同室になって、距離の縮み方が変わった。
朝。ルチアはもう鏡の前にいる。栗色の髪を手早くまとめながら、リボンを口にくわえている。窓から差す朝の光で、編み込んでいく指先が白く光っている。
わたしは窓を開ける。木立の位置、地面までの高さ。見て、閉じる。ルチアは鏡越しにこちらをちらりと見て、何も聞かない。入学直後は「何見てるの?」と首を傾げていた。もう傾げない。
どちらが先に決めたわけでもなく、順番ができている。わたしが窓を見て、ルチアが髪を結んで、二人で部屋を出る。廊下の石壁がひんやりしている。並んで歩くと、足音が二つ。ルチアの足音は軽くて均等だ。わたしの足音は、暗いところで消える癖がまだ抜けないから、明るい廊下で意識して鳴らしている。不格好な音だけど、二つ揃うと悪くない。
食堂でも教室でも、ルチアの席はわたしの隣にある。壁際の、出口に近い席にわたしが座ると、ルチアが当然のように隣に来る。たまに別の生徒がその席にいると、なんとなく落ち着かない。壁際を取られたときとは違う落ち着かなさで、理由はよくわからない。ルチアが来ると収まる。
ミラとナタルが向かいに座って、四人で食べる。ルチアがスープの温度を確かめてからスプーンをつけるのが見える。ゆっくり食べる人だ。わたしが先に食べ終わって盆を持って立ち上がろうとすると、ルチアが「もう少し座ってて」と言う。言われると座る。急いで食べる理由はもうないのに、体が勝手に急ぐ。ルチアが隣にいると、少しだけ、ゆっくりできる。
前はミラと同室で、ミラが寝たあとの部屋で一人だった。窓を確認して、ベッドの壁際に寄って、暗闇の中で目を閉じた。ミラの寝息は規則正しくて、安心できた。でもミラはすぐに寝てしまうから、消灯後の時間はいつも一人だった。
ルチアは消灯後も起きている。わたしが窓を見ていても、何も言わないで同じ部屋にいる。たまに「おやすみ」と声をかけてくれる。わたしが返事をするまで待っている。
眠りやすくなった、とは言えない。まだ夜中に目が覚めるし、窓を確認する。でも目が覚めたとき、暗い部屋の中でルチアの寝息が聞こえると、体が少しだけ力を抜く。一人じゃないという事実が、暗闇の質を変えている。
授業中、ルチアがノートの端に小さく何かを書いているのが見えた。覗き込むと、昨夜わたしが間違えた印の形を、横から見た図で描き直していた。指の角度に矢印がついている。わたしのために。わたしが気づく前に。
ルチアの横顔を見ていたら、目が合った。ルチアが少し笑った。わたしも笑った。何が面白いわけでもないのに笑うのは、前線では一度もなかった。理由のない笑顔。前線の笑顔はいつも理由があった。怒鳴られないため、仲間を安心させるため。理由がなくて笑うのは、ここに来てからだ。
昼休み。教室で弁当を広げていると、ミラがパンをちぎりながら言った。
「二人って、ほんと仲良いよね」
「そう?」
「そうだよ。席もいつも隣だし、一緒に帰るし。わたしとリーネちゃんも仲良いけど、なんか種類が違う気がする」
「種類?」
「うーん、わたしとは友達って感じじゃん。ルチアとは……なんだろ、もうちょっと……なんか……まあいっか」
ミラが自分で言葉に詰まって、パンを口に押し込んで終わりにした。ナタルが少し離れた席で黙って食べている。ルチアは何も言わない。耳だけ赤い。
話はそのまま流れた。
種類が違う、とミラは言った。
ミラのことは好きだ。一緒にいると楽だし、笑える。ミラの好きは、形がはっきりしている。友達。ミラの隣にいると安心する。安心は安心だ。それ以上の何かにはならない。
ルチアの隣にいるときの感じは、安心とは少し違う。安心もあるけど、それだけじゃない。ルチアが笑うとわたしも笑いたくなる。ルチアが黙っているとこっちも静かになる。ルチアがいないと落ち着かない。安心の形をしていない何かが混じっている。
