わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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戦い方
治癒師


書面には二週間と書いてあった。

数えると十四日で、十五日目の朝から、廊下に出ていいことになった。

 

制服を着た。ボタンを留めて、襟を正す。

右手の甲に、かさぶたが四つ並んでいる。指の付け根のところだ。乾いて縁が浮いてきている。握れば少し引きつるけれど、痛みというほどではない。剥がすと下がまだ赤いので、そのままにしてある。

 

廊下に出た。

灯りが等間隔に点いている。石の床が朝のうちはまだ冷たい。二週間ぶりに歩く道なのに、歩数は体が覚えていた。階段まで二十六歩。踊り場で折れて、下りて、そこから食堂まで。

 

食堂の入口で、足が止まった。

 

中は普通に朝だった。器の音がして、椅子を引く音がして、誰かが笑っている。

そこに一歩入れば、視線が来る。何人が振り向くかまでは数えられる。数えたくないから、入口で止まっている。

 

「リーネちゃん」

 

奥から声がした。

 

壁際の、出口に近い席だ。ミラが立ち上がって、片手を上げている。もう片方の手で、向かいの椅子を叩いていた。テーブルには盆が二つ載っている。一つは食べかけで、もう一つは手つかずだ。

 

「こっちこっち。取っといた」

 

わたしは歩いた。

視線は、来た。何人か振り向いて、何人かは振り向かないふりをした。どっちもわかる。わかるけれど、行き先が決まっていると、足は動く。目的地のある移動は楽だ。前線でもそうだった。

 

椅子を引いて座った。壁が背中に来る。入口が正面にある。この席は、わたしが自分で選んだのではない。

 

「スープ、今日のやつ、当たり」

 

ミラが匙で自分の器を指した。

 

「豆のやつなんだけどね、今日のは玉ねぎがちゃんと溶けてるの。溶けてない日はね、玉ねぎの層と豆の層に分かれるんだよ。層になってると、下のほうが濃くて、上が薄いの」

 

「層」

 

「層。だからかき混ぜないと損なの」

 

ミラは、二週間のことを聞かなかった。

どうだったとも、大丈夫かとも、あの夜のこととも言わなかった。玉ねぎの層の話をして、それから匙で自分の器をかき混ぜて、実演までした。

 

わたしは器を持った。ミラの言うとおり、玉ねぎは溶けていた。

 

食べた。速い。二週間、部屋で一人で食べていたのに、速さは戻らなかった。というより、部屋にいたときのほうが速かった気がする。誰も見ていないと、体が急ぐ理由もないのに、急ぐ。

 

「速い」

 

ミラが言った。責めていない。感想だった。

 

「うん」

 

わたしは口の端を上げようとした。

上がらなかった。頬の下のところに力を入れて、引く。その動きが出てこない。二週間前からずっとそうだ。形の作り方は覚えているのに、体が実行しない。

 

「今日、午後でしょ」

 

ミラが匙を置いて言った。

 

「うん」

 

「終わったら、ここにいるから」

 

「授業は」

 

「授業はあるよ。だから授業のあと」

 

言ってから、ミラは自分のパンを半分に割って、片方をわたしの盆に置いた。置いてから、少し考えて、もう半分も置いた。

 

「非常用」

 

「昨日も非常用って言ってなかった?」

 

「毎日が非常だから」

 

わたしは、パンを二つ受け取った。

 

 

 

午後の面談は、医務室ではなかった。

 

教官棟の一階、廊下を奥まで行った突き当たりの、札のかかっていない扉だった。

前は物置だったらしい。壁に、棚を外した跡が四本、上から下まで縦に残っている。壁の色がそこだけ薄い。

 

約束の時刻より、だいぶ早く着いた。

これは癖だ。集合の刻限に着くと遅い。着いてから場所を確かめる時間が要る。誰かに言われたわけではなくて、いつのまにかそうなっていた。

 

廊下で待つあいだに、数えた。

扉は一つ。窓は廊下側になくて、部屋の中にあるかどうかはわからない。階段までの距離、十二歩。階段を上がれば、二階の廊下の突き当たりに先生の執務室がある。廊下に人はいない。

 

扉が開いた。

 

「カルヴァスさんですね」

 

