果物が出なくなった。
井戸で冷やした緑の玉は夏のあいだだけのもので、盆の隅が空いた。代わりに芋が増えた。ミラが「芋の季節が来た」と言って、来なくてもよかったという顔をした。
中庭の影も伸びた。二か月前はベンチの半分だったのが、今は端まで届く。日が斜めから来るので、木の影が長くなった。わたしは前と同じ、日の当たるほうに座る。通路が見える側だからそこにしていたのに、この季節はそっちのほうが温かい。ルチアが影のほうから少しずつ寄ってくるようになった。
面談は十三回目になった。
三か月と少しだ。話はまだ十三より前にいる。ヴァイスさんは急がないし、急がない理由も言わない。急がないことに、こっちが慣れてきた。
午後の実技が終わったところで、先生に呼ばれた。
「カルヴァス。執務室だ」
それだけ言って、先に歩き出した。歩幅が変わらない人なので、後ろについていけば距離が一定になる。
教官棟の階段を上がって、二階の突き当たりまで行った。
扉の前で、ナタルが出てくるのと鉢合わせた。
紙を一枚持っていた。
折らずに、両手で持っていた。ナタルは紙を折らない。折り目のところが読めなくなるからだと、前線で言っていた。折るなと教えたのは上のほうの誰かで、その誰かの名前はもう出てこない。
「村に帰れって書いてある」
ナタルが言った。それだけだった。
紙を持ったまま、少しこっちに向けた。読ませるためではなくて、そこに書いてあるという意味の動かし方だった。
わたしを見て、それから紙を見て、また少し目を上げた。何か言うのかと思ったので待ったけれど、言わなかった。言わないというより、出てこなかったのだと思う。口の形が一度作られて、そのまま戻った。
ナタルは階段のほうへ行った。足音はしなかった。
執務室に入ると、机の上に湯呑みが二つ出ていた。呼ぶ前から出してある。
苦い茶だ。砂糖は入らない。三か月で慣れた。
「座れ」
わたしは座った。
先生は机の引き出しから紙を出して、こっちに向けて置いた。
ナタルが持っていたのと同じ紙だ。写しが二枚ある形式ではなくて、一枚に二人ぶん書いてある。
読んだ。
融和政策局。局の名前が上に一つあって、判が押してある。字は角張っていない。書き慣れた事務の字で、罫線から一度も出ない。
属国出身在学者の教育成果確認に関する件、と書いてあった。
一、下記の者について、出身地域への帰省を許可し、これを命ずる。
二、滞在中、現地駐在官のもとに出頭し、経過の報告を行うこと。
三、日程その他は担当教官の指示に従うこと。
その下に、名前が二つ並んでいた。
一 カルヴァス
二 フォルケ
番号が振ってあった。
わたしはそこをしばらく見ていた。
命令の紙は、前線ではあまり見なかった。命令は口で来た。走ってきた奴が息を切らしながら喋って、それで終わる。紙で来るものは上のほうの人が受け取って、下には声で降りてくる。
紙のほうで見たことがあるのは、名簿だ。名前が縦に並んで、番号が振ってある。前の週の紙と今週の紙を並べて、消えている番号を数える。数えると減った人数が出る。あれと同じ書式だった。
字が丁寧なのが、いちばん引っかかった。
罫線から出ないように書いてある。丁寧に書いた人は、この紙を書いているあいだ、たぶんわたしのことを考えていない。考えないで書ける紙だ。
「許可し、これを命ずる」
わたしは読み上げた。
「許可されて、命じられてます」
「そう書いてある」
「どっちなんですか」
「両方だ」
先生は湯呑みを持って、それから机の上に戻した。飲まなかった。
「経過報告というのは建前だ」
「はい」
「駐在官は報告を聞く。聞いて、書く。書いたものが局に戻る。だが局が知りたいのは、お前の成績じゃない。お前たちが故郷とどう接触するか、それを管理したいだけだ」
前に一度、この人から聞いた。三つあると言っていた。一つ目が、目の届くところに置くことだった。
だから今回のも形は知っている。知っていても、紙になって出てくると、紙のほうが先に目に入る。
「わかりました」
わたしは言った。
「命令なら行きます。兵士は命令に従いますから」
口の端が上がった。上げようと思う前に上がった。
