わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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帰郷

峠を下りきって、隣の谷を通った。

 

道は谷の底を行く。集落は道の両側にあった。

石が並んでいる。並んでいる列の内側に草が生えている。屋根はない。梁もない。木は残らないので、焼けたところは石だけになる。

出発の前に、ナタルが言った。あの集落は無くなっている、通る、と。知らせておいたほうがいいと思ったと言った。

 

知っていた。知っているのと、来ないのとは別だ。

別だけれど、知っていたほうが楽だった。角を曲がる前に、次に何が来るかがわかっている。前線でも、そこは同じだった。

 

広場のところで、草が薄くなった。

 

そこだけ土が硬い。人が踏み固めた土は、踏まれなくなってからも、しばらく草が生えにくい。一年では戻らない。だから市の立った場所の形が、草の生え方でわかる。

四角い。思っていたより小さい。

 

台の場所を覚えている。入って右のほうが食べ物だった。奥が布と革だ。蜂蜜は右の、いちばん奥だった。壺で量り売りで、匙で舐めさせてもらったことがある。母と歩いて来た。月に一度だ。片道は歩きで、帰りは荷を分けて持った。

 

匂いを探した。

 

何もなかった。

 

石と、濡れた土の匂いだけだ。一年経つと匂いは残らない。残るのは煤で、煤は雨で流れて薄くなって、それでも黒だけが残る。

匂いがないことに、少し止まった。あるほうを覚悟していた。ないほうの用意はしていなかった。

 

「ここ、集落だったの」

 

ルチアが聞いた。

 

「市が立ってた。月に一回」

 

「大きかった?」

 

「あのころは大きかった」

 

馬車は止まらなかった。

 

止めてくれと言えば、止まったと思う。言わなかった。

 

 

 

谷の入口で、馬車が止まった。

 

道が細くなる。荷車一台ぶんの幅しかない。ここから先は車輪が入らないので、御者はそこで手綱を置いた。

降りるときに、御者が谷の奥を指して、下の道のほうを言った。そっちが平らだからだ。

 

「上」

 

ナタルが言った。

 

御者が振り向いた。ナタルはもう一度、上と言った。それだけで、あとは説明しなかった。

下は雨で崩れる。今年の雨がどうだったかは知らないけれど、崩れるところは毎年同じところが崩れる。崩れた土が道を半分埋めて、片側が斜面になる。荷を持って通るなら上だ。

 

わたしたちは上の道を歩いた。

 

先生が先頭ではなかった。後ろから来た。ヴァイスさんは荷を持って、そのうしろにいた。

ルチアはわたしの隣を歩いた。歩きながら、両側の斜面を見ていた。木が生えている。斜面の木は細い。太いのは切って使うので、残るのは細いほうだ。

 

「山、こんなに近いんだね」

 

ルチアが言った。

 

「近いよ」

 

「両側から来てる」

 

「うん。ここは両側から来てる」

 

谷の底に道が一本あって、その両側が上がっていく。そういう形の場所だ。王都の広さに慣れた目には、たぶん、閉じて見える。

わたしは閉じているとは思わない。両側が高いということは、上から来られるということだ。上から来られる道は二つある。数はもう数えなくていいのに、数えた。

 

 

 

村が見えた。

 

見えたのは、屋根が三つあったからだ。

 

三つ以外は、地面だった。石が並んでいるところと、並んでいないところがある。並んでいるのは基礎で、そこに家があった。石は焼けても残る。焼けたあとに崩れて、崩れたぶんが草に埋まっている。

草は背が高い。もう茶色い。この季節はこの色だ。

 

屋根のある三つのうち、一つから煙が上がっていた。細い。朝の炊きの煙ではなくて、昼の火だ。

一つで一世帯とは限らない。二世帯で一つの火を使うこともある。だから煙の数を人の数だと思ってはいけない。それは前線で覚えた。覚えたことが、こんなところで出てくる。

 

わたしは道の曲がりのところで足を止めた。

 

曲がってから数えた。

石垣の角までが十二歩。そこから、隣の家の壁があったところまでが七歩。次が九歩。

 

三軒目の九歩のところで、止まった。

 

草しかなかった。

 

石は、あるはずだ。あるはずのものが、草の下にある。手で分ければ出てくるだろうけれど、分けたら何が出るのかがわかっているので、分けなかった。

家の形はわからない。輪郭がない。壁がどこにあって、戸がどこにあって、どっちを向いて建っていたのかが、地面からは読めない。

 

「ああ」

 

声が出た。

 

「ここ、わたしの家があった場所だ」

 

