わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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嘘と道具

四回目だった。

 

週に一度、同じ曜日の同じ時刻に、教官棟の一階の突き当たりまで行く。札のかかっていない扉だ。前は物置だったところで、壁に棚を外した跡が四本残っている。

初めの二回は、帰りの廊下に先生が立っていた。保温壺と湯呑みを持って、壁のところで待っていた。三回目からは、いなくなった。

放っておいていい、という意味だと思う。そういう判断のしかたをする人だ。

 

ひと月が過ぎていた。

その間に、日が長くなった。廊下の石が昼のあいだ熱を持って、夕方に裸足で歩くと温かい。中庭の木の影が濃くなって、昼休みはみんなそっちに集まる。

 

足の裏を確かめて、見えるものを五つ数える。

毎日やった。朝、目が覚めたとき。食堂で座ったとき。ドルフ先生の授業中にも一回。靴の中が温かいかどうかを確かめて、それから視界のものを五つ拾う。

机。窓。誰かの背中。板書の白いところ。自分の手。

退屈だった。何も起きていないときにやるので、退屈で当たり前だ。剣の素振りも退屈だった。退屈なほうがいい。退屈なうちは、まだ何も起きていない。

 

今日は、約束の刻限の少し前に着いた。

前は、だいぶ早く着いていた。着いてから場所を確かめる時間が要ったからだ。今日は要らなかった。扉が一つで、階段まで十二歩で、廊下に人がいないことを、体がもう知っている。

 

扉を叩いた。

 

 

 

「ぬるいほうでいいですか」

 

ヴァイスさんは、毎回そう聞く。毎回わたしが同じ答えをするので、聞かなくてもいいはずなのに、聞く。

ぬるい茶が出てくる。片手で持てる。

 

椅子の角度も同じだった。わたしの椅子は扉が見える側にある。あれをわざとやったと本人が言ってから、毎回ここに座っている。机の上には紙とペンが置いてあって、今日も使われない。この人は書かない。聞いているだけだ。

 

「今週はどうでしたか」

 

「大丈夫でした」

 

言いながら、口の端が上がった。

上がったのは、少し前からだ。祭りのあとの二週間は、形を作ろうとしても出てこなかった。ある朝、鏡の前で試したら、出た。何の準備もなしに、勝手に出た。

戻ってきた、と思った。そのときは、それが良いことのような気がした。

 

ヴァイスさんは、何も言わなかった。

 

こちらを見ている。目を逸らさない。責めてもいない。ただ、次を待つでもなく、そこで止まっている。

沈黙が長い。長いというより、こちらが埋めたくなる長さだ。前線の聞き取りとは逆だった。あれは向こうが埋めてくる。こっちに考える時間を渡さない。この人は渡す。渡して、渡したまま何もしない。

 

「大丈夫だった、というのは」

 

やっと来たのが、それだった。

 

「えっと」

 

わたしは湯呑みを持ち直した。

 

「フラッシュバックは、二回だけで」

 

「二回。どんなときに」

 

「一回は、魔法実習です。誰かが火の制御を失敗して、藁が焦げたんです。訓練場の端の、的の下に敷いてあるやつ」

 

「焦げた匂いがした」

 

「はい。それで、少し」

 

「少し、というのは」

 

わたしは答えを探した。探すほどのことでもなかった。

 

「気がついたら、みんなの列から二歩ぶん外に出てました。壁のほうに。誰も見てなかったと思います」

 

「戻るまでに、どれくらいかかりましたか」

 

「ヘルミーネ先生が次の子の名前を呼んだので、それで。三人ぶんくらいです」

 

「三人ぶん」

 

「順番待ちの列が、三人進むあいだ」

 

ヴァイスさんは頷いた。時間を数字で言い直させない。わたしの数え方をそのまま置いておく。

 

「もう一回は」

 

「夜です。水を汲みに、廊下の水場に出ようとして。扉を開ける前に、廊下に足音が二つ来て、こっちに近づいて、通り過ぎました」

 

「そのとき、あなたはどこにいましたか」

 

「扉の内側です。掛け金に手をかけたまま」

 

「どれくらい」

 

「足音が階段まで行って、下りきるまで」

 

言いながら、口の端はまだ上がっていた。

上がっていることに、自分で気づいていた。気づいて、下ろす理由もないので、そのままにしていた。

 

