天井を見ていた。ミラの寝息が聞こえる。規則正しくて、途切れない。
叫び声が聞こえた。
廊下の向こうから来た。女の声。引き裂かれたような、喉の奥から押し出される音。言葉になっていない。
ナタルだ。
体が先に動いた。ベッドから跳ね起き、掛け金を外して廊下に出る。裸足で石の床を踏む。冷たい。消灯後の弱い灯りが等間隔に並んで、石造りの壁をぼんやり照らしている。
足音を殺す癖が出る。暗い廊下で足音を立てると居場所がばれる。ここでは関係ない。関係ないのに、体が勝手にやる。
ナタルの部屋の前まで来た。ドアが薄く開いている。中からまた声。短い、途切れ途切れの叫び。
部屋に入った。
ナタルがベッドの上で体を丸めていた。両腕で頭を覆っている。毛布は蹴飛ばされて床に落ちている。目は開いているのに、何も見ていない。壁に向かって声を上げている。
隣のベッドでは、ルームメイトが壁際に張りついていた。毛布を顎まで引き上げて、目を見開いている。何が起きたかわからないという顔。
ナタルのベッドに近づく。
急に触れると暴れる。それは知っている。
まず声をかけた。「ナタル」。低く、短く。聞こえていなくてもいい。音を先に入れて、触れるのはそのあとだ。
背中に手を置いた。体温を伝えてから、後ろからゆっくり腕を回す。力を入れすぎない。包むように。
「大丈夫。ここは戦場じゃない」
低い声で、繰り返す。
何度もやったことがある。暗い天幕の中で、隣の兵士が突然叫び出す夜。起き上がって、背中に触れて、同じ言葉を繰り返す。大丈夫、ここにいる、敵は来ない。声のトーンを変えない。急がない。焦ると相手に伝わる。こちらが落ち着いていれば、体温を通して伝わる。呼吸が落ち着くのを、待つ。
ナタルの全身がこわばっている。肩が石みたいに硬い。腕の下から、荒い呼吸が漏れている。息を吸って、止まって、吐けない。過呼吸の手前だ。
「ナタル。ここは学院。壁の向こうに廊下がある。廊下の先に食堂がある。朝になったらパンが出るよ。覚えてる?」
具体的なものを並べる。「ここ」がどこか、体に教える。前線では「大丈夫」だけで足りた。大丈夫じゃなくても次の任務があったから。でもここには次の任務がない。だから「ここがどこか」を一つずつ渡す。
ナタルの呼吸が、少しずつ遅くなった。肩のこわばりが緩んでいく。覆っていた腕が下がる。目の焦点が戻ってくる。
「……リーネ」
かすれた声。わたしの名前。戻ってきた。
「うん。わたしだよ。大丈夫、戻ってきたよ」
ナタルがわたしの腕を掴んだ。力が強い。爪が食い込む。痛いけど外さない。戻ってきた直後は、何かを掴んでいないと不安定になる。掴んでいるものが「今」の証拠になるまで、離してはいけない。
ルームメイトがベッドの上で固まったまま、こちらを見ていた。顔が白い。
当然だ。隣で突然叫ばれて、別の部屋の子が飛び込んできて、腕を回して何か繰り返している。普通の夜じゃない。
「大丈夫だよ。悪い夢を見ただけ。もう落ち着いたから」
その子に向かって笑顔を作った。安心させるための表情。これも覚えている動作だ。怯えている人間には笑って見せる。中身はなくていい。形だけでいい。
その子は何も言わなかった。頷きもしなかった。毛布を握ったまま、こちらを見ているだけだった。
ナタルが眠りに落ちるまで、隣にいた。
手がわたしの袖を掴んだまま離さなかったので、ベッドの脇の床に座って壁にもたれた。石の壁は昼の熱が抜けて、背中に冷たかった。でもこの冷たさは覚えがある。天幕の中で、地面の冷たさに背中を預けて、隣の仲間が落ち着くのを待った夜と同じだ。あの頃は地面が土で、今は石だ。それ以外は、あまり変わらない。
ナタルの呼吸が規則的になるまで、しばらくかかった。途中で二度、体がびくりと跳ねた。跳ねるたびに袖を掴む力が強くなって、また緩む。波みたいに来て、引いて、また来る。体が戦場に引き戻されかけて、わたしの腕を「今」として掴み直している。
