眠れない。
消灯は十時。
いつもならすぐに眠れる。
朝から座学と実技があって、夕食を食べて風呂に入れば、頭が重くなって自然に落ちていく。
学院に来てからの数日間、寝つきに困ったことはなかった。
今日は違う。
ルームメイトはとうに寝息を立てている。
規則正しい、穏やかな呼吸。
部屋は暗くて、窓の外から月明かりがわずかに差し込んでいる。
わたしだけが目を開けている。
枕に頬を押しつけて、目を閉じる。
閉じても、瞼の裏に浮かんでくる。
木剣の先が、わたしの首の横で止まっていた。
あの距離。
あの角度。
あの速さ。
目を開ける。
天井の木目が、薄闇の中にぼんやり見える。
見慣れたはずの天井が、今夜は遠い。
首の横に手を当てる。
木剣は触れていなかった。
触れていないのに、皮膚が距離を覚えている。
指一本分。
木の匂いがした。
あの瞬間、空気の中に木の匂いがあった。
呼吸を忘れていた。
足が地面に縫いつけられていた。
肺の中の空気が、出ることも入ることもできないまま固まっていた。
体が凍るというのは、比喩ではなかった。
本当に動かなかった。
リーネは木剣を下ろして、笑った。
「ごめんね、つい」と。
廊下で肩がぶつかったときに謝るのと、同じ調子で。
首に刃が来た直後に。
「つい」。
あの子の体が「つい」やったことについて、ずっと考えている。
三本目の振り下ろし。
わたしの受けがほんの少し遅れた。
二本目の衝撃で手が痺れていた。
それだけのことだった。
リーネの手首が回った。
真っ直ぐだった軌道が、斜めに変わった。
首筋に向かって。
手が滑ったのではない。
あの軌道の変わり方は、手が滑って起こるものじゃない。
受けが間に合わないと見て、体が勝手に動いた。
一度や二度で身につく動きではない。
何度も繰り返して、体に刻まれた動き。
それが、相手の隙を見た瞬間に「つい」出る。
あの子にとって、首を狙うことは癖だ。
食事のときに肘をつくとか、考え事をするとき髪を触るとか、そういうのと同じ場所に、あの動きがある。
日常の延長に。
グレン教官は「つい、か」と言っただけだった。
それ以上何も聞かなかった。
あの教官には、聞くまでもなかったのだと思う。
寝返りを打つ。
枕の冷たい面に頬を当てる。
冷たさが頬に触れて、少しだけ楽になる。
でも頭の中は冷えない。
入学式の日のことが浮かんでくる。
講堂で、隣に座っていた。
名前も知らなかった。
亜麻色の髪の、小柄な女の子。
後方で扉が鳴った。
遅刻した生徒が、重い木の扉を勢いよく閉めた。
隣の子の右手が腰に伸びた。
何もない腰に。
指が空を掴んで、すぐに戻った。
あのとき、見間違いだと思おうとした。
緊張で体が動いただけだと。
そう処理して、数日のうちに薄れていった。
今夜、あの手のことが戻ってきた。
あの手は剣を探していた。
大きな音がしたとき、体が勝手に武器を探す。
講堂で。
誰も攻撃してこない場所で。
体だけが、まだ別の場所にいる。
入学式の手と、今日の首元の木剣が、頭の中で繋がっている。
どちらも「つい」出たもの。
考えるより先に、体が動いたもの。
あの子の体には、わたしの知らない動きが染みついている。
その動きが何を意味するのか、わたしにはわからない。
わからないのに、わかってはいけないもののような気がする。
今朝の授業のことも、浮かんでくる。
グレン教官が「包囲されたら何を最優先にする」と聞いた。
リーネが答えた。
退路の確保。負傷者の選別。歩けない者は置いていく。
教室が静まった。
リーネは首を傾げていた。
何が問題なのかわからない顔をしていた。
沈黙の意味が読めていなかった。
あの声は、教科書を読み上げる声ではなかった。
体の中から、そのまま出てくる声だった。
迷いがなかった。
何度もそうしてきた人間の声だった。