小柄な人だった。わたしより少し高いくらいだ。

髪を後ろで一つにまとめている。飾り気のない結び方だった。灰色が混じっている。目尻に皺がある。着ているものも地味で、治癒院の人だと言われなければ、事務の人かと思う。

 

「エーデル・ヴァイスといいます。入ってください」

 

声が小さかった。

小さいというより、低くて、通らない。聞き取るために、こっちが少し前に出ることになる。

そういう声の人はいる。喉が弱い人とか、大きな声を出す習慣のなかった人とか。でもこの人は、たぶんそうではない。廊下の反対側まで届かない声を、わざと出している。

 

部屋には机が一つと、椅子が二つあった。

向かい合わせではなかった。机を挟んでいるけれど、正面ではなくて、少し角度がついている。

 

わたしに勧められた椅子は、扉が見える側だった。

座ってから気づいた。座った位置から、扉の全体が見える。ヴァイスさんの椅子は、扉に背を向ける側だ。

偶然かもしれない。壁の窓の位置と机の向きで、自然にそうなっただけかもしれない。

 

そこまで考えて、やめた。考えても、聞かなければわからない。

 

「お茶を出します。熱いのと、ぬるいのと、どちらがいいですか」

 

「あ、どっちでも」

 

「では、ぬるいほうにします。熱いと、持っているあいだ手が塞がるので」

 

ぬるい茶が出てきた。

手が塞がるというのが何のことか、そのときはわからなかった。あとで、熱い器は両手で持たないといけないのだと気づいた。この人は、こっちの手を空けておいた。

 

初めての人に会うときは、名乗るより先に口の端を上げておく。そうしておくと、話が楽になる。怒鳴られる回数が減る。

今日は、朝より動いた。頬の下のところまでは動いてそこで止まって、戻ってこなかった。中途半端に開いた口だけが残った。

 

「眠れていますか」

 

ヴァイスさんが言った。

 

こっちの顔の失敗には触れなかった。見なかったふりでもなかった。見て、それから次のことを言った、という感じだった。

 

「……まあまあです」

 

「昨日は、何時ごろ横になりましたか」

 

「消灯のあとです。たぶん、鐘の少しあと」

 

「眠りに落ちたのは」

 

わたしは考えた。

 

「わからないです。天井を見てました。しばらく」

 

「しばらくというのは、どれくらいですか」

 

「……廊下の見回りが二回通ったので、二回ぶんです」

 

言ってから、口を閉じた。

見回りは決まった間隔で来る。二回ぶんの時間なら、だいたい出る。出るけれど、口には出さなかった。

 

ヴァイスさんは急がなかった。

一つ聞いて、答えを待って、少し置いてから次を聞く。詰めてこない。

審問官の聞き取りは逆だった。畳みかけて、こっちが考える前に次を言わせる。考える時間を渡すと、嘘のほうが整ってしまうからだ。

この人は、整う時間をこっちに渡している。渡した上で、嘘なら嘘のまま置いておくつもりらしい。

 

「夜のうちに目が覚めることは」

 

「あります」

 

「何回」

 

「昨日は、二回」

 

「目が覚めたとき、何をしますか」

 

「窓を見ます」

 

これは即答だった。

 

「留め金と、下と、木立の位置です。そのあと、もう一回横になります」

 

ヴァイスさんは頷いた。

書いていなかった。机の上に紙はあるけれど、ペンを持っていない。聞いているだけだ。

 

「大きな音に驚くことは」

 

「たまに」

 

「たとえば」

 

「食堂で器が落ちたときとか」

 

「落ちたとき、どうなりますか」

 

「匙を握ります」

 

これも即答だった。

自分でも、答えの速さに驚いた。考えていない。考えるより先に、答えが出た。それはつまり、何度も起きているということだ。

 

「握ったあとは」

 

「……気づいたら、握ってます」

 

「握るところは、自分では見ていないんですね」

 

「はい」

 

部屋が静かになった。

 

わたしは、自分がさっき「まあまあ」と言ったことを思い出していた。

まあまあ。二回起きて、二回窓を見て、器が落ちたら匙を握っている。それを、まあまあと呼んだ。

 

呼んでいた。ずっと。

 

「夢は見ますか」

 

湯呑みを持ち直した。

 

「見ます」

 

「毎晩ですか」

 

「毎晩じゃないです。週に、何回か」

 

