九日目だった。
朝、ルチアが起きて、髪を結んで、教室に行く。少ししてから食事が寮の部屋まで運ばれてくる。食べる。下げられる。それから、夕方までのあいだ、ここには誰もいない。
六日目までは、教科書を開いていた。開いて、字を追って、行の終わりで頭が最初に戻る。それを何度かやって、七日目からは開かなくなった。開いても同じだからだ。
窓の確認は、変わらない。朝と、昼と、夕方と、夜。あと何度か。数えたら十を超える日もある。留め金を見て、下の地面を見て、木立の位置を数える。落ちたらどこへ着くかまで、毎回ちゃんと出る。
歩数はもう数えていない。ドアから窓まで七歩。窓から壁際のベッドまで四歩。二日目に一度数えたら、それで足りた。
代わりに、別のことを数えていた。
先生は、あの日、退学にならないと言った。
それだけ言って、理由を言わなかった。
命令に理由はつかない。前線ではそうだった。動くなと言われたら動かない。理由は聞かない。聞いても返ってこない。
ただ、理由の来ない命令には、たいてい上の都合が入っている。動くなと言われた日は、上が何かを待っていた。待っているものが何かを、下は知らされない。知らされないけれど、あとから形が見えることはある。補給が来たとか、別の隊が先に潰れたとか。
だから、理由を探すのは癖だ。癖が抜けないだけだ。
考えたくないことを考える時間だけが、この部屋には大量にあった。
昼過ぎに、紙が一枚、ドアの下から差し込まれた。
面談は今日の午後、と一行だけ書いてある。角張った字だった。読みやすい。線が真っ直ぐで、はねが短い。誰の字かは、見ればわかる。
わたしはその紙を、机の端に置いた。
置いてから、しばらく見ていた。
聞くことは、もう決めていた。
ドアが二回鳴った。速くない。等間隔だった。
「はい」
先生が入ってきた。片手に保温壺を持って、もう片手の指に湯呑みを二つ引っ掛けている。
部屋を見回さなかった。散らかっているかどうかも、わたしがどんな顔をしているかも、確かめに来たわけではないという入り方だった。あの日と同じだ。
「座ってろ」
机の前の椅子を引いて、こちらに向けて座った。湯呑みを二つ、机に並べる。保温壺の栓を抜いて、片方に注いで、それから、もう片方に注いだ。
湯気が上がった。匂いでわかる。砂糖の入っていない茶だ。
湯呑みが二つ並ぶのは、教官棟の執務室で二回見た。同じものが今日は、寮の、わたしの机に載っている。呼ばれる側だったのが、運ばれる側になっただけだ。
片方を、こちらに寄せた。わたしは両手で受け取った。陶器が熱い。持っている指が、少し落ち着く。
「先生」
先に喋った。
喋る順番を、九日間で決めてあった。先に用件を言われたら、こっちの話は流れる。流れたら、次の面談まで抱えることになる。
「なんだ」
「わたし、退学になってないですよね」
「ならなかった」
「あんなことしたのに」
「そうだな」
「なんでですか」
先生は答えなかった。
湯呑みを持ったまま、こっちを見ている。授業のときの目だ。急かしてもいないし、待ってやっているという顔もしていない。
この人は、聞かれたことに答えないときがある。答えたくないから黙るのではなくて、こっちが自分で言うのを邪魔しないために黙る。あの日、謝りに行くか行かないかを決めさせたときと同じ黙り方だった。
「自分で考えたんですけど」
わたしは言った。
「合ってるかどうか、聞いてもいいですか」
「言え」
わたしは湯呑みを膝の上に下ろした。
「わたし、入学試験を受けてないです」
言い慣れた話だ。生徒会室で、会長にも同じ話をした。
あのときは、この三つを並べて、それで終わりだった。並べて、同じ教室にいるのに同じじゃない気がします、と言って、そこで止まった。止まったのは怖かったからじゃない。続きが、なかった。
今はある。
「収容所で審問官の人に、使えると言われました。それでここにいます。試験は受けてないし、願書も出してないです」
「ああ」
「歴史の教科書には、わたしの村を焼いた戦争が、正当な領土回復と書いてあります。わたしはその教科書で試験を受けます。書いてある通りに書けば点が取れます」
「そうだ」