上がるのは戻ってきている。祭りのあとの二週間は出なかったのに、今は勝手に出る。出るときは速い。
先生が湯呑みから手を離した。
「兵士じゃない」
低い声だった。怒っていない。訂正の声だ。
「生徒だ」
わたしは何も言えなかった。
言い返す言葉はなかったし、はいと言うのも変な気がした。はいと言うのは命令への返しで、今のは命令ではない。命令でないものに、どう返すのかを知らない。
口の端は、まだ上がっていた。下ろす筋の場所が、こういうときはわからなくなる。
「日は三週間後だ」
先生は先に進んだ。
「峠まで馬車、そこから先は乗り換えになる。荷は一つにしろ」
「一つでいいんですね」
「一つで足りるだろう」
足りる。包み一つで来た人間に言う言葉としては、正しい。
「フォルケも同じ日ですか」
「同じ日にしろと言われた。あいつから」
わたしは頷いた。
ナタルが自分から何かを言うのは珍しい。珍しいことをした、というだけで、中身は聞かないほうがいい。あれは聞かれると余計に言わなくなる。
「以上だ。茶は飲め」
わたしは苦い茶を飲んだ。
最後まで飲んで、湯呑みを置いた。置くときに、紙のほうをもう一度見た。
一 カルヴァス。
自分の名前が、番号のついた紙に載っている。載っているのは初めてではない。
夜。
ルチアは机で書き物をしていた。ペンの音がしている。
わたしはベッドの端に座って、靴を脱いだ足を床につけた。石は冷たい。夏のあいだは、夜になっても床がぬるかった。もう冷えるようになった。
紙は畳んで持ち帰っていた。もう一度開いた。
出身地域への帰省。
帰省というのは、前に一度、字で見た。
事務室の棚に共通の用紙が置いてあって、真ん中に欄がある。帰省先住所、と五文字あって、その下に線が引いてある。住所を書くのにちょうどいい長さの線だ。
あのときは、書くところがなかった。事務の人に聞いたら、困った顔をされた。困らせるつもりはなかったので、紙を戻した。
今度は、行けと書いてある。
同じ言葉で、順番が逆になっている。書く場所はないのに、行く命令はある。書式を作った人と、命令を出した人は、たぶん同じ局にいる。
わたしは紙を膝の上に置いた。
命令なら行きます、と言った。あれは口が先に出た。
出たあとで、先生が訂正した。生徒だと言われた。言われたところで、行くのは行くのだから、どっちでもいいはずだ。
いいはずなのに、引っかかっている。
引っかかっているのは、たぶん、命令だから行くというのが本当ではないからだ。
わたしは入学してから一度も帰っていない。
帰らなかったのは、帰れなかったからではない。休みはあった。峠を越える馬車の値段は知らないけれど、聞けば誰かが教えてくれた。会長は毎学期、当然のように帰っていると言っていた。
行かなかったのは、行く理由を自分で持っていなかったからだ。
持っていないものは、探さなかった。探さなくても日は過ぎる。日が過ぎるあいだ、あの場所のことは考えなかった。考えないでいることには慣れている。ずっとそうしてきた。
紙が来て、初めて考えている。
あの人たちを埋めた場所を、わたしは知っている。
三人ぶんは自分で掘った。土が浅いところで、深く掘れなかった。石は置いていない。置く時間がなかった。名前を刻むようなものは、そもそも持っていなかった。
だから今そこに何かあるのかは知らない。何もないかもしれない。地面と草だけかもしれない。
隊長のところは、知っている。あそこは覚えている。
あの人はわたしを庇って死んだ。庇って死んだ人のところに、一年以上行っていない。行かないで、こっちでパンを食べて、湯に入って、握れる日と握れない日を数えている。
それが悪いことなのかは、わからない。
悪くはないのだと思う。ヴァイスさんは、生きているほうを責めない。責める言い方を一度もしない人だ。
わからないけれど、行きたい。
行きたい、と頭の中で言ってみて、その形がずいぶん久しぶりだった。
好きなものは取り出せない。何が好きかと聞かれると、手が空で戻る。宿題はまだ絞れていない。
行きたいのほうは、出た。一回で出た。取り出そうとする前に、もうそこにあった。
怖い。それも別にある。
