ナタルが来てから、わたしたちの周りに隙間ができるようになった。
教室の席、食堂のテーブル、廊下ですれ違うときの歩幅。どれも少しだけ広い。わたし一人のときにも多少はあったけど、あの頃は「ヴェルダの子」という珍しさで見られていただけだ。二人になると珍しさが消えて、別のものに変わる。
声を潜めた会話は、兵士の耳には全部聞こえてしまう。聞こえなくていい音まで拾うのは、前線でついた体の癖だ。やめ方がわからない。
朝の廊下で、すれ違いざまに隣のクラスの子が小さく身を引いた。背中が壁につくくらい。目は合わせない。ナタルの横を通るとき、その子の肩が上がるのが見えた。こわばっている。ナタルは気づいていない。いや、気づいていて気づかないふりをしているのかもしれない。どちらにしても足は止めなかった。わたしも止めなかった。いちいち止まっていたら廊下を歩けない。
痛くはない。
敵意を向けられることには慣れている。戦場でも収容所でも入学式の日からもずっとこうだった。ここの敵意は刃を持っていないぶん、前よりだいぶましだ。怪我をしない敵意なら、放っておいていい。
気になるのは、矛先がナタルにも向いていることだけだった。ナタルはまだここに来て数日しか経っていない。わたしのように笑って流す技術を持っていない。表情がない顔は強く見えるかもしれないけど、近くにいれば違うものが見える。目の下のくまと強張った肩。出口を探す視線。壊れかけている人間の、表向きの顔だ。でもそれは近くにいないとわからなくて、遠くから見ている人間には、無表情の元兵士としか映らない。
目立つ。目立つ奴は狙われる。前線と同じだ。
ある日の昼前。戦術論の授業が終わって、グレン先生が教壇から降りた。ノートと教本を脇に挟んで、いつもの角張った歩き方で出ていく。次の授業まで十分ほどの隙間がある。
教室に話し声が戻った。前の席の二人組がノートを見せ合っている。窓の近くで誰かが水筒の蓋を開ける音がする。椅子が引かれる音。席を立って廊下に出ていく生徒もいる。教室の空気が緩んで、グレン先生の授業中とは別の音が満ちていく。
ナタルは壁際の最後列の席で、教科書を開いたまま動かない。授業が終わっても教科書を閉じない。閉じて鞄に入れると、やることがなくなる。やることがなくなると、手が空く。手が空くと、指が何かを探し始める。だから教科書を開いておく。実際には何も読んでいない。ページが動いていない。指が机の角をなぞっている。コップの縁をなぞるのと同じ動き。手持ち無沙汰のときに出る癖だ。
ヴィクトルが立ち上がった。
黒い短髪。顎が上がっている。背の高い体を、教室の中を横切るように動かしてくる。自分が通る場所を周りが空けるのに慣れている歩き方だ。机と机の間を、ぶつからないのが当然だという足運びで進んでくる。
ナタルの机の前で足が止まった。影が教科書の上に落ちた。
「お前も人を殺してきたんだろう。何人だ?」
声が太い。教室の会話が半分ほど止まった。完全には止まらない。前のほうの席では気づいていない生徒もいる。でもナタルの周囲の三、四人は顔を上げて、ヴィクトルの背中を見ている。こういう質問が飛ぶことに教室は慣れ始めている。わたしが入学した頃にも、似たようなことが何度かあった。
ナタルは答えなかった。
顔が強張って、視線が教科書の上に落ちる。開いたページの文字を目が追っているけど、読んではいない。肩が上がっている。首が少し前に出て、背中が丸くなった。机の下で膝の上に置かれた手が握りしめられているのが、わたしの席から見えた。爪を手のひらに押しつけている。自分を責めているときに出る癖だ。同じ小隊にいたから知っている。ナタルの手を見れば、中で何が起きているかわかる。
ヴィクトルは腕を組んで、ナタルの前に立っている。答えを待っている。待ち方が上から見下ろす形で、ナタルの短い黒髪のつむじが見えている。ナタルは顔を上げない。上げられないのか、上げないでいるのか。
