わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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朝の廊下を歩いていたら、ミラが後ろから走ってきた。

 

「リーネちゃん、今日の午後、魔法実習だよ。楽しみ?」

 

「楽しみっていうか、ちょっと心配かな。正規の魔法教育って受けたことないから」

 

「え、そうなの?」

 

「うん。我流っていうか、見よう見まねっていうか」

 

ミラが目を丸くした。

 

「わたしも詠唱苦手だよ。途中で舌もつれるの。一緒に頑張ろう」

 

ミラの「苦手」とわたしの「やったことない」は、たぶんだいぶ違う。

でもミラが並べて言ってくれるのは、なんだか気が楽だ。

 

教室に入ると、いくつかの視線がちらりとこちらに来た。

昨日の模擬戦のことが、まだ話題になっているらしい。

 

席に着くと、ルチアが先に座っていた。

教科書を開いている。午前の座学の予習だ。

 

「おはよう、ルチア」

 

「おはよう、リーネ」

 

笑ってくれた。柔らかい笑顔。

 

午前の座学は歴史と魔法理論だった。

歴史はドルフ先生の授業で、年号がたくさん出てきた。眠い。隣でミラが必死にノートを取っている。わたしは年号を三つ覚えたあたりで頭が白くなった。

 

魔法理論はヘルミーネ先生の座学で、属性と詠唱の基礎理論。属性は六つあるらしい。風、火、水、土、光、闇。わたしは風しか知らなかった。属性が六つあることすら、ここに来るまで知らなかった。

 

ヘルミーネ先生は穏やかな声で話す。黒板に図を描きながら、詠唱と印の関係を説明している。詠唱が方向と性質を決めて、印が出力と範囲を調整する。

 

「熟練者は詠唱を省略できます。ですが省略すると、その分だけ制御が犠牲になる。詠唱の語数と制御の精度は比例すると考えてください」

 

比例する。

わたしは二語か三語で撃っている。

教科書には十語の基礎詠唱が載っている。

つまりわたしの制御は、教科書の三分の一以下ということだ。

 

まあ、前線では制御なんて求められなかった。当たればいい。倒せればいい。味方を巻き込まなければ、たぶん大丈夫だった。巻き込みそうになったことは、何度かある。

 

 

 

午後。訓練場。

 

午前と同じ広い訓練場だけど、今日は的が並んでいた。

木の板に布を巻いた的が、等間隔で二十個ほど立っている。

奥の壁は分厚い石で、魔法がそれたときに建物を壊さないようになっている。

 

ヘルミーネ先生が訓練場の前に立った。

 

午前の座学で見た人と同じ人だけど、訓練場では少し雰囲気が違う。白衣の裾を後ろで結んで動きやすくしている。眼鏡を押さえながら生徒たちを見回した。

 

「午後は実技です。今日は基礎詠唱の実践。自分の属性を的に向かって飛ばしてみましょう。教科書の十語詠唱を正確に唱えること。印の形も教科書通りに。出力は最小で構いません」

 

最小。

出力を最小にする。

そういう概念があることは、午前の座学で聞いた。聞いたけど、実感がない。

 

「属性がまだ判明していない方はいますか?」

 

何人かが手を挙げた。ヘルミーネ先生が一人ずつ、属性の判定をしていく。手のひらに淡い光をかざして、反応を見る。

風、火、水、土。一人ずつ属性が告げられるたびに、周りから小さな声が上がる。

 

「カルヴァスさんは?」

 

「風です。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「えっと、前に使ったことがあるので、風だと思います」

 

ヘルミーネ先生が少し首を傾げた。

手のひらの光をわたしに向けた。光がわたしの手元で揺れて、風に巻かれるように散った。

 

「確かに風ね。しっかり反応してる」

 

属性の判定が終わると、実習が始まった。

 

各自が的の前に立つ。

ヘルミーネ先生が前に出て、手本を見せた。

 

