わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

49 / 49
残された人々

夜は谷の外で寝た。

 

関所の下に、王国が建てた小屋がある。荷を通す商人を泊める部屋で、寝台が壁に沿って並んでいるだけの部屋だ。谷の中に泊まれる場所はない。残っている家で火のあるのは一軒だけで、そこに五人は入らない。

 

壁が薄かった。

ナタルの寝台は、壁を挟んだ隣だった。二回、起きる音がした。二回目のあとは朝まで音がしなかった。眠ったのか、起きたまま動かないでいたのかは、わからない。わたしも同じことをしていたから、聞き分けられなかった。

 

朝、また上の道を歩いた。

登るのは二度目だ。二度目は速い。石の出ているところと、雨で削れているところを覚えている。ルチアが一度、足を滑らせた。肘の上を掴んで止めた。強く掴んだのが自分でわかったので、離すときはゆっくり離した。

 

「ごめん、痛くなかった?」

 

「大丈夫」

 

ルチアは掴まれたところを袖の上から押さえた。押さえてから、押さえたのを見られたのに気づいて、手を下ろした。

 

 

 

村の真ん中に、他より広い基礎がある。

寄り合いの家だ。冬に村の大人が集まって、何かを決めていた建物だ。子供は入れてもらえなかったので、中がどうなっていたかは知らない。屋根はない。壁が一方だけ、肩の高さまで残っている。

 

その壁に、石板が立てかけてあった。

石板と言っても、板ではない。割った石の、平らな面のほうだ。厚みが指二本ぶんある。薄いものと厚いものが混ざっている。

 

数えた。

 

十四枚だった。

 

字が彫ってある。浅い。彫るための道具ではない何かで彫っている。線の底が丸いので、鑿ではない。彫って、粉を払って、また彫る。そういう仕方だ。

 

名前が刻まれていた。

村の名前だ。集落の名前と、谷の名前もある。知っている名前が四つあった。そのうちの一つは、母と月に一度歩いた市の集落だった。昨日、馬車で通った。

 

わたしの村の名前は、いちばん端にあった。

わたしが言えない二音だ。石の上では言わなくていい。石は読むだけで済む。

 

石板の陰から、人が立ち上がった。

座っていたのだと思う。壁と石板の間の、日の当たらないところにいた。立ち上がるまで、そこに人がいるとわからなかった。

 

痩せていた。

背は高い。肩が薄い。腕が細くて、その細い腕の前腕だけが太い。何かを毎日握っている腕だ。指の腹が割れている。爪の周りが灰色だった。石の粉だ。洗っても、皮の割れ目に入ったぶんは落ちない。

服はヴェルダのものだった。上着の合わせが左で、袖の口を紐で締めている。靴だけが王国のものだった。支給か、買ったか、拾ったかはわからない。

 

右の眉に切れた跡がある。

覚えている。

 

「久しぶりだな、カルヴァス」

 

声で先にわかった。

低い。喋る前に息を入れない。喋り出しのところが少し掠れて、あとは平らになる。夜に道を教え合ったときの声だ。三度合流した。別の部隊で、同じ谷を分けて動いた。名前は覚えている。

 

「カイ……生きてたんだ」

 

「死ぬ気がなかっただけだ」

 

そう言って、カイはわたしの後ろを見た。

ナタルを見た。「フォルケ」と呼んだ。ナタルは頷いた。それだけで終わった。二人はもともと、そのくらいの間だった。

 

それから、道のほうを見た。

先生は十歩ほど離れたところに立っている。ルチアはわたしの半歩うしろにいる。ヴァイスさんは荷を持って、壁の切れたところの外にいる。

 

「そっちの人は、教官か」

 

カイが聞いた。

 

「そうだ」

 

先生が答えた。一語だった。

 

「なら、いい」

 

カイはそれで先生から目を離した。先生も何も足さなかった。名前を名乗らなかったし、聞かなかった。二人とも、聞かなくてもいい種類の情報を持っている顔をしていた。

 

カイがわたしを見た。

上から下まで見た。査定の目だ。

 

見ているのは体ではなかった。

制服だった。襟の形と、胸の紋章と、袖の線を順に見た。それから顔に戻ってきた。

 

「お前、訛りが消えたな」

 

「え?」

 

「今の『え』も、向こうの『え』だ」

 

「……あ。教室では標準語だから」

 

「そうか。標準語か」

 

声の平らなところが少し硬くなった。

 

わたしはヴェルダ語で何か言おうとした。

 