わたしの足が動いていた。
考える前に席を立って、机の間を抜けて、二人の間に入っていた。何歩歩いたかも覚えていない。体が先に行く。部隊の仲間の前に立つのは呼吸と同じだ。足が勝手に出る。前線で何百回もやったことで、考えるような動作じゃない。
「ナタルに聞くことじゃないよ」
笑顔を出した。いつもの笑顔。声も普段の高さのまま。怒っていない。威嚇もしていない。ただ間に立って、ナタルとヴィクトルの視線の間に体を入れている。ナタルの教科書の影がわたしの靴にかかっている。
ヴィクトルの目がわたしに向いた。
「お前が答えろよ。何人殺した?」
少し考えた。嘘をつく理由がない。怒る意味もない。聞かれたから、答える。
「数えてない。数えてたら頭がおかしくなるから」
教室が止まった。
さっきまで残っていた話し声が全部消えた。前のほうで話していた二人組も振り返っている。窓の近くで水筒を持っていた子が、蓋を閉める音を立てた。その音がやけに大きく聞こえた。教室にいる全員が黙っている。
わたしは事実を言っただけだ。戦場では数えなかった。一人目を覚えていたら二人目が来て、三人目が来て、数字が積み上がっていく。積み上がるたびに頭の中が重くなる。だから数えなかった。体が先にわかっていた。数えたら壊れると。
ヴィクトルの顔が変わった。
いつもの嫌味でも見下す目でもない。馬鹿にされたときの怒りでもない。挑発に対して返ってくるはずのもの、怒りとか反論とか言い訳とか、そういうものが来なくて、代わりに来たものの受け止め場所がない顔をしている。わたしに突っかかってきた日は何度もあったけど、この顔は初めて見た。挑発ではなく、本当に、言葉を失っている。
口が動きかけて、止まった。何を言えばいいかわからなかったのだと思う。
何も言わずに、ヴィクトルは自分の席に戻った。背中が少しだけ小さく見えた。椅子を引く音がいつもより硬く響いた。自分の席に座り直して腕を組んで、こっちを見ないようにしている。
教室が少しずつ音を取り戻していく。話し声が戻る。でも前と同じ音量のはずなのに、含まれている空気が違う。何人かの生徒がこちらを見て、目が合うと逸らした。一人、前の方の席の女の子が、逸らさなかった。知らない子だ。表情を崩さないまま少しの間こちらを見て、静かにノートに視線を戻した。
わたしも席に戻った。ナタルのほうを見ると、教科書に視線を落としたまま動いていなかった。でも肩が少し下がっていた。握りしめていた手も、いくらか開いている。膝の上で指がゆるんでいる。
爪のあとがついているだろう。手のひらに。前線でもそうだった。ナタルの手のひらにはいつも三日月の跡があった。
怒ってもいないし、守ったつもりもあまりない。ナタルがいて、そこに何かが来たから、間に入った。それだけだ。
休み時間が終わる前に、ナタルが立ち上がった。教科書を閉じて鞄に入れる。その動作が少しだけ、さっきより滑らかだった。
すれ違いざまにナタルが小さく言った。
「……すまない」
「何が?」
ナタルは答えなかった。廊下に出ていく背中が、少しだけまっすぐになっている。
すまない、と言ったのは、巻き込んだことに対してだろう。わたしは巻き込まれたとは思っていない。思っていないけど、ナタルはそう思う子だ。それも、同じ小隊にいたから知っている。
でもこの日から、わたしが動く前に、周りが動き始めた。
昼休みの食堂は騒がしい。食器が鳴る音、椅子を引く音、話し声が重なって一つの音になっている。窓から入る風が、スープの湯気を横に流している。
盆を持って入ると、壁際の出口に近い席にミラがもう座っていた。盆が三つ並んでいる。ミラの分と、あと二つ。わたしとナタルの分。壁に背中をつけられる配置になっていて、出口が見える角度に椅子が向いている。わたしたちがいつも選ぶ場所。ミラはそういうことを、たぶん意識せずにわかっている。壁際の席を押さえることが、わたしたちにとって何を意味するのか、言葉にはされていないけど、毎日の席取りでわかっている。