言ってから、自分の声を聞いた。

報告の声だった。何があって、どこで、いくつ。あの声だ。三か月、あの部屋で使ってきた声で、自分の家のことを言った。

 

ルチアは何も言わなかった。

 

言わないでいてくれたのだと思う。この子は待つ側だ。ミラなら別の話に切り替える。ヴァイスさんなら、その声のことを言う。ルチアは黙って、わたしの半歩うしろに立っていた。

 

わたしは立っていた。

 

何も来なかった。

 

来ると思っていた。ここで何かが来るのだと思っていたから、三か月かけて道具を持たされた。道具を持って立っていて、使うところがない。

草の匂いがする。枯れた草の匂いだ。土は乾いている。斜面から風が下りてくる。

台所は、向かって右のほうだった気がする。気がするだけで、確かではない。鉄板があった。鉄は焼けても残る。残っているとしても、草の下だ。

 

探そうかと思って、やめた。

 

やめた理由は、うまく言えない。今日でなくてもいい、というのが近い。

 

 

 

谷を奥に入った。

 

ナタルが先に歩いた。わたしが後ろについた。ルチアとヴァイスさんは、村のところに残った。先生も残った。誰が決めたわけでもなくて、ナタルが歩き出して、わたしがついていって、二人ぶんの足音になった。

ナタルの足音はしない。だから一人ぶんだ。

 

斜面の途中に平らなところがある。

 

自然の平らではない。削って作った平らだ。削るときに出た土を谷側に盛って、そこを縁にしてある。縁の高さは腰より低い。低くしてあるのは、その上に体を出さないためだ。

 

石を並べた炉が残っていた。

 

三方を石で囲って、風の来る側だけ開けてある。開けた側は谷の下だ。煙は下に流れる。下に流せば、上の道から見えにくい。誰が積んだのかは覚えていない。わたしが来る前からあった。

灰はなかった。一年ぶんの雨で流れたのだと思う。

 

天幕の杭の穴が残っていた。

 

四つの組が二列。雨で縁が丸くなっているけれど、間隔はわかる。

最後の冬は二つだった。二つになってから、二つのままで終戦まで行った。

 

「ここで訓練した」

 

ナタルが言った。

 

平らのいちばん広いところだ。訓練と言えるようなものではなかった。走る、伏せる、起きる、走る。それを繰り返した。剣の持ち方は三日で終わっていたので、あとは走ることしか教えるものがなかった。

 

「うん」

 

「ここで食った」

 

ナタルは縁のところの岩を指した。

 

その岩の裏側だ。ナタルはいつも岩に背をつけて、一人で食っていた。天幕の中で食べない。見られながら食べるのが嫌なのだと、あとで知った。あのころは、変わった奴だと思っていた。今もそこは変わっていないので、学院の食堂でも早い。

 

「ここであいつが死んだ」

 

ナタルは平らの端を見た。

 

誰かは言わなかった。言わなくても同じ場所を見ている。二人で同じところを見て、それで足りた。名前を出すと、その名前だけが立つ。立たせたい日ではなかった。

 

道は平らだ。削ってあるので、村の中よりよほど歩きやすい。

 

足が重かった。

 

登ってきたからではない。峠を越えてきたときのほうが息は上がっていた。上がっていたけれど、足は動いた。今は動くのに重い。膝から下に、水を入れて歩いているみたいな重さだ。

 

斜面の上のほうは、見なかった。

 

そっちに三つある。土が浅くて、深くは掘れなかった。石も置いていない。名前を刻めるものは持っていなかったので、何も置かないで戻った。今そこに何があるのかは知らない。

今日は行かない。順番が要る、とヴァイスさんが言った。順番のことは、まだよくわからないけれど、今日ではない気はする。

 

 

 

平らの奥に、建物が残っていた。

 

壁が腰の高さまである。石を積んだ壁だ。もっと高かったはずだけれど、上のほうが落ちて、落ちたものがそのまま内側に積まれている。

梁が二本、地面に転がっている。途中から炭になって折れている。折れた面が黒い。内側の壁も、面が黒い。煤だけは雨で流れきらない。

 

風が変わった。

 

斜面を下りてきていた風が、壁の切れたところから内側に回った。

 

匂いが来た。

 

 

 

煙だ。

 

前が見えない。膝より上が白い。膝の下だけ見えている。足は動いている。

 

熱い。

 

首のところが熱い。熱いという言い方が合わない。熱いところが、無くなっていく。

 

背中に何か乗っている。前に出ようとしている。体が出ない。

 

腕を掴まれる。強い。肩が抜けそうになる。引かれる。副隊長だ。あの人は翌月に死んだ。

 

