自分の腕を見ている。
白い腕だ。細くて、なめらかで、剣のタコなんかどこにもない。この腕で抱きしめただけで、リーネは凍った。
部屋にはわたしだけだ。
リーネは教室に行った。笑顔の出ないまま「行ってくる」とだけ言って扉を開けた。口角を上げようとして、やめた。やめたことに戸惑うような顔をして、そのまま出ていった。あの子が笑わないで部屋を出るのを初めて見た。
足音が廊下の奥に消えた。
ベッドの端に座って、膝の上に置いた自分の手をじっと見ている。動けなくなっている。
掌がまだ少しひりひりする。突き飛ばされたとき床に手をついた。爪の先が床を引っ掻いた感触がまだ指に残っている。
あの力は強かった。でも怒りの力じゃなかった。溺れている人間が水面を叩くような、出口を探す体の動きだった。あの子はわたしから逃げたのではない。腕に囲まれたこと自体から逃げた。わたしが誰かは関係なかった。母が抱きしめても、ミラが抱きしめても、同じことが起きたはずだ。わたしだから凍ったのではない。それはわかっている。わかっているのに、楽にはならない。
椅子が倒れる音がした。硬い、乾いた音。あの音のあとの数秒が、記憶の中でうまく繋がらない。過呼吸と、泣き声と、「なんで泣いてるのかわからない」という困惑した声。断片だけが順番なく浮かぶ。でも一番はっきり残っているのは、あの子の目がわたしを見ていなかったことだ。わたしの腕の中にいたのに、瞳の焦点がどこにもなかった。わたしではない場所にいた。
そしてあの子は泣いた。戻ってきてから泣いた。わたしを見て、部屋を見て、自分がここにいることをわかった上で、泣いていた。怖がっている顔ではなかった。困っている顔だった。自分の頬が濡れていることに困っている顔。「なんで泣いてるのかわからない」と言った。本当にわからないのだと、声でわかった。
あの涙は、今夜のことだけで出たものではない気がする。あの子はいつも笑っていた。何があっても笑えた。その笑えるということが、どこかおかしいのだとずっと思っていた。今夜、笑えなくなった。笑えなくなった途端に、涙が止まらなくなった。あの子の中に、ずっと溜まっていたものがあったのだと思う。わたしにはわからないものが。あの子自身にも見えていなかったものが。
それが一番、痛い。わたしが抱きしめたことが、きっかけになった。
わたしの家では、抱きしめるのは一番優しいことだった。
母がわたしにそうした。嬉しいときも悲しいときも、おやすみのときも。弟が生まれてからは弟にもそうした。転んで膝を擦りむいて泣いたとき、雷が怖くて布団に潜ったとき。腕を回して、背中に手を置いて、ぎゅっと力を入れる。力を入れた分だけ大丈夫が伝わると、体で覚えてきた。母の腕は温かかった。あの温かさがわたしの腕にも入っていると信じていた。
弟は腕の中で泣き止む。力が抜けて、安心して、しばらくすると笑う。それが抱きしめるということだと思っていた。同級生に腕をかけるのも、友達に手を繋がれるのも、同じ延長にあった。腕の中は安全な場所だった。そういうものだと、疑ったこともなかった。
リーネには逆だった。
腕が回ったとき、あの子は安心したのではない。囲われた。視界が塞がれた。動けなくなった。あの子にとって誰かの腕の中は安全な場所ではない。逃げ道のない場所だ。
なぜそうなのかは、わからない。あの子が二年間の前線で何を見てきたのか、収容所でどんな目に遭ったのか、わたしは知らない。知らないまま、わたしの一番優しいやり方が、あの子の一番怖いものと同じ形をしていた。
洗面所に立つ。鏡の中のわたしがひどい顔をしている。
目が赤くて瞼が重い。髪がほどけたまま、昨日の制服を着たまま、一晩を椅子の上で越えた体だ。首の右側が強張っていて、傾けると筋が引きつる。背中も痛い。壁にもたれた姿勢のまま夜を越したから、肩甲骨のあたりが石みたいに硬くなっている。
水で顔を洗った。冷たさが頬から額に広がって、少しだけ頭が動き始める。でも目の腫れは引かない。しばらく引かないだろう。
部屋に戻る。リーネのベッドが目に入る。