やがて、呼吸が穏やかになった。掴んでいた手の力が抜けて、指が緩んだ。
袖を静かに外して、床に落ちていた毛布を拾ってかけ直す。額に汗が浮いている。黒い短髪が額に張りついて、右耳の上の裂傷の跡が暗がりでも白く浮いて見えた。
眠っているナタルの顔は、起きているときよりもっと幼く見えた。目の下のくまが濃くて、頬がこけている。十七歳の顔じゃない。
ルームメイトのほうを見た。毛布に包まったまま、目を閉じていた。眠れたのか、眠ったふりをしているのか、わからない。どちらにしても、もうわたしにできることはない。
部屋を出た。
廊下に、ルチアが立っていた。
壁にもたれて、こちらを見ている。パジャマ姿で裸足。髪が下りている。起きてきたばかりの格好。
目が赤かった。
「ルチア? どうしたの」
ルチアは何も言わなかった。わたしを見ていた。口を開きかけて、閉じた。言葉にならなかったみたいに。
「大丈夫だよ、ナタル落ち着いたから。悪い夢を見ただけ。もう寝たよ」
笑顔を向けた。本当のことだ。ナタルは落ち着いた。もう寝た。大丈夫だ。
ルチアが小さく頷いて、自分の部屋の方に戻っていった。足音が遠ざかる。
ルチアが何を見ていたのか、わからなかった。叫び声が聞こえて心配して起きてきたのだろう。ナタルが無事だとわかれば安心するはずだ。それだけのことだ。なのに、なぜ目が赤かったのか。何を見て、何を堪えていたのか。わたしにはわからなかった。
自分の部屋に戻って、掛け金を閉めた。ミラはまだ寝ている。
ベッドに戻って、壁際に寄った。天井を見る。
ナタルの目を思い出す。焦点の合わない目。ここにいないのに体だけがここにある。前線で何度も見た。あれが来ると、戻るまでの何分かは、どこにもいなくなる。
わたしもああなるのだろうか。ならないと思う。わたしは眠れないだけだ。叫びはしない。
目を閉じる。朝まで、もう少し。
翌朝。
食堂で朝食を食べているとき、ミラが「昨日の夜、なんかあった? 廊下がバタバタしてたって隣の部屋の子が言ってたんだけど」と聞いてきた。やっぱり寝ていたのか。
「ナタルがちょっとね。悪夢。もう大丈夫だよ」
「悪夢って、叫ぶくらいの?」
「うん。まあ、あるよね、そういうの」
ミラが少し黙った。パンをちぎる手が止まっている。それから何も聞かずにパンを口に運んだ。聞かないことを選んでいるのが、手の動きでわかる。
ルチアは向かいで、スープの湯気を見つめていた。いつもより目の下が暗い。昨夜、廊下に立っていた後、眠れただろうか。
一限目が終わったあと、グレン先生に呼ばれた。
「カルヴァス。来い」
教官棟の二階。廊下の突き当たりの執務室。壁一面の本棚に戦術書が並んでいて、壁に実戦用の剣が一振りかかっている。柄の革が擦り切れた、飾りじゃない剣。
いつもの椅子に座る。茶が出ている。呼ぶ前から二つ用意してあった。苦い茶。この人はいつも、呼び出す相手の分を先に用意している。
「フォルケのルームメイトが教務に部屋替えを申し出た」
先生は机の向こうに座って、短く言った。
「夜中に叫ばれて眠れない、と」
仕方ない、と思った。昨夜のあの子の顔を思い出す。壁に張りついて、毛布を顎まで引き上げて、目を見開いていた。怖かったのだ。当然だ。隣で突然叫ばれたら、誰だって怖い。わたしが慣れているだけで、あれが普通の反応だ。あの子を責める気にはならない。
「ナタルをわたしの部屋に呼びます。同じ天幕で寝てましたから、慣れてます」
当然のことを言った。ナタルが叫んでもわたしは対処できる。昨夜も対処した。落ち着かせ方を知っている。ミラには申し訳ないけど、ミラにナタルの悪夢は対処できない。わたしなら、できる。
グレン先生が茶碗を置いた。
「やめておけ」
短い。いつもの命令口調。でも、間があった。考えてから言っている。