うしろで、誰かが名前を呼んでいる。わたしの名前ではない。

 

走れ、と声がする。

 

走った。

 

助けなかった。走った。

 

足の裏。

 

土だ。焼け跡の土は熱い。地面の下に火が残っているから、伏せると腹が熱い。足の裏から来るのは、その熱だ。

 

一つ。

 

草。

 

草は、焼ける前は、

 

 

 

風の音がしていた。

 

枯れた草が擦れる音だ。それから、匂いが薄くなった。風が向きを戻したらしい。

 

手が温かい。

 

自分の手ではない。わたしの手は草を掴んでいる。掴んだところが指のあいだで潰れている。もう片方の手を、上から握られている。

握っている手は、震えていた。

 

しゃがんでいた。

 

膝が土についている。息が上のほうで止まっていて、下まで行っていない。吸っている。吸っているのに入らない。

 

「リーネ」

 

声がした。

 

もう一度した。同じ声だ。

 

「リーネ」

 

「……うん」

 

出た音が、うんの形になっていなかった。息だけだった。

 

ナタルがしゃがんでいた。目の高さが合っている。手を握って、そのままでいる。爪の跡がある手だ。手のひらに、三日月の形が二つ、白く残っている。

 

長く吐いた。

 

吐いてから吸った。二回目で下まで行った。三回目で、指がほどけた。掴んでいた草が、掌の中で緑の匂いを出していた。枯れているのに、折ると緑の匂いがする。

 

「……ごめん。だめだった」

 

「ここにいるぞ」

 

ナタルはそれだけ言った。

 

食堂で練習した。器が落ちる音は音だけだ。音は鳴って、鳴り終わる。鳴り終われば足の裏を探す時間がある。

匂いは終わらない。風が変わるたびに来る。来て、薄くなって、また来る。足の裏を探しても、探した先に熱い土があった。道具が向こうの側についた。

 

あの祭りの夜、この子の声は届かなかった。

今日は届いた。

違いがどこにあるのかは、わからない。あのときのわたしは学院にいて、戦場のほうを見ていた。今日は、戦場だったところに立っている。ここでは、隣にいる人が本当に隣にいた人だ。それが関係あるのかどうかは、わたしにはわからない。

 

 

 

下の平らに戻ったところで、ヴァイスさんが来た。

 

来たのは、そこまでだ。上には来なかった。上がってくる足音は一度もしなかった。離れたところにいると言って、そのとおりに離れたところにいた。

 

石に座った。ヴァイスさんは立っている。座れという言い方もしないし、隣に座りもしない。

 

「道具は使えましたか」

 

「一つ目で止まりました」

 

「一つ目」

 

「草を数えて、それから、その草が焼ける前の草に見えました。そこで止まりました」

 

ヴァイスさんは頷いた。

 

「本物の場所では、練習通りにはいきません」

 

「はい」

 

「でも、あなたは使おうとした。それが大事です」

 

「使えなかったのに、ですか」

 

「使おうとしたなら、次があります。使おうとしなかったなら、次もありません」

 

ヴァイスさんは、そこで一度、村のほうを見た。

 

「引き返しますか」

 

聞き方が、本当に聞く聞き方だった。試している声ではない。引き返すと言えば、たぶん今日のうちに峠へ戻る手配をする。それが約束のうちだと、出発の前に聞いている。

 

わたしは自分の手を見た。

 

草の汁がついている。緑が指のあいだに入っている。震えは止まっていた。止まっているのに、握るとまだ弱い。

 

「まだ行けます」

 

「わかりました」

 

ヴァイスさんはそれ以上聞かなかった。聞かないで、荷を持ち直した。

 

「今のを、あとで話します。今ではありません」

 

「今じゃなくていいんですか」

 

「今は、あなたが立つほうに使ってください」

 

それで話は終わった。この人は終わらせるのが速い。

 

 

 

ヴァイスさんが先に、下のほうへ歩いていった。

 

わたしは石から腰を上げた。座っていたところが、少し温かくなっている。手で払ってから、草地のほうを見た。

 

先生が見えた。

 

平らの下のほう、道と草地の境のあたりだ。十歩より遠く、二十歩より近い。

 

顔色が悪かった。

 

口元を手で覆っている。片手だ。指が四本、口と鼻を押さえている。もう片方の手は下に落ちている。

肩が半分、こっちに向いていない。背けているのが半分だけなので、背けたのだとわかる。全部向こうを向いていれば、外を見ているだけに見える。

 

あの立ち方は知っている。

 

吐かないようにしているときの立ち方だ。それと、声を出さないようにしているときの立ち方だ。この二つは同じ形になる。前線で何度も見た。自分でも何度もやった。口を覆うのは、匂いを止めるためではない。音を止めるためだ。

