わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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前半グレン視点/後半リーネ視点


処分

会議室の長机が、口の字に並べてある。内側だけでは足りずに、壁ぎわにも椅子を出してあった。

二十をいくつか超える数が座っている。学院の教官が、ほとんど揃っていた。生徒ひとりの処分に、これだけ集める。集めたという事実のほうが、中身より先に意味を持つ。

上座に議長役の教官。その左右に古株が並ぶ。武官上がりの教官たちは、机の同じ辺に固まって座っていた。誰が決めた席でもない。毎回そうなる。

書記の教官が、端の席で紙を広げている。

俺は入口にいちばん近い席にいる。あの子の担任だからだ。何か聞かれたら立つ位置だった。

 

医務室の所見が読み上げられた。

 

頸部の前面に圧迫痕。幅は指四本ぶん。皮下に出血がある。骨と気道に損傷なし。三日から五日で引く見込み。声はしばらく出しにくい。

 

「治癒はかけておりません。ご家族の意向です」

 

読んだのは事務方だった。抑揚がない。書いてあることを書いてある順に読んでいる。

痕を消さずに置く。処分が決まるまで、首に残しておく。そういう意向だ。

指四本ぶん。前腕の骨の幅だ。斜めに渡して、体重を乗せた形。あの子はそれを、武器を持たない相手にやった。

 

「以上です」

 

紙が机に置かれた。誰も口を開かなかった。

 

議長が、二通の書面を机の中央に出した。

 

「先に、これを共有します」

 

一通目は抗議の書状だった。倒れた上級生の家からのものだ。軍閥系の家で、この学院に何代も子弟を出している。

文面は短い。事実の確認と、相応の処分を求めること。それから最後の一行。処分の内容を、書面にて知らせられたい。

 

書いていないことのほうが重い。

軽ければ、この家から他の家に伝わる。学院は敗戦国の生徒に甘い、という一行が、来年の入学者の親の耳に入る。それを書かずに、書面で知らせろとだけ書いてある。書かないほうが効くことを、書いた人間は知っている。

 

二通目は、こちらから融和政策局へ上げた報告の写しだった。

属国出身者の受け入れについて、経過は良好である。成果の欄に、生徒の名前が並んでいる。四つある。上から二つ目に、カルヴァスと書いてある。

四つのうち、俺が顔を知っているのは二人だけだ。あとの二つは名前しか出てこない。どこの組にいるのかも知らない。紙の上では、四人とも同じ成果だ。

 

議長は二通を並べたまま、指を組んだ。

 

「処分の是非を議論する場ではありません。この二通に返事を書く場です」

 

はっきり言った。隠してもいない。

この部屋で発言権を持っているのは、二枚の紙だ。座っている人間ではない。俺たちの意見は、どちらかの紙に載せられる形になったときだけ、意味を持つ。

 

最初に口を開いたのは、武官上がりの教官だった。

 

「退学が妥当です」

 

理由を並べた。書物は引かなかった。引く必要がないという顔をしていた。

 

「長く戦場にいた者は、判断が鈍る。命令への反応も遅れる。休ませて、規律を入れ直せば戻ります。それでも戻らん者がいる。そういう者は後ろに回す。昔からそうしてきました」

 

そこで一度切って、部屋を見回した。

 

「ここに後ろはありません。学院に後方任務はない。回す先がないなら、外すしかないでしょう」

 

出典を聞く者はいなかった。二十人を超える人間が座っていて、ひとりも聞かなかった。聞くまでもない、という顔が机の三辺に並んでいる。それは知識ではなく、部屋が共同で持っている常識として置かれていた。俺も軍にいた。同じことを言う上官を、何人も見た。言われて後ろに回された兵も見た。回された先で、その兵がどうなったかを、俺は最後まで知らない。

 

その教官が続けた。

 

「それに、あの家に軽い処分を書いて送るのですか。書くのは結構です。誰が名前を入れます」

 

同じ辺の何人かが頷いた。壁ぎわでも、いくつか頭が動いた。誰も声は出さない。頷くだけなら、書記の紙に残らない。

 

「あれは、あの子が意志でやったことではありません」

 

ヘルミーネ・シュタールだった。魔法理論の教官が処分の会議で発言するのは珍しい。声はいつもと同じ調子で、穏やかだった。

 

議長が顔を上げた。

 

