知らせ
朝の教室に入ると、窓が全部開いていた。
初夏の風が通って、カーテンが膨らんでは戻っている。日直が早めに来て開けたらしい。風の通る部屋は好きだ。音も匂いもよく入ってくるし、単純に気持ちがいい。
窓の外、訓練場の方から木剣の音が届く。上級生の朝練だ。二対。いや、三対。数えてから、数えなくていいことに気づいた。
自分の席に着く。左隣の机にはミラの鞄が掛かっている。あの夜から空いていた席に、ミラはそのまま居着いた。本人は教室の前の方で誰かと笑っている。右隣はまだ空いていて、ルチアはたいてい予鈴の少し前に来る。
一時限目の前に、前の席の子が振り返った。
「カルヴァスさん、消しゴム貸してくれない? 忘れちゃって」
「いいよ」
筆箱から出して、机の角に置く。置いてから、普通に手渡しでよかったかな、と思う。その子は気にするふうもなく取って、「ありがと」と前に向き直った。
この子と話したのは、何日ぶりだろう。思い出せないくらいには経っている。
廊下ではまだ、半歩よけてすれ違っていく子もいる。それは変わっていない。ただ教室の中の空気は、少しずつ元の温度に戻ってきている。
ミラが戻ってきて、椅子を引きながらもう喋り始めた。
「聞いてよリーネちゃん。昨日ね、パンケーキが空から降ってくる夢見たの」
「いい夢だね」
「よくないの。口を開けて待ってたら目が覚めたの。一枚も食べてない」
「惜しかったね」
「今夜こそ続きを見る。絶対見る」
夢に続きなんてあるんだろうか。あったとして、狙って見られるものなんだろうか。ミラの中では見られるらしい。
ルチアが来て、「おはよう」と隣に座った。
「おはよう。今日、風が気持ちいいよ」
「ほんとだ。花の匂いがする」
それだけの会話をして、それぞれ教科書を出す。それだけの会話ができる朝は、悪くない。
昼休み、ミラがわたしの袖を引っ張った。
「リーネちゃん、今日は外で食べよう。中庭。こんな天気の日に食堂はもったいないよ」
「いいね。行く」
食堂の窓口でパンを包んでもらって、ルチアと三人で中庭のベンチに並んだ。ミラは布包みから木の箱を出した。蓋を開けると、おかずがぎっしり詰まっている。
花壇の花が、この前来たときより増えていた。誰かが手入れをしているらしい。土の匂いと花の匂いに、遠くの訓練場の土埃が少しだけ混じる。
わたしのパンは、座って少ししたらもうなくなっていた。二人はまだ半分もいっていない。合わせようとはしているんだけど、体の速度はなかなか変わらない。
ミラがフォークを止めて、こっちを見た。
「ねえ、リーネちゃんの好きな食べ物って何?」
好きな食べ物。
わたしは膝の上の包み紙を畳みながら、考えた。
砂糖漬けと、胡桃のパン。あの二つは好きだ。それはもう見つけてある。
でも、砂糖漬けはルチアが買ってくれた。胡桃のパンはミラが取っておいてくれた。どっちも目の前に置かれて、口に入れて、初めてわかったものだ。おいしい、は舌の話だ。好き、はもっと奥の棚の話だ。その棚の中身を、わたしは人に開けてもらった分しか知らない。自分の手で開けて取り出せたことは、まだ一度もない。
「……わからない」
「ええっ」
ミラが目を丸くした。
「嘘でしょ。この前、胡桃のパン好きって言ってたじゃん」
「あれは、ミラが目の前に出してくれたから。目の前にあれば、わかるんだよ。好きか、そうでもないか。でも『何が好き?』って聞かれると」
自分の胸のあたりを、指でつついてみせる。
「この中から、出てこない」
「出てこないって、なにそれ……好きな食べ物だよ? 考えるやつじゃないよ、ぱって出るやつだよ」
