◆ エルドレア王国
大陸中央部を支配した軍事大国。政体は貴族制で、国王を頂点とした。剣術と魔法の双方が発達しており、国力の基盤は魔法技術と広大な穀倉地帯にあった。
◇ 沿革
建国は、大陸中央部の統一に始まった。小国が分立して争っていた中央部を、武力と法により一つにまとめて成立した。統一の後は、街道網の整備や穀物制度の改正など、内政の整備が進んだ。この時代に評価されたのは、征服の英雄よりも、法制と社会基盤を築いた為政者であった。
その後、王国は中央部の外へと版図を広げた。辺境の小国を相手とする戦争と属国化を重ね、軍事国家としての性格を強めていった。武功が叙爵や昇進に直結し、軍需が利権と結びつく構造が定着した。建国期の統治理念は制度や標語として受け継がれていたが、実際の政治は軍事と利権の論理に主導されていた。
◇ 軍事
軍の優位は、兵力の量と魔法火力に支えられていた。穀倉地帯を背景とする人口と兵站、遠距離を面で制圧する魔法戦力、王立学院が輩出する士官と魔法師が、その中核をなした。戦術は正面戦と物量戦を基本とした。
指揮官は武功と家柄によって登用された。このため正規戦には強い一方、ゲリラ戦など非正規の状況への適応力は低かった。突出した戦略家を継続的に輩出する仕組みは持たなかった。
◇ 統治機構
国政は宮廷評議会(上位貴族と軍高官で構成)が議した。評議会は軍拡方針をめぐって二派に分かれていた。
・軍閥派:軍事貴族を中心とする主戦・拡張派。武功と軍需利権が戦争に依存し、この時期は主導権を握っていた。
・文官派:文官貴族を中心とする穏健派。戦費の拡大に反対し、制度的統治を志向したが、軍閥派に対して劣勢であった。
平民は政治参加の制度を持たなかった。戦死、増税、物価高、交易の途絶による厭戦感情は存在したが、意思表示の経路がなく、政策には反映されなかった。
◇ 構造的な限界
この拡大は、構造的な弱点を抱えていた。属国が増えるほど守備兵力は分散し、戦費は増税と物価高を通じて平民に積み上がった。量と火力に依存する戦い方は、二正面の戦争や、決着のつかない戦争には適応しにくかった。拡張が続くほど、これらの矛盾は蓄積していった。
◆ ヴェルダ公国
大陸北東部の小国。旧独立国であったが、ヴェルダ戦争の敗北により王国の属国となった。
地形の大半は山岳で、平野は南部国境沿いに限られた。人口は王国の十分の一以下。主要産物は薬草、染料原料、木材など山地の産物で、鉱物資源等には乏しかった。戦略的価値は産物ではなく地理的位置にあった。北方への最短陸路であった峠道が国土の山中を通り、他の経路は迂遠で費用が大きかった。
統治は、公爵と氏族長の合議体が担った。氏族ごとの独立性が高く、中央集権は弱かった。この分権性が、後の山岳ゲリラ戦を可能にした。社会構造には不平等があり、徴兵は氏族の勢力に左右された。有力氏族の子弟は後方に、非有力層の子弟が優先的に前線へ配され、物資の配分も同様に偏った。
戦後、公爵は処刑され、合議体は解散、統治機構は解体された。平野部の農地は荒廃し、山間集落は多くが焼失した。峠道には関所が設置され、通行許可は大手商会へ優先的に配分された。復興予算は関所と駐屯地に集中し、集落の再建は進まなかった。若年層は融和政策により王都へ移送された。
◆ 王立学院
王都中心部に置かれた、剣術と魔法の高等教育機関。修業年限は三年で、卒業後の進路は騎士団、宮廷魔法師、文官などであった。
名目は教育機関であったが、機能上は支配階級の再生産機関であった。軍人の養成を主目的とする、いわゆる士官学校ではなかった。学生は貴族の子弟が中心で、一部に選抜された平民を含んでいた。軍事教育は課程の一部にすぎなかった。
戦争は本土から遠く、貴族層にとって従軍は武功を得る機会であった。その負担(戦死、増税、交易の途絶)は平民と属国民に偏り、こうした構造のため、学生層の戦争に対する危機感は薄かった。
実技教育は競技として体系化されていた。剣術には構えの型、攻防の型、段位、審判制の模擬戦があった。模擬戦は防具を着用し、急所への攻撃は反則とされ、降参で終了した。合同演習(旗取りなど)も、武器を相手の肩に触れさせることで「討ち取り」とみなす非致死のルールで行われた。実戦を想定した生存訓練ではなく、武功と技量を競う形式であった。
属国出身の生徒に対する学生の態度は、概して冷淡であった。勝者の子弟が多数を占めるなかで、敗戦国の出身者は侮蔑や警戒の対象となりやすかった。ただし、それがすべてではなかった。戦争そのものに倦み、あるいは反発する者にとって、属国出身者は脅威ではなく、同じ戦争に巻き込まれた側と映った。厭戦の感情は平民のあいだに広く潜んでおり、その一部は属国出身者への同情に向かった。もっとも、軍国的な気風のもとでは、反戦の姿勢は表に出にくかった。
◆ 融和政策
