荷物は少ない。
包みが一つと、学院支給の着替えが二着。前のルームメイトがいなくなった棚に入れたら、半分以上が空いた。包みの中身は私服一枚と、収容所で渡された書類の束。どちらも使わないのに捨てられない。
隣の棚にはミラの荷物が詰まっている。菓子の包みや手紙の束や、花の匂いのする小瓶が並んでいて、同じ造りの棚なのに別の家具のようだ。棚から甘い匂いがする。焼き菓子の残り香だ。
部屋の匂いが、どこにも似ていない。
前線の天幕は泥と鉄の匂いだった。収容所の房は湿った石と、もっと悪いものの匂いだった。前のルームメイトの部屋は知らない誰かの髪の匂いがした。ここにはミラの荷物から漂う甘さと花の匂いがある。嗅いだことのない種類の空気の中に立っている。
石造りの壁が、昼の熱をまだ持っている。手を当てると温かい。この温かさだけは、覚えのある温度に近かった。陣地の石壁も同じように昼の熱を蓄えていた。夜明け前に背中を預けると、石だけがまだ温かかった。
ドアの確認をする。
一つ。内側から鍵がかかる。外側から開けられる仕組みはない。窓は東向き。二階。窓の外に木立が見える。飛び降りられる高さだ。着地点は草地で、走れば三秒で建物の角に回り込める。
出口は二つ。ドアと窓。
やっている。前の部屋でもやった。学院に来た初日にもやった。収容所の房でも前線の陣地でもやった。寝る場所に着いたらまず出口を数え、窓を確かめ、飛び降りた場合の距離を計算する。もう呼吸みたいなものだ。
リーネもたぶんやっている。あいつも学院の初日にこれをやったはずだ。寮のベッドは柔らかすぎて最初眠れなかったと笑顔で言っていた。笑顔のまま。窓の話はしなかった。しなくても、やっている。同じ小隊にいたからわかる。
鍵に手をかけた。
かければ外から開かない。それは安全だ。だがかければ中からすぐには出られない。鍵を外す一手間が逃げ遅れになることを、体が覚えている。
閉めなければ外から入れる。扉が外から開く音を知っている。収容所で何度も聞いた。重い鉄の軋みが廊下に響いて、足音がこちらに近づいてくる音を。
入られるほうが怖い。
鍵をかけた。かちりと鳴る。小さな音だが、部屋の中では大きく聞こえた。
壁側のベッドに荷物を置いた。ミラは窓側に荷物を置いていたから、こちらが空いている。壁側のほうがいい。背後を壁にすれば、そこからは来ない。ドアも窓も視界に入る。
前線では壁を背にして寝た。収容所でも壁際だった。学院に来てからも壁側しか選ばない。どこに行っても同じだ。わたしの寝る場所は、いつも壁のそばだ。
ミラが向かいのベッドに座って、何か話している。
シャンプーはどっちがいいかと聞かれた。何を答えていいかわからなかった。前線にシャンプーなどなかった。川の水で頭を洗った。石鹸があればましなほうだった。どっちがいいかと聞かれても、花の匂いと果物の匂いの区別がつかない。どちらも前線にはなかった匂いだ。
黙っていると、ミラは少し間を置いて花のほうにすると自分で決めた。それから教科書が重いとか朝ごはんのパンが何種類あるとか、返事を待たずに一人で話を転がしていった。
声が高い。午後にドアを開けたときと同じだ。がんばっている声だ。怖いと言いながら来た子の声。
ミラの手を見ていた。棚に菓子の包みを並べながら、指先が小さく震えている。本人は気づいていないかもしれない。でもわたしの目は手を見る。前線ではそうだった。言葉は嘘をつくが手は嘘をつかない。怯えている人間の手は震える。武器を握っている人間の手は白くなる。ミラの手は震えている。怯えている。怯えながら、菓子を並べている。
なぜ来たのか。
前のルームメイトは出て行った。夜中に叫ばれて眠れないと言って、部屋替えを申し出た。まともな判断だ。わたしが同じ立場なら同じことをする。
なのにこの子は来た。怖いと言いながら荷物を抱えてドアを開けた。
「よろしくね」
