◆ 女性および若年の従軍者
ヴェルダ戦争の従軍者のうち、記録の様式そのものによって後年の集計から外れた層について、先に述べる。
◇ ヴェルダにおける動員
ヴェルダは戦争の後期に兵員が枯渇し、動員の範囲を広げた。年齢の下限が下がり、十代前半の兵が前線に置かれた。同じ時期、女性が戦闘部隊に配置された。
女性の従軍について、ヴェルダ側の記録は明確である。編成表に氏名と所属が記され、任務は斥候、狙撃、伝令、爆破、遊撃隊における小隊の指揮に及ぶ。戦功の記載があり、負傷の記載があり、戦死者の名簿に名がある。補助的な役務に限られていたのではない。前線で戦闘に従事した記録として残されている。
ただしこれらの記録の大半は、敗戦の時点で失われた。兵籍は継承されず、部隊ごとの記録も散逸している。現存するのは、王国側が押収し、または捕虜の処理に際して作成した文書に限られる。
◇ 王国側の記録における扱い
王国側の記録において、これらの従軍者は兵員の区分ではなく、捕虜の員数として扱われている。年齢と性別の記載はあるが、任務と階級の記載はない。ヴェルダ側の編成表にあった職務が、王国側の書式では引き継がれていない。
女性の従軍者について、王国側の名簿は「補助」「補員」の語を用いる。この語はヴェルダ側の記録には現れない。押収した編成表と、王国側が作成した名簿とを照合すると、狙撃手として戦功の記載がある者が、後者では補員として記されている例が確認される。
若年の兵についても同様である。年齢は記載されるが、従軍の期間と任務は記されない。負傷の記載は身体の外傷に限られる。
診察は行われていない。症状の記載がないのは、症状がなかったためではなく、診察の対象に含まれていなかったためである。
◇ 加害の記録
従軍中および収容中に、これらの従軍者に対する加害があった。記録に残っている。
ただし記載の位置が異なる。被害を受けた者の傷病としてではなく、加害にあたった者の規律違反として綴られている。処分の対象は加害者であり、記録は懲罰の記録である。被害の側について、負傷の記載も、診察の記載も作成されていない。
したがってこれらは、後年の症例の集計に算入されていない。区分が異なるためである。件数を示す資料としては、懲罰の記録が残るのみで、そこに記されるのは処分を受けた者の数であって、被害を受けた者の数ではない。
◇ 戦後
戦後、これらの従軍者について、従軍の事実を示す公的な記録は作成されていない。ヴェルダ側の記録は失われ、王国側の記録は捕虜の員数にとどまる。証明の手段を持たない者が、この層の大半を占める。
帰郷後の処遇についても記載がある。従軍歴が婚姻および就業の妨げとなった旨の報告が、戦後十数年にわたり各地から寄せられている。後年の聞き取りでは、従軍の事実を近親者にも告げなかった例が多数記録された。この層についての申請が著しく少ないのは、以上の経路によるものと考えられる。
◆ 収容所
収容所は王国が設置し、運営した。所在、規模、収容の員数は記録に残る。
被収容者には労働が課された。従事した作業は、採石、伐採、道路の敷設、駐屯地の営繕である。労働時間は一日十時間を基準とし、繁忙期にはこれを超えた記録がある。
配給については、規定量を下回る記載が複数の収容所に共通して現れる。冬季に規定の七割を配した記録がある。作業量に応じて配給を増減する運用が、監督者の裁量で行われていた。
医療は身体の外傷および感染症に限られた。労働に起因する負傷の記載は多いが、精神症状の記載はない。診察の項目に置かれていなかったためである。
規律違反に対する罰として、減食、独居、屋外での長時間の起立が用いられた。処罰の記録は残るが、事由の記載は「規律違反」の一語にとどまるものが大半である。
死亡は「病死」として記載された。死因の内訳を記した文書は、いずれの収容所についても作成されていない。
戦後、被収容者側からの聞き取りが一部で行われた。記録された処遇と、聞き取りに現れた処遇との間には、規模において差がある。照合しうる文書が失われているため、差の由来は確定していない。
