八回目が終わった。
数えているのは、こっちが勝手にやっていることだ。ヴァイスさんは回数を言わない。今日で何回目ですね、とも言わない。毎週、同じ曜日の同じ時刻に扉を叩いて、ぬるい茶が出てきて、扉が見える側の椅子に座る。それだけが繰り返される。
数えると、進んでいるかどうかがわかる気がする。気がするだけで、たぶん、あまり関係ない。
二か月になった。
椅子に座るとき、右手を膝の上で裏返した。甲を下に向ける癖がついている。隠すものは、もうない。
かさぶたは落ちた。剥がしたのではなくて、いつのまにかなくなっていた。四つあったところが、四つとも周りより白い。押しても痛くないし、握っても引きつらない。そこだけ、日に焼けていない色をしている。
癖のほうが、傷より長く残るらしい。
話は、まだ十三より前にいる。
ヴァイスさんは急がない。村の話をして、学校の話をして、次の週にまた村に戻る。二か月かけて、同じあたりを回っている。
前線の話なら、三十分で終わる。どこにいて、何人で、何日で、何人減ったか。順番に並んでいるので、口が勝手に進む。そっちを話したほうが早いですよと言ったら、そうでしょうねと返ってきた。返ってきただけで、そっちには行かなかった。
母のあれのところは、毎回止まる。
刻む音までは行ける。行けるようになった。鉄板と、蓋と、蓋を持ち上げたときの湯気まで行って、味のところで止まる。詰まる場所は決まっていると言われて、そのとおりだった。決まっているのは悪くない。決まっていれば、来るのがわかる。
一度、何も出てこなかった回もあった。喉も詰まらなかった。詰まるものが上がってこなかった。ヴァイスさんは待って、待って、それから茶を片付けた。出てこないなら出てこないままにする人だ。
眠りは変わっていない。夜に一回か二回起きて、窓を見る。留め金と、下と、木立の位置。手順は一つも減っていない。夢も週に三回か四回で、減っていない。数えるようになったのは、ヴァイスさんが毎回聞くからだ。
足の裏と、五つは続けている。もう探さなくても、視界に入ったものから拾える。退屈だ。退屈でいい。
実技は二か月ぶんの進みしかない。剣の手加減は八割まで来て、残りの二割が強く入る。止めるのは今も腕だ。腕で止めるのは止めたことにならないと、自分でもわかってきた。魔法は七語まで伸ばしたが、風の縁が的の外まで残る。ヘルミーネ先生は毎回、印の親指の位置を直す。同じところを、二か月。
面談のあいだ、笑わない時間が長くなった。
外し方を覚えたわけではない。今でも、外そうとすると出せなくなる。ただあの部屋で口の端が上がっても、ヴァイスさんが何も言わないので、そのうち力が抜ける。
抜けるまで、待たれている。
昼の食堂は混む。
壁際の、出口に近い席に三人で座っている。ミラが向かいで、ルチアが隣だ。並びは誰が決めたわけでもなくて、いつのまにかこうなった。
夏のあいだだけ、井戸で冷やした果物が出る。皮の硬い、緑の玉みたいなやつを切ったものが、盆の隅に載っている。冷たい。歯が痛くなるくらい冷たい。
ミラは湯の話をしていた。
「三日だって。三日ぬるいままなんだよ」
「ぬるいって、どのくらい」
「ぬるいのはぬるいの。肩まで沈んでるのに、肩から上が寒いの。あれね、床の下に魔法石が埋まってるでしょ。それが弱ってきてて、替えるのに三日かかるんだって」
「三日か」
「三日って何。夏だからいいでしょって思ってるんだよ、絶対」
ルチアが果物を口に運んで、それから頷いた。
「昨日入ったけど、確かにぬるかった」
「でしょ! ルチアも言ってよ、誰かに」
「誰に言うの」
「わかんないけど、誰か」
わたしは器を持ち上げた。
「ぬるくても湯だよ」
ミラが匙を止めた。
「出た」
「何が」
「それ。リーネちゃんの、それ」
「それって」
「屋根があるからいい、とか、湯が出るだけですごい、とか言うやつ。前も言ったもん。お風呂があるだけで天国だって」
言った気はする。ナタルを案内した日に言った。学院に来て最初の月にも、たぶん言った。
事実なので、言い直すところがない。