出なかった。

母音の伸ばし方が、途中で学院のものになる。ナタルと二人でいるときは勝手に出る。中庭のベンチで、気づいたら出ている。出そうとして出したことは、一度もない。

 

笑顔と同じだ。

口の端を上げて、頬の下を少し引く。そういう順番でできていると、この三か月で知った。知ったら、意識したときに作れなくなった。分けられるものを分けると、動かなくなる。

 

だから標準語で喋った。

 

「カイは、ずっとここにいたの」

 

「ここと、下の町と、南の谷だ。歩いてる」

 

「何して」

 

「終戦のあと、決まりができた」

 

質問には答えないで、別のところから始めた。

 

「武器を出す。帰順の書に署名する。そのかわり、王国の民として登録される。名前と、住所と、職が付く。焼けた村の人間には、新しい村を宛てる。新しい人生だ。そういう筋書きだった」

 

「カイは乗らなかったんだ」

 

「乗れなかった」

 

カイは両手を軽く開いて見せた。何も持っていない、という形だ。

 

「武器のほうは、捨てられた。捨てられなかったのは名前だ」

 

「名前」

 

「登録の字は王国語だ。俺の名前はヴェルダ語で呼ばれてきた。同じ音が向こうの字にない。近い字に置き換えろと言われた」

 

「置き換えたの」

 

「役人は親切だったぞ。そっちのほうが読みやすいだろうと言った。読みやすいのは本当だ。嘘は一つも言われてない」

 

カイは壁の石板のほうを見た。

 

「置き換えた名前で呼ばれても、俺は振り向かん。振り向かない名前で登録して、それで職をもらって、それが新しい人生か」

 

言い方が平らだった。

怒鳴っていない。喋る速さも変わらない。ただ、最後の一語のところで、息が短く切れた。

 

「じゃあ、登録してないんだ」

 

「してない。だから職もない」

 

「ごはん、どうしてるの」

 

「もらってる。石を彫れば、彫らせた家が飯を出す。歌を教えれば、その家が出す。それで足りる」

 

足りるという言い方をしたので、足りていないのだと思った。

前線でも、足りていない人がそう言った。足りている人は、足りるかどうかの話をしない。

 

「これ、全部カイが彫ったの」

 

石板を指した。

 

「そうだ」

 

「なんで」

 

「地図から消えるからだ」

 

カイは十四枚のうちの一枚を、少し立て直した。倒れかけていたのを、指で押して角度を戻した。

 

「王国の新しい地図に、この村は載ってない。人が住んでない集落は書かないという決まりがあるらしい。もっともな決まりだ。載せる意味がないからな」

 

「教科書にも載ってないよ」

 

「知ってる」

 

「わたしが使ってるやつには、村の名前は一つも出てこない。掃討作戦、って書いてある」

 

「その語を知ってるなら、話が早い」

 

カイは石板の列の端から端までを、手のひらで示した。

 

「王国は『正当な領土回復』と呼んでる。俺たちは侵略と呼んでる。どっちが本当かを決める場所がどこにもない。だから片方だけが紙に残る。紙に残ったほうが、あとから見て本当になる」

 

「……うん」

 

カイが息を一つ入れた。

喋り出しに息を入れない人だ。入れたのは、そこだけだった。

 

「なら、石に残す。紙は焼ける。焼けたら誰も読めない。石は焼けても読める。この村の石だって、焼けたあとに残ってる」

 

そのとおりだった。

石は焼けても残る。基礎の石も、炉の石も、残っている。残らないのは木と、布と、人だ。

 

「子供にも教えてる」

 

カイが言った。

 

「ヴェルダ語を教えてる。読みと、書きと、数の言い方だ。歌も教える」

 

「それ、いいの」

 

制限の通達のことを聞いたつもりだった。ドルフ先生の授業で、わたしも発音を止められた。公の場での使用を制限する、という言い方だった。

 

「公の場での使用を制限する、と書いてある」

 

カイは通達の言い方をそのまま言った。読んでいる。

 

「家の中は公の場ではない。通達にそう書いてある。だから家の中でやる。家の中に十人集めても、家の中だ」

 

「……ぎりぎりだね」

 

「ぎりぎりのところに線が引いてあるなら、その線の内側は使う。使わなかったら、線を引いた側の得だ」

 

「歌は、何曲覚えてるの」

 

「十九だ」

 

「全部?」

 

「全部じゃない。全部を覚えていた人は、去年の冬に死んだ」

 