「ぱって出なかった」
ミラは本気で驚いている。ルチアは驚いていなかった。パンをちぎる手を止めて、こっちを見ている。市場で砂糖漬けを買ってくれた日のことを、覚えているんだと思う。あの日もわたしは、「好き」とは言えなかった。
「よし」
ミラが木の箱をこっちに向けた。
「じゃあ探そう! 今から一個ずつ食べて、リーネの『好き』を見つける。調査開始」
「ミラのお昼が減るよ」
「いいの。これは調査だから。ちなみにわたしの好きな食べ物はね、蜂蜜のクッキーと、干し杏と、揚げパンと、あと冬のシチュー」
「多いね」
「絞れないの。はい、まずこれ。豆を甘く煮たやつ」
「おいしい」
「次、卵焼き」
「おいしい」
「川魚の揚げたの」
「おいしい」
「芋。つぶしてバターが入ってる」
「おいしい」
「全部おいしいって言うじゃん!」
笑ってしまった。
「だって全部おいしいんだもん。前線の配給より全部おいしいよ」
「前線って……」
ミラが言いかけて、止まった。
ルチアがミラを見て、小さく首を振った。
風が花壇の上を渡っていく音がした。
わたしは箱の中を覗き込んだ。
「ねえ、このタマゴのやつ、もう一個ない?」
「……あるよ」
ミラの声が戻ってくる。
「最後の一個。あげるけど、ちゃんと味わってよね。三秒で飲み込んだら没収だから」
「飲み込んだあとに没収は無理じゃない?」
「理屈っぽい!」
ルチアが横で吹き出した。
卵焼きは甘かった。ふんわりしていて、噛むと甘さの奥に少しだけ塩気がある。三秒はさすがに無理だったけど、十秒はかけた。
「おいしい」
ルチアが自分の包みから、小さな青い果物を出した。
「じゃあ、これも調査に入れて。今朝の包みに入ってたの。まだ少し早い気がするけど」
一口かじる。
「……酸っぱい」
「出た!」
ミラが身を乗り出した。
「初めて、おいしい以外が出た!」
「酸っぱいけど、嫌いじゃないよ」
「酸っぱいけど嫌いじゃない、っと。覚えとくからね。進歩だよ、リーネちゃん」
何の進歩なのかはよくわからない。でもミラがうれしそうなので、いいことなんだろう。
「はい、本日の調査結果。リーネの好きな食べ物、全部。ただし酸っぱいのは保留」
「全部かあ。範囲が広いなあ」
「次までに絞っといてよね。宿題だから」
「ミラも絞れてなかったじゃん、さっき」
「先生はいいの」
宿題。好きな食べ物を探す宿題。この学校に来ていちばん変な宿題だけど、いちばん悪くない宿題でもある。
午後の鐘が鳴って、わたしたちは包みを畳んだ。ミラの箱は空になっていた。半分以上、わたしの調査に使われたせいだ。
「ミラ、お腹すかない?」
「すく。責任取って、次の休みに甘いもの付き合ってよね」
それは責任なんだろうか。まあ、いいけど。
午後の実技は剣術だった。
打ち込みと受けの基礎練習。向かい合って、決められた順番で打ち、決められた形で受ける。順番のある斬り合いというものに、最初のころはずいぶん戸惑った。今は慣れた。踊りだと思えばいい。相手の足が出て、剣が来て、受ける。型どおりに動くと、木剣の音まで揃う。
先週まで、わたしの列だけ相手が空くことがあった。今日は普通に、同じ組の子が正面に立った。最初の一本だけ、木剣を握る手が硬かった。三本目には、ほどけていた。
打ち込むときは手首を狙わない。相手が下がったら追わない。決めごとを一つずつ守っていると、剣はずいぶん遅くなる。遅いままでいい。ここの剣は、これでいい。
列の間を歩いてきたグレン先生が、わたしの木剣の角度を見て、「それでいい」とだけ言って次へ行った。
