部屋に入った。
ルチアがうしろでドアを閉めて、鍵を下ろした。金具が枠に落ちる音がした。小さい音だ。
灯りが点いた。ルチアが机の上のを一つだけ点けたらしい。壁の下のほうと床が明るくなって、天井のあたりが暗いままになった。
窓の外で、まだ音がしている。
祭りの片付けだ。屋台の板を重ねる音がする。鉄板を引きずる音。桶の水を篝火にかける音。誰かが「そっち持って」と言っている。
声は明るくない。淡々としている。仕事だからやっている音だ。
わたしが止めた祭りを、今、あの人たちが片付けている。
ルチアが上着をハンガーにかけた。掛けてから、しばらく手を離さなかった。
何か言おうとしているのがわかった。わたしも何か言おうとした。
おやすみ、と言えばいいはずだった。
夜に部屋にいて、灯りを消す前に言う言葉だ。ここに来てから覚えた。前線で寝る前に言うのは、次の番の時間と、起こす順番だけだった。おやすみ、はここの言葉だ。
口を開けた。
息が出た。それだけだった。
もう一度開けた。喉のところで、何かが止まっている。声が通る場所が塞がっている感じだ。
おやすみ、の「お」が出ない。
膝が抜けた。
床に手をついた。ベッドに行くつもりだったのに、ベッドまでの三歩が遠かった。三歩が計算できない。前線では、遮蔽物までの距離は見ただけで出た。伏せる場所までの歩数は間違えたことがない。
床は石だ。冷たい。掌の下がざらついている。
手が震えていた。
中庭から止まっていない。歩いているあいだも、水を飲むときも、階段でも、ずっと震えていた。器の水が縁から跳ねた。両手で持ち直した。あのときは持ち直せた。
今は、持ち直すものがない。
指を握った。震えたまま握っている。握力は入る。入るのに震えている。
これは寒いからじゃない。数日前、執務室で震えたときは寒いからだと思った。初夏だった。寒くなかった。
制服を脱ごうとした。
襟のボタンに指をかけて、外せなかった。指が滑る。ボタンの穴に押し込むだけの動きなのに、その一つができない。
制服の胸のところに、篝火の匂いが染みている。煙の匂いだ。木が燃えた匂い。
脱げば、離れる。離れると思った。
離れないことは、知っていた。
煙だ。
木が焼けている匂いの中に、油の匂いが混じっている。屋台のたれの匂いじゃない。もっと重い。人の脂が焼けるとき、あの匂いがする。
篝火が高い。木を組んで積んだやつだ。組み方が知っているやつと違う。
違わない。同じだ。壊した家の梁を集めて燃やすとき、あの積み方をする。夜に暖を取るためじゃない。燃やして片付けるためだ。
伏せた。
土だ。焼け跡の土は熱い。地面の下に火が残っているから、伏せると腹が熱い。
穴の中に、あの子がいる。
朝だ。夜のあいだに冷えたから、体から湯気が出ていない。学校で隣の席だった。丸い顔で、笑うと歯が一本欠けていた。穴の縁に指をかけた形で、指だけがまだ縁にかかっている。
声をかけた。かけなくてもわかっていた。かけたのは、わからないふりをするためだ。
夜だ。廊下の石を踏む音がしている。
房の中は暗い。壁に背をつけて、膝を抱えて、数えている。
数えるのは、来る前に数えるからだ。来てからでは間に合わない。
半年、毎晩それをやった。
匂いだ。
肉が焦げる匂い。
建物の中を走っている。煙で前が見えない。
崩れた柱が背中に乗った。前に出ようとしても、体が出ない。首のところが熱い。熱いという感じ方じゃない。熱い場所が、なくなる感じだ。
腕を掴まれて、引きずり出された。副隊長だった。あの人は翌月に死んだ。
うしろで、誰かが叫んでいる。名前を呼んでいる。誰の名前かはわからない。わたしの名前じゃない。
走った。
助けなかった。走った。走って、外に出て、生きている。
叫び声が続いている。
まだ叫んでいる。止まらない。
止まらない。
壁を殴った。