「事実だけど」
「事実だけどさあ」
ミラは果物を刺した。刺してから、こっちに向けて振った。
「わたしは熱いお湯に入りたいの。事実とは、別に」
ルチアが小さく笑った。
それからミラが、わたしの盆の果物を匙で指した。
「それ、好き?」
「冷たいのは好き」
「冷たいのはって何。それ、温度じゃん」
「うん」
「宿題、まだ絞れてないでしょ」
絞れていない。
目の前に出されれば、好きかどうかは言える。今のも言えた。冷たいので好きだ。皮に近いところは硬いので、そこは要らない。
自分の中から一つ取り出してこいと言われると、手が空で戻ってくる。何度やっても空で戻る。
「まだ」
「じゃあ続き」
ミラは自分の盆から果物を一つ、わたしのほうに寄せた。宿題の続きらしい。
そこで、後ろのほうで音がした。
盆が落ちた。器が続けて石の床に当たる。高い音だ。二つ、三つ。跳ねて転がって、最後に平らになって止まる。匙か何かが遅れて落ちて、それがいちばん高く鳴った。
わたしの右手は、匙を握っていた。
一拍あった。
「あ、握ってる」
声に出ていた。
自分の手を見下ろした。匙の柄を、指四本と親指で握っている。握り方が食事のそれではない。柄の細いところを、真ん中で潰す持ち方だ。関節が白くなっている。
指を開いた。匙が盆に落ちて、小さい音を立てた。
床。靴の中は温かい。
盆の縁。ミラの手。窓の桟。
三つ。
三つで足りた。四つ目を探そうとして、探すものがなくなっていた。もう戻っていた。
見えている敵と、見えていない敵は違う。数が同じでも違う。撃てるかどうかが違う。前線で最初に覚えたのは、たぶんそれだ。
まだ撃てはしない。でも見えている。
音に体が反応するところは、変わっていない。そこは何も直っていない。器が落ちれば、次も握る。
直ったのは、そのあとだけだ。
ルチアが、こっちを見ていた。
口が動いて、止まった。何か言いかけて、やめた顔だ。
「大丈夫」
わたしは言った。
「今の、大丈夫だった」
言ってから、少し引っかかった。
前も同じ言葉を使っていた。あのころの大丈夫は、話を終わらせるための言葉だった。大丈夫と言えば、相手は次の話に行く。行ってくれる。行かせるために言っていた。
今のは、そうではない。音がして、手が動いて、気づいて、戻った。何が起きたかを、自分で言える。
言えるなら、大丈夫は嘘にならない。
ルチアは頷いた。それから、盆の上に転がった匙を見て、もう一度頷いた。
何も聞かなかった。聞かないことにしたのではなくて、聞く必要のところが、たぶん減った。
ミラは、落ちたほうを見ていた。
「お皿、三枚割れたよ」
「見えたの」
「音でわかるもん。割れる音と、割れない音は違うんだから」
音でわかる、というのは、わたしも同じだ。
聞き分けているものが違うだけだ。
別の日の午前だった。
一コマ目が魔法理論で、あれは板書が多い。写しているうちに手が疲れる。二コマ目の戦術論に入るときには、腕の内側が重くなっている。
夏の教室は暖かい。窓が開いているのに風が来ない。石の壁が夜のうちに冷えて、昼になるとぬるく戻る。壁に近い席は、そのぬるさが背中に当たる。
わたしは後ろの席にいた。腕を組んで、椅子に深く座っていた。
先生は退却の話をしていた。
地形の話から入って、順序の話になる。何を先に下げて、何を最後に残すか。板書の字が角張っていて、遠くからでも読める。あの字は軍で書いていた字だ。読みやすいように書けと言われて、そのとおりに書き続けた手が書く字だ。
下げる順序が板書に並んだ。負傷者、荷、装備、戦える者。上から順に、番号がついている。
その順序でやったことは、一度もない。
荷は置いていく。装備は担げるぶんだけ持って、残りは使えないようにしてから置く。負傷者は、いちばん先ではない。運べる人数と、道の幅で決まる。決めるのは、その場で誰かが決める。番号は振られていない。
教科書のほうが間違っているとは思わない。あれは、下げる先がある軍の順序だ。下げれば受け取る後方がある。うちの隊には、それがなかった。
声の高さが変わらない。内容は知っているものだ。外から音が来ない。
