午後の実技が終わって、教室に戻ってきた。魔法実習の最後の三十分で、また印の練習をやらされた。わたしの親指は相変わらず外に出た。ヘルミーネ先生に「まだ癖が抜けないわね」と言われて、ルチアに二回直してもらって、それでも三回目には外に出た。左手の付け根が少し熱い。使いすぎると、そこがじんわり熱を持つ。
放課後の教室は、日直の当番以外はさっさといなくなる。今日はわたしとルチアとミラの三人だけが残っていた。ミラは机に頬杖をついて、明日提出の魔法理論の課題の話をしていた。
「術式名、また覚えなきゃなんだよね。ヘルミーネ先生の課題。わたしもう無理」
「まだ何も書いてないの?」
「書いてない。だって、詠唱語、五語目から属性ごとに全部違うんだもん。六系統ぶんとか、頭の中でごちゃごちゃになる」
ルチアが自分の鞄からノートを出しながら「わたし、表にして覚えたよ。属性ごとに縦に並べると、分かれる場所が見えるの」と言った。
「表! それ見せて!」
「今度ね。ミラ、手紙出しに行くんじゃなかったっけ」
ミラが「あ、そうだった」と言いながら、鞄を肩にかけた。ミラは夕方までに実家に手紙を出しに行く約束があるらしくて、この時間になるとそわそわする。
「じゃ、先帰るね。リーネちゃん、ルチアちゃん、また明日」
「うん、また明日」
ミラが教室を出ていく。廊下を走る足音が、だんだん遠くなった。ミラは歩くより走る方が多い。急いでいなくても走る。あの足音は、聞いていて安心する。追いかけてくる足音じゃないからだ。
教室に、わたしとルチアだけが残った。
窓から夕日が差している。
西向きの窓じゃないのに、この時間になると、廊下側の窓の上の方から斜めに光が入ってくる。机の木目が赤っぽく見える。埃が光の中で浮いている。誰もいない教室は、昼間の半分くらいの音しかしない。
「リーネ、今日の午前のノート見せて?」
ルチアが自分の椅子を持って、わたしの机の横に来た。
「わたし、戦術論の途中で書き損じちゃって。清書したいの」
「いいよ。でもわたしの字、汚いよ。読める?」
「読めるよ。だいぶ慣れた」
わたしはノートを開いて、机の真ん中に置いた。ルチアが覗き込む。肩がぶつかりそうな距離だ。ルチアの栗色の髪が、少しこっちに垂れてくる。石鹸の匂いがした。花のやつじゃない。ミラの花のやつとは違う、もっと淡い匂い。
わたしの字は走り書きだ。軍の報告書は、走りながらでも書けるように、丁寧に書く習慣がない。線が跳ねているし、字が斜めに倒れている。ルチアの字は縦にまっすぐで、一文字ずつが同じ大きさで並んでいる。並べると、別の言語みたいに見える。
「ここ、なんて書いてあるの?」
ルチアが一箇所を指さした。
「えっと……『退路の優先順位』。退く、路、の。うわ、自分でも読みにくい」
「退路って、逃げ道だよね」
「うん。どこから逃げるか、先に決めておくやつ。それの、どれを最初に使うかっていう」
ルチアが「へえ」と言いながら、自分のノートに書き写し始めた。ペンの先が紙をこする音がする。静かな教室だと、その音がよく聞こえる。
わたしはその横で、消しゴムのかすを集めて、指先で固めていた。特に意味のない手の動き。ルチアが書いているのを、なんとなく見ている。ルチアの手は白くて、指が細い。ペンの持ち方がきれいだ。わたしの手はタコだらけで、指の関節が硬い。ペンより剣の方が長く握っていた手だ。並んでいると、同じ人間の手には見えない。
まあ、いろいろ握ってたから。
前にルチアにそう言ったことがある。剣とか、シャベルとか、担架とか。ルチアはそのとき黙った。
書き写す手が、ノートの端まで来た。ルチアが少し身を乗り出した。
そのとき、ルチアの手がわたしの肩に乗った。
覗き込むために、体を支えるみたいに、何気なく。友達同士なら、なんてことのない動きだ。