音が出た。手の骨が壁に当たる音だ。
もう一度殴った。皮が破れた。滑る感じがして、それで破れたとわかった。
痛みは遅れて来る。前線でもそうだった。切れてから、少し経ってから、痛くなる。
息が入らない。
吸っている。吸っているのに、胸の上のほうで止まる。肺の下まで届かない。
中庭でもこうなった。あのとき一度、長く吐いた。それで通った。
吐こうとした。
吐けない。吸うほうが勝手に来る。速い。指の先が冷たくなって、痺れてきた。
「なんで」
声が出た。かすれている。
「なんで止まらない」
床に爪を立てた。石だ。爪が立たない。
笑おうとした。
いつもここでやる。これをやると、体が下りる。口角を上げ目を細めて、息を短く吐く。それをやると、周りの空気が変わって、変わった空気を吸っているうちに、こっちも変わる。前線で覚えた。二年間、一度も失敗したことがない。上官の前でも、初めて人を殺した日も、収容所の審問でも、失敗しなかった。
口角を上げた。
上がらない。
頬の筋肉に力を入れた。動く。動くのに、形にならない。口が横に引っ張られ、そのまま引きつって震えて、戻った。
もう一度やった。同じだ。
「あれ」
声が出た。
戻ってこない。
ドアが開いた音がした。
ルチアが出ていった。走る足音が廊下に出て、すぐ止まって、ドアを叩く音になった。
壁一枚の向こうだ。隣の部屋だ。
「ナタル。ナタル、起きて」
ルチアの声だった。高い。息が上がっている。走ってきたときと同じ息だ。
「リーネが……壁を殴って、血が出てて。わたし、どうすればいいかわからない」
呼びに来てもらうために叩いたんじゃない。
中庭で届いたのは、ルチアの声だけだった。ルチアはそれを、わたしより近くで見ている。代わってもらえないことくらい、わかっている。
わかっていて、やり方を知らない。だから壁の向こうを叩いた。あの部屋に、これを何度も見た人間が寝ているからだ。
先生を呼ぶ手もあった。呼べば人が来る。人が来れば、また報告になる。今夜は部屋を出るなと言われている。ルチアはそっちへは行かなかった。
戻ってくる足音は、二つになった。
片方は、聞こえない。
戸口に、影が立った。
中に入らない。敷居のところで止まって、それ以上こっちに来ない。
顔を上げた。ナタルだった。
一度、わたしを見た。上から下まで見て、床の上の手を見て、壁の跡を見た。それで終わった。
目の動きが速い。診ている目だ。前線で、崩れた奴を見つけたときにやる見方だ。まず手を見て、それから壁と地面を見る。それでどのくらいかがわかる。
ナタルはわかったはずだ。
わかっていて、入ってこなかった。
「わたしが入っても、届かない」
ナタルの声だった。低い。いつもより低い。
「お前の声じゃないと、だめなんだ」
「うん」
ルチアが答えた。知ってる、という返し方だった。
「わたし、何をすれば」
「名前を呼べ。お前の声で」
一拍あった。
「戦場にいなかった、お前の声で。それだけでいい」
聞こえていた。
全部、意味もついて聞こえていた。
中庭では、先生の声も、ナタルの声も、あっちの音になっていた。名前を呼ばれていることはわかっていた。呼ばれているのに、あれは戦場の音だった。ルチアの声だけが、あっちになかった。
自分の声が届かないことを、ナタルは自分で言っている。
ナタルはあの中に何度も入った。わたしが崩れた奴の肩を掴み、頬を張って名前を呼んだ回数と同じくらい、ナタルもやった。二人でやった。手順は同じだ。息を吐かせて、名前を呼ぶ。
今、その手順を持っている人間が二人いて、二人とも使えない。
ナタルが敷居から下がった。
下がって、壁のほうへ動いた。廊下の壁に背中が当たる音がして、それから床に座る音がした。
そこにいる。入らないで、そこにいる。
もう一つ、廊下を走ってくる足音がした。速い。隠していない。
