わたしには、距離を測る癖がある。
門から見張り台まで。窓から地面まで。目に映ったものの間を、体が勝手に測っている。相手の手と自分の首の間合いも、同じだ。前線では、その数字が生き死にを分けた。何メートル空いていれば逃げられるか、何センチ詰められたら首を取られるか。考えるより先に、数字が出る。
学院に来てからは、その癖も少しは緩んでいたと思う。ここでは、距離が生き死にを分けたりしない。
なのに、この数日、教室の距離が、また見えるようになった。
朝、席に着く。右隣はルチアの席で、そこは変わらない。ルチアはいつも通り、自分の椅子をわたしの机の横につけて座る。
変わったのは、反対側だ。左隣の子が、席を移してもらったらしい。あの夜のあとから、机が一つ、間に空いている。誰も座らない。
その空いた幅を、わたしはつい、目で測ってしまう。癖だ。机一つと、椅子一つ。人ひとりが、わたしから離れておきたい距離は、それくらいらしい。
前の席の子は、朝の挨拶をしなくなった。廊下ですれ違うとき、みんなが半歩、壁の側によける。ぶつからないように、ではない。触れないように、だ。水が石を避けて流れるみたいに、みんながわたしを避けていく。
食堂でミラの向かいに座ったとき、周りの席が空いて、人が流れていくのを見た。あのときは、避けられているのはわたしの席だった。今は、わたし自身が、石になっている。
手洗い場の前で、女の子が二人、小声で話していた。わたしが角を曲がると、声がやんだ。名前は聞こえなかった。でも、わたしのことだと、わかった。空気でわかる。
二人は水を止めもせずに、手も洗わないで行ってしまった。出しっぱなしの蛇口を、わたしが締めた。
みんなが避けるのは、噂のせいだ。その噂は、半分は当たっている。
本気だったかどうかは、自分でもわからない。でも、あのとき、腕は止まらなかった。ミラの声で止まっただけだ。声がなかったら、どこまでいっていたか、わからない。近づかない方がいい、というのは、正しい判断だ。わたしがあの子たちの立場でも、同じことを言う。
だから、避けられても、腹は立たなかった。当たっていることには、腹を立てられない。
怖がられるのは、初めてじゃない。ずっと前から、人はわたしを、少し離れたところから見た。危ないものを見る目で。慣れている。
それに、この数日で気づいたことがある。避けているのは、みんなだけじゃない。
廊下で、人の後ろを歩かないようにしている。背後に立って、相手が急に振り向いたら、体が先に動くかもしれない。だから追い越すときは大きくよけて、すれ違うときは手が届かない幅を空ける。
食堂では、前よりもっと壁に近い席に座る。誰かがわたしの背後を通らない場所だ。通られると、匙を握る手に力が入る。この前、落ちた食器の音で、手が止まった。あれを、人のいる場所でもう一度やりたくない。
物を渡すときは、手から手へ渡さないようにしている。机に置いて、相手に取ってもらう。指が触れて、相手がびくっとするのを、見たくない。触れられて跳ねるのはわたしの方なのに、触れて相手を跳ねさせるのも、わたしだ。
手は、なるべく膝の上に置いておく。動かさないように。見えるところに。
昼休みの前、授業と授業の合間だった。
ヴィクトルの声が、教室の後ろから響いた。わざと大きくしている声だ。
「だから、属国の人間を入れるべきじゃないんだ」
誰に言うでもなく、全員に聞かせる言い方だった。
「敗戦国の兵士だぞ。人の殺し方しか知らないやつを、同じ教室に入れて、融和だなんだと持ち上げている。おかしいだろう。実際、上級生が一人、やられた。次は誰だ」
何人かが、ちらりとわたしを見た。すぐに目を逸らした。
わたしは教科書を開いて、字を追わないまま、そこに目を落としていた。
言い返す言葉を、持っていなかった。人の殺し方を知っているのは、本当だ。上級生の首に痕が残ったのも、本当だ。本当のことに、どう言い返せばいいのか、わからない。だから、下を向いていた。
教室の入り口から、声がした。
「少し、いいかな」
生徒会長のユリウス・レーゲンハルトだった。演習の運営をしていた、あの金髪の先輩だ。二年生が一年の教室に来るのは珍しい。ヴィクトルの声が、廊下まで聞こえていたのかもしれない。
ユリウスは教室の真ん中まで来て、ヴィクトルの方を見た。それから、教室全体を見渡した。
「今、聞こえた。誤解に基づく排斥は、融和政策の精神に反する。カルヴァスさんは、この学院の正式な生徒だ。出身がどこであれ、同じ生徒として扱われるべきだと、僕は思う」
正しい。一つも間違っていない。
言葉はきれいだった。まっすぐで、澄んでいて、演説みたいだった。演習の日も、この人はこういう喋り方をしていた。撃たれることを想定していない立ち方で、撃たれることを想定していない喋り方をする。
