朝の廊下を歩いていたら、ミラが後ろから走ってきた。
「リーネちゃん、今日の午後、魔法実習だよ。楽しみ?」
「楽しみっていうか、ちょっと心配かな。正規の魔法教育って受けたことないから」
「え、そうなの?」
「うん。我流っていうか、見よう見まねっていうか」
ミラが目を丸くした。
「わたしも詠唱苦手だよ。途中で舌もつれるの。一緒に頑張ろう」
ミラの「苦手」とわたしの「やったことない」は、たぶんだいぶ違う。
でもミラが並べて言ってくれるのは、なんだか気が楽だ。
教室に入ると、いくつかの視線がちらりとこちらに来た。
昨日の模擬戦のことが、まだ話題になっているらしい。
席に着くと、ルチアが先に座っていた。
教科書を開いている。午前の座学の予習だ。
「おはよう、ルチア」
「おはよう、リーネ」
笑ってくれた。柔らかい笑顔。
午前の座学は歴史と魔法理論だった。
歴史はドルフ先生の授業で、年号がたくさん出てきた。眠い。隣でミラが必死にノートを取っている。わたしは年号を三つ覚えたあたりで頭が白くなった。
魔法理論はヘルミーネ先生の座学で、属性と詠唱の基礎理論。属性は六つあるらしい。風、火、水、土、光、闇。わたしは風しか知らなかった。属性が六つあることすら、ここに来るまで知らなかった。
ヘルミーネ先生は穏やかな声で話す。黒板に図を描きながら、詠唱と印の関係を説明している。詠唱が方向と性質を決めて、印が出力と範囲を調整する。
「熟練者は詠唱を省略できます。ですが省略すると、その分だけ制御が犠牲になる。詠唱の語数と制御の精度は比例すると考えてください」
比例する。
わたしは二語か三語で撃っている。
教科書には十語の基礎詠唱が載っている。
つまりわたしの制御は、教科書の三分の一以下ということだ。
まあ、前線では制御なんて求められなかった。当たればいい。倒せればいい。味方を巻き込まなければ、たぶん大丈夫だった。巻き込みそうになったことは、何度かある。
午後。訓練場。
午前と同じ広い訓練場だけど、今日は的が並んでいた。
木の板に布を巻いた的が、等間隔で二十個ほど立っている。
奥の壁は分厚い石で、魔法がそれたときに建物を壊さないようになっている。
ヘルミーネ先生が訓練場の前に立った。
午前の座学で見た人と同じ人だけど、訓練場では少し雰囲気が違う。白衣の裾を後ろで結んで動きやすくしている。眼鏡を押さえながら生徒たちを見回した。
「午後は実技です。今日は基礎詠唱の実践。自分の属性を的に向かって飛ばしてみましょう。教科書の十語詠唱を正確に唱えること。印の形も教科書通りに。出力は最小で構いません」
最小。
出力を最小にする。
そういう概念があることは、午前の座学で聞いた。聞いたけど、実感がない。
「属性がまだ判明していない方はいますか?」
何人かが手を挙げた。ヘルミーネ先生が一人ずつ、属性の判定をしていく。手のひらに淡い光をかざして、反応を見る。
風、火、水、土。一人ずつ属性が告げられるたびに、周りから小さな声が上がる。
「カルヴァスさんは?」
「風です。たぶん」
「たぶん?」
「えっと、前に使ったことがあるので、風だと思います」
ヘルミーネ先生が少し首を傾げた。
手のひらの光をわたしに向けた。光がわたしの手元で揺れて、風に巻かれるように散った。
「確かに風ね。しっかり反応してる」
属性の判定が終わると、実習が始まった。
各自が的の前に立つ。
ヘルミーネ先生が前に出て、手本を見せた。
十語の詠唱。一語ずつ、はっきりと唱える。
指を組む。教科書の図に描かれていた印の形。右手の人差し指と中指を立てて、左手の掌で包む。
風が起きた。
穏やかな、でも確かな風。的に向かって吹いて、布がはためいた。的は揺れた。倒れてはいない。
ちょうどいい力だ。布を揺らすだけの風。
「このくらいの出力が最小の目安です。的を倒す必要はありません。まずは風を起こすことと、方向を狙った場所に合わせることに集中してください」
生徒たちが一人ずつ試し始めた。
隣でミラが詠唱している。
十語。一語ずつ丁寧に。でも七語目で舌がもつれた。
