夜は谷の外で寝た。
関所の下に、王国が建てた小屋がある。荷を通す商人を泊める部屋で、寝台が壁に沿って並んでいるだけの部屋だ。谷の中に泊まれる場所はない。残っている家で火のあるのは一軒だけで、そこに五人は入らない。
壁が薄かった。
ナタルの寝台は、壁を挟んだ隣だった。二回、起きる音がした。二回目のあとは朝まで音がしなかった。眠ったのか、起きたまま動かないでいたのかは、わからない。わたしも同じことをしていたから、聞き分けられなかった。
朝、また上の道を歩いた。
登るのは二度目だ。二度目は速い。石の出ているところと、雨で削れているところを覚えている。ルチアが一度、足を滑らせた。肘の上を掴んで止めた。強く掴んだのが自分でわかったので、離すときはゆっくり離した。
「ごめん、痛くなかった?」
「大丈夫」
ルチアは掴まれたところを袖の上から押さえた。押さえてから、押さえたのを見られたのに気づいて、手を下ろした。
村の真ん中に、他より広い基礎がある。
寄り合いの家だ。冬に村の大人が集まって、何かを決めていた建物だ。子供は入れてもらえなかったので、中がどうなっていたかは知らない。屋根はない。壁が一方だけ、肩の高さまで残っている。
その壁に、石板が立てかけてあった。
石板と言っても、板ではない。割った石の、平らな面のほうだ。厚みが指二本ぶんある。薄いものと厚いものが混ざっている。
数えた。
十四枚だった。
字が彫ってある。浅い。彫るための道具ではない何かで彫っている。線の底が丸いので、鑿ではない。彫って、粉を払って、また彫る。そういう仕方だ。
名前が刻まれていた。
村の名前だ。集落の名前と、谷の名前もある。知っている名前が四つあった。そのうちの一つは、母と月に一度歩いた市の集落だった。昨日、馬車で通った。
わたしの村の名前は、いちばん端にあった。
わたしが言えない二音だ。石の上では言わなくていい。石は読むだけで済む。
石板の陰から、人が立ち上がった。
座っていたのだと思う。壁と石板の間の、日の当たらないところにいた。立ち上がるまで、そこに人がいるとわからなかった。
痩せていた。
背は高い。肩が薄い。腕が細くて、その細い腕の前腕だけが太い。何かを毎日握っている腕だ。指の腹が割れている。爪の周りが灰色だった。石の粉だ。洗っても、皮の割れ目に入ったぶんは落ちない。
服はヴェルダのものだった。上着の合わせが左で、袖の口を紐で締めている。靴だけが王国のものだった。支給か、買ったか、拾ったかはわからない。
右の眉に切れた跡がある。
覚えている。
「久しぶりだな、カルヴァス」
声で先にわかった。
低い。喋る前に息を入れない。喋り出しのところが少し掠れて、あとは平らになる。夜に道を教え合ったときの声だ。三度合流した。別の部隊で、同じ谷を分けて動いた。名前は覚えている。
「カイ……生きてたんだ」
「死ぬ気がなかっただけだ」
そう言って、カイはわたしの後ろを見た。
ナタルを見た。「フォルケ」と呼んだ。ナタルは頷いた。それだけで終わった。二人はもともと、そのくらいの間だった。
それから、道のほうを見た。
先生は十歩ほど離れたところに立っている。ルチアはわたしの半歩うしろにいる。ヴァイスさんは荷を持って、壁の切れたところの外にいる。
「そっちの人は、教官か」
カイが聞いた。
「そうだ」
先生が答えた。一語だった。
「なら、いい」
カイはそれで先生から目を離した。先生も何も足さなかった。名前を名乗らなかったし、聞かなかった。二人とも、聞かなくてもいい種類の情報を持っている顔をしていた。
カイがわたしを見た。
上から下まで見た。査定の目だ。
見ているのは体ではなかった。
制服だった。襟の形と、胸の紋章と、袖の線を順に見た。それから顔に戻ってきた。
「お前、訛りが消えたな」
「え?」
「今の『え』も、向こうの『え』だ」
「……あ。教室では標準語だから」
「そうか。標準語か」
声の平らなところが少し硬くなった。
わたしはヴェルダ語で何か言おうとした。
出なかった。
母音の伸ばし方が、途中で学院のものになる。ナタルと二人でいるときは勝手に出る。中庭のベンチで、気づいたら出ている。出そうとして出したことは、一度もない。
笑顔と同じだ。
口の端を上げて、頬の下を少し引く。そういう順番でできていると、この三か月で知った。知ったら、意識したときに作れなくなった。分けられるものを分けると、動かなくなる。