十語の詠唱。一語ずつ、はっきりと唱える。

指を組む。教科書の図に描かれていた印の形。右手の人差し指と中指を立てて、左手の掌で包む。

 

風が起きた。

穏やかな、でも確かな風。的に向かって吹いて、布がはためいた。的は揺れた。倒れてはいない。

ちょうどいい力だ。布を揺らすだけの風。

 

「このくらいの出力が最小の目安です。的を倒す必要はありません。まずは風を起こすことと、方向を狙った場所に合わせることに集中してください」

 

生徒たちが一人ずつ試し始めた。

 

隣でミラが詠唱している。

十語。一語ずつ丁寧に。でも七語目で舌がもつれた。

 

「あ、違……えっと……」

 

詠唱が途切れた。印も崩れた。

ミラが「ああ」と肩を落とした。

 

「途中でわかんなくなっちゃった」

 

「七語目、『(つな)げ』だよ」

 

「そう、それ。繋げ。つなげ、つなげ……」

 

ミラがもう一度最初から唱え始めた。今度は八語目まで行けた。でもそこで指の形がわからなくなって、止まった。

 

「ここ、どうなってるの」

 

二人で教科書を覗き込んだ。図を見ながらミラが手を直す。わたしも自分の手を図と見比べたけど、自分のも全然違う。

 

「リーネちゃんは? やらないの?」

 

「うん。やるよ」

 

的の前に立った。

教科書を開いた。十語の詠唱が載っている。

 

読んだ。

長い。

 

わたしが知っている詠唱は二語だ。前線で、味方の魔法使いが使っていたのを聞いて覚えた。

二語で風の刃を撃つ。それだけだ。

十語のうち、わたしが使っているのは最後の二語だけだった。残りの八語は、方向と範囲と出力を指定するための言葉らしい。

 

最小出力で、方向を合わせて、範囲を絞る。

八語分の仕事を、わたしは全部すっ飛ばしている。

 

まあ、やってみよう。

 

二語で撃った。

 

風が出た。

 

的の布が裂けて、木の板ごと後ろに吹っ飛んだ。隣の的まで揺れている。

奥の石壁に斜めの傷が走って、白い石粉が煙みたいに舞い上がった。

 

訓練場が静まった。

いつもの笑顔が、反射で顔に出た。

周りの顔を見る余裕がなかった。

 

「うわ、壁切れてない?」

 

誰かが声を上げた。驚きの声。怖がっている声じゃなかった。

 

「すご……石の壁だよね、あれ」

 

何人かが壁の傷を見に行っている。指で溝をなぞっている子もいる。

 

的が一つ、消えていた。正確には消えたんじゃなくて、破片になって散らばっている。布の切れ端が地面に落ちている。木の板は真ん中から割れて、両側に転がっている。

その向こうの石壁に、細い溝が斜めに走っていた。深さは指一本分くらい。石を切っている。

 

やりすぎた。

的を揺らすだけでよかったのに。

 

ヘルミーネ先生が歩いてきた。

急いではいない。でも速い。

的の残骸と壁の傷を交互に見て、それからわたしの前に立った。

 

眼鏡の奥の目がわたしを見ている。

怒っている目じゃなかった。驚いてもいない。

何かを計算している目だった。

 

「今の詠唱、何語だった?」

 

「二語です」

 

「印は?」

 

右手を見せた。わたしの印の形は、教科書の図とは違う。人差し指と中指を立てるところは同じだけど、親指の位置が違う。薬指を曲げる角度も違う。教科書を見て覚えたわけじゃないから、そもそも「正しい形」を知らない。

 

ヘルミーネ先生がわたしの手を取った。

冷たい指だ。細い。研究者の手。

わたしの指の位置を確かめるように、軽く触れている。

 

「どこで学んだの?」

 

「戦場で、見よう見まねで」

 

ヘルミーネ先生の手が止まった。一瞬だけ。すぐに動いた。

 

「もう少し正確に言うと?」

 

「味方の魔法使いが死んだので、その人がやっていたのを真似しました」

 

