「カルヴァスさん」
放課後の廊下で呼び止められた。
振り返ると、ユリウスが立っていた。二年の学年章、金髪碧眼、長身。廊下の窓を背にしていて、夕方の逆光で髪の輪郭だけが光っている。
「少し時間をもらえるかな。フォルケさんのことで、話しておきたいことがあるんだ」
ナタルのこと。
この人は少し前に、掲示板に通達を貼ってくれた。「属国出身者への差別的言動を禁じる」という紙。もう別の告知に埋もれたけど、出してくれたことは覚えている。
「はい、大丈夫ですよ」
警戒はしなかった。この人に悪意がないのはわかっている。善意しかない人だ。まぶしいくらい善意の人。
鞄を肩にかけ直して、ユリウスの後ろを歩く。
本館の二階に上がる階段の途中で、ユリウスが振り返って「鞄は部屋に置いてきてよかったのに」と言った。わたしは「あ、大丈夫です」と笑った。荷物は持ち歩く癖がある。置いた場所に戻ってくるとは限らないから。今はそんなことないのに、体がそうする。
廊下の突き当たりの手前に、「生徒会」と札のかかった扉がある。ユリウスが鍵を開けて先に入った。わたしも続く。
教室よりひと回り小さい部屋だった。机が四つ、壁に掲示板と棚。東向きの窓がひとつ。放課後のこの時間、光はもう入ってこない。部屋の中がぼんやりと薄暗くて、机の角だけが窓の残り光を受けて白く浮いている。
出入口は扉ひとつ。窓は二階で、外に足場になるものはない。
癖だ。どこに入っても最初にやってしまう。
「座って」
椅子を引いてもらった。座る。鞄は椅子の脚のそばに置いた。足元に荷物があると落ち着く。逃げるとき持っていけるから。逃げる予定はないんだけど。
ユリウスは向かいに座らず、棚に向かった。小さな火起こしの道具と、蓋のしっかりした茶葉の缶を取り出して、湯を沸かし始める。
自分で淹れるんだ。
グレン先生も執務室で茶を出してくれるけど、あの人は黙って机に置く。無言で「飲め」と目で言う。ユリウスは違う。手順がある。茶葉の缶の蓋を開けて、匙で量を揃えて、蓋を閉めて、湯の具合を確かめる。一つ一つの動作が丁寧で、慣れている。急がない。こぼさない。こういうことを教わって育った人の手つきだ。
湯が沸く音がした。小さな泡がぱちぱちと弾ける音。
紅茶を注ぐ。部屋に甘い匂いが広がった。グレン先生の苦い茶葉とは種類が違う。こっちは花みたいな匂いがする。
「砂糖は大丈夫?」
「好きです」
取っ手のついたカップがふたつ。ひとつをわたしの前に、ひとつを自分の手元に置いた。砂糖が少し多めに入っている。匙で混ぜたら、カップの底で砂糖の粒がカチカチと音を立てた。湯気が顔にかかる。
「ありがとうございます」
一口飲んだ。甘い。温かい。
温かいものを出してもらうことに、まだどこかで慣れない。前線には温かい飲み物なんてなかった。水筒の水か、冷えた配給の汁か。収容所にもなかった。カップの温度が手のひらに染みこんでくるのが、毎回少しだけ不思議だ。こういうものが出てくるのが当たり前の場所にいるのに、体だけがまだ「当たり前」を覚えていない。
ユリウスが向かいの椅子に座った。自分のカップを片手に持って、姿勢を少し直してから口を開く。
「フォルケさんの件だけど」
「はい」
「通達を出してから少し経ったけど、食堂での視線とか、廊下の空気とか、あまり変わっていないように見える。僕の見えている範囲の話だけど」
まっすぐだ。自分の通達が効いていないことを、ごまかさずに言う。
その通りだ。通達で人の感情は変わらない。紙に書いてある正しい言葉を読んで、翌日から態度を改める人間は少ない。でもそれを善意で動いてくれた人に面と向かって言うのは気が引ける。
「まあ、そうですね。すぐには変わんないと思います」
少し言葉を選んだ。否定じゃなくて、事実として。
「ナタルは人が多いところは苦手みたいですけど、食堂にはちゃんと来てます。ミラが一緒にいてくれるので」
「ケーニヒさんか」
「はい。毎回、席を取って待っててくれるんですよ」