「あ、違……えっと……」
詠唱が途切れた。印も崩れた。
ミラが「ああ」と肩を落とした。
「途中でわかんなくなっちゃった」
「七語目、『
「そう、それ。繋げ。つなげ、つなげ……」
ミラがもう一度最初から唱え始めた。今度は八語目まで行けた。でもそこで指の形がわからなくなって、止まった。
「ここ、どうなってるの」
二人で教科書を覗き込んだ。図を見ながらミラが手を直す。わたしも自分の手を図と見比べたけど、自分のも全然違う。
「リーネちゃんは? やらないの?」
「うん。やるよ」
的の前に立った。
教科書を開いた。十語の詠唱が載っている。
読んだ。
長い。
わたしが知っている詠唱は二語だ。前線で、味方の魔法使いが使っていたのを聞いて覚えた。
二語で風の刃を撃つ。それだけだ。
十語のうち、わたしが使っているのは最後の二語だけだった。残りの八語は、方向と範囲と出力を指定するための言葉らしい。
最小出力で、方向を合わせて、範囲を絞る。
八語分の仕事を、わたしは全部すっ飛ばしている。
まあ、やってみよう。
二語で撃った。
風が出た。
的の布が裂けて、木の板ごと後ろに吹っ飛んだ。隣の的まで揺れている。
奥の石壁に斜めの傷が走って、白い石粉が煙みたいに舞い上がった。
訓練場が静まった。
いつもの笑顔が、反射で顔に出た。
周りの顔を見る余裕がなかった。
「うわ、壁切れてない?」
誰かが声を上げた。驚きの声。怖がっている声じゃなかった。
「すご……石の壁だよね、あれ」
何人かが壁の傷を見に行っている。指で溝をなぞっている子もいる。
的が一つ、消えていた。正確には消えたんじゃなくて、破片になって散らばっている。布の切れ端が地面に落ちている。木の板は真ん中から割れて、両側に転がっている。
その向こうの石壁に、細い溝が斜めに走っていた。深さは指一本分くらい。石を切っている。
やりすぎた。
的を揺らすだけでよかったのに。
ヘルミーネ先生が歩いてきた。
急いではいない。でも速い。
的の残骸と壁の傷を交互に見て、それからわたしの前に立った。
眼鏡の奥の目がわたしを見ている。
怒っている目じゃなかった。驚いてもいない。
何かを計算している目だった。
「今の詠唱、何語だった?」
「二語です」
「印は?」
右手を見せた。わたしの印の形は、教科書の図とは違う。人差し指と中指を立てるところは同じだけど、親指の位置が違う。薬指を曲げる角度も違う。教科書を見て覚えたわけじゃないから、そもそも「正しい形」を知らない。
ヘルミーネ先生がわたしの手を取った。
冷たい指だ。細い。研究者の手。
わたしの指の位置を確かめるように、軽く触れている。
「どこで学んだの?」
「戦場で、見よう見まねで」
ヘルミーネ先生の手が止まった。一瞬だけ。すぐに動いた。
「もう少し正確に言うと?」
「味方の魔法使いが死んだので、その人がやっていたのを真似しました」
訓練場が、また静かになった。
さっきの石壁の傷のときとは違う静けさだ。
わたしは何かまずいことを言ったかな、と思った。
事実をそのまま言っただけなんだけど。
前線では魔法使いが足りなかった。わたしの小隊には正規の魔法使いが一人いたけど、途中で死んだ。死ぬ前に、その人が詠唱するのを何度か見ていた。聞いていた。二語だけ覚えた。それを撃った。撃てた。誰に教わったわけでもない。ただ、生き残るために必要だったから。
ヘルミーネ先生がわたしの手を離した。
壁の傷をもう一度見た。
的の残骸を見た。
わたしの手を見た。
「詠唱をここまで省略して、これだけの威力が出るのは、素質がある証拠よ」
否定しなかった。
「間違っている」とも「駄目だ」とも言わなかった。
「ただ、制御が抜けている」
ヘルミーネ先生が壁の傷を指した。
「的は当たったけれど、その横の壁まで切れている。風刃の範囲が広すぎるの。今日はたまたま隣に誰もいなかったけど、角度が少しずれたら隣の的の前にいる人に当たるわ」
隣の的との距離は三歩くらいだ。誰かが立っていたら、当たっていた。
ヘルミーネ先生が生徒たち全体に向き直った。
