目を開けると、知らない天井があった。
白くて、ひびもシミもない天井。
体が一瞬だけ強張る。
ここはどこだ、と考える前に、昨日の記憶が追いついた。
学院だ。
王立学院の、寮の部屋。
窓は開けたままだった。
朝の空気が流れ込んできて、カーテンの裾が揺れている。
鳥の声がする。
遠くで鐘が鳴った。
六つ。朝の六時。
起き上がって、隣のベッドを見た。
昨夜は荷物だけだったベッドに、人がいる。
毛布にくるまった小柄な体。
茶色い髪がおさげになっていて、枕の上にぺたりと広がっている。
顔にそばかすが散っている。
口が半分開いていて、寝息が聞こえる。
ルームメイトだ。
昨日の午後に到着したらしいが、わたしが食堂から戻ったときにはもう眠っていた。
わたしは音を立てないようにベッドを降りた。
足の裏に、冷たい石の感触。
着替えは昨日のうちに出してある。
制服に袖を通す。
ボタンは昨日より速く留められた。
体は覚えるのが早い。
顔を洗いに部屋を出ようとしたとき、背後で声がした。
「ふぁ……んん……おはよ……」
振り向くと、ルームメイトがベッドの上で半身を起こしていた。
目が半分しか開いていない。
おさげの片方がほどけて、毛布から腕だけ出して頭を掻いている。
「おはよう。リーネ・カルヴァスです。よろしくね」
わたしはできるだけ明るく笑って言った。
「……ミラ。ミラ・ケーニヒ。……いま何時?」
「六時ちょっと過ぎ」
「ろくじ!?」
ミラは毛布を頭まで被った。
「むり。あとさんじゅっぷん……」
くぐもった声が毛布の中から聞こえた。
わたしは少し笑って、部屋を出た。
六時に起きるのは遅いくらいだ。
前線では五時起床。
五分で身支度。
十分で朝食。
それが終わったら訓練か哨戒。
もたついたら隊長に蹴られた。
ここでは三十分寝坊しても誰にも蹴られないんだから、いい場所だ。
食堂で朝食をとった。
パンと、卵と、温かいスープ。
五分で食べ終わった。
ゆっくり食べようと思っていたのに、気がつくと皿が空になっていた。
昨日と同じだ。
まあ、明日こそ。
食堂はまだ人がまばらだった。
早起きは得だ。
席が選べる。
食器を返して、教室に向かう。
本館二階、東の廊下の突き当たり。
一年A組。
昨日のうちに確認しておいた場所だ。
教室に入ると、まだ五、六人しかいなかった。
わたしは迷わず後方の壁際を選んだ。
廊下側の扉に近い席。
壁を背にできる位置。
座って、鞄を机の横にかける。
昨日の午後に支給された教科書が二冊と、筆記用具。
教科書の表紙には「戦術基礎論」と「エルドレア通史」と書いてある。
「戦術基礎論」は、昨夜ぱらぱらとめくった。
知っていることと知らないことが半々だった。
知っていることは前線で覚えた。
知らないことは、前線では必要がなかったことだ。
「エルドレア通史」は、開かなかった。
書いてあることと、わたしが見たことが違うだろうなと思っただけだ。
生徒が少しずつ教室に入ってくる。
前のほうに座る子が多い。
後方の壁際を選ぶ生徒は、わたし以外にいなかった。
隣の席に、人が座った。
見上げると、昨日の入学式で隣にいた子だった。
栗色の長い髪をハーフアップにまとめている。
灰色がかった青い目が、こちらを見て少し柔らかくなった。
「おはようございます。昨日、隣の席でしたよね」
落ち着いた声だ。
「うん、おはよう。リーネ・カルヴァスです」
「ルチア・アルヴェインです。よろしくお願いします」
丁寧な言葉遣い。
育ちのいい子だ。
手が白くて、指が細い。
爪がきれいに整えられている。
剣のタコがない手。
穏やかな人だな、と思った。
戦場にいなさそうな人だ。
当たり前だけど。
「ルチアは、この近くの出身?」
「ええ。王都から馬車で半日ほどの領地です。リーネさんは?」
「リーネでいいよ。わたしはヴェルダ公国。北のほう」
「ヴェルダ……」
