わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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眠れない。

 

いつものことだ。

消灯の鐘が鳴って、ミラがベッドに入って、二分もしないうちに寝息が聞こえ始める。ミラの寝つきの良さはもう慣れた。横になった瞬間にスイッチが切れるみたいに落ちる。安全な場所で育った体はそういうふうにできている。

 

わたしの体は、そうなっていない。

 

ベッドの壁際に寄って、目を閉じている。背中が壁に触れている。それだけで少し楽だ。背中だけは守られている。

窓を確認した。二階。飛び降りても骨は折れない距離。窓の正面に木立。走り込めば隠れられる。

確認するのは癖だ。毎晩やっている。やらないと落ち着かない。やったからといって眠れるわけでもないけど。

 

ミラの寝息が部屋に満ちている。穏やかで、規則的な呼吸。

この音が聞こえている間は大丈夫だ。頭ではわかっている。

 

天井を見ている。

暗い天井。石造りで、少しだけ凹凸がある。寮の部屋は全室同じ造りらしい。初日から毎晩、同じ天井を見ている。

 

今夜は少し蒸し暑い。初夏の夜で、窓を閉めていると部屋の空気が重い。

風に当たりたくなった。

 

ベッドから静かに出た。

足を床に下ろすとき、音を立てないように爪先から着地する。癖だ。

ミラの寝息が止まらないことを確認してから、ドアを開けた。廊下に出る。

 

廊下は暗くて、静かだ。

等間隔に据えてある灯りが弱く点いている。石の壁が昼の熱を残していて、裸足の足裏に温かさが伝わる。

 

前線では、夜に外に出ることは二つしかなかった。索敵か、奇襲か。どちらも死に近い方の仕事だ。

目的のない夜の外出は、考えたこともなかった。

だからこれは贅沢だ。風に当たりたいから出る。それだけの理由で、暗い廊下を歩いている。贅沢。

 

廊下の突き当たりに、バルコニーがある。

女子寮の二階の、東向きのバルコニー。手すりは石造りで、腰の高さまである。昼間は洗濯物を干している生徒もいるけど、消灯後は誰もいない。

 

はずだった。

 

バルコニーに出ると、人がいた。

 

栗色の髪。手すりに両手を置いて、空を見上げている。

夜風に髪が揺れている。月明かりに灰青色の目が光った。

 

「ルチア?」

 

ルチアが振り向いた。

 

「リーネ」

 

少し驚いた顔をしたけど、すぐに柔らかい表情に戻った。

 

「眠れないの?」

 

「ちょっと、風に当たりたくて」

 

同じだ。ルチアも眠れなかったらしい。

寝巻きの上に薄手の上着を羽織っている。髪は下ろしていた。いつものハーフアップではなく、そのまま肩に流してある。昼間と少し印象が違う。

 

「隣、いい?」

 

「うん」

 

手すりに並んだ。

ルチアの左隣。壁側。建物の壁が背中に近い位置にある方を自然に選んでいる。

 

 

 

夜風が気持ちいい。

 

昼間の蒸し暑さが引いて、空気が冷えている。肌に触れる風がちょうどいい温度だ。

風に匂いはない。焦げた匂いもしないし、血の匂いもしない。花壇の草の匂いが、かすかに。

 

バルコニーから見える景色は広かった。

学院の屋根が眼下に連なっていて、その向こうに王都の夜景がある。窓の明かりが散らばっている。黄色い灯り、橙色の灯り。家の中で誰かが起きている。本を読んでいるのか、子供を寝かしつけているのか。

市場のあたりに灯りが密集している。あの辺りは夜も屋台が出るらしい。ルチアに連れて行ってもらった砂糖漬けの屋台も、あの灯りの中にあるのかもしれない。

前線の夜は暗かった。明かりは位置を知らせるから、火を焚くのは危険だった。遠くに見える光は、たいてい燃えている何かだった。

 

「きれいだね」

 

ルチアが言った。

 

「うん。きれい」

 

本当にきれいだと思った。灯りがきれいだ。この灯りは何かが燃えているんじゃなくて、誰かが暮らしている印だ。

 