「二語の詠唱で石壁を切る威力が出せるのは、素質がある証拠よ。ただし制御がないから範囲が広い。これから基礎を覚えれば、狙ったところにだけ飛ぶようになるわ」
わたしの方を見て、少し笑った。
「ね、カルヴァスさん」
「はい。がんばります」
ヘルミーネ先生がわたしに向き直った。
「全力で撃つか、撃たないかしかないでしょう?」
「え、魔法ってそういうものじゃないんですか」
本気で聞いた。
魔法は撃つか撃たないかだと思っていた。必要なときに全力で撃つ。必要ないときは撃たない。その二択。
出力を調整するという発想が、なかった。
ヘルミーネ先生が少し考えるように顎に手を当てた。
「たとえば、ろうそくの火を灯すのに、焚き火は要らないでしょう?」
「はい」
「同じように、風を少しだけ起こすこともできるの。布を揺らすだけの風。ほこりを払うだけの風。あなたは焚き火しか知らないから、全部焚き火で解決しようとしている」
焚き火しか知らない。
「全力じゃないと敵を倒せないので」
口にしてから、また教室が静かになったのに気づいた。
さっきの「味方の魔法使いが死んだ」のときと同じ質の静けさだ。
わたしは、ただ事実を言っているだけなのに。
ヘルミーネ先生が少し黙った。
眼鏡を押さえる仕草。それから、穏やかな声で言った。
「ここでは敵を倒す必要はないわ」
そうだった。
ここは訓練場で、的を壊す場所じゃない。
敵はいない。
風刃を撃つ必要はない。
布を揺らせばいい。
「もう一度やってみましょう。今度は五語で。教科書の一語目から五語目まで。残りの五語はまだいいわ」
教科書を見た。十語の詠唱のうち、最初の五語。
方向と範囲を指定する部分だ。
声に出して読んでみた。口に馴染まない。前線で使ったことのない言葉だ。
ヘルミーネ先生がわたしの印の形を見た。
わたしの手を取って、指の位置を少し動かした。
「親指をもう少し内側に。薬指は伸ばして。そう」
教科書通りの印の形に近づけた。
指が違和感を訴えている。この形で撃ったことがない。
「なるほど」
ヘルミーネ先生が呟いた。
わたしの指を見ている。
「あなたの印は自己流だけど、理にかなっている。親指の位置がずれているから風の軸が傾いて、だから壁にも飛ぶのね。薬指を曲げているから出力が絞れなくて、全開になる。指の一本一本が出力のスイッチだと思って」
指が出力のスイッチ。
考えたこともなかった。
指は剣を握るための道具で、印は「なんとなくこの形にすると風が出る」くらいの理解しかなかった。
五語。印を直して。
撃った。
風が出た。
さっきよりは弱い。でも的を吹き飛ばすくらいの力はある。
的が後ろに倒れた。
ただし隣の的も少し傾いた。
壁には当たっていない。さっきよりは、まし。
「まだ広いですね」
「焦らないで。出力を落とす練習は、明日からゆっくりやりましょう」
ヘルミーネ先生が的を元の位置に戻した。倒れただけで、壊れてはいない。さっきの的は粉々だったから、それだけでも進歩だ。
「カルヴァスさん。もう一つ聞いてもいい?」
「はい」
「その二語の詠唱、誰の真似をしたの? その魔法使いは、どういう人だった?」
少し考えた。
名前は覚えていない。小隊の中で唯一の正規教育を受けた魔法使いだった。
わたしより年上だったことは確かだ。背が高くて、声が低くて、詠唱が速かった。
「名前は……覚えてないです。詠唱が速い人でした。前線だと詠唱の隙を突かれて死ぬ魔法使いが多かったんですけど、その人は詠唱を短くして隙を減らしてた。だから長く生き残ってました」
「長く」
「はい。でも、最後は——どう死んだかは、よく覚えてないです。朝起きたらいなかったので」
ヘルミーネ先生が「そう」と短く言った。
それ以上聞かなかった。
「その人は、たぶん正規の詠唱を省略する技術を持っていたのね。本来十語で組む構成のうち、制御に必要な部分を削って、起動に必要な最低限の語だけを残した。熟練者の短縮詠唱よ。あなたはその省略済みの形だけを覚えたから、省略前の形を知らない」