ルチアの目が、ほんの少しだけ揺れた。
でもすぐに元の柔らかさに戻った。
「遠いところから来たのですね」
「うん。まあ、いろいろあってね」
いろいろ。
徴兵があって、戦争があって、捕虜になって、収容所に入って、審問官に引っ張り出されて、ここに送り込まれた。
いろいろだ。
ルチアは小さく微笑んで、前を向いた。
何も聞き返さなかった。
昨日の馬車のおじさんと同じだ。
聞かないでいてくれる人は、ありがたい。
八時の鐘が鳴るころには、教室が埋まっていた。
三十人ほどが席についている。
前方の教壇に、一人の男が立った。
四十代の半ばくらい。
体格ががっしりしていて、肩幅が広い。
軍人だった体つきだ。
肩の力の入り方。
足の間隔。
重心の位置。
戦闘の訓練を受けた人間の立ち方をしている。
「担任のグレン・ハーシェルだ。剣術と戦術論を担当する。よろしく」
短い挨拶。
無駄がない。
好きなタイプの上官だ。
前線では、話の長い上官は嫌われた。
長い話をしている間に状況が変わるからだ。
「出席簿順に自己紹介をしてもらう。名前、出身、得意なこと。手短にな」
最初の生徒が立ち上がった。
王都出身の男の子。
父親が宮廷の文官だと言った。
得意なことは「火の魔法です」と、少し照れながら答えた。
二番目。
南部の領地出身の女の子。
「水の魔法と、刺繍が得意です」
刺繍。
教室がほんのり笑った。
平和だ。
三番目、四番目と続く。
出身地は王国のどこか。
得意なことは、魔法か、剣術か、勉強か。
家の話をする子もいる。
わたしは背もたれに体を預けて、一人ずつ声を聞いていた。
声の調子で、だいたいの人となりはわかる。
自信がある子。
緊張で声が上ずる子。
虚勢を張っている子。
戦場では、声を聞くだけで相手が使い物になるかどうか判断した。
ここでは、誰も使い物にする必要はないけど。
前のほうの席で、赤い髪の女の子が立ち上がった。
昨日の入学式でも目についた子だ。
短く刈り込んだ赤毛。
目つきが鋭い。
「マーレン・ヴォルフ。ヴォルフ騎士団の家系。得意は剣術」
短い。
声に余分がない。
座る動作も速い。
軍人の家の子だ。
間違いない。
大柄な黒髪の男が立ち上がった。
教室の中で頭一つ分大きい。
顎が上がっている。
「ヴィクトル・ハーゲン。ハーゲン将軍家の嫡男だ。剣術、戦術ともに幼少より鍛錬を積んでいる」
ハーゲン。
聞いたことがある名前だ。
ヴェルダ戦争の戦報に出ていた気がする。
どこの戦域だったかは覚えていないが、王国軍の将軍の名だったのは確かだ。
この子の父親か。
ヴィクトルが座るとき、わたしのほうを一瞥した。
上から見下ろすような視線。
ふうん、と思った。
隣のルチアの番が来た。
「ルチア・アルヴェインです。アルヴェイン家の長女です。得意なことは……魔法の理論を学ぶのが好きです」
得意なことを聞かれて、好きなことを答える。
正直な子だと思った。
声が落ち着いている。
緊張しているはずだが、それを上手に御している。
ルチアが座って、次はわたしの番だった。
立ち上がる。
教室の視線が集まった。
三十人分の目。
笑顔を作る。
これは得意だ。
「リーネ・カルヴァスです。ヴェルダ公国の出身です」
数人の生徒が背筋を伸ばした。
何人かが顔を見合わせる。
ひそひそと声が漏れた。
「ヴェルダって……」「属国の」「融和政策の……」
知っている空気だ。
捕虜になったときも、収容所に入ったときも、こういう空気は流れた。
警戒と好奇心と、少しの嫌悪が混じった空気。
前の席で、マーレンの背中が微かに動いた。
振り向きはしなかった。
でも、肩が固くなったのが見えた。
「得意なことは、剣術と、風の魔法を少し」
笑顔のまま続けて、座ろうとした。
「ふん」
鼻を鳴らす音が聞こえた。
ヴィクトルだ。
腕を組んで、こちらを見ている。
「敗戦国の兵士が、よく堂々と来れるものだな」