相手の子は終わったあと、「カルヴァスさんの受け、勉強になる」と言って戻っていった。社交辞令かもしれない。
実技のあと、終礼のために教室に戻ると、グレン先生が教壇に立っていた。手に紙を一枚持っている。
「連絡がある」
教室が静かになる。
「融和政策の第二陣として、ヴェルダ公国出身の生徒が本学院に編入する。時期は近日。詳細は追って通知する。以上だ」
読み上げる声は、時間割の変更を伝えるのと同じ調子だった。
ざわめきは起きなかった。
そのかわり、静かさの種類が変わった。終礼を聞き流すだけの静かさから、全員が耳だけ起こしている静かさに。誰も声を出さないのに、教室じゅうの注意がひとつの方向を向いているのがわかる。こういう静かさは知っている。夜の森で、全員が同じ物音を聞いたときのやつだ。
舌打ちが聞こえた。ヴィクトルだ。
「また増えるのか」
誰に言うでもない、小さい声だった。それきり続かなかった。
視界の端で、マーレンのペン先が紙の上で止まっているのが見えた。ノートを取る途中の形のまま、動かない。
開いたままの扉の外に、金色の頭が見えた。生徒会長のユリウスだ。通達の写しを他のクラスに配って回る途中らしく、紙の束を抱えている。
「ハーシェル教官。生徒会としましても、融和政策の精神に沿った歓迎の場を——」
「それは後でいい」
グレン先生が遮った。ユリウスは一拍おいて、「では、改めて」と綺麗に一礼して行った。めげない人だ。
何人かの視線が、こっちに来るのがわかった。ヴェルダと聞いて、この教室でわたし以外に見る場所はない。振り返った子と目が合って、その子はすぐ前に戻った。
グレン先生が紙を畳んだ。
「編入生の扱いは教員が決める。お前たちは普段どおりにしていろ。解散」
「リーネちゃん、聞いた? ヴェルダから来るって」
ミラが机越しに身を乗り出してくる。
「聞いたよ。同じ教室で聞いてたからね」
「後輩できるじゃん」
「後輩かどうかはわかんないよ。同じ学年かもしれないし」
「あ、そっか。……知り合いだったりして」
「どうかなあ」
わたしは軽く答えた。
「ヴェルダも、狭いけど人はいるからね」
言いながら、頭の隅で何かが手を挙げかけた。
挙がりきる前に、引っ込めた。
今考えることじゃない。
教室を出ると、廊下のあちこちから「ヴェルダ」という単語が聞こえた。声をひそめる子も、ひそめない子もいる。
「また兵士だったりして」
「やめてよ、怖い」
すれ違いざまの声は、わたしに向けられたものじゃなかった。まだ顔も名前もない誰かに向けられていた。
まあ、最初はそうだよね、と思う。わたしのときもそうだった。次に来る子はこの声の中を歩いて、教室で自己紹介をして、そこから先はその子しだいだ。
手伝えることがあれば手伝おう。先に来た者の仕事だ。道の様子を知ってる奴が、案内をする。部隊でもそうだった。
夕食の食堂は、いつもより声が多かった。
壁際の定位置に座って、パンをちぎる。向かいにミラ、隣にルチア。少し離れた席から、切れ切れに単語が飛んでくる。ヴェルダ。第二陣。編入。どこの谷の出身だとか、男か女かとか、誰も知らないはずのことを、みんなが知っているみたいに話している。
「聞こえてるっての」
ミラが小声で言って、頬を膨らませた。
「いいよ、別に。減るものじゃないし」
「減らなくても言うの」
スープを飲む。今日は豆のスープだった。おいしい。調査結果に足しておこう。
「リーネは」
ルチアが静かに聞いた。
「同じ国の人が来るの、うれしい?」
「うれしいよ。ヴェルダ語で話せる相手が増えるし」