「あ、なるほど。最初から短い版しか見てなかったんですね、わたし」
「そう。だから基礎が抜けている。あなたに足りないのは才能じゃなくて、手順よ」
才能じゃなくて手順。
あの人は十語を知った上で二語に縮めた。わたしは最初から二語しか知らない。
実習の残りの時間、ヘルミーネ先生は他の生徒を回りながら、時々わたしの方に戻ってきた。
ミラが隣で奮闘している。
十語の詠唱を最後まで唱えられるようになったけど、印の形が途中で崩れて、風が出ない。
「手がつりそう」
ミラの手は華奢で、指が細い。剣のタコもない。
わたしの手は節くれだっていて、指の関節が硬い。同じ印を組んでも、手の形がまるで違う。
ミラが三度目の挑戦で、ようやく風を出した。
微風だ。的の布がかすかに揺れた。
「あ、揺れた! リーネちゃん、揺れたよ!」
「揺れてる、揺れてる。すごいね」
ミラが飛び跳ねた。うれしそうだ。
十語を最後まで唱えて、印を崩さずに、風を的に当てた。ミラにとってはそれが全部だ。
「よし、もう一回やろう」
ミラが意気込んで構え直した。
今度は六語目でもつれた。
「あー! また舌が!」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから」
わたしは二語で壁を切る。ミラは十語で布を揺らす。
どっちが魔法として正しいかと言われたら、たぶんミラの方だ。
少し離れたところで、別の生徒たちが実習している。火属性の子が小さな火の玉を出した。ルチアが水のかたまりを的に向けて飛ばしている。的には当たったけど、水が散って隣の的まで濡らしていた。
みんな、教科書通りにやっている。十語唱えて、印を組んで、出力を調整して。
普通は、こうやって学ぶものなんだ。
わたしの番がまた来た。
ヘルミーネ先生が戻ってきた。
「もう一度、五語で。さっきより出力を落としてみて。印の形は、さっき直したものを使って」
五語。印を組む。親指を内側、薬指を伸ばす。
違和感はまだある。指が覚えた形と違うから。
「撃つ前に、一つ意識してみて。風を起こすのではなくて、風を置くの。的に向かって、そっと風を置くような感覚」
置く。
風を置く。
前線では「叩きつける」しかなかった。風を刃にして、相手に叩きつける。それだけだ。
置く、という言葉を魔法に使うとは思わなかった。
五語を唱えた。
印を組んだ。
風が出た。
的の布が揺れた。的は倒れていない。布が揺れただけ。
壁には何も当たっていない。隣の的も動いていない。
ただし的の布に小さな切れ目が一つ入っていた。
風を「置く」つもりだったのに、少し切れた。刃が残っている。
ヘルミーネ先生が的の切れ目を見て、小さく笑った。
「随分良くなったわ。でもまだ少し切れてる」
「すみません、どうしても刃になっちゃうんです」
「全力で撃つ体が染みついているのね。出力を落とすのは、筋肉を緩めるのに似ているわ。力を入れるより、抜く方が難しい」
力を抜く方が難しい。
確かにそうだ。
剣も同じだった。昨日の模擬戦で、追い討ちの構えを止めたとき、止めるのは振るより難しかった。体に入っている動きを止めるのは、動かすよりずっと難しい。
「明日からまた練習しましょう。焦らなくていいから」
ヘルミーネ先生はそう言って、次の生徒のところに歩いていった。
実習が終わった。
生徒たちが訓練場から出ていく。
片付けをしていたら、男子が二人、近づいてきた。
「なあ、さっきの二語詠唱、どうやってるの」
「え? ああ、最後の二語だけ唱えて撃ってるだけだよ」
「だけって……省略してあの威力出るのおかしくない?」
もう一人が「印の組み方が教科書と違ったよな。あれ自己流?」と聞いてきた。
「うん、自己流っていうか、見よう見まねっていうか」
「教えてよ。二語で撃てるようになりたい」
「いやあ、わたしのは制御できてないから真似しない方がいいよ。ヘルミーネ先生にも言われたし」
二人が残念そうな顔をして戻っていった。
前線では「教えてくれ」なんて聞く暇はなかった。見て、真似て、撃てなかったら次がない。ここでは聞いて、断られて、残念な顔をして帰っていく。