「帰省届の用紙には、帰省先住所の欄があります。わたしは書けません。書く場所がないんじゃなくて、書けない生徒がいることを、あの紙を作った人が考えていないんです」
先生は何も言わない。
わたしは息を吸った。
ここから先は、この九日で組み立てたところだ。声に出すのは初めてだった。
「わたし、成果なんだと思います」
先生の指が、湯呑みの縁で止まった。
「収容所から連れてこられて、ここに置かれて、うまくやってるところを、誰かが見てるんだと思います。見せるためのものなんだと思います。ヴェルダの子を学院に入れて、こんなに立派になりましたって」
「……」
「だから、壊れたら困るんです。壊れたら見せられないから。でも、いなくなっても困るんです。いなくなったら数えられないから」
言いながら、順番に置いていく。報告と同じ形だ。事実を並べて、そこから出る答えを最後に置く。それなら舌が動く。
「わたし、退学になってません。人の喉を押さえたのに。あの人の家が痕を消さずに置いてるのに、それでも学院に置かれてます」
「そうだな」
「面談もつきました。処分と一緒に。壊れたままにされてないってことです」
湯呑みを持ち直した。
「でも、先生、あの日、責任は半分ずつだって言いましたよね。半分は十三のわたしに剣を持たせた側で、残りは学院のだって」
「言った」
「そのあとに、こう続けました。わたしが人の喉を押さえるまで、学院は金を出さなかったって」
あれは、こっちを慰める言い方じゃなかった。自分の側の落ち度を数えた言い方だった。
九日かけて、それを裏から読んだ。落ち度ではなく順番として読むと、別のことが書いてある。
先生の顔が動かない。動かないことが、答えみたいだった。
「わたし、入学してからずっと眠れてなかったです。手も震えてました。廊下で避けられてました。あの上級生が夜中に部屋に入ってきた日も、噂が広まった日も、報告されて、それで終わりでした」
「壊れてないうちは、報告で済むんです。壊れて、しかも外に出たら、初めて金がつくんです」
わたしは自分の言葉を一度、頭の中で並べ直した。並べ直しても、同じところに着く。
「わたしが困ってるかどうかは、たぶん、関係ないんです。困ってるのが表に出て、書面になったときだけ、動くんです。だから面談も、わたしのためについたんじゃなくて、あれを二度やらせないためについたんだと思います」
言い終わって、茶を一口飲んだ。苦い。
飲んでから、自分がずいぶん長く喋ったことに気づいた。この部屋で、こんなに長く声を出したのは九日で初めてだった。
「どこでそう思った」
先生が聞いた。
「審問官の目です」
これは、考えて出した答えじゃない。最初からそこにあった。
「あの人の目は、人を見る目じゃなかったです。冷たいとか、怖いとかじゃなくて、ただ、人を見ていなかった。前線で、補充兵が来たときに上官がする目と同じでした。歩けるか、使えるか、何回持つか。それを一目で決める目です」
先生が湯呑みを机に置いた。
音がした。置くというより、下ろすのが少し速かった。
「わたし、その目、自分でもやりました」
言うつもりのなかったことが出た。
「前線に戻ってきた奴を見て、決めるんです。歩けるか、剣を持てるか、後ろに下げるか。一目で決めないと、隊が止まるので。ナタルもやってました。二人でやってました」
「だから、知ってるんです。あの目で見られてるとき、こっちは人じゃないです。人じゃないから、数えられます。数えられるものは、成果に書けます」
部屋が静かになった。
窓の外で、誰かが中庭を走っている音がした。遠い。午後の授業が終わったらしい。
「合ってるか、間違ってるか、どっちですか」
先生は、少し間を置いた。
「……だいたい合ってる」
わたしは頷いた。
当たっていた。
当たってほしくなかった、とは思わなかった。当たったほうが、まだ扱いやすい。形のわかっているものは、怖くない。夜に見えない敵より、数えられる敵のほうがいい。前線でそう習った。
そう考えているのに、湯呑みを持った手を、持ち直していた。
一度持ち直して、それから、両手で包み直した。何かを掴んでいないと落ち着かないときの持ち方だった。
「一つ、お前が知らんことがある」
先生が言った。
「なんですか」
「卒業したあとだ」
「……仕事の話ですか」
