わたし、壊れてるらしいです
王都の空は、高い。
馬車の幌をめくって見上げた空が、どこまでも続いていた。
雲が薄く伸びて、風に千切られながら東へ流れていく。
ヴェルダの山の上で見た空とは違う。
あっちの空は狭かった。
山と森に切り取られて、覗き穴みたいに丸く見えるだけの空。
まあ、収容所の天井よりはずっといい。
馬車が石畳の上で跳ねて、わたしの体が揺れた。
荷台に敷かれた藁の上で尻が滑る。
隣に座っていた商人のおじさんが「もうすぐ王都だよ」と言ってくれたのは、もう一刻も前のことだ。
もうすぐ、の基準が人によって違うのは、どこの国でも同じらしい。
幌の隙間から、石造りの建物が見え始めた。
二階建て、三階建て。屋根に赤い瓦を載せた家が、通りの両側にぎっしり並んでいる。
道を歩く人の数が増えてきた。
荷車を引く男、籠を抱えた女、走り回る子供。
誰も武装していない。
腰に剣を帯びているのは、交差点に立つ衛兵くらいのものだ。
当たり前だ。
ここは王都で、戦争は終わっている。
わたしは幌を戻して、膝の上に置いた包みを確認した。
着替えが二組と、審問官からもらった入学許可証。
あの人の目を覚えている。冷たくて、まっすぐで、わたしを見ているのにわたしを見ていなかった。何か別のものを計っている目だった。
まあ、あの目のおかげでここにいるんだから、感謝すべきなのかもしれない。
それだけ。
荷物が少ないのは慣れている。
前線では、自分の体重の半分以上の装備を背負って走ったこともあったけど、今のわたしの全財産はこの包み一つだ。
身軽でいい。
逃げるときに楽だから。
いや、逃げる予定はないんだった。
幌の外で、子供の笑い声がした。
石畳の上を走る足音が、かたかたと軽い。
わたしは包みの紐を結び直しながら、その足音を聞いていた。
子供が走り回れる街だ。
ヴェルダの村では、子供は走り回る前に隠れ方を覚えた。
砲撃が来たら伏せろ。金属音が聞こえたら建物に入れ。
ここの子供たちは、そんなこと知らなくていいんだろう。
いいことだ。
知らなくていいことは、知らないほうがいい。
馬車が速度を落とした。
前方に大きな門が見える。
商人のおじさんが荷台の奥から身を乗り出して、「ここだよ、王立学院」と指さした。
「ありがとうございます、おじさん。助かりました」
わたしは荷台から飛び降りて、商人のおじさんに頭を下げた。
王都までの乗り合い馬車の代金は、審問官が払ってくれていた。
道中、おじさんはわたしの出身を聞かなかった。
聞かない優しさなのか、興味がないだけなのかはわからない。
どちらでもありがたかった。
おじさんは「がんばれよ」と手を振って、馬車を走らせていった。
さて。
門の前に立つ。
白い石でできた門が、わたしを見下ろしている。
高さは、そうだな、見張り塔の半分くらいか。
左右に太い柱が立っていて、柱の上に翼を広げた鷲の彫刻が載っていた。
エルドレア王国の紋章。
この紋章を最後に見たのは、降伏の日だった。
白旗の横に、この鷲が翻っていた。
わたしたちの小隊長が剣を地面に置いて、膝をついた。
その背中を、わたしは後ろから見ていた。
今日は白旗じゃなくて、入学許可証を持って、この門をくぐる。
面白いものだ。
門に近づくと、幅が五人並んで通れるくらいあることがわかった。
門の向こうに、芝生の広場と、その奥に石造りの大きな建物が見えた。
まあ、牢屋よりは広いかな。
門の脇に詰所があって、衛兵が二人立っていた。
わたしは入学許可証を取り出して差し出す。
衛兵がちらりと許可証を見て、ちらりとわたしを見た。
視線が一瞬、わたしの髪の色に止まる。
亜麻色。ヴェルダの北方に多い髪の色だ。
でも何も言わず、「中へどうぞ」と門を開けてくれた。
衛兵の右腰に剣。左腰に短剣。防具は革鎧の上に胸甲。
装備の確認は、目が勝手にやっていた。
門をくぐる。
足元が石畳から、手入れされた砂利道に変わった。
砂利を踏む音が、じゃり、と小さく鳴る。
左右に植え込み。白い花が咲いている。
名前は知らない。
花の名前なんて、覚える機会がなかった。
「これは何の花?」と聞ける相手は、たいてい先に死んだ。
