

前線に出た初日、隊長に言われた。「地形を見ろ。地形がお前を殺すか、お前を生かす」

あれから三年経って、今でも最初にやることは変わらない。

 

渡り廊下の途中で、教員が振り返って言った。

 

「寮は本館の東側にあります。女子寮と男子寮は別棟で、食堂は本館の一階です。大浴場もありますよ」

 

「へえ、大浴場。すごい」

 

「ふふ、喜んでもらえてよかった。この学院は生活環境に力を入れていますから」

 

大浴場か。

最後にまともな風呂に入ったのは、いつだったかな。

収容所では桶一杯の水で体を拭くだけだったし、前線では川の水を浴びるくらいしかできなかった。

真冬に凍りかけの川に入ったときは、さすがに死ぬかと思った。

死ななかったけど。

 

「あの」

 

わたしは歩きながら聞いた。

 

「寮は安全ですか?」

 

教員が少し不思議そうな顔をして、笑った。

 

「もちろんですよ。王立学院ですからね。衛兵も常駐していますし、夜間は門も閉まります」

 

「そうですか。よかった」

 

わたしも笑った。

 

教員の言う「安全」と、わたしの言う「安全」は、たぶん違う。

まあ、いいか。

学院なんだから、そういうのはないんだろう。

たぶん。

 

 

 

 

 

 

 

 

女子寮は、想像していたよりずっと綺麗な建物だった。

 

二階建ての石造りで、壁が白く塗られている。

窓枠に花が飾ってある。

入り口の扉は木製で、取っ手が真鍮だった。

真鍮が磨かれて光っている。

こんなところにまで手をかけるのか、と少し驚いた。

 

教員に案内されて、二階の部屋に入る。

二人部屋らしい。

木のベッドが二つ、机が二つ、小さな衣装棚が一つ。

窓からは中庭が見える。

窓の高さは地面から四メートルほど。

飛び降りても足首をやる程度で済む高さだ。

 

別に飛び降りる予定はないけど。

 

扉の蝶番は内側。開く方向は手前引き。

鍵はかんぬき式。内側からのみ施錠可能。

つまり外から鍵を壊されたら終わりだが、まあ、ここは収容所じゃない。

 

「ルームメイトは午後に到着する予定です。制服はベッドの上に置いてありますから、着替えたら本館の講堂へ来てくださいね」

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

教員が出ていって、部屋に一人になった。

 

静かだ。

 

窓の外から鳥の声が聞こえる。

風が木の葉を揺らす音。

遠くで誰かが笑っている声。

 

静かで、穏やかで、何の脅威もない。

いい部屋だ。

 

わたしはベッドに腰を下ろして、置いてあった制服を手に取った。

濃い紺色の上着に、同じ色のスカート。白いブラウス。

生地がしっかりしていて、手触りがいい。

軍服より柔らかい。

当たり前だけど。

 

着替える。

ブラウスに袖を通して、ボタンを留めていく。

指が少しもたつく。

ボタンなんて久しぶりだ。

軍服は紐で締めるだけだったし、収容所では着たきりだった。

三つ目のボタンを留めるころには慣れてきた。

こういう細かい動作は、指が覚えてくれる。

剣の握り方と同じだ。

 

全然同じじゃないけど。

 

上着を羽織る。

襟を立てて、鏡を見る。

小さな鏡が衣装棚の扉の内側についていた。

 

映っているのは、十六歳の女の子だ。

亜麻色の髪を無造作に束ねて、明るい緑色の目をした、やや小柄な女の子。

濃紺の制服はちょっと大きいけど、まあ、なんとか様になっている。

 

悪くない。

普通の学生に見える。

見えるといいな。

 

襟の内側に、指を滑らせる。

左の鎖骨から首にかけて、皮膚がひきつれている。

火傷の跡だ。

古い傷で、もう痛みはない。

ただ、肌の色が周囲と違うから、見れば気づく。

 

襟を正す。

制服の襟は高さがあるから、ちょうど隠れた。

よかった。

初日から聞かれたくない。

何の傷かとか、いつ負ったのかとか。

答えるのは面倒くさいし、聞いた方が困る答えしか出てこない。

 

——焼かれた陣地の中で、崩れた柱の下敷きになりかけた。

引きずり出してくれたのは副隊長だった。

副隊長は翌月に死んだ。

 

そんな話、誰が聞きたいんだ。

 

鏡の中のわたしが笑った。

うん、笑顔はちゃんとできる。

大丈夫、大丈夫。

 