だから標準語で喋った。
「カイは、ずっとここにいたの」
「ここと、下の町と、南の谷だ。歩いてる」
「何して」
「終戦のあと、決まりができた」
質問には答えないで、別のところから始めた。
「武器を出す。帰順の書に署名する。そのかわり、王国の民として登録される。名前と、住所と、職が付く。焼けた村の人間には、新しい村を宛てる。新しい人生だ。そういう筋書きだった」
「カイは乗らなかったんだ」
「乗れなかった」
カイは両手を軽く開いて見せた。何も持っていない、という形だ。
「武器のほうは、捨てられた。捨てられなかったのは名前だ」
「名前」
「登録の字は王国語だ。俺の名前はヴェルダ語で呼ばれてきた。同じ音が向こうの字にない。近い字に置き換えろと言われた」
「置き換えたの」
「役人は親切だったぞ。そっちのほうが読みやすいだろうと言った。読みやすいのは本当だ。嘘は一つも言われてない」
カイは壁の石板のほうを見た。
「置き換えた名前で呼ばれても、俺は振り向かん。振り向かない名前で登録して、それで職をもらって、それが新しい人生か」
言い方が平らだった。
怒鳴っていない。喋る速さも変わらない。ただ、最後の一語のところで、息が短く切れた。
「じゃあ、登録してないんだ」
「してない。だから職もない」
「ごはん、どうしてるの」
「もらってる。石を彫れば、彫らせた家が飯を出す。歌を教えれば、その家が出す。それで足りる」
足りるという言い方をしたので、足りていないのだと思った。
前線でも、足りていない人がそう言った。足りている人は、足りるかどうかの話をしない。
「これ、全部カイが彫ったの」
石板を指した。
「そうだ」
「なんで」
「地図から消えるからだ」
カイは十四枚のうちの一枚を、少し立て直した。倒れかけていたのを、指で押して角度を戻した。
「王国の新しい地図に、この村は載ってない。人が住んでない集落は書かないという決まりがあるらしい。もっともな決まりだ。載せる意味がないからな」
「教科書にも載ってないよ」
「知ってる」
「わたしが使ってるやつには、村の名前は一つも出てこない。掃討作戦、って書いてある」
「その語を知ってるなら、話が早い」
カイは石板の列の端から端までを、手のひらで示した。
「王国は『正当な領土回復』と呼んでる。俺たちは侵略と呼んでる。どっちが本当かを決める場所がどこにもない。だから片方だけが紙に残る。紙に残ったほうが、あとから見て本当になる」
「……うん」
カイが息を一つ入れた。
喋り出しに息を入れない人だ。入れたのは、そこだけだった。
「なら、石に残す。紙は焼ける。焼けたら誰も読めない。石は焼けても読める。この村の石だって、焼けたあとに残ってる」
そのとおりだった。
石は焼けても残る。基礎の石も、炉の石も、残っている。残らないのは木と、布と、人だ。
「子供にも教えてる」
カイが言った。
「ヴェルダ語を教えてる。読みと、書きと、数の言い方だ。歌も教える」
「それ、いいの」
制限の通達のことを聞いたつもりだった。ドルフ先生の授業で、わたしも発音を止められた。公の場での使用を制限する、という言い方だった。
「公の場での使用を制限する、と書いてある」
カイは通達の言い方をそのまま言った。読んでいる。
「家の中は公の場ではない。通達にそう書いてある。だから家の中でやる。家の中に十人集めても、家の中だ」
「……ぎりぎりだね」
「ぎりぎりのところに線が引いてあるなら、その線の内側は使う。使わなかったら、線を引いた側の得だ」
「歌は、何曲覚えてるの」
「十九だ」
「全部?」
「全部じゃない。全部を覚えていた人は、去年の冬に死んだ」
カイはそこで一度、黙った。
「あの人が持ってたのは、五十を越えてたと思う。俺が聞き取れたのが十九だ。あとは、あの人と一緒に消えた」
数の話をしているのに、数え終わらない話だった。
「お前の中にヴェルダは何が残ってる?」
カイが聞いた。
聞き方に力が入っていなかった。責める形ではない。数えろと言われた形だった。
「制服は王国のものだ。言葉も王国のものだ。歴史も王国のやつを教わってるんだろう。お前が学んでるもの全部、お前の村を焼いた側の言い分だ」
わたしは数えようとした。
数えられるものが出てこなかった。
制服は支給だ。借りているのではなく、渡されている。教科書は自分で開いている。試験の正解は、村を焼いた側の言い分だ。それで点を取って、それで進級している。
