「カルヴァス!」
うしろから、声が来た。
「カルヴァス! カルヴァス!」
名前だ。呼ばれている。
呼ばれたら、返せ。応答しない兵は、いないものとして扱われる。
口を開いた。息が出ただけだった。
低くて、太い声だ。喉から出しているんじゃなくて、腹から出している。人を動かすための声。
その声を、わたしは知っている。
伏せろと言い、走れと言い、置いていけと言った声。号令も点呼もあの声だった。撤収。夜のうちに撤収。全部、あの声だった。
あの声がするなら、ここは戦場だ。
正面の影が、まだ動かずにいた。
「リーネ。ここは学院だ」
単語が、ばらばらに届いた。ここは。学院。
「戦場じゃない」
かすれている。低い。痩せた顔。目の下のくま。
その声も、知っている。よく知っている。
塹壕の隣で聞いた声だ。夜番を代わるときに、肩を蹴って起こした声。「三つだ」と言った声。二つだとわたしが数えた足音を、三つだと言い当てた声。あの数え方は、いつも正しかった。あの声のおかげで、わたしは今日まで生きている。
だからあの声も、あっちの音だ。
あの声がするなら、夜番の途中だ。まだ終わっていない。まだ、いる。
体が、外し方を探し始めた。
うしろから抱え込まれたときは、まず体重を落とす。膝を抜いて、相手の重心を下に引きずる。それでも外れないなら、掴んでいる手の親指を探す。親指は一本しかないから、そこを折れば腕はほどける。
教わったわけじゃない。何度もやられて、覚えた。
落とそうとした。膝が抜けない。腕ごと抱え込まれていて、手が相手の手に届かない。指が空を掻いた。
外れない。
こんなに外れない相手は、前線にいなかった。
足音が、走ってくる。
まっすぐこっちへ。速い。隠していない。
「近づくな!」
うしろの声が、怒鳴った。誰かを止めている。
足音は、止まらなかった。
目の前に、来た。
低くならない。
半身にもならない。
両手を、体の横に下げている。手のひらが、開いている。何も持っていない。隠してもいない。
そんな立ち方をする人間は、戦場にいない。一人もいない。
「リーネ」
音が先に来て、意味が少し遅れて追いついた。
名前だった。
カルヴァスじゃない。階級でもない。呼び出しでもない。
リーネ、と。
高い声だ。震えていて、息が上がっている。走ってきた息だった。
どこの部隊にも、いない声だ。
その声を、わたしは戦場で一度も聞いていない。
視界が、狭い。
目の前の顔だけが見えていて、その両側が白く飛んでいる。壁も屋台も、あることは知っているのに、見えていない。
狭いところに、その顔だけがあった。
火が、揺れた。
焼けている建物が篝火になって、また焼けている建物になる。上から降ってくる光が提灯になって、また上から降ってくる光になる。重なって、剥がれて、また重なる。
一度剥がれたら終わり、ではなかった。剥がれかけたところに煙が来て、また焼ける。何度も往復する。
匂いも、混ざった。焼けた木の匂いの下に、甘いたれの匂いが混じっている。あの匂いは、あっちにない。砂糖は前線に来なかった。
甘い匂いのする戦場は、ない。
「リーネ、わたしが見える?」
答えようとして、息が邪魔をした。
吸ってばかりだった。吐いていない。胸の上のほうだけが、浅く速く動いている。前線で、こうなっている奴を見た。息を上げて、それ以上吸えなくなって、そのまま固まる奴を。
一度、長く吐いた。
見える。
灰青色の目。
栗色の髪が、片方だけほどけて肩に落ちている。走ったからだ。
知っている顔だった。
「……ルチア?」
言えた。
言ったら、喉が痛かった。裂けるみたいに痛い。
叫んでいたんだと思う。何を叫んだかは、わからない。
音が、戻ってきた。
順番に、戻ってきた。
遠いほうが先だった。どこかで女の子が泣いている。男の人が誰かの名前を呼んでいる。それから近いのが来る。屋台の鉄板がまだ音を立てている。提灯の紙が、風で乾いた音を鳴らしている。
輪の外から、声の切れ端が届いた。「見た?」「今の」。それだけ聞こえて、あとは息の音に混ざった。
祭りの音だ。全部、祭りの音だった。
先生の声は、聞こえていた。