砂利道の先に、本館の建物が構えている。
三階建ての石造り。窓が規則正しく並んでいて、屋根の上に時計塔がある。
時計塔の針は、午前の九時を少し過ぎたところを指していた。
入学式は十時からだと、許可証に書いてあった。
一時間の余裕がある。
いい。
余裕があるのは、いいことだ。
余裕がないと、死ぬ。
いや、入学式に遅刻しても死なないか。たぶん。
「あの、新入生の方ですか?」
声をかけられて振り向くと、若い女性が立っていた。
二十代半ばくらい。薄い茶色の髪をきっちり結い上げて、胸元に学院の紋章が入った制服を着ている。
教員だ、とわたしは判断した。
右利き。腰に武器なし。体格は細身で、戦闘訓練は受けていない。魔法の杖も持っていない。
事務か、教務の担当だろう。
「はい。今日入学の、リーネ・カルヴァスです」
わたしはできるだけ明るく笑って、許可証を見せた。
「まあ、ヴェルダ公国からの。お待ちしていましたよ」
教員の女性は柔らかく笑った。
嫌な顔はしない。
「融和政策」の一環で受け入れる生徒だと、事前に知らされているのだろう。
「融和」。
いい言葉だ。
わたしたちの国を踏み潰しておいて、手を差し伸べるふりをすることを、この国ではそう呼ぶ。
まあ、差し伸べてもらえるだけありがたい。
踏み潰されたまま放っておかれるよりは、ずっといい。
「案内しますね。まず寮にお荷物を置いて、制服に着替えてから入学式に出ていただきます」
「はい、お願いします」
教員の後について歩く。
砂利道を進んで、本館の脇を抜け、渡り廊下を通って奥の建物へ。
歩きながら、わたしは周囲を見ていた。
本館の窓の位置。渡り廊下の柱の間隔。建物と建物の隙間の幅。
どこから出られるか。どこに隠れられるか。どこが死角になるか。
北側の建物の裏手に、低い石塀。あれは越えられる。東の木立は身を隠すのに使える。
癖だ。
新しい場所に来たら、まず地形を把握する。
それは兵士として最初に叩き込まれたことだった。
前線に出た初日、隊長に言われた。「地形を見ろ。地形がお前を殺すか、お前を生かす」
あれから三年経って、今でも最初にやることは変わらない。
渡り廊下の途中で、教員が振り返って言った。
「寮は本館の東側にあります。女子寮と男子寮は別棟で、食堂は本館の一階です。大浴場もありますよ」
「へえ、大浴場。すごい」
「ふふ、喜んでもらえてよかった。この学院は生活環境に力を入れていますから」
大浴場か。
最後にまともな風呂に入ったのは、いつだったかな。
収容所では桶一杯の水で体を拭くだけだったし、前線では川の水を浴びるくらいしかできなかった。
真冬に凍りかけの川に入ったときは、さすがに死ぬかと思った。
死ななかったけど。
「あの」
わたしは歩きながら聞いた。
「寮は安全ですか?」
教員が少し不思議そうな顔をして、笑った。
「もちろんですよ。王立学院ですからね。衛兵も常駐していますし、夜間は門も閉まります」
「そうですか。よかった」
わたしも笑った。
教員の言う「安全」と、わたしの言う「安全」は、たぶん違う。
まあ、いいか。
学院なんだから、そういうのはないんだろう。
たぶん。
女子寮は、想像していたよりずっと綺麗な建物だった。
二階建ての石造りで、壁が白く塗られている。
窓枠に花が飾ってある。
入り口の扉は木製で、取っ手が真鍮だった。
真鍮が磨かれて光っている。
こんなところにまで手をかけるのか、と少し驚いた。
教員に案内されて、二階の部屋に入る。
二人部屋らしい。
木のベッドが二つ、机が二つ、小さな衣装棚が一つ。
窓からは中庭が見える。
窓の高さは地面から四メートルほど。
飛び降りても足首をやる程度で済む高さだ。
別に飛び降りる予定はないけど。
扉の蝶番は内側。開く方向は手前引き。
鍵はかんぬき式。内側からのみ施錠可能。
つまり外から鍵を壊されたら終わりだが、まあ、ここは収容所じゃない。
「ルームメイトは午後に到着する予定です。制服はベッドの上に置いてありますから、着替えたら本館の講堂へ来てくださいね」
「わかりました。ありがとうございます」
教員が出ていって、部屋に一人になった。