訓練場が、また静かになった。

さっきの石壁の傷のときとは違う静けさだ。

 

わたしは何かまずいことを言ったかな、と思った。

事実をそのまま言っただけなんだけど。

前線では魔法使いが足りなかった。わたしの小隊には正規の魔法使いが一人いたけど、途中で死んだ。死ぬ前に、その人が詠唱するのを何度か見ていた。聞いていた。二語だけ覚えた。それを撃った。撃てた。誰に教わったわけでもない。ただ、生き残るために必要だったから。

 

ヘルミーネ先生がわたしの手を離した。

壁の傷をもう一度見た。

的の残骸を見た。

わたしの手を見た。

 

「詠唱をここまで省略して、これだけの威力が出るのは、素質がある証拠よ」

 

否定しなかった。

「間違っている」とも「駄目だ」とも言わなかった。

 

「ただ、制御が抜けている」

 

ヘルミーネ先生が壁の傷を指した。

 

「的は当たったけれど、その横の壁まで切れている。風刃の範囲が広すぎるの。今日はたまたま隣に誰もいなかったけど、角度が少しずれたら隣の的の前にいる人に当たるわ」

 

隣の的との距離は三歩くらいだ。誰かが立っていたら、当たっていた。

 

ヘルミーネ先生が生徒たち全体に向き直った。

 

「二語の詠唱で石壁を切る威力が出せるのは、素質がある証拠よ。ただし制御がないから範囲が広い。これから基礎を覚えれば、狙ったところにだけ飛ぶようになるわ」

 

わたしの方を見て、少し笑った。

 

「ね、カルヴァスさん」

 

「はい。がんばります」

 

ヘルミーネ先生がわたしに向き直った。

 

「全力で撃つか、撃たないかしかないでしょう?」

 

「え、魔法ってそういうものじゃないんですか」

 

本気で聞いた。

魔法は撃つか撃たないかだと思っていた。必要なときに全力で撃つ。必要ないときは撃たない。その二択。

出力を調整するという発想が、なかった。

 

ヘルミーネ先生が少し考えるように顎に手を当てた。

 

「たとえば、ろうそくの火を灯すのに、焚き火は要らないでしょう?」

 

「はい」

 

「同じように、風を少しだけ起こすこともできるの。布を揺らすだけの風。ほこりを払うだけの風。あなたは焚き火しか知らないから、全部焚き火で解決しようとしている」

 

焚き火しか知らない。

 

「全力じゃないと敵を倒せないので」

 

口にしてから、また教室が静かになったのに気づいた。

さっきの「味方の魔法使いが死んだ」のときと同じ質の静けさだ。

わたしは、ただ事実を言っているだけなのに。

 

ヘルミーネ先生が少し黙った。

眼鏡を押さえる仕草。それから、穏やかな声で言った。

 

「ここでは敵を倒す必要はないわ」

 

そうだった。

ここは訓練場で、的を壊す場所じゃない。

敵はいない。

風刃を撃つ必要はない。

布を揺らせばいい。

 

「もう一度やってみましょう。今度は五語で。教科書の一語目から五語目まで。残りの五語はまだいいわ」

 

教科書を見た。十語の詠唱のうち、最初の五語。

方向と範囲を指定する部分だ。

 

声に出して読んでみた。口に馴染まない。前線で使ったことのない言葉だ。

 

ヘルミーネ先生がわたしの印の形を見た。

わたしの手を取って、指の位置を少し動かした。

 

「親指をもう少し内側に。薬指は伸ばして。そう」

 

教科書通りの印の形に近づけた。

指が違和感を訴えている。この形で撃ったことがない。

 

「なるほど」

 

ヘルミーネ先生が呟いた。

わたしの指を見ている。

 

「あなたの印は自己流だけど、理にかなっている。親指の位置がずれているから風の軸が傾いて、だから壁にも飛ぶのね。薬指を曲げているから出力が絞れなくて、全開になる。指の一本一本が出力のスイッチだと思って」

