午後の実技は、剣術だった。
グレンが訓練場の中央に立って、今日の内容を告げる。
「基礎の反復。ペアを組んで、打ち込みと受けの練習をやる。相手を変えながら三巡。最後に三組だけ模擬戦をやる」
前回の模擬戦から五日経っている。
ヴィクトルを三十秒で倒して、喉に木剣を向けた日だ。
あの後、廊下ですれ違うときに距離を取る生徒が増えたけど、五日も経てば少し落ち着いてきた。
完全に元通りではない。
でも五日も経てば、視線の数は少し減った。
別の噂が出たおかげだ。
ありがたい。
木剣を受け取った。
柄の感触を確かめる。いつもの重さ、いつものバランス。握った瞬間に体が少し落ち着く。
それが普通なのかどうかは、よくわからないけど。
ペアが発表される。
最初の二組は、どちらも腰が引けていた。
構えただけで一歩下がる子もいた。
手加減の仕方を少しだけ覚えた。力を六割くらいに落として、振りの速度を抑える。
体が全力で振りたがるのを、腕の力で無理やり止めている感覚はまだある。
止めること自体が体に馴染んでいない。
でも前回より、少しだけまし。
木剣が触れるか触れないかの力で打っても、受けるたびに体がびくっと跳ねる。
怖がらせているのはわたしだ。
まあ、仕方ない。
三組目のペアは、マーレン・ヴォルフだった。
赤毛を短く刈り込んだ女の子。目つきが鋭い。
騎士の家の出だ。構えがしっかりしていて、振りにためらいがない。
「よろしく」
マーレンは頷いただけだった。声は出さなかった。
マーレンの剣は硬い。
力があって、狙いが正確で、隙が少ない。この学年では一番うまいかもしれない。
ペア練習の打ち込みでも、受けの形が崩れない。わたしの打ち込みを正面から受け止めて、弾き返す。
正しい剣だ。ヴィクトルと同じ、教本通りの正しい剣。でもヴィクトルより速くて、迷いがない。
打ち込みを受けたとき、マーレンの目がわたしの動きを追っていた。
何かを探している目だった。
わたしの剣のどこかに、何かを見ようとしている目。
何を見ているんだろう。
聞けなかった。聞く雰囲気じゃなかった。
交代して、マーレンが打ち込んでくる。
強い。正確。教本の型から一ミリもずれない。
受けるのは楽だった。型通りに来るなら、来る場所がわかるから。
三巡が終わった。
「ペア練習は以上だ。模擬戦は——」
グレンが三組の名前を読み上げた。
わたしの名前は入っていない。今日は見る側だ。
少し離れたところに座って、他の生徒の試合を見る。
マーレンが模擬戦に選ばれていた。相手は別クラスの男子。
二本先取。速くて硬い剣で、相手は何もできずに負けた。
木剣を返却台に置くとき、こちらをちらりと見た。
何だろう、あの目。
敵意じゃない。でも好意でもない。
何かを確かめようとしているような。
まあ、いいか。
模擬戦が終わって、グレンが「解散」と告げた。
生徒たちが訓練場の外に出ていく。
わたしも木剣を返して、訓練場を出ようとした。
隣の訓練場が見えた。
仕切り壁を挟んで、もう一つ訓練場がある。
こちらの訓練場は剣術用で、向こうは魔法の実技用だ。
仕切り壁は石造りだけど、上は空いていて、音が筒抜けになる。
向こうでは上級生が火魔法の実習をしていた。赤い光がちらちらと壁の向こうに揺れている。
わたしの訓練場にもまだ生徒が残っていた。木剣を片付けたり、防具を外したり。
ミラが近くにいて、ルチアも少し離れたところで防具の紐をほどいている。
グレンが訓練場の隅で記録をつけていた。
ボードに何かを書いている。生徒の評価だろう。
普通の放課後の風景だ。