そう言った。指を震わせながら菓子を棚に並べている。
荷物を片づけながら、ミラのほうを見ないようにしていた。見ると目が合う。目が合うと何か返さなければならない。返す言葉を持っていない。
ミラは黙ると勝手に次の話を始める。手紙を棚に並べながら母のことを話していた。字が丁寧な人なのだと。何度も書き直しの跡があるのだと。母が一人で店を回しているのだと。声がそこだけ少し低くなった。母の話をするときだけ、がんばっている調子が消えていた。
聞いていた。聞いていることが伝わったのか、ミラの声の高さが全体として少しだけ下がった。がんばっている度合いが一段減ったように聞こえた。
わたしにも母がいた。最後に会ったのは徴兵の朝だ。門の前に立って、何か言った。何を言ったか覚えていない。顔は覚えている。あの顔をもう二年以上見ていない。
消灯の鐘が鳴る。
廊下の灯りが落ちて、ドアの下の隙間から差していた光が細くなった。「おやすみ」
ミラがそう言って毛布を被る。何も返せなかった。おやすみ。眠れるといいね。そういう言葉がどの引き出しにも入っていない。前線では消灯の合図は松明を消す音だった。その後は完全な闇だった。ここには廊下に弱い灯りが残っている。ドアの下の隙間から、わずかに光が漏れている。完全な闇ではない。それが少しだけ、ましだった。
横になった。
マットレスが沈む。体が埋もれていく感覚に、肩が硬くなった。
柔らかすぎる。
沈むと体が動かない。動けないと逃げられない。前線では土の上に毛布一枚で寝た。地面は硬くて冷たかったが、跳ね起きればすぐに走れた。このベッドは体を呑み込もうとする。背中を包む弾力が手放さない。仰向けに沈んでいくと、天井が遠くなる。遠くなると視界が狭まる。視界が狭まると気づけない。何かが来ても、ベッドに押し込まれたまま反応が遅れる。
起き上がって、床に足をつけた。
石が冷たい。つま先から脛に冷気が這い上がる。
あの床と同じ温度だった。
収容所の房の石の床。横になれば背骨を冷たさが貫く。裸足で歩けば足の裏から体温が抜ける。あの房では夜通し震えた。毛布は一枚だけで、薄くて、小さかった。あの感覚を体が覚えている。覚えていて、足を引き上げた。
ベッドは柔らかすぎる。床は冷たすぎる。
どっちも駄目だ。
壁にもたれて座った。横にならなければ沈まない。毛布を膝にかけて足を投げ出す。背中に壁の石がある。昼の温もりが残っていて、冷たくはない。ベッドでも床でもない。この壁の温度だけが、どこの記憶にも繋がらなかった。
眠れなくても、この姿勢なら耐えられる。
ミラの寝息が聞こえ始めた。深くて規則正しい呼吸。横になってから二分もかかっていない。
信じられない。
戦争を知らない人間は、こんなふうに眠るのか。部屋が替わった初日に、隣のベッドに見知らぬ相手がいて、窓の確認もせず鍵も気にせず、おやすみと言って目を閉じて、そのまま落ちる。枕に頭をつけて、体を預けて、それだけで意識を手放せる。
わたしは二年間、体を預けることができなかった。地面にも壁にも人にも。体重を預ければ動けなくなる。預けた先が崩れたら巻き込まれる。だからいつも体を浮かせていた。足の裏と背中の端だけを地面につけて、いつでも跳べるようにしていた。
この子にとって夜は眠るためのものだ。わたしにとって夜は耐えるものだ。同じ時間を同じ部屋で過ごしているのに、いる場所が違う。
静かだ。
消灯後の寮は音が消える。廊下の足音はなく、建物の中が沈んでいく。
耳が仕事を始める。やめろと思ってもやめない。二階上のどこかで窓枠が軋む音。廊下の奥で当直の寮監が歩く靴底の音。遠い。規則正しい。見回りだ。見回りの足音には拍子がある。忍び足の拍子とは違う。その区別を、前線で覚えた。
壁越しに隣の部屋の気配がある。リーネとルチアの部屋だ。まだ起きている気配がする。
