わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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ヴェルダへ

果物が出なくなった。

 

井戸で冷やした緑の玉は夏のあいだだけのもので、盆の隅が空いた。代わりに芋が増えた。ミラが「芋の季節が来た」と言って、来なくてもよかったという顔をした。

中庭の影も伸びた。二か月前はベンチの半分だったのが、今は端まで届く。日が斜めから来るので、木の影が長くなった。わたしは前と同じ、日の当たるほうに座る。通路が見える側だからそこにしていたのに、この季節はそっちのほうが温かい。ルチアが影のほうから少しずつ寄ってくるようになった。

 

面談は十三回目になった。

三か月と少しだ。話はまだ十三より前にいる。ヴァイスさんは急がないし、急がない理由も言わない。急がないことに、こっちが慣れてきた。

 

午後の実技が終わったところで、先生に呼ばれた。

 

「カルヴァス。執務室だ」

 

それだけ言って、先に歩き出した。歩幅が変わらない人なので、後ろについていけば距離が一定になる。

 

教官棟の階段を上がって、二階の突き当たりまで行った。

扉の前で、ナタルが出てくるのと鉢合わせた。

 

紙を一枚持っていた。

折らずに、両手で持っていた。ナタルは紙を折らない。折り目のところが読めなくなるからだと、前線で言っていた。折るなと教えたのは上のほうの誰かで、その誰かの名前はもう出てこない。

 

「村に帰れって書いてある」

 

ナタルが言った。それだけだった。

紙を持ったまま、少しこっちに向けた。読ませるためではなくて、そこに書いてあるという意味の動かし方だった。

わたしを見て、それから紙を見て、また少し目を上げた。何か言うのかと思ったので待ったけれど、言わなかった。言わないというより、出てこなかったのだと思う。口の形が一度作られて、そのまま戻った。

 

ナタルは階段のほうへ行った。足音はしなかった。

 

執務室に入ると、机の上に湯呑みが二つ出ていた。呼ぶ前から出してある。

苦い茶だ。砂糖は入らない。三か月で慣れた。

 

「座れ」

 

わたしは座った。

 

先生は机の引き出しから紙を出して、こっちに向けて置いた。

ナタルが持っていたのと同じ紙だ。写しが二枚ある形式ではなくて、一枚に二人ぶん書いてある。

 

読んだ。

 

融和政策局。局の名前が上に一つあって、判が押してある。字は角張っていない。書き慣れた事務の字で、罫線から一度も出ない。

 

属国出身在学者の教育成果確認に関する件、と書いてあった。

 

一、下記の者について、出身地域への帰省を許可し、これを命ずる。

二、滞在中、現地駐在官のもとに出頭し、経過の報告を行うこと。

三、日程その他は担当教官の指示に従うこと。

 

その下に、名前が二つ並んでいた。

 

一 カルヴァス

二 フォルケ

 

番号が振ってあった。

 

わたしはそこをしばらく見ていた。

命令の紙は、前線ではあまり見なかった。命令は口で来た。走ってきた奴が息を切らしながら喋って、それで終わる。紙で来るものは上のほうの人が受け取って、下には声で降りてくる。

紙のほうで見たことがあるのは、名簿だ。名前が縦に並んで、番号が振ってある。前の週の紙と今週の紙を並べて、消えている番号を数える。数えると減った人数が出る。あれと同じ書式だった。

 

字が丁寧なのが、いちばん引っかかった。

罫線から出ないように書いてある。丁寧に書いた人は、この紙を書いているあいだ、たぶんわたしのことを考えていない。考えないで書ける紙だ。

 

「許可し、これを命ずる」

 

わたしは読み上げた。

 

「許可されて、命じられてます」

 

「そう書いてある」

 

「どっちなんですか」

 

「両方だ」

 

先生は湯呑みを持って、それから机の上に戻した。飲まなかった。

 

「経過報告というのは建前だ」

 

「はい」

 