なんか、いいな。
村の学校で、年下の子に字の書き方を教えたことがあった。わたしの字は下手だったけど、その子はもっと下手で、二人で教科書を覗き込んで、同じ字を何度も書いた。
あの子の名前は覚えている。顔も覚えている。今どこにいるかは知らない。
ヘルミーネ先生が片付けをしているところに、呼び止められた。
「カルヴァスさん」
振り返った。
ヘルミーネ先生が壊れた的の残骸を片手に持っていた。わたしが最初に撃った的だ。木の板が真っ二つに割れている。
「あなたの魔法は間違っていないわ」
「え?」
「戦場で生き残るために必要なやり方だった。詠唱を短くして隙を減らす。出力を最大にして確実に倒す。それは、あなたがいた場所では正しい判断だった」
目が合った。
ヘルミーネ先生の目は穏やかだけど、はっきりしていた。同情でもなく、憐れみでもなく、事実を見ている目だった。
「でもここでは、もう少し選択肢を増やせる。十語の詠唱を覚えれば、出力を十段階で調整できるようになる。布を揺らすだけの風も、壁を切る風も、同じ手から出せるようになる。基礎からやり直しましょう。急がないで」
「はい」
頷いた。
何を言えばいいか少し迷って、結局「はい」しか出てこなかった。
でもこの「はい」は嘘じゃなかった。
ヘルミーネ先生が壊れた的の残骸を片付け台に置いた。
「的の弁償はしなくていいですか」
ヘルミーネ先生が少し笑った。
「訓練場の的は壊れるためにあるの。壁は困るけど」
「壁は気をつけます」
廊下に出ると、ミラが待っていた。
壁にもたれて、教科書を胸に抱えている。
「リーネちゃん、さっきの風すごかったね。壁切れてたよ」
「うん、やりすぎた」
「やりすぎって、あんなの初めて見たよ。壁って切れるんだ。石の壁が」
ミラの目が丸い。素直に感心している。
「魔法使いってかっこいいね」
「かっこよくはないよ。制御できてないだけだから」
「でもさっき男子に『教えて』って言われてたじゃん」
「聞かれても教えられないんだよね。自分でもなんで撃てるかわかんないし」
ミラが笑った。
「ミラも風出てたじゃん。布、揺れてたよ」
「揺れただけだよ! リーネちゃんは壁切ってたのに!」
「いや、あれはやりすぎなだけ。布を揺らすだけの風のほうが、ちゃんとした魔法だよ」
「え、そうなの?」
「うん。わたし、全力か撃たないかしかできないから。ちょうどいい力加減が出せない」
ミラが「うわ、なんか変な気分」と笑った。
「壁を切れるのに、布を揺らせないの?」
「揺らそうとすると切っちゃう」
「それは困るね」
二人で笑った。
廊下を歩く。ミラの歩幅は小さい。わたしの歩幅に合わせてくれている。
ミラが歩きながら教科書を開いた。
「ねえ、あの十語の詠唱、一緒に練習しない? わたし舌もつれるし、リーネちゃんは覚えてないし。ちょうどいいじゃん」
「いいね。やろう」
「じゃあ今夜、部屋で。言葉だけ覚えよう。印は組まなきゃ発動しないから、口で練習するぶんには大丈夫でしょ」
「うん。印を組んだら部屋が大変なことになるからね」
「リーネちゃんの場合は特にね」
「二人とも初心者ってこと? なんか心強い」
ミラが笑った。
教室に向かう廊下の途中で、ルチアが待っていた。
わたしがヘルミーネ先生に呼び止められている間に、先に訓練場を出ていたらしい。
「あ、ルチア。待っててくれたの?」
「うん。先生と話してたみたいだったから」
ルチアがわたしの手を見た。
さっきまで印を組んでいた、タコだらけの手を。
「怪我はしてない?」
「え? わたしが? 大丈夫だよ。壁が怪我しただけ」
ルチアが小さく笑った。
「よかった」
ルチアはそれだけ言って、教室の方に歩いていった。
ミラが隣で「ルチアって優しいよね」と言った。
「うん」
夜。
部屋に戻って、ミラと詠唱の練習をした。
教科書を開いて、十語を一語ずつ読み上げていく。ミラは六語目の「
「めぐれ、めぐれ、めぐれ……どっちがどっちかわかんなくなってきた」
「わたしもそもそも五語目から先が入ってこない」
