わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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演習

朝の教室で、グレンが一枚の紙を掲示板に貼った。

 

「午後は合同演習だ。一年のA組とB組、合わせて六十名。四チームに分けて、学院裏の森で旗取りをやる。詳細は掲示を読め」

 

教室がざわついた。合同演習は初めてだ。これまでの実技はクラス単位で、他のクラスの生徒と顔を合わせることはなかった。

 

ミラが掲示板に駆け寄って、戻ってきた。

 

「リーネちゃん、同じチームだよ。ルチアも」

 

「よかった。知ってる人がいると楽だね」

 

ミラが「楽って、遠足じゃないんだよ?」と笑った。

 

掲示の内容は単純だった。四チーム、各十五名。森の中に旗が四本立っている。自分のチームの旗を守りながら、他のチームの旗を奪う。旗を持ったまま自陣に戻れば得点。制限時間は一刻。武器は訓練用の短剣のみ。魔法は使用可。直接の殴り合いは禁止。相手の肩に短剣の柄で触れれば「討ち取り」で、取られた者はその場で座る。

 

演習というより遊びに近い。

でも森で、複数のチームが、旗を巡って動く。それは遊びの形をしている別のものだ。

わたしの体はそっちの方をよく知っている。

 

昼休み、ミラが「リーネちゃん、作戦とかあるの?」と食堂で聞いてきた。パンをちぎりながら。

 

「作戦っていうか、現場を見ないとわからないよ。地形次第だし」

 

「地形……」

 

ミラが不思議そうな顔をした。隣でルチアが静かにスープを飲んでいる。

 

「ルチア、走るの得意?」

 

「あんまり。でも声は出せるよ」

 

「じゃあ見張りがいいかも」

 

わたしが言ったら、ルチアが少し笑った。「まだ始まってないのに、もう配置してる」

そうかもしれない。掲示を読んだ瞬間から、頭の中に地形図が浮かんでいた。森の広さ、木の密度、起伏の予測。掲示に書いてあった情報から、使える地形のパターンを三つほど組み立てていた。

癖だ。考えるな、と言われても止まらない。

 

 

 

午後。学院の裏手に広がる森の入口に、六十人が集まった。

 

知らない顔が多い。B組の生徒はほとんど初めて見る。

制服の上に訓練用の革のベストを着けて、腰に訓練用の短剣を差している。短剣の刃は潰してある。切れないけど、柄で肩を叩くには十分だ。

 

森の入口に、一人の男子が立っていた。

壇の上、というわけではない。少し高い場所にある切り株の横に立って、全体を見渡している。背が高い。金色の髪が日差しを受けて明るく光っている。碧い目。整った顔立ち。絵に描いたような、という形容がそのまま当てはまる人を初めて見た。

 

「二年のA組から来ている生徒会長のユリウス・レーゲンハルトです。今日の演習の運営を担当します」

 

声がよく通る。六十人の前で話し慣れている声だ。背筋が伸びていて、姿勢に迷いがない。こういう立ち方をする人間を前線では見なかった。前線で立つ人間はもっと低くて、もっと速い。この人は高い場所にまっすぐ立っている。撃たれることを想定していない立ち方だ。

平和な場所で育った人の立ち方だな、と思った。

 

ルールの説明がある。掲示板の内容と同じだが、ユリウスが声に出して読むと、妙に格調がある。

 

「この演習の目的は、クラスの垣根を越えた連携の構築です。勝ち負けよりも、仲間との信頼を深めることを重視してください」

 

きれいな言葉だ。前線の上官は「生き残れ。以上」しか言わなかった。

 

チーム分けが始まる。わたしのチームは第三班。ミラとルチアのほかに、B組の生徒が十二人。マーレンは別の班だった。ヴィクトルも別だ。

 

グレンが森の端に立っていた。腕を組んで、生徒たちの様子を見ている。監督役だ。何も言わない。

わたしと目が合った。グレンは何の表情も変えなかった。いつも通りだ。

 

 

 

森に入った。

 

日差しが木の葉に遮られて、足元が暗い。落ち葉が厚く積もっていて、歩くと音がする。

地面の傾斜は東に向かって緩やかに下っている。南側に小川の音が聞こえる。北側は藪が深くて視界が悪い。

 