怖いのと、行きたいのは、別のところに置いてある。片方が片方を消さない。両方あるまま、二つとも数に入る。
墓の前に立たないまま、こっちで笑っているのは、たぶん、順番が違う。
何を言うのかは決まっていない。決まっていなくても、立たないと先がない気がする。
紙を畳んだ。
命令で行くんじゃない。
わたしが行く。
ペンの音が止まった。ルチアが顔を上げて、こっちを見た。
「何か決めた顔してる」
「顔に出てる?」
「出てる」
わたしは紙を膝から持ち上げて、少し考えて、ルチアに渡した。
翌日の朝、実技の前に教官棟へ行った。
先生は執務室にいた。机で紙を見ていて、こっちが入ってきても顔を上げなかった。
「なんだ」
「昨日のことです」
「聞いてる」
「命令だから行くって言いました。あれ、撤回します」
先生が顔を上げた。片方の眉が上がった。上がって、それだけだった。眉が上がるのは初めて見た。
「わたしが行きたいから行きます」
言ってから、続きを用意していないことに気づいた。理由を聞かれたら、墓のところから話すことになる。話せるかどうかは、その場になるまでわからない。
先生は聞かなかった。
一拍あった。長くはない。息を一つぶんくらいだ。
「そうか」
それだけだった。
わたしは待った。何か足されるのかと思った。
足されなかった。先生は机の紙に戻って、それから思い出したように言った。
「日程は変わらん。三週間後だ」
「はい」
「行け。遅れるぞ」
わたしは出た。
廊下を歩きながら、少し考えた。
そうか、しか言われなかった。あの人は三語で終わる人だから、そうかは短いほうでも長いほうでもない。
ただ、昨日のはいには何も返ってこなかった。今日のには、そうかが返ってきた。返るほうが、少し重い。
村の名前が出てこなかったのは、その日の夕方だ。
寮の廊下で、ルチアと歩いていた。紙は昨日渡して、読んで、返ってきていた。ルチアは書いてあることについて何も聞かなかったのに、そのときになって聞いた。
「どこなの、リーネの村」
聞き方が、地図の話をする聞き方だった。方角の話だ。責める要素は一つもない。
わたしは口を開けた。
出てこなかった。
谷の名前は言える。面談室で言った。上の道と下の道があって、下は雨で使えなくなることも言った。学校が集落の外れにあることも、教室が二つあることも言った。全部、あの部屋では出た。
その谷の中に村がある。名前がある。二音だ。母が呼んでいた呼び方と、外の人が呼ぶ呼び方が少し違う。どっちも知っている。
知っているのに、喉のところで止まった。
息だけ出た。母の菓子パンのときと、同じ場所だ。骨と、筋と、皮膚しかないところで止まる。
「あ」
出たのはそれだった。
「ごめん、出ない」
ルチアは待った。急かさなかったし、別の話に切り替えもしなかった。切り替えるのはミラのやり方で、この子は待つ。
「言えるようになったら、教えて」
「うん」
「わたし、地図で見てみたかっただけだから」
図書室に大陸の地図があるらしい。ルチアは地図を見るのが好きだ。弟に何かを教えるとき、いつも図を描くと言っていた。
見てみたかっただけ、というのを、この子は嘘で言わない。だからそのまま受け取っておいた。
部屋に戻ってから、一人で試した。
声を出さずに口の形だけ作った。作れた。息を乗せると、乗る前に止まる。
来週、言おうと思った。
「面談室では言えて、ルチアさんには言えなかった」
十四回目で、ヴァイスさんはそう言い直した。
言い直すというより、こっちの話を並べ直しただけだ。この人はそれをよくやる。並べ直されると、自分が言ったことの形が変わって見える。
「はい」
「同じ言葉ですね」
「同じです。二音です」
「では、違うのは相手のほうです」
ヴァイスさんは湯呑みを机に置いた。
それから、指を一本立てた。大事なことを言う前に、この人はこれをやる。
「ここで話すのは、報告です」
「はい」
「あなたは報告が得意です。何があって、どこで、何人。順番に並べて渡す。二年やった形なので、口が道を知っている」
「はい」
「ルチアさんに村の名前を言うのは、報告ではありません」
わたしは湯呑みを持ち直した。
「じゃあ、何ですか」
「渡すことです」
渡す。