「駐在官は報告を聞く。聞いて、書く。書いたものが局に戻る。だが局が知りたいのは、お前の成績じゃない。お前たちが故郷とどう接触するか、それを管理したいだけだ」

 

前に一度、この人から聞いた。三つあると言っていた。一つ目が、目の届くところに置くことだった。

だから今回のも形は知っている。知っていても、紙になって出てくると、紙のほうが先に目に入る。

 

「わかりました」

 

わたしは言った。

 

「命令なら行きます。兵士は命令に従いますから」

 

口の端が上がった。上げようと思う前に上がった。

上がるのは戻ってきている。祭りのあとの二週間は出なかったのに、今は勝手に出る。出るときは速い。

 

先生が湯呑みから手を離した。

 

「兵士じゃない」

 

低い声だった。怒っていない。訂正の声だ。

 

「生徒だ」

 

わたしは何も言えなかった。

 

言い返す言葉はなかったし、はいと言うのも変な気がした。はいと言うのは命令への返しで、今のは命令ではない。命令でないものに、どう返すのかを知らない。

口の端は、まだ上がっていた。下ろす筋の場所が、こういうときはわからなくなる。

 

「日は三週間後だ」

 

先生は先に進んだ。

 

「峠まで馬車、そこから先は乗り換えになる。荷は一つにしろ」

 

「一つでいいんですね」

 

「一つで足りるだろう」

 

足りる。包み一つで来た人間に言う言葉としては、正しい。

 

「フォルケも同じ日ですか」

 

「同じ日にしろと言われた。あいつから」

 

わたしは頷いた。

ナタルが自分から何かを言うのは珍しい。珍しいことをした、というだけで、中身は聞かないほうがいい。あれは聞かれると余計に言わなくなる。

 

「以上だ。茶は飲め」

 

わたしは苦い茶を飲んだ。

最後まで飲んで、湯呑みを置いた。置くときに、紙のほうをもう一度見た。

 

一 カルヴァス。

 

自分の名前が、番号のついた紙に載っている。載っているのは初めてではない。

 

 

 

夜。

 

ルチアは机で書き物をしていた。ペンの音がしている。

わたしはベッドの端に座って、靴を脱いだ足を床につけた。石は冷たい。夏のあいだは、夜になっても床がぬるかった。もう冷えるようになった。

 

紙は畳んで持ち帰っていた。もう一度開いた。

 

出身地域への帰省。

 

帰省というのは、前に一度、字で見た。

事務室の棚に共通の用紙が置いてあって、真ん中に欄がある。帰省先住所、と五文字あって、その下に線が引いてある。住所を書くのにちょうどいい長さの線だ。

あのときは、書くところがなかった。事務の人に聞いたら、困った顔をされた。困らせるつもりはなかったので、紙を戻した。

 

今度は、行けと書いてある。

 

同じ言葉で、順番が逆になっている。書く場所はないのに、行く命令はある。書式を作った人と、命令を出した人は、たぶん同じ局にいる。

 

わたしは紙を膝の上に置いた。

 

命令なら行きます、と言った。あれは口が先に出た。

出たあとで、先生が訂正した。生徒だと言われた。言われたところで、行くのは行くのだから、どっちでもいいはずだ。

 

いいはずなのに、引っかかっている。

 

引っかかっているのは、たぶん、命令だから行くというのが本当ではないからだ。

 

わたしは入学してから一度も帰っていない。

帰らなかったのは、帰れなかったからではない。休みはあった。峠を越える馬車の値段は知らないけれど、聞けば誰かが教えてくれた。会長は毎学期、当然のように帰っていると言っていた。

行かなかったのは、行く理由を自分で持っていなかったからだ。

持っていないものは、探さなかった。探さなくても日は過ぎる。日が過ぎるあいだ、あの場所のことは考えなかった。考えないでいることには慣れている。ずっとそうしてきた。

 

紙が来て、初めて考えている。

 