ナタルがわたしの後ろから食堂に入ってきた。足音がない。廊下が暗いと足音を消す癖が出る。食堂は明るいのに、まだ消している。わたしも同じだ。ルチアに「足音しないね」と言われたことがある。ここではばれても大丈夫だよ、と返された。わかっているけど、体が勝手にやる。
「ナタル、こっち」
ミラが手を上げた。声が食堂に通った。周りのテーブルから何人かの視線が集まったけど、ミラはそっちを見もしなかった。同室の子の席を取るのは当たり前だ、という顔でパンをちぎっている。手を上げた指先にパンくずがついていた。もう食べ始めている。ミラは待てない子だ。お腹が空いたら先に食べる。
ナタルが黙って座った。拒まない。盆の前に手を置いて、少しの間、食堂の中を見回していた。出口の位置を確認している。窓の数を数えている。わたしと同じことをしている。それからパンに手をつけた。わたしがその隣に座る。
パンをちぎる。今日のは丸くて、表面に白い粉がかかっている。ナタルの食べ方を横目で見る。早い。わたしと似ているけど、理由が違う。わたしは取られないように早い。ゆっくり食べると取られたから。ナタルは人前で食べること自体がつらいから早い。前線では天幕の外で、岩に背中を預けて一人で食べていた。ここでは一人で食べると余計に目立つから座っているだけだ。
ミラがスープを飲みながら何か喋っている。午前の授業の話。ノートの写し間違いがどうとか、グレン先生が板書するのが速すぎるとか。
「ナタルはノート取れた? グレン先生、消すの速いんだよ。わたし半分しか写せなかった」
ナタルが小さく頷いた。声は出さない。ミラは気にしない。返事がなくても次の話に進む。入学初日にわたしにもそうしてくれたのを思い出す。政治も戦争も関係なく、ただの隣の席の子として話しかけてきた。ナタルにも同じようにしている。ミラの話は返さなくても怒られない。前線の報告と違って、聞き逃しても誰も死なない。それが楽だ。
少し離れたテーブルで声を潜めた会話がある。ミラにも聞こえているだろう。兵士の耳でなくても、この距離なら聞こえる。
でもミラはスープの底を匙でかき集めている。そっちを振り返りもしなかった。聞こえていないふりじゃない。聞こえていて、振り返る理由がないだけだ。隣にいるのが友達と同室の子で、スープの底にまだ具が残っていて、それだけのことだ。ひそひそ声のするテーブルの前を素通りするミラの横顔には、何の緊張もない。
食堂の端の席で、マーレンが一人で食べていた。
ナタルのほうを見ている。赤毛の短い髪の下から、鋭い目がナタルを追っているのがわかった。ナタルの右耳の裂傷の跡と痩せた腕。表情のない顔。視線が一つずつ追っている。
兄をヴェルダ兵に殺された人が、ヴェルダの元兵士を見ている。以前ならわかりやすかった。敵意だ、と。でも今のマーレンの目には、敵意とは違う何かが混じっている。
マーレンは食器を片付けて、食堂を出ていった。何も言わなかった。
午後の授業の間にも、小さな変化があった。魔法実習でペアを組むとき、いつもは余りがちだったわたしの前に、前の方の席の生徒が並んだ。知らない子だ。昼の教室でわたしを見て、目を逸らさなかった子かもしれない。違うかもしれない。何も言わずにペアを組んで、印の組み方を見せるとき、向こうが先に手を出してきた。いつもはわたしが先に出す。何も言わずに終わった。普通のことだ。でもその「普通」が、今まではなかった。
授業が終わった。教室に残っている生徒がぱらぱらと帰っていく。わたしは鞄を詰めるのが遅い。軍の装備は命に関わる順に入れた。三秒で決まる。一番手前にいつも水筒が来る。前線では水が最優先だったから。教科書は全部同じくらい命に関わらないので、毎日適当になる。まあ、命に関わらないものの扱い方もそのうち覚えるだろう。