リーネも眠れていない。あいつが初日から眠れないことは知っている。前線では隣に寝た。わたしが夜番のとき、あいつの寝息を聞いた。寝たふりだった。呼吸の速さまで合わせてくるが首の脈が眠っている人間のものじゃなかった。今もたぶん壁際で天井を見ている。壁一枚の向こう側で、同じ夜を過ごしている。
あいつには今日からルチアがいる。わたしにはミラがいる。それぞれの壁の向こう側に、戦争を知らない人間が一人ずつ置かれた。教官はそう設計した。
静かなのが怖い。
前線では静かな夜の後に砲撃が来た。風も虫の声もない夜は、何かが近づいている夜だった。来ないとわかっている。頭では。だが肩の力が抜けない。壁にもたれた背中が硬い。膝にかけた毛布の下で手を握ったり開いたりしている。握る。開く。握る。開く。指が動いていると、体が少しだけ安心する。
毛布を首元まで引き上げようとして、やめた。布が腕の内側に触れると手首が跳ねる。巻きつけられる感覚がよぎって、指がこわばる。首から上は出しておく。腕も出しておく。すぐに動かせるように。
目を閉じる。
閉じた瞬間に夜が来る。
一つではない。何層もの夜が重なって、どこからがいつの夜かわからない。順番もない。選べもしない。体が勝手にそこへ連れていく。
最初に来るのは天幕の夜だ。
泥と汗と鉄錆の匂い。天幕の布は薄くて、風が揺らすたびに隙間から冷気が入ってくる。前線の野営地は常に湿っていて、毛布も靴も乾く暇がなかった。火を焚けば位置がばれる。だから暗い中で湿った布にくるまって、体温だけで夜を凌いだ。
隊長より上の上官がいた。中隊に近い位置にいた人間。
「庇ってやる」
そう言った。
庇護には値段があった。断れば次の任務で前に出される。一番危険な場所に一番先に立たされる。断った兵が翌週に死んだのを見た。偶然かもしれない。偶然じゃなかったかもしれない。前線ではその区別がつかない。区別がつかないことをあの上官は知っていた。知っていて、使った。
味方だった。命令系統の上にいる、味方の人間だった。
敵は前から来る。味方は後ろから来る。前線ではそう覚えた。嘘だった。一番近くにいる敵は、味方の顔をしていた。
隊長がいる夜は安全だった。隊長の目がある場所では、あの上官は手を出さなかった。あの男は見られることを嫌った。リーネの隊長は、リーネを守って死んだ男だ。命を張る側の人間だった。あの人がいれば、わたしも守られていた。
でも隊長が常にいたわけじゃない。前線の連絡で本陣に出た夜、負傷者を後送する任務で離れた夜がある。
そういう夜に、呼び出しが来た。一人で、上に。
暗い陣地を歩いた。夜の土は昼とは違う冷たさで、裸足の足の裏に貼りつく。天幕の灯りが遠ざかるたびに暗くなる。あの道の長さを、足が覚えている。
リーネはこの層を知らない。
同じ小隊で二年間一緒にいた。同じ飯を食って同じ土の上で寝た。リーネが夜番のとき、呼び出しは来なかった。あいつが起きていれば上官は動かない。あいつの目があるだけで、夜が変わった。でもリーネが先に寝た夜もある。あいつの寝たふりの寝息の隣で、今夜は来るか来ないか、耳を澄ませていた。
あの子にはこの傷がない。同じ場所にいたのに、壊れ方が違う。紙一重の差だ。
天幕の夜が薄れると、次の夜が来る。
収容所。
扉が開く音がした。重い鉄の軋み。あの扉は厚かった。外から押さないと開かない。中からは開けられない。
複数の足音が廊下を来る。靴底が石の床を叩く音で数がわかる。二つか三つ。前線で覚えた耳が、こういうときだけ正確に動く。近づいてくる。止まる。錠が外から外される音がする。
「おとなしくしてろ」
声が言った。
そこから先は、いつも靄がかかる。
体が勝手にそうする。自分を切り離す。途中から自分が自分じゃなくなる。自分がどこか遠い場所に行って、体だけがここに残される。
天井を見上げている。染みがある。黄色い染みと灰色の筋と黒い点。