あの人たちを埋めた場所を、わたしは知っている。

三人ぶんは自分で掘った。土が浅いところで、深く掘れなかった。石は置いていない。置く時間がなかった。名前を刻むようなものは、そもそも持っていなかった。

だから今そこに何かあるのかは知らない。何もないかもしれない。地面と草だけかもしれない。

 

隊長のところは、知っている。あそこは覚えている。

あの人はわたしを庇って死んだ。庇って死んだ人のところに、一年以上行っていない。行かないで、こっちでパンを食べて、湯に入って、握れる日と握れない日を数えている。

 

それが悪いことなのかは、わからない。

悪くはないのだと思う。ヴァイスさんは、生きているほうを責めない。責める言い方を一度もしない人だ。

 

わからないけれど、行きたい。

 

行きたい、と頭の中で言ってみて、その形がずいぶん久しぶりだった。

好きなものは取り出せない。何が好きかと聞かれると、手が空で戻る。宿題はまだ絞れていない。

行きたいのほうは、出た。一回で出た。取り出そうとする前に、もうそこにあった。

 

怖い。それも別にある。

怖いのと、行きたいのは、別のところに置いてある。片方が片方を消さない。両方あるまま、二つとも数に入る。

 

墓の前に立たないまま、こっちで笑っているのは、たぶん、順番が違う。

何を言うのかは決まっていない。決まっていなくても、立たないと先がない気がする。

 

紙を畳んだ。

 

命令で行くんじゃない。

わたしが行く。

 

ペンの音が止まった。ルチアが顔を上げて、こっちを見た。

 

「何か決めた顔してる」

 

「顔に出てる?」

 

「出てる」

 

わたしは紙を膝から持ち上げて、少し考えて、ルチアに渡した。

 

 

 

翌日の朝、実技の前に教官棟へ行った。

 

先生は執務室にいた。机で紙を見ていて、こっちが入ってきても顔を上げなかった。

 

「なんだ」

 

「昨日のことです」

 

「聞いてる」

 

「命令だから行くって言いました。あれ、撤回します」

 

先生が顔を上げた。片方の眉が上がった。上がって、それだけだった。眉が上がるのは初めて見た。

 

「わたしが行きたいから行きます」

 

言ってから、続きを用意していないことに気づいた。理由を聞かれたら、墓のところから話すことになる。話せるかどうかは、その場になるまでわからない。

 

先生は聞かなかった。

 

一拍あった。長くはない。息を一つぶんくらいだ。

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

わたしは待った。何か足されるのかと思った。

足されなかった。先生は机の紙に戻って、それから思い出したように言った。

 

「日程は変わらん。三週間後だ」

 

「はい」

 

「行け。遅れるぞ」

 

わたしは出た。

 

廊下を歩きながら、少し考えた。

そうか、しか言われなかった。あの人は三語で終わる人だから、そうかは短いほうでも長いほうでもない。

ただ、昨日のはいには何も返ってこなかった。今日のには、そうかが返ってきた。返るほうが、少し重い。

 

 

 

村の名前が出てこなかったのは、その日の夕方だ。

 

寮の廊下で、ルチアと歩いていた。紙は昨日渡して、読んで、返ってきていた。ルチアは書いてあることについて何も聞かなかったのに、そのときになって聞いた。

 

「どこなの、リーネの村」

 

聞き方が、地図の話をする聞き方だった。方角の話だ。責める要素は一つもない。

 

わたしは口を開けた。

 

出てこなかった。

 

谷の名前は言える。面談室で言った。上の道と下の道があって、下は雨で使えなくなることも言った。学校が集落の外れにあることも、教室が二つあることも言った。全部、あの部屋では出た。

その谷の中に村がある。名前がある。二音だ。母が呼んでいた呼び方と、外の人が呼ぶ呼び方が少し違う。どっちも知っている。

 

知っているのに、喉のところで止まった。

 

息だけ出た。母の菓子パンのときと、同じ場所だ。骨と、筋と、皮膚しかないところで止まる。

 