「報告は、書いて置いていけます。渡すのは、受け取る人がいます。受け取る人がいるものは、あとで返ってきます。あなたが村の名前を言えば、ルチアさんはその名前で地図を探して、次に会ったときに、その名前で話しかけてきます」
「……はい」
「そこまでを、体が先に読んでいます。読んで、止めている。止めているのは、あなたを守るためです」
守るため、というところで、わたしは少し止まった。
守るというのは、盾に使う言葉だ。矢が来るほうに何かを置くことを言う。今のは矢ではない。ルチアが地図を見るだけの話だ。
「そんなに危ないことじゃないですけど」
「危なくありません」
ヴァイスさんはあっさり認めた。
「あなたの頭は、それを知っています。体のほうがまだ知りません。あなたの中では、場所と、そこにあったものが、別々にしまわれています。場所は場所の棚に、そこで起きたことは別の棚に。繋げると一度に出てくるので、繋がないようにしてある」
「繋がないようにしてあるのは、わたしですか」
「あなたです。あなたが自分でやりました。やらなければ、二年もちませんでした」
わたしは茶を飲んだ。ぬるい。この人は毎回ぬるいほうを出す。手が塞がらないようにするためだと、あとで気づいた。
「繋いだら、どうなるんですか」
「一度に出ます」
「それ、まずいですよね」
「まずい場所でやると、まずいです」
ヴァイスさんは、そこで少し黙った。
黙り方が、いつもの待つ黙り方とは違った。次に言うことを決めているときの黙り方だ。三か月通うと、そこの区別はつく。
「その紙を、もう一度見せてください」
わたしは通達を出した。ヴァイスさんは受け取って、上から下まで読んだ。読むのが速い。
読み終わって、机に置いた。置いたときに、指で紙の端を揃えた。
「行くことが決まったなら」
「はい」
「治療として意味のある形にしましょう」
「意味のある形」
「あなたは命じられて行くのではなく、行くと決めた。そう聞きました」
わたしは頷いた。
先生から聞いたのだと思う。あの人はそういうことは伝える。伝えたことは言わない。
「決めた人が行くのと、連れて行かれた人が行くのとでは、同じ場所でも別のことが起きます。前のほうなら、こちらから足せるものがあります」
「足すって、何を足すんですか」
「順番と、引き返す約束です」
ヴァイスさんは、そこから先を言わなかった。
今日はここまで、という合図で湯呑みを片付け始めたので、わたしは立ち上がった。
それから、面談が一回ぶん過ぎた。
足の裏と、五つは続けている。数えるのは相変わらず退屈だ。
食堂で器が落ちる日は、三日か四日に一回ある。落ちれば手は握る。そこは何も変わらない。変わったのは、そのあとだ。握ったと気づいて、開く。床を確かめて、見えるものを拾う。席から立たずに戻れる日が増えた。毎回ではない。数えてみたら、半分より上だった。
半分より上、というのを、ヴァイスさんに言った。
「数えていましたか」
「勝手に数えてました」
「では、その数え方を持っていってください」
そういう言い方をした。持っていく先の話は、まだしていなかったのに。
出発の五日前に、面談室に三人で入った。
わたしと、ヴァイスさんと、先生だ。椅子が三つに増えていた。わたしのは、いつもと同じ扉の見える側にあった。
「準備ができたと思います」
ヴァイスさんは、そこから始めた。
「あなたの記憶は、断片で入っています。場所と時間がばらばらです。同じ夜のことが三つに割れて、別の年のところに置いてあることもあります」
「あります」
心当たりはある。母の菓子パンの匂いと、焼けた陣地の匂いが、同じ棚から出てくる。番号が振られていない。
「実際に歩くと、それが場所に結びつきます。あの道を上がって、あの角を曲がって、そこで何があったか。歩いた順に並びます。並んだものは、順番が振れます」
「振れたら、どうなるんですか」
「呼んでいないのに来る回数が、減ることがあります」
減ることがある、という言い方だった。減ります、とは言わなかった。この人は数を大きく言わない。
「……帰っていいんですか」
わたしは聞いた。
聞いてから、変な聞き方だと思った。命令で行くことになっていて、自分でも行くと決めたのに、許可を求めている。