三つ揃うと、体が緩む。
チョークの音が、等間隔に聞こえていた。
その音を数えていた。数えていたつもりだった。
肩をつつかれた。
「リーネちゃん、起きて」
ミラの声だ。小さい。息だけで喋っている。
「グレン先生、見てるよ」
目を開けた。
明るい。教室だ。窓が開いていて、板書が半分埋まっている。
腕は組んだままだった。首が前に落ちていたらしくて、その付け根が痛い。
手は、腰に行っていなかった。
気づくまでに、少しかかった。気づいてから、もう一度確かめた。両方の手が膝の上にある。どっちも、どこにも伸びていない。
入学した日は、講堂の扉が鳴っただけで手が動いた。起きているときで、目も開いていて、それでも動いた。
「カルヴァス」
先生が言った。
チョークを持ったまま、板書の途中でこっちを向いている。
「起きてるなら答えろ」
「はい」
「退却時の
寝起きだった。頭のほうは起きていなかったけれど、口は動いた。
「本隊が離脱する時間を稼ぐことです。最後まで残って、敵を引きつけます。引きつけるので、追える速さで下がります。速く下がると追ってこないので」
先生が黙った。
わたしは続けた。続けるつもりはなかった。口のほうが先に進んだ。
「あと、殿に誰を置くかで、指揮官の性格が出ます。いちばん強いのを置く人と、いちばん捨てても惜しくないのを置く人がいます」
教室が静かになった。
チョークの音が止まっているので、静かなのがよくわかる。誰かが椅子を鳴らした。前のほうの一人がこっちを振り返って、それから戻った。
自分が何を言ったかは、わかっている。
教科書に載っているほうではなく、載っていないほうを言った。寝起きだと、体が先に答える。並べ替える時間がない。
先生は板書に戻った。
「座ってろ」
それだけだった。
起こされなかった。眠っていたことも、言われなかった。
ミラが見てるよと言ったのだから、見ていたのだと思う。見ていて、起こさなかった。
なぜかは、わからない。聞けば答えるかもしれないし、答えないかもしれない。あの人は三語で終わる。
一つだけ、自分のことでわかった。
この教室では眠れる。
祭りのあとの二週間は眠れなかった。板書を追って、追い続けて、意識が沈まなかった。その前は眠れた。前線では、どこでも眠れなかった。眠ったふりの仕方は覚えたけれど、本当に落ちることはなかった。
どこで眠れるかを、わたしは決めていない。体が決めている。体は理由を言わない。
休み時間になって、ミラが振り返った。
「よく寝てたよ」
「うん」
「口、開いてた」
「開いてた?」
「開いてた」
ミラが自分の口を開けて見せた。それから閉じて、笑った。
「わたし、絶対怒られると思ったから起こしたのに、先生なんも言わなかったね」
「言われなかった」
「損した」
「ミラが損する話じゃないでしょ」
「起こしたのに何も起きなかったの、損じゃん」
わたしは笑った。出るまでに少し間があった。間があるほうの笑い方だ。
「起こしてくれてありがとう」
「いいよ。次も起こす」
次もあるらしい。
午後の実技に行くとき、階段で足を止めた。
本館の東側の階段は狭い。両側が石の壁で、幅は二人ぶんしかない。踊り場で折れているので、上から来る人は折れたところまで来ないと見えない。
上級生の列が下りてきた。実技が終わった組だ。数は十人より多い。石の上を、革の靴が続けて鳴る。それが壁に当たって、両側から返ってくる。返ってくるので、数が合わなくなる。前から来ているのか、後ろから来ているのかも、途中でわからなくなる。
わたしは壁のほうに寄っていた。
寄ったことは、寄ってから気づいた。左の肩が石に触れている。右手が下がりかけている。腰のところに、何もない。
足の裏を探した。
石の硬さは来る。冷たいか温かいかまでは、わからない。
数えた。
壁の継ぎ目。上の窓。手すりの端。
三つ。
戻らなかった。
音が続いているうちは、戻らないらしい。足音はまだ上から来ている。数えても、数えているあいだに新しい音が足される。
四つ目を探した。誰かの鞄の留め具。
