部屋に戻ってドアを閉めた。
鍵をかけた。背中をドアに預けて、息を吐いた。
手が冷たい。
暖炉はない。部屋の空気は生温かくて、初夏の夕暮れの名残が窓から入ってきている。冷える季節じゃない。なのに指先から熱が引いて、拳を握っても温まらない。
ルームメイトはまだ戻っていない。夕食の時間にはまだ早い。部屋にはわたしだけだ。
制服のまま椅子に座って、机の上に手を置いた。
右手を見て、左手を見た。どちらも白い。爪の先まで血の気がない。
訓練場の光景が頭の中に貼りついている。
でもその前に、もっと古い場所に引き戻される。
兄は二年前に死んだ。
ヴェルダ戦争。王国騎士団の任務で、ヴェルダの遊撃隊と交戦して夜襲を受けて殺された。
王国のために戦って死んだ、と通知には書いてあった。短い紙一枚に兄の人生が要約されていた。名前と所属と戦死の日付。
父はその通知を読んで、最初の酒瓶を開けた。朝から飲んで夕方には立てなくなる。騎士団の家だ。家名があり、守る義務がある。その義務を今は母が一人で背負っている。
母はその通知を棚の奥にしまった。捨てはしなかった。兄の手紙と一緒に、同じ引き出しに入っている。
兄は剣が上手かった。
父の道場で、毎朝、兄の後ろに立って同じ型を繰り返した。わたしが肘の角度を間違えるたびに、兄は自分の木剣を置いて後ろから腕を直した。手が大きかった。「ここ。もう少し絞れ」と低い声で言って、正しい角度に押し込んだ。痛かったけど、兄が手を離すと型が一段きれいになっている。
兄の手はいつも乾いていた。掌がざらついていて温かかった。
その手の感触が、最近、思い出せなくなっている。
兄の遺品に、手紙が一通あった。戦地から母宛に送られた最後の手紙だ。日付は兄が死ぬ三日前のものだった。
「夜襲が増えた。正面からは来ない。嫌な剣だ」
わたしはあの手紙を三回読んだ。三回目に文字がにじんだ。母が先に読んでいたからだ。母の涙の跡が紙に残っていた。
わたしが入学する朝、母は門の前に立っていた。
「騎士になるんでしょう」と母は言った。
「うん」とわたしは答えた。
母は頷いただけだった。泣かなかった。兄が死んでからも母は泣かない。泣く暇がないんだと思う。
兄を殺した人間の顔を、わたしは知らない。名前も知らない。
だからわたしの中でそいつらは顔のない影だった。目も鼻もない黒い輪郭だけの化け物。
影は人間じゃないからいくら憎んでも痛まない。だから好きなだけ憎める。
影を憎んでいれば、兄のことを忘れずにいられた。
あの子の模擬戦を見るまでは。
入学式の日、教室で名乗ったとき。「ヴェルダ公国出身」と言った瞬間、わたしの肩が固くなった。
ヴェルダ。兄を殺した国の名前だ。
あれから何度か、あの子の動きを見ていた。
授業中に教科書をめくる手。食堂で匙を持つ指の形。廊下を歩くときの足運び。足音がしない。あの子は廊下を歩いても足音がしない。周りの生徒がぺたぺた歩いている中で、あの子の靴だけが石の床を鳴らさない。靴底を浮かせているわけじゃない。爪先から踵まで同じ重さで踏んでいるのに、音が出ない。教わらなければ身につかない歩き方だ。あるいは教わらなくても、暗闇で音を立てたら死ぬ場所にいれば、体が勝手に覚える。
何を見ているのか、自分でもよくわかっていなかった。あの子に兄を殺されたわけじゃない。ヴェルダ出身だからといって全員が兄の仇というわけじゃない。頭ではわかっている。
今日の午後。剣術の授業。
構えを見たとき、腹の底が冷えた。
低い、教本にない構え。半身で剣を体の横に引いて重心が前に寄っている。
型ではない。型を覚える前に体に刻まれた動き方だった。
ヴィクトルとの模擬戦は三十秒で終わった。防具のない場所を狙う。手首、腋、首。倒れた相手に追い討ちの構えを取りかけて、自分で止めた。止めたのは意志じゃなかった。体が先にとどめの手順を踏んで、途中で「ここは学院だった」と思い出したように止まった。
ヴィクトルが尻もちをついたまま動けなくなっていた。勝者の側の上位貴族が、床に座って見上げていた。
グレン教官が「戦場で覚えた剣は、設計が違う」と言っていた。教室は静まっていた。リーネ・カルヴァスは首を傾げていた。何が問題なのかわからないという顔だった。
わたしだけが、別のことを考えていた。
ペア練習で向かい合ったとき、あの子の目を見た。
明るい緑の瞳。笑うと目が細くなる。わたしと同い年の小柄な女の子。わたしより頭半分低い。腕も細い。体重もたぶんわたしの方が重い。教本通りなら、体格差でわたしが押せる相手だ。