静かだ。
窓の外から鳥の声が聞こえる。
風が木の葉を揺らす音。
遠くで誰かが笑っている声。
静かで、穏やかで、何の脅威もない。
いい部屋だ。
わたしはベッドに腰を下ろして、置いてあった制服を手に取った。
濃い紺色の上着に、同じ色のスカート。白いブラウス。
生地がしっかりしていて、手触りがいい。
軍服より柔らかい。
当たり前だけど。
着替える。
ブラウスに袖を通して、ボタンを留めていく。
指が少しもたつく。
ボタンなんて久しぶりだ。
軍服は紐で締めるだけだったし、収容所では着たきりだった。
三つ目のボタンを留めるころには慣れてきた。
こういう細かい動作は、指が覚えてくれる。
剣の握り方と同じだ。
全然同じじゃないけど。
上着を羽織る。
襟を立てて、鏡を見る。
小さな鏡が衣装棚の扉の内側についていた。
映っているのは、十六歳の女の子だ。
亜麻色の髪を無造作に束ねて、明るい緑色の目をした、やや小柄な女の子。
濃紺の制服はちょっと大きいけど、まあ、なんとか様になっている。
悪くない。
普通の学生に見える。
見えるといいな。
襟の内側に、指を滑らせる。
左の鎖骨から首にかけて、皮膚がひきつれている。
火傷の跡だ。
古い傷で、もう痛みはない。
ただ、肌の色が周囲と違うから、見れば気づく。
襟を正す。
制服の襟は高さがあるから、ちょうど隠れた。
よかった。
初日から聞かれたくない。
何の傷かとか、いつ負ったのかとか。
答えるのは面倒くさいし、聞いた方が困る答えしか出てこない。
——焼かれた陣地の中で、崩れた柱の下敷きになりかけた。
引きずり出してくれたのは副隊長だった。
副隊長は翌月に死んだ。
そんな話、誰が聞きたいんだ。
鏡の中のわたしが笑った。
うん、笑顔はちゃんとできる。
大丈夫、大丈夫。
両手を見る。
指の関節が硬く、ところどころ皮膚が厚くなっている。
剣を握り続けた手だ。
これは隠しようがないけど、まあ、聞かれたら「子供の頃から剣術やってたんです」とでも言えばいい。
嘘ではない。
子供の頃から剣で人を斬っていたのは事実だし。
それを「剣術」と呼んでいいかは、わからないけど。
わたしは制服の裾を整えて、部屋を出た。
本館の講堂は、広かった。
天井が高くて、壁に大きな窓が並んでいる。
窓が大きすぎて、壁より光のほうが多い講堂だった。
正面に壇上があり、椅子が何列も並べられている。
新入生がぞろぞろと集まり始めていた。
わたしは講堂の入り口に立って、中を見渡した。
人数は、六十人くらいか。
男女半々。年齢は十五から十七くらいが多い。
ほとんどが貴族の子弟だろう。身なりが違う。
髪を丁寧に整えて、肌が白くて、手が柔らかそうだ。
隣の生徒と笑いながら話している。
試験の話、実家の話、昨日の夕食の話。
わたしの手とは違う。
わたしの昨日とも違う。
わたしは講堂の中に入って、席を選んだ。
後方の、壁際の席。
出口に近くて、背後に壁がある。
講堂の正面入り口と、壇上脇の通用口と、左手奥の非常口。出口は三つ。
座って、周囲を見る。
右隣の席に、女の子が座った。
小さくて、肩が強張っていて、膝の上に置いた手が震えていた。
緊張しているんだろう。
「大丈夫だよ、ここいい場所だよ。屋根もあるし」
わたしはできるだけ柔らかく笑って、声をかけた。
女の子がこっちを見た。
「屋根……?」
「うん。広いし、きれいだし。いい場所だなって」
女の子が不思議そうな顔をした。何か変なこと言ったかな。
まあいいか。
右隣は空席。左隣には、栗色の長い髪をした女の子が座っていた。
落ち着いた雰囲気の子だ。灰色がかった青い目が、どこか涼しげに見える。
前の席には、赤い髪を短く刈り込んだ女の子。背筋がぴんと伸びていて、座り方に規律がある。軍人か騎士の家の子だろう。
斜め前に、黒髪を短く刈り上げた大柄な男。体格がいい。肩幅が広くて、首が太い。座っていても威圧感がある。
三列前に、背の高い男。こちらは細身だが、姿勢がよくて肩の力が抜けている。喧嘩慣れしていない体つきだ。
一通り確認を終えて、わたしは椅子の背もたれに体を預けた。
何の確認だ?