壁際の、出口に近い席。ナタルとわたしが座りやすい場所を、ミラは何も言わずに毎日確保している。頼んでいないのに。行けばいつも盆が三つ並んでいて、ちゃんと壁側の椅子が空けてある。ミラにとってはたぶん「同室の子の分を取っておく」以上の意味はない。でもそれがどれだけ効いているか、ミラ自身は知らない。
「授業はどうだろう。ついていけているかな」
「座学は、まだ苦しそうです。教科書が全部王国の標準語なので」
ナタルはわたしより訛りが強い。読むのは読めるけど、時間がかかる。ドルフ先生の歴史の授業で、ナタルが教科書のページをめくる手が他の生徒より遅いのを、わたしは知っている。
「実技は平気です。剣も魔法も、体でやることは前線で覚えてますから」
「……そうか」
ユリウスの声が少しだけ沈んだ。「前線で覚えた」という言葉の重さに反応したのだと思う。この人は、そういうところに引っかかる人だ。
「通達には反応しない子でも、隣の席に誰かが座ってくれるのは見えますからね。見えるもののほうが、強いのかもしれないです」
言ってから、少し踏み込みすぎたかなと思った。通達を否定するみたいに聞こえたかもしれない。
「彼女のほうが、僕の通達より、ずっと効いているんだろうな」
ユリウスが少し笑った。自嘲ではなくて、認めている顔だった。
自分の通達の限界を笑えるのは、ちょっと意外だ。演説で堂々と語るこの人と、今カップを持って苦笑いしているこの人が、同じ人だ。
「会長の通達も、ナタルは読んでましたよ」
「何か言ってた?」
「何も」
言うわけがない。ナタルは読んで、黙って、掲示板の前から離れた。でも読んだ。あの子が自分から掲示板に寄ったこと自体が、意味のあることだ。普段は掲示板に近づかない。人が集まる場所には近づかない。それでもあの紙の前には立った。
「でも、読んでました。自分から寄って読んでたから、それは本当です」
ユリウスがカップを口に運んだ。飲んで、下ろして、少し間があった。
こういう間の取り方が上手い人だと思う。会話の中で沈黙を挟むのに慣れている。焦らない。次の言葉が来るまで待てる。前線の上官はそうじゃなかった。報告を待てない人間ばかりだった。「早く言え」「結論から言え」。待ってもらえることが、この学院に来て一番驚いたことの一つかもしれない。
紅茶を飲んだ。甘い。この甘さが舌に残る感じが好きだ。
カップの湯気だけが、二人の間でゆっくり上っている。
「カルヴァスさん」
「はい」
「少し別の話をしてもいいかな」
うなずいた。
ユリウスがカップを両手で包むように持ち直した。
次に出てきた声は、さっきまでの声と違っていた。低いわけじゃない。静かなだけだ。よく通る演説の声でも、状況を確認する事務的な声でもない。ナタルの件を話しているときとは、体の力の入れ方が違う。少し前に傾いている。この人が本音で話すとき、声はこうなるのかもしれない。
「僕は融和政策を本気で信じている」
「……はい」
「属国と王国が対等になれる日が来ると、僕は信じている。融和政策はそのための道だと思っている」
碧い目がまっすぐこっちを見ていた。嘘をつける目じゃない。壇上ではなくて、薄暗い生徒会室で、紅茶を持ちながら、生徒ひとりに向かって言っている。聴衆も拍手もないのに、壇上のときより本気に見えた。この人は、紅茶を淹れている間もこのことを考えていたんだろう。茶葉を量りながら、匙で砂糖を入れながら。
「そうなるといいですね」
笑って返した。反射で出る笑顔だ。
嘘じゃない。そうなるといいと思っている。本当に。
「君は、信じていないのか」
信じていない、とも違う。
信じているかどうかの前に、何を信じればいいのかが整理できない。政策がどうで、対等がどうで、という話は、わたしの頭では組み立てられない。ユリウスはこういうことを整理して語れる人だ。わたしはそうじゃない。わたしの中にあるのは整理された言葉じゃなくて、もっとぼんやりした、形のない感覚だ。
「んー、なんていうか……」
首を傾げた。