構えた瞬間に笑顔が消えて目の色が変わった。教室で見せるのとは別の、何かを測っている目。わたしの肩幅と足の位置と剣の高さを一瞬で読んでいる。体格差を見ている目じゃなかった。隙を見ている目だった。
打ち込みを受けた。
速い。低い。型がない。
教本に載っている攻撃の十二型のどれとも違った。振りの起点がわからない。手首の角度だけで軌道を変えてくる。受けの型が正面から来ることを前提に組まれているから、横や下から来られると対応が遅れる。
二本目の打ち込みは下から来た。膝の外側。受けの型にない角度だった。教本は上段・中段・下段の三段で攻撃を分類する。あの子の打ち込みはそのどれでもなかった。段ではなく隙を突いている。わたしの体の、防具がない場所だけを選んで打っている。体が覚えている位置だ。人体の一番脆い場所を手が勝手に選んでいる。
受けるたびに手の内が痺れた。あの子の打ち込みは軽い。軽いのに芯まで届く。重さではなく速さで骨を揺らす剣だった。兄の剣は重かった。父の剣も重かった。ヴォルフの型は重い剣で壁を作る。あの子の剣は軽くて壁の隙間を通り抜ける。
それでもわたしは受けた。崩れなかった。ヴォルフ騎士団の型は、最初から砕けない受けを叩き込まれる。兄もそうだった。父から同じ型を仕込まれて、わたしより上手に受けていた。兄の受けは壁みたいだった。何が来ても崩れない分厚い壁。
その壁を、ヴェルダの遊撃隊は夜に越えた。
三本目で、あの子の木剣がわたしの手首をかすめた。
防具のない場所だった。狙っている。
構えを見てから入ってくる。小さくて速い。型がない——兄が「嫌な剣」と書いたのは、これだ。
わかっている。あの子に兄を殺されたわけじゃない。わかっているのに体がわかっていない。腕の内側が冷えた。
練習が終わって木剣を返却台に置くとき、あの子の方を見てしまった。
リーネ・カルヴァスは汗もかかず息も切れていなかった。笑顔に戻って、何事もなかったかのように隣の生徒と何か話していた。
わたしの手首はまだ痺れていた。木剣がかすめた場所がじわりと熱い。あの子は気にしていない。体が勝手にやったことをたぶん覚えてもいない。
わたしも模擬戦に選ばれた。別クラスの男子を二本で倒した。
木剣を返却台に置くとき、またあの子を見た。あの子もこちらを見ていた。首を傾げていた。何を見ているんだろうというような顔で。
わたしにも、わからなかった。あの子の動きのどこかに、見なければならないものがある気がした。まだ掴めていなかった。
模擬戦が終わって、グレン教官が解散を告げた。
生徒たちが訓練場を出ていく。わたしは木剣を片付けて、防具を外していた。
隣の訓練場から爆音がした。
石の壁が震えた。熱風と砂が壁を越えて吹き込んできた。
わたしは構えた。反射だった。素手で半身になって重心を落とした。
騎士の型は防御から入る。まず身を守れ。守った上で敵を見極めろ。父の教えの通りに体が動いた。
上級生の暴発だ。壁が防いでいる。判断には一秒もかからなかった。
わたしが構えを取って壁の向こうの状況を見極めようとしたのと、ほぼ同時だった。
視界の端で、リーネ・カルヴァスが動いた。
消えた、と思った。
さっきまでそこにいた。笑っていた。それが爆音の瞬間にいなくなった。
わたしは防御の構えのまま立っていた。
あの子は跳んだ。わたしが身を守っている間に、あの子は誰かの方へ跳んだ。
地面を蹴る音が低かった。助走がなかった。立っていた場所から斜め前に跳んだ。
近くにいた生徒の頭を片手で掴んだ。後頭部を掌で覆うようにして首ごと引き倒した。もう片方の手で背中を押さえて覆い被さった。
「伏せろ! 頭下げろ!」
別人の声だった。低くて鋭くて迷いがなかった。何度も人を動かしてきた声。実際に人が死ぬ場所で出す声だった。
わたしの足は止まっていた。
父に教わった型の通り、重心を落として身を守って敵を見極めようとした。正しい判断だ。正しいはずだ。
なのにあの子はわたしより速く動いた。守るためじゃなく、守らせるために。自分の体を盾にするために。
小さくて速い。助走もなく跳んだ。
兄の手紙が重なった。
あれは、ああいう動きをする兵士だ。夜に来て音もなく跳んで、的確に首を取ってためらわず殺して朝には消える兵士。ヴェルダの遊撃隊。
兄を殺したのは、ああいう動きをする人間だ。
影に、顔がついた。
亜麻色の髪、笑うと目が細くなる明るい緑の瞳。わたしと同い年の女の子。
それが今、地面に伏せて見知らぬ生徒の上に覆い被さっている。あの声で叫んでいる。
三秒後に、あの子は起き上がった。
「あ、ごめんね。びっくりしちゃって。体が勝手に動いちゃった」
笑った。
さっきまで別人の声を出していた口が、いつもの声に戻って笑っていた。
