会議室の長机が、口の字に並べてある。内側だけでは足りずに、壁ぎわにも椅子を出してあった。
二十をいくつか超える数が座っている。学院の教官が、ほとんど揃っていた。生徒ひとりの処分に、これだけ集める。集めたという事実のほうが、中身より先に意味を持つ。
上座に議長役の教官。その左右に古株が並ぶ。武官上がりの教官たちは、机の同じ辺に固まって座っていた。誰が決めた席でもない。毎回そうなる。
書記の教官が、端の席で紙を広げている。
俺は入口にいちばん近い席にいる。あの子の担任だからだ。何か聞かれたら立つ位置だった。
医務室の所見が読み上げられた。
頸部の前面に圧迫痕。幅は指四本ぶん。皮下に出血がある。骨と気道に損傷なし。三日から五日で引く見込み。声はしばらく出しにくい。
「治癒はかけておりません。ご家族の意向です」
読んだのは事務方だった。抑揚がない。書いてあることを書いてある順に読んでいる。
痕を消さずに置く。処分が決まるまで、首に残しておく。そういう意向だ。
指四本ぶん。前腕の骨の幅だ。斜めに渡して、体重を乗せた形。あの子はそれを、武器を持たない相手にやった。
「以上です」
紙が机に置かれた。誰も口を開かなかった。
議長が、二通の書面を机の中央に出した。
「先に、これを共有します」
一通目は抗議の書状だった。倒れた上級生の家からのものだ。軍閥系の家で、この学院に何代も子弟を出している。
文面は短い。事実の確認と、相応の処分を求めること。それから最後の一行。処分の内容を、書面にて知らせられたい。
書いていないことのほうが重い。
軽ければ、この家から他の家に伝わる。学院は敗戦国の生徒に甘い、という一行が、来年の入学者の親の耳に入る。それを書かずに、書面で知らせろとだけ書いてある。書かないほうが効くことを、書いた人間は知っている。
二通目は、こちらから融和政策局へ上げた報告の写しだった。
属国出身者の受け入れについて、経過は良好である。成果の欄に、生徒の名前が並んでいる。四つある。上から二つ目に、カルヴァスと書いてある。
四つのうち、俺が顔を知っているのは二人だけだ。あとの二つは名前しか出てこない。どこの組にいるのかも知らない。紙の上では、四人とも同じ成果だ。
議長は二通を並べたまま、指を組んだ。
「処分の是非を議論する場ではありません。この二通に返事を書く場です」
はっきり言った。隠してもいない。
この部屋で発言権を持っているのは、二枚の紙だ。座っている人間ではない。俺たちの意見は、どちらかの紙に載せられる形になったときだけ、意味を持つ。
最初に口を開いたのは、武官上がりの教官だった。
「退学が妥当です」
理由を並べた。書物は引かなかった。引く必要がないという顔をしていた。
「長く戦場にいた者は、判断が鈍る。命令への反応も遅れる。休ませて、規律を入れ直せば戻ります。それでも戻らん者がいる。そういう者は後ろに回す。昔からそうしてきました」
そこで一度切って、部屋を見回した。
「ここに後ろはありません。学院に後方任務はない。回す先がないなら、外すしかないでしょう」
出典を聞く者はいなかった。二十人を超える人間が座っていて、ひとりも聞かなかった。聞くまでもない、という顔が机の三辺に並んでいる。それは知識ではなく、部屋が共同で持っている常識として置かれていた。俺も軍にいた。同じことを言う上官を、何人も見た。言われて後ろに回された兵も見た。回された先で、その兵がどうなったかを、俺は最後まで知らない。
その教官が続けた。
「それに、あの家に軽い処分を書いて送るのですか。書くのは結構です。誰が名前を入れます」
同じ辺の何人かが頷いた。壁ぎわでも、いくつか頭が動いた。誰も声は出さない。頷くだけなら、書記の紙に残らない。
「あれは、あの子が意志でやったことではありません」
ヘルミーネ・シュタールだった。魔法理論の教官が処分の会議で発言するのは珍しい。声はいつもと同じ調子で、穏やかだった。
議長が顔を上げた。
「では、何ですか」
ヘルミーネが答えなかった。
