わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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ミラ視点


それでも隣に

昨日の夜、わたしは眠れなかった。天井を見て、目を閉じて、また開けて、を繰り返して、朝まで一度も。いつものわたしなら、ありえないことだった。

 

始まりは、リーネが動いた音だった。布団の音でも、ベッドが軋む音でもない。床を蹴る、鋭くて速い音。わたしはそれで目が覚めた。廊下の足音も、取っ手が回る音も、わたしは聞いていない。眠っていたから。目を覚ましたときには、もう、何かが終わりかけていた。

 

開いたドアの前で、リーネが誰かを壁に押しつけていた。腕を相手の喉に当てて、膝で相手の足を押さえて、動かない。相手が何か言おうとして、声が潰れていた。床に、何かが転がっていた。瓶みたいなもの。暗くて、よく見えなかった。

 

リーネの目が、見えた。暗かったのに、はっきり見えた。あの目が、いつものリーネの目じゃなかった。笑うと細くなる、あの緑の目じゃなかった。まっすぐで、揺れなくて、何も映していなかった。相手を人間として見ていない目だった。

 

「所属と目的を言え」

 

低い声だった。誰の声かわからなかった。同じ部屋で二ヶ月暮らして、毎日聞いている声なのに、知らない声だった。

 

わたしは悲鳴を上げた。上げるつもりなんてなかった。喉が勝手に鳴った。その声で、リーネの腕がゆるんだ。相手が咳き込んで、ずるずると床に座り込んだ。リーネが後ろに下がって、目が、少しずつ戻ってきて、いつものリーネになった。

 

「あ、ごめんなさい、不審者かと思って。大丈夫? 怪我してない?」

 

いつもの笑顔だった。ついさっき人の喉を締めていた腕で、その人の心配をしていた。切り替わるのが、速すぎた。速すぎて、余計に怖かった。上級生の首に、赤い痕が残っていた。腕の形に。

 

そのあとのことは、あまり覚えていない。廊下に大人が来た。寮監の先生だ。上級生の手当てをして、リーネに謝らせて、何か短くやりとりして、みんなが散った。リーネは笑わないで謝っていた。それだけは、覚えている。それから、夜が戻った。

 

わたしは布団を頭からかぶった。心臓がうるさかった。耳の奥でどくどく鳴っていた。掌に汗をかいているのに、指の先が冷たかった。目を閉じると、あの目が瞼の裏に貼りついていた。

 

隣のベッドで、リーネの寝息が聞こえた。こんな夜なのに、あの子は眠っていた。いや、眠っているふりかもしれなかった。どっちかわからないのが、また、怖かった。

 

眠れないまま、いろんなことを思い出した。入学した日、わたしから話しかけたこと。ヴェルダ出身だと聞いて、政治のことなんて何も浮かばなくて、ただ「甘いもの好き?」と聞いた。あの子が目を丸くして、それから笑った。あの笑い方が好きで、友達になった。それだけだった。その、目を丸くして笑う子と、さっき人の喉を締めた子が、同じ子だ。頭の中で、二つがどうしても繋がらなかった。繋がらないまま、朝が近づいてきた。

 

 

 

朝になった。顔を洗って、着替えて、いつも通りに部屋を出ようとした。リーネはまだ寝ていた。枕を握りしめた手が、白くなっていた。それを見ないようにして、ドアに向かった。

 

ドアのそば、床板に、黒いしみが残っていた。ゆうべ、何かがこぼれた跡だ。拭いても木に染みて、うっすら残っている。近づくと、インクの匂いがした。なんでこんなところにインクが、と思って、でも、考える余裕がなくて、そのまま廊下に出た。

 

食堂に向かう途中で、足が止まった。胃の奥が、せり上がってくる感じがした。トイレに寄って、個室に入って、鍵をかけて、便器の前にしゃがんだ。

 

吐きそうだった。喉の奥までせり上がってきて、口を開けた。何も出なかった。朝ごはんをまだ食べていないから、当たり前だ。それでも、しばらくしゃがんでいた。膝が冷たいタイルに触れていた。額に汗が浮いていた。何も出ないのに、体は吐こうとし続けた。

 

なんで、と思った。昨日、喉を締められたのはわたしじゃない。わたしはただ、悲鳴を上げただけだ。それなのに、今、トイレでしゃがんで吐きそうになっている。みっともないな、と思った。

 

しばらくして、少し落ち着いた。立ち上がって、鍵を開けて、洗面所で口をゆすいだ。鏡の中のわたしは、顔色が悪かった。頬をつねってみた。痛かった。それで少しだけ、自分に戻った気がした。

 

 

 