壁際に寄って寝る癖がそのまま形になっていて、掛け布の片側だけがめくれている。枕に手の形の皺がついている。握りしめていた跡。入学した頃、朝にあの子の手が白くなっているのを何度か見た。指の関節が白い。同室になって初めて、枕を握りしめたまま眠るからだと知った。あのときは変わった癖だなとしか思わなかった。癖ではなかった。体が夜中も警戒を解かないのだ。
ベッドの脇に、リーネの鞄がある。中身の重なり方が毎日違う。あの子が持っているものは少ない。私服は一枚だけで、袖が短くなっている。収容所で支給されたものだと笑いながら教えてくれた。笑いながら。
窓の前に立つ。朝の光が白く差している。中庭の木が風に揺れて、葉の影が床をゆっくり動いている。
リーネは毎晩この窓を確認する。同室になってから何度も見た。窓の留め金を確かめ、外を見て、しばらく動かない。飛び降りた場合の着地点と木立の位置と逃走の経路を計算しているのだと、笑顔で教えてくれた。学院の寮で逃走経路を計算する十六歳を、わたしは知らない。知らなかった。あの子の笑顔の下に何があるのか、同室になる前から気になっていた。同室になって、少しずつ見えてきた。見えてきたものは、わたしが想像していたものとは違った。
椅子に座り直す。昨夜ずっと座っていた椅子だ。座面がまだ少し温かい。わたしの体温が残っている。木の肘掛けに手を置くと、昨夜もここに手を置いていたことを思い出す。動けないまま、この肘掛けを握っていた。握りすぎて指が白くなっていたかもしれない。リーネの朝の手みたいに。
窓から入る風が髪を揺らす。ほどけたままの髪だ。いつもなら起きたらすぐにまとめる。リボンはまだ棚の上にある。昨夜のわたしには、髪を結ぶ余裕がなかった。
入学式の日のことを思い出す。
講堂で、隣に座った子がいた。遅刻した生徒が扉を勢いよく閉めて、重い音が響いた。その瞬間、隣の子の右手が腰に伸びた。何もない腰を、剣を探すみたいに掴もうとして、空をつかんで、すぐに戻した。
あの夜、眠れなかった。天井を見て、あの笑顔を思い出していた。よくできた笑顔だった。よくできすぎていた。あの下に底の見えない暗いものがある。それが何かはわからなかった。わからないことが怖くて、怖いのに目が離せなくて、気づいたら泣いていた。理由がないまま枕を濡らした。
あの夜、思ったことを覚えている。一人にしておけない。理由は、まだ、なかった。
今はわかる。
理由がわかった。わかったのが、こんな形だった。
あの夜の泣き方と今朝の泣き方は違う。あの夜は、わからないから泣いた。怖いのか悲しいのか胸が痛いのか、区別がつかなくて泣いた。涙の理由を探して見つからなかった。今は違う。理由がはっきりしている。はっきりしているから、涙が止まらない。
昨夜、一晩中動けなかった。
リーネの泣き声が止んだあとも、震えが収まったあとも、浅い眠りに落ちたあとも。隣のベッドまでは三歩だ。その三歩が越えられなかった。触れたらまた引き金になる。離れたら一人にする。どちらも選べないまま、同じ部屋の空気を吸っていた。リーネの呼吸の音を聞いていた。不規則な呼吸だった。止まって、また始まる。止まるたびにわたしの体も強張って、始まるたびに少しだけ力が抜けた。窓の外で風が鳴って、遠くで夜鳥が一声だけ鳴いた。それ以外は静かだった。何もできない。でもいる。それだけしかできないまま、夜が明けた。
今朝、リーネが目を覚ましたとき、笑顔を作ろうとした。口角を上げて、目を細めようとした。いつもなら一瞬でできるはずのことが、できなかった。口が動いて、止まって、形にならなかった。あの仕組みが壊れるのを、わたしは目の前で見た。
あの子が「わたし、おかしいのかな」と聞いた。本気で聞いていた。自分の中で何かが壊れたことを、本気で不思議がっていた。壊れていることが普通じゃないと気づいたのが初めてみたいだった。
昨夜のどの瞬間よりも、あの顔が一番怖かった。フラッシュバックも、過呼吸も、突き飛ばされたことも、怖かった。でもあの子の笑顔が出なくなった朝は、もっと怖かった。笑顔がなくなった子の顔が、何にも守られていなくて、剥き出しで、十六歳の女の子がそのまま立っていた。
「大丈夫って言わないで」と言った。
声が掠れていた。一晩泣いて座っていた喉から、やっと出した言葉だった。リーネが「大丈夫だよ」と言おうとしているのが見えた。口が動きかけた。その口を止めたくて言った。あの子がまたいつもの笑顔で全部を片づける前に。