長い間があった。紙をめくる音もしない。俺は机の木目を見ていた。答えられないのではなく、探しているのだとわかった。探して、見つからないのだということも。
「……名前を、わたしは知りません」
そう言った。
「戦傷者の治癒の研究に、少し関わっていたことがあります。戦から戻った兵に、同じものを見ました。器の落ちる音で戻る人がいました。焼けた匂いで、体が固まって動けなくなる人もいました。体はどこも治っているのに、です」
「その状態に、名前があるのですか」
「ありません。少なくとも、わたしが読んだどの書物にも載っていません」
議長が短く息を吐いた。
ヘルミーネは引かなかった。武官上がりの教官のほうを見た。
「休ませて規律を入れ直せば戻る、という言い方は、ずっと繰り返されてきたものです。ですが、戻ったかどうかを後から数えた人がいません」
「数えるまでもない。戻った者は戻った。戻らん者はいなくなった」
「その言い伝えは、兵を戻すために言われてきたものです。治すために言われたのではありません。知りたかったのは、あと何回使えるか。それだけです」
部屋が少し静かになった。
反論としては正しい。俺はそう思った。だが正しさは、この部屋の通貨ではない。通説を崩すには、別の通説か、書いてあるものが要る。彼女はどちらも持っていない。
議長が聞いた。
「では、書面には何と書きますか」
ヘルミーネが答えられなかった。
二通目に「名前のない状態にあるため情状を酌量した」と書けるはずがない。相手の家に送る紙に、名前のないものは載らない。
誰も続かなかった。
これだけの人数が座っていて、あの子に何が起きているのかを問うたのは、彼女ひとりだった。加勢も出ない代わりに、追い打ちも出ない。誰も、その話に関わらないことを選んでいる。
彼女の問いは否決されたのではない。議題に載っていない。書記の紙にも、一行も残らない。
「退学には反対です」
ドルフ・ブラントが手元の紙を整えながら言った。最初から反対している。この男の立場は入ってきたときから決まっていた。
「彼女の名は、すでに成果として上へ出ています。二通目にあるとおりです。ここで放り出せば、報告済みの成果を、我々が自分の手で取り消すことになる」
「生徒が喉を押さえられたのですが」
武官上がりの教官が言った。ドルフは頷いた。
「ですから、相応の処分は必要です。退学以外で」
そう言って、また紙を整えた。
ここまでで、この男は一度もあの子の話をしていない。
祭りの夜のことも、あの子が今どうしているかも、口にしない。天秤に載っているのは、生徒ではなく報告の一行だ。悪意はない。この人は融和政策を本気で信じている。信じているから、政策の記録のほうが先に出てくる。
議論としては、いま俺はこの男と同じ側にいる。それが不快だった。
そこまで、この部屋で話されていたのは処分の重さだけだった。
「よろしいですか」
倒れた上級生の担任だった。ここまで一言も話していない。
「さっきから、重いか軽いかの話しかしていません。痣が残っているのは、うちの生徒です」
議長が「承知しています」と言った。担任は引かなかった。
「うちの生徒は、今夜も同じ校舎で寝ます。退学だろうが謹慎だろうが、明ければ廊下ですれ違う。実技も同じ日にある。そこをどうするのかを、まだ誰も一言も話していません」
部屋が静まった。書記の手も止まった。
俺も考えていなかった。
あの子をどう扱うかは、朝から何度も考えた。首に痕の残った生徒が明日どこを歩くかは、一度も考えていない。この人は勢力を代表していない。自分の生徒の話をしているだけだ。だから声に力がない。
それでも、そこにいる誰よりまともなことを言っていた。
俺はそこで初めて口を開いた。
「両方やります」
議長がこちらを向いた。
「処分は出す。記録に残す。二週間の自室謹慎。相手への謝罪を条件に入れる。同時に、外部の治癒師による定期の面談をつける。学院に置いたまま、診せる」
「それだけでは、家に返事が書けません」
「続きがあります」