気づいたらルチアがまだ残っていた。教室に二人きりだ。窓から夕方の光が入ってきて、机の上にオレンジ色の帯が伸びている。日が傾く速さが、前線にいた頃より遅く感じる。前線では日が落ちると夜番が始まった。ここでは日が落ちると消灯までの自由時間が始まる。同じ夕日を、別のものとして見ている。
ルチアが鞄を肩にかけたまま、わたしの机のそばに来た。
「リーネ。クラスの何人かに、少しだけ事情を話してもいい? リーネのこと、誤解してる子がいるから」
ルチアの声は穏やかだった。穏やかだけど、聞いているのは許可だ。勝手にはやらない。まず聞く。先に動かない。わたしの代わりに何かをするのではなくて、わたしがどうしたいかを先に確かめようとしている。
少し考えた。ルチアが話してくれたら、何人かの見る目は変わるかもしれない。ルチアの言葉には信用がある。中位貴族の長女で、品がよくて、嘘を言わない子だとみんなが知っている。ルチアが「リーネはこういう子だよ」と言えば、聞く耳を持つ生徒はいるだろう。
でも。
「ううん。……ありがとう。でも、話すなら、わたしが自分で話す。いつか」
言ってから、自分の口から出た言葉に少し驚いた。
いつか。いつかどこかで、自分の口で話す。教科書に書いていないことを。わたしの村のことを。仲間のことを。わたしがしたことも。いつからそう思っていたのかは自分でもわからない。でも口から出てきた。口から出てきたということは、頭のどこかにはあったのだ。
ルチアが頷いた。
「うん。リーネの話だもんね」
わたしの話はわたしのものだ。当たり前のことだけど、当たり前みたいに言ってもらえると、不思議に落ち着く。ルチアの声が静かで、押しつけがなくて、ただ認めている声だったからかもしれない。
教室を出て、ルチアと並んで廊下を歩く。窓からの光が廊下の石の床を染めている。影が長い。ルチアの影のほうがわたしより少し背が高い。二人分の足音が石の床に落ちている。ルチアのは規則正しく、わたしのはまだ小さい。
寮に向かう途中、廊下の掲示板の前を通りかかった。新しい紙が一枚、画鋲で留めてある。「属国出身者への差別的言動を禁止する」。生徒会長の名前と印が入っている。印が少し曲がっていた。急いで押したのか、それとも慣れていないのか。
ちょうど向こうからユリウスが歩いてきて、わたしを見て足を止めた。
「通達を出したから、もう大丈夫だ」
にこやかに言った。金髪碧眼の長身が廊下の夕日に照らされている。掲示板の紙を見てからこちらを見るユリウスの目に、曇りはない。本気で信じている。この紙で何かが変わると。善意だ。この人はいつも善意だ。
「ありがとうございます」
笑顔を返した。ユリウスが「何かあったら遠慮なく言ってくれ」と言い残して歩いていった。足取りが軽い。自分の仕事を一つやり遂げた足取りだ。
掲示板を見た。紙は画鋲でまっすぐ留められている。文面は丁寧だ。きれいな字で、正しいことが書いてある。正しいことが書いてあるのに、これを読んでひそひそ声をやめる人が何人いるかは、別の話だ。
翌週、その通達の上に部活動の告知が重ねて貼られて、ユリウスの紙は半分だけ見えていた。さらにその次の週には、別の通知に完全に埋もれた。誰も剥がしていない。ただ上に重ねただけだ。
消灯前。壁際のベッドに横になって、天井を見ている。
マットレスに背中が沈んでいる。まだ慣れない。柔らかすぎて、体が埋もれる。でもルチアの部屋に来てからは、壁に背中をつけたまま横になれる配置になった。壁の石が昼の温もりを残していて、背中だけは硬い面に触れている。それだけで少し楽になる。