リーネの口が動いて、止まった。言おうとして、出なかった。笑顔のときと同じだった。いつもなら出てくるものが、出てこない。
わたしが止めた。笑顔を止めて、大丈夫を止めた。あの子がいつもやっていたことを、わたしが止めた。
止めたことが正しかったのか、まだわからない。笑えなくなったあの子を、わたしはどうすればいい。笑えなくなった下に何があるのか、わたしには見えない。わたしは戦争を知らない。あの子が何を抱えているのかも知らない。
昨夜、何もできなかったのに離れられなかった。
触れたら引き金になる。声をかけたら引き金になるかもしれない。何もできない。何もできないのに、部屋を出ることだけはできなかった。意味があるのかもわからないまま、同じ部屋の空気を吸い続けた。
あの子の不規則な呼吸を聞いていた。止まるたびに体が強張って、始まるたびに少しだけ力が抜けた。それを一晩中繰り返していた。あの子の呼吸に合わせて、わたしの体が動いていた。
今朝、あの子の笑顔が出なくなったとき、胸の深い場所が潰れるように痛んだ。
あの痛みには見覚えがある。入学式の日、隣の子が扉の音で腰に手を伸ばしたのを見たとき。実技の授業で、首元に止まった剣の向こうから「ごめんね、つい」と笑ったのを見たとき。図書室で隣に座ったリーネがいつの間にか眠っていて、わたしの袖を無意識に掴んでいた午後。あの指が温かくて軽くて、起こすことができなかった。起きているリーネの笑顔とは違う顔だった。力が抜けていて、何にも身構えていなくて、あの顔を見たとき、胸が痛んだ。あのときと同じ場所が痛んでいる。ずっと同じ場所だった。
昨日。答案が返ってきた。わたしが教えた印の対応と詠唱語の組み合わせで、リーネは赤点を大きく越えた。答案を差し出してきたとき、あの子の顔に誇らしさがあった。自分でも驚いているみたいな、控えめな、でも確かに嬉しそうな顔。あの顔を見た瞬間、考えるより先に腕が開いていた。嬉しくて。あの子が嬉しそうにしているのが嬉しくて。気づいたときには抱きついていた。
あれは反射だった。考えて動いたのではない。あの子の嬉しそうな顔を見て、体が勝手に腕を開いた。そういう距離に、いつの間にかいた。
守りたいと思った。あの子を支えたいと思った。壊れたままでいいから隣にいたいと思った。
でも名前はつけない。
名前をつけたら、あの子はそれを任務にしてしまう。
恋人という名札を受け取ったら、全力でこなそうとする。手を繋ぐべきところで繋ぎ、笑うべきところで笑い、好きと言うべきところで好きと言う。課題の提出みたいにきちんとやる。あの子の中の好きがまだ戻っていなくても。好きな食べ物を聞かれて答えられない子だ。砂糖漬けがおいしいと感じられるようになったばかりの子だ。そこに好きを渡しても、形だけを真似して中身がわからないまま苦しむ。あの子はそういう子だ。言われたことを全力でやろうとする。形から先に入って、中身はあとから探す子だ。
空っぽの好きを任務として遂行させるくらいなら、名前のないまま隣にいるほうがいい。
それに名前をつけたら、家に対して隠さなければならないものになる。
母の手紙が月に二度届く。弟の近況と、書き損じの跡と、あの丁寧な字の行間に挟まった別の話。返事を書くたびに、書けないことが増えていく。名前をつけたら書けないことがまた一つ増える。嘘が一枚、厚くなる。今はまだ名前がないぶんだけ、嘘をつかずに済んでいる。
だから名前はつけない。つけないまま、隣にいる。名前のない距離で、名前のない好きを抱えたまま。それでいい。それがいい。あの子が好きを思い出せる日が来るまで、わたしは名前を持たない場所にいる。待つのではない。一緒に歩いていくだけだ。あの子の歩く速さで。
枕に顔を押しつけた。
自分のベッドに倒れ込んで、自分の枕に顔を埋めた。声を殺して泣く。みっともなく、長く泣く。鼻が詰まって息が苦しい。嗚咽を抑えようとするたびに肩が震えて、抑えきれずにくぐもった音が漏れる。枕が濡れていく。冷たくなっていく。髪が顔に張りつく。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている。こんな顔、誰にも見せられない。
