学院に来て、五日目の昼。
午前の授業が終わって、教室から人が流れていく。
ミラが机に突っ伏している。
「歴史の年号、多すぎない? わたしもう無理。脳みそがパンクする」
「わたしも全然覚えられない。『ラウル暦三三四年』とか言われても、何があったか出てこない」
「でしょ! あれは人間の覚えられる量じゃないよ」
ミラが顔を上げた。
おさげが片方ほどけかかっている。
「お腹空いた。食堂行こう」
「うん。ルチアも誘おう」
前の席でルチアが教科書を片付けていた。
声をかけると、少し間があってから「うん、行こう」と頷いた。
最近、ルチアの返事がときどき遅い。
前はもっとすぐに答えていた気がする。
考えごとをしているのかもしれない。
貴族の子は色々忙しいんだろう。
食堂は昼休みの始まりで混み始めていた。
入り口をくぐると、調理場から焼いた肉の匂いが流れてくる。
パンとスープと肉料理が今日の献立だ。
学院の食事は毎日違うメニューが出る。
これだけで驚く。
前線では配給の中身が変わることはほとんどなかった。
硬いパンと、何が入っているかわからない煮込み。
三日に一回、干し肉がつけばいい方だった。
盆に食事を載せて、席を探す。
ミラが「あっちの窓際、空いてるよ」と指差した。
明るくて、見晴らしがいい席だ。
わたしの足は、窓際ではなく壁際に向かった。
出入り口の近く。
背中を壁につけられる場所。
気がつくとそうなっている。
考えて選んでいるわけじゃない。
盆を持って歩き出すと、体が勝手に壁側に寄っていく。
「リーネちゃん、そっち暗くない?」
「ん? あ、ごめん。なんかこっちに来ちゃった」
「いいけどさ、窓際の方が気持ちいいよ」
「まあ、こっちは壁があるし。なんか落ち着くんだよね」
ミラは「変なの」と笑って、わたしの向かいに座った。
ルチアがわたしの隣に座った。
壁を背にして、出入り口が見える。
盆を置いて、座ったとたん、肩から力が抜けた。
この位置が一番楽だ。
誰かが入ってきても見える。
急に何か起きても出口が近い。
別に何か起きるわけじゃないんだけど。
起きないってわかってるんだけど。
パンを手に取った。
今日のパンは丸くて、表面に切り込みが入っている。
割ると、中が白くてふわふわしている。
粉の匂い。
前線のパンは灰色で、石みたいに硬くて、水で戻さないと歯が立たなかった。
こっちのパンは何もしなくてもちぎれる。
一口。
柔らかい。
小麦の甘みが口の中に広がる。
二口目。三口目。
パンがなくなった。
スープに手をつける。
玉ねぎと人参が入った、とろみのある茶色いスープ。
匙で口に運ぶ。
温かくて、塩気がちょうどいい。
三口で飲んだ。
肉を切る。
薄く切った豚肉を焼いたもの。
ソースがかかっている。
一切れ、二切れ。
口に入れる。
噛む間もなく飲み込む。
盆の上が空になった。
隣のルチアは、まだスープを半分も飲んでいなかった。
向かいのミラは、パンをちぎりながら何か喋っている。
「——ねえ、リーネちゃん、聞いてる?」
「え? ごめん、何の話?」
「だから、午後の魔法実習の話! 今日ヘルミーネ先生の日でしょ? わたし詠唱がうまくいかなくて……って、もう食べ終わったの!?」
ミラが目を丸くした。
「早すぎない? わたしまだパンしか食べてないんだけど」
「あはは、早食いなんだよね。昔からの癖で」
「癖って言うレベルじゃないよ。今何分? 二分? 三分?」
「うーん、計ってない。でもまあ、こんなもんかな」
ルチアが匙を止めた。
「ゆっくり食べていいんだよ?」
「うん、わかってる。でもなんか、気がつくと終わってるんだよね」
そうなのだ。
ゆっくり食べようと思っている。
毎回思っている。
でも盆を前にすると体が動いてしまう。
口に入れて、飲み込む。入れて、飲み込む。
間を空ける余裕がない。
手が止まらない。
入学初日に「もう少しゆっくり食べてみよう」と思った。
五日経っても、できていない。
「早食い」とは言ったけど、別に急いでるわけじゃない。
ゆっくり食べたくないわけでもない。
ただ、食事を前にすると手が止まらない。
次の食事は六時間後に確実に来る。
途中で砲撃が来ることもない。
隣の奴に取られることもない。
わかってるんだけど。
まあ、癖だ。
ルチアがこちらを見ていた。
何か言いたそうな顔をしている。
でも言わなかった。