「怖い場所に、実際に行く」
ヴァイスさんは言った。
「これは、いちばんきつい治療です。だから最後にやります。順番を守るために、三か月かけました」
「三か月」
「あなたが最初にこの部屋に来た日に、同じことを提案していたら、あなたは壊れていました。あの日のあなたは、道具を一つも持っていませんでした」
わたしは自分の手を見た。
甲のところに、白い痕が四つある。押しても痛くない。三か月前は、かさぶただった。
「今のあなたは、道具を持っています。足の裏、数えるの、報告の形、それから握れない日に握らないでおくこと」
握らないでおくことも道具に入るらしい。
入れていいものだとは思っていなかった。
「……使えなかったら?」
わたしは聞いた。
「引き返します」
ヴァイスさんは、間を置かなかった。
「途中でも引き返します。村の入口で引き返しても、それは失敗ではありません。行って、駄目で、戻る。それも治療のうちです」
「戻ってきたら、また来週やるんですか」
「やります」
「一回で終わらないんですね」
「終わりません」
そう言って、ヴァイスさんは先生のほうを見た。
「ハーシェルさんにも、行っていただきます」
「行く」
先生は即答した。聞かれる前から決めていた声だった。
「わたしも行きます」
ヴァイスさんが言ったので、わたしは顔を上げた。
「ヴァイスさんも行くんですか」
「いちばんきつい治療だと言ったのは、わたしです。それを言った人間が、安全な場所で待っているのは、筋が通りません」
筋、という言い方をした。
理屈のほうではなく、筋のほうを使う人だとは思っていなかった。
「ただし、あなたの横にはいません」
「横にいないんですか」
「離れたところにいます。呼ばれたら行きます。あの場所で、あなたの横にいるべきなのは、わたしではありません」
わたしは、それについて少し考えた。
横にいてほしいのが誰かは、聞かれていない。聞かれていないのに、決まっている。決まっているのを、この人はもう知っているらしい。
ヴァイスさんは、それから先生のほうに向き直った。
「ハーシェルさんに、二つお願いがあります」
「言え」
「一つ。何かが起きたとき、止めないでください」
先生が黙った。
「止めるのは、危険があるときだけです。それ以外は、そばにいるだけにしてください。道具はこの子が持っています。使う練習も、この子がしました。使う前に取り上げないでください」
「……わかった」
「二つ」
ヴァイスさんは、そこで一拍置いた。
「戻ってきたら、あなたも面談に来てください」
先生が、動かなくなった。
湯呑みを持っていた手が、そのままで止まった。持ち上げる途中で止まったのではなくて、机に置いたままの手が動かなくなった。指が湯呑みに触れている。
「これは命令ではありません。お願いです」
ヴァイスさんの声は、いつもと同じだった。大きくならない。
わたしのときと同じ声で、同じ言い方で、先生に喋っている。
先生の黙りが長かった。
待つ黙り方でもなく、次を決める黙り方でもなかった。もっと下のほうで、何かを押さえているときの止まり方だった。あれは知っている。前線で、報告に来た奴が最初の一語を出すまでの止まり方だ。
「考える」
先生が言った。
「考えてください」
ヴァイスさんは、それで引いた。押さなかった。
わたしは湯呑みを持ち上げたまま、そのやりとりを見ていた。口までは来ていなかった。気づいて、机に戻した。戻す音が、思っていたより大きかった。
意味の半分がわからなかった。半分はわかった。あの人にも、面談が要るような何かがあるということだ。
それが何なのかは、わからない。わからないことを聞くのは、こういうときは、たぶん違う。
三か月、わたしは自分が診られる側だと思っていた。
この部屋に、もう一人ぶんの椅子があることを、今日まで考えていなかった。
廊下に出たら、ナタルが壁に寄りかかって待っていた。
「終わったのか」
「終わった」
「向こうも同じことを言うのか」
「たぶん」
ナタルは頷いた。それ以上聞かなかった。
並んで歩き出して、渡り廊下の途中でナタルが止まった。
