あの夜から数日が経った。
わたしは元に戻っている。朝に窓を確認して、ルチアが髪を結ぶのを待って、二人で部屋を出る。食堂の壁際の席に座って、ミラの話に笑う。授業を受けて、ノートを取って、実技で剣を振る。全部いつも通りだ。
今朝もミラが焼き菓子の話をしていた。母親が新しく作ったやつがどうとかで、次の手紙に入れてもらうんだと言って、口の端に粉をつけたまま喋っている。わたしは笑う。ミラの話は面白い。中身のない話をこんなに続けられる人を、前線では見たことがなかった。
笑顔は出る。ちゃんと出る。ただ、少しだけ遅い気がする。
前は考える前に出ていた。ミラが変な顔をした瞬間に、もう笑っている。今は、面白いなと思って、それから笑っている。ほんのわずかな間だ。誰も気づかない。わたしも、気にしないことにしている。
午前のグレンの座学で、目が冴えていた。
前は、この時間になると意識が飛んだ。教室が温かくて、グレンの声が低くて一定で、窓から日が入って、気づいたら机に突っ伏していた。この人の授業では体が勝手に眠った。理由はわからなかったけど、眠れた。
最近は眠れない。目を閉じても、意識が沈まない。板書を追って、ノートを取って、ずっと起きている。真面目になったわけじゃない。ただ、眠くならない。体が、休むのをやめている。
それがいいことなのか悪いことなのか、わからない。授業中に寝ないのは、普通はいいことだ。だから、いいことにしておく。
ルチアは知っている。
夜、わたしが眠れないまま壁際にいることを。同室だから、知られている。目を閉じても寝息が立たない夜があること。手が時々震えること。笑顔が出るまでに少し間があること。全部、隣で見ている。
見ていて、何も聞かない。あの夜からずっとそうだ。聞かないでいてくれるのが、今はいちばん楽だ。聞かれたら、答えを探さないといけない。答えのない問いを渡されるより、黙っていてくれる方がいい。
それでも、時々ルチアの目とぶつかる。
わたしの顔の、笑顔の下を覗こうとする目。覗いて、何かを見つけて、それを口に出さないで飲み込む。飲み込んだものが、ルチアの中に溜まっていくのが、なんとなくわかる。
わたしのせいだ、とは思わない。思わないようにしている。
午後の実技が終わって、教室に戻った。鞄をまとめていると、教壇からグレンの声が落ちてきた。
「カルヴァス。来い」
短い。いつものグレンだ。
ミラが「またぁ?」と目を丸くした。ルチアが手を止めてこっちを見た。
「あ、また怒られるのかな」
わたしは笑って立ち上がった。心当たりはない。居眠りは、最近していない。実技も、今日は無難にやったはずだ。まあ、何かあるんだろう。呼ばれたら行く。それだけだ。
「先生、わたし何かやりました?」
グレンは答えなかった。資料を脇に挟んで、「執務室に来い」とだけ言って先に歩き出した。
ミラが小声で「食堂で待ってるね」と言った。ルチアは何も言わなかったけど、鞄を持つ手が止まっていた。わたしは手を振って、グレンの背中を追った。
グレンが先に執務室に入った。
「座れ」
来客用の硬い椅子を指される。背もたれが真っ直ぐで、寄りかかると背骨が当たる。
本棚の戦術書も、壁にかかった実戦用の剣も、柄の巻きが端から解けかけているのも、前に来たときのままだった。東向きの窓から、午後の残り光が斜めに入っている。机の上に湯呑みが二つ。呼び出す前に淹れてあったのだろう。
椅子に座って、湯呑みを両手で包んだ。陶器の温度が指に伝わる。茶を一口飲んだ。苦い。甘くない。あの部屋の茶はこれでいい。
グレンが机の向こうに座った。椅子がきしむ。
そのまま、わたしの顔を見た。
何も言わない。
茶を飲むでもなく、書類を開くでもなく、ただ見ている。前の面談のときは書類を読み上げてから話し始めた。今日は書類がない。机の上には湯呑みが二つあるだけだ。
沈黙が続く。窓の外で鳥が鳴いた。廊下の遠くで、どこかの教室のドアが閉まる音がした。グレンは動かない。
長い。
わたしは湯呑みを持ち直した。何を言えばいいのかわからない。呼ばれた理由もわからない。この沈黙が何なのかもわからない。
「あの、何か——」
「お前、自分が怪我をしてるって、わかってるか」
わたしの声を、グレンの声が遮った。
怪我。
わたしは自分の腕を見た。袖をまくって、腕を見せる。傷はない。模擬戦の打撲は、とっくに治っている。
「怪我? わたし、どこも怪我してないですよ」
腕を見せたまま言った。手も、腕も、きれいなものだ。火傷の跡は鎖骨だけど、あれは古い傷で、もう痛くない。