まあ、いいか。
新しい場所に入ったら、まず誰が脅威になりうるかを見る。
大柄な人間、筋肉のつき方、手の位置、目の動き。
呼吸と同じくらい自然なことだ。
ここにいる生徒たちは、誰も武装していない。
剣も、短剣も、暗器も持っていない。
手が柔らかくて、目が穏やかで、殺気がない。
当たり前だ。
ここは学校で、この子たちは学生だ。
わたしも、今日から学生。
ちょっとおかしくて、口元が緩んだ。
壇上に教員が上がってきた。
白髪交じりの初老の男性で、学院長だと名乗った。
入学の祝辞を述べている。
「——諸君は、エルドレア王国の未来を担う人材です。剣と魔法の研鑽に励み、騎士として、魔法師として、文官として、この国の礎となることを期待します」
立派な話だ。
わたしは姿勢を正して聞いていた。
こういう式典で背筋を伸ばすのは得意だ。
軍では毎朝の点呼で姿勢を叩き込まれた。
崩したら殴られた。
殴られるのは大したことなかったけど、殴られると朝食が遅れるから、自然と姿勢はよくなった。
学院長の話は長かった。
王国の歴史がどうとか、伝統がどうとか。
途中で何人かの生徒が姿勢を崩し始めた。
前の席の赤髪の女の子は崩さない。やっぱり軍人の家系だろう。
わたしも崩さない。
長い話を聞きながら動かずにいるのは、哨戒任務に比べたら楽なものだ。
あっちは寒いし、眠いし、いつ撃たれるかわからないし。
ここは暖かいし、椅子があるし、誰も撃ってこない。
最高だ。
後方の扉が開いて、遅刻した生徒が滑り込んできた。
扉を勢いよく閉めた。
重い木の扉が石の枠にぶつかって、講堂に低い音が響いた。
わたしの右手が腰に動いた。
何もない腰に。
すぐに戻した。
一秒もかからなかった。
わたしは何事もなかったように前を向いた。
左隣の栗色の髪の子が、こちらを見た気がした。
気のせいだろう。
学院長の話が終わって、教務主任という人が実務的な説明を始めた。
時間割のこと、寮の規則、食堂の利用時間。
わたしは大事そうなことだけ頭に入れていった。
食堂は朝六時から夜八時。
門限は夜九時。
消灯は十時。
門限と消灯がある。
そうか、ここでは夜中に出歩くのは禁止なんだ。
前線では夜中の移動が基本だったけど、ここは違う。
夜は寝る時間だ。
普通は。
説明が終わると、クラス分けが発表された。
わたしの名前が呼ばれる。
「リーネ・カルヴァス。一年A組」
立ち上がって、小さく会釈する。
周囲の視線が集まった。
ひそひそとした声が、あちこちで上がる。
「ヴェルダ」「属国」「融和政策の」。
言葉の断片が耳に入ってくる。
まあ、そうだろうな。
ヴェルダ公国出身の生徒がここにいるのは、珍しいことだ。
一年前まで敵国だった国の人間。
注目されないほうがおかしい。
でも、わたしは気にしない。
気にしても仕方ないし、注目されること自体は危険じゃない。
危険なのは、注目されずに近づかれることだ。
わたしは笑顔で席に戻った。
左隣の栗色の髪の女の子が、ちらりとこちらを見た。
嫌悪でも好奇心でもない、静かな目だった。
目が合うと、小さく頷いてくれた。
わたしも頷き返した。
悪い子じゃなさそうだ。
明日、同じ教室で顔を合わせるかもしれない。
入学式が終わって、生徒がぞろぞろと講堂を出ていく。
わたしも立ち上がって、出口に向かった。
壁際の席に座っていたおかげで、出口には近い。
人の流れに逆らわず、でも誰にも背後を取られない位置を保ちながら、廊下に出る。
