目が覚めたと気づくまでに、少しかかった。
天井が見えている。見えているのに、見ている感じがしない。
まぶたが重い。上と下が乾いてくっついていて、指でこすったら片方だけ開いた。もう片方は、二度こすってやっと開いた。
体が重い。
仰向けで、腕が体の横に落ちている。寝返りを打った形跡がない。眠ったというより、倒れたまま朝になった、という寝方だ。
制服を着たままだった。
ボタンは全部留まっている。昨夜、襟のを一つ外そうとして、外せなかった。指が滑って、穴から抜く動きの一つができなかった。それきり触っていない。
襟が首の横で折れて、そこだけ布が硬くなっている。
右手が痛い。
目の前に持ち上げた。
指の付け根の皮がむけて、赤黒いのが乾いてこびりついている。関節が腫れて、指を曲げると引きつった。曲げてみた。曲がる。骨は折れていないし、握れる。
前線なら、これで使える手だ。使える手を持っている奴は、朝になったら持ち場に戻る。
そう考えてから、ここには持ち場がないことを思い出した。
椅子に、ルチアがいた。
窓際の椅子を壁の方へ向けて、背もたれに寄りかかって眠っている。首が横に倒れて、栗色の髪が肩から落ちている。膝に毛布がかかっていて、片方の端が床に垂れていた。
袖に、赤いのがついている。
細く、二本。昨夜見たときは、まだ濡れていた。今は乾いて、茶色くなりかけている。
冷たい水で、すぐなら落ちた。一晩置くと繊維の奥まで入って、もう落ちない。落ちなくなった布は、下に着るものに回す。上には着ない。前線ではそうしていた。
ルチアの手を見た。膝の上に、両方とも出ている。指にも掌にも、切れたところはない。
全部わたしのだ。
一晩、そこにいたんだ。
ベッドの端に座って、足を床に下ろした。石が冷たい。
靴を履いていない。自分で脱いだのか、脱がされたのか、覚えていない。
覚えていないことが、たくさんある。
昨夜のことは、順番では出てこない。声を出したのは覚えている。何を言ったかは、半分くらいしか残っていない。壁を殴ったのは、手が証拠だった。
部屋の匂いが、いつもと違った。
汗と、涙が乾いたあとの匂いと、鉄の匂いが混ざっている。鉄は血だ。自分から出たものの匂いを、自分の部屋で嗅いでいる。
窓を開けたほうがいい、と思った。思ったのに、立たなかった。開けたら、外の空気が入ってくる。外の空気が入ってきたら、今日が始まる。
窓を見た。
留め金は下りている。カーテンが半分開いていて、外はもう明るい。
昨夜、確認しなかった。入学した日から一度も抜かしたことがなかったのに、昨夜だけ抜けた。
今は、見ている。留め金を確かめて、下の地面を確かめて、木立の位置を数える。落ちたらどこへ着くかまで出た。
手順が戻ってきている。それに、少し安心した。
隣の部屋で、物音がした。壁を通して、寝返りの音と、床に足を下ろす音が届く。ミラが起きた。夜のうちに部屋へ戻って寝たらしい。
この寮は、朝が来れば朝の音がする。昨夜何があっても、順番は変わらない。
廊下に出た。
灯りはもう消えていて、窓から入る光だけになっている。誰もいない。石の壁がまだ夜の冷たさを持っている。
足音を立てないで歩いた。癖だ。今朝は、立てる練習をする気にならなかった。
洗面所の鏡の前に立った。
顔が腫れている。
まぶたが厚い。目が赤い。頬に乾いた筋が二本ついていて、片方は顎の下まで届いている。髪が片側だけ潰れている。
水を出して、顔をつけた。冷たい。右手の傷にしみて、指が勝手に開いた。
拭くものがなくて、袖で拭いた。制服の袖で顔を拭くのは行儀が悪い、とルチアなら言う。言われても、今は他にない。
もう一度、鏡を見た。
笑顔を作ってみた。
口の端を上げる。頬の下を少しだけ引く。それだけで顔が変わる。何百回もやった動きだ。考えなくても出る。出ないことがない。
上がらなかった。
もう一度やった。口が横に伸びて、途中で止まった。歯が少し見えて、目が動かない。
鏡の中にあるのは、笑っている顔ではなかった。何かの途中で固まった顔だ。
顔が動かないわけじゃない。