 

指が出力のスイッチ。

考えたこともなかった。

指は剣を握るための道具で、印は「なんとなくこの形にすると風が出る」くらいの理解しかなかった。

 

五語。印を直して。

 

撃った。

 

風が出た。

さっきよりは弱い。でも的を吹き飛ばすくらいの力はある。

的が後ろに倒れた。

ただし隣の的も少し傾いた。

壁には当たっていない。さっきよりは、まし。

 

「まだ広いですね」

 

「焦らないで。出力を落とす練習は、明日からゆっくりやりましょう」

 

ヘルミーネ先生が的を元の位置に戻した。倒れただけで、壊れてはいない。さっきの的は粉々だったから、それだけでも進歩だ。

 

「カルヴァスさん。もう一つ聞いてもいい?」

 

「はい」

 

「その二語の詠唱、誰の真似をしたの? その魔法使いは、どういう人だった?」

 

少し考えた。

名前は覚えていない。小隊の中で唯一の正規教育を受けた魔法使いだった。

わたしより年上だったことは確かだ。背が高くて、声が低くて、詠唱が速かった。

 

「名前は……覚えてないです。詠唱が速い人でした。前線だと詠唱の隙を突かれて死ぬ魔法使いが多かったんですけど、その人は詠唱を短くして隙を減らしてた。だから長く生き残ってました」

 

「長く」

 

「はい。でも、最後は——どう死んだかは、よく覚えてないです。朝起きたらいなかったので」

 

ヘルミーネ先生が「そう」と短く言った。

それ以上聞かなかった。

 

「その人は、たぶん正規の詠唱を省略する技術を持っていたのね。本来十語で組む構成のうち、制御に必要な部分を削って、起動に必要な最低限の語だけを残した。熟練者の短縮詠唱よ。あなたはその省略済みの形だけを覚えたから、省略前の形を知らない」

 

「あ、なるほど。最初から短い版しか見てなかったんですね、わたし」

 

「そう。だから基礎が抜けている。あなたに足りないのは才能じゃなくて、手順よ」

 

才能じゃなくて手順。

あの人は十語を知った上で二語に縮めた。わたしは最初から二語しか知らない。

 

 

 

実習の残りの時間、ヘルミーネ先生は他の生徒を回りながら、時々わたしの方に戻ってきた。

 

ミラが隣で奮闘している。

十語の詠唱を最後まで唱えられるようになったけど、印の形が途中で崩れて、風が出ない。

 

「手がつりそう」

 

ミラの手は華奢で、指が細い。剣のタコもない。

わたしの手は節くれだっていて、指の関節が硬い。同じ印を組んでも、手の形がまるで違う。

 

ミラが三度目の挑戦で、ようやく風を出した。

微風だ。的の布がかすかに揺れた。

 

「あ、揺れた! リーネちゃん、揺れたよ!」

 

「揺れてる、揺れてる。すごいね」

 

ミラが飛び跳ねた。うれしそうだ。

十語を最後まで唱えて、印を崩さずに、風を的に当てた。ミラにとってはそれが全部だ。

 

「よし、もう一回やろう」

 

ミラが意気込んで構え直した。

今度は六語目でもつれた。

 

「あー! また舌が!」

 

「落ち着いて。ゆっくりでいいから」

 

わたしは二語で壁を切る。ミラは十語で布を揺らす。

どっちが魔法として正しいかと言われたら、たぶんミラの方だ。

 

少し離れたところで、別の生徒たちが実習している。火属性の子が小さな火の玉を出した。ルチアが水のかたまりを的に向けて飛ばしている。的には当たったけど、水が散って隣の的まで濡らしていた。

みんな、教科書通りにやっている。十語唱えて、印を組んで、出力を調整して。

普通は、こうやって学ぶものなんだ。

 

わたしの番がまた来た。

ヘルミーネ先生が戻ってきた。

 

「もう一度、五語で。さっきより出力を落としてみて。印の形は、さっき直したものを使って」

 