わたしは動けなかった。防御の構えを取ったまま、足が地面に貼りついていた。
周りの生徒も止まっていた。木剣を持ったまま、防具を外しかけたまま、誰も動けなかった。
グレン教官が歩いてきた。走らなかった。足音が一定で速さが変わらなかった。あの人も軍人だったんだと思った。走らないことで周りを落ち着かせている。
教官があの子の肩に手を置いて、何か短く言った。声は聞こえなかった。あの子は頷いて、笑って、何か答えた。笑顔の出が速かった。一瞬で戻る。さっきまでの声が嘘みたいに、いつもの顔に切り替わっていた。
周りの生徒が動き始めた。何人かが壁の向こうを覗きに行って、何人かが互いに顔を見合わせていた。ざわめきが訓練場を埋めていく。日常が戻ろうとしている。あの子の三秒間を見なかったことにして、全員が元の場所に戻ろうとしている。
わたしだけが戻れなかった。
あの子の下にいた生徒が顔を上げた。白い顔をしていた。目が見開かれていた。
「大丈夫? 怪我してない?」
あの子が手を差し出した。引き起こそうとして。
生徒がびくっと体を引いた。あの子の手から逃げるように。
あの子の手が空中で止まった。
わたしはそこまで見て、目を逸らした。
いつの間にか返却台から木剣を取っていた。覚えがない。柄に掌の汗が残っていた。
これ以上見ていられなかった。
木剣を返却台に戻して、訓練場を出た。
見ていられなかったのは、怖かったからじゃない。
あの動きは攻撃じゃなかった。
兄を殺した動きで、人を守る奴がいる。
そんなの、聞いていない。
部屋の椅子に座ったまま、壁を見ている。
窓の外が暗くなってきた。
兄の顔を思い出そうとした。
毎晩やっていることだ。寝る前に兄の顔を思い出す。目を閉じて輪郭を描く。最初のころは鮮明だった。眉の形、額の広さ、下唇の裂け方。笑ったときに左の口角だけ上がる癖。
それが最近ぼやけてきている。額の線が思い出せない。眉の太さが曖昧になっている。左の口角が上がっていたのか右だったのかわからなくなっている。
声はもう思い出せない。低かったのは覚えている。でもどんな低さだったか、わたしの名前を呼ぶときどんな声だったか。思い出そうとすると空白がある。音のない空白。
朝の道場で、わたしの肘を掴んで「ここ」と言った声。あの声がどんな音だったか。手の温度は思い出せなくなったのに、手の大きさはまだ覚えている。指が余るくらい大きかった。でもいつかそれも消える。大きさが消えて、形が消えて、最後に「あった」という事実だけが残って、それも薄れていく。
兄は記憶の中で少しずつ消えていく。
消えないものが一つだけある。怒りだ。
ヴェルダという名前を聞いたときの腹の底の冷え。あの子の構えを見たときの腕の内側の痺れ。リーネ・カルヴァスが笑うたびにこめかみの奥で鳴る硬い音。
兄の顔がぼやけても怒りの輪郭はぼやけない。兄の声が消えても怒りの音は消えない。
怒りだけが兄の輪郭を保っている。手放したら兄が消える。顔の輪郭がぼやけて声の低さが消えて、最後に怒りまで消えたら、兄はわたしの中から本当にいなくなる。
だから手放せない。
なのに今日、あの子は跳んだ。同じ速さで同じ低さで、向かう先だけが違った。殺す方じゃなくて守る方に跳んだ。
影の中に入れておいた相手が影の外に出てきて、亜麻色の髪で笑っている。
憎ませてくれない。
兄がなりたかった騎士を育てる学院に、兄を殺した側の子供が通っている。毎日教室で笑っている。友達と話して焼き菓子を分け合って、教科書に頬杖をついて。それが「融和」だと言われている。兄が死んだ場所は教科書に一行も載っていないのに。
わたしの怒りは正しい。兄が死んで父が壊れて母が一人で立っている。それだけの理由がある。
夕食の鐘が鳴った。
椅子から立ち上がって制服の襟を直した。
鏡を見た。いつもの顔だった。赤い短髪。鋭い目。誰にも何も悟らせない顔。
目の下が少し赤い。泣いてはいない。泣く理由がない。怒っているだけだ。怒っているだけなのに、目の裏が熱い。
食堂に行かなければならない。腹は減っていない。でも行かなければならない。食事を抜けばルームメイトが何か聞いてくる。余計なことを聞かれたくない。
あの子も食堂にいるだろう。壁際の席に座って、出口に近い場所を選んで、友達と笑っているだろう。さっきの訓練場のことなんか忘れたみたいに。あの子はいつもそうだ。何が起きても笑って、流して、なかったことにする。わたしだけがいつまでも訓練場に立っている。
憎めばいい。庇おうが笑おうが関係ない。
怒りは兄を覚えている唯一の場所だ。手放さなければいい。
拳を握った。
手の冷たさが、戻らない。