両手を見る。

指の関節が硬く、ところどころ皮膚が厚くなっている。

剣を握り続けた手だ。

これは隠しようがないけど、まあ、聞かれたら「子供の頃から剣術やってたんです」とでも言えばいい。

嘘ではない。

子供の頃から剣で人を斬っていたのは事実だし。

 

それを「剣術」と呼んでいいかは、わからないけど。

 

わたしは制服の裾を整えて、部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

本館の講堂は、広かった。

 

天井が高くて、壁に大きな窓が並んでいる。

窓が大きすぎて、壁より光のほうが多い講堂だった。

正面に壇上があり、椅子が何列も並べられている。

 

新入生がぞろぞろと集まり始めていた。

わたしは講堂の入り口に立って、中を見渡した。

 

人数は、六十人くらいか。

男女半々。年齢は十五から十七くらいが多い。

ほとんどが貴族の子弟だろう。身なりが違う。

髪を丁寧に整えて、肌が白くて、手が柔らかそうだ。

隣の生徒と笑いながら話している。

試験の話、実家の話、昨日の夕食の話。

 

わたしの手とは違う。

わたしの昨日とも違う。

 

わたしは講堂の中に入って、席を選んだ。

後方の、壁際の席。

出口に近くて、背後に壁がある。

講堂の正面入り口と、壇上脇の通用口と、左手奥の非常口。出口は三つ。

 

座って、周囲を見る。

 

右隣の席に、女の子が座った。

小さくて、肩が強張っていて、膝の上に置いた手が震えていた。

緊張しているんだろう。

 

「大丈夫だよ、ここいい場所だよ。屋根もあるし」

 

わたしはできるだけ柔らかく笑って、声をかけた。

女の子がこっちを見た。

「屋根……?」

「うん。広いし、きれいだし。いい場所だなって」

女の子が不思議そうな顔をした。何か変なこと言ったかな。

まあいいか。

右隣は空席。左隣には、栗色の長い髪をした女の子が座っていた。

落ち着いた雰囲気の子だ。灰色がかった青い目が、どこか涼しげに見える。

前の席には、赤い髪を短く刈り込んだ女の子。背筋がぴんと伸びていて、座り方に規律がある。軍人か騎士の家の子だろう。

斜め前に、黒髪を短く刈り上げた大柄な男。体格がいい。肩幅が広くて、首が太い。座っていても威圧感がある。

三列前に、背の高い男。こちらは細身だが、姿勢がよくて肩の力が抜けている。喧嘩慣れしていない体つきだ。

 

一通り確認を終えて、わたしは椅子の背もたれに体を預けた。

何の確認だ?

まあ、いいか。

新しい場所に入ったら、まず誰が脅威になりうるかを見る。

大柄な人間、筋肉のつき方、手の位置、目の動き。

呼吸と同じくらい自然なことだ。

 

ここにいる生徒たちは、誰も武装していない。

剣も、短剣も、暗器も持っていない。

手が柔らかくて、目が穏やかで、殺気がない。

 

当たり前だ。

ここは学校で、この子たちは学生だ。

 

わたしも、今日から学生。

 

ちょっとおかしくて、口元が緩んだ。

 

壇上に教員が上がってきた。

白髪交じりの初老の男性で、学院長だと名乗った。

入学の祝辞を述べている。

 

「——諸君は、エルドレア王国の未来を担う人材です。剣と魔法の研鑽に励み、騎士として、魔法師として、文官として、この国の礎となることを期待します」

 

立派な話だ。

わたしは姿勢を正して聞いていた。

こういう式典で背筋を伸ばすのは得意だ。

軍では毎朝の点呼で姿勢を叩き込まれた。

崩したら殴られた。

殴られるのは大したことなかったけど、殴られると朝食が遅れるから、自然と姿勢はよくなった。

 

学院長の話は長かった。

王国の歴史がどうとか、伝統がどうとか。

途中で何人かの生徒が姿勢を崩し始めた。

前の席の赤髪の女の子は崩さない。やっぱり軍人の家系だろう。

 

わたしも崩さない。

長い話を聞きながら動かずにいるのは、哨戒任務に比べたら楽なものだ。

あっちは寒いし、眠いし、いつ撃たれるかわからないし。

ここは暖かいし、椅子があるし、誰も撃ってこない。

 

最高だ。

 

後方の扉が開いて、遅刻した生徒が滑り込んできた。

扉を勢いよく閉めた。

重い木の扉が石の枠にぶつかって、講堂に低い音が響いた。

 

わたしの右手が腰に動いた。

何もない腰に。

 