グレンは、わたしの腕を見なかった。
顔を見たままだった。
「見えるところの話はしていない」
「じゃあ、どこですか」
腕を下ろして、自分の体をなんとなく見下ろす。制服の下にも、大きな傷はない。打撲はとっくに引いた。指は動く。走れる。剣も振れる。兵士として、どこも欠けていない。
「わたし、ちゃんと動けますよ。今日の実技だって、普通にやりました」
「動けるかどうかを聞いてるんじゃない」
グレンの声は、変わらず低い。
わたしは少し困った。動けるなら、怪我はしていない。前線ではそうだった。動けなくなったら、それが怪我だ。動けるうちは、無傷と同じだった。指が二本なくなっても、剣が握れれば戦線に立った。それ以外の怪我を、わたしは知らない。
「心の傷だ」
手が止まった。
心の。
その言葉が、うまく頭に入ってこない。心が、怪我をする。
わたしは笑顔を出した。
「心って怪我するんですか?」
グレンは笑わなかった。
目が、まっすぐだった。前の面談のとき、「辛くないか」と言ったときの、あの目に似ていた。何かを堪えている目。でも今日は、堪えるのをやめた目でもあった。
「する」
一拍。
「そして、お前は重傷だ」
顔の表面が、一枚めくれた。
口の端が、勝手に下がった。目が見開いた。息が一瞬止まった。自分の顔が、いつもと違う形になったのがわかった。
すぐに戻した。口角を上げて、目を細めて、いつもの形に押し戻した。半秒もかからなかったと思う。
「先生、大丈夫ですって」
笑顔を出したまま言った。
「わたし、こんなに元気なのに」
「怪我してるんだ」
グレンの声が、少し強くなった。低いまま、太くなった。
「してませんよ」
「してる」
「してませんってば! 痛くもかゆくもないんです! どこも、なんともないんです!」
笑顔のまま言った。なのに、声が大きくなった。自分でも驚くくらい、大きくなった。執務室の壁に、自分の声が返ってきた。
グレンは動じなかった。
「痛くないから怪我じゃない。そういう話じゃない」
机に、手を置いた。乗り出したわけじゃない。ただ手を置いただけだ。それだけで、空気が動いた。
「痛みが届かないくらい、奥なんだ。お前のは」
わたしは口を開けた。
「怪我してません」を、もう一度言おうとした。
言えなかった。
さっきまで、いくらでも言えた言葉が、今度は喉の途中で止まった。なんで止まったのか、わからなかった。
グレンの目が、わたしの手に落ちた。
湯呑みを包んだ手を、なんとなく持ち直す。何を見ているのか、わからなかった。
グレンは少し間を置いて、続けた。
「心の傷を診られる治癒師を探している」
声が、教官の声に戻っていた。短くて、余計な言葉がない。
「体の傷なら学院の治癒師で足りる。だが心の傷は魔法じゃ治せん。言葉と時間で診る、別の種類の治癒師がいる」
そういう治癒師がいることを、わたしは知らなかった。体の傷を治す魔法医なら知っている。前線にもいた。骨をつなぎ、裂けた肉を閉じる。でも心を診る治癒師なんて、聞いたこともない。
「数が少ない。大陸に散らばっていて、手紙を出しても返事が来ない。だが、見つける。見つけたら受けてくれ」
わたしはグレンを見た。
「……先生、探してくれてるんですか」
「入学したときから探している。まだ見つからん。それだけだ」
短い。それだけだ、と言った。
でも、入学したとき、という一言が、耳に残った。わたしが学院に来てから、もう二月も三月も経っている。その間ずっと、この人は手紙を出していた。返事の来ない手紙を。見つからないまま。それを、それだけだ、で片づけた。
グレンは湯呑みに手を伸ばして、一口だけ飲んだ。それきり、何も言わなかった。
言うことは全部言った、という顔だった。
面談が終わった。
「もういい。戻れ」とグレンが言って、わたしは立ち上がった。椅子が床を擦った。
湯呑みの茶は半分残っている。前も半分残した。今度こそ全部飲もうと思っていたのに、また半分だ。
「お茶、ごちそうさまでした」
笑顔を出して、ドアに手をかけた。グレンは「ああ」とだけ言った。
ドアを閉めるとき、グレンがまだこっちを見ているのがわかった。
廊下に出た。
教官棟の廊下は静かだ。石の壁に光が斜めに差して、埃が光の中を漂っている。
歩きながら、さっきの言葉を繰り返していた。
心の傷。心が怪我する。心が重傷。
心って、どこにあるんだろう。
胸のあたりを、なんとなく手で押さえてみる。何もない。骨と、その下で動いている心臓と、それだけだ。傷なんてどこにもない。