声が教室に通った。
ひそひそ話が止まる。
全員がヴィクトルとわたしを交互に見ている。
わたしはヴィクトルを見た。
敗戦国。
事実だ。
兵士。
これも事実だ。
堂々と来れるものだ。
堂々と来たつもりはないけど、来いと言われたから来た。
怒りは、なかった。
悔しさも、悲しさも、なかった。
事実を言われて、何を感じればいいのか、よくわからなかった。
「うん、そうだね。来ちゃった」
わたしは笑って答えた。
ヴィクトルの眉が寄った。
もっと別の反応を期待していたんだろう。
怒るか、俯くか、言い訳をするか。
でも、どれも思いつかなかった。
だって、事実なんだし。
「よろしくね、ハーゲンくん」
わたしはそのまま席に座った。
ヴィクトルが何か言いかけたが、教壇からグレンが「次」と短く言って、自己紹介は先に進んだ。
隣で、ルチアが小さな声で言った。
「……大丈夫?」
「え? 何が?」
本気で聞き返した。
何が大丈夫かわからなかった。
ルチアが少し不思議そうな顔をした。
「今の、気にならなかった?」
「ハーゲンくんの? べつに。事実だし」
ルチアが何か言いかけて、やめた。
膝の上で、手が小さく握られていた。
困ったような、考え込むような顔で、前を向いた。
わたしも前を向いた。
自己紹介はまだ続いている。
何か変なことを言ったかな。
ルチアの表情が引っかかったけど、まあ、いいか。
事実は事実だし。
午前の授業が二コマあった。
一コマ目は戦術論の導入。
担当はグレンだ。
今日は教科書の章立てを確認するだけの、軽い内容だった。
グレンの説明は短く、的確で、無駄がない。
いい教官だ。
前線で、こういう指揮官の下にいたかった。
二コマ目は歴史・政治学の導入。
こちらの担当はドルフ・ブラントという教員だった。
痩せた男で、口髭があって、神経質そうな顔をしている。
「本年度の歴史課程では、大陸における王国の発展と、周辺諸国との関係を扱います。もちろん、近年のヴェルダとの関係も」
ドルフがちらりとわたしを見た。
わたしは笑顔を返した。
ドルフも微笑んだ。
「リーネ君。君がこの学院にいること自体が、融和政策の成果です。歴史の授業で辛いことがあるかもしれませんが、遠慮なく——」
「大丈夫です。ありがとうございます」
遠慮なく何をすればいいのかは聞かなかった。
たぶん、聞かないほうがいい。
この人は善意で言っている。
善意に対しては、笑顔で返すのが一番楽だ。
「融和政策の成果」か。
わたしは成果なのか。
まあ、成果でもいい。
成果でも、駒でも、道具でも、生きていればなんでもいい。
死んだ仲間に比べたら、成果扱いくらい、なんてことない。
昼休み。
食堂に向かう廊下で、後ろから声がかかった。
「ねえねえ、リーネちゃん!」
振り向くと、小柄な女の子が駆けてきた。
茶色い髪のおさげを揺らして、そばかすの顔を輝かせている。
ミラだ。
今朝、毛布を被って三十分の延長を訴えていたルームメイト。
「ミラ、おはよう。ちゃんと起きられた?」
「なんとかね! 六時はやっぱり早いよ、リーネちゃん」
ミラはわたしの隣に並んで、そのまま一緒に歩き始めた。
初日から距離が近い。
嫌じゃない。
「ねえ、さっきの自己紹介でヴェルダ出身って言ってたよね」
来た。
この話になるだろうと思っていた。
「属国の」「戦争の」「敗戦国の」。
どれが来ても、笑顔で流す準備はできている。
「うん」
「ヴェルダ出身かあ。ふーん。で、甘いもの好き?」
「……え?」
予想していた言葉が、一つも来なかった。
「甘いもの。好き? 嫌い?」
ミラがこちらを覗き込んでいる。
目がきらきらしている。
本気で聞いている。
「えっと……好き、だと思う。あんまり食べたことないけど」
「食べたことない!? うっそ、じゃあ今度うちのお菓子持ってくるね! うち、お菓子屋さんなの。王都の南通りの。絶対おいしいから!」