「笑わなくていいですよ」

 

ヴァイスさんが言った。

 

わたしは止まった。

 

言われたことの意味は、わかった。わかったので、外そうとした。

外し方がわからなかった。

 

口の端を上げるのと、頬の下を少し引くのと、たぶんその二つでできている。二つとも自分でやっているはずだった。やっているなら、やめられるはずだ。

やめようとすると、どこに力が入っているのかがわからなくなる。歩き方を考えながら歩くと足がもつれるのと、たぶん同じだ。考えないでやっているものは、考えると出せない。

出せないのに、顔からは消えない。

 

しばらくして、消えた。

消えたというより、力が抜けた。

 

顔が、何もしていない状態になった。

 

それが、ひどく落ち着かなかった。

何も持たずに、人の前に立っているときの感じに近い。武器の話ではない。手が空いていると、両手をどこに置けばいいかわからなくなる。あれと同じことが、顔で起きていた。

 

「無理に外さなくていい」

 

ヴァイスさんが言った。

 

「ただ、ここでは笑わなくても怒られません。それだけ、覚えておいてください」

 

怒られない。

 

その言い方を、わたしは飲み込むのに少しかかった。

この顔は、怒鳴られないために作った顔だ。上官の前で、荷が足りないと報告するときに要る顔だった。悪い報告は、顔とセットで出す。顔が先で、中身が後。そうすると、拳が飛ぶ回数が減る。減るというだけで、なくなりはしない。

 

怒られない場所に来て半年以上経つのに、まだ出る。

 

「はい」

 

そう答えた。

今度は、口の端は上がらなかった。上げようとしなかっただけかもしれない。

 

 

 

「今日から、少し長い話をします」

 

ヴァイスさんが湯呑みを机に置いた。

 

「時間はかかります。今日で終わりません。何回かに分けます」

 

「はい」

 

「あなたの人生を、最初から聞かせてください。覚えているところから」

 

「最初って、どこからですか」

 

「覚えているところからです」

 

それだけだった。

どこまで話せとも、何を話せとも言わない。範囲を指定されないのは、こういう場では珍しいと思う。審問官は範囲を指定した。所属、階級、任務、経路、人数。書式が先にあって、そこに埋めていく。埋まらない欄があると、埋まるまで同じことを聞かれる。

 

わたしは村の話から始めた。

 

谷の名前。家の場所。上の道と下の道があって、下の道は雨で使えなくなること。隣の谷に月に一度、市が立つこと。歩いていける距離だったこと。

学校が集落の外れにあったこと。同じ学校から三人、同じ部隊に入ったこと。背が高くて先に剣を渡された子と、鼻を垂らしていて足だけは速かった子と、笑うと歯が一本欠けていた子。

そこまで来たところで、わたしの口は勝手に前に進んだ。

 

十三で剣を渡された。渡した人の顔は覚えている。三日訓練を受けた。持ち方と、走り方と、伏せ方だ。それから前線に出た。最初から、夜に出て朝に戻る隊だった。最初の冬に三人ともいなくなった。戻れない日もある。

 

話せた。つかえずに、順番どおりに、必要なところだけを。どこで何があって、何人減って、次にどこへ移ったか。全部、口から出てくる。

ヴァイスさんは止めなかった。止めないので、わたしは喋り続けた。喋りやすかった。喋りやすいと気づく余裕まであった。

 

長く喋ったあとで、ヴァイスさんが言った。

 

「戻ります」

 

「え」

 

「徴兵の前のことを、もう少し」

 

わたしは戻った。

 

「学校は、集落の外れです。教室が二つで、下の学年と上の学年で分かれてました。冬は薪のストーブを教室の真ん中に置くので、机が円くなるんです。近い子は暑くて、遠い子は寒い」

 

「匂いは覚えていますか」

 

「……薪です。あと、床に塗る油みたいなやつ。掃除のときに塗るんです」

 

「その学校で、何をしていましたか」

 

「授業です。あと、下の学年の子に、字を教えてました。当番でもなんでもなくて、勝手に。教えるのが上手いわけじゃないんですけど、間違えたところを直すのは好きでした」

 

言ってから、少し止まった。

 

「字、あのころは、丁寧に書けたんですよ」

 