学院の屋根の下にも灯りがいくつか残っている。教官棟の窓。誰かがまだ起きている。グレン先生だろうか。あの人は夜遅くまで執務室にいることがある。

遠くの丘の上に、見張り塔の灯りが一つ。王都の外壁の灯台だ。ゆっくり回転している。あれは前線の見張り台と同じ仕組みだけど、ここの見張りは敵を見張っているんじゃなくて、船の道案内をしているらしい。同じ「見張り」でも、目的が違う。

 

しばらく黙って夜景を見ていた。

 

手すりの上に何かが動いた。

 

大きな蛾だった。

掌くらいある茶色い蛾が、石の手すりの上を這っている。夜の灯りに引き寄せられたんだろう。羽が月明かりを反射して、粉を纏ったように光っている。

 

ルチアが小さく悲鳴を上げた。

 

声にならない声。「ひっ」という短い吸気。体が後ろに一歩下がる。手すりから手を離して、肩をすくめている。

 

わたしは蛾を見た。毒はない。羽の模様で判別できる。前線にいた頃は虫をよく見た。毒のある虫と毒のない虫の区別は、生存に直結する知識だった。この蛾は無害だ。

 

手を伸ばして、蛾を手すりの外に払った。蛾が夜の空気の中に飛び去っていく。

 

「大丈夫、毒はないよ」

 

「虫、苦手で……」

 

ルチアが恥ずかしそうに言った。頬が少し赤い。月明かりでもわかる。

 

「わたし、こういうのは平気だから」

 

笑った。

 

「虫とか、暗い場所とか、高い場所とか。そういうのはいくらでも守れるよ」

 

軽く言った。

口から自然に出た言葉だった。虫を払うくらいのこと、何でもない。暗い場所も高い場所も、前線では日常だった。そこで平気でいることは、わたしにとっては息をするくらい簡単なことだ。

だから「守れる」と言った。大した意味はない。前線で仲間に「わたしがやるよ」と言うのと同じだ。汚れ仕事の順番を交代する感覚。

 

ルチアが少し黙った。

わたしの顔を見ている。

何か言いたそうな目。でも何も言わなかった。

 

手すりに手を戻して、また空を見上げた。

 

 

 

空に星が出ていた。

 

王都は明るいから、前線で見た星空ほどではない。でもバルコニーは学院の東端にあって、建物の灯りが少ない方角を向いている。空の半分くらいは見える。

 

「星、綺麗だね」

 

ルチアが言った。

 

見上げた。

白い点が散らばっている。明るいのと暗いのが混じっていて、雲の薄いところに集まっている。

 

北極星がすぐに見つかった。

空の高い位置、やや右寄り。あの星を基準に、南東が学院の正門の方角。北西が訓練場。北極星から四十五度下に下ろした線の延長に、王都の中心がある。

月は東の低い位置。欠け始めている。あと三日で半月。月が細いと夜が暗くなる。暗い夜は奇襲に向いている。

雲の流れ方から風向きを読む。南西からの風。高度の高い雲と低い雲で方向が違う。上空では風が回っている。明日は天気が崩れるかもしれない。

 

全部自動で読んでいた。

星を見たら方角を確認して、月を見たら残り日数を計算して、雲を見たら天候を予測する。前線ではそれが「星を見る」ということだった。

 

「うん。前は星を見ると方角を確認してたけど、今はただ綺麗って思える」

 

嘘じゃない。綺麗だと思えるのは本当だ。

方角も同時に読んでいるけど。

 

「……戦争の時?」

 

ルチアが聞いた。声が少し低くなった。

 

「うん」

 

軽く答えた。

 

全部、任務のための情報だった。星も月も雲も。

今は、ただ光っている。それだけでいい。

それだけでいいと思えるようになったのは、いつからだろう。学院に来てからだ。たぶん。

 

「辛くなかった?」

 

ルチアが聞いた。

 

「え?」

 

「戦争の時。星を見て方角を確認するって……そういう生活が、辛くなかった?」

 

「なんで?」

 

本気で聞いている。何が辛いのかがわからない。

星を見て方角を確認するのは、あの場所での普通だった。水を飲んで、飯を食って、方角を読んで、敵を殺して、寝て、起きて、また歩く。全部同じ日常の動作で、そこに辛いとか辛くないとかの判別をつけたことがなかった。

 