廊下は広くて、天井が高い。
石の壁に、等間隔で松明の受け具がついている。
今は昼間だから火は入っていない。
夜になったら、ここに火が灯るんだろう。
火か。
一瞬、鼻の奥に何かの匂いが掠めた気がした。
焦げた土の匂い。
でもすぐに消えた。
気のせいだ。
石と、乾いた空気の匂いしかしない。
「あの」
声をかけられて足を止めた。
さっき案内してくれた教員の女性だ。
「リーネさん、教室の場所はわかりますか? 明日から授業ですから、今日のうちに確認しておくといいですよ」
「ありがとうございます。えっと、一年A組の教室は?」
「本館の二階、東の廊下の突き当たりです。階段を上がって右に進んでくださいね」
「わかりました。見に行ってきます」
教員が去っていく。
わたしは言われた通り、階段を上がった。
二階の廊下を歩く。
窓から中庭が見下ろせた。
花壇がいくつかあって、色とりどりの花が咲いている。
黄色い花と、赤い花と、白い花。
名前はやっぱりわからない。
今度誰かに聞いてみよう。
花壇の向こうに訓練場が見えた。
広い土の地面に、木製の的が並んでいる。
弓か、魔法の訓練用だろう。
地面の土がところどころ焦げている。火魔法の痕だ。
焦げた円の中心が黒く変色していて、周囲の草が枯れている。
さっき廊下で嗅いだ匂いは、ここから風に乗って届いていたのかもしれない。
窓際に立っていると、微かに土の焦げた匂いが鼻をかすめた。
喉の奥が一瞬、きゅっと詰まった。
わたしは窓から離れて、教室の方へ歩いた。
教室の扉に「一年A組」と書かれた札が掛かっていた。
扉を開けて、中を覗く。
木の机と椅子が並んだ、普通の教室だ。
黒板がある。窓が三つ。
後方の扉と、前方の扉。出入り口が二つ。
いいな。
出口が二つあるのは、いい。
片方が塞がれても、もう片方から出られる。
教室を出て、一階に戻った。
食堂を覗く。広い。出入り口は正面の大扉と、厨房脇の通用口。
通用口から外に出られるか確認したかったけど、さすがに初日から厨房に入り込むのはまずいだろう。
やめておく。
廊下の窓から外を眺めた。
王都の街並みが見える。
赤い瓦屋根が連なって、その向こうに城壁の一部が見えた。
空は相変わらず高くて、雲がゆっくり流れている。
ここが、わたしの新しい場所か。
一年前のわたしは、塹壕の中で泥水を啜っていた。
半年前のわたしは、収容所の石壁を数えていた。
今のわたしは、窓辺に立って花壇を見下ろしている。
人生、何が起きるかわからないものだ。
「よし」
小さく声に出して、わたしは背筋を伸ばした。
明日から授業が始まる。
剣術と魔法と、座学の勉強。
学生をやるのは初めてだ。
ヴェルダでは学校に通う前に徴兵されたから。
十三歳で剣を渡されて、「これで生き残れ」と言われた。
教科書の代わりに剣。机の代わりに塹壕。同級生の代わりに、小隊の仲間。
その仲間は、ほとんど死んだ。
でも、まあ、なんとかなるだろう。
戦場でなんとかなったんだから、学校くらいなんとかなる。
たぶん。
寮に戻って、荷物を片付けた。
片付けるといっても、着替えを衣装棚に入れるだけだ。
一分で終わった。
衣装棚の半分はルームメイトの分だろうから、右半分だけ使う。
引き出しに着替えを入れて、入学許可証は机の上に置いた。
ふと、裏面に何か書いてあるのに気づいた。
審問官の筆跡だ。小さくて、角張った字。
「心的外傷の兆候あり。経過観察を要す」
心的外傷?
わたしが?