ナタルの声も、聞こえていた。
ずっと聞こえていたのに、あれはあっちの音だった。
ルチアの声だけが、あっちになかった。
あの声で命令されたことが、一度もない。あの声が誰かの死を伝えたこともない。あの声は、わたしの戦争のどこにも入っていない。
だから届いた。
視界が、横に広がった。
白く飛んでいたところに、屋台が戻って、木が戻って、人が戻る。
広がったぶん、目が勝手に仕事を始めた。屋台の裏。木立の切れ目。壁のこっち側。数えて、位置を置いて、順番をつける。
うしろの腕が、ゆるんだ。
抱え込んでいた力が抜けて、離れていく。背中のすぐ後ろに、人が立っている気配だけが残った。
支えがなくなって、膝が笑った。倒れはしなかった。倒れない立ち方は、体が知っている。
汗が、冷えていた。
背中と、脇の下と、額。走ったあとの汗だ。走った覚えはない。冷えた汗を風が持っていって、急に寒くなる。
心臓の音が、耳のうしろで鳴っていた。速い。まだ速い。
足の裏が、地面を踏んでいる。踏み固められた土だ。中庭の土だった。
「……あれ」
自分の声が出た。喉が、乾いている。
「わたし、何してた?」
最後に覚えているのは、ミラが空を指さしていたところだ。花、咲くかなあ、と言っていた。わたしも空を見た。星が出ていた。
そのあとが、ない。
思い出そうとすると、間が抜けている。眠って起きたときとは違う。眠ったなら、眠ったという感じが残る。これは、途中の紙を破って捨てたみたいな抜け方だ。
何分だったのかもわからない。
体を、点検した。
指を折って、開く。手首を回す。肩、脇、腹。血は出ていない。痛いところもない。制服の袖が片方だけ肘の上までまくれ上がっていた。まくった覚えがない。
それから、腰に手が行った。
何もない。当たり前だ。ここでは武器を持たない。入学のときに署名した紙の、上の方に書いてある。
剣がなくてよかった、と思った。
思ってから、背中が冷たくなった。剣があったら何をしていたか、頭は知らない。体が知っている。
まわりが、広かった。
人がいない。いや、いる。たくさんいる。でも遠い。
わたしが立っているところを中心に、ぐるりと、誰もいない輪ができていた。屋台の前まで、地面が空いている。輪の外側に顔が並んでいる。全部こっちを見ている。誰も動かない。
そういう距離の取り方を、わたしは知っている。危ないものを囲むときの距離だ。
地面に、人が倒れていた。
上級生の制服。仰向けで、両手で喉を押さえて、咳き込んでいる。息を吸うたびに、詰まった音がする。
首に、赤い痕がついていた。
細長い痕が、斜めに。
腕の形だ。わたしの、前腕の形だった。
自分の手を見た。
右手を開いて、閉じて、また開いた。何も握っていない。素手だ。
掌に、感触が残っている。人の喉の、骨のない場所を押したときの、あの沈み方。
手は、覚えている。
やった記憶が、ない。
足元の土を見た。
跡が残っている。
篝火の側から屋台の列まで、踏み荒らされた線が一本走っていた。爪先が深くて、踵が浅い。走った跡だ。線は壁ぎわを大きく回って、途中で二度、向きを変えている。屋台の手前で二つの足跡が並んで止まって、そこだけ深く沈んでいた。踏み込んだ跡だ。人を落とすときに、体重を乗せる足の形。
読める。
どこを通って、どこで踏み込んだか、地面に全部書いてある。
前線でも読んだ。朝になってから、夜のうちに何人来て、どこから入って、どこへ抜けたかを、土から読み取った。跡を読むのは得意だ。
今、わたしは自分の跡を読んでいる。
覚えていない自分の動きを、地面から教わっている。
跡の終わりに、もう一人、上級生が立っていた。
屋台の柱に背を預けて、動かない。襟が片方だけ立っていて、直していない。怪我はしていない。血も出ていない。
その子が、わたしを見ていた。目だけを、わたしから離さない。目を離したら来る、と思っている目だ。
その顔にも、覚えがない。
なのに手だけが、あそこへ伸ばしたことを覚えている。
一歩、前に出た。
言葉を出そうとした。ごめんね、びっくりしちゃって、怪我してない? その順番で言えば、いつも済んだ。口が形を覚えている。