「では、何ですか」

 

ヘルミーネが答えなかった。

 

長い間があった。紙をめくる音もしない。俺は机の木目を見ていた。答えられないのではなく、探しているのだとわかった。探して、見つからないのだということも。

 

「……名前を、わたしは知りません」

 

そう言った。

 

「戦傷者の治癒の研究に、少し関わっていたことがあります。戦から戻った兵に、同じものを見ました。器の落ちる音で戻る人がいました。焼けた匂いで、体が固まって動けなくなる人もいました。体はどこも治っているのに、です」

 

「その状態に、名前があるのですか」

 

「ありません。少なくとも、わたしが読んだどの書物にも載っていません」

 

議長が短く息を吐いた。

 

ヘルミーネは引かなかった。武官上がりの教官のほうを見た。

 

「休ませて規律を入れ直せば戻る、という言い方は、ずっと繰り返されてきたものです。ですが、戻ったかどうかを後から数えた人がいません」

 

「数えるまでもない。戻った者は戻った。戻らん者はいなくなった」

 

「その言い伝えは、兵を戻すために言われてきたものです。治すために言われたのではありません。知りたかったのは、あと何回使えるか。それだけです」

 

部屋が少し静かになった。

反論としては正しい。俺はそう思った。だが正しさは、この部屋の通貨ではない。通説を崩すには、別の通説か、書いてあるものが要る。彼女はどちらも持っていない。

 

議長が聞いた。

 

「では、書面には何と書きますか」

 

ヘルミーネが答えられなかった。

二通目に「名前のない状態にあるため情状を酌量した」と書けるはずがない。相手の家に送る紙に、名前のないものは載らない。

 

誰も続かなかった。

これだけの人数が座っていて、あの子に何が起きているのかを問うたのは、彼女ひとりだった。加勢も出ない代わりに、追い打ちも出ない。誰も、その話に関わらないことを選んでいる。

彼女の問いは否決されたのではない。議題に載っていない。書記の紙にも、一行も残らない。

 

「退学には反対です」

 

ドルフ・ブラントが手元の紙を整えながら言った。最初から反対している。この男の立場は入ってきたときから決まっていた。

 

「彼女の名は、すでに成果として上へ出ています。二通目にあるとおりです。ここで放り出せば、報告済みの成果を、我々が自分の手で取り消すことになる」

 

「生徒が喉を押さえられたのですが」

 

武官上がりの教官が言った。ドルフは頷いた。

 

「ですから、相応の処分は必要です。退学以外で」

 

そう言って、また紙を整えた。

 

ここまでで、この男は一度もあの子の話をしていない。

祭りの夜のことも、あの子が今どうしているかも、口にしない。天秤に載っているのは、生徒ではなく報告の一行だ。悪意はない。この人は融和政策を本気で信じている。信じているから、政策の記録のほうが先に出てくる。

議論としては、いま俺はこの男と同じ側にいる。それが不快だった。

 

そこまで、この部屋で話されていたのは処分の重さだけだった。

 

「よろしいですか」

 

倒れた上級生の担任だった。ここまで一言も話していない。

 

「さっきから、重いか軽いかの話しかしていません。痣が残っているのは、うちの生徒です」

 

議長が「承知しています」と言った。担任は引かなかった。

 

「うちの生徒は、今夜も同じ校舎で寝ます。退学だろうが謹慎だろうが、明ければ廊下ですれ違う。実技も同じ日にある。そこをどうするのかを、まだ誰も一言も話していません」

 

部屋が静まった。書記の手も止まった。

 

俺も考えていなかった。

あの子をどう扱うかは、朝から何度も考えた。首に痕の残った生徒が明日どこを歩くかは、一度も考えていない。この人は勢力を代表していない。自分の生徒の話をしているだけだ。だから声に力がない。

それでも、そこにいる誰よりまともなことを言っていた。

 

俺はそこで初めて口を開いた。

 

「両方やります」

 

議長がこちらを向いた。

 

「処分は出す。記録に残す。二週間の自室謹慎。相手への謝罪を条件に入れる。同時に、外部の治癒師による定期の面談をつける。学院に置いたまま、診せる」

 

「それだけでは、家に返事が書けません」

 

「続きがあります」

 

俺は上級生の担任のほうを見た。

 