「あ」

 

出たのはそれだった。

 

「ごめん、出ない」

 

ルチアは待った。急かさなかったし、別の話に切り替えもしなかった。切り替えるのはミラのやり方で、この子は待つ。

 

「言えるようになったら、教えて」

 

「うん」

 

「わたし、地図で見てみたかっただけだから」

 

図書室に大陸の地図があるらしい。ルチアは地図を見るのが好きだ。弟に何かを教えるとき、いつも図を描くと言っていた。

見てみたかっただけ、というのを、この子は嘘で言わない。だからそのまま受け取っておいた。

 

部屋に戻ってから、一人で試した。

声を出さずに口の形だけ作った。作れた。息を乗せると、乗る前に止まる。

 

来週、言おうと思った。

 

 

 

「面談室では言えて、ルチアさんには言えなかった」

 

十四回目で、ヴァイスさんはそう言い直した。

言い直すというより、こっちの話を並べ直しただけだ。この人はそれをよくやる。並べ直されると、自分が言ったことの形が変わって見える。

 

「はい」

 

「同じ言葉ですね」

 

「同じです。二音です」

 

「では、違うのは相手のほうです」

 

ヴァイスさんは湯呑みを机に置いた。

それから、指を一本立てた。大事なことを言う前に、この人はこれをやる。

 

「ここで話すのは、報告です」

 

「はい」

 

「あなたは報告が得意です。何があって、どこで、何人。順番に並べて渡す。二年やった形なので、口が道を知っている」

 

「はい」

 

「ルチアさんに村の名前を言うのは、報告ではありません」

 

わたしは湯呑みを持ち直した。

 

「じゃあ、何ですか」

 

「渡すことです」

 

渡す。

 

「報告は、書いて置いていけます。渡すのは、受け取る人がいます。受け取る人がいるものは、あとで返ってきます。あなたが村の名前を言えば、ルチアさんはその名前で地図を探して、次に会ったときに、その名前で話しかけてきます」

 

「……はい」

 

「そこまでを、体が先に読んでいます。読んで、止めている。止めているのは、あなたを守るためです」

 

守るため、というところで、わたしは少し止まった。

守るというのは、盾に使う言葉だ。矢が来るほうに何かを置くことを言う。今のは矢ではない。ルチアが地図を見るだけの話だ。

 

「そんなに危ないことじゃないですけど」

 

「危なくありません」

 

ヴァイスさんはあっさり認めた。

 

「あなたの頭は、それを知っています。体のほうがまだ知りません。あなたの中では、場所と、そこにあったものが、別々にしまわれています。場所は場所の棚に、そこで起きたことは別の棚に。繋げると一度に出てくるので、繋がないようにしてある」

 

「繋がないようにしてあるのは、わたしですか」

 

「あなたです。あなたが自分でやりました。やらなければ、二年もちませんでした」

 

わたしは茶を飲んだ。ぬるい。この人は毎回ぬるいほうを出す。手が塞がらないようにするためだと、あとで気づいた。

 

「繋いだら、どうなるんですか」

 

「一度に出ます」

 

「それ、まずいですよね」

 

「まずい場所でやると、まずいです」

 

ヴァイスさんは、そこで少し黙った。

黙り方が、いつもの待つ黙り方とは違った。次に言うことを決めているときの黙り方だ。三か月通うと、そこの区別はつく。

 

「その紙を、もう一度見せてください」

 

わたしは通達を出した。ヴァイスさんは受け取って、上から下まで読んだ。読むのが速い。

読み終わって、机に置いた。置いたときに、指で紙の端を揃えた。

 

「行くことが決まったなら」

 

「はい」

 

「治療として意味のある形にしましょう」

 

「意味のある形」

 

「あなたは命じられて行くのではなく、行くと決めた。そう聞きました」

 

わたしは頷いた。

先生から聞いたのだと思う。あの人はそういうことは伝える。伝えたことは言わない。

 