言いたいことの輪郭だけがぼんやりある。口を開くと形が崩れる。何か一つ言葉にすると、言いたかったことの半分がこぼれる。残りの半分を拾おうとすると、最初の半分がどこかへ行く。
カップを両手で包んだ。手に温かいものがあると、少し考えやすい。
ユリウスが黙って待っている。急かさない。紅茶を持ったまま、こっちを見ている。
急かされないことがありがたくて、同時に困る。急かされたら「やっぱり何でもないです」で笑って終われた。待たれると、何か出さないといけない気がする。出したいのに出てこない。のどの手前で引っかかって、言葉の形にならない。
報告なら得意だ。何があって、どうなって、結果はこう。前線では毎日やっていた。でもこれは報告じゃない。事実を並べることはできても、並べた事実が何を意味しているのかが、自分でわからない。
「わたし、入学試験受けてないんですよ」
出てきたのはそこだった。なぜそこから始まるのか、自分でもわからない。でもそこしか入口がなかった。
「収容所で審問官の人に『お前は使える』って言われて、気がついたらここにいました」
ユリウスのカップを持つ指が、少しだけ止まった。
「選んでもらったのはありがたいです。あれがなかったら、まだ収容所にいたので」
嘘じゃない。審問官の目は冷たかった。人を見る目じゃなかった。でもあの目のおかげでここにいる。
「ただ、みんなは試験を受けて来てるじゃないですか。勉強して、準備して、自分で受けて、自分で選んで来てる。ルチアも、ミラも、ヴィクトルだって、会長だって、試験を受けて来た」
言いながら、ああそうだな、と思った。前から知っていたのに、口に出すと初めて輪郭がつく。
入学式の日。講堂に座って、周りの生徒を見た。緊張している子、落ち着いている子、隣と小声で話している子。みんな試験を受けて、合格して、ここに来た。わたしだけが違う手順で来ている。手順が違うだけだと思っていた。手順が違うだけなのかもしれない。でも、何かが引っかかる。引っかかるのに、指で掴めない。
「わたしは選ばれただけで、自分では何も選んでないんですよね。入口が違うっていうか」
うまく言えていない。入口が違うから何だ、という先がつながらない。でもそこに何かがある。のどに引っかかって、飲み込めも吐き出しもしない何かが。
入学式の日、周りの子たちは制服を着るのに手間取っていた。ボタンの順番がわからないとか、リボンの結び方がどうとか。わたしは軍装の着方が体に入っていたから、制服はすぐに着られた。でもあの子たちの手間取りは、ここに来ることを自分で選んだ人間の手間取りだった。初めてのことにわくわくしながら戸惑っている、そういう種類の不慣れだった。わたしの不慣れはそれとは違った。何が違うのか、言葉にすると消える。
ユリウスは何も言わずに聞いている。カップを持つ手が少し下がった。
紅茶を飲んだ。まだ温かい。
「あと、歴史の授業で、ヴェルダ戦争のことを習うじゃないですか」
話題を変えたわけじゃない。同じ話の別の面を出そうとしている。でもつなぎ方がわからないから、「あと」で並べるしかない。
「ああ」
ユリウスがうなずいた。同じ教科書だ。同じページを開いている。ドルフ先生の授業で、同じ時間に、同じ教室で。
「教科書に『正当な領土回復』って書いてあって」
「……うん」
「わたしの村、焼かれたんですよ。その戦争で」
唐突だったかもしれない。
でも、もっと柔らかい言い方が見つからなかった。教科書の一行と、わたしの村が瓦礫だという事実の間を、うまくつなぐ言葉がない。つなげないから、そのまま並べるしかなかった。
ユリウスが何も言わなかった。カップを持ったまま、こっちを見ている。碧い目が、さっきより少し開いている。
「間違ってるとかじゃないんです。なんていうか、変な感じがするんですよね。間違ってるって言いたいんじゃなくて。ただ、同じ戦争のことを習ってるのに、教科書に書いてあることと、わたしが覚えてることが、ずれてて」