俺は上級生の担任のほうを見た。
「実技の組を分けます。当面すれ違わない動線を作って、席も離す。寮監に通達を出す。面談は、こちらの生徒だけでなく、そちらの生徒にもつける。怖い思いをしたのはあちらです」
「面談を、二人ともに」
「片方だけやるから、どっちも失敗します。処分だけなら、あの生徒はまた同じことをやる。体が変わらんからです。治療だけなら、痣の残った生徒に学院は何もしなかったことになる」
ここで止めるべきだと思った。止めなかった。
「これなら、両方に書けます」
正しいから通してくれ、とは言わない。言っても通らないことを、この部屋に座って三十分で理解した。
自分の案を、二通への返事として売り込んだ。そうしないと通らない。
議長が顔を上げて、部屋をひと通り見回した。
「他にご意見は」
出なかった。
これだけ座っていて、誰も手を挙げない。反対も賛成も言わない。ここで口を開けば、その言葉が書記の紙に残る。残らないほうを、全員が選んだ。
黙っていることが、そのまま賛成として数えられていく。数え終わるまで、十秒もかからなかった。
決まった。
退学は見送り。二週間の自室謹慎。倒れた上級生への謝罪。記録に残す。外部の治癒師による定期面談。相手側の措置も条項に入った。
議長が紙をまとめながら、書記のほうを見た。
「そのように」
決めたのは会議ではない。
二つの家の力が釣り合った場所に、あの子が置かれただけだ。抗議の書状がもう少し強ければ退学になっていた。報告の写しに名前が載っていなければ退学になっていた。どちらも、あの子とは関係のないところで決まっている。
散会の前に、ヘルミーネが手を挙げた。
「治癒師の費用は、どの項から出しますか」
事務方が書類をめくって、顔を上げた。前例がない、という顔だった。生徒の治療は学院の治癒師の項にある。だが体の傷を治す魔法の話だ。言葉で診る者を外から呼ぶ項目は、どこにもない。
治療として起案すれば、通らない。項目のないものは通らない。
俺は自分から言った。
「問題を起こした生徒の管理、で起案してください。監督の一環で構いません」
ヘルミーネがこちらを見た。俺は見返さなかった。事務方が「それなら書けます」と言って、書類に書き込んだ。
武官上がりの教官は、この条項に反対しなかった。
反対するはずがない。危険な属国出身の生徒を、外部の人間の監督下に定期的に置く措置として読んでいる。読み間違えてくれたから、通った。
治療は、封じ込めと読めるから予算がついた。
名前は何でもいい。人が来るなら、それでいい。
廊下に出た。
欲しかった結論は出た。出方が最悪だった。
あの子が学院に残るのは、あの子が生徒だからではない。書面に名前が載っていたからだ。
俺はそれに反対しなかった。反対すれば結論が変わったかもしれないから、黙っていた。汚い理由に乗って、欲しいものを取った。
治癒師の件も通った。半年、どう頼んでも動かなかったものが、今日動いた。
動かしたのは俺じゃない。
首に痕の残った生徒だ。あの生徒は何も頼んでいない。誰かのために痛い思いをしたわけでもない。それでも、あの痣がなければ金は出なかった。
そういう順番でしか動かん場所で、俺は教えている。
廊下を歩きながら、肩が下りているのに気づいた。
半年ぶりだった。
下ろしたのは、俺の手紙ではない。
◆ ◆ ◆
ドアが二回、鳴った。
叩き方でわかった。重い。指の腹ではなく、関節で叩く音だ。
ルチアは授業に出ている。窓の桟の影が、床の真ん中まで来ていた。昼を過ぎたところだ。
「はい」
声がかすれた。二日、ほとんど喋っていない。
グレン先生が入ってきた。書面を一枚持っている。
部屋を見回さなかった。散らかっているかどうかも、わたしがどんな顔をしているかも、見に来たわけではないという入り方だった。
「座ってろ」
わたしはベッドの端に座っていた。立ちかけていたのを、そのまま下ろした。
先生は机の前の椅子を引いて、こちらを向けて座った。書面を机の上に置いた。読み上げるのかと思ったら、読まなかった。