「文官としてヴェルダに戻される目がある。王国の代理として、お前の故郷を管理する側に置かれる」
わたしは黙った。
長かったと思う。窓の桟の影が動いたかどうかまでは、見ていなかった。
見えたのは、峠道だった。
関所ができている。わたしは行っていない。ナタルが言っていたし、噂も聞いた。王国の商人が通っていて、通していい商人と、通してはいけない商人がいる。誰かが紙を見て、判を押している。
その机に、わたしが座る。
それから、事務室の棚が見えた。あの用紙だ。帰省先住所、と五文字。その下に、住所を書くのにちょうどいい長さの空白が引いてある。
あの空白の前で、わたしは手が止まった。あの紙を作った人は、わたしのような生徒がここに座ることを考えていなかった。
考えていなかった側に、わたしが移る。
「……わたしが、あっち側に」
「そういう筋書きがある、というだけだ。決まってはいない」
わたしはその言い方を、頭の中で拾った。
決まってはいない。
決まっていないと言うとき、人は「ない」とは言わない。「まだ決まっていない」と上官が言った作戦は、たいてい実行された。決まっていないと言われた日から、荷物をまとめる準備をした。そういう言い方だ。
この人は嘘をつかない。つかないから、はっきり否定できないところは、はっきり否定しない。
「先生はどうなんですか」
「何が」
「わたしを教えてるのも、融和政策の一環ですか」
先生が少し考えた。考える顔をした。誤魔化す間ではなくて、どう言うかを選んでいる間だった。
「最初はそうだった」
そう言った。
「命令だからお前を担当した。属国出身者の担当をつけろと言われて、俺に回ってきた。それだけだ」
「今は違うんですか」
「違う」
「何が違うんですか」
「知ってしまったからだ」
先生は湯呑みを持たなかった。膝の上に手を置いたままだった。
「お前がどんな目に遭ったか。お前がどう壊れたか。知った上で、政策だから、で済ませられる人間は、俺にはなれなかった」
わたしはその言い方を聞いていた。
なれなかった、と言った。
できなかった、という言い方だ。この人は、自分を良く言わない。政策で済ませないと決めた、とは言わなかった。済ませられなかった、と言った。
「先生、それ」
わたしは言った。
「政策のとおりにやるなら、月に一度わたしに会って、書いて上に出すだけでよかったんですよね」
「そうだ」
「わざわざ、面倒くさいほうを選んだんですね」
「ああ」
先生が言った。
「面倒くさい」
鼻から息が抜けた。音が出た。
顔は動かなかった。動かなかったけれど、音は出た。九日ぶりだった。
先生の肩が、一度だけ上下した。声は出なかった。この部屋で、同じところで息を抜いたのは初めてだった。
「面倒くさいが」
先生が続けた。
「意味のあることだ」
返す言葉が出てこなかった。
「……それで、今日は何の用だったんですか」
わたしは聞いた。用件があって来たはずだ。面談は今日の午後、と紙に書いてあった。
「忘れるところだった」
嘘だ。
この人は、忘れない。書面の日付を一日も間違えない人が、用件を忘れるわけがない。忘れるところだったと言ったのは、切り出す順番を決めてあって、その順番がここだったからだ。
「治癒師が見つかった」
わたしは顔を上げた。
「見つけたら受けてくれ」と、この人はあの執務室で言った。あのとき、探していると言った。まだ見つからないと言った。それだけだ、と言って、茶を一口飲んで終わりにした。
「エーデル・ヴァイスという。女だ。四十を越えている」
わたしはその名前を、口の中で一度言った。ヴァイス。王国の名前だ。ヴェルダ語ではない。
四十を越えている、というところも考えた。王国は何度も戦争をしている。わたしの戦争が初めてではない人が、来るということだ。
「心の傷を診る。魔法じゃない。言葉と時間でやる技術だ。体の治癒とは別物で、教本もない。人によって、やり方も違うらしい」
教本がない。ということは、その人が今までやってきたことが、そのまま手順になっている。
「そういう治癒師は、大陸に数えるほどしかいない。散らばっていて、伝手をたどらんと名前も出てこない」
「先生、手紙、出してたって言ってましたよね」
「四通出した」
