ヴェルダからの編入生が着くのは午後だと、朝の終礼でグレン先生が言っていた。
だから午後の授業が終わって、鞄を肩にかけたわたしの足は、寮でも食堂でもなく、校門の方へ向かっていた。
見に行くつもりはなかった。
昨日の夜、頭の隅で手を挙げかけた考えを、四回くらい押し戻して、それでも眠れなかった。生存者は二人。もう一人がどこにいるかは知らない。まさか。いくらでもいる。偶然だ。そう並べて数えて、それでも数え終わらなかった。
数え終わらないものは、確かめに行くしかない。前線でもそうだった。気配が消えない斜面は、結局、自分の目で見に行くまで消えない。
校門の内側は、迎えの教員が二人と、荷運びの人が何人か。
門の外に、馬車が一台停まっている。幌の色が褪せている。ヴェルダ寄りの、辺境を回ってきた馬車の色だ。
その脇に、一人、立っていた。
痩せている。
黒髪を短く刈って、目の下にくまがある。荷物は布の袋が一つだけ。立ち方が、まっすぐで、でも壁を探している立ち方だ。背中を晒さない位置に体を寄せる、あの立ち方。
風が少し吹いて、短い髪が右のこめかみで割れた。耳の上に、白い線が走っている。裂傷の跡。古い。
ナタルだ。
考えるより先に、足が出ていた。
鞄が肩からずり落ちかけて、構わず走った。門の内側から外へ、まっすぐ。
「ナタル! 生きてたんだ! よかったあ」
声が裏返った。裏返ったまま、もう一度名前を呼んだ。呼べる相手がいる。呼んだら、そこにいる。それが、こんなにうれしいことだって、呼ぶまで知らなかった。
目の奥が熱くなって、視界が少し滲んだ。涙は、出なかった。出なかったけど、出そうになった。いつぶりだろう、こんなの。
ナタル・フォルケ。
第七歩兵小隊の、わたし以外の、たった一人の生存者。
ナタルは笑わない。
わたしを見て、少しだけ顎を引いて、それだけだ。
「久しぶり」
低い声。喉の奥に錆びがある声。前と同じだ。あの頃から、こいつは無駄に喋らなかった。
迎えの教員が「お知り合い?」と聞いてきたので、「同郷です」と答えた。
同じ小隊でした、とは言わなかった。言えば、たぶん、いろいろ聞かれる。聞かれて答えることは、ここでは全部、重くなる。
門の内側で、荷運びの人たちが手を止めて、こっちを見ていた。
たぶん、変な再会に見えたんだと思う。片方が大声で名前を呼んで駆け寄って、片方が「久しぶり」とだけ返す。
それでいい。うれしいのはわたしの分だ。生きていた。目の前にいる。今日はそれで十分すぎる。
ただ、生きていた、ということは、あの中を、こいつも通って、こいつも出てきた、ということでもある。出てきた場所が、どこだったか。出てくるまでに、何があったか。それが、この「久しぶり」の一言の下に、畳んで入っている。
畳まれたものは、他の誰にも見えない。見えなくて、いい。今は、生きていた、だけでいい。
ナタルが、わたしの荷物のなさを見て、それから自分の荷袋を持ち直した。二人とも、荷が軽い。持って逃げられる分しか、持っていない。それも、他の誰にもわからない。
手続きが終わるまで待って、寮の割り当てが決まったあと、わたしがナタルを案内することになった。誰かに頼まれたわけじゃない。わたしが「案内します」と手を挙げた。
歩きながら、わたしはずっと喋っていた。喋っていないと、この静けさがどんどん厚くなる。
「あのね、食堂のパンはおいしいよ。前線のあの石みたいなやつあったでしょ、口の中で角が立つやつ。あれの百倍おいしいから。焼きたての日は特に」
ナタルは黙って歩いている。時々、頷く。
「寮のベッド、柔らかすぎて最初眠れなかったんだけど、慣れたら天国。あ、ナタルも最初は無理かも。でも慣れるよ、たぶん」
慣れるよ、と言ってから、慣れたわけじゃないな、と思う。わたしは今でも壁際に寄って寝る。でもそういうことは言わなくていい。
「お風呂があるの。お湯が出るの。毎日入れるの。信じられる? 蛇口ひねったら、お湯だよ。魔法石で温めてるんだって」
「毎日か」
「毎日。汚れてなくても入っていいの。贅沢でしょ」
ナタルが小さく頷いた。頷いただけで、何も言わない。
教室棟の廊下を通ると、居残りの生徒が何人かいて、ナタルを見た。それから、わたしを見た。目が、二人を並べて測っている。属国の子が、二人になった。その計算をしている目だ。
慣れている。門をくぐった日からある目だ。だから痛くない。
ただ、その目がナタルに向くとき、わたしの足が少しだけ、二人の間に入る位置に動く。癖だ。