ミラだ。
何か言おうとした声が、途中で切れた。それから、ナタルの隣に座る音がした。布が石を擦る音。
二人が、廊下に座っている。
ミラの声が、小さく聞こえた。
「……ナタル、これ」
「あとでいい」
そこで、二人とも喋らなくなった。
わたしが叫んでいるのを、あの二人はそこで聞くことになる。
そう思ったのに、止められなかった。
ルチアが入ってきた。
ドアを閉めて、鍵は下ろさないで、こっちに来た。
歩き方が遅い。一歩ずつ、床を確かめて置いている。
床に座った。
わたしの隣だ。触れない距離。腕を伸ばしても届かない、ぎりぎり届かないところ。膝を折って、両手を膝の上に置いて、そこで止まった。
手を伸ばさなかった。
一度も伸ばしかけなかった。中庭では伸ばしかけて止めた。今度は最初から伸ばしていない。
覚えたんだ、と思った。
わたしが覚えさせた。
「ルチア」
声が出た。
「うん」
それだけ返ってきた。
息が、少し通った。
通ったところから、出てきた。
「わたし、坂が好きだったんだよ」
自分の声が、小さかった。
「学校の帰りに坂があってね。上まで登ると、向こう側が見えるの。夕焼けが見えるの。それが好きだった」
ルチアは何も言わなかった。
「母さんの菓子パンも好きだった。りんごを刻んで入れるやつ。オーブンなんてなかったから、鉄板の上に置いて、蓋をして焼くの。甘い匂いがして、粉が少し焦げて」
「隣の谷に、月に一度、市が立つ日があったの。母さんと歩いて行った。甘いものは蜂蜜だった。砂糖なんてなかったから」
「好きだったの」
喉が鳴った。
「ちゃんと、好きだったの」
そこで詰まった。
「……でも、味が思い出せない」
言ってから、もう一度言った。
「思い出せないの。匂いは覚えてる。焦げた粉の匂いも覚えてる。台所が狭くて、匂いが天井に溜まるのも覚えてる。なのに、どんな味だったか思い出せないの」
「夕焼けも、あったことは覚えてるの。坂の上に立ってたことも覚えてる。なのに、思い出しても何も来ないの。そういうことがあった、って知ってるだけなの」
「母さんの服の色も思い出せない。台所の背中は見えるの。ずっと見てたから。なのに色がないの」
膝の上で、手が震えている。
「あの市の村、もうないんだって。ナタルが言ってた。焼けて、誰もいないって。名前も知ってるし、道も知ってるのに、もうないんだって」
ルチアは何も言わない。触れない。
隣にいる。
「学校で、年下の子に字の書き方を教えたことがあるの」
「わたしも下手だったけど、その子はもっと下手で、二人で教科書を覗き込んで、同じ字を何度も書いた。顔も名前も覚えてる。今どこにいるかは知らない」
「あのころは、教えられるくらいには書けたんだよ」
手を見た。壁を殴った手だ。血が指の付け根まで垂れている。
「今、報告書の字しか書けない。ルチアの手紙の返事も、あれしか書けなかった。何日も考えて、一行だけ書いて、それも報告書だった」
「同じ部隊に入った子が三人いたの。同じ村の、同じ学校の子」
「一人は背が高くて、わたしより先に剣をもらった。一人は鼻を垂らしてて、泣き虫で、走るのだけ速かった。一人は笑うと歯が一本欠けてた」
「顔は覚えてる。三人とも覚えてる」
息を吸った。
「……あの子たちと、何を喋ってたか、思い出せない」
声が、上がった。
「覚えてなくていいことばっかり覚えてるの!」
自分の声に驚いた。驚いても、止まらない。
「地図の升目の座標、一回見たら入るの! 授業でも入るの! 年号は入らないのに、座標だけ入るの!」
「足音の数え方も覚えてる! 夜に、いくつ来たか数えられるの!」
「人の防具のない場所も全部覚えてる! 手首と、脇と、首! 考えなくても手が行くの!」
「そんなの、ここで誰が使うの!」
床を叩いた。手が痛かった。痛いのは、はっきりわかった。