眉を上げてみた。上がる。口を大きく開けてみた。開く。目を細めるのも、頬を膨らませるのもできた。全部できる。
あの形にだけ、ならない。
やり方が違うのかもしれない。
あの笑顔には、いつも相手がいた。怒鳴りそうな上官がいて、その前で出した。怯えている新兵がいて、安心させるために出した。相手と目的があって、それに向けて出す。そういう出し方しか、してこなかった。
だから決めてみた。ルチアに向けて出す。部屋に戻ったときに、いちばん最初に見せる顔だ。あの子は昨夜ずっと椅子にいた。安心する顔を見せるのが、こっちの仕事だ。
決めてから、やった。
出なかった。
目的があっても出ない。相手を決めても出ない。
三回目は、やらなかった。
「あれ。わたし、どうやって笑ってたっけ」
声が出た。かすれている。喉が痛い。昨夜、あれだけ出したからだ。
順番を思い出そうとした。口の端、目、息。分解して、一つずつやってみようとした。
分解したら、余計にわからなくなった。歩き方を考えながら歩くと歩けなくなる。あれと同じだ。
これは、蓋だ。
グレン先生に心の傷だと言われたとき、わたしは笑顔を出した。出したまま、大丈夫ですと言った。廊下を歩きながら、心はどこにあるんだろうと考えた。あのときも、この顔を貼りつけていた。
昨夜、外れた。
外れたものは朝には戻っているものだと思っていた。前は戻った。何度も戻った。次の日には、いつも通りの顔で食堂に行けた。
戻っていない。
鏡から離れた。
離れるとき、もう一度だけ見た。見ても、同じだった。
部屋に戻ると、ルチアが起きていた。
椅子に座ったまま、こっちを見ている。髪が片側だけ跳ねている。目が腫れている。わたしと似た顔をしていた。
「おはよう」
声が枯れていた。
「……おはよう」
それだけだった。
ルチアは、昨夜のことを聞かなかった。大丈夫、とも言わなかった。椅子から立って、膝の毛布をベッドの上に置いて、それから、わたしの右手を見た。
「手、洗った?」
「洗った」
「あとで、ちゃんと見せて」
「うん」
会話は、そこで止まった。
止まったまま、部屋の中に二人でいる。気まずくはなかった。何か言わなければいけない感じもしなかった。ルチアは机の端に手をついて床を見ている。わたしはベッドの端に座っている。
窓の桟の影が、床の上を少しずつ動いていく。
今日、あの上級生はどうしているだろう。
首に痕が残っているはずだ。腕をどのくらいの力で当てたかは、覚えていない。覚えていないのに、手のほうは覚えている。あの重さと、止まらなかった感じを。
今日、廊下でどんな目で見られるかは、だいたい想像がつく。想像がついても、どうしようもない。あれは正しい目だ。
たぶん、呼び出される。何があったか話せ、と聞かれて、処分の話も出る。昨夜のことは、入学のときに署名した紙に書いてある「問題」だ。
言い逃れる道を探そうとして、やめた。わたしがやった。
廊下から、足音がした。
かかとが鳴っている。石の床を、隠さずに踏む音だ。
足音が、隣の部屋の前で止まった。
声が二つ。どちらも低い。
一つはナタルの声だ。もう一つは、マーレンだった。壁と扉を挟んでいるから、何を言っているかはわからない。声の高さと、言葉の切れる場所だけが伝わってくる。
短い。三往復か、四往復。片方が少し長く喋って、片方が短く返す。それから、間があった。
また、かかとの音がした。
今度は遠ざかっていく。うちのドアの前を通って、廊下の突き当たりまで行って、階段を下りていった。
昨夜、板の端を持っていたのはマーレンだった。わたしが倒した人を、あの子が運んでいった。
その足で、今朝はナタルのところに来ている。兄をヴェルダの兵に殺された子が、朝いちばんで、ヴェルダの兵だった子の部屋を叩いている。
何を話したのかは、わからない。わからないまま、頭に残った。
ドアが開いた。
ナタルが入ってきた。
目の下のくまが、いつもより濃い。制服の背中に、壁の石目が横に一本残っている。一晩、目を開けたまま凭れていた顔だ。昨夜、ドアの外に座る音がした。中には入ってこなかった。