 

わたしはそこで止まった。

 

ああ、この人も兵士だったんだ、と思った。

 

思ってから、変なことを思ったと気づいた。歩幅が一定なのも、板書の字が読みやすいのも、剣を受ける手つきも、前から知っている。壁に掛かっている剣は使った剣だ。知っていて、今日まで、わかっていなかった。

同じものを、この人も抱えている。どこで、どうやってかは知らない。この戦争のどこかなのだとは思う。思うけれど、確かめる方法はないし、確かめたいとも思わない。

 

執務室で一度、言われた。

 

その笑い方は辛くないか、と言われた。笑うのが辛いというのがどういうことか、わからなかった。聞き返して、それで終わった。何を堪えている顔なのかも、わからなかった。

わかった。あの人がわたしの笑いの嘘に気づけたのは、同じ嘘を自分でついてきたからだ。ついたことのない人には、あれは見えない。

 

近づかなかった。

 

近づいて、覆っている手のことに触れたら、たぶん崩れる。あの人は引率の大人だ。子供の前で崩れてはいけないと思っている側の人間だ。そう思っている人から、それを取り上げるのは、やることではない。

 

だから見なかったことにした。

 

近づかないまま、いつもの調子で言った。

 

「先生、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」

 

先生が手を下ろした。下ろすのが少し遅かった。

 

「大丈夫だ」

 

大丈夫じゃない声だった。

 

低く短く、余分な音が一つもない声だ。わたしが何百回も出した声と同じ形をしている。あの声は、中身を全部押さえてから出す。押さえきれていないと、最後のところが少し掠れる。掠れていた。

 

お互い嘘つきですね、とは言わなかった。

 

言わないでおいた。それくらいはできる。

 

 

 

先生が先に歩き出した。わたしはうしろについて、村の中を通って道に戻った。

 

ルチアとナタルは村のところにいた。石垣の残りに腰を掛けて、こっちを見て、動かなかった。

草地を抜けるまで、どちらも喋らなかった。日はまだ落ちていない。落ちるまでには、間がある。

 

村の外れに、男が立っていた。

 

道が村を抜けて、南へ折れるところだ。焼け跡の縁で、周りに何もない。何もないところに立つ人間は、自分が見えていることを承知で立っている。

 

外套を着ていた。長い。裾に泥がついていない。

 

靴も汚れていない。上の道を歩いてくれば、靴の側面まで土がつく。ついていないということは、下まで乗ってきて、そこから短い距離だけ歩いたということだ。乗ってこられる人だということでもある。

 

年は五十を過ぎている。髪は白いほうが多い。

背は高くなくて、立ち方が柔らかい。肩に力が入っていないので、軍にいた人には見えない。

 

先生が足を止めた。

 

後ろに残って、それ以上は来なかった。立っている人が見ているのはわたしで、先生ではない。それがわかる立ち方だった。

 

「久しぶりだな、カルヴァス」

 

名前を呼ばれた。

 

顔は知っている。参謀本部から来た人だ。前線に降りてきたことが何度かあった。降りてきて隊長と喋って、帰った。喋る内容は下には来ない。ヨルグ・ヴェーバー。名前も、そのとき誰かが言ったのを覚えているだけだ。

 

「……ヴェーバーさん」

 

「覚えていたか」

 

「顔は覚えます」

 

「そうだったな。お前は昔から頭より体で覚える方だった」

 

昔から、と言った。

 

親戚のおじさんみたいな言い方だ。年に一度だけ来て、背が伸びたなと言う人の言い方だ。この人がわたしの何を知っているのかは、よくわからない。名簿の上のことは知っているはずだ。それ以外に何を知っているのかが、わからない。

 

「元気そうだな。学院の生活は合っているようだ」

 

「はい。おかげさまで」

 

「勉強はどうだ」

 

「座学は苦手です。実技はまあまあ」

 

ヴェーバーさんは笑った。笑い方が柔らかい。

 

それから、村のほうを見た。

 

「ここも少しずつ変わってきた。まだ焼け跡は残っているが、人は戻り始めている」

 

屋根は三つだった。煙は一つだった。

戻り始めている、というのは、たぶん、去年より三つ増えたという意味だ。言い方としては嘘ではない。

 

「お前のような人間が学んで戻ってくることが、ヴェルダには必要だ」

 

わたしは何も言わなかった。

 

「お前が学んだことは、いつか祖国のために使える。法律も、外交も、魔法もだ。ヴェルダの出で、あれだけの教育を受けた人間は、今は他にいない」

 

