面談が終わった。
カルヴァスが茶の礼を言って笑顔で出ていった。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。足音がしない。あの子は昼間でも足音を消す。夜になると消える、という次元ではない。石の廊下を歩いているのに、耳を澄まさなければ聞こえない。
教壇に立っていると嫌でも気づく。教室を出入りするとき、あの子の靴だけが床を鳴らさない。周りの生徒がぺたぺた歩いている中で、一人だけ気配がない。
遊撃隊の歩き方だ。
足音が完全に消えてから、立ち上がった。
ドアの鍵をかけた。壁の棚から酒瓶を出した。蒸留酒。戦場では凍える夜に呷った。今は凍えてもいないのに、酒が要る。
グラスに注いだ。机の上に置いた。
机の上にはファイルが開いたままだ。
審問官が書いた、カルヴァスの評価報告書。
右上に名前。リーネ・カルヴァス。元所属、ヴェルダ公国軍第七歩兵小隊。
第七歩兵小隊。遊撃任務。損耗率九割。生存者二名。
数字で書くと短い。
損耗率九割というのは、十人いたら九人死んだということだ。小隊の規模を二十として、十八人が死んだ。一つの小隊が二年間の作戦行動で十八人。補充を含めればもっと多い。死んだ分だけ新しい兵が入って、その兵がまた死んで、また入って、また死ぬ。回転する肉挽き機だ。最後に残ったのが二人。
数字の一つ一つが人間だった。名前があって、顔があって、飯を食って、笑って、眠って、死んだ。
ファイルの経歴欄に目を落とした。
十三歳で徴兵。十五歳で終戦、捕虜。収容所を経て審問。
審問官の筆跡で、短く書いてある。「潜在能力は高い。基礎教育の欠如あり。心的外傷の兆候あり。経過観察を要す」
「心的外傷の兆候あり」。
審問官のこの一行を、俺は半年間、机の上に置いたまま読んでいる。
酒を一口呷った。味がしない。喉を焼く感覚だけがある。
俺は同じ戦争を、反対側から戦った。
エルドレア王国正規軍、第三師団第二中隊。中隊長。
ヴェルダ戦争の四年間を、最前線で過ごした。
始まりは単純だった。王国が北東へ版図を広げたかった。ヴェルダは独立国だった。大陸の北東の端、山がちの小さな国。資源があるわけでもない。ただ王国の拡張路の上にあった。
属国になれと迫った。ヴェルダは断った。だから攻めた。
教科書は「正当な領土回復」と書く。もともと王国の土地だったことなど一度もない。あれは侵略だ。勝った側がそう呼ばないだけだ。
ヴェルダは小さい。兵も魔法師も、王国の数分の一だった。
まともにぶつかれば半年で終わる戦争だった。
だがヴェルダは降りなかった。
山に潜った。夜に来た。補給線を焼いて、朝には消えた。小規模で、速くて、捕まえられない。遊撃戦。焦土戦。
半年で終わるはずの戦争が一年になり、二年になり、三年になった。王国は小国ひとつに四年かけた。
四年。
あの四年で、俺は妙なことに気づいていた。
倒す相手が、年ごとに若くなっていく。
一年目は壮年の兵士だった。髭を蓄えた男、手に火傷のある女。年季の入った革鎧を着て、剣の握り方が板についていた。
二年目に、若者が増えた。革鎧ではなく布の上着を着ていた。剣の代わりに農具を研いだような刃物を持っていた。
三年目。捕虜の顔が変わった。頬に産毛の残る少年。手が小さくて、軍の手錠が手首を通り抜けた。
四年目の終盤には、声変わりもしていない子供が、捕虜の中に混じるようになった。
誰も口にしなかった。
口にすれば、自分たちが何を撃っているか認めることになる。
当時は「敵の練度が落ちた」としか思わなかった。
「終わりが近い」と思った。
国が大人を使い果たした兆候だ、と今ならわかる。大人の兵が足りなくなって、子供まで頭数に入れるしかなくなった。十三で前線に出されたのはカルヴァス一人じゃない。ヴェルダという国がそこまで追い詰められていた。
追い詰めたのは俺たちだ。
終わりは来た。
物量と魔法で磨り潰した。ヴェルダは降伏。指導層は処刑か追放。軍は解体された。
そして「融和政策」が始まった。
敗者にも教育を、と王国は胸を張る。
その実態を、俺は知っている。軍にいた人間なら知っている。有望な子供を王都に集めて目の届く場所に置く。反乱の芽を摘むための予防策だ。王国の教育を受けたヴェルダ人を、将来はヴェルダ統治の道具にする。祖国を管理する側の人間に仕立てる。そして「敗者にも教育を与える我が国は寛大だ」と内外に見せる。
監視と育成と正当化。三つの機能を持った、よくできた仕組みだ。
勝った側だけが、戦争を一行に要約できる。
「正当な領土回復。四年。勝利」。
負けた側は、要約されるたびに、もう一度殺される。
俺は今、その要約を教える側にいる。