前線では「好き」で動くことがなかった。必要か不要かで動いた。好き嫌いは邪魔だった。邪魔だから蓋をした。蓋をしているうちに、中身がわからなくなった。ミラへの好きはわかる。友達だから。ルチアへの好きは、友達の好きに何かが足されている気がする。足されているものの名前が、わからない。
わからないのに困っていない。ルチアは聞かない。わたしも聞かない。聞かないのが、わたしにとってはいちばん楽な距離だ。ルチアがどう思っているかは、聞いていない。
ある日、机の上に折り畳んだ紙が置いてあった。ルチアの字だ。丁寧で、少し丸い。
「今日の魔法の授業、リーネの風がきれいだった」
一行だけの手紙。便箋の端がまっすぐに折ってある。授業が終わったあとに書いたのだろう。授業中にはこんな紙は出ていなかった。帰ってきて、机に向かって、わたしに渡すために書いた。それだけで少し胸の奥が温かくなる。
返事を書こうとした。便箋を出してペンを持って、そこで止まった。
何を書けばいい。
「ありがとう」は書ける。その先が出てこない。「今日の魔法の」と書きかけて、消した。相手が書いたことをそのまま返しても意味がない。「わたしは」と書いて、また止まった。わたしは何だ。何を伝えたい。ペンの先が便箋に触れたまま動かない。インクの小さな点が一つ、にじんだ。
ミラの母親への手紙を手伝ったことがある。ミラがペンの前で止まっていたとき、言葉をいくつか探してあげたら、ペンが動き始めた。人の気持ちを言葉にするのは、不思議なくらい簡単だった。外から見ると、輪郭がはっきりしている。
自分の気持ちには輪郭がない。何を感じているかを取り出そうとすると、手が空を掴む。感じていないわけじゃない。ルチアの手紙を読んだとき、胸のあたりが温かくなったのは覚えている。でもそれを言葉にしようとすると、「温かかった」しか出てこない。温かいのはわかる。でも何がどう温かいのかは、指の間からすり抜ける。
便箋の前に十五分座った。ペンを持ち替えてみた。左手で持ったら余計に字が汚くなった。右手に戻した。
結局こう書いた。
「ありがとう。わたしもルチアの髪がきれいだと思った」
報告書みたいだ、と自分でも思う。軍では報告書しか書いたことがない。事実と結果だけ。敵の人数、排除の有無、損害の程度。感想を書く欄はなかった。手がそういう文しか作れない。
便箋を折って、ルチアの机の上に置いた。ルチアがくれたのと同じ畳み方にしようとしたけど、端がずれた。
翌朝、ルチアが机の上でその紙を広げていた。読んで、少し口元がゆるんで、引き出しの奥にしまった。一行しか書けなかった紙を、丁寧に、奥に。引き出しの手前には教科書やノートが重なっている。その奥、棚の一番深いところに、わたしの報告書が入っていった。
おかしい。人の言葉なら見つかるのに、自分のことになると、いちばんわからなくなる。飾れないのではない。飾る前の中身が見えない。
十三歳の前は、ぼんやりと「好き」がわかっていた気がする。母が焼いてくれた菓子パンは好きだった。近所の人がりんごをくれて、母がそれを刻んで生地に混ぜてくれた。学校の帰り道にある坂の上からの夕焼けは好きだった。好きなものの手触りがあった。
戦場で二年過ごして帰ってきたら、手触りが消えていた。好きも嫌いも、必要か不要かに変わった。配給のパンは食べられるから必要。夜番で動ける体力は必要。壊れた銃は不要。死んだ仲間は、もう不要。そうやって二年間、好き嫌いの代わりに必要不要で動いてきた。