「お前とフォルケを同じ部屋にすれば、片方の悪夢がもう片方を戦場に引き戻す。お前たちは同じ戦場にいた。同じ夢を、同時に見る」
「でも、わたしはナタルが叫んでも平気です。昨日もちゃんと対処できました」
「できたことが問題だ」
意味がわからなかった。対処できたのに、何が問題なのか。できない方がいいのか。
先生が椅子の背に体を預けた。壁の剣が、先生の背後で鈍く光っている。
「お前が昨夜やったことは、前線の技術だ。背中に触れて、声のトーンを変えずに、呼吸が落ち着くまで待つ。天幕でやっていたことと同じだろう」
言い当てられた。わたしがやったことを、先生は見ていない。見ていないのに知っている。この人も同じことを、どこかでやったことがあるのだ。
「前線の技術で、前線の仲間の悪夢に対処する。毎晩それをやれば、お前の体はここを前線だと判断する。フォルケの悪夢はお前の記憶を呼ぶ。お前の反応はフォルケの記憶を呼ぶ。互いが互いの引き金になる」
「支え合うのは、だめなんですか」
「支え合うのは悪くない。だが二人だけで固まれば、お前たちはずっと戦場の中だ。お前を外に連れ出せるのは、戦場を知らない人間だ」
戦場を知らない人間。
ルチアの顔が浮かんだ。赤い目で廊下に立っていた顔。ミラの顔が浮かんだ。
「先生は、見てきたんですか。そういうの」
「ああ」
一言だった。でもその一言に、重さがあった。見てきた、と言ったときの目が、少しだけ遠くなった。
完全には腑に落ちない。わたしはナタルの悪夢に対処できる。それは事実だ。でもグレン先生は「できることが問題だ」と言った。できることが、なぜ問題なのか。
わからない。でもグレン先生がこの声で言うなら、わからないまま従うのが正しいと思った。この人は見てきた。わたしがまだ見ていないものを。
「……わかりました」
茶を飲んだ。苦い。
昼休み。食堂で、ミラとルチアと三人で座っていた。
部屋替えの通達は昼前に出ていた。ナタルのルームメイトが移る。ナタルの部屋に空きが出る。誰がナタルと組むかは、まだ決まっていない。
グレン先生は教務に「戦場を知らない人間と組ませろ」と言ったらしい。具体的に誰とは指定していない。
「ナタルの隣、誰がなるんだろうね」
わたしがそう言うと、ミラのスプーンが止まった。スープの中でスプーンが止まって、ミラがそれを見つめている。
「わたし、ナタルと同じ部屋でいいよ」
声が硬かった。いつもの軽い口調じゃない。言い慣れていない言葉を押し出すような声。
「ミラ、無理しなくていいよ」
本気で言った。ミラはナタルが夜中に叫んだことを知っている。今朝、食堂で「悪夢」と言ったとき、ミラのパンをちぎる手が止まっていた。
「無理じゃない」
ミラがこちらを見た。目がまっすぐだった。
「……ちょっと怖いけど。でも、誰かは隣にいた方がいいでしょ」
「夜中に叫ばれたら、たぶん起きちゃうと思う。でもわたし寝つきいいから、またすぐ寝るよ」
ミラが笑った。少し無理のある笑い方だった。でもミラがそう決めたなら、わたしが止める理由はない。
ルチアは向かいで黙って聞いていた。スープのスプーンを持ったまま、動かない。何か考えている顔だった。
夕方、中庭のベンチでナタルに話した。いつもの場所。植え込みの陰の、出口が見えて背後に壁がある場所。わたしが見つけた場所に、ナタルもすぐに馴染んだ。見張りの配置と同じだ。わたしが出口側、ナタルが壁側。頼んだわけじゃなくて、体が勝手に分担する。
風が少し吹いていた。中庭の向こうで、他の生徒が走り回っている声がする。その声が遠い。ここだけ、少し、空気が違う。
「ナタル。部屋替えの話、聞いた?」
「聞いた」
ナタルは前を見たまま、短く答えた。
「昨日のあの子、教務に言ったみたい。叫ばれて眠れないって」
「……そうか」
声が平らだった。でも膝の上で手が少し動いた。爪を手のひらに押しつける、あのくせ。