廊下に出ると、噂はもう回っていた。あちこちから、ひそひそ声が聞こえてくる。属国の子が上級生を襲った、喉を締めた、殺しかけた。昨日の夜のことが、もう、そういう形になって回っている。誰も大きな声では言わない。でも、聞こえるように言っている。

 

すれ違った女の子に、腕を掴まれた。同じ組の子だった。

 

「ねえ、ミラちゃん。あの子と同じ部屋なんでしょ。怖くないの?」

 

心配そうな顔だった。本当に心配してくれているのがわかった。だから余計に、答えられなかった。怖くない、と言えばよかった。リーネはいい子だよ、と言えばよかった。入学した日にわたしが甘いものの話をしたら、目を丸くして笑った子だよ、と。

 

言えなかった。怖いからだ。正直に言えば、怖い。昨日のあの目が怖い。あの低い声が怖い。喉に当てられた腕の形が怖い。同じ部屋で寝ていることが、今朝は、少しだけ怖い。

 

「……大丈夫だよ」

 

やっと、それだけ言った。何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。女の子は、わからない顔をして、行ってしまった。その背中を見ながら、わたしは、リーネをかばう一言を言わなかったことに気づいた。「いい子だよ」の五文字だ。それが出てこなかった。喉のところで、昨日のあの目が引っかかって、出てこなかった。友達だと思っている。それは本当だ。かばえなかったのも本当だ。二つが胸の中で並んで、どっちも動かなかった。

 

 

 

食堂には、わたしが先に着いた。リーネはまだ来ていなかった。いつもあの子が座る席を、開けておいた。壁際の、出口に近い席。誰が決めたわけでもないのに、あの子はいつもそこに座る。今日もそこを取って、わたしはその隣に座って、待った。

 

しばらくして、リーネが来た。まっすぐ、こっちに歩いてきた。周りの視線が、あの子の背中を追っていた。何人かが、目だけで見て、すぐ逸らした。リーネは気づいていないみたいに、いつもの歩き方で来て、壁際の席に座った。

 

「おはよ」

 

わたしが言った。声が、硬かった。自分でわかった。リーネがこっちを見た。少しの間、わたしの顔を見ていた。それから、いつもの笑顔を出しかけて、止めた。口角が上がりかけて、途中で戻った。

 

「昨日はごめんね。びっくりしたよね」

 

その声は、低かった。いつもの軽い調子じゃなかった。わたしは首を振った。

 

「ううん」

 

それ以上、言えなかった。手が震えていた。パンをちぎろうとして、うまく力が入らなかった。屑が膝に落ちた。それを、リーネに見られたくなかった。見られたら、また謝らせてしまう。あの子は、昨日、人の喉を締めた後でも、その人の心配をした子だ。わたしの震えを見たら、きっと、自分のせいだと思う。だから、両手を膝の下に隠した。

 

リーネはそれ以上、聞かなかった。パンを食べ始めた。二、三口で一つ、次の一つ。いつもの速さ。誰も隣にいないことにも、みんながこっちを見ていることにも、気づいていないみたいに。いや、気づいていて、気づかないふりをしているのかもしれない。あの子の場合、どっちなのか、わたしにはわからなかった。

 

隣に座った。それだけは、した。意味があるのかどうかは、わからなかった。ただ、あの子が一人でパンを食べているのを、遠くから見ていることが、できなかった。友達だから、とも、うまく言えない。ただ、できなかった、というだけだ。

 

 

 

一時間目の授業は、頭に入らなかった。先生の声が、遠くで鳴っていた。教科書の字を目で追っても、意味が繋がらなかった。ノートの隅に、同じ線を何度もなぞっていた。となりの席の子が、時々わたしをちらっと見た。わたしがリーネと同じ部屋だから、だろう。

 

昼になると、話には尾ひれがついていた。朝は「喉を締めた」だったのが、昼には「殺しかけた」になっている。「部屋に入ってきただけの人を、いきなり」という尾ひれまでついていた。半日で、話が育っていた。

 

部屋に入ってきただけの人を。その言葉が、引っかかった。

 

ゆうべ、あの上級生は、ただ入ってきたんじゃない。わたしは足音を聞いていないけど、リーネが飛び出す前に、廊下を、そうっと来ていたはずだ。眠っているわたしたちを、起こさないように。そして、床にはインクがこぼれていた。瓶が、転がっていた。あの人は、何かを持って、こっそり入ってきた。眠っているはずのリーネに、インクを、たぶん、かけるつもりだったんじゃないか。

 

うっすら、そう思った。でも、証拠なんてない。わたしが見たのは、転がった瓶と、床のしみだけだ。それに、そんなことを言ったって、誰も聞かない。「属国の子がいきなり襲った」の方が、みんな、信じたい話だから。

 