◆ 戦役後精神障害
戦闘への従事ののち、身体の治癒が完了してもなお持続した精神症状の総称。恩給表の傷病区分に置かれている。
以下の記述は、名称の制定より後に整えられた区分に従う。戦争の当時、当事者がこの語を用いた事実はない。
症状そのものの記載は、それ以前から各地の軍医の記録に散在する。辺境戦争の記録に既に類似の記述が確認されており、以後の戦争のたびに同様の記載が現れ、終戦から数年のうちに記録から消える経過を繰り返している。統一した名称も、傷病としての区分も置かれなかった。継続して観察する主体が存在しなかったためである。
◇ 症状
主なものは次のとおり。
・睡眠の障害。入眠の困難、中途の覚醒、反復する悪夢。悪夢は同一の場面を繰り返す例が多い。内容は戦闘そのものよりも、その直前または直後の情景であることが多いとされる。
・音、光、匂いに対する過剰な反応。特に金属の触れ合う音、閃光、物の焼ける匂い。予期された訓練中の剣戟音には反応が生じず、予期しない落下音や破裂音に生じるという差が、複数の記録に共通して現れる。
・記憶の侵入。戦闘時の光景が、本人の意図によらず、現在の知覚に重なる。想起の順序は経験の順序によらない。本人が想起を選ぶことはできず、到来を事前に察知することもできない。
・身体の反応。手指の震え、呼吸の乱れ、硬直。本人がこれを寒気、疲労、運動の直後などの身体的な理由に帰する例が多い。
・感情の反応の平板化。近親者または戦友の死に際して落涙のない例が、複数報告されている。
症状の組み合わせと強度には個人差が大きく、共通の型を示さない。このことも、独立した傷としての承認を遅らせた要因の一つに数えられる。
このほかに、前線での習慣が平時にも持続した例が知られる。就寝の前に窓と出口を確認する、食事を数分で終える、背を壁に接して眠る、身近な者の所在をたびたび確かめる、などである。当時これらは症状として扱われず、記録にも残されていない。日常の遂行に支障をきたさず、本人からの訴えもなかったためである。現在の観点からは、警戒態勢の持続として同一の系列に置かれる。
◇ 魔法戦闘との関連
魔法技術の発達に伴い、戦術の主軸は魔法による面制圧へ移った。歩兵は遮蔽のない場所で隊形を保てず、前線は塹壕と掩体への依存を深めた。
火球の炸裂について、当時の記録は次のように記す。閃光は瞼を閉じても白く映り、残像がしばらく視野に残る。続いて空気の壁が来る。掩体の内側にあっても胸と腹を打ち、息が一度止まる。土嚢と梁が揺れ、天井から土が落ちる。至近の場合、耳の内側に痛みが生じ、以後しばらく音が遠くなる。命令が聞き取れなくなった旨の記載が多い。
風刃は音を伴う。頭上を通過する際の高い音が、記録では「布を裂く音」と表現される。掩体の縁が削られ、土が顔にかかる。姿勢を上げた者が失われる例が多いため、通過音のあいだは伏せたまま動かないことが求められた。
面制圧は数刻に及ぶことがあった。そのあいだ、兵は同じ姿勢で、閃光と衝撃と通過音を反復して受ける。反撃も退避も選べない。着弾によって掩体が崩れ、生き埋めとなる事例も記録されている。掩体は防護と同時に移動の制限をもたらした。この状態が継続する時間は、白兵の接触そのものよりも長いのが常であった。
この戦い方が定着して以降、症例の記載は増加している。
こうした経験と症状との対応から、体内に残留した魔力が神経を損なうとする説が立てられた。以下、「魔力残滓説」と呼ぶ。症状を訴える者に魔法戦闘の経験者が多く含まれたこと、また魔力の過剰な消耗が眩暈や吐き気を生じさせることが既に知られていたことが、この説を有力にした。
魔力残滓説は、今日では否定されている。否定の根拠となったのは症例の照合である。魔法の炸裂に一度も近接していない兵に、同一の症状が現れた。逆に、至近で炸裂を受けながら症状を示さない者も多数あった。曝露の有無と発症の有無が対応しないことが、複数の部隊の記録を突き合わせた際に示された。