ずれ。正確な言葉なのかもわからない。言葉にするたびに、言いたいことから少しずつ遠ざかっていく気がする。近づいたと思うと、もう別の場所にいる。
ドルフ先生の授業で「正当な領土回復」と読み上げられるたび、手が教科書の表紙を握りしめていたのを思い出す。怒っていたんじゃない。悲しかったんでもない。ただ、体が反応した。頭では「まあ勝った側はそう書くよね」と受け流しているのに、手だけが教科書を離さなかった。授業が終わって指を開いたら、表紙に爪のあとがついていた。
でもそういうことを、怒りとか抗議とか、そういう名前で呼びたいわけじゃない。名前をつけたら何かが変わるというものでもない。
「あと、夏休みの帰省届」
これは、さっきの二つよりもっと具体的な話だ。形のある話。
「事務室の棚に用紙があって、帰省先の住所を書いて出すやつ。会長もやりました?」
「毎学期出しているよ」
当然みたいに答えた。帰る場所がある人は、当然みたいに出す。用紙を取って、住所を書いて、提出して、それで終わり。何も考えることはない。
「わたし、あの用紙を取って、『帰省先住所』っていう欄を見て、止まっちゃったんですよ」
あのとき。棚から一枚抜いて、記入欄を見た。帰省先住所。五文字。その下に空白の行が引いてある。住所を書くための、ちょうどいい長さの空白。
わたしの家は瓦礫だ。村にまだ住所があるのかもわからない。収容所の所在地を書けばいいのか。空欄で出すのか。ペンを持ったまま、その五文字の前で手が止まった。帰省先。帰る場所。帰る、という言葉の意味を、あの空白の前で初めて考えた。
「事務の人に聞いたら、困った顔されました。あ、これ想定してなかったんだなって」
怒られたわけじゃない。嫌な顔をされたわけでもない。ただ、困っていた。棚の用紙を見て、わたしを見て、もう一度用紙を見て。あの人なりに答えを探していたんだと思う。でも答えが出なくて、「担任の先生に相談してみて」と言った。それ以上のことは、あの人にはできなかった。
用紙が悪いわけでもない。誰かが意地悪をしたのでもない。制度を作った誰かが、帰る場所のない生徒が来ることを考えていなかった。わたしのような生徒がここに座ることを、あの欄の設計者の頭の中に入っていなかった。存在しないことになっていた。それは怒りの話ではなくて、もっと静かな、足元にぽっかり穴が空いているような感じだった。立っている場所はあるのに、その場所がわたしのために用意されたものじゃない、ということ。
紅茶を飲んだ。ぬるくなっている。甘さはまだ残っていた。
「なんかうまく言えないんですけど」
首を傾げた。
怒っているわけじゃない。批判したいわけでもない。文句を言いに来たんじゃない。ただ、名前のつかない何かがずっとある。入学してからずっと。棚にしまっていたものが、今日は会長の前でこぼれた。こぼれたものを拾い集めようとして、手の中に入りきらない。
「同じ教室にいるのに、同じじゃない気がするんです」
出た。
それだった。ずっと喉の手前にあった言葉。入学試験の話も、教科書の話も、帰省届の話も、全部がこの一行に向かっていた。言おうとして言えなかったものが、やっと一つの文になった。
「何がって聞かれると、わかんないんですけど」
ユリウスを見た。
さっきまで紅茶を持っていた手が、テーブルの上に降りていた。カップは脇に置かれている。いつ置いたのか、見ていなかった。
碧い目がこっちを見ている。何かを探しているような目だ。さっき「信じている」と言ったときの、あの確信のある目じゃない。探して、まだ見つかっていない目。
間があった。
長い間だった。部屋の中に、紅茶の匂いだけが残っている。窓の外が暗くなり始めていて、部屋の隅の影が少しずつ広がっている。
「あ、ごめんなさい」
笑顔を出した。考えるより先に口角が上がった。
「なんの話してるかわかんなくなっちゃった。すみません、変なこと言って」
ユリウスの口が動いた。何か言いかけて、閉じた。言葉を組み立てようとして、組み立てられなかったのが見えた。
「わたし、学院は好きですよ。パンもおいしいし、お風呂もあるし」