歴史の授業で、教科書の表紙を握りしめたことがある。手が白くなっていた。握っていたことに、あとで気づいた。あれは残っているほうなのか。数え方がわからない。
「……わからない」
「わからないか」
「言えるものが出てこない。何かあると思うんだけど、出てこない」
「そうか」
カイは怒らなかった。
怒られたほうが答えやすかった。
「俺はここで子供にヴェルダ語を教えてる。焼かれた村の名前を彫ってる。誰かが覚えていなきゃ、なかったことにされる。なかったことにされたものは、二度目はもっと簡単にやられる」
「……わたしは覚えてるよ」
言ってから、声が小さいのに気づいた。
「教科書に書いてないことも、覚えてる」
「覚えてるだけでいいのか?」
カイが言った。
「覚えてて、それでもあっちの制服着て笑ってるのか?」
風が谷を下ってきた。
石板の並びの手前で、砂の細かいのが動いた。ルチアが半歩ぶん、うしろで動いた。動いて、止まった。
わたしは何も言えなかった。
笑ってる、と言われた。
今日は笑っていない。学院では笑う。あれが笑いではないことは、三か月かけて言えるようになった。速く出るやつと、遅れて出るやつと、出そうとして出ないやつがある。反射で出るほうは、怒鳴られないために身につけた。
それを、この人に説明する言い方がない。
説明したら、言い訳になる。言い訳の形になると、中身が本当でも、言い訳のほうが残る。
カイの言っていることは、当たっている。
当たっているところが少しずれている。ずれているぶんを、わたしは自分の言葉で持っていない。持っていないので、黙った。
「カイは……怒ってないの?」
「怒ってる」
即答だった。
「ずっと怒ってる」
声は平らなままだった。
「剣を振ってたころは、怒りで体が動いた。走るのも、斬るのも、それで足りた。今は動かす先がない。だから彫るのに使ってる。子供に読みを教えるのに使ってる。壊れたところを燃やして、別のものを回してる」
わたしは笑う。
ナタルは奥歯を噛む。この人は彫る。
どれがいいという話ではない。前線では、どれも死なないための形だった。形が違うだけで、下にあるものは同じところから来ている。
ただ、燃やしているものには終わりがある。
薪でも油でも、そうだった。終わるとき、たいてい急に終わる。それを言おうとして、やめた。わたしが言うことではない。
ナタルが動いた。
石板の前にしゃがんで、いちばん手前の一枚の字を、指でなぞらないで見ていた。それから立って、村のほうへ歩いていった。
足音はしなかった。
ルチアがナタルの背中を見て、わたしを見た。行こうか、と目で聞いた。わたしは首を振った。
ルチアは石板の列の端に寄って、そこで文字を見ていた。
聞こえる距離だ。
わたしは、ずっと聞けなかったことを聞いた。
「その石にさ」
「なんだ」
「その記録に。……女に起きたことは、書いてある?」
カイが黙った。
長かった。
石板のほうを見て、それから自分の手を見た。割れた指の腹を、親指でこすった。石の粉が少し落ちた。
「……書いてない」
それだけ言って、また黙った。
「占領地でも、収容所でも、何があったかは知ってる。王国は無かったことにする。それはわかってる。教科書に載らないのも、当たり前だと思ってる」
「うん」
「だが、俺たちの側にも無い」
カイは石板を見た。
「村の名前は残す。何人死んだかも残す。焼けた日付も、わかるものは入れる。それだけだ」
「なんで」
「刻む方法を知らないからだ」
カイの声が、そこで初めて低くなった。
「名前は彫れる。数も彫れる。彫るための言い方が決まってるからだ。何が起きたかを彫る言い方が、俺にはない。彫っていいのかもわからん。書かれた側が読んだらどうなるかも、わからん。誰に聞けばいいのかも、わからん」
「聞ける人、いないの」
「いない。生きてる人に聞くことになる。聞くのは、もう一回言わせることだ」
そこで終わった。
わたしは石板の列を見た。
十四枚ある。村の名前がある。数がある。日付がある。全部、石になっている。
あの夜、房の前で足音が止まって、また動き出したことは、石にならない。
ナタルの夜も、石にならない。
王国の紙にも書かれない。ヴェルダの石にも彫られない。両方から消える。二回消えたものは、そこに無かったことになる。
覚えているのは、わたしたちの体だけだ。