怪我をしているなら、痛いはずだ。腕を切れば痛い。火傷は熱かった。骨が折れたときは、目の前が白くなるくらい痛かった。痛いから、怪我だとわかる。
でも、痛くない。何も痛くない。今も、胸のどこも痛くない。
痛くないのに、なんで手が震えるんだろう。
足が止まった。
自分の手を見た。さっきグレンが見ていた手。
震えている。ほんの少し。指先が細かく揺れている。湯呑みを持っていたときは、両手で包んでいたから目立たなかっただけだ。手を放したら、震えていた。
「まあ、寒いからかな」
声に出して言った。
廊下は涼しい。石の壁は日の当たらない場所だと少しひんやりする。そのせいだ。きっと。
寒くない。初夏だ。窓の外の日差しは白くて、中庭の木の葉が濃い緑になっている。寒いわけがない。
手を握って、開いた。もう一度握って、開いた。
震えは、まだある。
前線では、わからないことは放っておいた。考えても答えが出ないことに時間を使うのは、無駄だった。
でも、今日はうまく放っておけない。心の傷、という言葉が、頭の奥に引っかかったまま取れない。
握った手を、ポケットに突っ込んだ。震えは、ポケットの中なら見えない。
食堂に向かって歩き出した。
ミラが待っている。ルチアもいる。壁際の席で、盆を取っておいてくれているはずだ。
歩いているうちに、ポケットの中の手の震えは、いつの間にか収まっていた。
創立祭が近づいていた。
校舎のあちこちに、飾りつけの準備が始まっている。廊下に木箱が積まれて、上級生が提灯を運んでいる。授業のあとに残って出し物の相談をしている生徒もいる。学院が一年で一番賑やかになる祭りなんだと、ミラが教えてくれた。ミラは屋台のことばかり喋っている。何が食べられるか、去年は何がおいしかったか。
それから、今年は花火が上がるらしい、とミラが目を輝かせて言った。花火。聞いたことのない言葉だった。夜の空に光を打ち上げて、花みたいに咲かせるんだって、とミラが両手を広げてみせる。まだどこの学院でもやっていない新しい見世物で、上級生が王都から取り寄せたらしい。ミラも見るのは初めてなんだと、今から興奮している。
夜の空に上がるもの。わたしが知っているのは、照明弾と、着弾の火柱くらいだ。どちらも、きれいなものではなかった。夜空で咲く花、と言われても、それがあの光とどう違うのか、うまく思い浮かばなかった。
ある夕方、実技のあとの片づけで遅くなって、一人で部屋に戻った。
ドアを開けると、ルチアが机に向かっていた。便箋を広げて、ペンを持っている。
わたしが入ってきたのに気づいて、ルチアの手が動いた。便箋を、さっと裏返した。
振り返ったルチアの顔が、一瞬だけ固かった。すぐにいつもの顔に戻ったけど、あの一瞬は見えた。
「何書いてたの?」
わたしは鞄を置きながら聞いた。深い意味はない。ただの、ただいまの代わりだ。
「実家への返事。弟が風邪引いたって言うから」
ルチアが笑って言った。
嘘ではないんだろう。ルチアの弟は五つ下で、生意気だけどかわいいと前に聞いた。風邪をひいたなら、心配して返事を書く。それはわかる。
でも、便箋を裏返した手の速さは、弟の風邪の話をする手の速さじゃなかった。
わたしは、それ以上聞かなかった。
ルチアには、わたしに見せない部分がある。封蝋のついた手紙が来ると、少しだけ表情が変わる。口元は笑っているのに、目のあたりが硬くなる。前にも見た。聞かれたくなさそうだったから、あのときも聞かなかった。今日も聞かない。
わたしだって、見せていないものがたくさんある。夜のことも、手が震えることも、さっきグレンに言われたことも。ルチアが聞かないでいてくれるのと同じだけ、わたしもルチアの便箋を追わない。そういう距離だ。
「弟くん、大丈夫なの?」
裏返した便箋のことじゃなくて、弟のことだけ聞いた。それなら聞いていい気がした。
「うん。もう治りかけてるって」
ルチアがそう言って、便箋を引き出しにしまった。裏返したまま、奥に。
わたしは自分のベッドに座って、鞄から教科書を出した。ルチアが引き出しを閉める音がした。
窓の外で、日が落ちかけている。
中庭の木が、夕日で赤く染まっている。誰かが提灯を試しに灯したのか、遠くにぼんやりした明かりが揺れている。祭りの準備の音が、まだ少し聞こえる。
わたしは教科書を開いた。開いたまま、しばらく文字を追わなかった。
ルチアが机で何か書き始めた音がした。ペンが紙を滑る音。今度は、隠さなかった。
わたしは教科書に目を戻した。同じ行を、何度も読んだ。
心の傷、という言葉が、まだ取れない。
明日を数えれば、創立祭はもうすぐだ。