四通。あの執務室では、通数を言わなかった。数が少ない、返事が来ない、それで終わりだった。何通出したかまでは、この人も数えていないのだと思っていた。
「二通は返ってこない。生きているのかも確かめられん。一通は、大陸の南で別の患者を診ていると書いてあった。動けんそうだ」
「もう一通は、まだ待っている」
「じゃあ、その人は」
「五通目じゃない。手紙じゃ届かなかった。元の軍医の伝手をたどって、人を挟んで、頼み込んだ」
言い方が短くなった。
「来週来る。お前とフォルケの両方を診てもらう。治癒師は一人しか来ない。二人で一人だ。それで足りるのかは、俺にはわからん」
「だが、一人でもいる」
わたしは湯呑みを見ていた。茶が半分になっている。
先生が一拍、黙った。
湯呑みに手を伸ばして、持ち上げて、飲まずに置いた。置き方が硬かった。机に当たる音が、さっきより大きかった。
「……入学した日から探していた」
そう言った。
「半年かかった」
それだけだった。
半年。わたしは数えた。入学した日から、今日まで。門をくぐったのは春の終わりで、それから夏が来て、創立祭があって、今は九日目だ。数えると合う。合いすぎる。
出し続けていることは知っていた。あの執務室で、それだけだ、と片づけられた日に、わたしも一度数えた。あのときは、二月か三月だと思った。
その倍だった。二月や三月ぶんの手紙ではなかった。半年ぶん、この人は教壇に立って、わたしの居眠りを起こして、模擬戦を見て、それをやりながら手紙を出していた。返ってこないものを、四通目まで。一通ずつ、どれが返ってこないかを覚えたまま。
先生の手が、膝の上で握られていた。
指の関節が白い。力が入っている。
怒っている。わたしにではない。
「……すまない」
「先生のせいじゃないです」
わたしはすぐ言った。それは本当だ。この人は探していた。届かなかったのは、この人が怠けたからじゃない。
「間に合わなかったことは事実だ」
言い切った。それきり、その話はしなかった。
わたしは黙っていた。
助けてと言ったのは、あの朝だ。
あれは、決めて言ったんじゃない。喉に詰まっていたものが、押し出されて漏れた。言ってから、自分が何を言ったのかが、少し遅れてわかった。決断ではなかった。
今度は、決める話だった。
治療を受ける。
それは、壊れているところを、人の手に渡すということだ。
前線では、自分で何とかした。何とかできなくても、何とかするしかなかった。腕が動かなくなったら、動くほうの腕を使った。骨が出たら、押さえて走った。誰かに、直してください、と言ったことがない。言う場所がなかったからじゃない。言うという発想が、体の中になかった。
わたしはさっき、自分の口で、自分が成果だと言った。数えられる側だと言った。
人の手に渡すのが怖いのは、渡した先で何をされるかわからないからだ。審問官の目の前に立ったとき、わたしは自分の体を差し出して、値段をつけられるのを待っていた。断る選択はなかった。断れる立場になかった。
でも、この手は、探していた手だ。
半年、探していた。見つからないまま、それだけだ、で片づけて、探し続けた手だ。
そしてわたしは、それを受けるか受けないかを、今この部屋で決められる。
誰の手を取るかを、選べる。
前線に、そういうものはなかった。命令があるか、ないかだった。
「……先生」
「なんだ」
「ずっと探してくれてたんですね」
「言っただろう」
先生が言った。
「見つけたら受けてくれ、と」
「はい」
出た音は、命令に返す「はい」と同じ音だった。
同じ音なのに、中身が違う。命令の「はい」は、考えなくていい。体が先に動いて、あとから頭がついてくる。楽だ。楽なのがいいところだ。
今のは、頭で決めて、口に出した。楽ではなかった。
先生は頷いた。よかった、とも、そうか、とも言わなかった。
「日取りは追って出す。来週だ」
「はい」
「面談の場所は医務室じゃない。別に部屋を用意させた」
「はい」
先生が立ち上がった。椅子を机の下に戻して、保温壺を持った。
ドアの手前で、止まらなかった。
あの日は止まった。ドアの手前で止まって、罰だけでは足りないという話をした。今日は止まらずに出ていった。
言うことがなかったのだと思う。