リーネをかばえる何かが、たぶん、ここにある。なのに、言えない。怖いからだ。昨日のあの目が、まだ怖いからだ。気づいたのに、言えない。言えないことが、また一つ、増えた。

 

昼、食堂に入ると、それが目で見えた。リーネは、もう来ていた。壁際の、いつもの席。その周りだけ、ぽっかりと空いていた。混んでいるのに、両隣も、向かいの列も、誰も座っていない。誰かが盆を持って近づいて、あの子に気づいて、別の席に流れていく。水が石を避けて流れるみたいに、自然に、みんながあの子を避けていた。リーネは一人で、スープを飲んでいた。いつもの顔で。

 

わたしは盆を持って、そこに向かった。足が重かった。膝が笑っていた。盆を持つ手が震えて、スープが揺れた。近づくほど、心臓がうるさくなった。周りの視線が、今度はわたしにも刺さった。あの子と、同じ部屋の子。あの子の、隣に行く子。昨日のあの目が、瞼の裏で光った。

 

でも、歩いた。空いた席を横切って、リーネの向かいの椅子を引いて、座った。盆が、かたん、と鳴った。手が震えていたからだ。リーネが顔を上げた。何か言おうとして、わたしの手元を見た。震えているのが、見えたと思う。

 

「ミラ」

 

「なんでもない」

 

先に言った。聞かれる前に。なんでもなくなかった。怖くて、震えていて、朝は吐きそうで、それでも隣に来た。全部あったのに、なんでもない、と言った。リーネは、少しの間わたしを見て、それから、スープに目を戻した。追ってこなかった。聞けば嘘をつかせることを、あの子はたぶん知っている。だから、聞かない。

 

二人で、黙って食べた。スープの湯気が、二人の間で立っていた。周りの空いた席が、湯気の向こうにぼやけて見えた。怖い。まだ怖い。今も怖い。明日もたぶん怖い。それでも、ここに座っている。二つは、どっちも本当で、どっちも消えなかった。

 

 

 

昼ごはんのあと、教室の隅で、母さんの手紙を開いた。朝、寮の受付で受け取って、ポケットに入れたままだったものだ。母さんの字は、丁寧だ。一文字ずつ、ゆっくり書いてある。ところどころ、書き直した跡がある。同じ場所を、二回、三回。心配性だから、書いては消して、消しては書いて、それでやっと送ってくる。

 

元気にしてる? ちゃんと食べてる? 寒くない? いつもの書き出し。それから、店のこと。店の仕入れが、また厳しくなったと書いてあった。ヴェルダの方から来ていた薬草が、前より手に入りにくくなったらしい。交易路の通行の許可が、厳しくなっているんだって。詳しいことは書いていない。母さんは、細かいことを娘に書かない。でも、行間が重かった。

 

うちは、王都の南通りの菓子屋だ。焼き菓子と、砂糖漬けと、季節のものを売っている。母さんの菓子はおいしい。それは自信を持って言える。でも、おいしいだけじゃ、店は回らない。仕入れが止まれば、作れない。作れなければ、売れない。薬草や染料の原料は、ヴェルダの山の方から来ていた。それが、戦争で止まった。手紙の続きに、そう書いてあった。仕入れ先の村が、焼けてしまったと。

 

父さんは、その仕入れ先を探して、北の町を回っている。焼けた村の代わりになる取引先を、ずっと探している。もうひと月、帰っていない。だから、届く手紙はいつも母さんの字だ。店は、母さんが一人で開けている。父さんがいないことを、わたしは寂しいとは書かない。母さんに送る返事にも、「父さんは仕事で忙しいんだね」としか書かない。寂しい、と書いたら、母さんがもっと心配する。父さんだって、遊んでいるわけじゃない。店のために、歩き回っている。だから、寂しいとは書かない。

 

ヴェルダ。手紙の中に、その名前があった。リーネの、故郷の名前だ。

 

 

 

昔のことを、思い出した。うちの店には、ヴェルダの行商人が来ていた。山を越えて、薬草や染料の原料を背負って、南通りまで来ていた。少し癖のある言葉で話す人たちだった。訛りがあって、最初は聞き取りにくかった。優しい人たちだった。

 

子供のころのわたしに、飴をくれた人がいた。ヴェルダの飴だと言っていた。硬くて、蜂蜜の味がして、口の中で長く残った。あの飴は、王都には売っていなかった。あの人が来るときだけ、もらえた。手を出すと、大きな掌に、ころんと一つ落としてくれた。掌が、ごつごつしていた。荷物を背負う人の手だった。

 

父さんは、その人たちと笑って酒を飲んでいた。店の奥で、遅くまで。言葉が半分くらいしか通じていないのに、二人とも楽しそうだった。わたしはそれを、襖の隙間から見ていた。

 