怪我なら鎖骨の火傷くらいだけど、あれはもう痛くない。心が怪我するって、どういうこと。
まあいいか。よくわからないけど、たぶん大したことじゃない。
部屋を見回す。
もう一つのベッドはまだ空だ。
ルームメイトは午後に来ると言っていた。
どんな子だろう。
怖がりじゃないといいな。
夜中にわたしが跳ね起きても、驚かないでくれる子がいい。
なんでそんなことを心配しているのか、自分でもわからなかったけど。
わたしは靴を脱いで、ベッドの上に足を上げた。
柔らかい。
マットレスが体を受け止める感覚が、なんだか不思議だった。
柔らかいベッドで寝るのは、三年ぶりくらいだ。
窓の外で、鳥が鳴いている。
風が吹いて、白い花の甘い匂いが入ってくる。
ああ、いい場所だな。
わたしは目を閉じた。
少しだけ休もう。
入学式で緊張していたから、体が強張っている。
——体が強張っているのは、入学式の緊張のせいだと、わたしは思っていた。
目を閉じると、暗い。
暗くて、静かだ。
鳥の声が遠くなる。
風の音も遠くなる。
静かすぎる。
静寂の中に、何かが潜んでいるような気がする。
見えない何かが、暗闇の向こうで息を殺して、こちらを見ている。
体の奥のほうで、何かがぎゅっと縮んだ。
目を開ける。
白い天井が見えた。
鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らす音に、甘い花の匂いが混じっていた。
何もない。
誰もいない。
安全だ。
わたしは息を吐いて、起き上がった。
「寝るのは夜でいいか」と独り言を呟いて、靴を履き直す。
立ち上がったとき、自分の手を見た。
指が白くなるほど、シーツを握りしめていた跡が残っていた。
いつの間に。
まあ、寝相が悪いんだろう。
昔からそうだったし。
わたしはシーツの皺を伸ばして、部屋を出た。
夕方、食堂で一人で夕食を食べた。
パンと、豆の煮込みと、焼いた肉。
量が多い。
これが毎日出るのか。
わたしはパンをちぎって口に運んだ。
柔らかくて、温かい。
小麦の匂いがする。
食堂は半分くらい埋まっていた。
入学式を終えた新入生と、すでに学院にいる上級生。
あちこちでグループができていて、賑やかだ。
気がつくと、講堂と同じような場所に座っていた。
壁際で、出口の近く。
食事を済ませるのに、五分かからなかった。
食べられるときに、できるだけ速く食べる。
それが普通だと思っていた。
周りを見ると、他の生徒たちはゆっくり食べている。
おしゃべりしながら、笑いながら、一口ずつ味わいながら。
ああ、そうか。
ここでは、急がなくていいんだ。
誰も食べ物を取らないし、砲撃も来ない。
次からは、もう少しゆっくり食べてみよう。
できるかどうかわからないけど。
食器を返却口に持っていく。
隣に立った上級生の女の子が、わたしの空になった皿を見て、目を丸くした。
「もう食べ終わったの? 早いね」
「あはは、早食いなんです。特技みたいなもので」
「すごい特技だね」
女の子が笑った。わたしも笑った。
特技というか、生存技術なんだけど。
まあ、伝わらなくていい。
寮に戻ると、廊下の窓から夕焼けが見えた。
空が赤とオレンジに染まっている。
綺麗だな、と思った。
前は、夕焼けを見たら「あと何時間で暗くなる」と計算していた。
暗くなれば夜襲の時間だ。準備しなくてはいけない。武器の点検、見張りの交代、退路の最終確認。
今は、ただ綺麗だと思える。
それだけで、ここに来た価値はある気がした。
部屋に入ると、もう一つのベッドに荷物が置いてあった。
ルームメイトが到着したらしい。
本人はいない。食堂にでも行っているのだろう。
明日、顔を合わせたら挨拶しよう。
笑顔で、明るく。
「よろしくね」って。
窓の外では、最後の陽が沈みかけている。
部屋が暗くなっていく。
明日から、授業が始まる。
教科書を読んで、剣を振って、魔法を学ぶ。
友達を作って、ごはんを食べて、夜に眠る。
普通の十六歳がやることを、わたしもやる。
できるかな。
いや、できる。
わたしは生き残ったんだ。
生き残ることに比べたら、学生をやるくらい、どうってことない。
「死なない程度に」が基準になっている時点で、何かがおかしいのかもしれないけど。
わたしにはよくわからない。
窓を閉めようとして、ふと手を止めた。
夜風が入ってくる。
涼しくて、草の匂いがして、どこか遠くで虫が鳴いている。
開けておこう。
閉め切ると、息が詰まる。
なぜ息が詰まるのかは、考えないことにした。
ベッドに横になる。
天井を見る。
白い天井。ひびもシミもない。
目を閉じる。
暗い。
静かだ。
明日が、楽しみだ。
でも、まあ、どっちでも同じだ。
笑っていれば、だいたいのことはなんとかなる。
今までも、ずっとそうだったから。
わたし、壊れてるらしいです。
たぶん、壊れてなんかいません。
普通に、ここで暮らしていきます。