ナタルは自分を責めている。声には出さないけど、手に出る。わたしにはわかる。同じ小隊にいたから、手を見ればわかる。
「ナタルのせいじゃないよ。悪夢なんだから、自分で止められないでしょ」
「……ああ」
「で、ミラがね、ナタルと同じ部屋がいいって」
ナタルが初めてこちらを見た。
「……なぜだ」
「なぜって、ミラだから」
答えになっていない。でもミラのことを説明するのに、いちばん正確な言葉がそれだった。
ナタルは黙った。風が短い髪を揺らしている。
「あの子は、わたしのことを何も知らないだろう」
「知らないよ。でもグレン先生が、戦場を知らない人間の方がいいって。わたしとナタルが一緒だと、お互いを引き戻すって言われた」
「……引き戻す」
ナタルがその言葉を、噛むように繰り返した。
「そうか。お前も、か」
先生の言葉が、ナタルの口を通して、少しだけ腑に落ちた。
「ミラはね、シャンプーの話とか甘いものの話とか、くだらないことばっかり話す子だよ。うるさいかもしれないけど」
「知っている。食堂で席を取って待っていた子だろう」
覚えていた。ミラがナタルの分の盆も置いて、「ナタル、こっち」と手を上げていたのを。
わたしは少し驚いた。ナタルは人を見ていないようで、ちゃんと見ている。声をかけてきた相手を覚えている。それが、少しだけ安心する材料だった。
「ミラは、怖いって言ってた。夜中に叫ばれたら怖いって。でもそれでも隣にいた方がいいって。怖がりながら来る子だよ」
ナタルは何も言わなかった。でも膝の上の手が、少し開いた。握りしめていた指が、ゆるんだ。
拒まなかった。
そしてもうひとつ。ミラがナタルの部屋に移るなら、わたしの部屋のミラのベッドが空く。
その夜、消灯前の廊下でルチアが言った。
「リーネ。わたしが移るよ、リーネの部屋に」
相談ではなかった。もう決めている声。穏やかだけど、芯がある。
「ルチアでいいの? わたし、夜うるさいかもよ」
冗談めかして言った。冗談ではない。わたしは夜中に目が覚める。寝返りを打つ。窓を確認する。息が荒くなるときもある。ミラはそれを知っていて、知らないふりをしてくれていた。ルチアが隣にいたら、全部聞こえる。
「うるさくていいよ」
ルチアはそう言った。静かで、強い声だった。
貴族が属国出身者と同室になるのは異例だ。でも部屋替えで全体が動いている最中だったし、ルチア本人が希望を出した。教務は通した。
「……ありがとう」
何に対してのありがとうなのか、自分でもわからなかった。ルチアは小さく笑って、「明日、荷物持ってくるね」と言った。
荷物の移動は翌日の午後だった。
授業が終わってから、四人でばたばたと荷物を運んだ。ミラは鞄ひとつと枕と、母からの手紙の束。荷物が少ないのはわたしと同じだけど、理由は違う。ミラは実家に大半の荷物を置いてきている。わたしは最初から、包みひとつしか持っていない。
ルチアは鞄が二つと文具の箱と、封蝋つきの手紙が数通。わたしの三倍はある。
ミラがナタルの部屋に荷物を持っていくとき、ドアの前で足が止まった。鞄の持ち手を両手で握り直して、息を吸った。吐いた。廊下の窓から差す午後の光が、ミラの横顔を半分だけ照らしていた。そばかすが光っている。
それから入っていった。ドアの向こうで「こんにちは、ミラです。よろしくね」とミラの声がした。明るい声だった。少しだけ高いのは、たぶん、がんばっているからだ。
わたしは見送った。止めなかった。止める理由がない。ミラが選んだことだ。
ルチアの荷物を、わたしの部屋に運ぶ。廊下が短いのに、三往復した。ルチアの荷物は丁寧に箱に入っていて、持ちやすいけど量が多い。三往復目にルチアが「重いのはわたしが持つよ」と言ったけど、いちばん重い箱はもうわたしの腕の中にあった。
部屋に入る。ベッドは二つ。窓側と壁側。