ヴィクトルが鼻を鳴らした。
「誤解、ですか。上級生の首に、腕の痕が残った。それのどこが誤解なんです。会長がどう呼ぼうと、起きたことは変わりません」
ユリウスが何か言おうとした。ヴィクトルは、もう背を向けていた。
正論には、正論で返せる。でも、事実には、正論では返せない。ヴィクトルの言葉にも、事実は混じっている。首の痕は、本当に残ったのだから。
ユリウスが、わたしの席の方に来た。
少し困った顔をしていた。自分の言葉が、教室の空気を何も動かせなかったことに、気づいている顔だった。
「……大丈夫か。つらいことがあったら、生徒会に相談してくれていい。こういうことは、放っておくべきじゃない」
善意だ。この人の善意は、本物だと思う。演習のとき、膝を擦りむいた子に駆け寄ったわたしを褒めたのも、たぶん、本物だった。
「大丈夫ですよ、会長」
わたしは笑顔を出した。〇・二秒で出せる顔だ。
「慣れてますから」
ユリウスの言葉が、止まった。
「慣れてる」の続きを、聞かなかった。口が少し動いて、途中で閉じた。何かを聞きかけて、やめた顔だった。
「……そうか」
それだけ言って、ユリウスは教室を出ていった。
出ていく入り口の脇に、マーレンが立っていた。
いつからいたのか、わからない。廊下側の壁に背をつけて、腕を組んで、こっちを見ていた。
マーレンの目は、いつもと少し違った。ヴェルダ、と聞いたときにわたしに向ける、あの重くて冷たい目。あれとは違った。もっと、苛立っているような。ユリウスの背中と、わたしの笑顔を、両方まとめて睨んでいるような目だった。
目が合った。マーレンは逸らさなかった。何か言いたそうで、でも言わないで、ただ見ていた。
昼休みの鐘が鳴って、わたしが視線を外した。もう一度見たときには、マーレンはいなかった。
放課後の教室は、人が引くのが早い。
その日は、特に早かった。わたしの周りが空いているせいで、みんな、なんとなく早く出ていく。ルチアは委員の用事で先に呼ばれていった。「終わったら戻るね」と言って。ミラは、当番で職員室に何か届けに行っている。
教科書を鞄に入れていると、机の前に、影が立った。
顔を上げると、マーレンだった。
正面から、わたしの机の前に立っていた。
これまで、マーレンがわたしの正面に立ったことはなかった。斜め後ろとか、廊下の向こうとか、いつも距離のある場所から見ているだけだった。今は、机一つ挟んで、まっすぐ立っている。
組んでいた腕は、ほどいていた。
机一つ分。手を伸ばせば届く距離だ。前なら、体が勝手にこの距離を測って、相手の手と自分の首の間を計算していたと思う。
でも、マーレンの手は、拳を作っていなかった。体の横に、だらんと下がっていた。殴りに来た手じゃない。武器を持った手でもない。ただ、立っているだけの手だった。
だから、わたしの体も、動かなかった。備えるものが、なかった。
わたしは、いつもの笑顔を出そうとした。
出なかった。口の端が上がりかけて、途中で止まった。マーレンの目が、それを許さなかった。
「一つ、言っておく」
低い声だった。怒鳴っていない。震えてもいない。平らな声だった。
「うちの兄は、ヴェルダの遊撃隊に殺された。夜襲で。二年前だ」
一度、言葉を切った。
「あんたが殺したのかは、わからない。でも、あんたの仲間が殺した。それは、事実だ」
まっすぐ、わたしを見ている。
「さっき、会長が『仲良くしろ』と言って、あんたは笑ってた。それを見てたら、これだけは言っておかなきゃと思った。それだけだ」
わたしは、何か言おうとした。
「違う」とは、言えなかった。違わないからだ。わたしの小隊は遊撃隊だった。夜襲をやって、人を殺した。わたしも殺した。マーレンの兄を、わたしが殺していないとは、言い切れない。同じ場所に、同じ夜に、いたかもしれない。
弁解も、浮かばなかった。「まだ子供だった」も、「命令だった」も、口に出せば、全部、言い訳になる。マーレンの兄は、もう、生きていない。何を言っても、それは変わらない。
「……うん」
やっと出たのは、それだけだった。
「そうかもしれない」
マーレンが、わたしを見ている。何かを探す目だった。
「……あんたは、憎くないのか」
わたしは、答えられなかった。自分の中を探しても、憎しみらしいものが見つからない。誰を憎めばいいのかも、わからない。
マーレンは、憎み返してくる相手が欲しかったんだと思う。言い返すか、謝るか、とにかく、はっきり憎んでいい敵が。わたしは、それになれなかった。
マーレンの目から、待っていたものが、消えていく。
マーレンは、何も言わずに背を向けた。