好きの形がわからないまま、ルチアの隣にいる。隣にいることが好きだとは思う。でもそれは「壁際の席が落ち着く」と同じ種類の「好き」なのか、違うのか。違うような気がする。でも何が違うのか、胸の奥を覗いても暗いだけだ。
ある日、ルチアが机に向かって手紙を読んでいた。封蝋に家紋の印がついている。実家からだ。
「何の手紙?」
「実家から。……弟の話」
ルチアの顔が一瞬だけ硬くなった。便箋に目を落として、ある箇所を読み返して、畳んで、引き出しにしまった。しまうときに少し手が止まった。
聞かれたくなさそうだったから、それ以上は聞かない。
ルチアにもわたしに見せない部分がある。封蝋つきの手紙が来ると、少しだけ表情が変わる。口元は笑っているのに、目のあたりが硬くなる。何度か見た。
聞かないのは、踏み込む権利がないからだ。わたしだって見せていないものがたくさんある。夜中に目が覚めること。窓を確認すること。枕を握りしめていること。全部ルチアは知っている。知っているのに聞かない。わたしもルチアの手紙のことを聞かない。そういう距離がある。踏み込まないから、一緒にいられる。
夜。灯りの下で、机に答案用紙を広げている。
魔法理論の小試験が返ってきた日だった。授業中は裏返したまま見なかった。周りが点数を覗き合っている声が聞こえていたけど、わたしは表を見る気になれなかった。赤い数字を見慣れすぎている。
部屋に帰って、ルチアが向かいの机で自分の答案を整理しているのを見て、やっとひっくり返した。
ルチアが先に見た。わたしの手元を覗いて、目が大きくなるのが見えた。わたしもつられて見た。
点数を見て、二度見した。
赤点をはっきり越えている。初めてだ。
ルチアのおかげだった。印の形と詠唱語の対応が頭に入らないわたしに、指の動きを図に描いて一つずつ教えてくれた。消灯前のベッドの上で、ルチアが印を組んでわたしが真似る。指がずれると「ここ、もう少し内側」と直してくれる。あの時間は楽しかった。楽しいと思えた。
「ほら、これ。ルチアのやつ、ちゃんと効いた」
答案を差し出す。紙の端を持つ手が、少しだけ誇らしかった。誇らしいという感覚がわかったことに驚く。
ルチアが覗き込んで、目が丸くなった。
「うそ、すごい! リーネ、すごいじゃん!」
ルチアが勢いのまま抱きついてきた。
自分の点数でもないのに、自分のことみたいに喜んでいる。椅子ごと体が傾いて、腕が首の後ろに回った。栗色の髪が頬にかかる。シャンプーの匂いがした。さっきまで便箋を折っていた指が、背中に触れている。温かい。
嬉しい、と思った。ルチアが喜んでいる。わたしのことで。それが嬉しい。
前に肩を触られたときは体がびくっとなった。不意打ちだったから。今回は違う。ルチアだとわかっている。驚いてもいない。嬉しいとさえ思っている。体は受け止めている。最初の一瞬は。
腕が背中に回りきった。
包まれた。
肩に触れられるのとは違った。肩は一点だ。点なら、逃げ道がある。横にずれればいい。
これは違う。腕が背中を覆って、胸がわたしの肩に押し当てられて、視界の左右がルチアの髪で塞がれている。囲われている。
その瞬間、体が別の読み方をした。
視界が塞がる。腕の輪の中にいる。前が見えない。後ろにも行けない。出口がない。
来た。
火が回る建物の中にいる。柱が倒れて出口を塞いだ。煙で目が開けられない。喉が焼ける。走れない。どこにも行けない。
塹壕の底で頭を抱えている。上から砲弾が落ちてくる。衝撃のたびに土が崩れて、腰から下が埋まった。声も出ない。掘り出されるまで、暗い土の中で目を開けたまま動けなかった。
暗い部屋。ドアが軋む。覆いかぶさる重さ。抵抗した。そこから先は靄がかかる。
隣で寝ていた仲間の腕が、朝、わたしの上に落ちてきた。重かった。どかそうとしたら、冷たかった。