ミラは胸を張った。
わたしが「ヴェルダ出身」だということを、この子は本当に気にしていない。
戦争のことも、属国のことも、ハーゲンくんが吐いた言葉のことも。
ただ、甘いものが好きかどうかだけが大事なのだ。
なんだか可笑しくて、笑ってしまった。
この笑いは、作ったものじゃなかった。
「ありがとう。楽しみにしてる」
「約束ね!」
食堂に着くと、ルチアが先に席を取っていた。
わたしとミラが合流して、三人で昼食を食べた。
ミラがずっと喋っている。
実家のお菓子屋の話。
王都の南通りは職人の店が多い話。
入学試験の魔法実技で、水を出すはずが泡を出してしまった話。
ルチアが穏やかに相槌を打って、ときどき小さく笑っている。
わたしはパンをちぎりながら、二人の声を聞いていた。
お菓子の話と、街の話と、試験の失敗の話。
誰も死なない話だ。
こういう会話を、わたしは三年していなかった。
「リーネちゃんは?」
ミラがこちらを向いた。
「ん?」
「趣味。ルチアは読書だって。わたしはお菓子作り。リーネちゃんは?」
趣味。
前線にいたときは、趣味という言葉を使う場面がなかった。
起きて、食べて、訓練して、戦って、眠る。
それが一日のすべてだった。
趣味に一番近いものは何だろう。
走ること。
いや、あれは逃走訓練だ。
星を見ること。
あれは方角の確認だ。
「うーん、生存?」
一瞬、会話が止まった。
ミラの手が止まり、ルチアのスプーンが止まった。
ほんの一拍。
それからミラが「あはは! リーネちゃんおもしろい!」と笑った。
ルチアも笑った。
冗談だと思ったんだろう。
冗談じゃないんだけどな。
でもまあ、笑ってもらえたなら、いいか。
「生存って! サバイバル好きなの? 山で暮らすとか?」
「んー、まあ、山にはいたことあるよ。冬山は結構きつかったけど」
冬のヴェルダの山岳地帯。
遊撃隊として何度も潜んだ。
凍りかけの川で水を汲んで、雪洞で眠って、朝になったら敵陣に忍び込む。
あのときは趣味じゃなくて任務だったけど。
「慣れると楽しいよ」
と、適当にまとめた。
ルチアがこちらを見ていた。
何かを考えている目だ。
入学式のときと同じ、静かな目。
何を考えているかは聞かなかった。
聞いたら、答えなきゃいけないことが増えそうだから。
午後は実技だった。
訓練場に移動して、剣術の基礎。
今日は導入なので、素振りと基本の構えの確認が中心だ。
木剣が配られた。
訓練用の、軽い木の剣。
握ると、手が勝手に馴染んだ。
指の硬いタコに、柄の木目がぴたりと収まる。
グレンが正面に立って、構えを見せた。
正眼、上段、下段、八相。
教科書通りの、整った構え。
わたしの構えは教科書に載っていない。
低くて、速くて、相手の急所に最短で届く構え。
隊長に叩き込まれた構え。
隊長はもういないけど、体が覚えている。
でも今日は教科書通りにやる。
せっかく学院に来たんだから、ここのやり方を覚えなきゃ。
「各自、素振り五十本。基本の正眼から」
木剣を振る。
一本、二本、三本。
力を入れすぎないように気をつける。
この剣は人を斬るためのものじゃない。
型を覚えるためのものだ。
五十本を振り終えたとき、息は上がっていなかった。
腕にも疲労はない。
周りを見ると、何人かの生徒が肩で息をしていた。
ルチアは息を整えながら木剣を下ろしている。
振り方は綺麗だった。
教科書通りの、正しい軌道。
でも、当たっても痣一つできない振り方だ。
この剣術は人を傷つけるためのものじゃない。
そうだった。
ここの剣は「勝つ」ための剣で、「殺す」ための剣じゃない。
頭ではわかっている。
マーレンが視界に入った。
赤い短髪に汗が光っている。
この子も息が上がっていない。
木剣の握り方が、他の生徒とは違った。
柄の下のほうを握っている。
間合いを広く取る握り方だ。