ミラのベッドには枕の跡がまだ少し残っていた。半年間、ミラの頭が沈んでいた場所。シーツにしわが寄っている。ミラは寝相が悪くて、毎朝シーツがぐちゃぐちゃだった。そのぐちゃぐちゃが、もうここには来ない。
「ルチア、どっちがいい」
「窓側。リーネは壁側でしょ」
わかっている。わたしが壁際じゃないと落ち着かないことを、聞かれてもいないのに知っている。半年間、別の部屋にいたのに、知っている。いつ気づいたんだろう。食堂で壁際の席を選ぶのを見て、ここでもそうだろうと思ったのかもしれない。
ルチアが棚に荷物を並べていく。文具を揃えて、教科書を積んで、引き出しに手紙をしまう。丁寧で、ゆっくりした動き。封蝋つきの手紙を引き出しの奥にそっと入れるとき、少しだけ手が止まった。中身は知らない。家族からの手紙だろう。ルチアには、手紙を書けば返事が来る場所がある。
わたしが包みを棚に押し込んで十秒で終わりにしたのとは、何もかも違う。
壁の向こうから、ミラの声が聞こえた。
「ナタル、シャンプーどっち使う? わたし花のやつが好きなんだけど」
入学初日にわたしにもしてくれた質問だ。ミラは新しいルームメイトに、同じことを聞いている。
ナタルが何と答えたかは聞こえなかった。でもミラの声のあとに長い沈黙があって、沈黙のあとにミラがまた何か話しかけている。怖いと言いながら、シャンプーの話をしている。怖さを抱えたまま、いつもの話を続けている。
「ミラ、すごいね」
ルチアが小さく言った。わたしも同じことを思っていた。
壁際のベッドに座った。窓から夕方の光が入って、ルチアの栗色の髪が少し明るく見える。この部屋にミラの匂いがまだ残っている。花のシャンプーの匂い。数日で消えるだろう。代わりに、ルチアの匂いが来る。どんな匂いかは、まだ知らない。
消灯の鐘が鳴った。
ルチアが窓の留め金を確かめた。わたしがやる前に。振り返って、「閉めたよ」と言った。何も言わなくても窓の確認をしてくれたことに、少しだけ胸が詰まった。
「おやすみ」とルチアが言った。
「おやすみ」と返した。
灯りが消える。暗い部屋。窓の外を確認する。出口、木立の位置、飛び降りた場合の着地点。いつもの癖。やめようと思ってもやめられない。ルチアは窓側のベッドで、もう静かにしている。
暗闇の中で、少しだけ耳を澄ませた。
ミラの寝息は二分で始まる、規則正しい呼吸だった。落ちるのが速くて、一度落ちたら朝まで揺るがない。半年間、隣で聞いてきた。あの呼吸がないのは、少しだけ変な感じがする。
ルチアの呼吸はもう少し浅くて、長い。まだ眠れていない。慣れない部屋だからだろう。わたしと同じで、まだ起きている。
壁向こうの部屋から、音は聞こえない。ミラはもう寝たのか。ナタルは眠れているのか。今夜、叫ばないといい。叫んでも、ミラが隣にいる。ミラは怖がるだろうけど、隣にいる。
やがてルチアの呼吸が深くなった。眠りに落ちたのがわかる。わたしより先に。
それでいい。先に眠ってくれた方が、わたしは楽だ。ミラもいつもそうだった。先に寝てくれて、わたしは安心して眠れないまま天井を見ていた。
隣にいる人が変わった。
ミラは何も知らないまま隣にいてくれた。聞かないことを選んで、寝たふりをして、朝には席を取って待っていた。ルチアは何かを知ろうとして隣に来た。目を赤くして廊下に立って、うるさくていいよと言って、ここにいる。
目を閉じる。ルチアの寝息が聞こえる。ミラの寝息とは違う呼吸。
この呼吸で眠れるかは、わからない。でも聞こえている。
翌朝。教室に入ると、マーレンがこちらを見ていた。
何か言いかけて、口を閉じた。いつもの硬い目ではなかった。もっと別の何かだった。
左からミラが「おはよう、リーネちゃん。昨日よく眠れた?」と聞いてくる。
「まあまあ」
嘘だ。眠れなかった。でもルチアの寝息は聞こえた。隣にルチアが座る。いつもの朝が始まる。
マーレンは窓の方を向いていた。
名前のつかない目で、わたしを見ていた。