「決めた人が行くのと、連れて行かれた人が行くのとでは、同じ場所でも別のことが起きます。前のほうなら、こちらから足せるものがあります」

 

「足すって、何を足すんですか」

 

「順番と、引き返す約束です」

 

ヴァイスさんは、そこから先を言わなかった。

今日はここまで、という合図で湯呑みを片付け始めたので、わたしは立ち上がった。

 

 

 

それから、面談が一回ぶん過ぎた。

 

足の裏と、五つは続けている。数えるのは相変わらず退屈だ。

食堂で器が落ちる日は、三日か四日に一回ある。落ちれば手は握る。そこは何も変わらない。変わったのは、そのあとだ。握ったと気づいて、開く。床を確かめて、見えるものを拾う。席から立たずに戻れる日が増えた。毎回ではない。数えてみたら、半分より上だった。

 

半分より上、というのを、ヴァイスさんに言った。

 

「数えていましたか」

 

「勝手に数えてました」

 

「では、その数え方を持っていってください」

 

そういう言い方をした。持っていく先の話は、まだしていなかったのに。

 

出発の五日前に、面談室に三人で入った。

わたしと、ヴァイスさんと、先生だ。椅子が三つに増えていた。わたしのは、いつもと同じ扉の見える側にあった。

 

「準備ができたと思います」

 

ヴァイスさんは、そこから始めた。

 

「あなたの記憶は、断片で入っています。場所と時間がばらばらです。同じ夜のことが三つに割れて、別の年のところに置いてあることもあります」

 

「あります」

 

心当たりはある。母の菓子パンの匂いと、焼けた陣地の匂いが、同じ棚から出てくる。番号が振られていない。

 

「実際に歩くと、それが場所に結びつきます。あの道を上がって、あの角を曲がって、そこで何があったか。歩いた順に並びます。並んだものは、順番が振れます」

 

「振れたら、どうなるんですか」

 

「呼んでいないのに来る回数が、減ることがあります」

 

減ることがある、という言い方だった。減ります、とは言わなかった。この人は数を大きく言わない。

 

「……帰っていいんですか」

 

わたしは聞いた。

 

聞いてから、変な聞き方だと思った。命令で行くことになっていて、自分でも行くと決めたのに、許可を求めている。

 

「怖い場所に、実際に行く」

 

ヴァイスさんは言った。

 

「これは、いちばんきつい治療です。だから最後にやります。順番を守るために、三か月かけました」

 

「三か月」

 

「あなたが最初にこの部屋に来た日に、同じことを提案していたら、あなたは壊れていました。あの日のあなたは、道具を一つも持っていませんでした」

 

わたしは自分の手を見た。

甲のところに、白い痕が四つある。押しても痛くない。三か月前は、かさぶただった。

 

「今のあなたは、道具を持っています。足の裏、数えるの、報告の形、それから握れない日に握らないでおくこと」

 

握らないでおくことも道具に入るらしい。

入れていいものだとは思っていなかった。

 

「……使えなかったら?」

 

わたしは聞いた。

 

「引き返します」

 

ヴァイスさんは、間を置かなかった。

 

「途中でも引き返します。村の入口で引き返しても、それは失敗ではありません。行って、駄目で、戻る。それも治療のうちです」

 

「戻ってきたら、また来週やるんですか」

 

「やります」

 

「一回で終わらないんですね」

 

「終わりません」

 

そう言って、ヴァイスさんは先生のほうを見た。

 

「ハーシェルさんにも、行っていただきます」

 

「行く」

 

先生は即答した。聞かれる前から決めていた声だった。

 

「わたしも行きます」

 

ヴァイスさんが言ったので、わたしは顔を上げた。

 

「ヴァイスさんも行くんですか」

 

「いちばんきつい治療だと言ったのは、わたしです。それを言った人間が、安全な場所で待っているのは、筋が通りません」

 

筋、という言い方をした。

理屈のほうではなく、筋のほうを使う人だとは思っていなかった。

 