「実技の組を分けます。当面すれ違わない動線を作って、席も離す。寮監に通達を出す。面談は、こちらの生徒だけでなく、そちらの生徒にもつける。怖い思いをしたのはあちらです」

 

「面談を、二人ともに」

 

「片方だけやるから、どっちも失敗します。処分だけなら、あの生徒はまた同じことをやる。体が変わらんからです。治療だけなら、痣の残った生徒に学院は何もしなかったことになる」

 

ここで止めるべきだと思った。止めなかった。

 

「これなら、両方に書けます」

 

正しいから通してくれ、とは言わない。言っても通らないことを、この部屋に座って三十分で理解した。

自分の案を、二通への返事として売り込んだ。そうしないと通らない。

 

議長が顔を上げて、部屋をひと通り見回した。

 

「他にご意見は」

 

出なかった。

これだけ座っていて、誰も手を挙げない。反対も賛成も言わない。ここで口を開けば、その言葉が書記の紙に残る。残らないほうを、全員が選んだ。

黙っていることが、そのまま賛成として数えられていく。数え終わるまで、十秒もかからなかった。

 

決まった。

 

退学は見送り。二週間の自室謹慎。倒れた上級生への謝罪。記録に残す。外部の治癒師による定期面談。相手側の措置も条項に入った。

 

議長が紙をまとめながら、書記のほうを見た。

 

「そのように」

 

決めたのは会議ではない。

二つの家の力が釣り合った場所に、あの子が置かれただけだ。抗議の書状がもう少し強ければ退学になっていた。報告の写しに名前が載っていなければ退学になっていた。どちらも、あの子とは関係のないところで決まっている。

 

散会の前に、ヘルミーネが手を挙げた。

 

「治癒師の費用は、どの項から出しますか」

 

事務方が書類をめくって、顔を上げた。前例がない、という顔だった。生徒の治療は学院の治癒師の項にある。だが体の傷を治す魔法の話だ。言葉で診る者を外から呼ぶ項目は、どこにもない。

治療として起案すれば、通らない。項目のないものは通らない。

 

俺は自分から言った。

 

「問題を起こした生徒の管理、で起案してください。監督の一環で構いません」

 

ヘルミーネがこちらを見た。俺は見返さなかった。事務方が「それなら書けます」と言って、書類に書き込んだ。

 

武官上がりの教官は、この条項に反対しなかった。

反対するはずがない。危険な属国出身の生徒を、外部の人間の監督下に定期的に置く措置として読んでいる。読み間違えてくれたから、通った。

治療は、封じ込めと読めるから予算がついた。

 

名前は何でもいい。人が来るなら、それでいい。

 

 

 

廊下に出た。

 

欲しかった結論は出た。出方が最悪だった。

 

あの子が学院に残るのは、あの子が生徒だからではない。書面に名前が載っていたからだ。

俺はそれに反対しなかった。反対すれば結論が変わったかもしれないから、黙っていた。汚い理由に乗って、欲しいものを取った。

 

治癒師の件も通った。半年、どう頼んでも動かなかったものが、今日動いた。

 

動かしたのは俺じゃない。

首に痕の残った生徒だ。あの生徒は何も頼んでいない。誰かのために痛い思いをしたわけでもない。それでも、あの痣がなければ金は出なかった。

そういう順番でしか動かん場所で、俺は教えている。

 

廊下を歩きながら、肩が下りているのに気づいた。

半年ぶりだった。

下ろしたのは、俺の手紙ではない。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

ドアが二回、鳴った。

 

叩き方でわかった。重い。指の腹ではなく、関節で叩く音だ。

ルチアは授業に出ている。窓の桟の影が、床の真ん中まで来ていた。昼を過ぎたところだ。

 

「はい」

 

声がかすれた。二日、ほとんど喋っていない。

 

グレン先生が入ってきた。書面を一枚持っている。

部屋を見回さなかった。散らかっているかどうかも、わたしがどんな顔をしているかも、見に来たわけではないという入り方だった。

 

「座ってろ」

 

わたしはベッドの端に座っていた。立ちかけていたのを、そのまま下ろした。

 

先生は机の前の椅子を引いて、こちらを向けて座った。書面を机の上に置いた。読み上げるのかと思ったら、読まなかった。

 

「決まった」

 

「はい」

 