特に何も起きていない、穏やかな午後。
隣の訓練場から、火魔法の詠唱が聞こえた。上級生の声だ。長い詠唱。十語以上ある。
赤い光が壁の向こうで膨らんでいくのが見えた。
膨らみすぎている、と思った。
それは兵士の直感だった。理由はない。ただ、光の膨らみ方が、制御された魔法のそれじゃなかった。
戦場で何度か見たことがある。魔力の暴走。詠唱の途中で制御を失って、魔法が意図しない方向に膨張する。
前線では、それが起きたら全員地面に伏せた。暴発した魔法は方向が定まらない。上も横も後ろも区別しない。
赤い光が急激に広がった。
爆音。
訓練場の空気が震えた。
仕切り壁の向こうで火柱が上がった。
熱風が壁の上を越えて、こちらの訓練場に吹き込んできた。
砂が巻き上がる。白い閃光が視界を焼いた。
体が動いた。
考えるより先に、地面を蹴っていた。
隣にいた生徒の頭を片手で掴んで、地面に引き倒した。もう片方の手で生徒の背中を押さえて、自分の体で覆い被さった。
頭を下げさせる。耳を塞がせる。爆風の破片が飛んでくるなら、背中で受ける。
「伏せろ! 頭下げろ!」
声が出ていた。
自分の声じゃなかった。低くて、鋭くて、命令することに慣れた声だった。
地面に顔を押しつけたまま、周囲の音を聞いている。
二発目が来るか。続けて撃ってくるか。方角は。距離は。味方の位置は。退路は。
壁際に移動しろ。遮蔽物を取れ。頭を出すな。
二秒間、わたしはここにいなかった。
ここは訓練場じゃなかった。
石造りの壁は崩れた陣地の壁で、巻き上がる砂は焼けた土で、白い閃光は焼夷弾の光で、隣にいるのはクラスメイトじゃなくて小隊の仲間で——
音が遠ざかった。
耳の奥で鳴っていた砲声が引いていく。
代わりに、生徒の悲鳴が聞こえた。
複数の声。金属音。防具がぶつかる音。
地面の感触が変わった。
焼けた土じゃない。平らな石の床だ。冷たい。乾いている。
体の下にいるのは、兵士じゃない。制服を着た生徒だ。
戻った。
三秒。
体感は三秒だった。実際がどのくらいかはわからない。
わたしは体を起こした。
覆い被さっていた生徒の上から、体重を移す。
周囲を見る。
訓練場に煙が薄く漂っている。仕切り壁の向こうで、上級生たちの声が上がっている。「暴発した」「火を消せ」「怪我人は」。教員が駆けつけている声も聞こえる。
こちらの訓練場には被害はなかった。
壁の向こうで起きた暴発が、こちらに飛んできたわけじゃない。
爆音と閃光と熱風が壁を越えて来ただけだ。
だから伏せる必要はなかった。
わたしの下にいた生徒が、地面に顔を押しつけたまま動かない。
男の子だった。模擬戦の後に片付けをしていた、背の低い男の子。名前は覚えていない。
「あ、ごめんね」
わたしは体を完全に起こして、膝立ちになった。
「びっくりしちゃって。体が勝手に動いちゃった」
笑った。いつもの笑顔が出た。
男の子が顔を上げた。
顔が真っ白だった。
目が見開かれていて、唇が震えていた。
わたしの方を見ている。
怯えた目。
何に怯えているんだろう。
爆発の音にびっくりしたのかな。
それとも、地面に引き倒されたことに?
「大丈夫? 怪我してない?」
わたしは手を差し出した。
引き起こそうとして。
男の子がびくっと体を引いた。
わたしの手から逃げるように。
手が止まった。
空中に伸ばしたまま。
「あ、ごめん。強く引っ張っちゃったかな。痛かった?」
男の子は何も答えなかった。
腕で自分の頭を庇ったまま、地面に座り込んでいる。
呼吸が荒い。
え、そんなに強く押さえた?