声が温かい。

 

言っていることは、たぶん正しい。ヴェルダのためというのも、嘘ではないのだと思う。この人が谷まで来て焼け跡の縁に立ち、靴を汚さないで待っていたのは、そういうことを言うためだ。

 

でも引っかかる。

 

収容所で審問官に見られたときの目を思い出した。あれは値踏みの目だった。歩けるか、使えるか、何回持つか。前線で補充が来たときに上官がする目と同じだ。あの目は、こっちを人だと思っていない。

 

ヴェーバーさんの目は、値踏みではない。

 

もっと奥のほうで、もっと長いものを数えている目だ。何を数えているのかはわからない。年の単位で数えているような感じがする。感じだけで、根拠はない。

 

「今日だと聞いていた」

 

ヴェーバーさんが言った。

 

「日程を、ですか」

 

「そうだ」

 

聞いた相手のことは言わなかった。

この日程が先に谷まで来ているとすると、出どころは局か、学院か、あの紙に名前の載っている二人のどちらかだ。局の紙をこの人が読むとは思えない。学院がこの人に手紙を出すとも思えない。

 

聞かなかった。聞いたら、聞いたことを、あの子に言わなければならなくなる。

 

代わりに、別のことを聞いた。

 

「ヴェーバーさん」

 

「なんだ」

 

「わたしを学院に行かせたのは、あなたですか」

 

一拍あった。

 

長くはない。息一つぶんだ。あの一拍を、わたしは知っている。答えを作る一拍ではない。用意してあった答えを、どこから出すか選ぶ一拍だ。

 

「俺は推薦しただけだ。選んだのは審問官だ」

 

「推薦」

 

「名前を挙げた。使える人間の名前を、聞かれたから挙げた。それだけだ」

 

嘘ではないのだと思う。

 

嘘ではないのに、全部でもない気がする。どこが足りないのかは、言えない。言えないので、次の質問が出てこなかった。何を聞けば足りない部分が出てくるのかが、わからない。

 

「また会おう」

 

ヴェーバーさんはそう言って、南へ折れる道のほうへ歩いていった。

 

歩き方が普通だった。急いでもいないし、こっちを気にしてもいない。用は済んだという歩き方だ。

 

 

 

先生が横に来た。

 

後ろで見ていた。ヴェーバーさんが折れたところまで見て、それから歩いてきた。

 

「あの男のことは知っているか」

 

「ヴェーバーさんですか。参謀本部の人だって聞いてました。ヴェルダの偉い人、くらいしか」

 

「元参謀だ」

 

先生の声はいつもの短さに戻っていた。掠れていない。

 

「降伏交渉を仕切った側の人間だ。それで生き残った。今も裏で動いている」

 

「動いてるって、何を」

 

「言える範囲を言う。お前のファイルに、推薦の欄がある。名前が入っていた。お前とフォルケを審問官に選ばせたのは、あの男だ」

 

わたしは黙った。

 

推薦しただけだ、と言われた。選んだのは審問官だと言われた。両方が本当だとすると、選ばせた、というのが、その二つの真ん中にある言葉だ。

名前を挙げたのは、終戦のころの話だ。今日の日程を知っていたのは、今の話だ。間が空いているのに、両方に同じ人がいる。

 

「あの男が優しい言葉を使うときは、目的がある」

 

先生が言った。

 

「お前が聞いたことを、額面通りに受け取るな」

 

「はい」

 

「以上だ」

 

それで終わりだった。それ以上は言わなかった。言わないところに何かがあるのは、わかった。わかったけれど、聞いてもたぶん出てこない。この人は言える範囲を先に言う。範囲の外は、範囲の外だと言って終わる。

 

日が斜めになっていた。

 

谷は日が落ちるのが早い。両側が高いので、上のほうがまだ明るいのに、底は先に暗くなる。ここの夕方は短い。短いのを、体が覚えている。暗くなる前に戻れという声も、一緒に覚えている。

 

祖国のために使える、と言われた。

 

わたしがヴェルダのために何かをするのか、ヴェルダのためにわたしが何かをさせられるのか、その二つがどう違うのかを考えていた。同じ形の言葉で、両方が言える。言えるということは、言った人がどっちの意味で言ったかは、聞いてもわからないということだ。

 

答えは出なかった。

 

南に折れる道の先は、もう暗い。あの人はそっちへ歩いていった。

斜面の上のほうも暗くなってきた。三つあるほうだ。あそこには、まだ行っていない。

行く。今日ではないけれど、行く。

 

風が谷を下ってきた。

 

胸の紋章のところで、襟が一度浮いて、戻った。

 

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