「二週間、この部屋にいろ。授業には出るな。食事は運ばせる。記録に残る。それから、外の治癒師との面談をつけた。定期でだ。日取りは追って出す」

 

一つずつ、間を置いて言った。急いでいない。わたしが聞き落とさないようにしている速さだった。

 

「もう一つ、書面に入っている。相手に謝ることだ」

 

「……はい」

 

わたしは書面を見なかった。見なくても、だいたい想像がついていた。

 

「先生、わたし、退学になりますか」

 

「ならない」

 

短い。理由も言わない。

 

「……そうですか」

 

膝の上で、右手の指を数えていた。皮のむけたところが、かさぶたになりかけている。押すとまだ痛い。

 

「当然の処分だと思います。あんなことしたので」

 

「当然じゃない」

 

顔を上げた。

 

聞き間違いかと思った。先生は同じ姿勢のまま座っている。腕を組んで、こっちを見ている。授業のときの目だ。怒ってもいないし、慰めてもいない。

 

「お前がやったと、俺は思っていない。お前の体がやった」

 

「……同じですよ。わたしの体です」

 

「そうだ」

 

否定されなかった。

 

「だから、お前が引き受ける。そこは動かん。だが、責められるのと、引き受けるのは、別だ」

 

わたしは黙った。

 

別、という言い方が、うまく入ってこなかった。

わたしがやった。だからわたしが悪い。悪いから、罰を受ける。この三つは一本の線だ。前線でも、収容所でも、ずっとそうだった。切れる場所があると思っていない。

 

「……わたしのせいじゃない、って言ってるんですか」

 

「全部がお前のせいだとは思っていない、と言っている」

 

先生が机の上の書面に手を置いた。

 

「半分は、十三のお前に剣を持たせた連中のものだ。残りのいくらかは、こっちのものだ。お前が人の喉を押さえるまで、学院は金を出さなかった」

 

「……先生は、探してくれてました」

 

「届かなかった。それはお前の落ち度じゃない」

 

言い切った。それきり、その話はしなかった。

 

わたしは膝を見ていた。

半分は誰のものか、という数え方を、したことがない。悪いことが起きたら、いちばん近くにいた人間のものになる。前線ではそう決まっていた。誰の判断でこうなったかを遡ると、遡った先に上官がいて、その上に誰かがいて、そこで足が止まる。止まるようにできている。だから遡らない。近いところで数えて、終わりにする。

 

「じゃあ、謝らなくていいんですか」

 

わたしは聞いた。半分が誰かのものなら、その分は謝らなくていいのか。そういう聞き方になった。自分でも、ずるい聞き方だと思った。

 

「そこは、俺が決めることじゃない」

 

「……命令してもらったほうが、楽です」

 

言ってから、本当だと気づいた。

命令なら、体が動く。前線で、動きたくない場所へ何度も体を運んだ。掛け金を下ろすのも、報告に行くのも、命令があれば手が勝手にやる。考えなくていい。考えないで済むことが、いちばん楽だ。

 

「知ってる」

 

先生が言った。

 

「だから言わん」

 

わたしは何も返せなかった。

 

先生は少し間を置いてから、続けた。声の調子が変わらない。

 

「あいつは怖い思いをした。それは本当にあったことだ。お前が悪いかどうかとは関係なく、あいつには答えが要る。……要ると、俺は思う」

 

最後だけ、言い方が下がった。断定を自分の側に引き取る言い方だった。

 

「行くなら、日を決める。相手にも都合がある。行かないなら、その理由を聞く。どっちでもいい」

 

わたしは長く考えた。

窓の桟の影が、床の板の継ぎ目を一本越えた。

 

「……行きます」

 

「わかった」

 

「でも、謝って済むことじゃないのも、わかってます」

 

「済まない。たぶん許されん」

 

「……ですよね」

 

「許されるためにやることじゃない。やったことに、お前が背を向けずに済むかどうかだ」

 

先生が立ち上がった。椅子を戻して、書面を机の端に寄せた。

 

「それと」

 

ドアの手前で止まった。

 

「罰だけで終わらせたら、また同じことが起きる。お前を責めておけば、大人は楽になる。それでお前の体は何も変わらん。だから面談をつけた。処分と一緒に、だ。片方だけじゃ足りない」

 

それだけ言って、出ていった。

廊下を歩く足音が遠ざかっていく。重くて、均等な足音。数えているうちに聞こえなくなった。

 