「まだ戦ってるのはお前だって同じだろう」
カイが言った。
「体の中で、毎日」
わたしはカイを見た。
どこを見て言ったのかを考えた。手か。立ち方か。石板の前でどこに寄って立ったかか。わたしはさっき、壁の切れたところを背にして立った。上から来られない位置で、出口が見える位置だ。自分で選んだ覚えはない。
同じ場所にいた人には、見える。
「……うん」
「終わってる奴は、こんなところまで来ない」
「局から紙が来たんだよ」
「命令で来た顔じゃない」
そう言われた。
そのとおりだった。命令なら行きます、と先生に言って、翌朝に撤回した。撤回したことを、この人は知らないのに言い当てた。
「俺の戦い方は変わった」
カイが言った。
「剣じゃなくて言葉だ。石と、歌と、子供の声だ。お前の戦い方は——まだ見つかってないんだろう」
「見つかってない」
「そうか」
「探してるとも言えない。何を探せばいいかがわからない」
「なら、それでいい。焦って持つと、持たされたやつを持つことになる」
その言い方は、少し前に聞いたのと似ていた。
村の外れで、外套の泥の付いていない人が、祖国のために使えると言った。使えるものを渡される話と、渡されたものを持つ話は、たぶん、同じ話だ。
わたしは聞いた。
「カイは、記録してるだけでいいの?」
カイが止まった。
止まってから、答えるまでが長かった。さっきの長さと同じくらいだった。
「……わからない」
「わからないの」
「記録は抵抗だ。それは間違ってない。だが、記録だけでは何も変わらん。石を彫っても村は戻らん。子供に読みを教えても、あの子らが働きに出るのは王国の町だ」
カイは石板の一枚に手を置いた。
「それもわかってる。わかってて彫ってる」
言えることがない。この人の彫り方が正しいのかどうかを、わたしは決められる場所にいない。決められる場所にいる人が、どこにいるのかも知らない。
「またな」
カイはそう言って、壁の切れたところから外に出た。
歩くと足音がした。
隠していない。隠さないでいられる場所を選んで、そこで石を彫っている。前線とは逆だ。逆にできる場所を、この人は自分で作ったのだと思う。
先生はカイの背中を、道の曲がりまで見ていた。
それから、何も言わなかった。
屋根のある家のうち、火のない一軒の前で、老人が縄をなっていた。
膝の間に藁を挟んで、手のひらで撚る。手だけ動いている。目はこっちを見ていた。
わたしは頭を下げた。
老人は、母の名前でわたしを呼んだ。
母の名前のうしろに「のところの」が付いて、それでわたしを指した。ヴェルダの呼び方だ。誰の家の子か、で人を指す。その呼び方をされたのは、四年ぶりだった。
「あの小隊の子かい。生きてたのか」
「はい、なんとか」
「お前の隊長は……」
「死にました」
「そうか」
老人はそれ以上聞かなかった。
聞いても同じ答えが返ることを知っているのだと思った。この村の人に、その質問の答えは全部揃っている。
手はまだ動いていた。撚った縄が、膝の横に溜まっていく。
「屋根、三つですね」
「四つあった。冬に一つ落ちた」
「そうですか」
「増えることは、まだない」
老人は縄を持ち上げて、長さを見た。
わたしはもう一度頭を下げて、離れた。
火のある家に入った。
ナタルが先に入っていた。
土間があって、上がりの框があって、その先が一部屋だ。壁の下のほうが黒い。焼けた家の材を使って建て直したのだと思う。使えるところだけ切って使うと、こういう色になる。
小柄な女の人だった。
背はわたしより低い。手が大きい。指の関節が太くて、爪が短い。畑と水の仕事をずっとしてきた手だ。
クルトの母親だった。
顔を見て、すぐわかった。目のあいだの広さが同じだ。小隊でいちばん年下の、わたしより二つ下の子だった。列のいちばん後ろで配給を待って、少なくても文句を言わなかった。よく笑う子だった。最後に見た顔は、思い出さない。
「よく来たね」
そう言われた。
湯を出された。器が二つしかなかったので、ナタルとわたしで二つを持った。この人のぶんはなかった。
何を言えばいいのかがわからなかった。
ごめんなさい、なのか。ありがとう、なのか。両方おかしい。わたしが謝る筋なのかもわからないし、礼を言う筋でもない。前線で人が死んだあと、生きているほうが何を言うのかを、わたしは一度も習っていない。
だから黙って湯を飲んだ。
聞かれるのを覚悟していた。