教壇に立って、ドルフが検定を通した教科書を使って、戦術論を教えている。あの教科書の中にヴェルダの村の名前はない。焼かれた集落の数もない。子供が前線に出されたことも書いていない。「動員」とだけ書く。十三歳の少女が剣を渡されたことも、その少女の小隊が九割溶けたことも、一行もない。
その教室で包囲戦の対処を聞いたとき、カルヴァスは退路と負傷者の選別から入った。教科書のどこにもない答えだった。歩けない者の切り捨てまで言いかけて、教室の沈黙に気づいて止めた。
あの声には、教科書を暗唱している生徒の声とは違うものがあった。何度もそうしてきた人間の声だった。俺が三十で覚えた判断を、あの子は十三で体に刻んでいた。
笑顔だった。三十人が黙り込んでいる教室で、一人だけ笑顔だった。
グラスを置いた。
ファイルのページをめくった。交戦記録の索引。
第七歩兵小隊。
この名前は、俺の中隊の交戦記録にもある。
ヴェルダの遊撃隊。小規模で機動力が高く、夜襲と奇襲を主体とする。正規軍に比べて装備は劣るが、地形を熟知し、少人数での浸透戦術に長ける。交戦回数は四年間で十数回。そのたびに部下が欠けた。
あの小隊の構えを、俺は知っている。
闇の中から足音もなく来て、構えが見えた瞬間にはもう刃が飛んでいる。低い構え。半身。剣を体の横に引いて、防具のない場所だけを狙ってくる。型がない。隙がない。
あの構えから振られた刃で、部下を失った。一人ではない。顔は覚えていない。暗かったから。構えだけは覚えている。
三年前の秋。ある夜襲の記録が索引にある。
俺の中隊が北東の丘陵地帯で第七歩兵小隊と接触した夜。
報告書には簡潔に書いてある。「22時、丘陵南面にて敵遊撃隊と交戦。交戦時間約40分。敵4名を排除。味方損害、負傷2名」
あの夜のことは覚えている。
月が出ていなかった。暗かった。見張りが物音を拾って、全員が配置についた。
闇の中から来た。小さくて速い影が地形に沿って動いた。あの低い構えが見えた瞬間に、切り結んだ。
何人か倒した。顔は見ていない。暗かったし、見る必要もなかった。撃って、進んだ。それが仕事だった。
四人倒したと報告書にはある。性別も年齢も書いていない。暗闇の中で確認する余裕はなかった。
ファイルの経歴欄をもう一度見た。第七歩兵小隊、従軍期間二年。三年前の秋なら、入隊して一年目だ。あの夜、カルヴァスは十三か十四だった。
あの暗がりのどこかに、十三やそこらの子供がいたかもしれない。
カルヴァスがいたかもしれない。
カルヴァスの隣で死んだ誰かを、撃ったのは俺だったかもしれない。
わからない。確かめようがない。
確かめたくもない。
あの中に十三歳の少女がいたことを、俺はファイルを開いて初めて知った。
半年前のことだ。経歴欄の「13歳で徴兵」を見た瞬間に、椅子の上で固まった。
そして、その構えが訓練場にあった。
模擬戦の日。カルヴァスが木剣を構えた瞬間に、わかった。
あの構えだ。部下を失ったときの構えと同じものが、十六歳の少女の手にあった。
生徒たちが怯えた。俺は構造を説明した。戦場の剣の設計の話をした。ヴィクトルの剣を認め、止める練習を宣言し、カルヴァスが止めたことを評価した。教官としてやるべきことはやった。
だがすぐに説明に入ってしまった。あの子たちの顔を見る間を取れなかった。構造の言葉は出せても、その前に一拍置くことができなかった。
爆発の日はましだった。
暴発のあと、カルヴァスが近くの生徒を引き倒して覆い被さった。俺より速かった。俺が壁の強度を確認している間に、あの子は背中で破片を受ける姿勢を取っていた。
今度は言えた。あの子が庇おうとしたのだと。名前を呼んでやってくれと。模擬戦の日よりは、少しだけ。
だが、まだ言えていないことがある。
模擬戦の日、あの子の剣は止まった。
あの構えの剣が止まったことは、戦場では一度もなかった。止まらなかったから、俺の部下は死んだ。
なのにあの子は止めた。止める型も訓練もない。筋肉で無理やり食い止めていた。腕が震えていた。きれいな止め方じゃない。だが止まった。
受ける側にいた人間だからわかる。あの剣が止まることがどれだけありえないか。
あの瞬間に、それを言葉にする力が俺になかった。
止まらなかった剣で死んだ部下の顔と、止めた十六歳の顔が重なった。両方が本当で、どちらかだけを口にすればもう片方を裏切る。
だから何も言わなかった。教壇からは、あの子がここで学ぼうとしていることだけを伝えた。それは本当だったが、俺が本当に言いたかったことではなかった。
さっきの面談で、笑い方が辛くないかと聞いた。言うべきではなかったかもしれない。
ファイルを読み上げているときは教官の声で喋れた。数字を読む分には平気だ。
だがあの子の顔を見ているうちに、教官の声が保てなくなった。
