わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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最初の授業

朝、教室に向かう廊下で、ミラが隣を歩いていた。

 

「ねえリーネちゃん、今日の一コマ目って何だっけ」

 

「戦術論。グレン先生の」

 

「あー、あのちょっと怖い先生。でもかっこいいよね」

 

ミラの評価基準はよくわからないが、グレンがいい教官だという点では同意する。

 

「昨日は教科書の確認だけだったから、今日が本番だね」

 

「うう、朝から頭使うの苦手……」

 

ミラが肩を落としている。

わたしは少し楽しみだった。

昨日の夜、教科書をぱらぱらと読んで、知っていることと知らないことの境目が気になっていた。

 

教室に入ると、ルチアがもう席についていた。

教科書を開いて、何かを読んでいる。

 

「おはよう、ルチア」

 

「おはよう、リーネ」

 

柔らかい笑顔。

ルチアは朝から落ち着いている。

わたしが席に座ると、ルチアがちらりとこちらの手元を見た。

 

「予習してきた?」

 

「少しだけ。防御陣形のところ、図が面白かった」

 

「面白い?」

 

「うん。綺麗だなあって」

 

綺麗、というのは本心だった。

教科書の図は整然としていて、矢印が規則正しく並んでいて、見ていると安心する。

前線の戦いには、こんな秩序はなかった。

 

ルチアが「変わった感想ね」と小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

八時の鐘が鳴って、グレンが教壇に立った。

 

黒板に地図が描かれていた。

丘陵地帯の略図。

味方と敵の配置を示す丸印と矢印。

グレンの字は角張っていて読みやすい。

軍で報告書を書き慣れた人間の字だ。

 

「今日から本格的にやる。教科書の第二章、防御戦術の基礎。開け」

 

教科書を開いた。

「防御陣形と撤退戦術」の章。

 

グレンが黒板を指しながら説明を始めた。

 

「防御には三つの陣形がある。円陣、鶴翼、方陣。それぞれ利点と弱点が異なる。円陣は全方向からの攻撃に対応できるが、突破力がない。鶴翼は包囲を防ぎやすいが側面を取られると崩れる。方陣は正面の防御力が高いが機動性を犠牲にする」

 

黒板にそれぞれの隊形を描きながら、グレンは淡々と説明した。

声に無駄がない。

要点だけを、明確な順序で。

 

わたしはノートを取りながら聞いていた。

 

教科書の内容は整っている。

図が綺麗で、文が論理的で、手順が明確だ。

「味方が陣形を組む時間を確保し、指揮官の命令のもと統制ある防御を行う」と書いてある。

 

陣形を組む時間がある前提。

指揮系統が維持されている前提。

味方の数が把握できる前提。

 

前線では、どれも成り立たなかった。

陣形を組む暇なんてなかった。

遊撃任務中に不意に敵と遭遇するのが日常で、こちらが配置を整える前に最初の矢が飛んでくる。

指揮官は先頭にいるから、最初に死ぬこともあった。

味方が何人残っているかは、戦闘が終わってから数えて初めてわかった。

数えるたびに減っていた。

 

教科書の図を見る。

方陣の兵士を示す丸印が、整然と並んでいる。

一つ一つの丸に名前があるとしたら、戦闘が終わったとき、いくつ消えているだろう。

 

教科書にはそういうことは書いていない。

書かなくていいことだ。

 

「防御の基本は、地形の利用と相互支援だ。高所を取り、背後を壁や川で守り、味方同士が互いの死角を補う配置を作る」

 

グレンが黒板に矢印を描き足した。

 

「ここで重要なのは、防御は時間を稼ぐ戦術だということだ。防御だけで敵を殲滅することはない。援軍が来るまで、あるいは敵が撤退するまで、持ちこたえるのが目的になる」

 

持ちこたえる。

前線でも、そう言われた。

援軍が来るまで持ちこたえろ、と。

援軍は、来ないこともあった。

 

「ここまでで質問はあるか」

 

グレンが教室を見渡した。

質問はなかった。

前のほうで、ヴィクトルが腕を組んで頷いている。

教科書の内容に自信がある顔だ。

幼少から戦術を学んでいると言っていたから、この程度の内容は既知なのだろう。

 

