わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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敵の制服

朝、制服を着る。

 

ボタンを上から順に留めて、襟を正す。鎖骨の跡が襟の内側に隠れる。ここまでは考えなくてもできる。手が勝手にやってくれる。毎朝のことだ。

 

今朝は、胸のところで手が止まった。

 

胸元に、紋章がついている。鷲が翼を広げて、その下に剣が一本。糸で刺してある。入学のとき配られた制服に、最初からついていた。半年、毎日つけている。今朝まで、ただの模様だと思っていた。

指で、鷲の翼をなぞってみる。糸の縫い目が、指の腹に少しだけ引っかかる。

 

この鷲の旗がヴェルダに立った。この鷲をつけた軍服が、村の道を歩いてきた。焼けた家の前を、この鷲が通った。わたしの村を焼いた側の、印だ。

 

昨日の夜、ナタルと話した。うちの村の隣の集落が焼けたと聞いた。谷をひとつ隔てた、市の立つ集落だ。もう誰も住んでいなくて、遺族は王都や南の町に、ばらばらに散ったという。名前も知らない集落が、ほかにもいくつ焼けているんだろう。そういう話を聞いた次の朝に、この紋章を胸につけている。

つけて、この国の教室に行って、この国の子たちと笑い合う。

 

指を止めたまま、少しの間、鷲を見ていた。

まあ、模様は模様だ。取り外せるものでもない。外したら外したで、それはそれで面倒なことになる。制服に文句を言っても、制服は何も言い返してこない。

 

そう思って、手を動かした。襟の位置を直して、鏡を見る。

鏡の中の子は、王国の制服を着ている。亜麻色の髪を無造作に束ねて、緑の目をして、胸に鷲をつけている。よく似合っている。似合っているのが、なんだか変な感じだった。

 

ヴェルダの子は、ヴェルダの服を着ていたはずだ。どんな服だったか、もう思い出せない。徴兵される前に着ていた服。母が繕ってくれた服。形も色も、思い出せない。

 

思い出せるのは、匂いのほうだ。

近所の人が、たまにりんごをくれた。母はそれを細かく刻んで、生地に混ぜて、菓子パンに焼いた。オーブンなんて上等なものはなかったから、鉄板の上で、蓋をして、焦がさないように焼く。焼けるとき、りんごの甘い匂いと、少し焦げた粉の匂いが、狭い家に満ちた。あれが、母の料理で最後に食べたものだ。徴兵の前の日だったか、もっと前だったか、それも思い出せない。匂いだけが、残っている。

 

服の色は忘れて、匂いは覚えている。おかしなものだ。思い出せないものだらけなのに、この鷲だけは、今朝からやけにはっきり見える。

 

鏡の中の子が、口角を上げた。うまく上がった。いつも通りだ。

 

行こう。今日も授業がある。

 

 

 

一限は、ドルフ先生の歴史だった。先生は痩せていて、口髭があって、いつも背筋がまっすぐだ。黒板に年号を書くとき、白墨の音が規則正しく鳴る。字が細かくて、後ろの席からは読みにくい。わたしは後ろから二番目の、壁際の席に座っている。左隣がミラ、右隣がルチアの席だ。ナタルは、わたしの真後ろ。最後列の、壁際に座った。編入して数日で、もう壁際を選ぶようになった。二人とも、壁を背にしないと落ち着かない。

 

先生が教科書を開いて、章の題を読み上げる。

 

「本日は、戦後の統治について扱います。属国の統合と、融和政策の理念について」

 

黒板に「融和政策」と書かれる。白墨が、いつもより少し強く押しつけられた気がした。

 

「融和政策とは、王国が属国の民に対して行う、寛大な政策です。武力で従えるだけではなく、教育を与え、文化を統合し、共に豊かになる道を用意する。これは、大陸のどの帝国も成し得なかった試みです」

 

先生は、教科書を見ていない。そらで喋っている。何度も喋ってきた言葉なんだと思う。順番がなめらかで、つっかえない。

前に、この人の授業で、ヴェルダ戦争を「正当な領土回復」と習った。もともと王国の土地だったことなんて、一度もないのに。教科書には、村を焼いたことも、子供を前線に出したことも、書いていなかった。「動員の拡大」とだけ書いてあった。