本当だ。パンはおいしい。お風呂は毎日入れる。温かい紅茶を出してくれる人がいる。屋根がある。誰にも撃たれない。
「ルチアもミラもいるし。先生もいい人だし。会長も、こうやって紅茶出してくれるし」
口角を上げたまま言った。全部本当のことだ。
なのに、さっき言った「同じじゃない」も本当で、両方が同時にあって、どっちも消えない。好きだと思っている。好きな場所だ。でも同じじゃない。好きなことと、同じじゃないことは、別の話だ。別の話なのに、同じ喉の奥からこぼれてきた。
でも、それはわたしの中の話だ。会長に預ける荷物じゃない。
「そろそろ戻りますね。紅茶、ごちそうさまでした」
立ち上がって、椅子を戻した。
ユリウスがまだ座っている。立ち上がる気配がなかった。
さっきまでの声が出てこないみたいだ。融和政策を語っていたときの声も、状況を確認していたときの声も。
「おいしかったです。甘いの好きなので」
「……ああ。いつでも来てくれ」
声がかすれていた。よく通るはずの声が小さい。
言葉を探して見つからなかったときの声だ。わたしもさっき同じことをしていたから、あの感じは知っている。
「はい。失礼します」
一礼して、扉を開けた。
閉める前に、ちらりと見えた。ユリウスがテーブルのカップに目を落としている。紅茶からは、もう湯気が立っていなかった。東向きの窓の外が暗くなっていて、部屋の中はいつの間にか薄闇に沈んでいた。
扉を閉めた。
廊下を歩く。
窓の外はもう夕暮れで、空の端だけが赤い。足音を殺さないように意識する。ここではばれても大丈夫だ。ルチアにそう言われたことがある。わかっているけど、暗い廊下では体が勝手にやる。少し意識して音を立ててみる。石の床に、自分の靴の音が落ちた。不格好な音だ。前線では足音を消すのが上手だった。立てるほうは下手だ。
階段を降りる。窓から見える中庭を誰かが歩いている。遠くて顔はわからない。たぶん同級生だろう。あの子にも帰る場所があって、帰省届に書く住所があって、教科書に書いてある歴史は自分の村を焼いた側の歴史じゃない。当たり前のことだ。ほとんどの人にとって、当たり前のことだ。当たり前すぎて、当たり前じゃない人間がいることに気づかない。気づかないのは、悪気じゃない。
さっき話したことが、頭の中をゆっくり流れていく。
入学試験のこと。教科書のこと。帰省届のこと。
全部、前から知っていた。気づいていなかったわけじゃない。気にしても変わらないから、棚にしまっていた。今日、初めて口に出した。出したら、思っていたより多かった。棚の奥に詰め込んでいたものが、開けたらごそっとこぼれてきた感じだ。
同じ教室にいるのに、同じじゃない。
あれが一番近い言葉だった。でもまだ足りない。何が足りないのかがわからない。
わたしも見つけられなかったし、ユリウスも見つけられなかった。二人とも、言葉が足りなかった。
あの人は答えようとしてくれた。口が動いて、止まって、また動いて、止まった。よく通る声が出てこなかった。演説なら何百人でも動かせる人が、わたし一人の「変な感じ」に、答えを見つけられなかった。
それが悪いとは思わない。わたしだって見つけていないんだから。見つけられない同士だ。でもあの人は探そうとしていた。目が探していた。それは見えた。
まあ、今日のところは、しかたない。
足を速めた。
食堂にはみんながいる。壁際の、出口に近い席。ミラがいて、ナタルがいて、ルチアがいる。あそこに座れば、パンがあって、スープがあって、ミラがなんか言って、ルチアが笑う。
明日もあの教室に行く。同じ教科書を開いて、同じ授業を受ける。帰省届の欄は空白のまま。
同じなのに同じじゃないまま、ここにいる。
パンはおいしい。紅茶も甘かった。ルチアがいて、ミラがいて、ナタルがいる。
それだけは、確かだ。
確かなものが増えている。前線にいた頃より、ずっと。
なのに、増えるたびに、体の奥の何かが重くなっていく気がする。何が重いのかは、わからない。