カイはそこで一度、黙った。

 

「あの人が持ってたのは、五十を越えてたと思う。俺が聞き取れたのが十九だ。あとは、あの人と一緒に消えた」

 

数の話をしているのに、数え終わらない話だった。

 

「お前の中にヴェルダは何が残ってる?」

 

カイが聞いた。

聞き方に力が入っていなかった。責める形ではない。数えろと言われた形だった。

 

「制服は王国のものだ。言葉も王国のものだ。歴史も王国のやつを教わってるんだろう。お前が学んでるもの全部、お前の村を焼いた側の言い分だ」

 

わたしは数えようとした。

 

数えられるものが出てこなかった。

 

制服は支給だ。借りているのではなく、渡されている。教科書は自分で開いている。試験の正解は、村を焼いた側の言い分だ。それで点を取って、それで進級している。

歴史の授業で、教科書の表紙を握りしめたことがある。手が白くなっていた。握っていたことに、あとで気づいた。あれは残っているほうなのか。数え方がわからない。

 

「……わからない」

 

「わからないか」

 

「言えるものが出てこない。何かあると思うんだけど、出てこない」

 

「そうか」

 

カイは怒らなかった。

怒られたほうが答えやすかった。

 

「俺はここで子供にヴェルダ語を教えてる。焼かれた村の名前を彫ってる。誰かが覚えていなきゃ、なかったことにされる。なかったことにされたものは、二度目はもっと簡単にやられる」

 

「……わたしは覚えてるよ」

 

言ってから、声が小さいのに気づいた。

 

「教科書に書いてないことも、覚えてる」

 

「覚えてるだけでいいのか?」

 

カイが言った。

 

「覚えてて、それでもあっちの制服着て笑ってるのか?」

 

風が谷を下ってきた。

石板の並びの手前で、砂の細かいのが動いた。ルチアが半歩ぶん、うしろで動いた。動いて、止まった。

 

わたしは何も言えなかった。

 

笑ってる、と言われた。

今日は笑っていない。学院では笑う。あれが笑いではないことは、三か月かけて言えるようになった。速く出るやつと、遅れて出るやつと、出そうとして出ないやつがある。反射で出るほうは、怒鳴られないために身につけた。

 

それを、この人に説明する言い方がない。

説明したら、言い訳になる。言い訳の形になると、中身が本当でも、言い訳のほうが残る。

 

カイの言っていることは、当たっている。

当たっているところが少しずれている。ずれているぶんを、わたしは自分の言葉で持っていない。持っていないので、黙った。

 

「カイは……怒ってないの?」

 

「怒ってる」

 

即答だった。

 

「ずっと怒ってる」

 

声は平らなままだった。

 

「剣を振ってたころは、怒りで体が動いた。走るのも、斬るのも、それで足りた。今は動かす先がない。だから彫るのに使ってる。子供に読みを教えるのに使ってる。壊れたところを燃やして、別のものを回してる」

 

わたしは笑う。

ナタルは奥歯を噛む。この人は彫る。

 

どれがいいという話ではない。前線では、どれも死なないための形だった。形が違うだけで、下にあるものは同じところから来ている。

 

ただ、燃やしているものには終わりがある。

薪でも油でも、そうだった。終わるとき、たいてい急に終わる。それを言おうとして、やめた。わたしが言うことではない。

 

ナタルが動いた。

石板の前にしゃがんで、いちばん手前の一枚の字を、指でなぞらないで見ていた。それから立って、村のほうへ歩いていった。

 

足音はしなかった。

 

ルチアがナタルの背中を見て、わたしを見た。行こうか、と目で聞いた。わたしは首を振った。

 

ルチアは石板の列の端に寄って、そこで文字を見ていた。

 

聞こえる距離だ。

 

わたしは、ずっと聞けなかったことを聞いた。

 

「その石にさ」

 

「なんだ」

 

「その記録に。……女に起きたことは、書いてある?」

 

カイが黙った。

長かった。

石板のほうを見て、それから自分の手を見た。割れた指の腹を、親指でこすった。石の粉が少し落ちた。

 

「……書いてない」

 

それだけ言って、また黙った。

 

「占領地でも、収容所でも、何があったかは知ってる。王国は無かったことにする。それはわかってる。教科書に載らないのも、当たり前だと思ってる」

 

「うん」

 

「だが、俺たちの側にも無い」

 

カイは石板を見た。

 