「どんな夢ですか」

 

わたしは茶を持った。ぬるい。両手でなくても持てた。

 

「戦場の夢です」

 

「同じ夢ですか」

 

「同じじゃないです。順番もないです。ばらばらに来ます」

 

言った。

言ってから、これを人に言ったことがないと気づいた。ルチアにも、ナタルにも、先生にも言っていない。夢の話は、聞かれたことがなかった。

 

「わたし、おかしいですか」

 

聞いた。

聞くつもりはなかった。喉から先に出た。

 

ヴァイスさんは、間を置かなかった。

 

「おかしくありません」

 

こっちを見て言った。

 

「あなたの反応は、異常な状況に対する正常な反応です」

 

「……正常」

 

「戦場で二年間、生き延びた。仲間が死ぬのを見た。捕虜になった。そういう場所に置かれた体は、そこで生き延びられるように変わります。夜に眠り込まない。音に先に反応する。感じないようにする」

 

言い方は淡々としていた。ここは何度目かの説明なのだと思う。何度も同じことを言ってきた人の言い方だった。

 

「感じないようにすることで、あなたは自分を守ってきました。戦場では、それが正しかった」

 

正しかった、と言った。

 

わたしは、その言葉のところで止まった。

正しかった、と言われたのは初めてだ。壊れているとは言われた。重傷だとも言われた。許可証の裏にも字があった。心的外傷の兆候あり、経過観察を要す。あれも、今のわたしについての行だった。

あのころのわたしのやり方が正しかったかどうかを、誰も採点しなかった。

 

「でも今は、もう守らなくていい」

 

「守らなくていいって言われても」

 

わたしは言った。

 

「体が勝手に」

 

「そうです」

 

即座に返ってきた。

 

「あなたの体は、まだ戦争の中にいます。頭ではわかっていても、体が追いついていない。それは意志の弱さではない」

 

わたしは黙った。

 

意志の弱さではない、というところを、頭の中でもう一度なぞった。

弱いんだと思っていた。気をつければ直ると思っていた。剣が止まらないのも、手が震えるのも、匙を握るのも、気をつける回数を増やせば減ると思っていた。増やしても減らなかったから、増やし方が足りないのだと思っていた。

 

「治るんですか」

 

聞いた。

 

ヴァイスさんは、少し間を置いた。

ここは、さっきまでと違って、すぐに言葉が出てこなかった。

 

「私にできることには、限界があります」

 

そう言った。

 

「あなたの経験を、完全に理解することもできません」

 

謙遜する声ではなかった。

数を数える声だった。手持ちの物資を報告するときの声だ。米が何日ぶん、水が何日ぶん、包帯が何枚。足りないものは足りないと言う。言わないと、その場で計算が狂う。

 

「でも理解しようとすることをやめません。道具は私が渡します。使うのは、あなたです」

 

この人は嘘をつかない、とわたしは思った。

 

治りますよ、と言われていたら、たぶん一つも信じなかった。信じないまま、はいと答えて、通うだけ通っていた。それは前線でもやったことがある。上が根拠のない見通しを言うとき、下は頷いて、頷いたまま自分で数を数える。

 

ここでは、数えなくていい。この人が自分で数えて、こっちに見せた。

 

「治療の目標を、先に言っておきます」

 

ヴァイスさんが続けた。

 

「過去を消すことではありません。消えないので」

 

「消えない」

 

「消えません。あなたが見たものは、あなたが見たものです。私にはそれを取り上げる方法がありません」

 

「じゃあ、何が目標なんですか」

 

「過去が、今を支配しなくなることです」

 

ヴァイスさんは、机の上で指を一本立てた。

 

「たとえば、音を聞いて、戦場の光景が重なる。それは今後も起きます。起きたときに、ああ、来たな、とあなたが気づけるようになる。気づけたら、数分で戻ってこられる。それを回復と呼びます」

 

「……来なくなるんじゃなくて」

 

「来なくなる人もいます。多くはありません。私は、多くない側を目標にしません」

 

わたしは茶を飲んだ。ぬるい。飲みやすい。

 

「一つ、道具を渡します」

 

ヴァイスさんが言った。

 

「今日はこれだけです。あとは、次に会うときに」

 

「はい」

 

「まず、足の裏です」

 