すぐに戻した。

一秒もかからなかった。

わたしは何事もなかったように前を向いた。

 

左隣の栗色の髪の子が、こちらを見た気がした。

気のせいだろう。

 

学院長の話が終わって、教務主任という人が実務的な説明を始めた。

時間割のこと、寮の規則、食堂の利用時間。

わたしは大事そうなことだけ頭に入れていった。

食堂は朝六時から夜八時。

門限は夜九時。

消灯は十時。

 

門限と消灯がある。

そうか、ここでは夜中に出歩くのは禁止なんだ。

前線では夜中の移動が基本だったけど、ここは違う。

夜は寝る時間だ。

普通は。

 

説明が終わると、クラス分けが発表された。

わたしの名前が呼ばれる。

 

「リーネ・カルヴァス。一年A組」

 

立ち上がって、小さく会釈する。

周囲の視線が集まった。

ひそひそとした声が、あちこちで上がる。

「ヴェルダ」「属国」「融和政策の」。

言葉の断片が耳に入ってくる。

 

まあ、そうだろうな。

ヴェルダ公国出身の生徒がここにいるのは、珍しいことだ。

一年前まで敵国だった国の人間。

注目されないほうがおかしい。

 

でも、わたしは気にしない。

気にしても仕方ないし、注目されること自体は危険じゃない。

危険なのは、注目されずに近づかれることだ。

 

わたしは笑顔で席に戻った。

左隣の栗色の髪の女の子が、ちらりとこちらを見た。

嫌悪でも好奇心でもない、静かな目だった。

目が合うと、小さく頷いてくれた。

わたしも頷き返した。

 

悪い子じゃなさそうだ。

明日、同じ教室で顔を合わせるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

入学式が終わって、生徒がぞろぞろと講堂を出ていく。

 

わたしも立ち上がって、出口に向かった。

壁際の席に座っていたおかげで、出口には近い。

人の流れに逆らわず、でも誰にも背後を取られない位置を保ちながら、廊下に出る。

 

廊下は広くて、天井が高い。

石の壁に、等間隔で松明の受け具がついている。

今は昼間だから火は入っていない。

夜になったら、ここに火が灯るんだろう。

 

火か。

 

一瞬、鼻の奥に何かの匂いが掠めた気がした。

焦げた土の匂い。

でもすぐに消えた。

気のせいだ。

石と、乾いた空気の匂いしかしない。

 

「あの」

 

声をかけられて足を止めた。

さっき案内してくれた教員の女性だ。

 

「リーネさん、教室の場所はわかりますか? 明日から授業ですから、今日のうちに確認しておくといいですよ」

 

「ありがとうございます。えっと、一年A組の教室は?」

 

「本館の二階、東の廊下の突き当たりです。階段を上がって右に進んでくださいね」

 

「わかりました。見に行ってきます」

 

教員が去っていく。

わたしは言われた通り、階段を上がった。

 

二階の廊下を歩く。

窓から中庭が見下ろせた。

花壇がいくつかあって、色とりどりの花が咲いている。

黄色い花と、赤い花と、白い花。

名前はやっぱりわからない。

今度誰かに聞いてみよう。

 

花壇の向こうに訓練場が見えた。

広い土の地面に、木製の的が並んでいる。

弓か、魔法の訓練用だろう。

地面の土がところどころ焦げている。火魔法の痕だ。

焦げた円の中心が黒く変色していて、周囲の草が枯れている。

さっき廊下で嗅いだ匂いは、ここから風に乗って届いていたのかもしれない。

窓際に立っていると、微かに土の焦げた匂いが鼻をかすめた。

喉の奥が一瞬、きゅっと詰まった。

わたしは窓から離れて、教室の方へ歩いた。

 

教室の扉に「一年A組」と書かれた札が掛かっていた。

扉を開けて、中を覗く。

 

木の机と椅子が並んだ、普通の教室だ。

黒板がある。窓が三つ。

後方の扉と、前方の扉。出入り口が二つ。

 

いいな。

出口が二つあるのは、いい。

片方が塞がれても、もう片方から出られる。

 

教室を出て、一階に戻った。

食堂を覗く。広い。出入り口は正面の大扉と、厨房脇の通用口。

通用口から外に出られるか確認したかったけど、さすがに初日から厨房に入り込むのはまずいだろう。

やめておく。

 

廊下の窓から外を眺めた。

王都の街並みが見える。

赤い瓦屋根が連なって、その向こうに城壁の一部が見えた。

空は相変わらず高くて、雲がゆっくり流れている。

 

ここが、わたしの新しい場所か。

 