あのときは、まだ処理できた。
ヴェルダ出身だから、戦争があったから。
言葉として、頭の中に置いておくことができた。
午後の実技は、そうはいかなかった。
言葉ではなく、体に来た。
首の横の木剣。
指一本分の距離。
あれは、この子は自分とは違う経験をしてきたのだ、という「知識」ではなかった。
首の皮膚で、手の震えで、止まった呼吸で、わたしの体に入ってきた。
あの子がわたしの手を取ったときのことを思い出す。
木剣を下ろした直後。
リーネはしゃがんで、わたしの右手を取った。
柄を握ったままの手を、丁寧に開いていった。
手首を少し回して、指を一本ずつ確かめた。
「怪我してない?」
あの手は震えていなかった。
わたしの指は小刻みに揺れていたのに、リーネの手は止まっていた。
硬い指だった。
タコだらけの、節くれだった指。
わたしの白い指と触れ合っているから、余計にはっきり見えた。
手首を回す角度。指を確かめる順番。
初めてやる動きではなかった。
何度もやったことがある人間の手つき。
誰かの怪我を、何度も確かめてきた手。
さっきまでわたしの首に刃を向けていた手で、わたしの指を一本ずつ確かめている。
その目は、本気で心配していた。
緑色の目が、わたしの手だけを見ていた。
首を狙う手と、怪我を確かめる手が、同じ手だった。
わたしの指を確かめ終わったあと、リーネは立ち上がった。
困ったような笑顔で頭をかいた。
わたしの指を確かめていた手で、自分の頭をかいている。
わたしの手の温度がまだ残っているはずなのに、もう次の動作に移っている。
切り替えが速い。
怪我を確かめる動作に慣れているということは、怪我を確かめなければならない場面に何度も居合わせたということだ。
誰かが傷ついて、この子がその手を取って、指を確かめて、「大丈夫?」と聞いた。
何度も。
何度も何度も。
その相手は、わたしのように木剣の痺れで手が震えていたのではないと思う。
もっと別の理由で。
わたしは考えたくないのに、考えてしまう。
あの硬い手が覚えている怪我は、どんな怪我だったのだろう。
あの慣れた手つきで確かめなければならなかった傷は、どんな傷だったのだろう。
同い年だ。
あの子は、わたしと同い年だ。
わたしより一つ下だ。
十六歳。
わたしが十六のとき、何をしていたか思い出す。
実家の庭で母と花を摘んでいた。
入学試験の勉強をしていた。
いちばん大きな悩みは、前髪を切りすぎたことだった。
あの子が十六のとき——いや、もっと前から。
十三で徴兵されたと、自己紹介のときに誰かが噂していた。
十三。
わたしが前髪を切りすぎて泣いていた年に、この子は剣を持たされていた。
同い年の女の子が、人の首を狙う体を持っている。
そのことを普通だと思っている。
でも人の怪我は本気で心配する。
首を狙うことと、怪我を心配することが、あの子の中では矛盾していない。
どちらも、あの子が生きてきた場所では必要なことだった。
そういう場所があったということ。
そういう場所に、この子が置かれていたということ。
誰が。
誰があの子をそこに置いたのだろう。
考えたら、怖さとは違う場所で、胸の奥が痛んだ。
肋骨の内側、心臓のすぐ隣。
名前のつかない痛み。
守りたい、とは少し違う。
もっと手前の、もっと言葉にならないもの。
あの子が「ごめんね、つい」と笑ったときの、あの笑顔を見た瞬間に、胸が軋んだ。
笑わなくていい場面で笑っている子を見たときの、あの感覚。
怖いのに、痛い。
怖いのと痛いのが、同じ胸の中にいる。
帰り道、一人で歩いた。
いつもならリーネやミラと並ぶ。
今日は足が勝手に速くなった。
後ろから、リーネの笑い声が聞こえていた。
いつもの調子で笑っている。
首元で木剣を止めたことを、もう忘れたみたいに。
忘れたのではない。