「足の裏」

 

「靴の中の、足の裏です。今、感じてみてください。冷たいですか、温かいですか。床は硬いですか」

 

わたしは足に意識を向けた。

石の床は硬い。冷たいのは床のほうで、靴の中はまだ温かかった。

 

「靴の中は、温かいです」

 

「そうです。それでいい」

 

ヴァイスさんは頷いた。

 

「頭は過去に行きます。止められません。でも、足は今ここにあります。足の裏は嘘をつかない」

 

「足の裏は嘘をつかない」

 

繰り返した。妙な言い方だと思った。妙だけれど、覚えやすい。

 

「次に、周りに見えるものを五つ数えてください。色でも形でも、なんでもいい。五つ見つけたら、あなたは今ここにいます」

 

わたしは部屋を見た。

 

机。椅子。壁の、棚を外した跡。窓の桟。ヴァイスさんの湯呑み。

 

五つ。すぐに出た。速すぎるくらいだった。

 

出てから、自分が何をしたか気づいた。

わたしはいつも数えている。扉の数、窓の数、人の数、出口までの歩数。この部屋に入ってからも数えた。扉は一つ、廊下に人はいない、階段まで十二歩。

 

同じことをやっている。数えるところは同じだ。

違うのは、何のために数えるかだった。

 

「それ」

 

わたしは言った。

 

「似たようなの、知ってます」

 

ヴァイスさんが、こちらを見た。

 

「戦場で。固まった奴がいるんです。石になるって言うんですけど、体が動かなくなるやつです。撃たれてるわけでも、怪我してるわけでもないのに、その場から動かない。放っておくと死ぬので、戻します」

 

「どうやって戻すんですか」

 

「名前を呼びます。それから、息を長く吐かせます。吸うほうじゃなくて、吐くほう。吸うのは勝手にやるので」

 

わたしは自分の手を見ながら喋っていた。

 

「それでも戻らないときは、見えるものを言わせます。木、とか、桶、とか。なんでもいいから声に出させる。あと、頬を張るのもあります。水をかけるのも。時間がないときはそっちです」

 

「あなたも、やったことがありますか」

 

「あります。教わって、やりました。何回か」

 

いちばん最後にやったのは、名前を呼んでも戻らない子だった。水をかけて、戻った。

戻ってから、そいつはわたしに謝った。謝らなくていいと言った。本当に、謝ることではなかった。

 

「教える側にもなりましたか」

 

「なりました」

 

わたしは言った。

 

「新しく来た子には、だいたい教えます。放っておくと死ぬので」

 

ヴァイスさんは、少し黙った。

 

「では、あなたは知っていたんですね」

 

そう言った。

 

「自分を今ここに戻す方法を。人に渡せるくらい、よく」

 

「……」

 

「使いましたか。自分に」

 

わたしは、答えるまでに時間がかかった。

 

思い出そうとしたのではない。思い出すもなにも、答えは一つしかなかった。ただ、それを声に出すのに、時間がかかった。

 

「人には渡せたけど、自分に使ったことは、ないです」

 

「多いんです、それは」

 

ヴァイスさんは言った。

 

「人を助けられる人ほど、自分には使えません。今度は、自分のために使ってください。私は名前と、少し丁寧なやり方を足すだけです」

 

わたしは湯呑みを持ち直した。

 

自分が配っていたものが、机の反対側から差し出されている。

 

「練習してください。毎日」

 

ヴァイスさんが言った。

 

「重要なのは、平気なときにやることです。何も起きていないときに。朝起きたとき、食事のとき、授業中でもいい」

 

「何も起きてないときに、ですか」

 

「そうです。困ってから覚えようとしても、間に合いません。体に入れておいてください。いざというときに、手が出るように」

 

それは、わかった。

剣も同じだ。振ってから覚える暇はない。振る前に、何百回もやっておく。やっておいた形しか、あの場では出てこない。

 

「わかります」

 

「そう思いました」

 

ヴァイスさんは、初めて少しだけ表情を動かした。笑ったのではない。目尻の皺が動いただけだ。

 

「今日はここまでにします。次は、一週間後の同じ時刻に。それから、フォルケさんは別の日に来ます。別の時間です」

 

ナタルも来ることは知っていた。同じ日ではないことは、知らなかった。

 