ファイルの数字を知ったあとで、あの顔を見ている。
十三で徴兵されて二年間前線にいて小隊がほぼ全滅して捕虜になって収容所に入って、それでもあの速さで表情が出る。〇・二秒。何があっても〇・二秒。反射だ。感情を確認する前に顔が動いている。
兵士が身につける技術だ。
感情を殺して、表面だけ繕う。怒鳴られないために、目をつけられないために、面倒を避けるために。息をするのと同じ速度で出る。
俺も戦場で同じことをした。
部下の前では常に平静でいた。動揺を見せれば部隊が揺らぐ。指揮官が笑っていれば兵は安心する。だから笑った。味のしない飯を食いながら笑った。部下が死んだ翌朝に笑った。
だが俺は三十を過ぎた大人だった。
あの子は十三だった。
辛くないかと聞いたとき、あの子は意味がわからないという顔で聞き返してきた。辛いという発想自体がなかった。当たり前だ。息をして辛いかと聞かれても答えようがない。あの子にとっては息と同じなのだ。
普通じゃない。あれは普通じゃない。
治癒師のことを考えた。
体の傷なら治癒魔法で治せる。骨折も裂傷も火傷も、魔力があれば修復できる。
だがあの子の傷は体じゃない。心の傷は魔法で治せない。どれだけ強い治癒魔法をかけても、フラッシュバックは消えない。悪夢は止まらない。
言葉と時間で扱う、別の種類の治癒師が必要だ。
そんな治癒師が、どこにいる。
心の傷を診られる人間は、数えるほどしかいない。体の傷は治せても心の傷は専門外だという治癒師がほとんどだ。戦争のたびに壊れた兵士が出るのに、診る人間が足りない。
俺は何人か知っていた。戦友が世話になった者の名を覚えている。
入学の直後から手紙を出した。返事が来ない。来ても「今は動けない」だ。伝手をたどって名前を集めても、死んだ者、引退した者、大陸の反対側で別の患者を診ている者ばかりだった。
確保するには伝手だけでは足りない。金がいる。学院を動かす名目がいる。今はどれもない。一教官が「生徒のために心の治癒師を招きたい」と言ったところで、予算は下りない。
それに、本人に自覚がない。
何を聞いても笑顔で「大丈夫です」と返す人間に「お前は壊れている」と言っても、蓋がさらに硬くなるだけだ。治癒師を連れてきたところで、本人が拒めば何もできない。
本人が気づくまで待つしかない。
その間も治癒師を探し続ける。見つかる保証はない。
それまでは見守る。何かが起きたら止める。教壇に立って、あの笑顔を見続ける。
それが正しいのかはわからない。待っている間に取り返しのつかないことが起きるかもしれない。爆発の日、あの子は素手で生徒を引き倒した。訓練中に短剣を持っていたら、次は素手では済まないかもしれない。
グラスの酒が減っている。いつ飲んだか覚えていない。
さっきの面談で、あの子は茶を半分残していった。
俺が「戻れ」と言ったから、残ったまま出ていったんだ。飲み干す前に命じてしまった。もう少し待ってやればよかった。湯呑みを二つ並べておいたのは俺だ。あの子が来たら淹れようと決めていた。
あの子は茶を両手で包んで温まっていた。温かいものを両手で包む仕草は兵士のものだ。前線では茶が貴重で、受け取ったら手の中で冷めるまで離さない。
何かあったら来いと言ったとき、声がかすれた。自分でわかった。教官の声に感情が混じった。
あの子は笑顔で出ていった。
グラスを置いた。
手が震えていた。
自分が壊した国の、壊れた子供を、俺が教えている。
あの子は笑顔だった。あの地獄を生き延びて、今日も笑顔だった。
あの笑顔を見るたびに、腹の底で何かが軋む。教壇に立つたびに軋む。半年間、毎日。
堪える。それが大人の仕事だ。
教壇に立つ。授業をする。茶を出す。
あの笑顔の下にあるものを、毎日見ながら、何も言えないまま教壇に立つ。
堪えきれない。
軍ではそうだった。指揮官は堪える。部下が死んでも堪える。報告書を書いて、次の命令を出して、飯を食って、眠って、翌朝に教練を始める。
あの子も同じことをしている。
十三歳であれを覚えた。仲間が死んでも泣かなかった、とファイルに書いてある。審問官の筆跡で「感情の反応が薄い」と。
審問官はそう書いた。俺はそれを「蓋」と呼ぶ。
あの子は蓋を外したことがない。外し方を知らない。
ファイルを閉じた。
棚に戻した。酒を瓶に戻した。グラスを洗って、伏せた。
窓の外が暗い。いつの間にか日が落ちていた。
明日も教壇に立つ。
午前は戦術論の座学。午後は剣術の実技。いつもの時間割だ。
あの子は、たぶん、午前の授業で居眠りする。
席に座って、教科書を開いて、いつの間にか目を閉じている。温かい教室と、低い声と、午後の日差しの中で、敵だった男の前で安心しきって眠る。
それが一番、こたえる。