一。
二。
三。
数えている。何を数えているのかわからなくなっても数を数えている。数えている間はここにいなくていい。数えている間だけ、自分が遠くなる。染みの数を数えている限り、わたしはあの天井の向こう側にいる。体はここにあるが、わたしはいない。
あれは生き延びるための数え方だった。あの数え方がなければ壊れていた。壊れるか数えるかの二つしかなくて、体が数えるほうを選んだ。
目を開ける。
天井が白い。
染みがない。均一な漆喰の面に何もない。
あの天井とは違う。あの房の天井には染みがあった。黄色い染みの形を、目を閉じても描ける。灰色の筋の長さも、黒い点の位置も。何十回も数えた天井だ。この天井にはそれがない。何もない。数えるものがない。
ここは王立学院の寮だ。収容所ではない。鍵は内側からかけてある。外から開く仕組みはない。廊下に靴音はない。誰も来ない。
わかっている。頭では全部わかっている。
なのに体が縮こまっている。膝を抱えて丸くなっている。いつこの姿勢になったのか覚えがない。壁にもたれて座っていたはずだ。気がついたら膝を抱えて毛布を蹴り落として、壁と体の隙間に自分を押し込んでいた。
何もされていない。誰もいない。隣のベッドで寝息を立てている子がいるだけだ。花の匂いのシャンプーで髪を洗った子が穏やかに眠っているだけだ。
体がほどけない。
手が冷たい。指先の感覚が薄い。肋骨の下が締まっていて深く吸えない。肩が耳の横まで上がっていて、力を抜こうとしても筋肉が言うことを聞かない。
前線ではこの状態を「石になる」と呼んだ。体が動かなくなって石みたいに固まること。石になった兵は足手まといだ。前線では石になった仲間を叩いて起こした。頬を張って、名前を呼んで、水をかけた。ここにはそうしてくれる仲間がいない。叩いてくれる人間がいない。一人で石を溶かさなければならない。
声が出そうになる。
喉の奥から何かが這い上がってくる。叫び声か嗚咽か、自分でもわからないものが喉元まで来ている。
噛む。
奥歯を噛み合わせて喉を塞ぐ。顎の筋肉が引きつって痛い。痛くても噛む。声を喉の中で殺す。
あの晩はこれに失敗した。噛み切れなくて、声が漏れた。叫んだ。廊下に響くほど叫んだ。リーネが駆けつけてきて、背中に腕を回して、声のトーンを変えずに待ってくれた。前線と同じやり方で。あの腕があったから戻れた。
今夜、リーネはいない。壁の向こうにいるが、この部屋にはいない。駆けつけてはこない。教官がそう設計した。
ミラが寝ている。この距離で叫べば起きる。起きたら怯える。怯えたら出て行く。
夜中に叫ぶ子。前のルームメイトについた名前だ。あの子は悪くない。隣で叫ばれたら眠れない。出て行くのが普通だ。次の相手にも同じ名前がつけば、三人目は来ない。
だから声を出さない。
奥歯を噛む。痛みに集中する。顎が痛ければ喉が忘れる。痛みで痛みを上書きする。前線でも使った方法だ。腕をつねって恐怖を散らした。足の指を踏んで、震えを止めた。
今夜は顎だ。噛んで噛んで、声が引っ込むまで噛む。
ミラの寝息が続いている。規則正しくて穏やかで、何の警戒もない呼吸。この子は怖いと言った。怖いと言いながらここに来て、シャンプーの話をして、眠った。
怖いのに留まる人間を、前線では見なかった。怖い人間は逃げるか死ぬかだった。怖いと言いながら隣にいる人間を知らない。
あの教官は正しい。
リーネと同じ部屋にいたら、二人とも天幕に引きずり込まれる。わたしの悪夢があいつを呼び、あいつの悪夢がわたしを呼ぶ。戦場を知らない人間の隣のほうがいい、と教官に言われた、とリーネが言っていた。
ミラは戦争を知らない。この子の寝息は、天幕の中の誰の寝息にも似ていない。知っている音に似ていないから引き金にならない。たぶん、そういうことだ。
たぶん。
リーネには言わない。今夜のことも。天幕のことも。収容所のことも。