「決まった」
「はい」
「二週間、この部屋にいろ。授業には出るな。食事は運ばせる。記録に残る。それから、外の治癒師との面談をつけた。定期でだ。日取りは追って出す」
一つずつ、間を置いて言った。急いでいない。わたしが聞き落とさないようにしている速さだった。
「もう一つ、書面に入っている。相手に謝ることだ」
「……はい」
わたしは書面を見なかった。見なくても、だいたい想像がついていた。
「先生、わたし、退学になりますか」
「ならない」
短い。理由も言わない。
「……そうですか」
膝の上で、右手の指を数えていた。皮のむけたところが、かさぶたになりかけている。押すとまだ痛い。
「当然の処分だと思います。あんなことしたので」
「当然じゃない」
顔を上げた。
聞き間違いかと思った。先生は同じ姿勢のまま座っている。腕を組んで、こっちを見ている。授業のときの目だ。怒ってもいないし、慰めてもいない。
「お前がやったと、俺は思っていない。お前の体がやった」
「……同じですよ。わたしの体です」
「そうだ」
否定されなかった。
「だから、お前が引き受ける。そこは動かん。だが、責められるのと、引き受けるのは、別だ」
わたしは黙った。
別、という言い方が、うまく入ってこなかった。
わたしがやった。だからわたしが悪い。悪いから、罰を受ける。この三つは一本の線だ。前線でも、収容所でも、ずっとそうだった。切れる場所があると思っていない。
「……わたしのせいじゃない、って言ってるんですか」
「全部がお前のせいだとは思っていない、と言っている」
先生が机の上の書面に手を置いた。
「半分は、十三のお前に剣を持たせた連中のものだ。残りのいくらかは、こっちのものだ。お前が人の喉を押さえるまで、学院は金を出さなかった」
「……先生は、探してくれてました」
「届かなかった。それはお前の落ち度じゃない」
言い切った。それきり、その話はしなかった。
わたしは膝を見ていた。
半分は誰のものか、という数え方を、したことがない。悪いことが起きたら、いちばん近くにいた人間のものになる。前線ではそう決まっていた。誰の判断でこうなったかを遡ると、遡った先に上官がいて、その上に誰かがいて、そこで足が止まる。止まるようにできている。だから遡らない。近いところで数えて、終わりにする。
「じゃあ、謝らなくていいんですか」
わたしは聞いた。半分が誰かのものなら、その分は謝らなくていいのか。そういう聞き方になった。自分でも、ずるい聞き方だと思った。
「そこは、俺が決めることじゃない」
「……命令してもらったほうが、楽です」
言ってから、本当だと気づいた。
命令なら、体が動く。前線で、動きたくない場所へ何度も体を運んだ。掛け金を下ろすのも、報告に行くのも、命令があれば手が勝手にやる。考えなくていい。考えないで済むことが、いちばん楽だ。
「知ってる」
先生が言った。
「だから言わん」
わたしは何も返せなかった。
先生は少し間を置いてから、続けた。声の調子が変わらない。
「あいつは怖い思いをした。それは本当にあったことだ。お前が悪いかどうかとは関係なく、あいつには答えが要る。……要ると、俺は思う」
最後だけ、言い方が下がった。断定を自分の側に引き取る言い方だった。
「行くなら、日を決める。相手にも都合がある。行かないなら、その理由を聞く。どっちでもいい」
わたしは長く考えた。
窓の桟の影が、床の板の継ぎ目を一本越えた。
「……行きます」
「わかった」
「でも、謝って済むことじゃないのも、わかってます」
「済まない。たぶん許されん」
「……ですよね」
「許されるためにやることじゃない。やったことに、お前が背を向けずに済むかどうかだ」
先生が立ち上がった。椅子を戻して、書面を机の端に寄せた。
「それと」
ドアの手前で止まった。
「罰だけで終わらせたら、また同じことが起きる。お前を責めておけば、大人は楽になる。それでお前の体は何も変わらん。だから面談をつけた。処分と一緒に、だ。片方だけじゃ足りない」