「村の名前は残す。何人死んだかも残す。焼けた日付も、わかるものは入れる。それだけだ」

 

「なんで」

 

「刻む方法を知らないからだ」

 

カイの声が、そこで初めて低くなった。

 

「名前は彫れる。数も彫れる。彫るための言い方が決まってるからだ。何が起きたかを彫る言い方が、俺にはない。彫っていいのかもわからん。書かれた側が読んだらどうなるかも、わからん。誰に聞けばいいのかも、わからん」

 

「聞ける人、いないの」

 

「いない。生きてる人に聞くことになる。聞くのは、もう一回言わせることだ」

 

そこで終わった。

 

わたしは石板の列を見た。

十四枚ある。村の名前がある。数がある。日付がある。全部、石になっている。

 

あの夜、房の前で足音が止まって、また動き出したことは、石にならない。

 

ナタルの夜も、石にならない。

王国の紙にも書かれない。ヴェルダの石にも彫られない。両方から消える。二回消えたものは、そこに無かったことになる。

 

覚えているのは、わたしたちの体だけだ。

 

「まだ戦ってるのはお前だって同じだろう」

 

カイが言った。

 

「体の中で、毎日」

 

わたしはカイを見た。

どこを見て言ったのかを考えた。手か。立ち方か。石板の前でどこに寄って立ったかか。わたしはさっき、壁の切れたところを背にして立った。上から来られない位置で、出口が見える位置だ。自分で選んだ覚えはない。

 

同じ場所にいた人には、見える。

 

「……うん」

 

「終わってる奴は、こんなところまで来ない」

 

「局から紙が来たんだよ」

 

「命令で来た顔じゃない」

 

そう言われた。

そのとおりだった。命令なら行きます、と先生に言って、翌朝に撤回した。撤回したことを、この人は知らないのに言い当てた。

 

「俺の戦い方は変わった」

 

カイが言った。

 

「剣じゃなくて言葉だ。石と、歌と、子供の声だ。お前の戦い方は——まだ見つかってないんだろう」

 

「見つかってない」

 

「そうか」

 

「探してるとも言えない。何を探せばいいかがわからない」

 

「なら、それでいい。焦って持つと、持たされたやつを持つことになる」

 

その言い方は、少し前に聞いたのと似ていた。

村の外れで、外套の泥の付いていない人が、祖国のために使えると言った。使えるものを渡される話と、渡されたものを持つ話は、たぶん、同じ話だ。

 

わたしは聞いた。

 

「カイは、記録してるだけでいいの?」

 

カイが止まった。

止まってから、答えるまでが長かった。さっきの長さと同じくらいだった。

 

「……わからない」

 

「わからないの」

 

「記録は抵抗だ。それは間違ってない。だが、記録だけでは何も変わらん。石を彫っても村は戻らん。子供に読みを教えても、あの子らが働きに出るのは王国の町だ」

 

カイは石板の一枚に手を置いた。

 

「それもわかってる。わかってて彫ってる」

 

言えることがない。この人の彫り方が正しいのかどうかを、わたしは決められる場所にいない。決められる場所にいる人が、どこにいるのかも知らない。

 

「またな」

 

カイはそう言って、壁の切れたところから外に出た。

 

歩くと足音がした。

隠していない。隠さないでいられる場所を選んで、そこで石を彫っている。前線とは逆だ。逆にできる場所を、この人は自分で作ったのだと思う。

 

先生はカイの背中を、道の曲がりまで見ていた。

それから、何も言わなかった。

 

 

 

屋根のある家のうち、火のない一軒の前で、老人が縄をなっていた。

膝の間に藁を挟んで、手のひらで撚る。手だけ動いている。目はこっちを見ていた。

 

わたしは頭を下げた。

 

老人は、母の名前でわたしを呼んだ。

母の名前のうしろに「のところの」が付いて、それでわたしを指した。ヴェルダの呼び方だ。誰の家の子か、で人を指す。その呼び方をされたのは、四年ぶりだった。

 

「あの小隊の子かい。生きてたのか」

 

「はい、なんとか」

 

「お前の隊長は……」

 

「死にました」

 

「そうか」

 

老人はそれ以上聞かなかった。

聞いても同じ答えが返ることを知っているのだと思った。この村の人に、その質問の答えは全部揃っている。

 

手はまだ動いていた。撚った縄が、膝の横に溜まっていく。

 

「屋根、三つですね」

 

「四つあった。冬に一つ落ちた」

 

「そうですか」

 

「増えることは、まだない」

 