ミラが「わたしもリーネちゃんくらい早く食べられたら、お昼休みが長くなるのに」と笑った。
「うん、ゆっくり食べると取られるからね。……あ、今は違うか」
口から勝手に出てきた。
違うのに。
ここでは誰も取らないのに。
ミラが「取られるって、兄弟が多かったの?」と聞いた。
「まあ、似たようなもんかな」
似てない。
全然似てない。
前線で食事を取られるのは、兄弟に横取りされるのとは違う。
でもそこを説明する必要はないし、説明したら困るのはミラの方だ。
「じゃあリーネちゃんは今のうちに自由時間だね。いいなあ」
「待ってるよ。ミラが食べ終わるまで」
「えー、プレッシャーかけないでよ」
ミラが慌ててパンを頬張った。
わたしは笑って、空になった盆の上に両手を置いた。
ルチアがまだこちらを見ていた。
わたしが「どうした?」と聞くと、ルチアは首を振った。
「ううん、何でもない」
何でもなくはない顔だった。
でも聞いてほしくなさそうな顔でもあった。
まあ、いいか。
無理に聞くのは好きじゃない。
聞かれたくないことを聞かれる辛さは、わたしも知っている。
食堂がにぎやかになってきた。
後から来た生徒たちが席を埋めていく。
笑い声、食器の音、椅子を引く音が重なって、ざわざわした音の層ができている。
ミラのスープが半分になった頃、近くのテーブルで誰かが食器を落とした。
金属の皿が石の床にぶつかる音。
高くて、鋭い音が食堂に響いた。
わたしの右手が動いた。
テーブルの上にあった匙を、握っていた。
握っていたことに、一拍遅れて気づいた。
指に力が入っている。
匙の柄が手のひらに食い込んでいる。
何をしようとした?
匙を握ってどうする。
手を開いた。
匙を盆の上に戻した。
びっくりしただけだ。
大きな音がしたから。
金属が落ちる音が、ちょっと苦手なのかもしれない。
まあ、誰だってびっくりするだろう。
ミラは食器を落とした生徒の方を見て「大丈夫ー?」と声をかけていた。
普通の反応だ。
大きな音がしたら、そっちを見て、「大丈夫?」と聞く。
匙を握りしめたりしない。
まあ、わたしはちょっと驚きやすいだけだ。
ルチアが、わたしの手を見ていた。
匙を握った手を。
もう開いている手を。
目が合った。
ルチアの灰色がかった青い目が、わたしの右手に留まって、それからわたしの顔に移った。
何か言おうとして、口を開いて、閉じた。
「……」
「ルチア?」
「ううん。なんでもない」
二度目の「なんでもない」だった。
さっきより声が小さかった。
わたしはルチアの方に体を向けた。
「ルチア、さっきからなんか元気ないね。大丈夫?」
「大丈夫だよ」
ルチアが笑った。
いつもの穏やかな笑顔。
でも、目がちょっと赤い気がした。
寝不足かな。
「寝不足?」
「……ちょっとだけ」
「夜更かしは駄目だよ。明日も授業あるし」
わたしが言うと、ルチアが小さく笑った。
さっきの笑顔とは違う笑い方だった。
力が入っていなくて、少しだけ苦そうだった。
何がおかしかったんだろう。
わたし、変なこと言ったかな。
午後の授業が終わって、夕方。
寮に帰る前に、ルチアに誘われて中庭を通った。
正確には、わたしが「少し歩きたい」と言ったら、ルチアが「一緒に行く」と言ってくれた。
中庭は本館と寮棟に挟まれた四角い空間で、石畳の通路の両脇に花壇がある。
花壇には色とりどりの花が咲いていた。
赤、黄、紫、白。
名前は知らない。
花の名前なんて、覚える機会がなかった。
わたしは花壇の前でしゃがんだ。
赤い花が一番多い。
小さくて、花びらが丸くて、茎が細い。
風で揺れている。
隣に青い花がある。
こっちは花びらが尖っていて、背が高い。
蕾がいくつかついている。
まだ咲ききっていない。
指先で触れてみた。
花びらが薄くて、指の温度で少しだけしなった。
「こんなに花があるの、久しぶりだなあ」
声に出ていた。
言うつもりはなかったのに、口から出てきた。
ルチアが隣に立っていた。
「久しぶり?」
「ん、まあ、前いた場所にはなかったから」
ヴェルダの村には花があった。
山裾の斜面に、春になると野花が咲いていた。
母さんと摘みに行ったことがある。
たぶん六歳か七歳のころだ。
前線には花がなかった。
焼かれた地面と、泥と、血の匂い。
花が咲くような地面は、どこにもなかった。
収容所にも花はなかった。