ルチアがわたしの顔を見ている。

目が揺れていた。何かを探しているような目。答えを見つけようとしているような目。

何を探しているのかは、わからない。

 

「わたしにとっては普通のことだったから。辛いっていうか、そういうものだったから」

 

「わたしには想像できない。十三歳で、毎晩星を見て方角を読む生活って」

 

静かな声だった。問い詰めてもいないし、憐れんでもいない。ただ、そう言った。

 

「うん。まあ、そういうものだったから」

 

ルチアは頷いた。それ以上聞かなかった。

夜の風。冷たすぎず、温かすぎない風が手すりの上を撫でた。

 

ヴィクトルに「敗戦国の兵士が」と言われたときは何も感じなかった。ドルフ先生に「融和政策の成果」と言われたときも、まあそうですね、としか思わなかった。

ルチアの「想像できない」は、それとは違う種類の言葉だった。何が違うのかはうまく言えない。わかったふりをされるより、想像できないと言われる方が、なぜか楽だった。

 

 

 

「ねえ、ルチアは怖いものある?」

 

話題を変えた。

重い空気になりかけていた気がしたから、というのもあるけど、単純に聞いてみたかった。

 

「虫」

 

即答だった。

さっきの蛾のことがまだ残っているらしい。

 

わたしが笑うと、ルチアも少し笑った。

 

「あと、試験」

 

「試験」

 

「うん。歴史の筆記とか。覚えること多くて」

 

「いいな、そういうの」

 

口から出た。出てから、変なことを言ったかな、と思った。

 

「わたし、怖いものがよくわからなくなっちゃったんだよね」

 

ルチアがこちらを見た。

 

「たぶん全部怖すぎて、麻痺しちゃったのかな。あはは」

 

笑いながら言うと、冗談みたいに聞こえる。

冗談じゃないけど、深刻に言う話でもない。事実だ。怖いものがわからない。虫は怖くない。暗闇も怖くない。高い場所も怖くない。爆発音がしたら体が動くけど、あれは怖がっているのとは違う。体が勝手にやっているだけだ。

怖いという感覚がどこかにあったはずだ。十三歳で前線に出る前は、たぶんあった。暗い夜道が怖かったり、犬に吠えられて怖かったり。母に手を繋いでもらうと安心した記憶がかすかにある。あの安心の手前には、怖さがあったはずだ。でも感触が残っていない。

 

ルチアは笑わなかった。

手すりの上の自分の手を見ていた。

 

「リーネ」

 

「ん?」

 

「虫は、わたしが怖がるから」

 

「え?」

 

「虫とか、暗いのとか。わたしが怖がるから、リーネが守ってくれたらいいよ」

 

変なことを言う。

守るって、蛾を払っただけだ。

 

でもルチアの声は穏やかで、冗談とも本気ともつかない温度だった。少し笑っているような、少し真剣なような顔。

 

「うん。いつでも」

 

そう答えた。

虫を払うくらいなら、いくらでもやる。

 

ルチアが手すりに肘をついて、頬杖をした。月明かりの中で横顔が見えた。鼻筋が細い。睫毛が長い。目がさっきより少し柔らかくなっている。

こういう顔をしているんだな、と思った。昼間の教室で見る顔とは少し違う。教室ではもっとぱきっとしている。背筋が伸びていて、受け答えが正確で、品のいい貴族の長女の顔。今は力が抜けている。頬杖をして、夜の空を見上げている。瞬きが遅い。眠いのかもしれない。

こっちの方がいいな、と思った。昼間の教室の顔より、こっちの方が。何がいいのかはわからない。わからないけど、この顔を見ていると、胸の奥がすこし温かくなる。気のせいかもしれないけど。

 

 

 

しばらく黙って星を見ていた。

 

風が吹くたびに甘い匂いがかすかに届く。シャンプーの匂いだ。花の匂い。

わたしの髪は無造作に束ねただけで、匂いも何もない。ミラと同じシャンプーを使っているはずなのに、ルチアの方が匂う。髪の量の違いか、洗い方の違いか。

 

ルチアが空を見上げたまま、口を開いた。

 

「最近、家から手紙が来て。弟が風邪引いたって」

 

「大丈夫?」

 

「うん、もう治ったって。手紙に『ぜんいん』って書こうとして『せんいん』になってた」

 