食堂に着いた。
夕食にはまだ早くて、広間はがらんとしている。窓から西日が入って、床の石が橙色になっている。
「ここ、好きな席に座れるんだよ。決まってないの。早い者勝ち」
ナタルは広間をひと通り見て、迷わず歩いた。
壁際の、いちばん奥。厨房への通路と、正面の入口の、両方が見える席。出口までまっすぐ動ける席。
そこに、荷袋を椅子の脚の内側に置いて、座った。
いい席を選ぶな、と思った。
わたしもいつもそこか、その並びに座る。壁が背中にあると落ち着くし、入口が見えると安心する。それは、まあ、そういうものだ。誰だって落ち着く席はあるだろう。
二人とも同じ席を選んだことを、わたしは「気が合うな」くらいにしか思わなかった。
向かいに座って、水差しから水を注いで、片方をナタルの前に置いた。
「ごはん、もうすぐ始まるよ。お腹すいてる?」
「別に」
ナタルは水を一口飲んで、コップを両手で包んだ。指が、コップの縁を一周なぞる。数えるみたいに。前線でこいつが物音を数えていたのを思い出した。夜番で、わたしが二つと数えた足音を、ナタルは三つと言った。実際に三つだった。あの耳に、わたしは一度、命を拾ってもらっている。
しばらく、二人とも黙っていた。
西日が少し傾いて、床の橙が濃くなった。厨房の方で、鍋を火にかける音がする。金属が、こつん、と鳴る。わたしの指が一瞬だけ、コップの縁で止まる。すぐ戻る。
ナタルが、口を開いた。
「お前、楽しそうだな」
わたしは笑顔を作った。
「うん、楽しいよ。ここ、いい場所だから。ナタルもすぐ慣れるって」
ナタルは何も言わなかった。
コップから手を離して、わたしの顔を見た。何か言おうとして、口が半分開いて、それから閉じた。
その目が、わたしの笑顔の、少し奥を見ている。表面じゃなくて、その下を確かめる目だ。
わたしはその視線の意味がわからなくて、「なに? 顔になんかついてる?」と聞いた。
ナタルは「いや」とだけ言って、また水を飲んだ。
わからないまま、わたしはまた喋り始めた。明日の授業のこととか、寮の消灯の時間のこととか、どうでもいいことを、途切れないように。
それから、数日が過ぎた。
ナタルは、うまく馴染めなかった。
人混みを避けた。授業には出るけれど、休み時間は一人で廊下の端にいた。壁を背にして、窓の外を見ているふりをして、通る人間を全部、目の端で数えている。わたしにはわかる。同じことを、わたしもやる。
食堂にはあまり来なくて、来ても隅で、早く食べて、早く出ていった。わたしより早く食べる。わたしの早食いは前線仕込みだけど、ナタルのはそれと少し違う。噛む回数が少ない。飲み込むように食べて、皿が空くと、すぐ立つ。誰かに見られながら食べるのが、嫌なんだと思う。前線でも、こいつは天幕の外で、背中を岩に預けて食べることが多かった。
授業のことも、うまくいっていなかった。
魔法の実習で、ヘルミーネ先生が「二人一組で印を教え合って」と言ったとき、ナタルの隣の席の子が、少し間を置いてから、別の子とペアになった。露骨じゃない。ただ、半歩、遠ざかった。ナタルは何も言わずに、一人で印を組んでいた。組めていた。教わらなくても、こいつは器用だった。
わたしは自分のペアの手を止めて、行こうとした。行って、隣に立とうとした。
「カルヴァスさん、ここ、教えてもらっていい?」
ペアの子に袖を引かれて、足が止まった。その子に悪気はない。本当に、わからなくて聞いている。わたしは「あ、うん」と座り直した。
ナタルの方を見たら、ナタルもこっちを見ていた。目が合った。ナタルは、ほんの少しだけ首を振った。来なくていい、という意味だった。
その通りにした。行かなかった。行った方がよかったのか、行かない方がよかったのか、今でもわからない。
昼に一度、廊下で声をかけた。
「ナタル、今日いっしょにお昼——」
「いい」
早かった。言い終わる前に、返ってきた。それから、少しだけ、間を置いて、「悪い」と付け足した。
無理には近づかなかった。近づきすぎると、こいつは殻を厚くする。前からそうだった。夜番を代わろうとすると、いつも「いい、寝てろ」と短く突き放して、結局、朝まで自分で起きていた。休ませようとする手を、休ませない。そういう奴だった。だから今も、間合いを詰めずに、こいつが息をつける距離だけ置いておく。
ある夜、消灯前に、わたしはナタルを誘った。
「ちょっと、いいとこ連れてってあげる」