先生は、歴史の先生だ。教科書に何が書いてあるかを教える人だ。だったら、何が書いてないかも知っているはずだ。何を消して、何を残したか、決めた記録を読める立場にいる。知らないはずがない。知っていて、書いてあるほうだけを喋る。書いてないほうは、口にしない。それを、この人は「教育」と呼んでいる。悪気はたぶんない。悪気がないから、たちが悪い。悪気のある人間なら、まだ言い返せる。

 

「属国の民は、王国の一員として遇される。かつて敵であった者にも、学びの門は開かれている。これほどの寛大さが、歴史上、あったでしょうか」

 

そこで先生が顔を上げた。こっちを見た。わたしと、ナタルを。二人まとめて、視線で挟むように。

 

「ちょうどいい」

 

ちょうどいい、と先生は言った。まるで、都合のいい道具がそこにあった、というふうに。

 

「カルヴァス君。フォルケ君。二人は、この融和政策の恩恵を受けている当事者だ。教科書の言葉よりも、当人の声のほうが、他の生徒には響くでしょう。感想を聞かせてくれないか」

 

教室が、少し静かになった。前の席の子たちが、身じろぎもせずに前を向いている。振り返らない。振り返らないことで、耳だけがこっちを向いているのがわかる。

 

わたしは、笑顔を作った。

 

「恩恵、ですか」

 

先生の言葉を、そのまま返した。時間を稼ぐときの、いつものやり方だ。返している間に、何を言えば場が収まるかを探す。

 

「ええ」

 

先生が頷く。満足そうだった。当事者が食いついた、というふうに。

 

「戦争が終わり、こうして王国で学べることを、どう感じているかね。前線にいた頃と比べて、今の暮らしを」

 

わたしは、ちらりと後ろを見た。ナタルは前を向いたまま、机の上に手を置いて、何も言わない。答える気がない。答える気がないのが、同じ小隊にいたわたしにはわかる。ナタルは、口を開かないと決めたら、開かない。前線でもそうだった。無駄な言葉を、こいつは一つも持っていない。

膝の上で、ナタルの手が動いた。拳を作る。指が内側に折り畳まれて、爪が手のひらに食い込む角度で。

 

わたしは口を開いた。ナタルの分も、わたしが喋ればいい。

 

「ありがたいです」

 

そう答えた。笑顔のまま。

 

「食事も、毎日出るし。屋根もあるし。雨が降っても濡れないし。夜も、そんなに寒くないので」

 

先生が、深く頷いた。

 

「そうだろう。王国の懐の深さだ。かつて剣を交えた相手にも、これだけのものを与える。これが、我が国の理念です」

 

先生は、黒板の「融和政策」の字を、指し棒で軽く叩いた。話がうまく着地したという顔で。

 

食事が出る。屋根がある。夜が寒くない。

それは本当だ。嘘は言っていない。ただわたしが何と比べて「ありがたい」と言ったのか、先生は考えていない。わたしが比べているのは、収容所だ。半年いた、あの場所だ。あそこでは、食事は二日に一度のこともあった。屋根はあったけど、壁の隙間から雨が吹き込んだ。夜は、床の冷たさで足の感覚がなくなった。それと比べたら、ここはありがたい。毎日食べられて、濡れなくて、凍えなくて済むなら、それでいい。

でも先生の言う「恩恵」は、そういう意味じゃない。王国が寛大だから感謝しろ、という意味だ。焼いた側が、焼いたあとで屋根をくれたことに、感謝しろ。そういう話だ。わたしの「ありがたい」と、先生の「恩恵」は、同じ言葉の形をして、中身がまるで違う。先生はその違いに気づいていない。気づかないまま、満足している。

 

前の席の子が、小さく頷いた。先生の話にじゃなくて、たぶんわたしの「ありがたい」に。属国の子が、王国に感謝している。その絵が、その子の中で、気持ちよく収まったんだと思う。悪気はない。ただ収まりがよかった。世界が、教わった通りの形をしていた、というだけのことだ。

この教室では、融和政策は、授業の題目じゃない。空気だ。制服にも、時間割にも、こういう頷きにも、溶けて混ざっている。誰も声高には言わない。言わなくても、みんな、うっすら知っている。ここにいる属国の子は、感謝すべき立場なんだと。感謝しているように、見えているべきなんだと。

だからわたしは笑顔でいる。感謝の顔をしていれば、この空気は、わたしを見逃してくれる。壊れず、騒がず、うまく収まっている限り、誰もこっちを深く見ない。それが、いちばん楽だ。前線で覚えた。目立たない兵士は、危ない任務に回されない。目立たない属国の子も、たぶん同じだ。