ルチアの腕の中にいる。ルチアだとわかっている。わかっているのに、体がここにいない。
体が頭より先に動いた。
腕を振りほどいていた。突き飛ばしていた。
「いたっ」
小さな声が聞こえた。ルチアの声だ。椅子が倒れる音がした。
膝が床にぶつかった。手をついている。呼吸ができない。吸っても吸っても足りない。胸の真ん中が詰まって空気が肺の途中で止まる。
泣いている。頬が熱い。
頬が濡れている。鼻の奥が熱い。声が出ているのか出ていないのかもわからない。答案を見せて、ルチアが笑って、抱きついてきて。それだけだったのに体が壊れた。誰も悪くない。誰も悪くないのに壊れた。
「ごめん、なんで泣いてるのかわからない」
声が震えている。自分の声に聞こえない。喉の奥から押し出しているのに、薄い紙みたいな音しか出ない。
「ごめんね、リーネ、ごめん」
ルチアの声だった。床に尻をついたまま、突き飛ばされた姿勢のまま。謝っている。突き飛ばされた側が、謝っている。
涙がまだ出ている。止め方がわからない。いつもならここで笑顔を出す。「大丈夫」と言って、何事もなかったことにする。口角を上げようとした。動かない。顔の筋肉が言うことを聞かない。
「大丈夫、離れてるよ。ここにいるよ」
静かな声だった。ルチアの声も震えていた。それでも静かだった。
近づかない。触れない。でも離れない。ちょうどいい距離にいる。肩をつかまれたら多分また壊れる。でもルチアはそれを知っているみたいに、手を膝の上に置いたまま動かさない。どうしてわかるのか、わたしにはわからない。
どのくらい経ったかわからない。膝が床の石に当たっている。冷たい。その冷たさだけがはっきりしていた。
呼吸が少しずつ戻っていった。涙は止まらないまま、息だけが落ち着いた。涙の理由がわからないから止め方もわからない。ただ出尽くすのを待った。
灯りの下で答案用紙が一枚、床に落ちている。さっきまで嬉しかった紙だ。赤点を越えた紙。ルチアのおかげの紙。それが床の上で、裏返しになっている。点数が見えない。裏返しだから。
倒れた椅子が一脚、足を上にして転がっている。ルチアの椅子だった。わたしが突き飛ばしたときに倒れたのだ。
ルチアは同じ場所にいた。床に座ったまま、壁にもたれて。倒れた椅子のそばで。わたしが静かになるまで、一歩も動かなかった。
目が覚める。
瞼が重い。腫れている。昨夜泣いた跡が目の周りに残っている。
右手がこわばっている。枕を握りしめていた指を開くと、関節が白い。
横を見る。ルチアが椅子に座ったまま壁にもたれている。制服のまま。着替えていない。目の下にくまがある。髪が結ばれていない。いつもは起きたらすぐにまとめるのに、ほどけたまま肩にかかっている。一晩中、椅子にいたのだから当たり前だ。着替える暇も、髪を結う暇も、なかった。わたしのそばにいたから。
その当たり前が、喉の奥に引っかかった。
朝の順番が狂っている。いつもならわたしが窓を開けて、ルチアが髪を結んで、二人で部屋を出る。今日はルチアが椅子にいて、わたしが一人で洗面所に行った。
起き上がって、洗面所に行く。廊下は静かだ。まだ早い時間らしい。消灯後の弱い灯りが等間隔に並んでいて、石造りの壁をぼんやり照らしている。足音を殺す癖が出そうになって、やめた。ここでは、ばれても大丈夫だ。
鏡を見る。顔がむくんでいる。目が赤い。まぶたが膨れている。
笑顔を作ってみる。
口角を上げる。頬の筋肉を意識して動かす。形ができる。
できる。笑顔の形はできる。でも鏡の中のその顔は、いつもの笑顔と何かが違う。いつもは考えるより先に出てくるものを、今日は筋肉を一つずつ動かして組み立てている。口角の高さも目の細め方もたぶん同じ形をしている。形は合っている。なのに何かが違う。