わたしのチームの旗は、小さな丘の上の木に括りつけてあった。

 

立ち止まった。

周囲を見た。

 

丘の上は見晴らしがいい。三方向から近づく敵が見える。南だけが死角で、小川の向こうから来られると対応が遅れる。

旗の位置は良い。だが守りだけでは勝てない。他の班の旗を奪いに行く必要がある。

十五人を守備と攻撃に分ける。守備は五人で十分だ。丘の上に三人、南の小川沿いに二人。攻撃は十人を二組に分けて、東と北から回る。

 

頭が勝手に動いている。地形、人数、敵の位置、連携。

前線では毎日やっていたことだ。呼吸と同じ速度で出てくる。

 

「あの、どうする?」

 

B組の男の子が声をかけてきた。誰が指揮するか決まっていない。チームリーダーは割り当てられていなかった。

 

「うん、ちょっと待って」

 

考えるまでもなかった。考えるまでもないことを、考えるふりをした方がいいのかもしれない。でも時間がない。開始の合図はすぐだ。

 

「旗の守りに五人。残りは二手に分かれて他の班の旗を取りに行こう」

 

わたしが言ったら、何人かが顔を見合わせた。

一年の、ヴェルダ出身の小柄な女の子が、いきなり配置を決めている。普通なら「誰が決めるの」と反発があるはずだ。

 

「根拠はある?」とB組の背の高い女の子が聞いた。まっすぐな目だ。納得できれば従う、という顔をしている。

 

「この丘は三方向からの接近が見える。南の小川だけ死角になるから、そこに二人。丘の上に三人置けば、敵が来たら声で知らせられる。守りは五人で足りる」

 

女の子が丘の周囲を見た。南を見て、小川を見て、藪の方を見た。

 

「確かに、南だけ見えない」

 

「攻撃は東と北から二手に回る。森の中は音が通るから、足音を立てないで動いて。落ち葉の上を歩くときは足の外側から着地すると静かになるよ」

 

言い終わってから、少し考えた。

足音の消し方まで教える必要は、たぶんなかった。旗取りの遊びで、誰が足音を気にするだろう。

でも他の歩き方を知らない。森の中を複数人で動くとき、足音を消すのは最初に教えることだった。

 

ミラが「リーネちゃん、すごい。作戦みたい」と言った。

作戦みたい、ではなくて作戦なのだけど、訂正はしなかった。

 

B組の男の子が「東のルートはどう進む?」と聞いてきた。素直に配置を受け入れている。反発がなかったのは、たぶん、わたしの説明に理由がついていたからだ。「こうしろ」ではなくて「ここが死角だから」と言ったから、納得した。前線の小隊でも同じだった。理由のない命令には誰もついてこない。

 

「東は尾根沿いに進んで、敵陣の手前で停止。わたしが先に偵察する。旗の位置と見張りの人数を確認してから突入の判断をするよ」

 

「了解」と男の子が答えた。了解。学院の生徒がそういう返事をしたのは初めて聞いた。

 

ルチアがこちらを見ていた。何か言いたそうな目をして、でも何も言わず、守備班の配置を聞いていた。

 

「ルチア、守備の三人の方に入ってくれる? 丘の上から全体を見てて。敵が来たら声を上げて」

 

ルチアが頷いた。

 

開始の笛が鳴った。

 

 

 

攻撃班を率いて、森の東側を進んだ。十人のうちわたしを含めて五人が東、残りの五人はさっきの背の高い女の子に任せて北に回した。北班には「旗の近くに着いたら鳥の鳴き真似をして。三回。それ以外は声を出さないで」と伝えた。「鳥の鳴き真似?」と半笑いで聞き返されたけど、頷いてくれた。

 

前を歩く。自然にそうなった。

先頭を歩いて枝の間から前方を覗き、地面の傾斜を読みながら十歩ごとに止まって耳を澄ます。

後ろの四人は緊張している。木の根を踏む音、落ち葉を蹴る音、息遣い。普通の生徒の歩き方だ。足音を消そうとしているけど、慣れていないから余計にぎこちなくなっている。

前線での索敵と同じ動きをしていることに気づいたけど、他に歩き方を知らない。

 

