わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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侵入者

消灯の鐘が鳴ってから、どれくらい経ったんだろう。わたしはいつものように眠れないでいた。別に珍しいことじゃない。ここに来てから、すんなり眠れた夜の方が少ない。

 

ベッドの壁際に寄って、背中を壁につけている。壁は昼の熱をまだ少し残していて、ほんのり温かい。この温かさは嫌いじゃない。背中に何かがある、というだけで、少し安心する。前は誰かの背中だった。今は壁だ。壁は死なないし、いなくならないから、壁の方が楽かもしれない。

 

隣のベッドでミラが寝ている。寝息が規則正しい。羨ましいと思う。あの子は、横になればすぐ眠れる。空っぽなのはいいことだ。空っぽなら、目を閉じても何も来ない。

 

窓は確認した。鍵は閉まっている。ガラスの向こうに、女子寮の中庭の木立が黒く見える。あの木の枝ぶりなら、二階のこの窓から屋根伝いに東へ抜けられる。中庭を突っ切るより、そっちの方が身を隠せる。……という計算を、寝る前に一通り済ませてある。済ませてしまえば、あとは考えなくていい。

 

ドアは、鍵をかけていない。かけようと思えばかけられる。内側から下ろすだけの、簡単な掛け金だ。でもかけると、いざというとき自分が出るのが一手遅れる。閉じ込められるのは、敵より怖い。だからかけない。門番がいて、消灯後は見回りがあって、敵はいない。安全だと言われている。実際、安全なんだと思う。

 

わかっている。頭ではわかっている。

 

でも体が力を抜かない。

 

目を閉じると、暗闇の中にいつもの断片が来る。順番も脈絡もなく、呼んでもいないのに勝手に来る。斬った相手の顔が浮かんで、それが火の回った廊下に変わって、朝になって隣で冷たくなっていた仲間の手に触れる。別に嫌だとは思わない。もう慣れた。ただ、こういうものが来ると、体の方が起きてしまう。頭は眠りたがっているのに、体が許可を出さない。

 

枕を抱え直す。少しでも眠くなればいい。明日は午前に魔法理論があって、午後は剣術だ。剣術のときに眠かったら困る。ヘルミーネ先生の授業は座っていられるけど、グレン先生の実技で気を抜くと、体が勝手に反応して面倒なことになる。

 

静かだ。

 

ミラの寝息と、遠くの廊下の灯りがじじ、と鳴る音。それだけ。

 

静かすぎる、と思う。

 

戦場では静かな夜の方が怖かった。音がないのは、誰かが音を消して近づいているときだから。虫の声も、風の音も、全部が意味を持っていた。ここでは静けさはただの静けさで、意味なんてない。何度もそう言い聞かせている。言い聞かせながら、体は毎晩、音を探している。

 

 

 

足音が聞こえた。

 

廊下。

 

わたしの体が、先に反応した。まだ何も考えていない。ただ、耳が拾った。

 

一人。複数じゃない。

 

歩き方が、変だ。足音を殺している。かかとを下ろさず、爪先で、そうっと。夜中に、音を立てないように近づいてくる誰か。戦場なら、これがいちばん危ない。堂々と来る足音より、消している足音の方が、目的がある。

 

近づいてくる。

 

わたしは目を開けていた。天井を見ている。息を浅くして、足音を数えている。一歩、また一歩。距離を測る。あと三部屋。二部屋。隣。

 

止まった。

 

この部屋の前で。

 

ドアの取っ手が、動いた。

 

 

 

体が動いた。

 

考えるより先だった。壁を蹴って、ベッドから飛び出していた。床を二歩。ドアが内側に開く、その隙間へ向かって。

 

開いた瞬間、そこに人影があった。

 

腕を取った。手首を掴んで、引き込みながら体を入れ替える。相手の背中を壁に叩きつける。同時に前腕を喉に当てて、体重を乗せる。膝を相手の腿の付け根に差し込んで、動きを殺す。空いた手で、腰と手の周りを撫でるように確かめる。武器はない。両手とも空。

 

全部、途切れなく繋がっていた。一つの動きだった。

 

叩きつけた拍子に、相手の手から何かが落ちた。硬い音がして、床を転がっていく。瓶みたいな音だった。武器じゃない。だから、意識から外した。今は、目の前の相手だけ。

 