属国民を対象とした王国の政策。「融和政策」は公式の名称であり、「属国と王国の友好的統合」を掲げた。だが実態は同化政策に近かった。融和政策には、大きく三つの機能があった。
・監視と予防:有望な人材を王都に集約して管理下に置き、抵抗運動の発生を予防した。
・協力者の育成:王国式の教育を施したヴェルダ人を、将来の属国統治の実務者として用いた。卒業生は文官や騎士団員として故郷の統治に関与することが想定された。
・正当化:「敗者にも教育機会を与える」という寛容さの対外的な喧伝。属国出身者の就学そのものが宣伝として機能した。
学院内での受容は立場により分かれた。支持側には、理想として信じる層と、成果として誇る層があった。反対側は二系統に分かれ、動機が対立した。第一は属国民の受け入れそのものへの反発(排斥)、第二は戦争と加害の不可視化への批判であった。
王国にとって、属国出身者は保護すべき個人ではなく、管理すべき資産であった。その価値は上記の三機能に照らして測られた。監視対象として生存していること、育成対象として卒業まで機能すること、宣伝材料として体面を保つこと。この範囲にある限りにおいて、価値を持った。したがって、いじめや疎外といった水準の加害は、政策上の問題とはみなされなかった。孤立はむしろ監視を容易にした。介入が生じたのは、対象が損なわれて使用に耐えなくなる場合、加害が表面化して王国の体面を損なう場合、あるいは対象が殉教者として扱われ、または抵抗勢力に転じる場合に限られた。
なお、融和政策は属国支配の主柱ではなかった。ヴェルダの実効支配は、駐屯軍と関所による物理的な確保で成り立っていた。融和政策はその上に乗る、安価な補助手段にすぎなかった。三機能のうち実利が大きいのは反乱の予防(監視)であり、統治人材の育成は機会主義的、正当化は宣伝にとどまった。すなわち、王国はヴェルダという国や住民の存続そのものには、固有の価値を認めていなかった。道が通り、駐屯軍が保ち、大規模な反乱が起きないかぎり、この地がどれほど衰退しても、王国の目的にとって本質的な問題ではなかった。
◆ ヴェルダ戦争
王国によるヴェルダ公国への侵攻および占領。期間は約四年。王国の教科書は「正当な領土回復」と記述したが、歴史的に王国領であった事実はなく、実態は侵略戦争であった。
◇ 原因
主因は二つ。第一に地政学的要因で、北方最短路であった峠道の支配権。第二に前例効果で、属国化要求の拒否を許せば他の辺境国に波及するとの判断であった。ヴェルダは属国化を拒否し、通行権の譲渡と貢納金による妥協を提案したが、王国はこれを拒否し、全面服従か戦争かを要求した。この決定は評議会の軍閥派が主導した。
◇ 経過
初年、王国正規軍が南部平野へ侵攻し、兵力と魔法で制圧した。平野部と公都は早期に陥落した。
その後、山岳部へ退却した部隊がゲリラ戦に移行した。夜襲、待ち伏せ、補給線の破壊により、峡谷地形で正規軍を消耗させた。王国軍はゲリラ拠点と目された集落の焼却で対応したが、住民の離反を招き、抵抗勢力はかえって増大し、戦線は膠着・長期化した。戦争後期にはヴェルダの兵員が枯渇し、動員年齢が低下、少年兵が前線および捕虜に含まれるようになった。
◇ 長期化の要因
王国側の要因は、戦争目的である峠道が焦土化でも失われないこと、既に投入した戦費と戦死者の正当化、軍閥貴族の地位と軍需利権が継戦に依存したことであった。撤退論(文官派)は「弱腰」として抑制された。
ヴェルダ側の要因は、全面服従が国家の消滅を意味したこと、降伏時に指導層が処刑対象となり、停戦の決定権者に停戦の動機が存在しなかったことであった。少年兵の投入は、動員を停止しうる立場の者がそれを行わなかった結果であった。
◇ 性格と戦後
民族絶滅を目的とした戦争ではなかった。王国の目的は領域(地理的位置)の確保であり、住民の抹殺は企図されていなかった。ただし焼き討ち、掃討、占領地での暴力により、結果として多数の民間人が死亡した。
この大量死は、殺意の産物ではなかった。手段の粗雑さと、目的の性質と、戦争の長期化が重なった結果であった。前線指揮官は対ゲリラ戦の方法を持たず、集落の焼却に依存した。目的が土地の位置にあった以上、そこに住む人間は標的でも保護の対象でもなく、排除すべき障害として扱われた。そして戦争は、軍閥貴族の保身と利権のために、合理的な終結点を越えて続いた。殺意ではなく、戦術の無能と、住民への無関心と、保身とが、絶滅に近い規模の死をもたらした。
戦後は同化の段階へ移行した。住民を存置しつつ、言語の矯正、歴史記述の改変、若年層の再教育が行われた。これが「融和政策」と呼ばれるものであった。当時の王国では、少年兵の動員は「動員範囲の拡大」、集落の焼却は「掃討作戦」、占領は「秩序ある統治」、戦争全体は「正当な領土回復」といった別の言葉で、公式に語られた。