ルチアが少し笑った。弟の話をするときの顔は、教室のときより柔らかい。

 

少し強い風が吹いた。ルチアの上着の裾がはためいた。わたしの束ねた髪はほとんど動かない。短いから。

 

風の方角を無意識に読んでいた。北東の風。中程度。この風なら矢は右に流れる。距離五十メートルで拳一個分の補正——。

頭ではわかっている。矢も飛んでこないし、弓を構える必要もない。バルコニーに立っているだけだ。でも体が勝手に計算する。前線で二年間やり続けたことは、やめようと思ってやめられるものじゃない。

 

「リーネ、何考えてた?」

 

「え? ああ、風が気持ちいいなって」

 

嘘じゃない。気持ちいいのは本当だ。

風向きのことは言わなくていい。

 

「そろそろ冷えてきたね」

 

ルチアが腕をさすった。薄手の上着では足りないくらい、夜風が冷たくなってきている。肩が少し震えている。

わたしは平気だ。前線で野営していた夜に比べたら、この程度の冷えは何でもない。雪の中で塹壕に蹲って、歯を鳴らさないように奥歯を噛みしめた夜に比べたら。でもルチアは違う。この子は温かい場所で育った体をしている。

 

「戻ろうか」

 

「うん」

 

手すりから手を離した。バルコニーの入り口に向かう。

建物の中に入ると、外の風がなくなって、廊下の空気が温かく感じた。石の壁がまだ昼の熱を蓄えている。

 

廊下は暗い。

等間隔の灯りが弱く点いているだけで、足元は薄暗い。

 

わたしは歩いた。いつも通り。

 

「リーネ、足音しないね」

 

ルチアの声が後ろから聞こえた。

 

自分の足を見た。

確かに音がしていない。石の床を踏んでいるのに、足裏が鳴らない。爪先から踵まで均等に重さを乗せて、衝撃を殺しながら歩いている。いつもやっていることだ。

 

「あ、癖。暗いとき足音を立てると居場所がばれるから」

 

言ってから、今のも変だったかな、と思った。

学院の寮の廊下で、居場所がばれるも何もない。

 

ルチアが少し遅れて歩いている。ルチアの足音は聞こえる。ぺた、ぺた、と素足が石を踏む音。普通の音だ。普通の人間の歩き方だ。

 

「……ここでは、ばれても大丈夫だよ」

 

ルチアの声が静かだった。

廊下の暗さの中で、柔らかく響いた。

 

ばれても大丈夫。

撃たれない。狙われない。足音を立てても、誰も襲ってこない。

 

「そうだね」

 

笑った。

それから、少しだけ意識して足音を立てて歩いてみた。

 

難しい。

足音を立てる方が難しい。二年間かけて消した足音を、意識して出そうとすると、体が抵抗する。踵を先につけると音が出る。でも体が勝手に爪先から着地しようとする。

 

ぎこちない足音が廊下に響いた。

ぺ、た。ぺ、た。

リズムがおかしい。踵が石に当たる音が大きすぎて、爪先の音が消えている。交互に踏んでいるのに片足分しか聞こえない。ルチアの足音とは全然違う。

 

ルチアが後ろで少し笑った。

声を出さない笑い方。息が漏れるみたいな、小さな笑い。

 

「何、おかしい?」

 

「ううん。ちょっと……赤ちゃんの歩き方みたい」

 

「ひどいな」

 

わたしも笑った。確かに赤ちゃんの歩き方みたいだ。足音を立てることを、一から練習している。十六歳が足音の出し方を学び直している。

剣の構え方は教わらなくても体が覚えた。急所の狙い方も、追い討ちの動きも、全部体が勝手にやる。なのに足音を立てることだけが、こんなに難しい。人を倒す動きは体が覚えているのに、普通に歩くことができない。おかしな話だ。

 

「練習すれば上手くなるよ」

 

「足音の練習って何」

 

ルチアがまた笑った。今度は声が出ていた。小さい声だけど、廊下に響いた。

 

「静かに。他の子起きちゃうよ」

 

「ルチアが笑わせるからでしょ」

 

「わたしのせい?」

 