虫が一匹、枝から腕に降りてきた。翅の模様を見た。毒はない種だ。指で弾いた。

後ろの男の子が「今の虫、大丈夫なやつ?」と聞いた。

 

「うん。翅に黒い点が二つあるのは大丈夫。三つあったら毒があるから触らないで」

 

「なんでそんなこと知ってるの」

 

「前いた場所では、知らないと困ったから」

 

男の子はそれ以上聞かなかった。

 

五分ほど進んだところで、敵班の旗が見えた。

低い窪地の中央に木の杭が立っていて、布が結んである。守りは三人。一人が旗の横に座っていて、二人が窪地の縁を歩いている。

 

「止まって」

 

小声で後ろに合図した。全員がしゃがむ。

 

北班の合図を待った。鳥の鳴き真似が三回聞こえたら、北も仕掛けているということだ。

耳を澄ました。風が枝を揺らす音。遠くで誰かが走る足音。

鳥の声は聞こえない。

三十秒待った。来ない。藪が深いから遅れているのか、見つかって止められたのか。

「合図、来ないけど」と後ろの男の子が囁いた。

合図を待つ間に見張りの巡回が変わるかもしれない。こちらの位置が見つかるリスクの方が高い。守備は三人、こちらは五人。北がいなくても取れる。

「予定変更。北を待たないで行く」

 

見張りの動きを読んだ。窪地の縁を二人が巡回している。一周に四十秒。二人が反対側に回れば、旗の横に一人だけ残る。

 

「見張りが死角に入った瞬間に三人で突入して、旗を抜いて戻る。正面から行くと三対五で向こうは地形の利がある。ここからなら木の陰を使って十メートルまで近づける」

 

後ろの男の子が「待ち伏せ……?」と呟いた。

 

「うん。あ、でも演習だからね。討ち取りも痛くしないようにしよう」

 

見張りが反対側に回った。

 

「今」

 

走った。木の間を縫って、低い姿勢で窪地に滑り込む。足音はほとんどしなかった。落ち葉の上を、足の外側から着地して走る。体が覚えている動き方だ。

旗の横の生徒が気づいて立ち上がったけど、わたしの方が速かった。短剣の柄で肩に触れる。「ごめん、討ち取り」と小声で言った。

生徒が目を丸くしていた。どこから来たのかわからなかったらしい。

 

後ろの二人が旗を抜いた。布をつかんで走る。

見張りの二人が気づいて追ってきたけど、もう森に入っていた。来た道とは別のルートを通って丘に戻る。同じ道を戻らないのは基本だ。追跡者がいた場合に合流点を読まれる。

そこまで考えてから、追跡者とか合流点とか、旗取りの遊びには大げさだな、と思った。

 

自陣の丘に旗を持ち帰った。

ミラが「すごい、もう取ってきたの!?」と声を上げた。

 

「早かったね」とルチアが言った。わたしが戻ったとき、ルチアは丘の上に立って南の方を見ていた。守備の役目をちゃんとやってくれていた。

 

「ルチア、こっちは大丈夫だった?」

 

「さっき第一班が五人くらいで来たの。声を上げたら、南に配置してた二人が横から回り込んでくれて。リーネの言った通りだった」

 

南の死角を突かれなかったのは運が良かった。守備班が自分で判断して動いてくれたからだ。わたしの指示は「声を出して」だけだった。挟み撃ちは彼女たちの判断だ。

 

北に回した五人も戻ってきていた。別の班の旗を持っている。背の高い女の子が息を切らして「ごめん、藪が深くて遅れた。鳥の真似やったんだけど、届かなかったかも」と言った。

届かなかった。やはりそうだったか。合図の方法を森の広さに合わせて考えるべきだった。次があるなら直す。

旗を二本にすると、木に括りつけて並べた。

 

圧勝だった。

 

終了の笛が鳴ったとき、第三班は旗を二本持っていた。自分の旗を守り切った上で、二本奪った。他の三班は自分の旗を守ることで精一杯で、攻撃に人数を割けていなかった。

十五人全員が残っていた。討ち取られた者はゼロだ。

 