「ただし、あなたの横にはいません」

 

「横にいないんですか」

 

「離れたところにいます。呼ばれたら行きます。あの場所で、あなたの横にいるべきなのは、わたしではありません」

 

わたしは、それについて少し考えた。

横にいてほしいのが誰かは、聞かれていない。聞かれていないのに、決まっている。決まっているのを、この人はもう知っているらしい。

 

ヴァイスさんは、それから先生のほうに向き直った。

 

「ハーシェルさんに、二つお願いがあります」

 

「言え」

 

「一つ。何かが起きたとき、止めないでください」

 

先生が黙った。

 

「止めるのは、危険があるときだけです。それ以外は、そばにいるだけにしてください。道具はこの子が持っています。使う練習も、この子がしました。使う前に取り上げないでください」

 

「……わかった」

 

「二つ」

 

ヴァイスさんは、そこで一拍置いた。

 

「戻ってきたら、あなたも面談に来てください」

 

先生が、動かなくなった。

 

湯呑みを持っていた手が、そのままで止まった。持ち上げる途中で止まったのではなくて、机に置いたままの手が動かなくなった。指が湯呑みに触れている。

 

「これは命令ではありません。お願いです」

 

ヴァイスさんの声は、いつもと同じだった。大きくならない。

わたしのときと同じ声で、同じ言い方で、先生に喋っている。

 

先生の黙りが長かった。

待つ黙り方でもなく、次を決める黙り方でもなかった。もっと下のほうで、何かを押さえているときの止まり方だった。あれは知っている。前線で、報告に来た奴が最初の一語を出すまでの止まり方だ。

 

「考える」

 

先生が言った。

 

「考えてください」

 

ヴァイスさんは、それで引いた。押さなかった。

 

わたしは湯呑みを持ち上げたまま、そのやりとりを見ていた。口までは来ていなかった。気づいて、机に戻した。戻す音が、思っていたより大きかった。

 

意味の半分がわからなかった。半分はわかった。あの人にも、面談が要るような何かがあるということだ。

それが何なのかは、わからない。わからないことを聞くのは、こういうときは、たぶん違う。

 

三か月、わたしは自分が診られる側だと思っていた。

この部屋に、もう一人ぶんの椅子があることを、今日まで考えていなかった。

 

 

 

廊下に出たら、ナタルが壁に寄りかかって待っていた。

 

「終わったのか」

 

「終わった」

 

「向こうも同じことを言うのか」

 

「たぶん」

 

ナタルは頷いた。それ以上聞かなかった。

並んで歩き出して、渡り廊下の途中でナタルが止まった。

 

「あの集落、無くなってる」

 

隣の谷の話だ。月に一度、市が立った。母と歩いて行った。

前に一度、この子から聞いた。焼けて、誰もいないと。

 

「うん」

 

「通る」

 

「通るの?」

 

「峠から下りたら、あの道しかない」

 

わたしは黙った。

 

道の形は、思い出せる。上の道と下の道があって、下は雨で使えない。あそこを通らないと、うちの谷には入れない。

考えていなかった。行くと決めたときに、村のことだけ考えていた。行くまでのあいだに何を通るかは、数に入れていなかった。

 

「言っといたほうがいいと思った」

 

ナタルが言った。

 

言い終わってから、コップの縁をなぞるときの動きを、指が空でやっていた。持っていないのに、なぞっている。

 

「ありがとう」

 

わたしは言った。

 

ナタルは何も返さないで、寮のほうへ行った。足音はしなかった。

 

 

 

ミラが日数を聞いてきたのは、出発の三日前だ。

 

夜の食堂だった。芋の器を置いて、両手を空けて、指で数える構えをした。

 

「何日?」

 

「十日、たぶん。峠の乗り換え待ちがあるから、もっとかも」

 

「十日」

 

「うん」

 

ミラは指を折り始めて、十まで行く前にやめた。

 