今は書けない。走り書きの癖が抜けない。報告書は、走りながらでも読めればいい。読めればいいと決めた誰かがいて、わたしはそれを二年やった。二年やったものが、手に残っている。丁寧な書き方は残らなかった。

どっちも同じ手だ。同じ手が、片方だけ覚えている。

 

「家は」

 

「台所が一つで、その奥が寝るところです」

 

「台所で、覚えていることはありますか」

 

「あります」

 

「近所の人が、たまにりんごをくれたんです。母がそれを、細かく刻んで」

 

刻んで。

 

刻んで生地に混ぜ、鉄板の上に置いて蓋をして焼く。オーブンなんてものはなかった。焦がさないように、途中で一回、蓋を持ち上げて見る。持ち上げると、湯気と一緒に匂いが出る。りんごの甘い匂いと、粉が少し焦げた匂い。狭い家だから、それが全部に届く。母は台所に立っていて、こっちに背中を向けている。

 

そこまでは、頭の中にあった。

声にならなかった。

 

息は出た。喉のところで、音にならなかった。

 

わたしは口を開けたまま、止まっていた。

何が起きたのか、自分でわからなかった。詰まるようなものは一つもない。りんごを刻んで焼いた。それだけの話だ。人が死ぬ話でもない。

 

湯呑みを持った。持っただけで、飲まなかった。

 

もう一度、口を開けた。

「刻んで」のところまで来て、また止まった。

 

「おかしいですね」

 

やっと出たのは、それだった。声が低くなっていた。

 

「さっきの話は、全部できたのに」

 

「そうですね」

 

「人が死んだ話とか、そっちのほうが、ずっと普通に喋れる」

 

わたしは自分の喉に手を当てた。何もない。骨と、筋と、皮膚だ。

 

「楽しかった話の方が、喉が詰まる」

 

ヴァイスさんは、すぐには答えなかった。

それから、いつもと同じ調子で言った。

 

「戦場の話は、報告の形をしています」

 

「報告」

 

「何があって、何人いて、どこへ動いたか。あなたは、その形で何度も話してきた。形のあるものは、口から出ます。出る道が、もうできているので」

 

「……はい」

 

「失くしたものの話には、形がありません。誰かに報告する必要のなかった話です。だからしまい方も、出し方も、決まっていない。あなたはそれの扱い方を、まだ持っていません」

 

持っていない。

 

わたしは、その言い方を頭の中で置き直した。

 

「わたし、覚えてることの選び方が変なんです」

 

「といいますと」

 

「地図の升目の座標なら、一回で入ります。読み上げられたら、その場で覚えます。何日か経っても出てきます。でも歴史の年号は、何回書いても入らない。今すぐ使わないものは、体が入れないんだと思ってました」

 

「そうかもしれません」

 

「でも母のあれは、入ってるんですよ。匂いは出てくるんです。台所の背中も見えるんです。味だけがないんです。服の色もないんです」

 

「入っていないのではなく、入り方が違うのだと思います」

 

ヴァイスさんは机の上で、指を一本立てた。この人は、大事なことを言う前に、これをやる。

 

「今日、詰まったところを、覚えておいてください」

 

「はい」

 

「これから何度も出てきます。詰まる場所は、だいたい決まっています。詰まるのは、悪いことではありません」

 

「……治療なのに、詰まってていいんですか」

 

「詰まるものがある人と、何も出てこない人がいます」

 

それだけ言って、ヴァイスさんは湯呑みを片付け始めた。今日はここまで、という合図だ。

 

わたしは立ち上がった。扉のところで、後ろから声がした。

 

「宿題はありません」

 

振り返った。

 

「詰まった話を、部屋で思い出さなくていい。今日は、ここに置いていってください」

 

わたしは頷いた。

置いていく、という言い方があるのを、知らなかった。

 

 

 

廊下は寒かった。

 

教官棟を出て、渡り廊下を通って、本館に戻る。体が重い。

面談のあとは、いつも重い。剣を振ったあととは違う。塹壕を掘った翌日の体に近い。掘っている最中は何ともなくて、次の日に、背中と腰の奥のほうが動かなくなる。

掘った量ぶんだけ、あとから来る。

 

食堂に寄ったら、ミラが手を上げた。

 