ルチアが隣のベッドで本を読んでいる。ページをめくる音が規則的に響いている。この音がある夜は、少しだけ静けさが怖くない。音がある。人がいる。ここは安全だと、頭ではなく、音が教えてくれる。
前線では、守るのはいつもわたしの側だった。
仲間が崩れたら背中を支える。怯えた新兵が固まったら前に立つ。夜番で誰かが「石になった」ら、名前を呼んで頬を叩く。誰かの前に立つやり方なら体が覚えている。何百回もやった。教わったわけじゃない。やっていたら覚えた。体が勝手にやれることだ。
守られる側のやり方は、知らない。
今日、ミラは盆を三つ並べて待っていた。頼んでいない。ルチアは「話してもいい?」と聞いてくれた。頼んでいない。ユリウスは紙を貼った。頼んでいない。どれも、わたしが何か言う前に、向こうからやってきた。
敵意には慣れている。飛んでくるものの避け方なら体に入っている。弾が来たら伏せる。嫌味が来たら笑う。でも差し出されるものの受け取り方は、どこにも入っていない。前線にも収容所にも、その訓練はなかった。
変なの、と思う。飛んでくるものは避けられるのに、差し出されるものの前では手が止まる。
壁向こうから、ナタルとミラの部屋の音は聞こえない。今夜は静かだ。叫ばなかったなら、それだけでいい。ミラの寝つきのよさが、ナタルの夜を少しでも楽にしているといいと思う。ミラは二分で落ちる。その規則正しい寝息が、ナタルにとって何の引き金にもならない安全な音であるといい。
ルチアがパタンと本を閉じた。
「リーネ、電気消すよ」
「うん」
暗くなる。窓を確認する。出口。木立の位置。飛び降りた場合の着地点。いつもの癖。ルチアはもう何も言わない。この癖を知っていて、何も言わない。最初の夜に窓の留め金を先に確かめてくれた人だ。
目を閉じた。
盆の上のスープの湯気。ルチアの静かな声。ユリウスの少し傾いた印。今日のことが、暗闇の中で順番に浮かんだ。全部そこにあった。返し方はまだ持っていない。でもあったことだけは、ちゃんとわかる。
明日、何か一つくらいは言えるだろうか。
翌朝。食堂に入ると、壁際のいつもの場所にミラが座っていた。今日も席を取ってくれている。ナタルはまだ来ていない。
座った。盆の上にパンとスープが並んでいる。湯気が顔に当たる。今日のスープは豆が入っていて、厚い匂いがする。こっちの豆は噛むと割れる。前線の配給の豆は石みたいに硬かった。噛めるだけでうれしい。ミラはもうパンをちぎりながら何か食べている。頬にパンくずがついている。指摘するとむくれるので、黙っておく。
「ミラ、ありがとね」
口から出ていた。
昨日の夜、何を言おうか考えていた。天井を見ながら、言葉を組み立てようとした。席のこと、ナタルのこと、スープのこと。全部ばらばらに浮かんで、一つの文にならなかった。考えて、まとまらなくて、そのまま眠れないまま朝になった。まとまらないまま口を開いたら、出てきたのがこれだった。
何に対してのありがとうなのか、うまく説明できない。席を取ってくれること。ナタルを呼んでくれたこと。ひそひそ声のするテーブルの前を振り返りもしなかったこと。怖がって出ていったルームメイトの代わりにナタルの隣に来てくれたこと。全部だ。でも項目を並べたら報告書になってしまう。報告書じゃない。感謝を伝えたいのに伝え方の型がなくて、一番ざっくりした言葉を投げてしまった。
ミラがこちらを見た。
「何が?」
「んー……全部?」
言ってから自分でも笑ってしまった。全部って何だよと自分でも思う。でもそれしか出てこなかった。うまく言えない。言えないけど、言えた。口から出た。出たのだから、それでいい。
ミラが笑った。
「なにそれ」
パンをちぎる。スープに浸して口に運ぶ。
ナタルが食堂に入ってきた。盆を持って、こちらを見ている。ミラが手を上げる。「ナタル、こっち」。昨日と同じ声で、昨日と同じように。
ナタルが黙って席に着く。今日も拒まない。
いつもの朝だ。