ナタルは怪訝な顔をしたけど、ついてきた。
寮の東の端に、階段がある。上りきると、屋根に出られる。物干しに使う生徒もいるけど、夜は誰も来ない。
わたしが先に出て、ナタルが後から出てきた。
風が吹いていた。
昼の熱が抜けて、空気が冷えている。学院の屋根が下に広がって、その向こうに王都の灯りが散らばっている。窓の明かりが、低いところで瞬いている。
「ここ、風が気持ちいいでしょ」
ナタルは手すりに寄りかからずに、手すりから一歩引いた位置に立った。落ちない距離を測ってから、外を見た。
最初は、軽い話をした。
「あの煮込み、覚えてる? 灰色のやつ」
「覚えてる」
「あれ、何が入ってたんだろうね」
「わからん。肉だと信じてた」
「肉だったのかなあ」
「骨は入ってた」
「骨はね。骨だけは確かにあった」
わたしは笑った。今度のは、作った笑いじゃなかった。
ナタルは笑わない。でも口の端が、ほんの少しだけ動いた。それが、こいつの精一杯だ。前線でも、これ以上は見たことがない。
風が一度、強く吹いて、また収まった。
ナタルが、外を見たまま話し始めた。
「お前の村の隣の集落、焼けた」
わたしは黙った。
谷をひとつ隔てた集落だ。市が立つ日には、うちの村の連中も歩いて買いに行った。名前を知っている。道も知っている。
「もう、誰も住んでない。遺族は、王都とか、南の町とか、ばらばらに散った。戻る場所がないから」
「そっか」
それしか出てこなかった。
「クルトの母親、まだあの辺にいるらしい」
クルト。
小隊でいちばん年下だった子だ。わたしより二つ下だった。よく笑う子で、配給のときいつも列の最後で、それでも文句を言わなかった。最後に見た顔は、思い出さない。思い出すと、順番も脈絡もなく来る。今はいい。今は、屋根の上だ。
「……そっか」
また、それだけだった。それ以上の言葉が、喉のところで詰まって、出てこない。
ナタルが、こっちを見た。
「お前、なんでそんなに笑えるんだ」
「え? 普通だけど」
「普通じゃない」
低い声だった。責める声じゃない。事実を置く声だ。
「お前も壊れてるんだよ。わたしと同じに」
わたしは笑顔を作った。
「大げさだなあ。わたし、こんなに元気だよ」
ナタルは何も言い返さなかった。
ただ、わたしを見ていた。笑わない目で。わたしの笑顔の奥を、また確かめる目で。
こいつには見えている。わたしが笑えなかった日を、こいつは知っている。同じ天幕で、同じ配給を食べて、同じ夜番をした。だからわたしが表に貼っているものが、貼りものだと知っている。
わたしは、自分が貼りものを貼っている自覚がない。だから言い返せる言葉もない。ただ、その目に見られていると、背中のあたりが少し、落ち着かなかった。
風が、また吹いた。
「ここ、前線の見張り台に似てるな」とナタルが言った。
高くて、街が下に見えて、風が通る。似ている。
「似てる。でも撃たれないから、こっちの方がいい」
ナタルは、少しだけ頷いた。
二人で、しばらく黙って風に当たっていた。
黙っていられる相手がいる。それが、久しぶりだった。ミラといるときの静かさとも、ルチアといるときの静かさとも違う。これは、同じものを見てきた人間同士の静かさだ。喋らなくても、間が持つ。
話は、いつのまにか、戦時中のことになっていた。
最初は軽かった。
「あの上官、やたら声がでかかったよね」
「隣の隊の。声で場所ばれるって、みんな言ってた」
「言ってた言ってた。本人だけ気づいてなかった」
だんだん、深くなった。
声は、大きくならなかった。低くもならなかった。平らになっていった。
取り乱して話せば、それは、誰かに聞かせる話になる。慰めてもらう話になる。でも聞かせられる相手なんて、どこにもいない。わたしたちの見たものを聞いて、平気でいられる人間はいない。聞いた側が壊れる。
だからわたしたちは報告書みたいに話した。事実だけを、順番に、抑揚をつけずに。それが、二人にとっての、いちばん安全な話し方だった。
ナタルが言った。
「占領地で、わたしたちが見たもの、覚えてるか」
わたしは黙った。
覚えている。忘れたことは、一度もない。忘れられるものなら、とっくに忘れている。
ナタルは、それ以上を言わなかった。自分のことは、何も。
わたしも、聞かなかった。
聞かなくても、わかる。別々の収容所だった。でも収容所というのは、どこも同じことが起こる場所だ。壁の色が違うだけで、夜に開く扉の音は、同じだ。