「じゃあ、帰ってくる日に、席取っとく」

 

「わかんないよ、何日に帰るか」

 

「じゃあ十日目から毎日取る」

 

「毎日?」

 

「毎日。取っといて、いなかったら食べる」

 

「二人ぶん食べるの」

 

「食べるよ。わたし食べられるもん」

 

わたしは笑った。今日の笑いは、少し遅れて出た。

 

ミラは、行くのがどこなのかを聞かなかった。

三週間、一度も聞かなかった。焼けたのかとも、誰がいるのかとも聞かなかった。聞いたのは日数だけで、あとは席の話をした。この子は聞かない側の線を、いつのまにか自分で引いている。引いた線の内側では、遠慮しない。

 

「あと、あれ」

 

ミラが匙で自分の器を指した。

 

「宿題、持ってっていいよ」

 

「持っていくって、どうやって」

 

「向こうで何か食べるでしょ。食べて、好きだったら覚えてくればいいじゃん」

 

わたしは頷いた。

 

覚えてくるものが何かあるのかは、わからない。

あそこの甘いものは蜂蜜だった。砂糖はなかった。蜂蜜も、戦争の二年で食い尽くした。今あるかどうかは知らない。

 

 

 

ルチアには、言うより前に決められていた。

 

紙を渡した夜に、読んで、返して、それから言った。

 

「わたしも行く」

 

「え」

 

「行くって言ってるの」

 

聞き方ではなかった。いいかどうかを聞いていない。

学院を離れる話も、家に説明する話も、そのときは何もしていなかった。していないのに、行くと言った。

 

それから、この子は黙って動いていた。

 

出発の二日前に、机の引き出しから紙を出して見せた。実家からの返事だ。封蝋の跡があって、家紋の印がついている。

 

「授業を離れる願いは、これがないと出せないから。先に頼んで、先に貰った」

 

「なんて書いて頼んだの」

 

「同じ組の子の付き添いで、北へ行くって」

 

「北」

 

「北だよ。方角は合ってる」

 

ルチアが目を逸らさずに言うので、わたしは何も言えなくなった。

この子は嘘をつかない。つかないまま、こういうことをする。

 

「わたし、あそこで何もできないよ」

 

紙を引き出しに戻してから、ルチアが言った。

 

「戦争のことは知らないし、道もわからないし、リーネが何を思い出すのかもわからない。たぶん、邪魔になる」

 

「邪魔にはならないと思うけど」

 

「わからないよ。でも、隣にはいられる」

 

わたしはそれについて、何も返せなかった。

返せない理由が、前とは違っていた。前は、言葉が出てこなかった。今のは、出そうとしていない。出さないほうがいいときが、たまにある。

 

ルチアが手を出した。前から、掌を上にして、待った。

 

握った。

 

震えた。指の付け根から手首まで来た。来たまま握り返した。

 

「今日は大丈夫」

 

「うん」

 

 

 

出発の朝、荷は包み一つだった。

 

言われたとおり一つにした。一つで足りた。着替えと、通達の紙が一枚。あとは入れるものがない。

制服を着て行くことになった。駐在官に出頭するときに要るのだと先生が言った。

 

紋章が胸にある。鷲が翼を広げて、その下に剣が一本ある。

これを着て、あの谷に入る。

 

前に一度、この紋章のことで手が止まった朝がある。あのときは襟を留めるところで止まって、それから留めた。

今朝は止まらなかった。留まるべきものが留まって、ボタンが六つとも合った。

止まらなかったことについて、考えるのはやめた。考える時間があるうちに馬車が出る。

 

門の前に、幌付きの馬車が一台来ていた。

 

先生が先に乗っていた。奥の席で、外を見ていた。

ヴァイスさんは荷を一つだけ持っていた。わたしのより小さい。三か月通ってきて、この人の荷を見たのは初めてだった。

ナタルは幌の下の端に座った。降りるほうに近い側だ。わたしは反対側の、外が見えるほうに座らされた。ルチアが隣に来た。

 