責められると思っていた。

責められるつもりで、二日間、この部屋にいた。何を言われるかも、いくつか用意してあった。お前は危険だと言われたら、はいと言う。出ていけと言われたら、はいと言う。全部わたしが悪い、で終わらせれば、そこから先を考えなくて済む。

 

閉じさせてもらえなかった。

 

半分は誰のものか、と言われた。

考えると、考えなければいけない相手が出てくる。十三のわたしに剣を渡した人たち。三日で訓練を終わらせた人たち。あの村から、同じ学校の子を四人まとめて連れていった人たち。顔がいくつか浮かんで、名前が一つ二つ出てくる。

 

まだ、そこは開けたくない。

 

ふたをして、書面を見た。

自分の名前と、上級生の名前と、日付が書いてある。字が角張っていて、読みやすい。先生の字だった。

 

 

 

謝りに行ったのは、三日後だった。

 

空いている教室に、四人いた。わたしと、あの上級生と、それぞれの担任。

上級生は襟を立てていた。それでも、顎の下に薄く色が残っているのが見えた。青と黄色の中間の色で、輪郭がぼやけている。三日から五日で引くと聞いた。まだ引いていない。治癒をかけていないのだと、そのとき気づいた。消してしまえば、書面に添えるものがなくなる。

 

わたしは頭を下げた。

 

「祭りの夜、あなたを地面に倒して、喉を押さえました。すみませんでした」

 

やったことを言って、謝る。順番は知っている。何度も見た。前線でも、隊長が上に呼ばれて、同じ形でやっていた。

言い訳はしなかった。花火の音のことも、体が勝手に動いたことも、言わなかった。言えば、この人の首の色が薄くなるわけではない。

 

上級生が口を開いた。声がかすれていた。喋りにくいのだと、すぐわかった。喉を痛めた人の声は、前線で何度も聞いた。

 

「近づかないでくれ」

 

「はい」

 

それだけだった。

 

上級生の担任が短く何か言って、二人が先に出ていった。

わたしはドアが閉まるまで、その人の背中を見ていた。歩き方を覚えるためだ。後ろ姿と、歩幅と、肩の高さ。廊下ですれ違う前に、こっちが先に見つけて曲がるためには、それが要る。避けるほうが、こっちの仕事だ。

 

許されなかった。

当然だと思った。わたしが同じことをされたら、許さない。夜中に寝ているところを起こされて、首に腕を当てられて、地面に押しつけられて、次の日に相手が頭を下げに来る。頭を下げられたところで、首の色は変わらない。

 

謝って済むことじゃない、と先生に言った。

言ったときは、言葉として言っただけだった。今のほうが、意味がわかる。

 

 

 

謹慎は、静かだった。

 

朝、ルチアが起きて、髪を結んで、教室に行く。食事は運ばれてくる。昼のあいだ、部屋には誰もいない。夕方にルチアが戻ってくる。夜になる。それが繰り返される。

 

窓の外を確認する癖は、変わらない。朝と、夜と、あと何度か。数えるとかなり多い。

昼間は本当に何もない。教科書を開いて、閉じる。何も入らない。字を追っているのに、行の終わりまで来ると、頭が最初に戻っている。

 

二日目に、部屋の歩数を数えた。ドアから窓まで七歩。窓から壁際のベッドまで四歩。数え終わってから、何のために数えたのかがわからなくなった。歩数を数えるのは、暗いところを走って出るときにやることだ。ここから走って出る用事はない。

運ばれてくる食事は、いつもどおりすぐ終わる。終わると、次まで何もない時間が長い。長いのが、こんなにきついとは思っていなかった。

 

笑顔は、まだ出ない。

洗面所の鏡でもう一度やってみた。同じだった。口が横に伸びて、途中で止まる。

 

ルチアは、何も聞かない。夜、机で書きものをして、時々こちらを見る。目が合うと、わずかに口を動かす。何か言おうとして、やめている。

やめてくれるのが、今はありがたい。ありがたいと思いながら、その飲み込んだものが部屋の中に溜まっていくのも、なんとなくわかる。

 

 

 

五日目に、ドアが速く二回鳴った。

 

「リーネちゃん、いる?」

 

返事をする前に開いた。ミラだった。

片手にノートの束、もう片手に紙で包んだ何かを持っている。息が少し上がっている。走ってきたらしい。

 