実際に人と打ち合ったことがある握り方。
マーレンが、こちらを見た。
目が合った。
鋭い目だった。
昨日の入学式のときの、何かを探す目とは違う。
もっとはっきりした感情が乗っている。
怒り、ではない。
怒りに似ているが、もっと冷たくて、もっと重い。
わたしが「ヴェルダ公国出身」と言ったとき、マーレンの肩が固くなった。
あの反応の意味が、今わかった気がした。
マーレンは何も言わず、目を逸らした。
わたしも何も言わなかった。
あの目の奥にあるものが何なのか、わたしにはわからなかった。
でも、あの目は知っている。
戦場で、何度か見た種類の目だ。
何の感情かは、わからない。
わからないけど、気にはなった。
夕方。
授業が終わって、寮に戻る渡り廊下。
中庭の花壇が夕日に照らされていた。
黄色い花が光を受けて、橙色に見える。
名前はまだ知らない。
隣にミラがいた。
寮までの道が同じだから、自然と並んで歩く。
「リーネちゃん、さっきの剣術すごかったね。五十本振って息も切れてなかったでしょ」
「そう? 素振りだけだし」
「素振りだけって! わたし三十本でもう腕がぷるぷるだったのに!」
ミラが自分の腕をさすっている。
「慣れだよ、慣れ」
嘘じゃない。
「ヴェルダでは剣術の稽古が盛んなの?」
「んー、まあ、必要だったからね」
必要。
十三歳のわたしに剣を持たせた大人たちは、「必要だから」と言った。
必要だった。
剣を振れなければ死ぬから。
ミラは「へえ」と言って、それ以上は聞かなかった。
深追いしない子だ。
寮の入り口で、ミラが立ち止まった。
「あ、リーネちゃん。今日一日どうだった?」
「うん、楽しかったよ」
自分で言って、少し驚いた。
嘘じゃなかった。
授業を受けて、ごはんを食べて、友達と歩いて帰る。
それが楽しいと感じた。
「よかった! 明日もよろしくね、ルームメイト!」
ミラが手を振って、先に階段を上がっていった。
わたしは少しだけ廊下に残って、窓の外を見た。
夕焼けの空。
昨日も見た空だ。
今日、三人の人と話した。
ルチアと、ミラと、ヴィクトル。
マーレンとは話していない。
でも、あの目は話しかけられるより重かった。
部屋に戻ると、ミラがベッドの上であぐらをかいていた。
膝の上に小さな紙袋を広げている。
「リーネちゃん、はい。これ。約束のやつ」
差し出されたのは、小さな丸い焼き菓子だった。
表面に粉砂糖がまぶしてあって、甘い匂いがする。
「もう持ってきてたの?」
「実家から持ってきた分。ほんとはもっとおいしいのあるんだけど、今日はこれで。食べて食べて」
ひとつもらって、口に入れた。
甘い。
バターの香りが口に広がって、生地がほろほろと崩れた。
舌の上に粉砂糖が溶けて、じんわりと甘さが残る。
「おいしい」
「でしょ! うちの自慢なの!」
ミラが得意げに笑った。
わたしも笑った。
もう一つ、もらっていいかな。
そう聞こうとして、ミラを見たら、紙袋ごとこちらに差し出していた。
「全部食べていいよ。リーネちゃん、なんかすごく美味しそうに食べるから」
「いいの?」
「うん。明日も持ってくるし」
わたしは紙袋を受け取って、二つ目を口に入れた。
甘い。
おいしい。
母が焼いてくれた菓子パンを、思い出した。
甘くて、温かくて。
三年間、甘いものを食べていなかった。
収容所では配給のパンと水だけだったし、前線では乾燥肉と芋ばかりだった。
こんな味がしていたことを、忘れていた。
忘れていたことにも、気づいていなかった。
おいしい、と思った。
それだけは、確かだった。
窓の外で、最後の夕日が沈みかけている。
ミラがベッドの上で何かの教科書を開いている。
明日も授業がある。
明日は戦術論の本格的な授業が始まるらしい。
どんな内容だろう。
焼き菓子をもう一つ、口に入れた。
甘い。
明日の戦術論で、グレンがどんな問いを出すのか、少しだけ気になった。