「ご——」
一歩目で、人が入ってきた。
教員が二人、わたしと倒れている子の間に立った。片方が倒れた子の横に膝をついて、顎を上げさせ、首の痕を覗き込んだ。もう片方は、わたしの方を向いて両手を広げた。
広げた両手は、わたしに向いている。
来るな、という手だった。
「……ああ」
声が漏れた。
「また、やったんだ」
胃が、上がってきた。
喉の奥に甘い味がした。たれの味だ。焼き串の。
膝が地面についた。両手をついた。土の匂いがする。
吐いた。
一度では終わらなかった。腹が勝手に締まって、押し出して、また締まる。目の奥が熱くなって鼻に入り、咳が出てまた出る。
体が先に動いていた。わたしの言うことを、少しも聞かないで。
手が、震え始めた。
指先だ。細かくて、速い。地面についた手のひらの下で、土がざらざらと鳴った。
握ってみる。止まらない。開いてみる。止まらない。
数日前に震えたときは、しばらくすると止まった。寒いからだと思った。
今度は、止まらなかった。
隣に、ルチアがしゃがんでいた。
触れてこない。手を伸ばしかけて、途中で止めて、膝の上に戻した。それから、ただそこにいた。
しゃがんだ膝が、小さく揺れている。息も速い。走った息は、もう収まっているはずの時間だ。
怖いんだ。
怖いのに、いる。
「……ルチア」
「うん」
「ごめん」
「うん」
違うとも、謝るなとも言われなかった。うん、と言って、隣にいた。
それだけで、息が少し通った。
ルチアがハンカチを出した。
わたしに渡さないで、手の届くところの地面に置いた。置いて、手を引いた。
膝が土で汚れている。走ってきて、そのまましゃがんだからだ。裾にも土がついている。ルチアは気にしていない。
ハンカチを取って、口を拭いた。布が白かったから、汚したのがすぐわかった。
「洗って返す」
「いいよ、それ」
いいよ、と言われても、返す。
返すものがあるほうが、いい。
顔を上げると、輪の外にミラが立っていた。
両手に串を二本持ったままだ。一本はわたしの分だったんだと思う。もう一本いる、と聞かれて、いらないと答えたやつだ。
口が開いていて、目が大きく開いていて、動かない。
何か言おうとして、口が動いた。声は出なかった。串を持った手が下がって、それだけだった。
境目のところに、ナタルがいた。
輪の内側にも外側にも入らない、そのちょうど線のところで止まっている。片手が、もう片方の手のひらを握り込んでいた。爪を、押しつけている。あの子がそれをやるのは、我慢しているときだ。
目が合った。顎は引かなかった。何もしなかった。ただ、立っていた。
入ってこないのは、わかっているからだ。ああなっている人間に手を伸ばせば、伸ばした腕を取られる。前線で何度も見た。わたしも何度も、ナタルのを見た。近づいていいのは、収まってからだ。
ナタルはそれを知っている。知っているから、線のところで止まって、待っている。
知らないから走ってこられた人が、一人だけいた。
壇のそばで、ユリウスが動かずにいた。
降りてきた場所から、そのままだ。手に丸めた紙を持っている。挨拶で読んでいたやつだろう。口が半分開いたまま、閉じない。
あの人の言葉が出てこないところを、初めて見た。
篝火の向こうで、上級生が何人か、筒のそばに固まっていた。
花火は、上がらない。
二発で、止まったままだ。
筒だ。あの筒から上がって、空で割れる。
割れるとき、音がする。
それを、わたしは知らなかった。ミラは光の話しかしなかった。花みたいに咲く、きれいなやつだと言った。だから音のしないものだと思っていた。夜空で光って音がするものは、照明弾と着弾しか知らない。
わたしは光を待っていた。
音は、待っていなかった。
教員の一人が、少し離れたところで膝を折った。近づかないで、しゃがんだまま声をかけてくる。
「カルヴァス。聞こえますか」
「聞こえます」
「今日は、何の日ですか」
「創立祭です」
教員が息を吐いた。肩の位置が下がる。それでも立ち上がって、距離は詰めなかった。
戻ったかどうかを確かめる聞き方だ。前線でもやった。石になった奴が戻ったかどうかは、名前と、日と、場所を言わせればわかる。言えたら使える。言えなければ後ろへ下げる。