体が、跳ねた。
肩の後ろ側に触れられた瞬間、背中の真ん中で何かが縮んだ。肩が上がって、首がすくむ。右手が消しゴムのかすを離して、下に伸びかけた。腰のあたり。何もない場所。
一瞬だった。たぶん、まばたきより短い。
でも、動いたのは体の方が先だった。頭が「ルチアだ」と言うより前に、びくっとなっていた。背後から来る手に、勝手に反応する。誰の手かは関係ないみたいだ。
すぐに戻した。肩を下ろして、伸びかけた手を膝に戻した。
「ごめん、くすぐったくて」
笑顔を出した。口の端を上げて、目を細める。いつもの顔。〇・二秒で出せる顔。
ルチアの手が肩に乗ったまま止まっていた。
引かなかった。乗せたまま、動かさない。
「……嘘だよね」
静かな声だった。
わたしは笑顔のまま、顔を横に向けた。
「何が?」
「今の。くすぐったいんじゃなくて、怖かったんじゃない?」
ルチアの声は穏やかだった。責める声じゃない。詰め寄る声でもない。でも、揺れていなかった。芯が通っていた。聞くと決めて、決めた上で聞いている声だった。
わたしはもう一度、笑顔を出した。
「まさか。ルチアに触られて怖いわけないじゃん」
言いながら、自分の左手が動いていた。さっきルチアの手が乗った肩を、自分の手で押さえていた。触れられた場所を、上から塞ぐみたいに。
いつからそうしていたか、わからない。気づいたら押さえていた。
ルチアがそれを見ていた。わたしの手を。肩を押さえている、わたしの手を。
教室が静かになった。
ミラの足音はもう聞こえない。廊下も静かだ。夕日が机の上を斜めに横切っている。埃が、さっきよりゆっくり落ちている気がする。
ルチアが肩から手を離した。今度はゆっくり離した。離れた手を、自分の膝の上に置いた。
「無理に答えなくていい」
ルチアが言った。
「でも、嘘はつかないで」
わたしは黙った。
何か言おうとして、口を開けた。言葉が出てこなかった。もう一度、笑顔を作ろうとした。作れなかった。口の端が、途中で止まった。
自分の顔から笑顔が消えていることに、わたしは気づいていなかった。気づいたのは、ルチアがまっすぐこっちを見ていたからだ。ルチアの灰青色の目に、わたしの顔が映っていて、その顔が笑っていなかった。
くすぐったい、は嘘だった。それはわかる。くすぐったくはなかった。
でも、怖かったのか。
そこがわからない。
怖いって、なんだろう。虫が怖いとか、試験が怖いとか、そういうのはわかる。ルチアが前に言っていた。わたしはそういうのを怖いと思わない。虫は平気だし、暗い場所も高い場所も平気だ。じゃあ、さっきのは何だったんだろう。怖いっていう感じは、たぶんなかった。心臓がどきどきしたわけでもない。ただ、体が勝手にびくっとなった。それだけだ。
「……わかんない」
やっと出た声は、いつもより低かった。
「怖いのかどうかも、わかんない。体が勝手にびくってなるだけで」
ルチアが小さく頷いた。何か言うかと思ったけど、言わなかった。
わたしは続けた。うまく説明したくて、でも言葉が見つからなくて、途切れながら話した。
「痛くもないし、嫌でもないんだよ。ルチアの手だってわかってるし。わかってるのに、体が先に動いちゃう。頭が追いつく前に。だから……なんて言えばいいんだろう。怖いっていうより、癖、みたいな」
「癖」
「うん。ほら、暗いとき足音立てないようにするみたいな。あれと同じで、体が勝手にやるやつ」
ルチアは、それには何も返さなかった。
代わりに「そっか」と言った。
「そういうこと、あるんだね」
責めなかった。掘り返しもしなかった。ただ、聞いたことを、そのまま受け取った顔をしていた。
わたしはなんだか、居心地が悪かった。悪いことをしたわけじゃないのに、謝りたいような気持ちになった。