老人は縄を持ち上げて、長さを見た。

 

わたしはもう一度頭を下げて、離れた。

 

 

 

火のある家に入った。

ナタルが先に入っていた。

 

土間があって、上がりの框があって、その先が一部屋だ。壁の下のほうが黒い。焼けた家の材を使って建て直したのだと思う。使えるところだけ切って使うと、こういう色になる。

 

小柄な女の人だった。

背はわたしより低い。手が大きい。指の関節が太くて、爪が短い。畑と水の仕事をずっとしてきた手だ。

 

クルトの母親だった。

顔を見て、すぐわかった。目のあいだの広さが同じだ。小隊でいちばん年下の、わたしより二つ下の子だった。列のいちばん後ろで配給を待って、少なくても文句を言わなかった。よく笑う子だった。最後に見た顔は、思い出さない。

 

「よく来たね」

 

そう言われた。

 

湯を出された。器が二つしかなかったので、ナタルとわたしで二つを持った。この人のぶんはなかった。

 

何を言えばいいのかがわからなかった。

ごめんなさい、なのか。ありがとう、なのか。両方おかしい。わたしが謝る筋なのかもわからないし、礼を言う筋でもない。前線で人が死んだあと、生きているほうが何を言うのかを、わたしは一度も習っていない。

 

だから黙って湯を飲んだ。

 

聞かれるのを覚悟していた。

どこで死んだのか。痛かったのか。すぐだったのか。全部、答えを持っていない質問だ。

 

聞かれなかった。

 

そのほうがきつかった。

 

一つだけ、聞かれた。

 

「一人じゃなかったかい」

 

「一人じゃなかったです」

 

そう答えた。

本当かどうかは、わからない。あの日の順番は崩れている。誰がどこにいたかを、順に並べられない。

嘘ではない答えを選んだ。あのころ、一人でいることはほとんどなかった。たぶん、一人ではなかった。

 

「そうかい」

 

母親はそう言って、少し笑った。

 

そこで、ナタルが泣いた。

声は出さなかった。器を持ったまま、下を向いて、肩が二回動いた。それだけだった。膝に落ちたぶんが、布に染みて色を変えた。

 

母親が立って、ナタルの背中に手を置いた。

置いて、上から下へ二度撫でた。何も言わなかった。

 

順番が逆だ、と思った。

わたしたちが来て、この人が慰めている。

 

わたしは泣かなかった。

泣かないのはいつものことだ。仲間が死んだ日も泣かなかった。隊長のときも泣かなかった。ここでも同じだった。喉のところに何もない。何もないところを、わたしは自分で確かめている。確かめられるようになったのが、この三か月ぶんの変化だ。変化はしたけれど、水は出ない。

 

 

 

外に出た。

火のある家の脇に井戸がある。滑車が新しい。縄も新しい。井戸だけは早く直すのだと思う。

 

女の人が三人いた。

一人は水を汲んでいた。二人は待っていた。年は上から下までいる。いちばん上の人は老人と同じくらいだ。

 

三人がナタルを見た。

 

わたしを見た目は一往復で終わった。制服を見て、顔を見て、それで終わりだ。

 

ナタルのほうは、終わらなかった。

顔から下へ行って腹のあたりで止まり、上に戻って、また止まった。それを二人がやった。汲んでいた人は手を止めなかったけれど、桶が縁に当たる音が一度、拍子を外した。

 

誰も何も言わなかった。

言わないのに、伝わる形の目だ。

 

わたしはこの目を知っている。

前線で、戻ってきた仲間を見るときの目だ。歩けるか、使えるか、後方に下げるべきか。わたしもナタルも、その目をやった。それが役目だったから、やった。

 

形が同じだ。使い先が違うだけだ。

 

村の人は噂で知っている。捕虜になったあとのことを、誰かがどこかから聞いて、それが谷を回った。誰が最初に言ったのかは、たぶんもう誰も知らない。

 

ナタルは気づいている。

気づいて、何も言わない。背筋が変わらない。歩く速さも変わらない。あれは我慢の形ではない。慣れの形だ。慣れるまでに何回あったのかを、わたしは聞いていない。

 

目はナタルにだけ向く。

 

わたしには向かない。

わたしのことは、この村の誰も知らないからだ。房の前で足音が止まって、それから通り過ぎたことを、誰も知らない。翌朝に審問官が来たことも、その順番がたまたまその順番だったことも、記録のどこにも書かれていない。

 