わたしは今、確かめられる側にいる。
「立てるか」
うしろから声が落ちてきた。
グレン先生だった。さっきまでわたしを抱えていた人だ。声は、いつもの声に戻っていた。低くて、短い。
「立てます」
立とうとした。膝に力が入らない。手が震えていて、地面を押せない。
腕を掴まれて、引き上げられた。掴み方が上手い。肘の上を握って、体ごと持ち上げる。負傷者を起こすときの持ち方だ。この人の手も、覚えている。
グレン先生が、倒れている子の横の教員に短く言った。
「医務室へ運べ。首と喉を診せろ。息が詰まっているなら先だ」
それから、屋台の柱のところで立っている上級生の前まで歩いていった。少し膝を折って、目の高さを合わせる。
「怪我はないか」
上級生が首を横に振った。振り方が、細かい。
「息を吐け。長く吐け。それから寮まで送ってもらえ」
上級生の肩が一度大きく下がった。教員の一人が横について、屋台の間から連れていった。
息を吐け、長く吐け。
その言い方を、わたしも知っている。
石になった奴に言う言葉だ。恐怖で固まって動けなくなった人間に、まず息を吐かせる。それで戻ることがある。戻れば死なずに済む。
前線で、何人にもやった。
グレン先生が、輪の外の生徒たちに向き直った。
「解散だ。中庭を空けて、寮に戻れ」
怒鳴らなかった。ただ通る声だった。
人が動き始めた。輪がほどけて、流れていく。何人かが、歩きながらこっちを振り返った。
「あの人、大丈夫ですか」
自分の声が、思ったより小さく出た。
「喉は腫れる。骨は折れていない。医務室で診る」
「……もう一人の人は」
「怪我はない。寮に帰した」
そうですかとも、よかったとも言えなかった。よかった、はこっちが言う言葉じゃない。
「報告を上げる。今夜のことは、全部書く」
「はい」
「明日、話を聞く。今夜は部屋を出るな」
「はい」
報告のことは知っている。入学のときに署名した紙に書いてあった。属国出身者に問題が発生した場合、担当教官が速やかに報告する。文面はそらで言える。何度も読み返したから。
あの一行が、今夜のわたしのことになった。
腕を取られて、歩き出した。
篝火の明かりが、うしろへ下がっていく。背中から熱が離れて、空気が急に冷たくなった。制服の襟の中に、風が入ってくる。
反対の方向に、板に乗せられた背中が運ばれていった。四人がかりだ。上下に揺れながら、医務室のある棟の方へ動いていく。
板の端を持っているのは、マーレンだった。
歩調を合わせて、揺らさないように運んでいる。わたしが倒した人を、マーレンが運んでいる。
振り返っても、こっちは見なかった。
板の上の人の名前を、わたしは知らない。
学年も、組も知らない。今夜あの人がわたしに何をしようとしていたのかも、わからない。
わからないまま、喉を締めた。前腕の痕が残るまで押した。
知らない人だから軽い、ということはない。あの人の中には、これから、名前ではなく今夜のことが残る。それをこっちから直す方法は、たぶんない。
前も、やった。
寮の部屋で、上級生を壁に押しつけて、喉に腕を当てた。あのときも首に痕が残った。
でもあの人は、寮監に肩を支えられて、それでも自分の足で歩いて帰った。咳をしながら、廊下を歩いていった。
今夜のは、歩いていない。板に乗せて、四人で運んでいる。
同じことをして、結果が違う。次に同じことが起きたら、どっちになるのかは、わたしが決められない。
今夜、止まったのも、わたしがやめたからじゃない。
うしろから抱え込まれて、腕が上がらなくなって、前に出られなくなって、それで止まった。外から押さえられただけだ。
押さえられているあいだ、わたしは外し方を探していた。さっきの手順は、まだ途中だった。ほどけていたら、止まっていない。
その先のことは考えたくない。
生徒たちが、道を空けた。
誰も何も言わなかった。言わないで、下がって、隙間を作る。息を止めるみたいな黙り方だった。
その隙間を、わたしは歩いた。
抜けたところで、うしろから声が飛んだ。
「だから言ったんだ」