わたしはただ頭を庇っただけだ。爆風から頭を守るために下に引っ張っただけだ。前線ではそうする。伏せるのが遅い奴がいたら掴んで引き倒す。
力加減は考えていなかった。体が勝手にやったから。
周囲を見た。
訓練場にまだ残っていた生徒たちが、わたしを見ていた。
十人くらい。
防具を外しかけた状態で、動きを止めて、こっちを見ている。
何だろう、この空気。
みんな変な顔をしている。
爆発にびっくりしたのかな。
それとも。
わたしが叫んだことに、か。
「伏せろ」と叫んだ。声が別人だった。
それは自分でもわかっている。
聞いたことがある。
あの声は、前線で砲撃が来たときに出す声だ。
小隊の仲間を伏せさせるための声。
何度も出した。何度も聞いた。聞いた回数の方が多い。
隊長の声。副隊長の声。わたしの声。
区別がつかなくなっている。
誰の声かは覚えていないけど、あの声を出せば仲間が伏せるということだけは体に入っている。
ミラが、三歩ほど離れた場所に立っていた。
こちらを見ている。手が胸の前で止まっている。防具を外そうとしていた手がそのまま固まっている。
目が大きく開いている。
マーレンは、もう少し離れた場所にいた。
木剣を持ったまま、動かずにこちらを見ていた。唇を噛んでいた。
さっきまでの「何かを確かめようとしている目」ではなかった。
もっと硬い目。もっと深い場所から見ている目。
ルチアは、訓練場の反対側にいた。
防具を外し終わっていたらしく、片手に面を持っている。
わたしの方に歩き出しかけて、止まった。
全員が、わたしを見ていた。
なんで?
何か変なことをしたかな。
伏せるのは普通のことだ。爆発音がしたら伏せる。頭を下げる。
それは訓練で叩き込まれた基本動作で。
ああ。
「訓練で叩き込まれた」のが普通なのは、兵士だけだ。
ここにいるのは学生だ。
普通じゃない。
「ごめんね、びっくりしちゃって。大丈夫だよ、隣の訓練場で魔法が暴発しただけみたい」
わたしは立ち上がって、男の子に手を差し出した。もう一度。
今度は少しだけゆっくり。
男の子はまだ座り込んでいた。
わたしの手を見ている。
さっきその手に頭を掴まれた。さっきその手に地面に押しつけられた。
怖いのか。
この手が。
グレンが歩いてきた。
男の子の前にしゃがんで、手を差し出した。
「怪我はないか。立てるか」
男の子がグレンの手を取った。立ち上がるまで少し間があった。まだ震えている。
グレンが男の子の背中に手を添えて、少し離れた場所まで送った。何か短く声をかけている。聞こえなかった。
それから戻ってきて、周囲の生徒たちに向き直った。
わたしではなく、訓練場に残っていた生徒たちの方を見ていた。
「カルヴァスは爆発からお前を庇おうとしたんだ。力の加減が効かなかっただけだ。わかってやってくれ」
一拍、間があった。
「同じことがあったら、カルヴァスの名前を呼んでやってくれ。声が聞こえれば、あいつは戻ってこれる」
戻ってこれる?
わたしは、どこかに行っていたのか。
さっきの二秒間のこと? あれは、ただびっくりしただけだ。すぐ戻った。名前を呼ばなくても、自分で戻ってきた。
グレンの目はわたしではなく、周りにいた生徒たちの方を向いていた。
手を見た。
さっき男の子の頭を押さえた手。
手を開いた。閉じた。
木剣を握り、印を組み、パンをちぎる手だ。同じ手で人の頭を掴んで引き倒す。
「リーネちゃん」
ミラの声がした。
近づいてきていた。防具を外し終わっている。
「すごい音したね。大丈夫だった?」
「うん、隣で暴発があったみたい。こっちには飛んできてないから大丈夫だよ」
「リーネちゃんが飛び出したからびっくりした」
「あはは、ちょっとやりすぎた。癖で」
ルチアが歩いてきた。
面を片手に持ったまま、少し速い足取りで。
「リーネ、怪我してない?」
「え? わたし? してないよ。わたしは何もされてないもん」
「でも、地面に飛び込んだでしょ。膝とか」
言われて膝を見た。
制服の膝が汚れている。土がついている。飛び込んだときについたんだろう。
擦りむいてはいない。
兵士の習慣で、膝をつくときは衝撃を逃がすように着地する。
ただしそんなことは説明しない方がいい。