二人で口を手で押さえて、声を殺して笑った。

消灯後の廊下で、二人で笑いを堪えている。しょうもない。足音の話でこんなに笑うことになるとは思わなかった。

 

笑いが収まっても、まだ口元が緩んでいる。

目が合うとまた笑いそうになる。ルチアの目尻が下がっている。灯りの弱い廊下で、灰青色の目がきらきらしている。

 

わたしの足音はまだぎこちないままだ。ぺ、た。ぺ、た。ルチアの滑らかな足音と交互に廊下に響いている。二人分の足音が噛み合わない拍子で鳴っている。

なんだろう、この感じ。悪くない。

前線で並んで歩くときは、足音を合わせるのが基本だった。二人の足音がずれると、一人分の音に聞こえなくなるから。ここでは揃えなくていい。ずれていていい。ずれているのが、なんだか楽しい。

 

ルチアの部屋の前に着いた。

ルチアの部屋はわたしの部屋の三つ隣だ。同じ階の、同じ廊下。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

ルチアがドアに手をかけた。

 

「おやすみ。ルチア」

 

ルチアが振り向いた。

 

「……今日、話せてよかった」

 

声が少し小さかった。さっきまで廊下で笑い転げていた子が、一拍だけ真剣な顔をしている。

 

「わたしも」

 

そう答えた。

 

ルチアがドアを開けて、中に入った。

静かに閉まったドアを見て、少し立ち止まった。

廊下がまた静かになった。さっきまで二人分の足音が鳴っていた石の床が、何事もなかったみたいに黙っている。

 

 

 

自分の部屋に戻る。

ドアを開けると、ミラの寝息が聞こえた。ベッドの中で丸くなっている。毛布をほとんど蹴飛ばしている。枕を抱え込んで、掛け布団は足元にくしゃくしゃになっている。寝相が悪い。このまま寝たら朝方冷える。

毛布を拾って、ミラの肩までかけ直した。ミラは起きなかった。むにゃ、と何か言って、寝返りを打って、また丸くなった。

この子は本当によく寝る。爆発が起きても目を覚まさないんじゃないか。それは冗談だけど、これだけ安心して眠れるのは、たぶん幸せなことだ。

 

足音を立てないようにベッドに戻った。

壁際に寄る。背中が壁に触れる。

 

さっきのバルコニーのことを考えている。

 

楽しかった。

楽しかったと思う。

 

ルチアに「辛くなかった?」と聞かれたことを思い返している。

辛くなかった。辛いと思ったことがない。辛いという判定を下す部分が、どこかで止まっている。楽しいはわかるようになってきた。砂糖漬けがおいしいこと、ミラと笑うこと、ルチアの隣にいること。楽しいと思える。

でも辛いは、わからない。

 

辛くなかったのか。

本当に辛くなかったのか。

 

わからない。わからないことが多い。

まあ、今は考えなくていい。ルチアが聞いたのは、たぶんわたしの答えを求めていたんじゃなくて、ただ聞きたかっただけだろう。聞いて、わたしが「なんで?」と返したとき、ルチアの目が揺れていた。何を考えていたのかはわからない。わからないけど、嫌な目じゃなかった。

 

方角を読まなくても、ただ綺麗だと思えた。

読んでいたけど。同時に。でもそのことは、まあいいか。

 

窓の外に、さっきと同じ星が出ている。

部屋の窓からだと角度が違って、星の数は少ない。でもあの北極星は見える。変わらない位置に、変わらない光で。

 

前線では、あの光が生き延びるための道具だった。

今は、ただ光っている。

 

足音を立てる練習を、明日もやってみようかな。

ルチアに笑われない程度には上達したい。ぺ、た、じゃなくて、ぺた、ぺた、と歩けるようになりたい。普通の人間みたいに。

 

目を閉じた。

暗闇の断片が来るかもしれない。来たら来たで、いつものことだ。

 

でも今夜は、暗闇の前に、バルコニーの夜風と、ルチアの小さな笑い声が残っている。

蛾の羽。消灯後の廊下で二人で口を押さえたこと。

 

それが、暗闇の断片より先に来てくれたらいいのに。

来てくれるかどうかは、わからない。体が決めることだから。

 

ミラの寝息が聞こえる。

穏やかで、規則的な呼吸。

その音を聞きながら、壁際で目を閉じた。

 

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