中庭に、火がいくつも灯っていた。
篝火が四つ、等間隔で焚かれている。木の枝には提灯が吊るされて、赤や黄の紙が風に揺れていた。屋台が並んで、湯気と煙が上がっている。生徒たちが行き交って、笑い声があちこちで弾けていた。昼はただの中庭だった場所が、夜になって、まるで別の場所になっている。
壇の上で、ユリウスが挨拶をしていた。
「学院の伝統と、新しい仲間たちとの絆を祝う夜です」
よく通る声だった。人の集まる場所で、少しも詰まらずに喋れる人だ。話しながら、ユリウスの目がこっちに向いた。わたしのところで、少しだけ止まって、微笑んだ。
新しい仲間、というのは、たぶんわたしのことだ。融和の象徴。会長はいつもそういう目でわたしを見る。悪意はない。むしろ善意だ。善意だから、笑って返すしかない。わたしは口角を上げて、小さく頷いた。ユリウスが満足そうに、次の言葉に移った。
挨拶が終わると、拍手が起きた。壇を降りたユリウスの周りに、すぐ人が集まる。人望のある人だ。
拍手を聞きながら、中庭を見渡した。楽しそうな顔ばかりだった。祭りというものを、この学院の生徒は当たり前に知っている。年に一度、火を焚いて、屋台を出して、笑って過ごす。何度も繰り返してきた夜だ。わたしには、初めてだった。
悪くない、と思う。屋根があって、火があって、人が笑っている。撃たれる心配のない火を見るのは、初めてかもしれなかった。
「リーネちゃん、こっちこっち!」
ミラが手を振っていた。屋台の前だ。串に刺さった肉を両手に持って、片方をこっちに突き出している。
受け取ると、まだ温かかった。甘い匂いのするたれがかかっている。
かじると、香ばしい肉と、たれの甘さが口に広がった。焦げた匂いは、甘いたれの奥に隠れて、遠かった。
「おいしい」
思わず言った。本当においしかった。ミラが「でしょ!」と胸を張る。
三口で食べ終わった。串だけが残った。
「リーネちゃん、食べるの速い!」
ミラが目を丸くする。
ルチアが横で笑って、「ゆっくり食べなって」と言った。自分の串を、まだ半分も食べていない。上品にかじって、味わっている。
わたしは串の先を見た。もう肉はない。
「……癖」
そう言うと、ミラが「また癖?」と笑った。
ゆっくり食べると取られる。取られるものなんて、ここには何もないのに。
三人で、屋台の間を歩いた。
どの屋台にも人が群がっている。焼き菓子、果物、飴。ミラは全部の前で足を止めて、あれもこれもと目移りしていた。ルチアは飴を一つ買って、半分をミラに分けていた。
わたしは、そのうしろをついて歩いた。二人が笑うと、わたしも笑った。今夜の笑いは、作ったものじゃなかった。面白くて、笑った。こういう夜もある。悪くない。
そのあいだも、目の端で人を数えていた。
楽しみながら、勝手に数えている。屋台の前に何人、篝火のそばに何人。背の高いのがどこにいて、誰が手ぶらか。ここに敵はいないのに、数は勝手に入ってくる。今夜は多い。祭りだから、当たり前に多い。多いと、なぜか、息が少しだけ浅くなる。
人混みの端に、ナタルがいた。
壁を背にして、篝火の光がぎりぎり届くところに立っている。祭りの真ん中には来ない。人の多い場所が苦手なのは知っている。開けたところに長くいると落ち着かないのも、前線からそのままだ。
目が合った。ナタルは何も言わなかった。小さく顎を引いただけだ。わたしも、顎を引く。それで通じる。同じ場所にいた者同士の、言葉のいらない合図だった。
ミラが「ナタルもおいでよー」と手を振ったけど、ナタルは首を横に振って、動かなかった。それでいい。あの子はあの子の距離で、ここにいる。
ルチアが、隣に戻ってきた。
青くて丸い飴を一つ、差し出してくる。「はい、リーネの分」。
口に入れると、酸っぱかった。少し経つと、甘くなる。
「酸っぱい」
「嫌い?」
「ううん。嫌いじゃない」
ルチアが笑った。わたしが「嫌いじゃない」と言ったものを、この子はいつも覚えている。今日の飴も、たぶんそうだ。