わたしの声が、低く出た。

 

「所属と目的を言え」

 

自分の声じゃないみたいだった。喉の奥から、平らな声が出ていた。

 

人影が、喉を締められたまま、ひゅっと息を吸った。

 

汗の匂いがした。緊張して強張った、人間の匂い。

 

「ち、が……っ」

 

かすれた声。若い。女の声。震えている。

 

「へ、部屋……間違え……」

 

顔が、廊下の弱い灯りに半分だけ照らされていた。青白い。目が泳いでいる。上級生だ。学校で見たことがある。足音を殺して、手に何かを持って、夜中にこの部屋に入ってきた。部屋を間違えただけの人間は、そんな入り方をしない。この子は、何かをしに来た。何を、とまでは、今は考えない。

 

わかっている。頭では、わかっている。

 

でも腕が動かない。

 

前腕は喉を押さえたまま。膝は相手を固定したまま。指は次の動きの準備をしている。喉の次はどこか。頸動脈か、鎖骨の下か。無力化の後、確実に動けなくするための——

 

体が、手順の途中にいた。

 

止め方を体は持っていなかった。ここで終わり、という合図が、この動きの中にはない。始めたら、最後までいく。それが体に刻まれた形だった。

 

上級生の顔が、もっと白くなる。口が開いて、何か言おうとして、掠れた息だけが漏れる。目に涙が滲んでいる。

 

わたしは、その目を見ている。見ているのに、遠い。ガラスの向こうを見ているみたいだ。

 

早く、と体が言っている。喉の次へ進め、と。相手が動けるうちは、まだ安全じゃない。動けなくしてから、退路を確保して、それから状況を確認する。順番はそうだ。ずっとそうしてきた。手順を飛ばした夜に、隣のやつが死んだ。だから飛ばさない。飛ばすな。進め。

 

進むな、と、どこかで別の声がする。ここは戦場じゃない。この人は敵じゃない。武器も持っていない、ただの、生徒だ。

 

二つの声が、体の中でぶつかっている。腕はどちらにも従わない。喉を押さえたまま、止まっている。押し込みもしないし、離しもしない。中途半端な力で、固まっている。

 

剣も素手も、教わったのは三日だけだった。持ち方と、走り方と、伏せ方。その三つだけを持って、前線に出された。まだ十三だった。

 

 

 

「リーネちゃんっ!!」

 

高い声が、背中から刺さった。

 

ミラだ。

 

その声で、戻った。

 

ぱっと、腕が緩んだ。膝を引いて、後ろに下がる。二歩。三歩。壁と上級生の間に、空間ができる。

 

上級生が、ずるずると壁を滑って、その場にへたり込んだ。喉を両手で押さえて、咳き込んでいる。ごほっ、ごほっ、と。首に、赤い痕が横に走っている。わたしの前腕の跡。

 

わたしは自分の手を見た。

 

さっきまで人の喉を押さえていた手が、もう、だらんと下がっている。力が抜けている。

 

「あ」

 

声が出た。いつもの声だ。高くて、軽い。

 

「ごめんなさい、不審者かと思って。大丈夫? 怪我してない?」

 

わたしは笑顔を出した。口角が上がって、目が細くなる。顔がそう動くのを、自分で感じる。しゃがんで、上級生の顔を覗き込む。喉の痕を見る。皮膚は破れていない。呼吸は通っている。骨も無事だ。大丈夫。ちゃんと加減した。いや、加減はしていない。止まっただけだ。ミラの声で。

 

「立てる? ゆっくりね。息、吸って、吐いて」

 

上級生は答えない。わたしから顔を背けて、腰が抜けたみたいに壁に張りついている。這うように、廊下の方へ後ずさっていく。わたしから離れようとしている。

 

わかる。追わない。手も差し出さない。差し出したら、もっと怖がる。それくらいはわかる。

 

廊下に、人が出ていた。

 

いつの間にか。両隣の部屋のドアが開いて、パジャマ姿の生徒が二人、三人。悲鳴を聞いて出てきたんだろう。みんな、へたり込んだ上級生と、その前に立っているわたしを、交互に見ている。

 

誰も何も言わない。

 

一人が、ゆっくり、廊下の壁の方に体を寄せた。わたしから距離を取るように。

 

わたしは、その動きも見ている。

 