リーネは察している。同じ戦場にいたから、聞かなくてもわかっている。わかっていて何も聞かない。聞かないことを選んでいる。
それだけが、唯一、楽だ。
わかっている人間の前でだけ黙っていられる。わかっていない人間の前では、黙っていることが隠し事になる。嘘をついているのと同じだ。
ミラの前で黙っているのは、嘘だ。何もなかったふりをしている。普通の人間のふりをしている。でもリーネの前では、沈黙がそのまま通る。知っている人間の前では、黙っていることが嘘にならない。
あいつはいつも笑顔を出している。何があっても。わたしが到着した日にも、食堂のパンがおいしいと笑顔を見せた。屋根の上で戦場の夜を話した翌朝にも、同じ顔で席についていた。
あの笑顔の下に何があるかは、わたしには見える。同じ小隊にいたから見える。あの下には壊れたものが詰まっている。わたしと同じものが。だがあいつは蓋をして笑顔を貼って外に出られる。
わたしにはそれができない。
笑い方を忘れた。いつ忘れたかも覚えていない。前線に行く前は笑えたはずだ。母の顔を見て笑ったはずだ。でもその記憶には音も形もない。口角を上げるやり方は筋肉が覚えている。だがそれは笑顔じゃない。顔の形が変わるだけだ。
あいつは笑って蓋をする。わたしは噛んで殺す。
顎がまだ痛んでいる。
窓の外が白んでいる。
いつの間にか空が明るくなっている。何時間天井を見ていたのかわからない。一度も眠れなかった。染みのない白い天井を見つめたまま、右手の人差し指が毛布の縁をなぞっていた。数えるものがなくても指が動く。同じ場所を何度も往復していた。収容所の天井を数えた指が、ここでも同じ動きを繰り返している。
ミラがまだ眠っている。寝返りを打って窓のほうを向いている。毛布から腕が一本出ていて、力の抜けた手が枕の横に置かれている。朝の光がおさげの茶色い髪を照らしている。穏やかな顔だ。何も見ていない。何も怯えていない。
起き上がる。石の床に足をつける。冷たい。足の裏が縮む。数時間前にも同じ冷たさを感じて足を引いた。あの石と同じ温度だと思った。今は違う。朝の冷たさだ。夜が明ければ石の温度が変わる。夜の冷たさと朝の冷たさは、同じ冷たさでも、意味が違う。朝は始まりだ。夜が終わったという意味だ。
廊下に出て洗面所に行く。廊下の灯りはもう明るくなっている。どこかの部屋からくぐもった声が聞こえる。起き始めた生徒がいる。普通の朝だ。
蛇口をひねると水が出る。冷たい水で顔を洗う。目の周りを何度もこすった。腫れてはいない。泣いていないから腫れない。泣けない。泣き方も忘れた。
鏡がある。
鏡の中の顔を見る。
目の下のくまが濃い。頬がこけて唇の色がない。短い黒髪の下から右耳の上の裂傷の跡が覗いている。指でなぞった。傷跡は白くて、平らで、もう痛まない。体の傷は治る。皮膚が塞がって白くなって、触っても何も感じなくなる。
体の傷は、そうだ。
生きている死人みたいな顔だ。
前線で朝を迎えたときと同じ顔をしている。場所が変わっても寝なかった夜の後の顔は変わらない。ここは王立学院の寮で、蛇口をひねれば水が出て、鏡は曇っていなくて、廊下から朝ごはんの匂いがしている。それでも鏡の中の人間は、塹壕の朝と同じ顔をしている。
部屋に戻る。ミラがまだ眠っている。寝返りを何度か打ったらしく毛布がずれている。わたしは引き上げなかった。触れて起こしたくない。起こしたらまた話しかけてくる。話しかけられたら、返す言葉を探さなければならない。
この子の隣で、これから毎晩を過ごす。声を殺して、天井を見て、朝を待って。
逃げられるよりはいい。隣に誰もいなくなるよりは。
ミラの寝息がまだ聞こえている。穏やかで規則正しい、何の警戒もない呼吸。あの呼吸の隣で眠れる日が来るとは思えない。でも、あの呼吸が聞こえている部屋にいることだけは、できる。
今日も、笑えない。