中庭の真ん中で、上級生が出し物をしていた。布をかぶせた籠から、鳩が飛び出す仕掛けだ。布がめくれた瞬間、羽音が一斉に鳴って、白いものが顔の高さを掠めた。
肩が、勝手にすくんだ。羽音だ。ただの鳥だ。すぐにわかった。周りは声を上げて喜んでいる。ミラが「わ、すごい!」と手を叩いた。
わたしも、少し遅れて手を叩いた。籠から鳩が出てくるののどこがすごいのか、正直よくわからなかった。でも、みんなが喜んでいるから、喜ぶのが正しいんだろう。ルチアがこっちを見ていた。わたしの肩がすくんだのを、見ていたかもしれない。何も言わず、少しだけ笑い返してくれた。
「もうすぐ花火だよ!」
ミラが空を指さした。
中庭の一角で、上級生が何人か、大きな筒みたいなものを地面に立てている。それを夜空に向けて据えて、火を扱う支度をしていた。あれから光が上がるらしい。
花火。ミラが言っていたやつだ。夜の空に光を打ち上げて、花みたいに咲かせる。王都から取り寄せた新しい見世物で、ここにいるほとんどの生徒が、見るのは初めてなんだという。
わたしも夜空を見上げた。星が出ている。あの高いところで、光が咲く。どんなものか、まだうまく思い浮かばない。
夜空に上がるもので、わたしが知っているのは、照明弾と、着弾の火柱くらいだ。どちらも、きれいなものではなかった。花、と言うなら、あれとは違うんだろう。ミラは光の話しかしなかった。だから、光を待っていた。
今日は、手が震えていない。
数日前から、時々、指先が細かく震えた。理由はわからなかった。グレン先生には「心の傷だ」と言われた。心が重傷だ、と。よくわからない話だった。心のどこかが怪我をしているなら、痛いはずだ。でも、痛くない。今も、どこも痛くない。
串を持っても震えなかった。飴を受け取っても震えなかった。ほら、大丈夫だ。祭りは楽しくて、ごはんはおいしくて、花火まで上がる。先生は心配しすぎだ。
そう思っていた。
「花、咲くかなあ」
ミラが空を見上げたまま言った。
わたしも空を見た。
待っていた。静かな光を。
風向きが変わって、篝火の煙が流れてきた。
木が焼ける匂い。
その匂いが、鼻の奥に届いた。焚き火だ。ただの焚き火だ。そう思おうとする。でも、届いたのは、焼けた陣地の匂いだった。夜襲のあと、砲撃のあと、火が回った村。あの匂いだ。焚き火だと、思えない。
足音が多い。
生徒たちが動き回っている。方向が定まらない。右から左、うしろから前。どこへ向かう足音なのか、読めない。読めない足音は、危ない。うしろから来る足音を、数える。数えきれない。多すぎる。
金属の音が混じる。
どこかの屋台で、食器がぶつかった。提灯の飾りの鈴が、風で鳴っている。ちりん、と高い音。笑い声の隙間に、その音が刺さってくる。食堂で匙が落ちたときと同じだ。高い金属音。剣戟の音に、似ている。
一つずつなら、なんてことはない。
匂いだけなら、ただの焚き火だと流せる。足音だけなら、祭りなんだからと思える。金属の音だけなら、食器だとわかる。
でも今は、全部が一度に来る。匂い。足音。高い音。火の熱。一つ払っても、次が来る。払う手が、追いつかない。
わかっているのに、張りつめていく。
「リーネちゃん、串、もう一本いる?」
ミラの声がした。
わたしは笑顔を作った。「ううん、大丈夫」。口角は、ちゃんと上がった。でも、さっきの焼き串のときとは、何かが違う。作った、という感じがする。さっきは、勝手に出たのに。
ミラは気づかず、また屋台の方を見た。
右手が、腰に伸びていた。
何もない。剣があった場所だ。ずっとそこに、あった。今は、ない。指が空をつかんで、また伸びる。何かを探して、見つからない。それでも手が、勝手にそこへ行く。前線でやっていたことを、手が覚えている。
まわりが、静かになっていく。
生徒たちが、上級生の筒の方を見上げ始めた。おしゃべりが小さくなる。もうすぐ始まる、という空気だ。祭りの真ん中で、笑い声が引いていく。
静かだ。
音が引いていくのが、落ち着かない。消えるのは、何かが近づいているときだ。
今も、静かになっていく。
来る。何かが、来る。
ルチアが、こっちを見ていた。