「リーネちゃん、こっち。今日のパン、二種類あるよ」

 

わたしは座った。壁が背中に来る席だ。

ミラは今日が何の日か知っている。知っていて、パンの話をする。この子は毎回そうする。

 

「聞いてよ、落ち葉」

 

「落ち葉」

 

「中庭の当番。木の下を掃くじゃん。掃いても掃いても落ちてくるから、もう意味なくない? って言った子がいて、そしたら別の子が、意味あるかないかじゃなくて当番だから、って言い返して、それで揉めてるの。今日で三日目」

 

「三日」

 

「三日。掃く時間より揉めてる時間のほうが長いんだよ」

 

わたしはパンをちぎった。片方が大きくなった。大きいほうから食べる。

 

「リーネちゃん、今日、遅い」

 

ミラが言った。

 

「食べるの。いつもの半分くらいの速さ」

 

「そう?」

 

「そうだよ。わたしが数えてるもん」

 

数えているらしい。ミラは、なんで遅いのかは聞かなかった。聞かないで、自分の皿から芋を一つ取って、わたしの皿に載せた。

 

「非常用」

 

「毎日が非常なんだっけ」

 

「覚えてるじゃん」

 

ミラが笑った。わたしは芋を食べた。

体は重いままだった。重いまま、芋の味はした。

 

ナタルは、少し離れた席にいた。

ナタルの面談は別の日で、別の時間だ。誰から聞いたわけでもない。ヴァイスさんは面談の中身を持ち出さないし、こっちも聞かない。ナタルも聞いてこない。どうだった、とも言わない。

 

言わないけれど、わかる。

 

面談の日の夜、ナタルは食べるのが遅い。もともと速いのに、その日は遅い。それから、コップの縁を指でなぞる。ふちを一周して、また一周して、数えている。あの癖は、手が空いているときに出る。

今日は、なぞっていない。パンを二つ取って、普通に食べている。

 

今日じゃないんだな、と思う。

 

わたしも、たぶん向こうから見えている。何が見えているのかは知らない。匙の持ち方かもしれないし、座る速さかもしれない。同じ天幕で二年寝ていた相手だ。見えないほうがおかしい。

 

ナタルが顔を上げて、こっちを見た。

目が合った。それだけだった。ナタルは頷きもしない。すぐ皿に戻った。それでいい。

 

 

 

翌日の午前、教室を移動する途中だった。

 

授業と授業のあいだの廊下は混む。二年生の列とぶつかる時間帯で、みんなが同じ方向に流れながら、逆から来る人を避ける。

ルチアと並んで歩いていた。ミラは先に走っていった。走らなくても間に合う距離を、あの子はいつも走る。

 

「そこ、濡れてる」

 

ルチアがそう言って、わたしの肩に手を置いた。

 

床の水を避けさせるための手だった。押すというほどでもない、進む向きを少しずらすだけの力だ。左の肩の、後ろ寄りのところ。

 

肩が跳ねた。

 

首がすくんで、右手が下に伸びかけた。腰のところに。何もない場所に。

そこで、体が固まった。

 

固まっている、とわたしは思った。

 

思ったのは、固まっている最中だった。

前は、そうじゃなかった。前は、終わってから気づいた。終わってからでも気づかない日もあった。あとで人に言われて、そんなことがあったのかと思う。

今は、まだ肩が上がっているうちに、上がっていることがわかる。

 

床。靴の中。温かい。

 

数えるところまではやらなかった。やる前に、肩が下りた。

 

「あ、ごめん。びっくりしちゃった」

 

ルチアが手を引いた。

 

「ごめん、急に触っちゃった」

 

「ルチアのせいじゃないよ」

 

わたしは言った。

 

「わたしの体がへんなだけ」

 

言ってから、自分で少し驚いた。

 

前に同じことがあったとき、くすぐったいと言った。あれは嘘だった。嘘だとその場で見抜かれて、それでも取り消せなかった。

そのあと、体じゃないところも怪我するのか、と本気で聞いた時期もある。あのときは、言葉の意味そのものがわからなかった。

 

今のは、嘘じゃない。

説明にもなっていない。へん、で片づけているだけだ。どこがどうへんなのかは言えない。言えないけれど、へんだということは知っている。知っていて、それを口に出した。

 