灰色の壁と、灰色の床と、灰色の空。
この学院に来て、花壇を見た。
花があった。
生きている。
水をやっている人がいて、手入れをしている人がいて、だから花が咲いている。
花が咲いていられるだけの平和が、ここにはある。
そんなことを考えている自分がおかしいとは、思わなかった。
花壇を見て「平和だな」と思うのは、普通のことだと思った。
「きれいだね」
ルチアが言った。
わたしの隣にしゃがんで、赤い花を見ている。
「うん、きれい」
同意した。
きれいだ。
赤い花が風に揺れていて、きれいだと思う。
きれいだと思えることが、なんだか嬉しい。
前は思えなかった。
前線にいた頃は、景色を見ても何も感じなかった。
山も空も川も、地形として見ていた。
あの山の裏に敵がいるかもしれない。
あの川を渡るのに何分かかるか。
空の色で天気を読んで、雨なら移動に支障が出ると計算していた。
今は、花がきれいだと思える。
空が高いと思える。
パンが柔らかいと思える。
それだけで十分だ。
たぶん。
ルチアが何か言いかけて、やめた。
わたしの顔を見て、何かを飲み込んだ顔をした。
「リーネは、前にいた場所のこと、あまり話さないよね」
「うん。まあ、楽しい話があんまりないから」
笑って流した。
ルチアは追わなかった。
風が吹いた。
花壇の花が一斉に揺れた。
甘い匂いがした。
花の匂い。
土の匂い。
湿った夕方の空気の匂い。
いい匂いだ。
「ルチア」
「なに?」
「この花の名前、知ってる?」
「赤いのはゼラニウム。青いのはリンドウ、じゃないかな」
「へえ。ルチア、花に詳しい?」
「実家に庭があるから、少しだけ」
「いいなあ。わたし、花の名前、全然知らないんだよね」
「覚えなくても、きれいなのは変わらないよ」
ルチアがそう言って、微笑んだ。
さっきまでの、何か言いたくて言えないような顔ではなかった。
花を見ている顔だった。
穏やかで、少しだけ寂しそうな顔。
なんで寂しそうなのかはわからなかった。
花はきれいに咲いているのに。
「ルチア、わたし、ここ好きかも」
「花壇?」
「うん。花壇っていうか、ここ。この学院」
「……そう」
「パンはおいしいし、お風呂は毎日入れるし、花もあるし。屋根もあるし。いい場所だよね」
ルチアが少し黙った。
それから「そうだね」と言った。
声が少しかすれていた。
わたしが何か変なことを言ったんだろうか。
パンがおいしいとか、屋根があるとか、普通のことだと思うんだけど。
日が傾いてきた。
花壇の赤い花が、夕日の色と混じって濃くなっていた。
「そろそろ戻ろうか」
「うん」
ルチアが立ち上がった。
わたしも立ち上がった。
寮に向かって、二人で歩く。
石畳の上を、靴の音が二つ。
ルチアが少し後ろを歩いていた。
振り返ると、ルチアはわたしを見ていた。
目が合った。
ルチアが少し笑った。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
三度目の「なんでもない」だった。
でも今度の「なんでもない」は、さっきまでと少し違った。
少しだけ、覚悟みたいなものが混じっていた。
何の覚悟だろう。
まあ、いいか。
聞いてほしそうじゃないし。
ルチアが話したくなったら、そのとき聞けばいい。
寮の入り口で、ミラが手を振っていた。
「おかえり! 二人ともどこ行ってたの?」
「中庭で花見てた」
「花? リーネちゃん、花好きなの?」
「好きかどうかは、まだわかんない。でも、きれいだなって思った」
「ふーん。変な言い方」
ミラが笑った。
わたしも笑った。
変かな。
好きかどうかわからないのに、きれいだと思うのは。
でも、前は「きれいだ」とも思えなかったのだ。
思えるようになっただけで、たぶん進歩だ。
何の進歩かは、よくわからないけど。
部屋に戻った。
ミラが焼き菓子の袋を出してきた。
「はい、今日の分」
粉砂糖のついた丸い焼き菓子。
受け取って、口に入れた。
甘い。
「ありがとう、ミラ」
「どういたしまして」
ミラが自分のベッドに飛び乗った。
教科書を広げて「うーん」と唸っている。
歴史の年号と格闘しているらしい。
窓の外が暗くなっていく。
今日も一日が終わる。
花がきれいだった。
パンが柔らかかった。
ミラの焼き菓子が甘かった。
それだけの一日。
普通の一日。
たぶん、普通。