五つ目。自分の靴の先。
五つ数えて、半分だけ戻った。
わたしは踊り場の隅に寄って、列が通り過ぎるまでそこにいた。二十人近かった。誰もこっちを見ていない。見る理由がない。階段で人を待つのは、普通のことだ。
最後の一人が下りきってから、階段を上がった。実技には遅れなかった。早めに出る癖がある。あの癖は、こういう日のためにあるんだと思う。
三つで足りる日と、五つでも足りない日がある。
ヴァイスさんは、使いましたかと聞く。
効きましたかとは聞かない。二か月通って、一度も聞かれていない。
放課後の中庭は、木の影が長い。
日が落ちるのが、少し早くなった。二か月前は、この時間にまだ真上から日が来ていた。今は斜めに来る。ベンチの半分が影に入って、半分に日が当たる。
ルチアは影のほうに座る。わたしは日の当たるほうだ。理由はある。そっちが通路に近い。通路が見えるほうに座ると、体が黙る。
ルチアが手を出した。
前から出す。膝に置いていた手を持ち上げてこっちに向け、掌を上にして止める。掴まない。近づけない。出したまま待つ。
廊下で肩に触られた日から、ずっとこれだ。次は前から触る、と言って、そのとおりにしている。
わたしはその手を見た。
細い。指が長い。関節のところが柔らかそうで、掌にタコがない。何も握ってこなかった手だ。
握れる日と、握れない日がある。どちらになるかは、手を見てもわからない。伸ばしてみるまでわからない。
伸ばした。
指先が触れた。温かい。それから掌を重ねた。
震えた。
指の付け根から手首まで、来た。止めようとすると余計に出る。止めるのは、もうやめた。
震えたまま、握り返した。
「今日は大丈夫」
「うん」
ルチアはそれ以上言わなかった。
握り返してくる力も、いつもと同じだ。強くしない。強くされると、たぶんだめになる。だめになる手前で、この子はやめる。どこがその手前なのかを、いつのまにか覚えたらしい。
昨日は、握れなかった。
伸ばしかけて、指が止まった。あと指一本ぶんのところだ。そこから先に行かなかった。
ルチアは手を引いて、教科書を開いた。それで終わりだった。次の話をして、夕食に行った。
握れない日に、理由はない。
よく眠れた日でもだめなことがある。面談の翌日で平気なこともある。順番も、脈絡もない。夢と同じだ。呼んでいないのに来て、呼んでも来ない。
そのとき、通路をナタルが歩いてきた。
食堂のほうから、寮のほうへ抜ける道だ。
真ん中を歩いていた。
通路の、真ん中だ。
わたしは目で追った。追ってから、なぜ追ったのかを考えた。
壁がないところにいる。左に植え込みがあって、右は開いている。ナタルはその真ん中にいて、両側から等しく離れている。
前は、壁沿いだった。食堂でも廊下でも、壁のあるほうに寄る。寄れる壁がないところは早足で抜ける。天幕の中でも端に寝た。真ん中がわたしで、端がナタルだった。二年、その並びだった。
真ん中を、普通の速さで歩いている。
足音はしない。
そこは変わっていなかった。壁から離れても、足音は消したままだ。石の上を歩いているのに聞こえない。あれは暗いところでつく癖で、明るいところでも抜けない。
一つ動いて、一つ動いていない。
わたしはどうだろう、と考えて、すぐにやめた。並べて比べるものではない。
ナタルは壁から離れた。わたしは今日も、背中に壁のある席で食べた。座る場所は一つも変わっていない。そのかわり、握った手が見えるようになった。
ナタルがこっちに気づいた。顎を少し引いた。それだけで、寮のほうへ行った。
ルチアが、その背中を見ていた。
「ナタル、前より外を歩くね」
「うん」
「外って言い方、変かな」
「変じゃないよ」
外だ。壁から離れたところは、全部、外だ。あそこを歩くのに、どれくらいかかったのかは、本人しか知らない。
風が来た。ぬるい風だ。石の熱が上がってきて、影のところだけ少し冷える。
ルチアの髪が動いた。栗色のほうが、日に当たると明るく見える。
わたしの手は、まだルチアの手の上にあった。
震えも、まだあった。
どちらも、今日はそのままにしておいた。