わたしも知っている。

ただ、わたしが知っているのは教科書の知識じゃなくて、教科書に書けないほうの話だ。

 

グレンが黒板の略図を指した。

中央に味方を示す丸印。

その周囲を、敵の矢印が四方から囲んでいた。

 

「では状況を出す」

 

教室の空気がわずかに引き締まった。

 

「お前たちの部隊が行軍中に、この地形で敵に包囲された。兵力は敵が倍。味方に負傷者がいる。指揮官はお前だ。何を最優先にする」

 

教室が静かになった。

考え込む沈黙。

生徒たちが教科書を見たり、黒板の図を見たりしている。

 

一人の男子が手を挙げた。

 

「援軍を要請します。伝令を送って、最寄りの友軍に連絡します」

 

グレンが頷いた。

 

「状況次第では有効だ。他には」

 

ヴィクトルが手を挙げた。

 

「防御陣形を組んで耐え凌ぎます。地形を利用して高所を確保し、兵力差を陣地の利で補う。負傷者は後方に下げて守ります」

 

「教科書の模範解答だ。他にあるか」

 

教室が黙った。

みんな教科書の図を見ている。

援軍の要請。

防御陣形の構築。

士気の維持。

教科書にはそう書いてある。

 

わたしは手を挙げた。

 

グレンの目がこちらに来た。

 

「カルヴァス」

 

「退路の確保が最優先です」

 

教室の何人かがこちらを見た。

「退路の確保」は防御戦術の項目にはない。

撤退戦術の章の内容で、まだ授業では扱っていない範囲だ。

 

「包囲されたら、まず突破できる方角を探します。敵の配置が完全に均等なことはないので、一番薄いところを見つける。見つけたら、そこに戦力を集中して穴を開けます」

 

教科書にはない言葉が、口から滑らかに出てきた。

暗記したわけじゃない。

二年間やってきたことを、そのまま言っているだけだ。

 

グレンは黙って聞いている。

表情を変えない。

 

「次に、負傷者の選別です。自力で歩ける者と、歩けない者を分けます。歩ける者は退路を通します。歩けない者は……」

 

言いかけて、少しだけ迷った。

教室の視線が集まっている。

 

「歩けない者は」

 

グレンが促した。

声が平坦だった。

 

「置いていきます」

 

教室の中で、誰かが息を呑んだ。

小さな音だった。

 

「担いで運ぶと撤退の速度が落ちて、全員が死にます。包囲下で速度を落とすことは全滅を意味します。だから歩けない負傷者はその場に残す。それが、全員が死なないための判断です」

 

言い終えて、もう一つ続けようとした。

足手まといの切り捨て、と。

 

「あとは足手ま——」

 

口を閉じた。

 

教室が静かだった。

ペンの音が止まっている。

椅子が軋む音もない。

三十人が動きを止めていた。

 

あ、と思った。

教科書の範囲を越えて喋っていた。

ここは教室で、これは授業だ。

 

「……あ、授業だとどう答えるのが正解ですか?」

 

笑顔で聞いた。

本気で知りたかった。

教科書には、包囲されたときに負傷者をどうするか、具体的に書かれていなかったから。

 

教室が、もっと静かになった。

もっと硬い沈黙だった。

ひそひそ話もない。

顔を見合わせる動きもない。

誰もがじっとしていた。

 

グレンがわたしを見ていた。

昨日までとは違う目だった。

何の感情かは読み取れない。

ただ、視線の奥にある重さが変わっていた。

 

「……座れ」

 

わたしは席に座った。

 

ヴィクトルが腕を組んだまま、こちらを見ていた。

何も言わなかった。

 

ちらりと隣を見た。

ルチアの手が机の上で白くなっていた。

教科書の角を握りしめている。

顔は前を向いているが、何も見ていない目をしていた。

 

何か、まずいことを言ったかな。

 

グレンが一つ咳払いをして、話を戻した。

 

「今の状況に対する教科書の解は、防御陣形の構築と援軍の要請が優先になる」

 

少しだけ間を空けた。

 