ただし帰結は重かった。原因が体内の魔力であるならば、それは治癒魔法によって除去できるはずのものとなる。したがって、治癒を施した後にも症状を訴える者については、傷のほうではなく訴えのほうに問題があるとみなされた。詐病、怠惰、規律の欠如といった評価が、所見に代えて記載されている。
同じ時期、身体の治癒技術が高度に発達していたことが、身体以外の傷の発見をかえって遅らせている。裂傷、骨折、熱傷、内臓の損傷は、魔力が足りるかぎり修復できた。治癒の可否が明瞭であったため、診察は身体所見の消失をもって終了とされた。「体は治っている」という一句が、以後の観察を打ち切る根拠として用いられた。
◇ 処遇の変遷
処遇は三つの段階を経た。
第一期。規律の問題として処断された。戦闘中の硬直は命令不服従、戦場からの離脱は敵前逃亡として扱われた。処刑の記録が残る。処理の多くは部隊の内部で完結したため、軍法会議の記録に現れるのはその一部にとどまる。
第二期。「兵の消耗」として扱われた。この語は、状態の一時性を含意するものとして選ばれている。恒久の傷を意味する語を避けることが、選定の条件であった。
処置は前線の近くで、発症から短い間に行うものとされた。後方へ遠く送ることは、離脱が容認されたという理解を本人に与え、復帰を妨げるとみなされた。処置の目的は回復ではなく、任務への復帰であった。
軍医の手引きには同名の項が置かれたが、全三頁にとどまる。記述は次の範囲を出ない。長く前線にいた兵は判断が鈍り、命令への反応が遅れる。休養と規律の再徹底により回復する。繰り返す者は後方任務に回すこと。何がそれを引き起こすかについての記載はない。士気と個人の弱さの問題として整理されている。
また一時期、症状を指す通称の使用が、公文書において禁じられた。名を与えることが訴えを増やし、恩給の請求を招くとみなされたためである。代わりに「診断未了」の記載が用いられた。
第三期。傷としての承認。契機は戦場ではなく、請求を続けた除隊者の側からの働きかけと、後述の行政上の必要であった。
◇ 命名
名称は、治療上の必要からではなく、行政上の必要から制定された。
恩給の支給範囲を定めるにあたり、身体に所見を持たない不能者を対象に含めるか否かを決する必要が生じた。含めるとすれば、その状態を指す語が要る。語がなければ、支給の可否を書面に書くことができない。
区分の設置を要したのは、請求の件数が無視しえない規模に達したためである。請求は却下され、却下は不服として繰り返し提出された。除隊者の一部は互いに連絡を取り、同一の症状を訴える者をまとめて共同の申し立てを行った。これに応じる軍医と治癒師が現れ、症例の記載を添えた意見書が提出されるようになる。判断の根拠を書面に持たないまま却下を続けることが、事務として成り立たなくなった。
制度の側が状態を認めたのではない。認めざるをえない件数を、請求の側が積み上げた。
制定にあたっては複数の案が比較された。選定の基準は、症状を正確に言い表すことではなく、支給区分としての境界の明確さであった。制定の経緯を記した文書に、症状の重さについての言及はない。
◇ 判定の様式
判定は軍医または審問官が行い、定型の語によって記載された。「感情の反応が薄い」「心的外傷の兆候あり」「経過観察を要す」。
これらは状態の説明ではなく、処遇の区分として機能した。「経過観察を要す」と記載された者について、実際に観察が行われた記録は、ほとんど残っていない。
同じ様式は、捕虜および属国出身者の評価にも用いられた。ただしその目的は治療の要否の判断ではなく、労務および教育への適性の判定であった。同一の語が、処遇の決定と適性の格付けという別々の用途に、様式のまま流用されている。
◇ 治療
初期の処置は、休養と転地であった。これと並んで、暗示、隔離、拘束が試みられた記録がある。痛みを与えて反応を引き出す方法も用いられた。いずれも症状の除去を目的とし、効果は任務への復帰の可否によって判定された。復帰しない者について、処置の側ではなく本人の意思を問題とする記載が残る。