若い男の声だった。誰のかはわからない。振り返らなかった。振り返っても、その人の顔を覚えていないだろうし、覚えたところで何にもならない。
言ってることは、間違っていない。
ルチアが横についてきた。ナタルが少しうしろを歩いている。足音がしない。あの子は暗いところでは足音を消す。
歩いているあいだ、わたしはまた人を数えていた。
右に三人、木の下に二人、渡り廊下の柱の陰に一人。手ぶらか、何か持っているか。どこへ動くか。
やめようとしても、勝手に入ってくる。さっき祭りの真ん中で数えていたのと、同じ数え方だ。あれが止まっていないことに、歩きながら気がついた。
花火は止まった。祭りも止めさせた。倒した人は運ばれていった。
止まらないのは、わたしの中だけだ。
数日前、執務室で、心の傷だと言われた。お前は重傷だと言われた。
わたしは大丈夫だと答えた。元気だと答えた。串を持っても震えなかったし、飴を受け取っても震えなかった。だから大丈夫だと思った。心配しすぎだと思った。
重傷、というのは、こういうことだったのか。
痛くない。今も、どこも痛くない。痛くないまま、人の喉を締めて、覚えていない。
痛くないほうが、たぶん悪い。
渡り廊下に入るとき、一度だけ中庭を振り返った。
提灯は、まだ木に吊るされていた。赤と黄の紙が風で回っている。屋台の火も落とされていない。鉄板の上で串が焦げて、甘いたれの匂いがしていた。誰も片付けていない。
今夜のうちに火は消される。明日の朝には、提灯も全部下ろされる。
女子寮の入口に、当直の寮監が立っていた。ランプを提げて、こっちが来るのを待っている。
教員の一人が、寮監に短く何か伝えた。声は低くて、こっちには届かない。届かなくても、内容はわかる。あの上級生の名前と、わたしの名前と、中庭で起きたこと。
寮監はわたしを見た。怒鳴らなかった。
「部屋まで行きなさい」
それだけ言って、ランプを持ち替えて道を空けた。
階段の下に、ミラがいた。
先に走って戻っていたらしい。息が上がっている。串は、もう持っていない。どこかで捨てたのか、誰かに渡したのか。手が空になっているのを見て、あの二本のことを思い出した。
「リーネちゃん」
名前だけだった。そのあとが続かない。口が開いて、閉じて、また開く。
わたしも何も出てこなかった。ごめんね、が喉のところで止まっている。今夜のごめんねは、口が形を覚えている方のごめんねだ。それを出したら、また同じ顔を貼りつけてしまう。
ミラは、下がらなかった。壁に寄って道を空けただけで、逃げなかった。それだけは、はっきりわかった。
廊下の灯りが、等間隔に点いている。石の壁が昼の熱を持っていて、外よりは温かい。
水場のところで、ナタルが止まった。
蛇口を回して、備えの器に水を受けて、わたしの方へ突き出した。
「飲め」
器を受け取ったら、揺れて、水が縁から跳ねた。手が震えているからだ。両手で持ち直して、口をつけた。冷たい。喉の奥に残っていた甘いたれの味が、少しだけ薄くなった。
前線でも、こうした。誰かが吐いたあと、まず水を飲ませる。喉が焼けるからだ。ナタルはそれをやっている。器の突き出し方も、言葉の短さも、あのときと同じだ。
半分飲んで、返した。ナタルは器を水場の縁に戻して、自分の部屋の方へ歩いていった。振り返らなかった。振り返らないのも、たぶんわざとだ。
部屋のドアの前で、ルチアが先に手を伸ばした。
押すと、中は暗い。窓から夜の色が入っているだけだ。ルチアの机には本が開いたまま置いてある。わたしのベッドの毛布は、朝に出ていったときのまま少し崩れている。
出ていったときは、祭りだった。
ルチアはドアを押さえたまま、待っていた。押し込まないで、手も引かないで、そこに立って待っている。
入れば、この手の震えを二人の部屋の中まで持っていくことになる。
それでも、他に行くところがない。
明日、話を聞く、と言われた。
何があったか話せ、と聞かれる。報告は得意だ。前線でも、戻ったら報告した。何時にどこで、何人と接触して、どうしたか。事実を並べればいい。
今夜のは、並べられない。
わたしが何をしたかを、わたしは、いちばん知らない。