「あの集落、無くなってる」
隣の谷の話だ。月に一度、市が立った。母と歩いて行った。
前に一度、この子から聞いた。焼けて、誰もいないと。
「うん」
「通る」
「通るの?」
「峠から下りたら、あの道しかない」
わたしは黙った。
道の形は、思い出せる。上の道と下の道があって、下は雨で使えない。あそこを通らないと、うちの谷には入れない。
考えていなかった。行くと決めたときに、村のことだけ考えていた。行くまでのあいだに何を通るかは、数に入れていなかった。
「言っといたほうがいいと思った」
ナタルが言った。
言い終わってから、コップの縁をなぞるときの動きを、指が空でやっていた。持っていないのに、なぞっている。
「ありがとう」
わたしは言った。
ナタルは何も返さないで、寮のほうへ行った。足音はしなかった。
ミラが日数を聞いてきたのは、出発の三日前だ。
夜の食堂だった。芋の器を置いて、両手を空けて、指で数える構えをした。
「何日?」
「十日、たぶん。峠の乗り換え待ちがあるから、もっとかも」
「十日」
「うん」
ミラは指を折り始めて、十まで行く前にやめた。
「じゃあ、帰ってくる日に、席取っとく」
「わかんないよ、何日に帰るか」
「じゃあ十日目から毎日取る」
「毎日?」
「毎日。取っといて、いなかったら食べる」
「二人ぶん食べるの」
「食べるよ。わたし食べられるもん」
わたしは笑った。今日の笑いは、少し遅れて出た。
ミラは、行くのがどこなのかを聞かなかった。
三週間、一度も聞かなかった。焼けたのかとも、誰がいるのかとも聞かなかった。聞いたのは日数だけで、あとは席の話をした。この子は聞かない側の線を、いつのまにか自分で引いている。引いた線の内側では、遠慮しない。
「あと、あれ」
ミラが匙で自分の器を指した。
「宿題、持ってっていいよ」
「持っていくって、どうやって」
「向こうで何か食べるでしょ。食べて、好きだったら覚えてくればいいじゃん」
わたしは頷いた。
覚えてくるものが何かあるのかは、わからない。
あそこの甘いものは蜂蜜だった。砂糖はなかった。蜂蜜も、戦争の二年で食い尽くした。今あるかどうかは知らない。
ルチアには、言うより前に決められていた。
紙を渡した夜に、読んで、返して、それから言った。
「わたしも行く」
「え」
「行くって言ってるの」
聞き方ではなかった。いいかどうかを聞いていない。
学院を離れる話も、家に説明する話も、そのときは何もしていなかった。していないのに、行くと言った。
それから、この子は黙って動いていた。
出発の二日前に、机の引き出しから紙を出して見せた。実家からの返事だ。封蝋の跡があって、家紋の印がついている。
「授業を離れる願いは、これがないと出せないから。先に頼んで、先に貰った」
「なんて書いて頼んだの」
「同じ組の子の付き添いで、北へ行くって」
「北」
「北だよ。方角は合ってる」
ルチアが目を逸らさずに言うので、わたしは何も言えなくなった。
この子は嘘をつかない。つかないまま、こういうことをする。
「わたし、あそこで何もできないよ」
紙を引き出しに戻してから、ルチアが言った。
「戦争のことは知らないし、道もわからないし、リーネが何を思い出すのかもわからない。たぶん、邪魔になる」
「邪魔にはならないと思うけど」
「わからないよ。でも、隣にはいられる」
わたしはそれについて、何も返せなかった。
返せない理由が、前とは違っていた。前は、言葉が出てこなかった。今のは、出そうとしていない。出さないほうがいいときが、たまにある。
ルチアが手を出した。前から、掌を上にして、待った。
握った。
震えた。指の付け根から手首まで来た。来たまま握り返した。
「今日は大丈夫」
「うん」
出発の朝、荷は包み一つだった。
言われたとおり一つにした。一つで足りた。着替えと、通達の紙が一枚。あとは入れるものがない。
制服を着て行くことになった。駐在官に出頭するときに要るのだと先生が言った。
紋章が胸にある。鷲が翼を広げて、その下に剣が一本ある。
これを着て、あの谷に入る。
前に一度、この紋章のことで手が止まった朝がある。あのときは襟を留めるところで止まって、それから留めた。