どこで死んだのか。痛かったのか。すぐだったのか。全部、答えを持っていない質問だ。
聞かれなかった。
そのほうがきつかった。
一つだけ、聞かれた。
「一人じゃなかったかい」
「一人じゃなかったです」
そう答えた。
本当かどうかは、わからない。あの日の順番は崩れている。誰がどこにいたかを、順に並べられない。
嘘ではない答えを選んだ。あのころ、一人でいることはほとんどなかった。たぶん、一人ではなかった。
「そうかい」
母親はそう言って、少し笑った。
そこで、ナタルが泣いた。
声は出さなかった。器を持ったまま、下を向いて、肩が二回動いた。それだけだった。膝に落ちたぶんが、布に染みて色を変えた。
母親が立って、ナタルの背中に手を置いた。
置いて、上から下へ二度撫でた。何も言わなかった。
順番が逆だ、と思った。
わたしたちが来て、この人が慰めている。
わたしは泣かなかった。
泣かないのはいつものことだ。仲間が死んだ日も泣かなかった。隊長のときも泣かなかった。ここでも同じだった。喉のところに何もない。何もないところを、わたしは自分で確かめている。確かめられるようになったのが、この三か月ぶんの変化だ。変化はしたけれど、水は出ない。
外に出た。
火のある家の脇に井戸がある。滑車が新しい。縄も新しい。井戸だけは早く直すのだと思う。
女の人が三人いた。
一人は水を汲んでいた。二人は待っていた。年は上から下までいる。いちばん上の人は老人と同じくらいだ。
三人がナタルを見た。
わたしを見た目は一往復で終わった。制服を見て、顔を見て、それで終わりだ。
ナタルのほうは、終わらなかった。
顔から下へ行って腹のあたりで止まり、上に戻って、また止まった。それを二人がやった。汲んでいた人は手を止めなかったけれど、桶が縁に当たる音が一度、拍子を外した。
誰も何も言わなかった。
言わないのに、伝わる形の目だ。
わたしはこの目を知っている。
前線で、戻ってきた仲間を見るときの目だ。歩けるか、使えるか、後方に下げるべきか。わたしもナタルも、その目をやった。それが役目だったから、やった。
形が同じだ。使い先が違うだけだ。
村の人は噂で知っている。捕虜になったあとのことを、誰かがどこかから聞いて、それが谷を回った。誰が最初に言ったのかは、たぶんもう誰も知らない。
ナタルは気づいている。
気づいて、何も言わない。背筋が変わらない。歩く速さも変わらない。あれは我慢の形ではない。慣れの形だ。慣れるまでに何回あったのかを、わたしは聞いていない。
目はナタルにだけ向く。
わたしには向かない。
わたしのことは、この村の誰も知らないからだ。房の前で足音が止まって、それから通り過ぎたことを、誰も知らない。翌朝に審問官が来たことも、その順番がたまたまその順番だったことも、記録のどこにも書かれていない。
だからわたしは、無事に出てきた側に見える。
屋根の上で言われた。
お前は、まだ、笑える側だ。
あのとき、責められているのではないと思った。うらやまれているのとも違うと思った。線を指でなぞるように置かれた、と思った。あの線が何なのかは、そのときはわからなかった。
今日、村の目が同じ線を引いた。
引いたところがぴったり同じだった。
あの子は誰のためにも傷ついていない。
わたしのためでもない。頼まれたことも、頼まれてやったことも、一つもない。ただ、そこにいて、そうされた。それだけだ。それを何かの役に立ったみたいに言う言い方は、わたしは一つも作らない。作れる言い方があるとしても、作らない。
「ナタル、行こう」
手を取った。
冷たかった。
汗はない。冷たいだけだ。前線でこういう手を見つけたら、まず温めてから運んだ。冷たい手で歩かせると、途中で止まる。
ナタルは何も言わないで、手を引かれた。
引かれるまま歩いた。振り払わなかった。振り払われる用意はしていたので、少し驚いた。
道に出るまで、ナタルは何も言わなかった。
ルチアが少しうしろを歩いた。追い越さない距離を保っていた。先生とヴァイスさんは、もっとうしろにいた。
ナタルの手は、最後まで冷たかった。
この子には帰る村がない。焼けて、人が散って、名前だけが石になっている。王国にも場所がない。学院の部屋には寝台があるけれど、それは貸してもらっているものだ。地図には両方の国が載っているのに、どっちにもない。
石には名前が刻める。
数も刻める。
握っているこの手のことは、まだ刻めない。