 

膝の上で、ナタルの拳が、まだ握られている。真後ろで、気配だけが伝わってくる。

わたしは右手を椅子の後ろへ回した。膝の上のナタルの拳を手探りで見つけて、上から包む。

 

ナタルは、こっちを見なかった。見ないまま、拳の力が、少しだけ抜けた。

 

大丈夫。

少しだけ首を回して、口だけ動かした。ナタルの視界の端に入るように。大丈夫。ここは、耐えるだけの場所だ。耐えるのは慣れてる。わたしたちは、耐えるのだけは、うまい。

 

先生が、次の年号を黒板に書き始めた。白墨の音が、また規則正しく鳴った。

 

 

 

二限は、政治学だった。担当は、同じくドルフ先生だ。その日は、生徒が順番に立って、教科書の一節を音読することになっていた。先生が指名して、指された者が立って読む。読み終わったら座る。単純な授業だ。暗記も要らない。ただ読むだけ。だからわたしにもできる。年号を覚えるやつよりずっとましだ。

 

前の子が読み終わって、座った。

 

「では、次。カルヴァス君」

 

名前を呼ばれて、立った。教科書のページは開いてある。指で行を追いながら、声に出す。

 

「融和政策は、属国の民を王国の秩序に……導き、両者の……」

 

そこまで読んだところで、先生の声が飛んできた。

 

「待ちなさい」

 

わたしは、口を止めた。

 

「カルヴァス君。今の『秩序』の発音。それはヴェルダ訛りだ。標準語で言い直しなさい」

 

教室の子たちが、こっちを見た。何人か。読んでいる途中で止められたのが珍しかったんだと思う。自分では、気づかなかった。

普段、教室では標準語で喋っている。喋れる。半年、練習してきた。でも声に出して読むと、たまに、村の言い方が混じるらしい。喉の奥に、まだ残っているんだと思う。標準語の下に、村の音が。

 

「あ、すみません」

 

わたしは口の端を上げて、言い直した。

 

「秩序」

 

さっきと、どこが違うのか、自分ではよくわからない。でも先生が「よろしい」と頷いたから、直ったんだと思う。続きを読んで、読み終わって、座った。

 

気にしていない。発音くらい、直せと言われれば直す。前線でも、上官の言う通りに喋れと言われれば、そう喋った。喋り方で怒鳴られないなら、いくらでも合わせる。それだけのことだ。

直されて、初めて知った。半年、標準語で上から塗ったつもりでいた。塗れていた、と思っていた。それでも声に出して読むと、下から滲む。塗った下に、まだある。あるうちは、こうやって、たまに滲んで、そのたびに直される。滲まなくなるまで。

 

読み終わって席に戻るとき、後ろのナタルが目に入った。膝の上で、手がまた握られていた。さっきよりも、強く。

指の関節が白くなっている。血の気が引いて、皮膚が突っ張って、骨の形が浮いている。爪が手のひらの肉に深く食い込んでいるはずだった。痛いはずだ。でもナタルは痛いという顔をしない。ただ握っている。

 

今度は、手を回さなかった。さっき一限で椅子の後ろへ手を回したのを、前の席の子が見ていた気がする。先生が見ている前で、また同じことをしたら、次はナタルが指される。立って、読まされて、直される。ナタルは、それには耐えられない。わたしみたいに笑って「すみません」とは言えない。だから握らせておいた。握って耐えるほうが、まだましだから。

 

授業が終わる鐘が鳴った。先生が教科書を閉じて、「今日はここまで」と言った。

鐘の音に合わせて、後ろでナタルの拳がゆっくりほどけた。手のひらに爪の跡が赤く四つ残っていた。

 

 

 

放課後、二人になった。中庭の隅の、誰も来ない場所。植え込みの陰に、石のベンチがある。わたしがここを見つけた。出口が見えて、背中に壁があって、上から人が来ない場所。ナタルを連れてきたら、こいつも、ここが気に入ったみたいだった。何も言わなかったけど、座り方でわかる。肩の力の抜け方が、教室とは違う。

ベンチに座ると、ナタルは壁のほうへ、わたしは出口のほうへ、自然に分かれる。頼んだわけじゃない。二人で一つの方角を見張らずに済むように、体が勝手に分担する。前線の夜番と、同じ配置だ。片方が壁を、片方が開けたほうを見る。そうすれば、どっちから来られても、どちらかが気づく。