「リーネちゃんは二語で壁切れるのに、十語が覚えられないの面白いよね」
「面白くないよ。明日また撃つのに五語しか出てこなかったらどうしよう」
「壁が切れる」
「切れなくていいの」
二人で教科書を覗き込んで、注釈を読んで、声に出して、また詰まって。
ミラの発音はきれいだ。舌がもつれる癖があるけど、一語一語を丁寧に置いていく。わたしは発音が雑で速い。二語で撃つ癖がついているから、十語をゆっくり唱えることに体が抵抗する。
「リーネちゃん、速い速い。もっとゆっくり」
「ゆっくりって、こう?」
「それでもまだ速い。わたしに合わせて」
ミラの速度に合わせた。遅い。こんなに遅くて魔法が間に合うのかと体が訴えるけど、ここでは間に合わなくても死なない。
二人で声を揃えて唱えた。ミラは七語目まで詰まらずに言えるようになった。わたしは五語をなんとか覚えた。
「ねえリーネちゃん、筆記って得意?」
唐突だった。教科書を閉じながら、ミラが聞いた。
「苦手。年号とか全然覚えられない。ミラは?」
「わたしは筆記で稼がないとまずいの。実技がこれだから」
ミラが自分の手をひらひら振った。今日の実習で布を揺らすのがやっとだった手だ。
「奨学金の成績要件があってさ。実技が足引っ張る分、筆記で点取らないと」
「奨学金?」
「うん。平民枠だから。成績維持しないと打ち切られちゃう」
さらっと言った。深刻そうな顔はしていない。でも「打ち切られちゃう」の語尾が少しだけ軽すぎた。軽くしようとしている声だった。
「じゃあ筆記、わたしが教えてもらう側だね。年号覚えるの手伝って」
「いいよ。代わりに実技のコツ教えて」
「コツ……二語で撃つコツしか知らないけど」
「それはいらない」
笑った。二人で笑った。
消灯の時間が近づいて、ミラが教科書を閉じた。
閉じた教科書の下に、便箋が一枚見えた。母親への手紙だ。さっきまで書いていたらしい。ミラはそれをさっと引き出しにしまった。
「リーネちゃん、ありがと。一人だと絶対途中で投げてた」
「わたしも。一人で十語なんて覚えられないよ」
ミラがベッドに潜り込んだ。横になって、二分もしないうちに寝息が聞こえ始めた。
いつものことだ。ミラの寝つきは異常にいい。
わたしはベッドの壁際に寄った。
今日のことを考える。
壁を切った。的を壊した。
五語で撃ったら、少しましになった。でもまだ切れた。布に切れ目が入っていた。
風を「置く」、とヘルミーネ先生は言った。
叩きつけるんじゃなくて、置く。
前線では、置く暇なんてなかった。置いている間に死ぬ。だから叩きつけた。
ここでは、置いていいらしい。
手を見た。
タコだらけの手。節くれだった指。
この手で、風を置けるようになるんだろうか。
布を揺らすだけの、優しい風を。
まあ、明日から考えよう。
ミラの寝息が聞こえる。
規則正しい、穏やかな寝息。
目を閉じた。
閉じると、いつものように断片が来る。順番はない。脈絡もない。
あの人の詠唱が聞こえた。二語。低い声。速い。
次の朝、あの人がいた場所に誰もいない。
目を開けた。
天井が白い。
ミラの寝息が聞こえる。
ここは学院の寮で、戦場じゃない。
手を見た。さっきまで印を組んでいた手。ヘルミーネ先生に指の位置を直された手。
この手が覚えた二語は、死んだ人のものだ。
その人の短縮詠唱を、わたしは受け取って使っている。
受け取ったのか、盗んだのか、わからない。
教わったわけじゃない。死んでいく人の手を見ていただけだ。
枕を握りしめている手に気づいた。
開こうとした。指が動かない。力を入れているつもりはないのに、白くなるまで握っている。
しばらく待った。指が少しずつ緩んだ。開いた。
明日の実習で、六語目を練習する。
ヘルミーネ先生が「焦らないで」と言ってくれた。力を抜く方が難しい、とも。
指を開くのに、こんなに時間がかかる手だ。風を「置く」ことを覚えるのにも、時間がかかるだろう。
ミラの引き出しに、便箋がしまわれている。
何を書いていたんだろう。聞かない方がいい気がして、聞かなかった。