廊下の足音が遠ざかっていく。重くて、均等な足音だ。数えているうちに、聞こえなくなった。
わたしは湯呑みを持ち上げて、残りを飲んだ。
苦い。甘くない。
執務室では、二回とも半分残した。今度こそ全部飲もうと思って、二回とも半分だった。
今日は、全部飲んだ。
夕方、ルチアが帰ってきた。
鞄を置いて、いつも通り窓を開けて、それから机の上を見た。湯呑みが二つ並んでいる。片方は空で、もう片方も空だった。
「先生、来たの?」
「うん」
わたしはベッドの端に座っていた。座ったまま、話した。
「治癒師が見つかったって。来週から」
ルチアの手が止まった。開けた窓の縁に、指をかけたままだった。
「……来るの」
「うん」
「受けるの?」
「受けるって言った」
ルチアは窓から手を離して、こっちを向いた。
何か言おうとして、口が半分開いて、閉じた。それからもう一度開いた。
「よかった」
短かった。それから、目のあたりが赤くなった。
「ごめん、なんか、わたしが言うことじゃないのに」
「言っていいよ」
ルチアは首を振って、袖で目を押さえた。押さえてから、椅子に座って、こっちを見た。
「わたし、一緒にいる」
「一緒って」
「部屋にいる。終わったら、リーネここに帰ってくるでしょ。そのとき、部屋にいる」
前もそうしていた。あの夜、椅子に座ったまま朝までいた。袖に血がついていた。今も、あの袖は着ていない。
一緒にいる、と言うとき、この子は具体的な場所を言う。部屋にいる、と言う。手を握るとも、話を聞くとも言わない。いる、と言う。
「……ありがとう」
「うん」
ドアが速く二回鳴った。
「リーネちゃん、いる?」
返事をする前に開いた。ミラだった。後ろにナタルがいる。
ミラが袖から紙の包みを出した。中身はパンだ。食堂のやつだ。
「はい。持ってきた」
わたしはその包みを見た。
「持ち出しだめでしょ」
「袖に入れたらわかんないもん」
ミラが机にパンを置いた。ナタルは戸口のところに立って、入ってこない。壁際に寄って、そこから部屋の中を見ている。
「ナタル、入りなよ」
ナタルは一歩だけ入った。それから、ドアの近くの壁に背中をつけた。
「今朝、言われた」
ナタルが言った。
「治癒師が来ると」
「聞いた?」
「聞いた」
「受けるの?」
ナタルは黙った。長かった。
右手が、開いたり閉じたりしている。閉じるとき、親指以外の爪が掌に食い込んでいる。あの手を開いたら、三日月の形の跡が四つ並んでいる。何度も見た。
「受ける」
そう言った。
それから、もう一言足した。
「一人は嫌だ」
わたしは、その一言を聞いていた。
ナタルは、嫌だと言わない。二年間、一度も言わなかった。まずい任務を渡されても、上に呼ばれた夜も、朝に戻ってきたときも、何も言わなかった。嫌だと言う場所が、あの部隊にはなかった。言えば、次に回される。
嫌だ、と言った。
「うん」
わたしはそれだけ言った。それ以上言うと、この子は次から言わなくなる。
ミラが、机の横に立ったまま口を開いた。
「わたし、治療とかよくわかんないけど」
そう言って、少し詰まった。
「痛いのとか、こわいのとか、なんもわかんないから、なんて言えばいいかわかんないんだけど」
「うん」
「ごはんは一緒に食べられるから」
ミラがパンの包みを、指で押した。
「毎日待ってるね。壁際の席。取っとくから」
軽い言い方だった。声が明るくて、語尾が上がっていた。
軽いのに、本気だった。この子はいつもそうだ。重い顔をしないで、重いことを言う。
部屋に、三人いた。
謹慎中の部屋だ。授業に出るなと書面に書いてある部屋で、ルチアが椅子に座って、ミラが机の横に立って、ナタルがドアの近くの壁に背中をつけている。
誰も、治るのかとは聞かなかった。
治るのか、と聞かれたら、答えられなかった。わたしは知らない。先生も知らないと思う。二人で一人の治癒師で足りるのかも、わからんと言っていた。
ルチアがミラの袖を見た。まだ何か入っている、と言った。ミラが袖を押さえた。ナタルは壁のところで、それを見ている。
「……リーネちゃん、これも」
「まだあるの?」
「非常用」
「非常って?」
「お腹すいたとき」
「はは、ありがと」
これにて二章が完結となります。
今後とも読んでくださると幸いです。