わたしの手を見ている。腰に伸びた手を。
何か言おうとしている。口が動きかけた。
「リーネ——」
花火が、上がった。
一発目が、夜空の高いところで、開いた。
光より先に、音が来た。
腹に響く、乾いた破裂音。
ドン、と。
閃光が、走った。
伏せろ。
頭を、下げろ。
低く。もっと低く。
まわりを、見る。
火だ。
篝火。屋台の火。提灯の火。
焼けている。
どこもかしこも、焼けている。
光が、上から降ってくる。
照らされたら、撃たれる。
影に、入れ。
動くな。いや、動け。一箇所に、留まるな。
退路を、確保しろ。
壁を背にできる場所。
木の陰。
屋台の裏。
出口は、東の門。あそこから抜けられる。
人が、たくさんいる。
どこへ動くのか、読めない。
読めない動きは、危ない。
囲まれている。
敵は。
この群れの中に、紛れている。
固まっていると、狙われる。
逃げ場が、ない。
敵は、どこだ。
出ろ。
ここから、出ろ。
「リーネ、ここは——」
誰かが、正面から来た。
痩せた、目の下にくまのある顔。何か言っている。低い声。聞き取れない。戦場の音に紛れて、言葉にならない。
知っている顔のはずだった。でも、今は、ただの動く影だ。近づいてくる影。手を伸ばしてくる。
わたしはその手をよけて、横に動いた。
影が、追ってくる。「リーネ」と、また声がする。
でも、届かない。音が、ほどけて、意味にならない。
うしろから、肩を叩かれた。
不意に。
背後から。
振り向く。もう、腕を取っている。手首を掴んで、引き込んで、地面に叩きつける。膝で押さえて、前腕を喉に。
相手の目が、大きく開いた。喉の奥で、詰まった音がした。若い顔だった。手には何も持っていない。武器はない。
でも、止まるな。一人、制圧した。次だ。
向き直る。
次の影が、すぐ近くにいた。こっちを見ている。手を伸ばして、掴んで、同じように倒す——
うしろから、抱きすくめられた。
大きな体だった。両腕ごと、うしろから抱え込まれる。腕が上がらない。踏み込もうとしても、足が前に出ない。目の前の影は、手が届きそうな近さにいる。近いのに、動けない。
「カルヴァス」
低い声が、うしろから降ってきた。
命令の声だ。上官の声。
届かない。
次。
一人倒したら、次だ。止まるな。手順を飛ばすと、死ぬ。進め。早く。
でも、進めない。前に、出られない。
目の前の影が、あとずさった。
若い。顔が固い。手には、何もない。武器がない。なのに、敵に見える。
その向こう、地面に、さっき倒したのが転がっている。喉を押さえて、咳き込んでいる。あれも、武器を持っていなかった。なのに、倒した。何かが、おかしい。でも、考えている暇はない。次が来る。
悲鳴が上がった。
女の子の声。それから、男の怒鳴り声。「離れろ!」「誰か来い!」。ばたばたと足音が散る。人が引いていく。屋台の湯気の向こうで、いくつもの影が後ずさる。散っていく。
花火が、また一発、上がった。
ドン、と。
顔、顔、顔。どれも、こっちを見ている。どれも、動かない。
篝火の反対側に、赤い髪。こっちを見て、動かない。
壇の高いところから、金髪が一人、降りてくる。顔が、白い。口が開いている。
すぐ横に、短く刈った黒い頭。こっちを向いている。
どれが敵だ。どれから来る。全部が的に見える。全部が、こっちを狙っている。何人だ。数えろ。数えきれない。多すぎる。
でも、動かない。
撃ってこない。伏せない。逃げない。突っ込んでこない。ただ、立って、こっちを見ている。
そんな敵は、いない。戦場に、そんな敵はいない。
なのに、囲まれている。動かない何かに、囲まれている。
わけが、わからない。
腕を、振りほどこうとする。
上がらない。抱え込む腕は、外れない。前に出たいのに、出られない。うしろの誰かが、離してくれない。
動けない。
それでも、探せ。まだ、どこかにいる。
火の匂い。頭の上で、光が開く。足音が散る。うしろで、声がする。体を、抱えられている。全部、ここにある。
なのに、敵がいない。
どこにもいない。
敵は、どこだ。