廊下の奥から、足音が近づいてきた。今度は大人の足音だった。均等で、迷いがない。夜の当直の寮監だ。ランプを提げて、パジャマの生徒たちをかき分けるように前に出てくる。

 

「何があった」

 

短い声。誰にともなく、部屋の中と廊下を見比べている。喉を押さえてへたり込んだ上級生。その前に立っているわたし。首の赤い痕。それだけで、だいたいの絵は伝わったんだと思う。

 

寮監はまず、上級生のそばに膝をついた。「息はできるか。喉を見せてみろ」。顎に手を添えて、痕を確かめる。「骨は無事だ。腫れる。冷やせば引く」。それから、まだ震えている肩に手を置いて、「もう大丈夫だ」と言った。低い、落ち着いた声だった。怯えた相手を落ち着かせる声。慣れている。

 

わたしは突っ立っていた。何をすればいいのか、わからなかった。前線なら、こういうときにやることは決まっていた。次の敵を警戒して、退路を確保する。でも、ここには次の敵がいない。退路も要らない。だから手が、宙に浮いたままだった。

 

寮監がこっちを見た。

 

「お前がやったのか」

 

「……はい」

 

嘘をつく理由がなかった。やったのはわたしだ。

 

寮監は怒鳴らなかった。少しの間わたしの顔を見て、それから言った。

 

「謝れるか。その子に」

 

わたしは、上級生の方を見た。寮監に肩を支えられて、やっと壁から背中を離したところだった。わたしと目を合わせない。当たり前だ。数分前、わたしはこの子の喉を締めて、その先まで行こうとしていた。この子が何をしに来たのかは、わからない。何か企んでいたのかもしれない。でも、それとこれは、別だ。企みが何であっても、人の喉を締めて、殺しかけていい理由にはならない。

 

謝る。何を言えば足りるのか、わからない。足りる言葉なんて、たぶんない。それでも、言わないよりはいい。

 

上級生から少し離れた場所で、頭を下げた。近づくと怖がるから、距離は残したまま。

 

「ごめんなさい。……わたしが、やりすぎました。本当に、ごめんなさい」

 

声が、いつもより低かった。笑顔は出さなかった。出す場面じゃないことくらい、わかる。

 

寮監が、床に転がっていた瓶を拾い上げた。蓋が外れて、中身が少しこぼれている。暗がりでも、インクの匂いがした。寮監はそれを見て、それから上級生を見た。一度だけ、低く言った。

 

「お前は、こんな時間に、他人の部屋で、何をしようとしていた」

 

上級生は答えなかった。小さく一度だけ、頷いたのか、ただ震えただけなのか。

 

「答えられないなら、明日話を聞く」

 

寮監が、最後にわたしの前で足を止めた。

 

「今夜は鍵をかけて寝ろ」

 

それから、少し間を置いて、付け足した。

 

「このことは、お前の担任に報告する。ハーシェル先生だな。話は、追って聞かれる。……そのとき、お前の言い分も聞く」

 

言い分。あるのかな、と思った。手が勝手に動いた、というのは、言い分になるんだろうか。ならない気がする。でも、「お前の言い分も聞く」と、この人は言った。聞く、と。前線では、誰もそんなことを言わなかった。

 

寮監は背を向けて、生徒たちを部屋に戻し始めた。「終わりだ。寝なさい」。パジャマの生徒たちが、ちらちらとわたしを見ながら、それぞれの部屋に散っていった。上級生は寮監に支えられながら廊下を戻っていった。

 

 

 

部屋に戻ると、ミラがベッドの上にいた。

 

上半身を起こして、毛布を胸の前で握りしめている。両手で、ぎゅっと。目が大きく開いている。まばたきをしていない。わたしを見ている。わたしを、見ている。

 

「ミラ」

 

いつもの笑顔を出そうとした。口角が上がりかけて、止まった。今それを出したら、たぶん、もっと怖がらせる。

 

「……怖かったよね。ごめん」

 

それだけ言った。もう大丈夫だから、とは言わなかった。何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったから。ミラが見たのは、わたしが人の喉を締めて、止まらなくなったところだ。それを、なかったことにはできない。

 

ミラは何も言わなかった。毛布を握る手が、白くなっていた。

 

 

 

ドアを閉めた。

 