「坂の上に立つと、向こう側が見えるの」
同じことを二回言っている。わかっているのに、口がそこに戻る。
「見えるのに、何も」
「覚えていたかったことだけ、なくなってるの!」
息が足りない。吸って、また出した。
「戦場では、できたの」
声が、少し落ちた。
「人を殺せた。走れた。判断できた。仲間が死んでも、次の遮蔽物を探せた」
「止血できた。骨が出てても手が動いた。誰を先に運ぶかも決められた。運ばないやつも決められた」
「笑うのもできたの。怒鳴られないために。上官の前で、ちゃんと笑えたの。一回も失敗しなかったの」
「できたの」
喉が鳴った。
「ちゃんと、できたの」
膝が震えている。手も震えている。震えているのに、声だけが出る。
「隣を走ってた子の背中が撃たれたとき、わたし、泣かなかった」
声が、平らになった。
自分でわかった。さっきまで叫んでいたのに、途中で報告の声に落ちた。何時にどこで何があったかを言うときの声だ。
「服に肉片がついてた。払って、次の遮蔽物を探した。手も震えなかった。あのとき、何も思わなかった」
「隊長が死んだときも泣かなかった。あの人はわたしを庇って死んだのに。泣かないで、次の命令を待ってた。それが普通だった」
「収容所でも泣かなかった。半年いて、一回も」
言い終わってから、自分の声を聞いた。
落ち着いている。事実の順番も合っている。この声で言えば、誰にも心配されない。この声を出すために、二年かけた。
出したかったわけじゃない。勝手に出た。
そこで、声が戻った。喉が裂ける音がした。
「できたんだよ! 全部できたんだよ!」
「なんで、できたの!」
叫んだら、目の前が白くなった。
「それ、わたしなんだよ! 泣かなかったのは、わたしなんだよ! 誰かにやらされたんじゃないの! わたしが泣かなかったの!」
「先生が言ったの。心の傷だって。重傷だって」
「痛くないんだよ。どこも痛くないの。今も痛くないの」
自分の胸を叩いた。手が当たって、鈍い音がした。
「ここ、痛くないの! 痛くないのに、なんで手が震えるの!」
震える手を、ルチアに向けて開いた。見せるつもりじゃなかった。開いただけだった。
「菓子パンが好きだった子と、砂糖漬けで嬉しくなる子と、人の喉に腕を当てる子が、全部わたしなの?」
「どれが本当なの?」
「祭り、楽しみにしてたんだよ」
声が、急に小さくなった。
「ミラが花みたいに咲くって言うから。どんなのか、ずっと考えてた。光がきれいなやつだと思ってた。音がするって知らなかったの。夜の空に上がるもので知ってたのは、照明弾と、着弾だけだったから」
「楽しみにしてたのに、人を地面に叩きつけたの」
「あの人、何もしてないんだよ。肩を叩かれただけ。手には何も持ってなかった。何か言おうとしてただけだと思う。それだけで、わたし、あの人を——」
言葉が、途切れた。
殴った手を、もう片方の手で握っていた。傷のところを握っている。握ると痛い。痛いのに、力が抜けない。
「買い物の仕方がわからない! 好きな食べ物を聞かれて答えられない! 手を繋がれただけで体が固まる!」
「戦場のやり方だけが残ってるの! それだけは体が全部覚えてるの! 一回で入って、消えないの!」
「それ以外のわたしが、どこにも残ってない!」
息が続かなくなった。それでも出した。
「みんなの目、変わったでしょ」
「あれ、正しいんだよ」
「わたしが怖いのは、正しいんだよ。わたしが今夜やったこと見て、怖くならないほうがおかしいの。あの人たちは、正しいことしてるの」
ルチアの膝が、すぐ横にある。
制服の裾に土がついている。中庭でしゃがんだときのだ。
「ルチアの手、あったかいのに」
声が、崩れた。
「わたし、どこからがわたしなの」
「十三のときに、一回、終わってるんじゃないの」