五語。印を組む。親指を内側、薬指を伸ばす。

違和感はまだある。指が覚えた形と違うから。

 

「撃つ前に、一つ意識してみて。風を起こすのではなくて、風を置くの。的に向かって、そっと風を置くような感覚」

 

置く。

風を置く。

前線では「叩きつける」しかなかった。風を刃にして、相手に叩きつける。それだけだ。

置く、という言葉を魔法に使うとは思わなかった。

 

五語を唱えた。

印を組んだ。

風が出た。

 

的の布が揺れた。的は倒れていない。布が揺れただけ。

壁には何も当たっていない。隣の的も動いていない。

 

ただし的の布に小さな切れ目が一つ入っていた。

風を「置く」つもりだったのに、少し切れた。刃が残っている。

 

ヘルミーネ先生が的の切れ目を見て、小さく笑った。

 

「随分良くなったわ。でもまだ少し切れてる」

 

「すみません、どうしても刃になっちゃうんです」

 

「全力で撃つことが体に染みついているのね。出力を落とすのは、筋肉を緩めるのに似ているわ。力を入れるより、抜く方が難しい」

 

力を抜く方が難しい。

確かにそうだ。

剣も同じだった。昨日の模擬戦で、追い討ちの構えを止めたとき、止めるのは振るより難しかった。体に入っている動きを止めるのは、動かすよりずっと難しい。

 

「明日からまた練習しましょう。焦らなくていいから」

 

ヘルミーネ先生はそう言って、次の生徒のところに歩いていった。

 

 

 

実習が終わった。

生徒たちが訓練場から出ていく。

 

片付けをしていたら、男子が二人、近づいてきた。

 

「なあ、さっきの二語詠唱、どうやってるの」

 

「え? ああ、最後の二語だけ唱えて撃ってるだけだよ」

 

「だけって……省略してあの威力出るのおかしくない?」

 

もう一人が「印の組み方が教科書と違ったよな。あれ自己流?」と聞いてきた。

 

「うん、自己流っていうか、見よう見まねっていうか」

 

「教えてよ。二語で撃てるようになりたい」

 

「いやあ、わたしのは制御できてないから真似しない方がいいよ。ヘルミーネ先生にも言われたし」

 

二人が残念そうな顔をして戻っていった。

前線では「教えてくれ」なんて聞く暇はなかった。見て、真似て、撃てなかったら次がない。ここでは聞いて、断られて、残念な顔をして帰っていく。

なんか、いいな。

 

村の学校で、年下の子に字の書き方を教えたことがあった。わたしの字は下手だったけど、その子はもっと下手で、二人で教科書を覗き込んで、同じ字を何度も書いた。

あの子の名前は覚えている。顔も覚えている。今どこにいるかは知らない。

 

ヘルミーネ先生が片付けをしているところに、呼び止められた。

 

「カルヴァスさん」

 

振り返った。

 

ヘルミーネ先生が壊れた的の残骸を片手に持っていた。わたしが最初に撃った的だ。木の板が真っ二つに割れている。

 

「あなたの魔法は間違っていないわ」

 

「え?」

 

「戦場で生き残るために必要なやり方だった。詠唱を短くして隙を減らす。出力を最大にして確実に倒す。それは、あなたがいた場所では正しい判断だった」

 

目が合った。

ヘルミーネ先生の目は穏やかだけど、はっきりしていた。同情でもなく、憐れみでもなく、事実を見ている目だった。

 

「でもここでは、もう少し選択肢を増やせる。十語の詠唱を覚えれば、出力を十段階で調整できるようになる。布を揺らすだけの風も、壁を切る風も、同じ手から出せるようになる。基礎からやり直しましょう。急がないで」

 

「はい」

 

頷いた。

何を言えばいいか少し迷って、結局「はい」しか出てこなかった。

でもこの「はい」は嘘じゃなかった。

 

ヘルミーネ先生が壊れた的の残骸を片付け台に置いた。

 