「だが、実戦の判断は教科書通りにはいかない。それは覚えておけ」

 

わたしの方は見なかった。

 

授業の残りの時間、グレンは別の図を使って撤退戦術の話を始めた。

わたしはノートにペンを走らせながら、さっきの自分の発言を頭の中で転がしていた。

 

退路の確保。

負傷者の選別。

歩けない者を置いていく。

 

前線では普通のことだった。

隊長がそう判断して、わたしたちは従った。

置いていかれた仲間の声が、背中の後ろから聞こえてきた。

名前を呼ぶ声。

助けを求める声。

振り返らなかった。

振り返ったら足が止まる。

足が止まったら死ぬ。

 

あの声は、今でもときどき聞こえる。

夜、静かすぎる部屋で目を閉じたとき。

でもそれは夢の話だ。

 

教科書には載らないことだ。

載せなくていいことだ。

 

でも、聞かれたから答えた。

それの何がいけなかったのか、わたしにはわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

昼休み。

食堂で、三人で昼食を食べた。

 

ミラがパンをちぎりながら言った。

 

「ねえ、さっきの授業さ。リーネちゃんの答え、すごかったね」

 

「すごい?」

 

「うん、なんか……本格的っていうか。教科書に載ってないことをすらすら言ってたでしょ。グレン先生もびっくりしてたよね」

 

びっくりしていたのかな。

グレンの顔からは、何も読み取れなかった。

 

「ヴェルダでそういうの習ったの?」

 

「んー、まあ、うん。実地で」

 

実地。

教室で習ったんじゃなくて、戦場で覚えた。

十四歳のとき、初めて包囲された夜のことを思い出しかけて、やめた。

 

「実地って、すごいなあ。わたしなんか教科書読んでもちんぷんかんぷんだよ」

 

ミラは感心しているようだった。

午前の教室の沈黙を、ミラは「すごい」の範疇で処理しているらしい。

あの沈黙が何だったのか、たぶんミラにはわからない。

それはミラが鈍いからではなくて、ミラが普通だからだ。

 

ルチアは黙ってスープを飲んでいた。

朝の穏やかさが消えている。

話を振られれば答えるが、自分からは何も言わない。

 

「ルチア、午後の実技、一緒に頑張ろうね」

 

「……ええ、そうね」

 

微笑んでいる。

でも目が笑っていない。

 

午前の授業のとき、ルチアの手が白くなった。

今もスプーンを持つ指に、少し力が入りすぎている。

何に反応しているのかは、わからない。

 

ルチアに何か言うべきかと思ったけれど、何を言えばいいのかわからなかった。

「あの答えは教室用じゃなかった」とか、「ごめんね」とか。

でもごめんねの何が、ごめんなのかが自分でもわからない。

 

食堂の向こうの席で、同じクラスの生徒が何人か固まって話していた。

ちらちらとこちらを見ている。

小声で何か言い合っている。

 

午前の話だろう。

「あの属国の子、なんか変なこと言ってた」とか、そういう話。

 

気にならない。

こういう視線には慣れている。

 

気にならないことが、もしかしたら普通じゃないのかもしれないけど。

 

 

 

 

 

 

 

午後、訓練場。

 

空が青い。

雲が少しだけ流れていて、日差しが強い。

訓練場の土が乾いて、歩くたびに砂埃が立つ。

 

生徒たちが木剣を手に集まってきた。

昨日の素振りの続きかと思ったが、今日は違った。

 

「今日はペアで打ち合いの基礎をやる」

 

グレンが生徒を見渡した。

 

「出席簿順にペアを組め。攻撃側と防御側を三本ずつ交代する。攻撃は上段からの振り下ろしのみ。防御は正眼の構えから受けろ。それ以外の動きは禁止だ」

 

グレンが手本を見せた。

上段から真っ直ぐ振り下ろし、受け側が正眼から木剣を上げて止める。

型通りの綺麗な動作。

打ち込む音が乾いた空気に響いた。

 

「攻撃は上段からの真っ直ぐのみ。斜め打ちも横打ちもやるな。まず真っ直ぐを体に叩き込め」

 