一年前のわたしは、塹壕の中で泥水を啜っていた。

半年前のわたしは、収容所の石壁を数えていた。

今のわたしは、窓辺に立って花壇を見下ろしている。

 

人生、何が起きるかわからないものだ。

 

「よし」

 

小さく声に出して、わたしは背筋を伸ばした。

明日から授業が始まる。

剣術と魔法と、座学の勉強。

学生をやるのは初めてだ。

ヴェルダでは学校に通う前に徴兵されたから。

 

十三歳で剣を渡されて、「これで生き残れ」と言われた。

教科書の代わりに剣。机の代わりに塹壕。同級生の代わりに、小隊の仲間。

 

その仲間は、ほとんど死んだ。

 

でも、まあ、なんとかなるだろう。

戦場でなんとかなったんだから、学校くらいなんとかなる。

 

たぶん。

 

 

 

 

 

 

 

 

寮に戻って、荷物を片付けた。

片付けるといっても、着替えを衣装棚に入れるだけだ。

一分で終わった。

 

衣装棚の半分はルームメイトの分だろうから、右半分だけ使う。

引き出しに着替えを入れて、入学許可証は机の上に置いた。

ふと、裏面に何か書いてあるのに気づいた。

審問官の筆跡だ。小さくて、角張った字。

 

「心的外傷の兆候あり。経過観察を要す」

 

心的外傷?

わたしが?

怪我なら鎖骨の火傷くらいだけど、あれはもう痛くない。心が怪我するって、どういうこと。

まあいいか。よくわからないけど、たぶん大したことじゃない。

 

部屋を見回す。

もう一つのベッドはまだ空だ。

ルームメイトは午後に来ると言っていた。

どんな子だろう。

怖がりじゃないといいな。

夜中にわたしが跳ね起きても、驚かないでくれる子がいい。

 

なんでそんなことを心配しているのか、自分でもわからなかったけど。

 

わたしは靴を脱いで、ベッドの上に足を上げた。

柔らかい。

マットレスが体を受け止める感覚が、なんだか不思議だった。

柔らかいベッドで寝るのは、三年ぶりくらいだ。

 

窓の外で、鳥が鳴いている。

風が吹いて、白い花の甘い匂いが入ってくる。

 

ああ、いい場所だな。

 

わたしは目を閉じた。

少しだけ休もう。

入学式で緊張していたから、体が強張っている。

 

——体が強張っているのは、入学式の緊張のせいだと、わたしは思っていた。

 

目を閉じると、暗い。

暗くて、静かだ。

 

鳥の声が遠くなる。

風の音も遠くなる。

 

静かすぎる。

 

静寂の中に、何かが潜んでいるような気がする。

見えない何かが、暗闇の向こうで息を殺して、こちらを見ている。

体の奥のほうで、何かがぎゅっと縮んだ。

 

目を開ける。

 

白い天井が見えた。

鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らす音に、甘い花の匂いが混じっていた。

 

何もない。

誰もいない。

安全だ。

 

わたしは息を吐いて、起き上がった。

「寝るのは夜でいいか」と独り言を呟いて、靴を履き直す。

 

立ち上がったとき、自分の手を見た。

指が白くなるほど、シーツを握りしめていた跡が残っていた。

 

いつの間に。

 

まあ、寝相が悪いんだろう。

昔からそうだったし。

 

わたしはシーツの皺を伸ばして、部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方、食堂で一人で夕食を食べた。

 

パンと、豆の煮込みと、焼いた肉。

量が多い。

これが毎日出るのか。

 

わたしはパンをちぎって口に運んだ。

柔らかくて、温かい。

小麦の匂いがする。

 

食堂は半分くらい埋まっていた。

入学式を終えた新入生と、すでに学院にいる上級生。

あちこちでグループができていて、賑やかだ。

 

気がつくと、講堂と同じような場所に座っていた。

壁際で、出口の近く。

 

食事を済ませるのに、五分かからなかった。

 

食べられるときに、できるだけ速く食べる。

それが普通だと思っていた。

 

周りを見ると、他の生徒たちはゆっくり食べている。

おしゃべりしながら、笑いながら、一口ずつ味わいながら。

 

ああ、そうか。

ここでは、急がなくていいんだ。

誰も食べ物を取らないし、砲撃も来ない。

 

次からは、もう少しゆっくり食べてみよう。

できるかどうかわからないけど。

 

食器を返却口に持っていく。

隣に立った上級生の女の子が、わたしの空になった皿を見て、目を丸くした。

 

「もう食べ終わったの? 早いね」

 