 

 

演習中に、一つだけ予定外のことがあった。

 

攻撃班で走っているとき、後ろにいたB組の男の子が木の根に足を取られて転んだ。短い悲鳴が聞こえて、振り返った。

 

膝を抑えてうずくまっている。訓練用のズボンが破れて、膝小僧が擦りむけている。血が出ている。

 

わたしは走って戻った。

膝の前にしゃがんで、ズボンの破れ目を広げて傷を見た。

 

皮が剥けて、薄く血が滲んでいる。擦り傷だ。

傷の深さを確認した。皮膚の表層だけだ。脂肪層まで達していない。膝の皿の上、内側寄り。動脈の走っていない位置だ。

 

「動脈じゃないから大丈夫。止血もいらない。水で洗えば十分」

 

言ってから、男の子の顔を見た。

擦り傷で泣きそうな顔をしている。たぶんそれが普通の反応なのだ。十六歳か十七歳の男の子が、膝を擦りむいて、痛くて、少し怖い。

前線では膝の擦り傷を気にしている暇はなかった。「動脈じゃない」は最優先の判断だった。出血が動脈性か静脈性かで、処置の手順が変わる。噴き出していなければ後回しにできる。次の判断に移れる。

でもここは前線じゃない。擦り傷は擦り傷だ。痛い。それだけのことだ。

 

「大丈夫だよ。痛いよね。ちょっと座ってて」

 

水筒の水で傷口を洗って、ハンカチを巻いた。ハンカチの巻き方だけは正式な包帯の巻き方になってしまった。片結びじゃなくて、端を折り返して布の下に挟む巻き方。解けにくくて、上から圧迫できる。

男の子が巻かれたハンカチを見て「きれいに巻くんだな」と言った。

 

「練習したことがあるから」

 

練習じゃなくて実践だけど、わざわざ言い直すこともない。

 

立ち上がって「動ける?」と聞いた。男の子が頷いた。演習に戻った。

 

 

 

演習が終わって、森の入口に全員が集まった。

 

ユリウスが結果を読み上げた。第三班、二本奪取、自旗保持。圧勝。

 

「素晴らしい結果です。第三班、おめでとう」

 

ユリウスが第三班の方を見て、微笑んだ。

それからわたしの方に歩いてきた。

 

「カルヴァスさん、だったね」

 

「はい。リーネ・カルヴァスです」

 

ユリウスが手を差し出した。わたしは握り返した。大きくて、柔らかい手だった。剣のタコがない。

 

「素晴らしい指揮だった。チームの配置、攻撃のタイミング、守備との連携。全部的確だった」

 

「いえ、みんなが動いてくれたからです。わたしは場所を決めただけで」

 

嘘ではない。ルチアが声を上げてくれたから守備が持った。北に回したB組の女の子たちが自分で判断してくれたから二本目が取れた。

 

「それでも、あの配置は教本にない動きだった。地形の読み方、待ち伏せの組み方、攻守の人数配分。僕は戦術論の教科書を読んでいるけど、あんな風に実際の地形に当てはめられたことはない。どこで学んだの?」

 

「実地で。教本は読んだことないです」

 

「実地?」

 

ユリウスが聞き返した。碧い目がまっすぐこちらを見ている。何かを理解しようとしている目だ。値踏みではない。純粋な関心だ。

この人は知らないのだ、とわかった。わたしが何者かを、この人はまだ知らない。ヴェルダ出身の元兵士だということは名簿で見ているかもしれないけど、それが何を意味するかは知らない。

 

「まあ、ちょっと長い話になるので」

 

笑顔で流した。ユリウスは一瞬だけ口を開きかけて、閉じた。引き下がった。でも目が言っていた。気になっている、と。

 

ユリウスが去った後、ミラが走ってきた。

 

「リーネちゃん、生徒会長と話してたね。すごいじゃん」

 

「褒めてもらっちゃった」

 

「当然だよ。リーネちゃんの指揮、すごかったもん。わたし、守備班で丘の上にいたんだけど、リーネちゃんが出した指示の通りに動いたら本当に勝てたから、びっくりした」

 