出席簿を確認した。

わたしの相手は、ルチア・アルヴェインだった。

 

ルチアがこちらに歩いてきた。

木剣を両手で持って、少し緊張した顔をしている。

午前中から続いているあの静かさが、まだ残っていた。

 

「よろしくね、ルチア」

 

「ええ、よろしく」

 

微笑んでいる。

でも、声が朝より小さい。

 

木剣を持って、向かい合った。

間合いは二歩分。

訓練場の土が午後の日差しで乾いて、足元が固い。

土と汗の混じった匂いがする。

 

周りでは他のペアが練習を始めていた。

木剣がぶつかる音が、あちこちから聞こえる。

かん、かん、と乾いた音。

 

わたしは正眼に構えた。

教科書通りの構え。

足の位置。

肩の角度。

木剣の高さ。

昨日の素振りで覚えた形を再現する。

 

体が別の構えを取りたがっていた。

もっと低く。

もっと前に。

重心を落として、相手の喉と脇腹が見える位置に。

隊長に叩き込まれた構え。

 

駄目だ。

ここは訓練場で、相手はルチアだ。

教科書通りにやる。

 

「ルチアから攻撃でいいよ」

 

「うん……いくよ」

 

ルチアが上段に構えた。

教科書通りの、綺麗な構え。

背筋が伸びていて、足の位置も正しい。

 

振り下ろす。

軌道は真っ直ぐだ。

力はそこそこ入っている。

でも、速度が遅い。

わたしが木剣を上げて受ける余裕が十分にあった。

 

軽い衝撃が手のひらに伝わった。

木と木がぶつかる音。

 

「いい振りだね」

 

「ほんと?」

 

ルチアの顔が少し緩んだ。

 

二本目。

三本目。

どちらも問題なく受けた。

ルチアの振りは丁寧で正確だ。

教科書の手本のような剣。

人を傷つける力は乗っていないが、型としては正しい。

 

「交代」

 

わたしの番だ。

 

上段に構える。

 

教科書通りに。

真っ直ぐ。

下ろすだけ。

力を入れすぎない。

相手を壊さない。

 

一本目。

振り下ろした。

ルチアが正眼から木剣を上げて受けた。

木剣同士がかちりと鳴った。

 

力加減は、たぶん大丈夫だ。

ルチアの構えが崩れていない。

 

二本目。

同じように振り下ろす。

ルチアが受ける。

少し顔をしかめた。

衝撃が手に来たのだろう。

もう少し力を落とそう。

 

三本目。

 

振り下ろした。

 

ルチアの受けが、ほんの少しだけ遅れた。

二本目の衝撃で、手が痺れたのかもしれない。

木剣が正眼の位置に上がりきる前に、わたしの木剣が届いてしまう間合い。

 

体が判断した。

 

受けが間に合っていない。

隙がある。

ここから手首を回せば首に入る。

 

手首が回った。

上段の振り下ろしが、軌道を変えた。

斜めに。

ルチアの首筋に向かって。

 

木剣の先端が、ルチアの首の横で止まった。

 

わたしの腕が止めていた。

自分で止めたのか、体が止めたのか、わからない。

 

ルチアの目が見開かれていた。

木剣を構えた姿勢のまま、体が固まっている。

顔から血の気が引いていた。

 

周りのペアが気づいて、手を止めた。

木剣のぶつかる音が一つ、二つと消えていく。

訓練場が静かになった。

 

わたしは木剣を下ろした。

 

「ごめんね、つい」

 

笑顔で言った。

 

ルチアが木剣を下ろした。

手が震えていた。

柄を握ったまま、小さく震えている。

 

「だ、大丈夫……」

 

笑おうとしている。

でも唇が引きつっている。

 

「ほんとにごめん。手が滑っちゃって」

 

手は滑っていない。

体が勝手にやっただけだ。

上段の振り下ろしの途中で、受けが間に合わない相手の首に木剣を向ける。

二年間、何百回もやった動作。

体にとっては、振り下ろしの自然な延長だった。

 

それは「手が滑った」とは言わない。

でも他にどう言えばいいのかわからなかった。

 

グレンが近づいてきた。

いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。

 