「あはは、早食いなんです。特技みたいなもので」

 

「すごい特技だね」

 

女の子が笑った。わたしも笑った。

特技というか、生存技術なんだけど。

まあ、伝わらなくていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

寮に戻ると、廊下の窓から夕焼けが見えた。

空が赤とオレンジに染まっている。

 

綺麗だな、と思った。

前は、夕焼けを見たら「あと何時間で暗くなる」と計算していた。

暗くなれば夜襲の時間だ。準備しなくてはいけない。武器の点検、見張りの交代、退路の最終確認。

 

今は、ただ綺麗だと思える。

 

それだけで、ここに来た価値はある気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋に入ると、もう一つのベッドに荷物が置いてあった。

ルームメイトが到着したらしい。

本人はいない。食堂にでも行っているのだろう。

 

明日、顔を合わせたら挨拶しよう。

笑顔で、明るく。

「よろしくね」って。

 

窓の外では、最後の陽が沈みかけている。

部屋が暗くなっていく。

 

明日から、授業が始まる。

教科書を読んで、剣を振って、魔法を学ぶ。

友達を作って、ごはんを食べて、夜に眠る。

普通の十六歳がやることを、わたしもやる。

 

できるかな。

 

いや、できる。

わたしは生き残ったんだ。

生き残ることに比べたら、学生をやるくらい、どうってことない。

 

「死なない程度に」が基準になっている時点で、何かがおかしいのかもしれないけど。

わたしにはよくわからない。

 

窓を閉めようとして、ふと手を止めた。

 

夜風が入ってくる。

涼しくて、草の匂いがして、どこか遠くで虫が鳴いている。

 

開けておこう。

閉め切ると、息が詰まる。

 

なぜ息が詰まるのかは、考えないことにした。

 

ベッドに横になる。

天井を見る。

白い天井。ひびもシミもない。

 

目を閉じる。

暗い。

静かだ。

 

明日が、楽しみだ。

 

でも、まあ、どっちでも同じだ。

笑っていれば、だいたいのことはなんとかなる。

 

今までも、ずっとそうだったから。

 

わたし、壊れてるらしいです。

たぶん、壊れてなんかいません。

普通に、ここで暮らしていきます。

 

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どうか私を、終わらせて(作者:めめ師)(原作:ブルーアーカイブ)

初めまして、篠崎 ナナと申します。▼突然ですが、皆さんは自分が好きですか?▼私は私が嫌いです。▼これは私が、自分を否定するお話。▼うちの子描いてみました。▼【挿絵表示】▼普段絵とか描かないのでクオリティはお察し。▼ブルアカっぽく描きたかったけど、全身書くのムズすぎて諦めました。


総合評価:759/評価:7.48/連載:41話/更新日時:2026年06月21日(日) 05:24 小説情報

私は1人で生きていける(作者:ふぁ!?)(原作:超かぐや姫!)

どっからともなく生えてきた彩葉の双子の妹が主役です。▼5月16日 7話に修正を入れました。


総合評価:1416/評価:8.37/連載:8話/更新日時:2026年05月23日(土) 07:00 小説情報

ここだけ病弱コハル(作者:匿名さん)(原作:ブルーアーカイブ)

──この世に、赦されない罪なんてないの。▼そう言って笑った彼女の姿が、今も私の脳裏に焼き付いている。▼これは、本来の歴史より虚弱に生まれた小女の、儚き青春のアーカイブ。▼興奮しただけで熱を出す……どころか心臓発作を起こすほどにか弱い、下江コハルという小女の記録である。▼某所の片隅にて連載していた、『ここだけ病弱コハル』という作品の移転版です。私は向こうのスレ…


総合評価:3123/評価:8.96/連載:51話/更新日時:2026年02月21日(土) 09:56 小説情報

ソシャゲの序盤で死ぬヒロインにTS転生したけど、とりあえず主人公くんをいじりたい(作者:あまぐりムリーパー)(オリジナル現代/ノンジャンル)

 明上ユーリは転生者。ソーシャルゲームであるラスト・インヘリタンス――通称ランヘリの世界にTS転生してしまった。▼ ランヘリでの役割は、序盤で死ぬタイプのヒロイン。そんな立場になったんだからどうしよう……とかではなく。▼ そんなことよりも、主人公くんをいじり倒したい!!!▼※カクヨム、小説家になろうにも投稿始めました▼一章完結済み▼二章完結済み


総合評価:4739/評価:8.71/完結:59話/更新日時:2026年05月18日(月) 19:03 小説情報


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