今朝は止まらなかった。留まるべきものが留まって、ボタンが六つとも合った。
止まらなかったことについて、考えるのはやめた。考える時間があるうちに馬車が出る。
門の前に、幌付きの馬車が一台来ていた。
先生が先に乗っていた。奥の席で、外を見ていた。
ヴァイスさんは荷を一つだけ持っていた。わたしのより小さい。三か月通ってきて、この人の荷を見たのは初めてだった。
ナタルは幌の下の端に座った。降りるほうに近い側だ。わたしは反対側の、外が見えるほうに座らされた。ルチアが隣に来た。
ミラが門のところまで来ていた。授業の前だ。走ってきたので、息が上がっていた。
「十日目から取るからね」
「うん」
「二人ぶん食べるからね」
「食べないで待っててよ」
馬車が動いた。
門が後ろに行った。壁が続いて、それが切れて、王都の通りになった。市場の広場を横に見て、それから外壁の門を出た。
道は最初、舗装されていた。
石を敷いて、隙間を詰めて、雨の日でも轍ができないようにしてある。馬車の揺れが規則的だ。石と石の継ぎ目で、同じ間隔で下から突かれる。数えられる揺れだった。
半日で、その規則が終わった。
石が切れて、土になった。轍が出てきた。轍の深いところで車輪が落ちるので、揺れの間隔がばらばらになる。
ナタルが顔を上げた。上げて、また下げた。この子も気づいている。
石の道が終わるところに、体が反応する。石を敷くのは、そこまでを自分の国だと思っている人間のやることだ。石が切れた先には、下げてくれる後方がない。
農地が続いていた。刈り取りが終わったところと、終わっていないところが混じっている。
それから、刈り取られていないまま倒れている畑が出てきた。倒れて、そのまま茶色くなっている。誰も刈らなかった畑だ。刈る人がいなくなった畑の色を、わたしは知っている。
「あれ、なんで倒れてるの」
ルチアが聞いた。
わたしは答えた。答えられた。
「刈る人がいないから」
ルチアは、それから何も聞かなかった。
集落を二つ通った。
一つは石造りで、屋根が揃っていた。もう一つは、屋根の色が半分だけ新しかった。新しいほうが西側で、古いほうが東側だ。西から建て直している。焼けたのが東からだったということだ。
家の壁に、黒い線が残っているのが見えた。
石は焼けても残る。残ったところに煤が入ると、雨で流れきらない。何年か経っても、下から一定の高さまで黒い。あの高さが、火が回った高さだ。
森が来た。
立っている木のあいだに、立っていない木が混じっている。
根から折れたのではなくて、途中から炭になって折れている。折れた面が黒い。その周りに新しい細い木が生えていて、細いほうは緑だ。緑と黒が同じ場所にある。
わたしは数えなかった。
数える癖はあるのに、数えなかった。数える意味が、ここでは思いつかなかった。
峠の関所で乗り換えになった。
王国の兵が二人、荷を見た。先生が紙を出した。ヴァイスさんが横に立っていた。番号のついた紙を、兵が上から下まで読んで、それからわたしとナタルの顔を順番に見た。
一と二を確かめている。確かめて、返した。
そこから先の馬車は小さかった。幌が低くて、五人でいっぱいになった。
道が上りに変わった。
前を向いていられなくなったので、外を見た。
木が減って、岩が増えた。岩のあいだに丈の低い草が生えている。この草の色を知っている。この高さの、この色だ。
呼吸が変わる高さがある。そこを通った。通ったのは、息でわかった。
誰も喋らなかった。
先生は外を見ていた。ヴァイスさんは荷を膝に載せて、目を閉じていた。眠っているのではない。眠っている人の首は、あの角度にならない。
ナタルは幌の端を掴んでいた。掴んで、指を一本ずつ動かしていた。数えている。
「リーネ」
ルチアが呼んだ。
聞こえていた。
返事の形が、組み立たなかった。何を返すのかではなくて、返すという動作のほうが出てこない。口は開いた。息だけ出た。
ルチアは二度目を呼ばなかった。
わたしの手のそばに、自分の手を置いた。触らないで、置いただけだ。
外を見た。
道が折れて、下りに変わった。
下りの、この角度を、足の裏が覚えていた。
わたしの知っている傾きだった。