 

しばらく、二人とも黙っていた。中庭の向こうで、他の生徒の声がする。誰かが笑って、誰かが走っていく。その声が、遠い。わたしたちの座っている場所だけ、少し、時間の流れが違う。

 

「腹減ったな」

 

わたしがそう言うと、ナタルが「ん」と返した。

 

「食堂、まだ焼き菓子あるかな。夕方になると売り切れるんだよね。取り合いになる」

 

「取り合い」

 

「そう。みんな、いい席といいおやつには、遠慮がないの。かわいいもんだよ」

 

言いながら、自分の喋り方が、少しゆるんでいるのに気づいた。「かわいい」の「か」が、少し伸びた。村の年寄りが、そういう伸ばし方をした。ここが甘い、というときの音。教室でこの喋り方をしたら、また直される。でも今、ナタルの前では、勝手に出た。

 

「取り合いって、あの、配給の並びみたいなもんだべ」

 

ナタルが、そう返した。「だべ」だ。教室では絶対に言わない語尾。前線でしか、村でしか、聞かない言い方。

 

言葉が、村のほうに転がっている。語尾が、丸くなっている。先生に直された「秩序」の音とは、逆の方向に。教室では出さない音が、ナタルの前だと、勝手にこぼれる。ナタルの喋り方も、教室で聞くときと少し違う。二人でいると、二人とも、村の音に戻る。

不思議だ。標準語で喋ろうと思わなくても、標準語が出る場所と、思っても村の言葉が出る場所がある。体が、相手を見て、喋り方を選んでいる。

 

ナタルの前では、体が警戒を解いている。だから村の音が出る。

 

それが、少しだけ、怖くなった。このまま、二限の音読を毎日やって、たまに直されて、そのたびに「すみません」と言い直していたら、いつか村の音は出なくなるのかもしれない。ナタルの前でも、標準語しか出なくなるのかもしれない。標準語の下から、村が削れて、なくなる。

名前は、まだ残っている。リーネ・カルヴァス。呼ばれれば返事をする。でも名前も、いつまで残るかはわからない。喋り方が削れるなら、名前だって、いつか、削られるかもしれない。

 

帰りたい、と思った。初めて、そう思った。半年間、一度も思わなかったのに。教室で「秩序」を直された日に、初めて。村の音がまだ残っているうちに、あの村に帰りたい。まだ削れきる前に。

でも帰る場所は、もうない。わたしの家があった場所は、更地だ。村の人は散った。帰っても、迎える喉は、一つも残っていない。帰りたい場所は、もう、地図の上にしかない。

 

ナタルが、こっちを見ていた。

 

「なんだ」

 

わたしが聞くと、ナタルは短く言った。

 

「顔」

 

「顔?」

 

「変な顔してた」

 

わたしは、慌てて口角を上げた。

 

「してないよ。腹減ってただけ」

 

ナタルは、それ以上言わなかった。でも目は、こっちを見ていた。わたしの笑顔の下を見る目だ。ナタルにしか見えない場所を、見ている。

こいつには、隠せない。同じ小隊にいたから。わたしが笑えなかった日を、こいつは知っているから。笑顔を貼りつけても、その下に何を貼りつけてあるか、ナタルには透けて見える。

 

こっちを見ているナタルの、目の下のくまが、来たときより濃くなっていた。編入して数日。夜、眠れていないんだと思う。前線でもそうだった。こいつは寝るのが下手で、寝たふりも下手で、野営で横になっても目を開けていた。学院のベッドは柔らかいけど、柔らかいベッドが眠りを連れてくるわけじゃない。何を見て眠れずにいるのか、わたしには見当がつく。見当はつくけど、聞かない。聞いたら、聞いた分だけ、ナタルはそれを思い出す。

 

「焼き菓子、買ってくる」

 

わたしは立ち上がった。ナタルの目から、逃げるみたいに。

逃げてどうする、とも思った。逃げる相手じゃない。ナタルは、わたしの笑顔の下を見ても、それを誰かに言ったりしない。見て、黙っている。それだけだ。この学院で、それができる相手は、ナタルしかいない。でも今は、あの目に村のことを見透かされたくなかった。帰りたい、なんて口に出したら、ナタルはどんな顔をするだろう。ナタルには、わたし以上に、帰る場所がない。わたしの村は更地でも、更地はまだ、そこにある。ナタルの村がどうなったか、昨日の夜は聞けなかった。聞かなくても、いい話じゃないのはわかる。