「はい、これノート。三日ぶんね。あと、これ焼き菓子。お母さんが送ってきたやつ。一個しかないけど」

 

机に置いた。ノートは束のいちばん上が開きかけていて、丁寧な字が見えた。線が真っ直ぐで、行がそろっている。書き写すのに、どれくらいかかったのかわからない。

 

「ありがとう」

 

そう言って、それきりになった。

いつもなら、ここで何か軽いことを言う。ミラの話に乗って、返して、笑わせる。声の出し方も、間の取り方も体が覚えている。覚えているのに、出てこない。

 

ミラは帰らなかった。

 

机の横に立ったまま、こっちを見ている。手を胸の前で握って、口を結んでいる。

それから、言った。

 

「心配したんだよ」

 

声が大きかった。

 

「めちゃくちゃ心配したんだからね」

 

目が赤かった。泣きそうなのを隠していない。隠す気もない顔だった。

 

「あの日から、リーネちゃんずっといなくて、教室にも来ないし、部屋も入っちゃだめだって言われるし。今日やっと入っていいって言われたから来たの」

 

わたしは何も言えなかった。

 

「なんであんなことになったのか、とかは、聞かない」

 

ミラが言った。

 

「聞かないけど。……早く戻ってきてよ。食堂、リーネちゃんいないとつまんない」

 

「……うん」

 

それだけ出た。

 

笑えなかった。ごまかせもしなかった。うん、しか出なかった。

ミラは、うん、で足りたらしい。「じゃ、また来るね」と言って、ノートを机の真ん中に押しやって、出ていった。ドアが閉まる音が大きかった。

 

わたしは、しばらく座っていた。

 

みんな、気をつかっている。

ルチアは言葉を選ぶ。選んでいる間があるのが、こっちにもわかる。グレン先生は言わないことを決めてから来る。ナタルは何も言わない。ミラは大きい声で心配したと言って、目を赤くして帰った。

どれも、こっちを気にしている。やり方が違うだけだ。

 

気をつかわれるたびに、自分がそうされる側にいることを確認する。ありがたいのと、確認させられるのが、同時に来る。

ミラのはうるさかったぶん、確認する間がなかった。それだけだ。

 

変に、楽だった。

 

 

 

ノートを開いた。

 

三日ぶんの授業が、順番に写してある。日付、教科、板書、それから余白の書き込みまで。

魔法理論のところで、手が止まった。

 

詠唱語の順番を覚えるための語呂合わせが、余白に書いてある。

ミラが自分用に作ったやつだ。集まれ、巡れ、開け、定めよ。四つの頭を並べて、そこに食べ物の名前がくっついている。四語目のところに小さく「ここで甘いものが来る」と書き足してあって、その横に絵が描いてある。細長い丸に、斜めの線が四本。揚げパンだ。線は砂糖のつもりらしい。

 

写すときに消し忘れたのだと思う。自分用のところまで、そのまま写してある。

 

わたしはそれを、しばらく見ていた。

 

口の端が、少し動いた。

笑顔ではない。鏡の前で出なかったやつは、今日も出ない。それでも、動いた。

 

この五日で、祭りの夜と関係のないものを見たのは、これが初めてだった。

 

ミラは、授業を受けながら、腹を減らして、揚げパンの絵を描いている。あの夜のことを考えていない時間が、ちゃんとある。頭の中に、そういうものが入っている。

わたしの頭の中に今あるのは、あの人の首の色と、歩き方と、廊下で避ける道順だけだ。

 

ノートを閉じた。

 

閉じてから、また開いた。

揚げパンの絵の隣が、空いている。

 

自分だったら何を描くだろう、と思った。

砂糖漬けだ。ルチアが買ってくれた、あの小さいやつ。考えるより先に、それが出てきた。

 

鉛筆を当てた。

やってみたら、くしゃくしゃになった。丸のつもりの線が歪んで、砂糖のつもりの点を打ちすぎて、潰れた虫みたいになった。ミラの絵の隣に置くと、下手さがよくわかる。こういう手の動かし方を、体が覚えていない。字と同じだ。

 

消そうとして、やめた。

 

こういうのも、いいか。

 

ミラは、消し忘れてそのまま写した。

わたしは、消さないで返す。

 

一歩ずつだ。

一歩ずつ。

 

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