最初から、大したこととして受け取っていない。
風呂で、首の横に手を当てた。
木剣は触れていなかった。
触れていないのに、皮膚があの距離を覚えている。
あのまま止まらなかったら、と考えかけて、湯の中で首を振った。
一度浮かんだ想像は、湯気と一緒に消えてくれなかった。
天井を見ている。
あの子の笑顔を思い出している。
入学してからの数日間のことが、暗い部屋の中で巻き戻される。
初日。自己紹介で「ヴェルダ公国出身」と言ったとき、教室の空気が変わった。
ペンを置く音がして、数人がリーネの方を見た。
リーネは笑っていた。
ヴィクトルに「敗戦国の兵士が、よく堂々と来れるものだ」と言われたとき。
リーネは笑っていた。
趣味を聞かれて「生存」と答えたとき。
教室の半分が笑った。冗談だと思ったから。
リーネも笑っていた。
昨日、予習をしているわたしの教科書を覗き込んで「図が綺麗だなあ」と言ったとき。
リーネは笑っていた。
今日、首元で木剣を止めた直後。
リーネは笑っていた。
全部同じだった。
同じ速度。同じ角度。同じ明るさ。
何を言われても、何が起きても、何をしても、同じ笑顔が同じ速さで出てくる。
わたしが笑うとき、嬉しいときと困ったときでは、顔の筋肉の動き方が違う。
照れたときは頬が先に動くし、作り笑いのときは口だけが動く。
笑顔にはいくつも種類があるはずだ。
リーネの笑顔には種類がない。
一つしかない。
精巧にできた一つの笑顔を、全部の場面で使っている。
よくできている。
よくできすぎている。
あれは、笑いたくて笑っている顔ではない。
笑わなければならなかった場所で、身につけた顔だ。
何度も使って、磨かれて、隙がなくなった顔だ。
あの笑顔の下に、何があるのだろう。
底が見えない。
覗き込んでも、暗くて何も見えない。
わからない。
わからないことが、怖い。
枕に顔を押しつけた。
鼻の奥が熱い。
気がついたら、泣いていた。
理由がわからない。
怖くて泣いているのか。
胸が痛くて泣いているのか。
わからない。
涙が出ているという事実だけがあって、理由がどこにもない。
わたしは戦争を知らない。
ヴェルダ戦争のことは教科書で読んだ。
日付と、地名と、勝敗。
それだけの知識。
剣を持ったのは昨日が初めてだった。
木剣の重さに驚いて、素振りで手が痛くなって、ミラと「腕がもう上がらない」と笑い合った。
わたしにとって剣は、教科書の図と、訓練場の木剣。
リーネにとっての剣は、違う。
腰に手が伸びるほど、体に染みついたもの。
受けが間に合わない相手の首を「つい」狙うほどに。
わたしの十七年間に、人の首を狙ったことは一度もない。
狙われたのは、今日が初めてだ。
リーネの十六年間には、何があったのだろう。
あの体を作った十六年間に。
あの笑顔を作った十六年間に。
知らない。
何も知らない。
知らないのに、泣いている。
涙が止まらない。
枕が濡れている。
鼻が詰まって、息がしにくい。
ルームメイトを起こさないように、声を殺して、顔を枕に押しつけている。
みっともない。
何も知らないくせに泣いている。
あの子のことを何も知らないくせに、勝手に泣いている。
泣く資格があるのかどうかもわからない。
あの子は笑っていたのに。
あの子は今頃、隣の部屋で、いつもみたいに眠っているかもしれないのに。
それでも涙が出る。
体が勝手に泣いている。
頭では止められない。
今日一日のことが、全部まとめて、胸の底に沈んでいく。
重くて、苦しくて、でも吐き出し方がわからない。
あの子は、たぶん、自分が普通だと思っている。
首元で剣を止めて「ごめんね、つい」と笑えることを、普通だと思っている。
それが、一番、怖い。
明日も隣に座る。
確かめたいわけじゃない。
確かめるのが、怖い。
ただ、あの子を、一人にしておけない。
理由は、まだ、ない。