だからわたしは、無事に出てきた側に見える。

 

屋根の上で言われた。

 

お前は、まだ、笑える側だ。

 

あのとき、責められているのではないと思った。うらやまれているのとも違うと思った。線を指でなぞるように置かれた、と思った。あの線が何なのかは、そのときはわからなかった。

 

今日、村の目が同じ線を引いた。

 

引いたところがぴったり同じだった。

 

あの子は誰のためにも傷ついていない。

わたしのためでもない。頼まれたことも、頼まれてやったことも、一つもない。ただ、そこにいて、そうされた。それだけだ。それを何かの役に立ったみたいに言う言い方は、わたしは一つも作らない。作れる言い方があるとしても、作らない。

 

「ナタル、行こう」

 

手を取った。

 

冷たかった。

汗はない。冷たいだけだ。前線でこういう手を見つけたら、まず温めてから運んだ。冷たい手で歩かせると、途中で止まる。

 

ナタルは何も言わないで、手を引かれた。

引かれるまま歩いた。振り払わなかった。振り払われる用意はしていたので、少し驚いた。

 

 

 

道に出るまで、ナタルは何も言わなかった。

ルチアが少しうしろを歩いた。追い越さない距離を保っていた。先生とヴァイスさんは、もっとうしろにいた。

 

ナタルの手は、最後まで冷たかった。

この子には帰る村がない。焼けて、人が散って、名前だけが石になっている。王国にも場所がない。学院の部屋には寝台があるけれど、それは貸してもらっているものだ。地図には両方の国が載っているのに、どっちにもない。

 

石には名前が刻める。

 

数も刻める。

 

握っているこの手のことは、まだ刻めない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

未実装・闇落ちキャラに救いはあるのか(作者:ねこ)(オリジナル現代/冒険・バトル)

(救いは)ないです。▼前世でプレイしていたソシャゲに転生したものの、未実装・闇落ちキャラ「比良坂クオン」になってしまった。▼何とか闇落ちしても「もとはいい人だったから」と同情を買って助けてもらいたいと努力するが、そういう足掻きは人の心をかえってくちゃくちゃにしたり、疵を残したりするものですよ?▼


総合評価:2608/評価:8.22/連載:12話/更新日時:2026年08月02日(日) 19:32 小説情報

TS転生した俺が決闘で弟子に口説かれるまで(作者:おいかぜ)(オリジナルファンタジー/恋愛)

TS転生した無口無表情銀髪娘が、紆余曲折の果てに純粋純情年下ヒロインに口説き落とされて情緒を破壊されちゃうお話。▼※W主人公のTS百合。2500〜4000字の50話くらいで終わります。


総合評価:4020/評価:8.85/連載:15話/更新日時:2026年08月06日(木) 18:00 小説情報

壊れかけの聖女に俺がインストールされたらしい(作者:あまぐりムリーパー)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

聖女ちゃんが、心を閉ざして動かなくなっちゃった、どうしよう!?▼せや、適当にそこら辺の魂突っ込んどけばええやろ!▼それで、俺が選ばれたってわけ▼んで、死なない体で化け物退治とかさせられてたんだけど、なんか聖女も狂信者も神官くんも、様子がおかしくない?▼※不定期更新▼カクヨム、小説家になろうにもマルチで投稿始めました


総合評価:3612/評価:8.15/完結:93話/更新日時:2026年08月01日(土) 08:03 小説情報

TSして魔法少女になったら頭が可笑しい奴しかいないんだが(作者:つる植物)(オリジナル現代/戦記)

 TS転生した先は魔法少女が異形の魔物と戦う世界だった。▼ 孤児だった俺に魔法少女の適正があったので魔法少女になった。▼ しかもなんか魔物を適当に斬っていたらSクラスの1位になっちゃった。▼ 同期の2位は俺を殺しに掛かってくるし、他のSランク頭の可笑しい奴らばかり。▼ 一般人の俺は今日も魔物をたたっ斬るのであった。▼ 


総合評価:4731/評価:8.32/連載:20話/更新日時:2026年07月14日(火) 15:00 小説情報

ニチアサ系世界に転生したTS魔法少女は悪の幹部をやりたくない(作者:なはた)(オリジナル現代/冒険・バトル)

▼フィジカルよわよわなTS銀髪魔法少女がクール系敵幹部を必死に装いながら魔法少女達と戦うお話。


総合評価:3348/評価:8.45/連載:14話/更新日時:2026年07月24日(金) 12:38 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>