嘘じゃない。教室でヴェルダ語を使う機会なんてないけど、使えるのと使わないのは違う。
「あと、その子は大変だろうなあ、とも思う。わたしのときより注目されてるし」
「先輩がいるだけ、リーネのときよりましだよ」とミラ。
「先輩って誰」
「リーネちゃんだよ! しっかりしてよ、先輩」
先輩。入学して数ヶ月で先輩になった。ずいぶん早い出世だ。
ルチアがこっちを見ていた。わたしは、なに、という顔をしてみせる。ルチアは、なんでもない、という顔でスープに戻った。
夜、部屋に戻ると、ミラがベッドの上で膝を抱えて座っていた。
「ねえリーネちゃん、ヴェルダの子が来たらさ」
「うん」
「最初にお菓子あげようと思うんだけど、何がいいかな。甘いの、平気かな」
考えるまでもなく、ミラらしかった。食堂のみんなが「誰が来るのか」を話している間、この子は「何のお菓子をあげるか」を考えていた。入学した日、わたしにも同じことを聞いた子だ。
「平気だと思うよ。甘いものが嫌いなヴェルダ人は、たぶんいない。砂糖が貴重だったから」
「じゃあ決まり。とっておきの、粉砂糖のやつにする」
ミラは満足そうにうなずいて、毛布にもぐった。
消灯の鐘が鳴って、部屋が暗くなる。
ミラは横になって二分で寝た。健康な寝息だ。
わたしは窓の留め金を確かめて、外の木立の位置を見て、ベッドの壁際に寄る。これもいつも通り。
目を閉じる。眠りはすぐには来ない。それもいつも通りだ。
好きな食べ物の宿題のことでも考えようと思ったのに、頭は勝手に別の方へ歩いていった。昼間に引っ込めた考えの方へ。
しかたないので、暗闇の中で取り出してみる。
第七歩兵小隊で、終戦まで生き残ったのは二人だ。
わたしと、もう一人。
あいつのことは、顔より先に癖を思い出す。夜番を組むと、あいつは物音の数を間違えなかった。わたしが二つだと数えた足音を、あいつは三つだと言った。三つだった。あの耳のおかげで生き延びた夜が、少なくとも一度ある。
終戦の少し前の戦闘で、あいつは捕虜になった。わたしはその場にいなかった。生きて連れて行かれた、とあとから人づてに聞いた。送られた先は、わたしのとは別の収容所だった。それきり、消息は知らない。
生きているはずだ。あいつは、簡単に死ぬような奴じゃない。二年間、隣で見てきたから知っている。
眠るのが下手な奴だった。野営で横になっても、目を開けていた。わたしは寝たふりが得意で、あいつは寝たふりさえ下手だった。だからわたしが先に寝て、あいつが起きている夜が多かった。組み合わせとしては、うまく回っていた方だと思う。
ヴェルダから「有望な属国出身者」が来る。
第二陣がどう選ばれるのか、正確なところは知らない。でも、わたしの選ばれ方なら知っている。試験じゃない。成績でもない。収容所で審問官の前に立たされて、使える、と値踏みされることだ。
わたしのときは、入学に条件がいくつも付いた。武器を持たない。面談。報告。次に来る子も、同じ紙に署名させられるんだろう。文面をそらで言えるくらいには、わたしはあの紙を読み返した。
あいつは、使える側の人間だ。剣も、あの耳も。わたしなんかより、ずっと。
まさか。
……まさか、ね。
偶然だよ。ヴェルダに元兵士なんて、いくらでもいる。生き残った子供も、わたしたちだけじゃない。王国が選べる相手は、他にいくらでもいる。
いくらでも、いる。
寝返りを打って、壁に背中を近づけた。
ミラの寝息は変わらない。窓の外で、木立が風に揺れている。
眠れないのは、いつものことだ。
ただ今夜は、眠れない理由がいつもよりひとつ多かった。