ルチアが、わたしの顔を見た。少し目を見開いて、それから、何かを言いかけてやめた。

やめてから、別のことを言った。

 

「じゃあ、次は前から触る」

 

「前から?」

 

「前からなら、見えるでしょ」

 

わたしは、それについて考えた。

見えていれば大丈夫かどうかは、正直わからない。手を握るのは、見えていても震える日がある。でもルチアは、大丈夫かどうかを聞いたのではない。次はこうすると言っただけだ。

 

「うん」

 

そう答えた。

 

唇の端が持ち上がった。持ち上がるまでに、少し間があった。

遅れて出る顔のほうが、たぶん、本当のやつだ。

 

 

 

その日の午後、渡り廊下でナタルとすれ違った。

 

教官棟のほうへ歩いていた。授業のない時間に、あっちへ行く用事は一つしかない。

この子は暗いところで足音を消す。前線の癖で、明るいところでも抜けない。渡り廊下は昼でも明るいのに、石を踏む音がしなかった。

 

わたしは立ち止まった。ナタルも止まった。

 

「今日か」

 

わたしが聞いた。ナタルが顎を引いた。頷きというより、確認の返しだ。

 

面談のことは、それ以上聞かない。中身は聞かないし、どうだったとも言わない。ヴァイスさんはあっちの話をこっちに持ち出さないし、こっちの話も向こうに持っていかない。最初にそう言われた。それでいいと思っている。

 

ナタルが口を開いた。

 

「あの部屋、椅子」

 

「うん」

 

「扉が見えるほうに、座らされた」

 

「こっちも」

 

それだけだった。

 

中身の話ではない。座る位置の話だ。どこから入られるか、どこへ抜けるか。部屋に入って最初に見るのはそこだ。同じところを渡されて、二人ともそれに気づいている。

 

ナタルが少し目を細めた。笑ったのではない。目を細めただけだ。

それから、また歩き出した。足音はしなかった。

 

 

 

夜。

 

ルチアは机で手紙を書いている。ペンの音がしている。実家への返事だ。

わたしはベッドの端に座って、靴を脱いだ足の裏を床につけた。冷たい。石の床だ。

 

机。窓の留め金。棚のリボン。壁の制服。ペンを持っているルチアの手。

 

五つ。

 

数え終わって、それから、少しだけ試した。

 

詰まった話は部屋で思い出さなくていい、ここに置いていけと言われた。言われたのに、持って帰ってきている。

一回だけだ、と自分に言い訳をして、思い出そうとした。りんごを刻む音を。台所は出てきた。背中も出てきた。湯気も、焦げた粉の匂いも出てきた。

味は、来なかった。

 

来ないのは、前からだ。ずっと前から、来ていない。

今日と違うのは、そこじゃない。

 

今日は、詰まった。

声にしようとして、喉のところで止まった。止まるまでは、止まると思っていなかった。

 

出てこないのと、詰まるのは、違う。

何もない場所は、詰まらない。

 

喉に手を当ててみた。

骨と、筋と、皮膚しかない。どこも怪我していない。

それでも今日、そこで言葉が止まった。

 

止まるものが、あるということだ。

 

味は来ない。来ないままかもしれない。それでも、消えてなくなったのとは違う。出せないだけのものが、まだそこに置いてある。

 

順番に並べて話す言い方なら、いくらでも出てくる。何がどこで止まったか、事実だけを並べればいい。二年間、毎日それをやっていた。

やってみて、やめた。並べると、詰まったところが消える。詰まったことが、この話のいちばん大事なところなのに。

どう言えばいいのかは、わからない。

 

わからないまま、来週も行く。

それだけは決まった。

 

ペンの音が止まって、ルチアが手紙を折る音がした。

 

「リーネ、まだ起きてる?」

 

「起きてる」

 

言ってから、もう一つ言った。

 

「うちの母さん、パン焼いてたんだよ」

 

ペンを置く音がした。ルチアはこっちを見て、それから、うん、と言った。何の話、とは聞かなかった。

 

「どんなパン?」

 

「りんごが入ってた」

 

「おいしそう」

 

「おいしかった」

 

言えた。

 

話にはなっていない。いつのことも、どこでのことも言っていない。順番もない。事実を並べたわけでもない。

ただ、二つ渡した。

 

喉は、詰まらなかった。

 

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