泣きながら、自分がみっともないと思っている。何も知らないくせに泣いている。あの子が二年間見てきたものを知らない。あの子の体が何を覚えているのか知らない。知らないのに、自分の腕で凍らせたことだけは確かで、その確かさが喉の奥を潰す。
リーネの前では泣かない。
泣いたら、あの子が謝る。自分が壊れたことを、わたしが泣いたことを、全部引き受けて謝る。壊れた側が泣いている側を心配する。あの笑顔を出そうとして、出なくて、それでもごめんだけは声にする。それだけは器用にできてしまう子だ。あの子は絶対にそうする。自分が傷ついたことを、人に迷惑をかけたことにすり替えて謝る。
だから一人で泣く。この部屋で一人で、枕が冷たくなるまで泣く。リーネが教室にいる間に泣いておく。あの子が戻ってくる前に顔を洗って、目の腫れだけはどうしようもないけれど、泣いた理由は聞かれても答えない。聞かれたら寝不足と言う。あの子と同じ嘘のつき方だ。
守りたいと思った。あの子を支えたいと思った。壊れたままでいいから隣にいたいと思った。
その腕で壊した。
わたしの育った家の一番優しいものが、そのまま、あの子の傷の形だった。
触れたい。もう触れられない。
両方、本当だ。
どれくらい泣いていたかわからない。
枕から顔を上げる。目の奥がじんじんする。鼻の奥がひりひりして、息をするたびに痛む。枕に丸い濡れ跡がついている。冷たくなった布が頬に貼りついていた。
窓から差す光の角度が変わっている。もう一限目が始まっている頃かもしれない。廊下の向こうから、生徒たちが教室に向かう足音がかすかに聞こえる。あの足音の中にリーネの足音はない。あの子はもう教室にいる。笑えないまま、席に座っている。わたしの隣の席が空いたまま。
グレン先生の授業だろうか。いつもならリーネはグレン先生の授業で居眠りをする。今日は居眠りできないかもしれない。昨夜、あれだけ泣いて、あれだけ震えて、それでも朝に制服を着て教室に行った。その一つ一つが、兵士の子供の強さだ。強くて、痛ましい。
明日、どんな顔で隣に座ればいいのか、わからない。
でも、隣に座らない明日は、もっとわからない。
今朝、「大丈夫って言わないで」と言えたのは、わたしだけだ。一晩中そばにいたから言えた。あの子が笑顔を貼りつけようとして失敗した瞬間を見たから、止められた。そばにいたから言えた言葉だった。
離れていたら、リーネは制服に着替えて「おはよう」と笑って、昨夜のことを箱に入れて蓋をしていた。また一人で笑い続けていた。笑顔の仕組みが壊れかけていることに、あの子自身も気づかないまま。
触れ方を間違えた。
でも、そばにいたことは間違っていない。
あの子が泣いている間、同じ部屋にいた。何もできなかったけれど、いた。朝、笑顔が出なくなったのを見て、「大丈夫って言わないで」と言えた。あの言葉は、あの椅子に座っていなければ出てこなかった。触れ方は間違えた。でもそばにいたから、あの朝が来たとき、あの子の前に立てた。
だから明日も隣に座る。触れられなくても、どんな顔をすればいいかわからなくても。あの子がまた笑おうとして笑えない朝が来るなら、その隣にいる。大丈夫を言わせない。言わせないためには、そこにいなくてはいけない。
顔を洗い直す。冷たい水を何度もかける。目の赤みは消えない。消えないまま、制服に着替える。棚からリボンを取って、鏡を見ながら髪をまとめる。いつもの手順だ。リーネが窓を確認して、わたしが髪を結んで、二人で部屋を出る。今朝はその順番が崩れた。リーネが先に出て、わたしが一人で泣いて、ここにいる。
鏡を見る。ひどい顔だ。目が赤くて、瞼が腫れていて、誰が見てもわかる。ミラが見たら「どうしたの」と聞く。ナタルは何も聞かない。リーネは気づいて、そして自分のせいだと思う。
でもこの顔で教室に行く。隠せないなら隠さない。リーネの隣の席に座る。
何も解決していない。触れ方もわからない。あの子の傷がどれだけ深いかもわからない。わたしに何ができるかもわからない。わかっていることは一つだけだ。
あの子が笑えないまま朝を迎えるなら、笑えないままの隣にいる。それだけは、できる。