ミラはいつも通りだ。模擬戦のときも魔法の壁切断のときも、ミラの反応は変わらない。素直にすごいと思って、素直に言う。深く考えない。それがミラだ。

ルチアは少し離れたところで革のベストの紐をほどいていた。こちらを見て、小さく笑った。何も言わなかった。

 

 

 

ミラとルチアが「先に食堂行ってるね」と手を振った。わたしは訓練用の短剣をまとめて返却棚に運ぶ手伝いが残っていた。

 

片付けをしていたら、ヴィクトルが近づいてきた。

 

腕を組んで、顎を上げて。いつもの姿勢だ。

 

「お前の指揮、あれは卑怯だ」

 

「卑怯?」

 

「待ち伏せだ。物陰に隠れて背後から襲う。正々堂々と正面から来い」

 

正々堂々。

模擬戦にルールがあることは知っている。グレンに教わった。でもルールには「待ち伏せ禁止」と書いてなかった。ヴィクトルが言っているのはルールとは別のものだ。

 

「ああ、そういう戦い方もあるんだ」

 

馬鹿にしているのではない。本当に知らなかった。

 

ヴィクトルの顔が変わった。怒りではなかった。馬鹿にされた方がまだ怒れる、という顔だった。

何か言おうとして、口を開けて、閉じた。

黙って背を向けて、歩いていった。

 

 

 

夕方。寮に戻る前に、訓練場の横を通りかかった。

 

「あの、カルヴァスさん」

 

声をかけられて振り向いた。

演習で膝を擦りむいた男の子だった。B組の生徒だ。名前は知らない。ズボンの膝にまだわたしのハンカチが巻かれている。

 

「さっきはありがとう。膝、もう痛くないよ。水で洗ってくれたおかげで、全然平気」

 

「そっか。よかった」

 

「あと、その、お前がいてくれて——チームにいてくれて、なんか、安心した」

 

安心した。

 

言葉が、一瞬だけ、入ってこなかった。

聞こえてはいた。意味もわかった。でも体のどこに置けばいいのかわからなくて、言葉が宙に浮いた。

 

前線で手当てをしたのは、使える兵士を戦線に戻すためだった。

止血して、包帯を巻いて、「動けるなら戻れ」と送り出す。戻れない奴は後ろに下げる。動脈を確認するのは、処置の優先順位を決めるためだ。助けるためじゃなくて、選別するためだ。

手当てをして、礼を言われたことがない。「ありがとう」はなかった。「まだ動けるか」だった。

役に立ったのは事実だ。でもそれは「役に立つ」ために存在していたからで、「ありがとう」が来る仕組みではなかった。怒鳴られないように動く。それが手当ての動機だった。

 

「安心した」と言われたのは、初めてかもしれない。

 

「……どういたしまして」

 

口から出た言葉はそれだけだった。

 

笑顔が出た。

いつもなら反射で出る。何があっても考えるより先に出る。

今日は少し遅れた。何秒遅れたかはわからない。でも遅れた。

 

男の子が「ハンカチ、洗って返すよ」と言って、走っていった。

 

わたしはその場に立っていた。

夕日が訓練場の壁を赤く染めている。壁の石が昼の熱を残していて、近くを通ると少し温かい。

 

安心した。

その言葉が、まだ胸のどこかにある。置き場所が見つからないまま、消えずに残っている。

今日やったことは前線と同じだったはずだ。でも「安心した」は、「役に立った」の先にある言葉だ。怪我を処置してもらったから安心したのではなくて、わたしがいてくれて安心した、と言った。いてくれて。処置の腕ではなくて、存在を言われている。

 

それはまだよくわからない。わからないけど、胸の中で何かが動いた。名前がつけられないくらい小さくて、でも確かに動いた。

 

嬉しい、のだと思う。

たぶん。

 

食堂に向かった。ミラとルチアが先に行っているはずだ。

壁際の、出口に近い席に、二人分の盆が置いてあるだろう。いつもの場所に。

笑顔が遅れたことは、気にしなくていい。演習で走ったから、疲れたのだろう。

 

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