足音が、教室を出ていく。マーレンの足音は、鳴る。かかとが、床を踏む。隠す必要のない場所で育った足音だ。わたしのとは、違う。
変だな、と思った。
ヴィクトルの嫌味なら、笑って流せる。噂も、廊下の視線も、笑って流せる。会長にも、さっき笑ってみせた。今日だって、何度も笑った顔を出した。
マーレンにだけ、笑えなかった。
なんでだろう。あとで考えよう、と思って、いつも通り、考えるのをやめた。
窓の外で、日が傾いている。教室には、もう、わたししかいない。
しばらくして、廊下から足音がした。今度は、軽い足音だ。
「リーネちゃん、まだいた」
ミラだった。職員室の用事から戻ってきたらしい。息が少し弾んでいる。走ってきたのかもしれない。
ミラは、わたしの机のすぐ横まで来た。机一つ分、空けたりしない。いつも通り、近い。
「ミラ」
「ん?」
「わたしの隣、こわくない?」
聞いてから、しまった、と思った。ミラを困らせる質問だ。あの夜、わたしがやったことを、一番近くで見たのはミラだ。悲鳴を上げたのも、ミラだ。
ミラは、少し黙った。
それから、椅子を引いて、わたしの左に座った。ずっと空いていた、あの席に。
「怖かったよ」
まっすぐ言った。ごまかさなかった。
「あの夜、めちゃくちゃ怖かった。今も、ちょっと怖い。正直に言うと」
それから、わたしの顔を見た。
「でも、リーネはリーネじゃん」
「……」
「怖いのと、リーネがリーネなのは、別の話でしょ。わたし、どっちも本当だったから、どっちも持っとくことにしたの」
どっちも持っとく、という言い方が、ミラらしかった。荷物みたいに。両手に一つずつ提げて、運んでいくみたいに。
ルチアが戻ってきたのは、そのときだった。
「ごめん、遅くなっ……」
入り口で、足を止めた。わたしとミラを見て、教室が空っぽなのを見て、何かを察したらしい。まっすぐ、こっちに来た。
わたしの右の席に座る。いつもの場所だ。左にミラ、右にルチア。机一つ分空いていた左は、もう、埋まっている。
わたしは、ルチアの方を見た。
「ルチアは、怖くないの?」
ミラに聞いたのと、同じ質問だった。でも、ルチアに聞くときは、声が少し、硬くなった。
「わたし、この前、人を絞め落としかけたんだよ。部屋に入ってきただけの人を。首に、痕が残るくらい」
言いながら、自分の右手を見ていた。あの夜、上級生の喉に当てた腕だ。ルチアの手が肩に触れただけで跳ねる手でもある。同じ手だ。
ルチアは、すぐには答えなかった。
わたしの右手を、見ていた。それから、顔を上げた。
「怖くない、って言ったら、嘘になる」
ルチアも、ごまかさなかった。ミラと同じだ。
「最初の授業で、剣を持ったリーネの目を見た。あの一瞬だけは、怖かった。この前の夜も、たぶん、あれと似たものだったんでしょ」
それから、はっきり言った。
「でも、わたしが怖いのは、その一瞬だけ。リーネのことは、怖くないよ」
あの模擬戦のとき、ルチアと組んだ。振り下ろした剣が、ルチアの首元で止まった。止めたのは、わたしの意志じゃなかった。体が勝手に止まっただけだ。ルチアは、あのとき凍っていた。それでも、次の日も、隣の席に座った。あれから、ずっと。
ルチアが、少し間を置いた。
教室は静かだった。廊下の音も、もう聞こえない。ルチアが小さく息を吸うのが、わかった。
まっすぐ、わたしを見た。ルチアの灰青色の目に、わたしの顔が映っていた。
「リーネが一番怖いのは、リーネ自身でしょ」
返そうとした。
「そんなことないよ」でも、「大丈夫」でも、なんでもよかった。どれも、すぐ出るはずの言葉だった。
出てこなかった。
笑顔も、出なかった。口の端が上がりかけて、下りた。もう一度開けて、閉じた。音にならなかった。
ルチアは、急かさなかった。ミラも、黙っていた。二人とも、わたしが言葉を見つけるのを待っている。
わたしは、膝の上の右手を見た。さっきから、こわばったままだった。開こうとして、うまく開けなかった。
いつもなら、ここで笑う。笑って、話を変える。今日の実技のこととか、ミラのお菓子のこととか。どうでもいい話にすり替えて、なかったことにする。
できなかった。
笑顔が出てこない。話を変える言葉も、出てこない。ルチアの言葉から逃げる道が、一つも見つからない。
逃げ道を探すのは、得意だったのに。
ルチアは、敵じゃない。わたしを傷つけたりしない。それなのに、体が逃げたがっている。傷つけない相手から、逃げたがっている。
それが、怖かった。
怖いという感覚そのものが、久しぶりだった。
ずっと、忘れていたから。
これにて第一章が終わりとなります。ここまでご愛読いただきありがとうございます。これからも読んでいただけると幸いです。