「的の弁償はしなくていいですか」

 

ヘルミーネ先生が少し笑った。

 

「訓練場の的は壊れるためにあるの。壁は困るけど」

 

「壁は気をつけます」

 

 

 

廊下に出ると、ミラが待っていた。

壁にもたれて、教科書を胸に抱えている。

 

「リーネちゃん、さっきの風すごかったね。壁切れてたよ」

 

「うん、やりすぎた」

 

「やりすぎって、あんなの初めて見たよ。壁って切れるんだ。石の壁が」

 

ミラの目が丸い。素直に感心している。

 

「魔法使いってかっこいいね」

 

「かっこよくはないよ。制御できてないだけだから」

 

「でもさっき男子に『教えて』って言われてたじゃん」

 

「聞かれても教えられないんだよね。自分でもなんで撃てるかわかんないし」

 

ミラが笑った。

 

「ミラも風出てたじゃん。布、揺れてたよ」

 

「揺れただけだよ! リーネちゃんは壁切ってたのに!」

 

「いや、あれはやりすぎなだけ。布を揺らすだけの風のほうが、ちゃんとした魔法だよ」

 

「え、そうなの?」

 

「うん。わたし、全力か撃たないかしかできないから。ちょうどいい力加減が出せない」

 

ミラが「うわ、なんか変な気分」と笑った。

 

「壁を切れるのに、布を揺らせないの?」

 

「揺らそうとすると切っちゃう」

 

「それは困るね」

 

二人で笑った。

廊下を歩く。ミラの歩幅は小さい。わたしの歩幅に合わせてくれている。

 

ミラが歩きながら教科書を開いた。

 

「ねえ、あの十語の詠唱、一緒に練習しない? わたし舌もつれるし、リーネちゃんは覚えてないし。ちょうどいいじゃん」

 

「いいね。やろう」

 

「じゃあ今夜、部屋で。言葉だけ覚えよう。印は組まなきゃ発動しないから、口で練習するぶんには大丈夫でしょ」

 

「うん。印を組んだら部屋が大変なことになるからね」

 

「リーネちゃんの場合は特にね」

 

「二人とも初心者ってこと? なんか心強い」

 

ミラが笑った。

 

教室に向かう廊下の途中で、ルチアが待っていた。

わたしがヘルミーネ先生に呼び止められている間に、先に訓練場を出ていたらしい。

 

「あ、ルチア。待っててくれたの?」

 

「うん。先生と話してたみたいだったから」

 

ルチアがわたしの手を見た。

さっきまで印を組んでいた、タコだらけの手を。

 

「怪我はしてない?」

 

「え? わたしが? 大丈夫だよ。壁が怪我しただけ」

 

ルチアが小さく笑った。

 

「よかった」

 

ルチアはそれだけ言って、教室の方に歩いていった。

 

ミラが隣で「ルチアって優しいよね」と言った。

 

「うん」

 

 

 

夜。

部屋に戻って、ミラと詠唱の練習をした。

 

教科書を開いて、十語を一語ずつ読み上げていく。ミラは六語目の「(めぐ)れ」で詰まった。二語目の「(めぐ)れ」と似すぎていて混乱するらしい。

 

「めぐれ、めぐれ、めぐれ……どっちがどっちかわかんなくなってきた」

 

「わたしもそもそも五語目から先が入ってこない」

 

「リーネちゃんは二語で壁切れるのに、十語が覚えられないの面白いよね」

 

「面白くないよ。明日また撃つのに五語しか出てこなかったらどうしよう」

 

「壁が切れる」

 

「切れなくていいの」

 

二人で教科書を覗き込んで、注釈を読んで、声に出して、また詰まって。

ミラの発音はきれいだ。舌がもつれる癖があるけど、一語一語を丁寧に置いていく。わたしは発音が雑で速い。二語で撃つ癖がついているから、十語をゆっくり唱えることに体が抵抗する。

 

「リーネちゃん、速い速い。もっとゆっくり」

 