掛け金に手を伸ばした。今夜はかけて寝ろ、と言われたから。指が金具に触れる。冷たい。かけると、いざというとき自分が出るのが一手遅れる。閉じ込められるのは、やっぱり、敵より怖い。

 

指が止まった。

 

……言われたことは、やる。兵士の癖で助かったのは、こういうときだ。体が嫌がっても、命令なら動く。掛け金を下ろした。かちり、と小さい音がした。たかが金具一本の音で、心臓が跳ねた。

 

廊下の灯りが、ドアの下の隙間から細く漏れてくる。人の気配は、もう散っていた。さっきまで小声で話していた声も、足音も、遠ざかっている。

 

わたしはベッドに戻った。壁際に寄って、また膝を抱える。出るのが一手遅れるなら、一手早く気づけばいい。そう決めて、扉の方に顔を向けた。

 

さっき飛び出したとき、床を蹴った足の裏が、まだ熱い。心臓は、もう普通に戻っている。前線でもそうだった。動いている間より、終わった後の方が、体が正直だ。指先が少し冷えている。それだけ。

 

暗い天井を見た。

 

ミラの寝息が、聞こえない。

 

いつもなら、消灯からしばらくで、規則正しい寝息が聞こえてくる。でも今は、聞こえない。寝返りの衣擦れもない。息を殺している音がする。起きているのに、起きていないふりをしている息だ。わたしには、その違いがわかる。前線で、隣の仲間が起きているか寝ているか、息で聞き分けていたから。

 

ミラは、起きている。

 

たぶん、怖いんだろう。

 

わたしが飛び出して、人を壁に叩きつけて、喉を締めるのを、すぐ隣で見た。あんなの、怖いに決まっている。ミラは戦争を知らない。人が人を壁に押しつけるところなんて、見たことがなかったはずだ。それを、寝起きの、いちばん無防備なときに、目の前で見た。

 

もう一度、何か言おうかと思った。

 

でも、やめた。さっき謝ったとき、ミラは何も言えなかった。今わたしがまた声をかけたら、ミラは無理をして「大丈夫だよ」と、明るい声を出すだろう。そうさせるのは、違う気がした。

 

だからわたしも寝たふりをした。

 

寝息を、少しだけ大きくする。ゆっくり、規則正しく。眠っている人間の呼吸を真似る。これも、できる。夜襲を待つとき、寝ているふりで敵を油断させるのに使った。まさか、友達を安心させるために使う日が来るとは思わなかった。

 

しばらくして、ミラの体から、少しだけ力が抜けたのがわかった。衣擦れの音がして、寝返りを打った。それから、呼吸が、だんだん深くなっていく。

 

眠れたみたいだ。

 

よかった、と思った。

 

わたしは天井を見たまま、朝まで起きていた。眠くはならなかった。別に、いつものことだ。

 

 

 

翌日は、いつも通りに始まった。

 

わたしはいつも通りに起きて、壁際で目を覚まし、枕を握っていた手を開いて、制服を着た。ボタンを留めて、襟を正して、鎖骨の跡を隠す。

 

ミラは先に起きて、食堂に行っていた。いつもは「先行ってるね」と声をかけてから出るのに、今朝はいなかった。わたしが目を覚ましたときには、もうベッドが空だった。まあ、たまたまだろう。急いでたのかもしれない。

 

食堂に行くと、ミラは壁際の、出口に近い席にいた。いつもわたしのために取っておいてくれる席だ。今日も取ってくれていた。わたしが座ると、ミラは「おはよ」と言った。声が少し、硬かった。パンをちぎる手が、少しぎこちなかった。

 

「昨日はごめんね。びっくりしたよね」

 

わたしが言うと、ミラは「ううん」と首を振った。それ以上は、何も言わなかった。目が、わたしの顔をちらっと見て、すぐに手元のパンに戻った。

 

そういうものかもしれない。

 

わたしはパンを食べた。二分で食べ終わった。ゆっくり食べようと思っていたのに、気づいたら終わっていた。

 

 

 

教室に着くまでに、わかった。

 

廊下を歩くと、視線が集まる。ひそひそ声が耳に届く。全部は聞こえない。でも、切れ切れに入ってくる。「あの子」「昨日」「上級生を」「首を絞めた」。

 

聞かないようにしようと思っても、耳が勝手に拾う。これも癖だ。周囲の音を集めるのは、生き延びるための習性だった。今は、聞かない方が楽なのに。

 