「大丈夫だよ。土がついただけ」
膝の土を払った。
ルチアはわたしの膝と、わたしの手を見た。
「……さっき、リーネが叫んだの、聞こえた」
「うん。びっくりして、つい」
「あの声、リーネの声じゃなかった」
わたしは笑った。
「そうかな。わたしの声だと思うけど」
嘘じゃない。
あの声はわたしの声だ。
ただ、ここで普段出している声とは違う声だったというだけで。
前線では、あの声が「わたしの声」だった。
低くて、鋭くて、迷いがない声。
命令を出す声。仲間を動かす声。
ここでは、もっと高くて、柔らかい声を出している。
そっちの方がここでは正しいから。
どっちもわたしの声だ。
使い分けているだけで。
使い分けている、というのも少し違う。体が勝手に切り替えただけだ。
「帰ろう」
ルチアが言った。
わたしは「うん」と答えて、訓練場を出た。
グレンが、訓練場の隅に立っていた。
ボードを下ろして、腕を組んでいた。
壁に背を預けて、わたしを見ていた。
目が合った。
グレンの目は、いつもよくわからない。
怒っているのでもない。叱ろうとしているのでもない。何かを堪えている顔でもない。
ただ、見ている。わたしがやったことを、全部見ていた目。
わたしは「お疲れさまでした」と軽く頭を下げた。
グレンは頷いただけだった。
何も言わなかった。
廊下を歩いた。
ミラが隣にいる。ルチアが反対側にいる。
ミラが「ねえ、今日の夜も詠唱の練習する?」と聞いた。
昨日の続き。十語の詠唱を覚える練習。
「うん、やろう。七語目まで行けるかな」
「わたし、六語目の『廻れ』がまだ怪しいんだよね。巡れと廻れって紛らわしくない?」
「紛らわしい。わたしも間違える」
ミラが笑った。
さっきの硬さが少し取れている。
ルチアは黙って歩いている。
いつもより静かだ。
「ルチアも一緒にやる? 詠唱の練習」
「え? わたしは属性が違うから、詠唱も違うけど」
「あ、そうだった。属性違うと詠唱も違うのか」
「基本構造は同じだけど、五語目から分岐するの」
「へえ。じゃあ四語目まで一緒に練習できるね」
ルチアが少しだけ笑った。
教室の前に着いた。
鞄を取りに教室に入る。
教室には何人かの生徒が残っていた。
わたしが入ると、何人かがこちらを見た。壁を切ったときとは違う目だった。
鞄を持って教室を出た。
ミラが待っていた。
ミラの声はいつも通りだった。
それが楽だ。
夜。部屋に戻った。
昨夜の続きで、ミラとルチアと三人で詠唱の練習をした。七語目まで行けた。八語目の「
「全力で撃ちっぱなしのリーネちゃんには一番大事なところだね」
「うん……それ、自覚してる」
三人で笑った。
消灯が近づいて、ミラが教科書を閉じた。ルチアが「おやすみ」と言って部屋に戻っていった。
ミラがベッドに入って、すぐに寝息が聞こえ始める。横になれば二分で落ちる。
わたしはベッドの壁際に寄った。
手を見た。
手のひらを開いたり閉じたりした。
ヘルミーネ先生は、この手で風を「置く」ことを教えてくれた。
グレン先生は、この手で剣を「止める」ことを教えようとしている。
置くことも、止めることも、まだできていない。
今日、訓練場を出るとき、グレン先生がまだ訓練場の隅に立っていた。
腕を組んで、わたしの方を見ていた。何も言わなかった。目が合った。頷いただけだった。
怒っている目じゃなかった。呆れている目でもなかった。
何だろう、あの目。審問官の値踏みとも違う。何かを堪えているような、痛そうな目だった。自分のことでもないのに痛そうにしている目。
グレン先生は生徒たちに、わたしの名前を呼んでやってくれと言った。
わたしにではなく、生徒たちに。
あの男の子が怖がっていたのは、爆発じゃない。わたしだ。
模擬戦のときもそうだった。剣を止められなくて、ヴィクトルの首元に木剣を向けた。あのときも周りが凍った。
気をつけていたつもりだった。今日のペア練習では六割に落とした。少しは抑えられるようになった。
でも爆発が来たら全部飛んだ。
もっと気をつけないと。
力の入れ方だけじゃなくて、咄嗟のときに体が暴れないように。
剣は少しずつ抑えられるようになってきた。これも同じだ。練習すればいい。慣れればいい。