水で顔を洗った。冷たい水が肌に当たって、少しだけ目が覚める。タオルで拭いて、もう一度鏡を見た。顔のむくみはまだ残っている。
顔がむくんでいるからだろう。そう思うことにした。
部屋に戻る。ルチアが目を開けていた。目が合う。
笑顔を出す。
「おはよう。ルチア、ずっとここにいてくれたの? ごめんね」
「わたしのほうが、ごめん」
ルチアの声が小さかった。掠れていた。
「急に抱きついて、ごめんね。わたしが」
ルチアの手が膝の上で握られている。指が白い。こっちを見ているのに、目が揺れている。
笑顔が止まる。ルチアが謝っている。わたしが壊れたことを、自分のせいだと思っている。違う。違うのに、「違うよ」と言う前にルチアが続けた。
「……ね、リーネ。昨日のこと、大丈夫って言わないで。お願い」
口が動く。いつもの「大丈夫だよ」を言おうとする。音にならない。口が動いて、戻って、また動いて、何も出てこない。笑顔を維持しようとして、できない。口元が引きつって、笑顔でも泣き顔でもない何かになる。
いつもなら笑える。どんなことがあっても笑えた。前線で隣の人が死んでも、収容所で審問官に値踏みされても、上級生に首を絞められかけても。笑顔は道具だった。いつでも出せる道具だった。今、出てこない。
窓から朝日が差している。部屋は明るい。明るいのに、空気が重い。
窓の外を見る。飛び降り地点、木立の位置。体が勝手にやる確認を、途中で止めた。今はそういう場面じゃない。止められたのが珍しかった。いつもは最後まで見て、それからベッドに戻る。今日は途中で止めた。ルチアの目がこちらを見ているのがわかったからかもしれない。
「ねえ、ルチア」
「うん」
「わたし、おかしいのかな」
ルチアが少し黙った。
「おかしいんじゃない。傷ついてるんだよ」
「傷? 体は怪我してないよ」
「体じゃなくて」
「……体じゃないところも、怪我するの?」
本気で聞いている。本気でわからない。
体の怪我なら見える。鎖骨の火傷も手のタコも、目で見て触ってここにあるとわかる。見えるものは手当てできる。火傷には薬を塗る。切り傷は布で巻く。手順がある。
でも体じゃないところの怪我は、どこにあるのか。触れないものを、どうやって手当てするのか。
ルチアが何か言おうとして、やめた。言葉を組み立てようとして、組み立てられなかったのが見えた。目が赤い。昨夜から赤いのか、今赤くなったのか。
しばらく二人で黙っていた。朝日が壁の半分を白く照らしている。部屋は狭い。ベッドが二つ、机が二つ、窓が一つ。その窓から差す光がルチアの横顔を照らしていた。髪がほどけたままのルチアを、こんな近くで見るのは初めてだった。
「ルチア、わたし、昨日の夜のこと、あんまり覚えてないんだ」
ルチアが顔を上げた。
「泣いたのは覚えてる。ルチアを突き飛ばしたのも覚えてる。でもなんで泣いたのかが、よくわからない」
ルチアが「うん」と言った。聞いている。待っている。
「ルチアに抱きつかれて、嬉しかった。それは覚えてる。嬉しかったのに、その次には泣いてた。間が飛んでるみたいなんだ。嬉しいのと泣いてるのの間に、何かあったはずなのに」
ルチアが何も言わない。言わないのに、ちゃんとここにいる。椅子に座ったまま、背筋をまっすぐにして、わたしの声を聞いている。昨夜、突き飛ばされて床に尻をついたのに、まだここにいる。一晩中、椅子で。
「覚えてなくても大丈夫」
「大丈夫じゃないのかもしれない。でも大丈夫じゃないのがどういうことかもわからない」
笑おうとする。
口が動いて、止まる。
ルチアの目が赤い。昨夜からずっと赤い。
抱きしめてくれただけなのに。ただ、喜んでくれただけなのに。