二歩入って、止まった。
わたしを見た。顔、手、制服、足。上から下まで、順番に。
診る目だ。前線で、戻ってきた奴を見るときの目。歩けるか、使えるか、後ろへ下げるか。ナタルもわたしも、これをやる側だった。
「ひどい顔だ」
「ナタルも」
言い返せた。それだけは、いつもの速さで出た。
ナタルは答えなかった。ベッドの脇まで来て、わたしの右手を見て、それから顔を戻した。何も言わない。触りもしない。ただ、そこに立っている。
廊下に、もう一つ足音がした。
重い足音だった。
グレン先生だった。
ドアのところで一度止まって、ルチアを見て、ナタルを見て、それからわたしを見た。
いつもの目だ。鋭い。授業で寝ているのを見つけたときと同じ目。
その下に、疲れが混じっている。目の下が薄く暗い。この人も寝ていない。
「カルヴァス」
「……はい」
「顔を見に来た」
それだけ言って、ドアの内側に立ったまま、動かなかった。座れとも、話せとも言わない。
何があったかを、聞かれなかった。
顔を見に来た、と言った。それが先だった。
この人は、順番が逆だ。
三人が、そこにいる。
ルチアが椅子の横に立っている。ナタルがベッドの脇にいる。グレン先生がドアのところにいる。
三人ともこっちを見ている。責めていない。急かしてもいない。待っている。
いつもの顔を出そうとした。
大丈夫です、と言う。心配かけてすみません、と言う。笑顔を出して、そのあと軽いことを一つ言って、それで終わりにする。この十六年でいちばん多くやってきたことだ。二年間、これで通した。収容所でも通した。ここに来てからも、ずっと通してきた。
口が動いた。
音が出なかった。
もう一度開けた。息だけが出た。閉じてから、また開けた。舌の置き場所が見つからなくて、止まった。
いつもの言葉は、そこにある。手を伸ばせば届くところにある。
伸ばすと、手が別のものを掴む。
呼吸で数えていた。四つ、五つ、六つ。七つ目でも、まだ誰も喋らない。
前線なら、こうはならない。黙っている奴は使えないと見なされて、後ろへ下げられる。判断は早いほどいい。答えられないなら次に行く。それだけのことだ。
ここでは、誰も判断を下さない。三人とも、こっちが何か出すのを待っている。
待たれるのに、慣れていない。
他に言えることを探した。
昨日はすみませんでした、なら言える。謝罪には形がある。頭を下げて、やったことを認めて、処分を受けると言う。順番も知っている。
報告なら、もっと言える。何時にどこで何が起きて、誰がどうなったか。事実を並べるだけだ。それなら舌が動く。
どっちを出しても、この三人は帰らない気がした。
帰らせるために出す言葉は、たぶん、今日の分じゃない。
喉の奥で、何かが止まっている。
石になった奴の背中を叩いて出させるのを、前線で何度もやった。息を長く吐かせて、名前を呼んで、詰まっているものを外に出させる。やり方は知っている。人にはできた。
自分の喉に手は届かない。
出さないと、息ができない。
やっと出た音は、言葉になっていなかった。
「……たす、けて」
かすれて、途中で切れて、後ろの方が音にならなかった。
言ってから、自分が何を言ったのか、少し遅れてわかった。
前線で、言わなかった。
穴の底で足を押さえられて、上から土が落ちてきた夜も、言わなかった。隊長が倒れたときも言わなかった。収容所の房で、廊下の足音が扉の前で止まったときも、言わなかった。
ここに来てからも、一度も言わなかった。
言っていい言葉だと、思っていなかった。
「わかった」
ルチアの声だった。
それだけだった。何をどうするとも言わない。ただ、わかった、と言った。
椅子の背を掴んだまま、もう片方の手で口を押さえている。
グレン先生が、ドアのところから一歩、部屋に入った。何も言わなかった。入って、それだけだった。
ナタルは動かない。動かないまま、わたしの右手のあたりを見ている。
手はまだ震えている。昨夜から止まっていない。
顔は、まだ笑えない。
誰も、笑えとは言わなかった。