あの夜、わたしのいた房の前で、足音が止まった。一人分。靴底が床を擦る音がして、扉の外に、人の気配があった。息を殺した。体が固まった。
足音が、動いた。通り過ぎた。その先の房の扉が、軋んだ。
誰かが助けに来たわけじゃない。ただ、通り過ぎただけだ。次の夜も、その次の夜も、足音は来た。あの房にもう一晩いたら、いつか、わたしの扉の前で止まって、開いていた。
翌朝、審問官が来て「来い」と言った。それだけの差で、わたしは収容所を出た。たまたま審問官が早かった。たまたま、わたしに利用価値があった。それだけの差だ。
運が良かった、とわたしは思う。
思ってすぐ、その言葉の薄汚さに気づく。
運が良かった、なんて。わたしが運が良かったなら、ナタルは運が悪かっただけ、ということになる。同じ夜の、同じ扉の、こちら側とあちら側。それを分けたのが「運」なら、ナタルがあちら側に行ったのは、ただの、確率だ。そんな言葉で、こいつの夜を数えたくない。数えていいわけがない。
ナタルが、ぽつりと言った。
「お前は、まだ、笑える側だ」
責めているんじゃなかった。
うらやんでいるのとも、少し違う。
ただ、線を引いていた。お前とわたしは、同じ場所にいて、同じ目に遭いかけて、それでも紙一枚で、別の側にいる。その線を、静かに、指でなぞるように置いた。
わたしは、何も言えなかった。
「ごめん」は、違う。わたしが謝ることじゃないし、謝られてもナタルは困る。
「よかった」は、もっと違う。何がよかったっていうんだ。
何を言っても、嘘になる。言葉は、この線をまたげない。またごうとすれば、どっちかを踏む。
だから黙っていた。
二人で、手すりの手前に立って、空を見た。
星が出ていた。王都は明るいけど、屋根の上からは、空の高いところの星が見える。
星は、どっちの側にも、同じように出ている。笑える側にも、笑えない側にも。区別なんてしないで、ただ、光っている。それが、ありがたいような、ずるいような、変な感じだった。
ナタルが、少しだけ、手すりに近づいた。
一歩。落ちない距離を、また測ってから。
それが、こいつなりに気を許した合図だと、わたしにはわかった。
屋根から降りて、階段を下りた。
ナタルが先で、わたしが後ろだった。ナタルは階段でも、足音を殺す。わたしも殺す。二人分の足音が、ほとんどしない。
踊り場の角に、人がいた。
階段の柱にもたれて、座り込んでいる。おさげの髪と、そばかす。ミラだった。
わたしの体が、一瞬、身構えた。癖だ。すぐ解けた。ミラだ。
「ミラ?」
ミラは、こっちを見上げた。
顔が白かった。何か言おうとして、口が動いて、閉じた。
聞いていたんだ。どこからかは、わからない。でも、聞いてしまった顔だった。
「部屋まで、送るよ」
わたしはそれだけ言った。「忘れて」も「大丈夫」も、違う気がした。
三人で、暗い廊下を歩いた。誰も喋らなかった。
わたしとミラの部屋の前まで来て、ミラが扉を開けた。敷居のところで振り返って、わたしを見て、ナタルを見て、少しだけ間を置いた。
「おやすみ」
「おやすみ、ミラ」
ミラは中に入った。
ナタルが、扉を見て、それからわたしを見た。
「あいつ、聞いてたのか」
「うん」
「そうか」
ナタルは、それ以上何も言わなかった。責めもしなかったし、慌てもしなかった。ただ、少しだけ、目を伏せた。
自分の夜を、知らない子に聞かれた。それがナタルにとってどういうことか、わたしにはわからない。想像はできる。でもわからない。
ナタルが自分の部屋のほうへ歩いていった。足音を殺して歩くから、すぐに見えなくなった。廊下の角で、かちりと鍵の音がした。
部屋に入ると、ミラはもうベッドにいた。布団を頭まで被っている。
扉を閉めて、鍵に手をかけた。
今夜も、指が一瞬止まる。閉じ込められる、と体が言う。命令ならかけられるけど、今夜は命令がない。それでもかけた。さっき廊下の角で、ナタルの鍵がかちりと鳴ったから。あの音の方に、合わせたくなった。
ベッドの壁際に寄って、目を閉じた。
眠れないのは、いつものことだ。
ただ今夜は、眠れない理由の中に、屋根の上の風と、ミラの白い顔と、それから、ナタルの「まだ笑える側だ」が、混じっていた。
まだ、と、こいつは言った。
まだ、ということは、いつか、笑えなくなる側があるってことだ。それとも、まだ、ということは、今はまだ間に合う、ってことなのか。
わからなかった。わからないまま、鍵の音を、もう一度、頭の中で鳴らした。