それだけ言って、出ていった。
廊下を歩く足音が遠ざかっていく。重くて、均等な足音。数えているうちに聞こえなくなった。
責められると思っていた。
責められるつもりで、二日間、この部屋にいた。何を言われるかも、いくつか用意してあった。お前は危険だと言われたら、はいと言う。出ていけと言われたら、はいと言う。全部わたしが悪い、で終わらせれば、そこから先を考えなくて済む。
閉じさせてもらえなかった。
半分は誰のものか、と言われた。
考えると、考えなければいけない相手が出てくる。十三のわたしに剣を渡した人たち。三日で訓練を終わらせた人たち。あの村から、同じ学校の子を四人まとめて連れていった人たち。顔がいくつか浮かんで、名前が一つ二つ出てくる。
まだ、そこは開けたくない。
ふたをして、書面を見た。
自分の名前と、上級生の名前と、日付が書いてある。字が角張っていて、読みやすい。先生の字だった。
謝りに行ったのは、三日後だった。
空いている教室に、四人いた。わたしと、あの上級生と、それぞれの担任。
上級生は襟を立てていた。それでも、顎の下に薄く色が残っているのが見えた。青と黄色の中間の色で、輪郭がぼやけている。三日から五日で引くと聞いた。まだ引いていない。治癒をかけていないのだと、そのとき気づいた。消してしまえば、書面に添えるものがなくなる。
わたしは頭を下げた。
「祭りの夜、あなたを地面に倒して、喉を押さえました。すみませんでした」
やったことを言って、謝る。順番は知っている。何度も見た。前線でも、隊長が上に呼ばれて、同じ形でやっていた。
言い訳はしなかった。花火の音のことも、体が勝手に動いたことも、言わなかった。言えば、この人の首の色が薄くなるわけではない。
上級生が口を開いた。声がかすれていた。喋りにくいのだと、すぐわかった。喉を痛めた人の声は、前線で何度も聞いた。
「近づかないでくれ」
「はい」
それだけだった。
上級生の担任が短く何か言って、二人が先に出ていった。
わたしはドアが閉まるまで、その人の背中を見ていた。歩き方を覚えるためだ。後ろ姿と、歩幅と、肩の高さ。廊下ですれ違う前に、こっちが先に見つけて曲がるためには、それが要る。避けるほうが、こっちの仕事だ。
許されなかった。
当然だと思った。わたしが同じことをされたら、許さない。夜中に寝ているところを起こされて、首に腕を当てられて、地面に押しつけられて、次の日に相手が頭を下げに来る。頭を下げられたところで、首の色は変わらない。
謝って済むことじゃない、と先生に言った。
言ったときは、言葉として言っただけだった。今のほうが、意味がわかる。
謹慎は、静かだった。
朝、ルチアが起きて、髪を結んで、教室に行く。食事は運ばれてくる。昼のあいだ、部屋には誰もいない。夕方にルチアが戻ってくる。夜になる。それが繰り返される。
窓の外を確認する癖は、変わらない。朝と、夜と、あと何度か。数えるとかなり多い。
昼間は本当に何もない。教科書を開いて、閉じる。何も入らない。字を追っているのに、行の終わりまで来ると、頭が最初に戻っている。
二日目に、部屋の歩数を数えた。ドアから窓まで七歩。窓から壁際のベッドまで四歩。数え終わってから、何のために数えたのかがわからなくなった。歩数を数えるのは、暗いところを走って出るときにやることだ。ここから走って出る用事はない。
運ばれてくる食事は、いつもどおりすぐ終わる。終わると、次まで何もない時間が長い。長いのが、こんなにきついとは思っていなかった。
笑顔は、まだ出ない。
洗面所の鏡でもう一度やってみた。同じだった。口が横に伸びて、途中で止まる。
ルチアは、何も聞かない。夜、机で書きものをして、時々こちらを見る。目が合うと、わずかに口を動かす。何か言おうとして、やめている。
やめてくれるのが、今はありがたい。ありがたいと思いながら、その飲み込んだものが部屋の中に溜まっていくのも、なんとなくわかる。
五日目に、ドアが速く二回鳴った。
「リーネちゃん、いる?」
返事をする前に開いた。ミラだった。