帰りたい、は、二人でいるときに、いちばん言っちゃいけない言葉だ。だから飲み込んで、焼き菓子を買いに行く。村と一緒に、しまっておく。

 

 

 

食堂の焼き菓子は、まだ残っていた。二つ買って、戻ろうとしたところで、声をかけられた。

 

「リーネ」

 

振り返ると、ルチアだった。栗色の髪をハーフアップにして、教科書を胸に抱えている。図書室の帰りらしい。

 

「あ、ルチア」

 

「今日、朝から元気なかったよね」

 

ルチアは、そういうところを見ている。わたしが自分で気づく前に、ルチアが先に気づいていることが、たまにある。

 

「そう? 普通だよ」

 

「普通じゃなかった。歴史のとき、下向いてた」

 

わたしは、焼き菓子の袋を持ち直した。何て答えようか、探す。

 

ルチアが、少し首を傾けて、聞いた。

 

「故郷が、恋しい?」

 

軽い聞き方だった。悪気はない。心配して、聞いてくれている。ルチアは、故郷というものが、当たり前に恋しがれるものだと思っている。手紙を書けば返事が来て、休みになれば帰れて、母と弟が待っている。そういう故郷を持っている子の、聞き方だった。

ルチアが手紙を読んでいるのを、何度か見た。封蝋のついた、いい紙の手紙。読んでいるとき、ルチアの顔は、いろんな色に動く。困ったり、笑ったり、ため息をついたり。故郷が、まだ喋りかけてくる人の顔だ。返事を書けば、また返ってくる。恋しがれば、恋しがった分だけ、向こうにも、恋しがる誰かがいる。

わたしの故郷は、もう何も言わない。手紙を出そうにも、宛先がない。恋しがっても、向こうで恋しがる人がいない。恋しがるというのは、両側に人がいて、初めて成り立つものらしい。片側だけで恋しがっても、それは、恋しさというより、ただの、穴だ。

 

「恋しいっていうか……」

 

わたしは、言葉を探した。

 

「あるかどうかも、わからないから。恋しがりようが、ないんだよね」

 

ルチアの顔が止まった。口が開きかけて、閉じた。何か言おうとして、それが違うと気づいて、飲み込んだ顔だった。言えなかった、というより、言うべき言葉が、見つからなかったんだと思う。

 

「……ごめん」

 

ルチアが、小さく言った。

 

「軽く、聞いちゃった」

 

「軽くていいよ」

 

わたしは、笑顔を作った。

 

「重くされるほうが、困るから。軽く聞いてくれるほうが、楽」

 

本当だ。重く聞かれると、こっちも重く返さなきゃいけない気がして、しんどい。ルチアが軽く聞いてくれるのは、ありがたい。だからこれは本当のことだ。

でもその笑顔が、いつもより少し遅れた。口角を上げるのに、いつもは考えない。考える前に、顔が動く。でも今日は、上げようと思ってから、上がるまでに、一拍あった。ルチアは、それに気づいたと思う。気づいて、何も言わなかった。

 

「焼き菓子、二つあるの?」

 

ルチアが、話を変えてくれた。

 

「うん、ナタルの分。中庭で待ってるから」

 

「そっか。……また明日ね」

 

「うん。また明日」

 

ルチアが、教科書を抱え直して、寮のほうへ歩いていった。途中で一度、振り返って、小さく手を振った。わたしも振り返した。

 

ルチアの背中が見えなくなってから、わたしは焼き菓子の袋を見た。

 

温かい。まだ、焼きたての熱が残っている。この熱を、ナタルのところへ持っていく。ナタルは「ん」と言って受け取るだろう。二人で、村の音で喋りながら、これを食べる。喉の奥の村が、まだ削れきる前に。

 

帰る場所はない。でも村の音で喋れる相手は、まだ一人いる。それで、今日はいい。

 

中庭に戻る道を歩きながら、わたしは、胸の鷲を、もう一度、指でなぞった。今朝はっきり見えた鷲が、夕方の光の中では、少しだけぼやけて見えた。糸の色が、朝と同じなのか、違うのか、よくわからなかった。

まあ、模様は模様だ。そう思おうとして、思いきれないまま、焼き菓子を持って、ナタルのところへ歩いた。

 

あの、眠れていない目のところへ。

 

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