「あなたたちが、お互いの中身を知る必要はありません。知りたければ、本人同士で話してください。私からは何も出しません」

 

「はい」

 

わたしは立ち上がった。

 

扉のところで、一つ聞いた。

 

「あの、この椅子」

 

「はい」

 

「扉が見えるほうを、わざとこっちにしましたか」

 

ヴァイスさんは、こちらを見た。

 

「しました」

 

それだけだった。理由は言わなかった。

理由を言われなくてよかった。言われたら、たぶん、次から座りにくくなる。

 

 

 

廊下に、先生がいた。

 

壁のところに立っていた。片手に保温壺を持っている。もう片方の手に湯呑みが二つ。指に引っ掛けているのではなくて、今日はちゃんと持っていた。

先生の執務室は二階だ。茶を出すなら、あの部屋のほうが早い。壺ごと下まで運んできたということは、上には戻らないということだった。

 

「終わったか」

 

「はい」

 

「どうだった」

 

わたしは考えた。

どうだったか。眠れているかと聞かれて、まあまあと答えて、それが嘘だとその場でわかった。足の裏の話を聞いた。数えるやり方を教わって、それはわたしが人に教えていたやつだった。

 

全部を言うには長い。長いものを廊下で言うのは、たぶん違う。

 

「嘘をつかない人でした」

 

先生の眉が、少し動いた。

 

「そうか」

 

「それが、いちばんよかったです」

 

「そうか」

 

二回目の「そうか」は、短かった。

 

「戻れ。飯は食えよ」

 

「食べます。ミラが席を取ってるので」

 

先生は頷いて、扉を二回叩いた。速くない。等間隔だった。

 

扉が開いて、閉まった。

 

わたしは廊下を歩き出した。

四歩ほど行って、止まった。

 

扉の向こうで、声がしている。

言葉にはならない。厚い扉だ。石の壁だ。音の高さと、切れ目だけが伝わってくる。低いほうが先生で、そのあとに、もっと低くて短いのがヴァイスさんの声だ。あの人の声は、こっち側までは届かない。

 

先生が喋っている。

 

長い。

 

わたしはそこで止まったまま、聞いていた。聞いていたというか、長さを測っていた。

この人が続けて喋るのは、授業で戦術の話をするときだけだ。それ以外は短い。座れ。続けろ。戻れ。三語で終わる。寮の部屋に来た日も、いちばん長い話が、四通の手紙の話だった。

 

その人が、扉の向こうで、長く喋っている。

 

何を喋っているかはわからない。

わたしのことだ。それはわかる。

 

近寄れば聞こえる。扉に耳を当てれば、単語くらいは拾える。前線で何度もやった。天幕の外に立って、中の相談を拾う。拾えたほうが、翌日の動き方が変わる。拾わないと、朝になって初めて自分の行き先を知ることになる。

 

近寄らなかった。

 

拾わなくても、明日の行き先が急に変わることはない。

そういう場所に、今いる。

 

教官棟の出口まで来て、一度だけ振り返った。奥の扉は閉まっていた。灯りの下に、人はいなかった。

 

 

 

部屋に戻ると、ルチアがいた。

 

椅子に座って、教科書を膝の上で開いている。開いてはいるけれど、進んでいない。同じところに指がある。わたしが入ったときの指の位置と、椅子から立ち上がったときの指の位置が、同じだった。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

ルチアは、どうだったとは聞かなかった。聞かないと決めてきた顔をしていた。決めてきたのに、目のほうが少し聞いている。

 

「部屋にいるって言ったから」

 

そう言った。

 

「うん。いた」

 

わたしはベッドの端に座った。座ってから、少し考えて、靴を脱がずに足の裏に意識を向けた。

 

靴の中は、まだ温かい。

 

それから、部屋を見た。

 

机。窓の留め金。棚の上のリボン。壁にかかった二人ぶんの制服。

 

四つ。

 

五つ目のところで、目がルチアに行った。

教科書を膝に載せたまま、こっちを見ている。指がまだ同じ行にある。

 

五つ目は、これでいいらしい。

 

数え終わっても、手はまだ震えていた。

夕方になると震えるのは、この二週間ずっとだ。今日も震えている。数えたくらいで止まるものではない。

 

震えたまま、ここにいた。

 

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