魔力残滓説が退けられた後も、より強い治癒魔法を反復して施す試みが続いた記録がある。
現在用いられる方法は、魔法によらない。語りを聞き取り、断片化した記憶を時系列に置き直し、現在が安全であることを身体に認識させる。用いるのは言葉と時間である。
この方法は、体系的な研究から生まれたものではない。少数の実践者が、症例を一つずつ重ねて個別に確立した。初期の実践者の多くは、身体の傷を扱う治癒師から転じた者である。体を治した後にもなお動けない患者を担当し、そこから各自の手順を組み立てた。教本のない期間が長く、口頭と実地によって伝えられたため、習得に要する年数が長い。したがって実践者は増えなかった。名称の制定より前の時期、これを扱える者は大陸の全体で数えるほどであった。
◇ 経過
持続の期間は一定しない。数か月で軽快した例から、二十年を経てなお症状の記載が続く例まである。完全な消失に至った例は少ない。
持続を左右する要因については、見解が分かれている。曝露の反復と期間を重視する説、除隊後の生活環境を重視する説、従軍時の年齢を重視する説がある。いずれも症例の集積に基づくが、対象の選び方が異なるため、比較しうる形になっていない。
このため回復は、症状の消失としては定義されない。過去の記憶が、現在の判断と行動を支配しなくなった状態をもって、回復とする。想起も反応も残ってよい。本人がそれを認識でき、短い時間で現在に戻れるならば、それを回復とみなす。
◇ 記録に現れない層
症例が記録に残るか否かは、発現の有無ではなく、恩給の申請が行われたか否かによって決まった。診察は申請を受けて行われ、記載は診察を受けて生じる。申請のない者について、症例の記録は存在しない。
戦後の追跡調査は恩給の申請者を対象とした。したがって、申請しなかった者、制度の存在を知らなかった者、調査の時点で既に死亡していた者を含まない。除隊の時点で成人に達していない者は、申請に後見人の署名を要した。家を失った者、家族の生死が不明な者は、この段階で手続きから外れている。
以上は王国の兵についての経路である。ヴェルダの兵は、敗戦国の兵として恩給制度の対象に含まれない。したがってヴェルダ側の症例は、王国が捕虜または属国民として記録した範囲を出ない。
◇ 現在
現在、この障害は独立した傷病として扱われる。恩給の区分に記載があり、治癒院の一部は専門の課程を置く。判定の手続きと、配慮の要件を定めた条文がある。
ただし普及には長い時間を要した。この語が軍医の内部文書と一部の治癒院の外へ出るまでに数十年、教育機関の蔵書に現れるのは、さらに後年である。名称が用いられるようになった後にも、これを身体の傷病と同等には扱わない例が、久しく残った。
度重なる戦争のいずれの当時にも、この名称は存在しなかった。近年のヴェルダ戦争においても同様である。前線にも、学舎にも、この状態を指す語を持つ者はいなかった。それを傷として認識していた者はあったが、用いた呼び方は各自の経験から出たものであり、他の者には通じなかった。
規程は、名のある事項についてしか条文を持たない。当時の軍および学舎の規程に、この状態への言及は見あたらない。これを理由とする配慮も、これを想定した禁止も、条文としては存在しなかった。当時の事案の記録には、原因の欄が空白のまま残されたものが多い。責任の帰属を記した項も置かれていない。違反の対象となる条文が存在しなかったためである。
区分の適用件数は、制定から現在にいたるまで増加の傾向にある。要因としては、申請の周知が進んだこと、判定の基準が段階的に緩和されたことが挙げられる。ただし近年の申請者には、ヴェルダ戦争の従軍者に加え、以後の辺境における戦闘の従軍者が含まれる。
名称が与えられ、区分が置かれ、条文が整えられた現在も、症状を抱えたまま日を送る者が各地にある。眠れない夜を続ける者、音に身をすくめる者、家族に何も語らないまま老いた者について、いずれの土地にも記録がある。治療にあたれる実践者の数は、今なお需要に足りない。
名がついたのは、傷が減ったためではない。