「カルヴァス。今の最後の動きは何だ」

 

「あ、すみません。つい変な方向に……」

 

「つい、か」

 

グレンの声は静かだった。

怒っている声ではない。

何か別のものが混じっている声だった。

 

グレンはそれ以上、何も言わなかった。

「続けろ」と短く言って、別のペアのところに歩いていった。

 

ルチアと向き合い直す。

ルチアは木剣を構え直していた。

手の震えは止まっていたが、柄を握る指に力が入りすぎていて、爪が白くなっていた。

 

「もう一回やろう。今度はちゃんとやるから」

 

「……うん。大丈夫」

 

ルチアは頷いた。

勇気がいる頷きだったと思う。

首に木剣を向けられた直後に、同じ相手と打ち合いを続けるのだから。

 

残りの練習は、何事もなく終わった。

教科書通りの振り下ろし。

教科書通りの受け。

わたしは一本ずつ、自分の腕に言い聞かせながら振った。

 

真っ直ぐ下ろす。

横に振らない。

首を狙わない。

 

止まれ。

止まれ。

止まれ。

 

木剣を振るたびに、自分の腕に命じた。

こんな命令を自分の体に出しながら木剣を振る人間は、この訓練場にわたし以外いないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

訓練が終わって、寮に戻る道。

 

ミラが隣に来た。

 

「リーネちゃん、さっきの練習、大丈夫だった?」

 

「大丈夫だよ。ちょっと力入っちゃっただけ」

 

ミラは「そっか」と言った。

笑顔がいつもより薄い。

昼食のときの「すごいね」とは、少し違う目をしていた。

 

前を歩くルチアの背中が見えた。

一人で歩いている。

普段はわたしやミラと並ぶのに、今日は少し先を行っている。

背筋は伸びているが、歩く速度がいつもより速い。

 

追いかけようかと思った。

「ごめんね」はもう言った。

「手が滑った」は嘘だった。

本当のことを、なんて言えばいいんだろう。

 

受けが遅れたから、首を斬ろうとした。

体が勝手に。

 

そんなこと言えるわけがない。

 

わたしはルチアの背中を見送った。

 

寮の前で、ふと振り返った。

訓練場の方角に、人影が見えた。

グレンだった。

一人で訓練場に残って、わたしたちが練習していた場所を見ている。

木剣を片手に持ったまま、じっと立っている。

 

何を考えているんだろう。

午前の授業のあとも、午後の練習のあとも、グレンはわたしに「座れ」と「続けろ」しか言わなかった。

叱りもしなかった。

褒めもしなかった。

ただ、あの目で見ていた。

 

ミラと並んで寮に入った。

 

部屋で制服に着替えながら、今日の自分を振り返った。

 

午前、包囲されたら仲間を置いていくと言った。

午後、ルチアの首を斬りかけた。

 

どちらも、わたしには普通のことだった。

戦場で二年間やってきたことだ。

退路を確保する。

歩けない者は置いていく。

隙のある相手の首を斬る。

全部、生き残るための動作だった。

 

でも、教室も訓練場も、沈黙した。

あの沈黙が教えてくれた。

ここでは、それが普通じゃないのだと。

 

普通じゃないのはわかった。

じゃあ何が普通なのかは、わからない。

 

包囲されたら、どうするのが正解なんだろう。

受けが間に合わない相手には、どうするのが正解なんだろう。

 

前線には正解なんてなかった。

生きるか死ぬかだけだった。

 

ここには正解があるらしい。

わたしはそれを知らない。

 

ミラが部屋に入ってきた。

焼き菓子の袋を持っている。

 

「リーネちゃん、はい。今日の分」

 

昨日と同じ、粉砂糖のついた丸い焼き菓子。

わたしは受け取って、一つ口に入れた。

 

甘い。

昨日と同じ甘さだ。

 

「ありがとう、ミラ」

 

「どういたしまして」

 

ミラはベッドに腰掛けて、教科書を開いた。

いつもの顔に戻っている。

 

窓の外で日が傾いていた。

明日も授業がある。

もう少し、うまくやれるだろうか。

首を狙わずに。

仲間を置いていかずに。

 

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