「ゆっくりって、こう?」

 

「それでもまだ速い。わたしに合わせて」

 

ミラの速度に合わせた。遅い。こんなに遅くて魔法が間に合うのかと体が訴えるけど、ここでは間に合わなくても死なない。

二人で声を揃えて唱えた。ミラは七語目まで詰まらずに言えるようになった。わたしは五語をなんとか覚えた。

 

「ねえリーネちゃん、筆記って得意?」

 

唐突だった。教科書を閉じながら、ミラが聞いた。

 

「苦手。年号とか全然覚えられない。ミラは?」

 

「わたしは筆記で稼がないとまずいの。実技がこれだから」

 

ミラが自分の手をひらひら振った。今日の実習で布を揺らすのがやっとだった手だ。

 

「奨学金の成績要件があってさ。実技が足引っ張る分、筆記で点取らないと」

 

「奨学金?」

 

「うん。平民枠だから。成績維持しないと打ち切られちゃう」

 

さらっと言った。深刻そうな顔はしていない。でも「打ち切られちゃう」の語尾が少しだけ軽すぎた。軽くしようとしている声だった。

 

「じゃあ筆記、わたしが教えてもらう側だね。年号覚えるの手伝って」

 

「いいよ。代わりに実技のコツ教えて」

 

「コツ……二語で撃つコツしか知らないけど」

 

「それはいらない」

 

笑った。二人で笑った。

 

消灯の時間が近づいて、ミラが教科書を閉じた。

閉じた教科書の下に、便箋が一枚見えた。母親への手紙だ。さっきまで書いていたらしい。ミラはそれをさっと引き出しにしまった。

 

「リーネちゃん、ありがと。一人だと絶対途中で投げてた」

 

「わたしも。一人で十語なんて覚えられないよ」

 

ミラがベッドに潜り込んだ。横になって、二分もしないうちに寝息が聞こえ始めた。

いつものことだ。ミラの寝つきは異常にいい。

 

わたしはベッドの壁際に寄った。

 

今日のことを考える。

壁を切った。的を壊した。

五語で撃ったら、少しましになった。でもまだ切れた。布に切れ目が入っていた。

 

風を「置く」、とヘルミーネ先生は言った。

叩きつけるんじゃなくて、置く。

前線では、置く暇なんてなかった。置いている間に死ぬ。だから叩きつけた。

 

ここでは、置いていいらしい。

 

手を見た。

タコだらけの手。節くれだった指。

この手で、風を置けるようになるんだろうか。

布を揺らすだけの、優しい風を。

 

まあ、明日から考えよう。

 

ミラの寝息が聞こえる。

規則正しい、穏やかな寝息。

 

目を閉じた。

閉じると、いつものように断片が来る。順番はない。脈絡もない。

 

あの人の詠唱が聞こえた。二語。低い声。速い。

次の朝、あの人がいた場所に誰もいない。

 

目を開けた。

 

天井が白い。

ミラの寝息が聞こえる。

ここは学院の寮で、戦場じゃない。

 

手を見た。さっきまで印を組んでいた手。ヘルミーネ先生に指の位置を直された手。

この手が覚えた二語は、死んだ人のものだ。

その人の短縮詠唱を、わたしは受け取って使っている。

 

受け取ったのか、盗んだのか、わからない。

教わったわけじゃない。死んでいく人の手を見ていただけだ。

 

枕を握りしめている手に気づいた。

開こうとした。指が動かない。力を入れているつもりはないのに、白くなるまで握っている。

しばらく待った。指が少しずつ緩んだ。開いた。

 

明日の実習で、六語目を練習する。

ヘルミーネ先生が「焦らないで」と言ってくれた。力を抜く方が難しい、とも。

指を開くのに、こんなに時間がかかる手だ。風を「置く」ことを覚えるのにも、時間がかかるだろう。

 

ミラの引き出しに、便箋がしまわれている。

何を書いていたんだろう。聞かない方がいい気がして、聞かなかった。

 

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