そこから、言葉が形にならなくなった。
「止まらない! 止め方がわからない! いつもは笑って蓋するのに、蓋が——もう——」
声が裏返った。
出てきたのは、声じゃなかった。喉の奥から短いのが続けて出て、そのあいだに息が入って、また出る。それが自分から出ているのに、自分がやっている感じがしない。
「笑えない」
「笑い方が、わかんない」
「わかんない……」
そこで、言葉が終わった。
床に座っている。
音は出ている。口から出ている。言葉ではないものが出ている。
鼻が詰まって、口で息をしている。垂れているのを拭かなかった。拭くと手が汚れる、と思って、それがどうしてこの状況で気になるのかわからなくて、拭かなかった。
顎から落ちた。膝に落ちた。制服に落ちた。
格好悪い。
前線でこんな顔をしていたら、後ろへ下げられる。使えないと判断される。判断する側だったから、わかる。
腕が回ってきた。
背中に回って、肩のうしろで止まった。
囲われている。腕の輪の中にいる。前が塞がっている。逃げ道がない。
前と同じ形だ。あの夜、答案を見せて、抱きつかれて、それで壊れた形。
肩が上がった。息が止まった。
あの夜は、ここから落ちた。ここから先が、なくなった。
今夜は、そこで止まった。
息が止まったまま、落ちる先が来ない。待っているのに、来ない。
なんで来ないのかはわからない。もう全部出したからかもしれない。中に残っていないからかもしれない。
ルチアは何も言わなかった。
背中に回した腕に、力が入っていない。押さえていない。ただ、置いている。
震えていた。
わたしが震えているのは知っていた。ルチアも震えていた。腕から伝わってくる。肩のあたりが、細かく上下している。
怖いんだ。
怖いのに、腕を回している。
肩の向こうに、ルチアの袖が見えた。
白いところに、赤いのがついている。細く伸びて、二本。わたしの手が触れたところだ。
血だと、少し経ってからわかった。
洗えば落ちる。冷たい水で、すぐに洗えば落ちる。血の落とし方は覚えている。前線で覚えた。何度も洗った。
言おうとした。声にならなかった。
ルチアは気づいていないんだと思う。だから、腕を動かさない。
この人は戦場を知らない。
坂も知らない。菓子パンも食べたことがない。市も、穴の中の朝も、あの匂いも知らない。わたしが今言ったことの意味を、たぶん半分もわかっていない。わかるはずがない。
わからないのに、ここにいる。
長い時間だった。
どのくらいかはわからない。窓の外の音が、途中でなくなった。板を重ねる音も、水をかける音も、声もなくなった。片付けが終わったんだと思う。
外がなくなると、この階が静かだとわかった。
隣の部屋の物音は、壁を通して聞こえる。ミラの寝返りの音も、朝に起きてドアを開ける音も、ここまで届く。
届くなら、逆も届く。
わたしがさっき出していた声は、この廊下の端まで行ったはずだ。ドアの外に二人が座っていて、その向こうにも部屋がある。今夜あの部屋のどれかで誰かが目を開けて、天井を見て、それから寝たと思う。
明日、そのことを言われるかどうかはわからない。言われても、言い返すことがない。
石の床が、膝の下で冷たいままだった。
窓を見ていない、と気がついた。
毎晩、寝る前に見る。留め金と、下の地面と、木立の位置。落ちたときにどこへ着くかを計算して、それで寝る。入学した日から一度も抜かしたことがない。
今夜は、まだ見ていない。
見る気にならないのではない。見るという手順が、頭に浮かんでいなかった。
声が、止まった。
喉の奥から出ていたのも止まって、息だけになった。息は、まだ短い。吸って吐くまでが速い。
それも少しずつ長くなった。
震えは残った。
指先が細かく動いている。止め方はわからない。止まる気配もない。
ルチアが、ひとことだけ言った。
「ここにいるよ」