片手にノートの束、もう片手に紙で包んだ何かを持っている。息が少し上がっている。走ってきたらしい。
「はい、これノート。三日ぶんね。あと、これ焼き菓子。お母さんが送ってきたやつ。一個しかないけど」
机に置いた。ノートは束のいちばん上が開きかけていて、丁寧な字が見えた。線が真っ直ぐで、行がそろっている。書き写すのに、どれくらいかかったのかわからない。
「ありがとう」
そう言って、それきりになった。
いつもなら、ここで何か軽いことを言う。ミラの話に乗って、返して、笑わせる。声の出し方も、間の取り方も体が覚えている。覚えているのに、出てこない。
ミラは帰らなかった。
机の横に立ったまま、こっちを見ている。手を胸の前で握って、口を結んでいる。
それから、言った。
「心配したんだよ」
声が大きかった。
「めちゃくちゃ心配したんだからね」
目が赤かった。泣きそうなのを隠していない。隠す気もない顔だった。
「あの日から、リーネちゃんずっといなくて、教室にも来ないし、部屋も入っちゃだめだって言われるし。今日やっと入っていいって言われたから来たの」
わたしは何も言えなかった。
「なんであんなことになったのか、とかは、聞かない」
ミラが言った。
「聞かないけど。……早く戻ってきてよ。食堂、リーネちゃんいないとつまんない」
「……うん」
それだけ出た。
笑えなかった。ごまかせもしなかった。うん、しか出なかった。
ミラは、うん、で足りたらしい。「じゃ、また来るね」と言って、ノートを机の真ん中に押しやって、出ていった。ドアが閉まる音が大きかった。
わたしは、しばらく座っていた。
みんな、気をつかっている。
ルチアは言葉を選ぶ。選んでいる間があるのが、こっちにもわかる。グレン先生は言わないことを決めてから来る。ナタルは何も言わない。ミラは大きい声で心配したと言って、目を赤くして帰った。
どれも、こっちを気にしている。やり方が違うだけだ。
気をつかわれるたびに、自分がそうされる側にいることを確認する。ありがたいのと、確認させられるのが、同時に来る。
ミラのはうるさかったぶん、確認する間がなかった。それだけだ。
変に、楽だった。
ノートを開いた。
三日ぶんの授業が、順番に写してある。日付、教科、板書、それから余白の書き込みまで。
魔法理論のところで、手が止まった。
詠唱語の順番を覚えるための語呂合わせが、余白に書いてある。
ミラが自分用に作ったやつだ。集まれ、巡れ、開け、定めよ。四つの頭を並べて、そこに食べ物の名前がくっついている。四語目のところに小さく「ここで甘いものが来る」と書き足してあって、その横に絵が描いてある。細長い丸に、斜めの線が四本。揚げパンだ。線は砂糖のつもりらしい。
写すときに消し忘れたのだと思う。自分用のところまで、そのまま写してある。
わたしはそれを、しばらく見ていた。
口の端が、少し動いた。
笑顔ではない。鏡の前で出なかったやつは、今日も出ない。それでも、動いた。
この五日で、祭りの夜と関係のないものを見たのは、これが初めてだった。
ミラは、授業を受けながら、腹を減らして、揚げパンの絵を描いている。あの夜のことを考えていない時間が、ちゃんとある。頭の中に、そういうものが入っている。
わたしの頭の中に今あるのは、あの人の首の色と、歩き方と、廊下で避ける道順だけだ。
ノートを閉じた。
閉じてから、また開いた。
揚げパンの絵の隣が、空いている。
自分だったら何を描くだろう、と思った。
砂糖漬けだ。ルチアが買ってくれた、あの小さいやつ。考えるより先に、それが出てきた。
鉛筆を当てた。
やってみたら、くしゃくしゃになった。丸のつもりの線が歪んで、砂糖のつもりの点を打ちすぎて、潰れた虫みたいになった。ミラの絵の隣に置くと、下手さがよくわかる。こういう手の動かし方を、体が覚えていない。字と同じだ。
消そうとして、やめた。
こういうのも、いいか。
ミラは、消し忘れてそのまま写した。
わたしは、消さないで返す。
一歩ずつだ。
一歩ずつ。