すれ違うとき、何人かが、壁の側に寄った。わたしと反対側へ。半歩、体を引くようにして。前を歩いていた二人組が、わたしに気づいて、少し早足になった。

 

一時間目の魔法理論のあと、休み時間に廊下の水場へ行った。喉が渇いていた。

 

先に一人、女の子が水を飲んでいた。同じ組の子だ。名前は覚えていない。前に一度、練習で使う魔法石を貸してくれたことがある。あのときは「これ使いな」と、なんでもない顔で差し出してくれた。

 

その子が、わたしに気づいた。

 

顔を上げて、目が合って、水を飲むのをやめた。蛇口を閉めて、口の端を少しだけ上げる。笑おうとして、うまくいかなかった顔。それから、道を空けるように、横に一歩よけた。

 

「どうぞ」

 

小さな声だった。

 

「ありがと」

 

わたしは水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。飲み終わって振り返ると、その子はもういなかった。廊下の向こうに、背中が見えた。足が、少し速い。

 

魔法石を貸してくれたときと、同じ子だ。同じ子が、今日は道を空けた。

 

水場の縁を、指で撫でた。石が濡れている。それだけ確かめて、教室に戻った。

 

 

 

昼には、話に尾ひれがついていた。

 

「あの属国の子、上級生を殺しかけたんだって」

 

「本気だったらしいよ。喉、締めて」

 

「部屋に入ってきただけの人を?」

 

「怖くない? 同じ寮でしょ」

 

殺しかけた、というのは、少し違う。喉は締めたけど、殺すつもりはなかった。というか、そもそも「つもり」がなかった。つもりがあってやったなら、まだよかったのかもしれない。手が勝手に動いて、止まらなかった。それだけだ。

 

でもそんなことを説明しても、たぶん伝わらない。伝わったところで、締められた側の首の痕は消えない。あの上級生が、わたしを見て後ずさったのも、消えない。

 

食堂で、それがよく見えた。

 

盆を持って席を探すと、わたしの周りだけ、席が空いていた。両隣の椅子も、向かいの列も。混んでいるのに、そこだけ、人がいない。誰かが座ろうとして、わたしに気づいて、別の席に流れていく。誰も何も言わない。ただ、水が石を避けて流れるみたいに、自然に、わたしを避けていく。

 

入学式の日を、少し思い出した。あの日、わたしは講堂の後ろの壁際に座って、そこにいる全員の体格と、武器を持っているかどうかを、一人ずつ確認していた。誰が危ないか。どこから来るか。そういう目で、みんなを見ていた。

 

今日は、逆だった。みんなが、わたしを、その目で見ている。誰が危ないか。どこから来るか。危ないのは、わたしだ。

 

なるほど、と思った。こっち側から見ると、こういう感じなのか。

 

ミラが盆を持って、わたしの向かいに座った。周りが空いている中で、そこだけ、埋まった。ミラは何も言わずにスープを飲んでいた。手が、少しぎこちなかった。無理して来てくれたんだろう、と思った。無理させて悪いな、とも思った。

 

スープの湯気が、二人の間で立っていた。

 

 

 

午後の授業が始まる前。わたしは自分の席に座った。ルチアの席は隣。まだ来ていない。反対隣の生徒が、わたしが座ると、椅子を少しだけ、逆の方へずらした。ほんの数センチ。気づかないふりをしてくれたのかもしれない。でも、わたしは気づく。

 

まあ、そうだよね、と思った。

 

人の喉を締めるやつの隣は、怖い。わたしが逆の立場でも、席をずらす。びっくりさせて悪かったな、とあの上級生にも、ミラにも思う。謝っても怖いだろうから、近づきはしないけど。

 

窓の外を見た。中庭に、午後の光が落ちている。花壇の花が咲いている。きれいだ。ここは、いい場所だ。屋根があって、ごはんが出て、お湯が出て、花が咲いている。

 

わたしみたいなのが一人いても、この場所は、たぶん、大丈夫だ。

 

一人分、席が空いても。

 

その考えが、するっと出てきて、するっと通り過ぎた。わたしはまた窓の外を見て、それから教科書を出した。

 

ルチアが教室に入ってきたのは、始業の鐘が鳴る少し前だった。まっすぐ、わたしの隣の席に来た。

 

椅子を、ずらさなかった。

 

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