その人たちの村が、焼かれた。母さんの手紙には、そこまでは書いていない。でも、仕入れ先の村が焼けた、というのは、たぶん、あの人たちの村のことだ。あの、飴をくれた人の村のことだ。あのごつごつした掌の人が、今どこにいるのか、わたしは知らない。

 

わたしは、政治のことはわからない。どっちの国が正しいとか、戦争がなんで起きたとか、そういうことは、わからない。歴史の授業も、正直、ついていけない。ドルフ先生が「正当な領土回復」と言うのを、そういうものかと思って聞いている。

 

でも。飴をくれた人の村が焼ける戦争を、いいものだとは、どうしても思えない。なんで、と思う。だれにともなく、なんで、と思う。それだけだ。うまく言葉にできない。理由も、正しさも、わからない。ただ、なんで、とだけ思う。

 

 

 

教室の向こうで、リーネが教科書を読んでいた。歴史の教科書だ。午後の予習をしているのか、ただ開いているだけなのか、わからない。あの子は座学が苦手だと言っていた。わたしと同じだ。そこだけは、同じだ。

 

ヴェルダの村が焼かれた。それは、リーネの戦争だ。あの子の故郷の話だ。鎖骨の火傷も、窓を確認する癖も、壁際で寝ることも、昨日のあの目も、全部、その戦争から来ている。ヴェルダとの交易路が止まった。それは、うちの店の話だ。仕入れが止まって、父さんが北を歩き回って、母さんが一人で店を開けている。

 

同じ場所の、同じ戦争だ。同じ戦争が、リーネの体と、うちの帳簿を、両方壊している。そのことに、今、気づいた。

 

考えたことがなかった。戦争は、教科書の中のことだと思っていた。遠い山の中の、日付と地名だけの話だと思っていた。自分には関係ないと思っていた。うちの店が傾いているのも、ただ景気が悪いだけだと思っていた。父さんが帰ってこないのも、ただ運が悪いだけだと思っていた。関係あった。ずっと、関係あった。飴をくれた人の村と、リーネの故郷と、うちの店の帳簿は、一本の線で繋がっていた。わたしが気づいていなかっただけで、線は、ずっとそこにあった。

 

胸のあたりが、変な感じになった。わかったことが、嬉しいわけじゃない。むしろ、知らなければよかった、と思う。知ってしまったら、もう、戦争を教科書の中に戻せない。あの子の隣に座るたびに、たぶん、思い出す。

 

 

 

でも、それをリーネには言えない。「あなたの故郷が焼かれた戦争のせいで、うちの店が潰れそうなの」。そんなこと、言えるわけがない。

 

言ったら、リーネはどうするだろう。謝るかもしれない。自分のせいだと思うかもしれない。あの子は、そういう子だ。昨日、人の喉を締めた後でも、その人の怪我を心配していた。今朝も、わたしの震えに気づいて、それでも聞かないでいてくれた。うちの店のことを聞いたら、きっと、自分が悪いような顔をする。

 

それは、違う。リーネのせいじゃない。あの子は、十三で戦場に行かされた側だ。村を焼いた側じゃない。焼かれた側だ。うちの店が傾いたことで、あの子が謝るなんて、順番がめちゃくちゃだ。

 

だから、言わない。言わないんじゃなくて、言えない。どう言えばいいのか、わからない。うまく組み立てられない。頭の中で、飴をくれた人の掌と、母さんの手紙と、リーネの鎖骨の火傷と、昨日のあの目が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。混ざったまま、言葉にならない。無理に口に出したら、全部、間違った形で出てくる気がする。

 

わたしは手紙を畳んだ。もう一度、開いて、母さんの字を見た。書き直した跡のある字を。それから、また畳んで、ポケットにしまった。

 

窓の外で、午後の光が花壇に落ちていた。きれいだった。ここは、いい場所だ。屋根があって、ごはんが出て、お湯が出て、花が咲いている。リーネが、いつもそう言う。屋根があって、ごはんが出て、と。前は、変なことを言う子だなと思っていた。今は、少しだけ、意味がわかる気がした。わかりたくなかった。

 

リーネが教科書のページをめくった。わたしはその横顔を見て、それから、目を逸らした。怖い。まだ怖い。あの目を思い出すと、今も手が冷たくなる。でも、あの子は、飴をくれた人と、同じ場所から来た。あの子の故郷が焼けたことと、うちの店が傾いたことは、同じ戦争だ。怖いのと、隣にいたいのが、胸の中でぶつかっていた。どっちが勝つのか、わからなかった。両方あって、どっちも消えなかった。

 

昼休みの終わりの鐘が鳴った。ポケットの中で、手紙が硬い音を立てた。

 

畳んだ紙は、薄いのに、やけに重かった。

 

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