ミラが門のところまで来ていた。授業の前だ。走ってきたので、息が上がっていた。

 

「十日目から取るからね」

 

「うん」

 

「二人ぶん食べるからね」

 

「食べないで待っててよ」

 

馬車が動いた。

 

門が後ろに行った。壁が続いて、それが切れて、王都の通りになった。市場の広場を横に見て、それから外壁の門を出た。

 

 

 

道は最初、舗装されていた。

 

石を敷いて、隙間を詰めて、雨の日でも轍ができないようにしてある。馬車の揺れが規則的だ。石と石の継ぎ目で、同じ間隔で下から突かれる。数えられる揺れだった。

 

半日で、その規則が終わった。

 

石が切れて、土になった。轍が出てきた。轍の深いところで車輪が落ちるので、揺れの間隔がばらばらになる。

ナタルが顔を上げた。上げて、また下げた。この子も気づいている。

石の道が終わるところに、体が反応する。石を敷くのは、そこまでを自分の国だと思っている人間のやることだ。石が切れた先には、下げてくれる後方がない。

 

農地が続いていた。刈り取りが終わったところと、終わっていないところが混じっている。

それから、刈り取られていないまま倒れている畑が出てきた。倒れて、そのまま茶色くなっている。誰も刈らなかった畑だ。刈る人がいなくなった畑の色を、わたしは知っている。

 

「あれ、なんで倒れてるの」

 

ルチアが聞いた。

 

わたしは答えた。答えられた。

 

「刈る人がいないから」

 

ルチアは、それから何も聞かなかった。

 

集落を二つ通った。

一つは石造りで、屋根が揃っていた。もう一つは、屋根の色が半分だけ新しかった。新しいほうが西側で、古いほうが東側だ。西から建て直している。焼けたのが東からだったということだ。

 

家の壁に、黒い線が残っているのが見えた。

石は焼けても残る。残ったところに煤が入ると、雨で流れきらない。何年か経っても、下から一定の高さまで黒い。あの高さが、火が回った高さだ。

 

森が来た。

 

立っている木のあいだに、立っていない木が混じっている。

根から折れたのではなくて、途中から炭になって折れている。折れた面が黒い。その周りに新しい細い木が生えていて、細いほうは緑だ。緑と黒が同じ場所にある。

 

わたしは数えなかった。

数える癖はあるのに、数えなかった。数える意味が、ここでは思いつかなかった。

 

峠の関所で乗り換えになった。

王国の兵が二人、荷を見た。先生が紙を出した。ヴァイスさんが横に立っていた。番号のついた紙を、兵が上から下まで読んで、それからわたしとナタルの顔を順番に見た。

一と二を確かめている。確かめて、返した。

 

そこから先の馬車は小さかった。幌が低くて、五人でいっぱいになった。

道が上りに変わった。

 

前を向いていられなくなったので、外を見た。

 

木が減って、岩が増えた。岩のあいだに丈の低い草が生えている。この草の色を知っている。この高さの、この色だ。

呼吸が変わる高さがある。そこを通った。通ったのは、息でわかった。

 

誰も喋らなかった。

 

先生は外を見ていた。ヴァイスさんは荷を膝に載せて、目を閉じていた。眠っているのではない。眠っている人の首は、あの角度にならない。

ナタルは幌の端を掴んでいた。掴んで、指を一本ずつ動かしていた。数えている。

 

「リーネ」

 

ルチアが呼んだ。

 

聞こえていた。

返事の形が、組み立たなかった。何を返すのかではなくて、返すという動作のほうが出てこない。口は開いた。息だけ出た。

 

ルチアは二度目を呼ばなかった。

わたしの手のそばに、自分の手を置いた。触らないで、置いただけだ。

 

外を見た。

 

道が折れて、下りに変わった。

下りの、この角度を、足の裏が覚えていた。

 

わたしの知っている傾きだった。

 

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