「ごめんね。せっかくノート見せてたのに、変な空気にして」
「リーネのせいじゃないよ」
ルチアが自分のノートに目を落とした。書き写した途中の行が、ペンを止めたところで切れている。ルチアはそこにペンを戻さなかった。
「わたしが急に触ったから。ごめん」
「ルチアは謝らないでよ。ルチアは何も悪くないよ」
「リーネも悪くないよ」
二人とも悪くないなら、なんでこんな空気になっているんだろう。わたしはそれがわからなかった。
窓の外で、鐘が鳴った。夕方の鐘。門限まではまだ間がある。でもルチアは「そろそろ寮、戻ろっか」と言って、ノートを閉じた。書き損じの清書は、途中のままだった。
廊下を歩く。
ルチアの寮の部屋は、わたしの部屋と同じ廊下の、三つ隣だ。だから途中まで一緒に帰る。いつもならその途中で、今日あったこととか、明日の授業のこととか、ミラの課題のこととか、そういう話をする。
今日は、あんまり話さなかった。
ルチアは横で歩いている。怒ってはいない。それはわかる。ルチアは怒るとき、静かに怖くなる人だ。今のルチアは、怖くない。ただ、何か考えている。わたしの方をときどき見て、でも何も言わない。
自分の部屋の前で、ルチアと別れた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日、リーネ」
ルチアが三つ先の部屋に入っていく。ドアが閉まる音がした。
わたしは自分の部屋の前で、少し立っていた。
ミラはまだ戻っていなかった。手紙を出しに行ったきり、食堂に寄っているのかもしれない。部屋は暗かった。窓から入る夕方の光だけがある。
わたしはベッドに座った。いつもの壁際。背中を壁につけて、膝を抱える。
右手が左の肩に伸びていた。
さっきルチアの手が乗った場所。今はもう何もない。制服の布があるだけだ。自分の手で、そこを押さえる。触ってみる。ただの肩だ。骨と、筋肉と、布。何も変なところはない。
ルチアの手は、温かかった。
肩に乗ったとき、布ごしでも温かいのがわかった。ルチアの手はいつも温かい。魔法の実習で印を直してもらうときもそうだ。わたしの手は冷たいことが多いから、余計にそう感じる。
温かかったのに、体が拒否した。嫌でも、痛くもなかった。ルチアだとわかっていた。全部わかっていたのに、頭より先に腰へ手が伸びた。何もない腰に。剣があった場所に。
なんでだろう。
逃げる理由がないのに逃げる。人の手が、いちばん平気じゃない。それも、優しい手が。
前も、そうだった。図書室でルチアの横で眠ったとき。あのときは平気だった。眠っていたからかもしれない。起きているときは、だめなのかもしれない。
自分の手を見る。この手は、剣だけじゃない。人の腕も、喉も掴んだ。覚えていることの多くは、たぶん、人を傷つける動きだ。
そういう手が、優しく触られると、逃げる。
わたしの体、おかしいのかな。
そう思って、少しだけ引っかかった。でも、それ以上は考えなかった。考えても、たぶんわからない。ルチアにもわからなかったし、わたしにもわからない。怖いのかどうかも、わからないんだから。
膝を抱えたまま、窓の外を見た。空が、赤から紺に変わりかけている。窓の正面の木立が、黒い影になっていく。前線なら、あの木立は真っ先に確認する場所だ。人が隠れられる。奇襲が来るなら、あそこからだ。ここでは違う。ただの木だ。誰も隠れていない。
肩を押さえていた手を、下ろした。
ミラの足音が、廊下の向こうから聞こえてきた。走っている。あの足音は、追いかけてくる足音じゃない。ドアが開いて、「ただいまー」とミラが言った。
「おかえり」
わたしは笑顔を出した。今度のは、どっちの笑顔だろう。自分でもよくわからなかった。