わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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道に出る手前で、足を止めた。

 

村から下りる道は、途中で分かれる。片方は谷の口へ下りて、馬車を乗り換えた関所につながる。もう片方は斜面の縁を回って、上の平らに出る。

分かれ目に石が積んである。腰くらいの高さで、四つ重ねて、いちばん上が平たい。誰が積んだのかは知らない。わたしが連れて行かれる前からあった。

 

ナタルの手を離した。

指の力を先に抜いてから離した。急に離すと、離されたほうが驚く。

 

「上に行きます」

 

先生が斜面を見上げた。

上のほうは草の色が薄い。岩が近いところには土が乗らないので、高くなるほど地面の色が出る。先生の目は、その薄いところで止まった。止まってから、こっちには戻ってこなかった。

 

「下にいる」

 

それだけ言って、道の脇に寄った。

 

昨日、この人は道と草地の境のところで、口を手で覆って立っていた。

上には墓しかない。行かないでいられる理由があるなら、あったほうがいい。

 

ヴァイスさんが荷を地面に置いて、こっちに来た。

近くまでは来ない。三歩ほど手前で止まる。この人の止まる位置は、面談室でも道の上でも変わらない。

 

「一つだけ確かめます」

 

「はい」

 

「引き返す約束は、生きています」

 

「はい」

 

「上に着いてからでも、途中でもいい。下りてきたことが失敗になる、ということはありません」

 

「はい」

 

「誰と行きますか」

 

そこで少し詰まった。

選ぶ形で聞かれたのが初めてだったからだ。前線では、誰と行くかは上で決まっていた。決まったものに「はい」と言う。そこは早かった。

 

答える前に、ナタルが歩き出していた。

分かれ目の石を回って、上の道に入っている。足音はしない。

 

「ナタルと」

 

「わかりました。わたしは下にいます」

 

ルチアが半歩ぶん前に出た。出て、止まった。

口が開いて、閉じた。それからもう一度開いた。

 

「わたしも、行っていい?」

 

「うん」

 

「近くには行かないから」

 

「うん」

 

そう答えたら、ルチアは肩を少しだけ下げた。

 

先生が一度だけ口を開いた。

 

「時間は気にするな」

 

馬車は明日の朝だ。今日はもう、下りるだけでいい。

そう言われて、初めて、時間のことを勘定していた自分に気づいた。日の位置と、下りにかかる時間と、暗くなるまでの余りを、上を見上げたときからずっと計算していた。癖だ。前線では、明るいうちに戻れるかどうかで行くか行かないかが決まった。

 

計算をやめた。

やめても、日は同じところにある。

 

 

 

上の平らを横切った。

 

昨日通ったところだ。炉の石も、杭の穴の二列も、見たままの場所にある。

変わっているのは風だけだ。昨日は奥の建物のところで回った。今日は斜面を下りている。内側に入っていないのを、歩きながら二回、鼻で確かめた。二回とも草と濡れた土だけだった。

 

奥の建物には近寄らなかった。平らの反対側を歩いた。

 

平らの端から先は、道ではない。

斜面に沿って、人の歩いたところだけ草が短い。二年経っても短いままだ。踏まれた土は硬くなって、そこだけ草の入り方が変わる。

 

炉の石から上へ、二十と少し。

数えてはいない。数えなくても足のほうが知っている。

 

途中で膝から下が重くなった。

登りだからではない。峠を越えてきた日のほうが息は上がっていた。上がっていても足は動いた。今は動くのに重い。昨日、この斜面を見なかったときと同じ重さだ。

 

学院を出る前に、何を言うかを考えた夜がある。

寝台の壁側で、三つくらい作った。作ってから、声に出さずに口の形だけでやってみた。悪くない出来だと思った。

その三つが、いまどこにあるのかわからない。谷に入った時点で、もうなかった。

 

ナタルは十歩ほど下で止まった。

 

そこから上には来なかった。

掘っていないほうが先に立つ場所ではない、という止まり方だった。そう決めて止まったのか、ただ待っているだけなのかは、顔ではわからない。この子の顔は、どっちでも同じ形をしている。

 

三つ目の岩の手前で止まった。

 

岩は三つとも動いていない。いちばん上のが平たくて、下の二つは尖っている。この並びを目印にした。位置を覚えていないと、あとで来られなくなる。あとで来る人がいるかどうかは、あのときは考えていない。

 

草の色が、そこだけ違う。

 

周りは葉の太いのが膝まで伸びている。三つのところだけ、細くて背の低いのが生えている。掘り返した土には、まず細いほうが入る。埋め戻した土はあとから沈んで、沈んだところに水が残る。残るところと残らないところで、生えるものが変わる。

 

だから見ればわかる。

 

三つ、並んでいる。

間はそれぞれ、腕の長さより少し広い。掘れる幅がそれしかなかった。

 

石は置いていない。

名前もない。

 

石なら、隣にある。

 

うちの墓だ。

 

三つの並びのすぐ横に、平たいのが一つ立ててある。腰より低い。わたしが生まれる前からある。

この石の下に、うちの人が入っている。母も入っている。

 

村の墓は、この斜面にまとまっている。

土が薄いので、掘れるところが限られる。どこなら掘れるかを、村は昔から知っていた。うちの人は代々ここに入る。よその家はよその家の場所がある。

 

三つをここにしたのは、そのためだ。

掘れるとわかっている土が、ここしかなかった。十三の子供が一人で掘るなら、掘れる場所を選ぶしかない。選んだときは、そういう理屈で選んだ。ほかの理屈があったのかどうかは、いまでもわからない。

 

石のほうは見ないで、しゃがんだ。

 

くぼみは浅い。踏めば足首が少し落ちる程度だ。土が薄いところなので、膝の深さで岩に当たった。当たってからは横に広げるしかなかった。広げて、戻して、上から踏んだ。踏むのはよくないと思ったけれど、戻した土は踏まないと風で飛ぶ。

 

シャベルは一本しかなかった。

先の欠けたやつで、石に当たるたびに手のひらに来た。掌が裂けたのは三つ目の途中で、そこからは布を巻いて掘った。掌の傷はもう残っていない。体の傷は残らないほうが多い。

 

近くで、羽の音がした。

草の茎に、黒い羽のが止まっている。羽の付け根に白い筋が二本。毒はないほうだ。見た瞬間に判じている。前線ではそれが要った。水場のそばで毒のあるほうに刺されると、腕が使えなくなる日が出る。

ここでは要らない。

要らないのに、体は毒のあるなしを先に済ませてしまう。済ませてから、何にも使わないで終わる。

 

順番も覚えている。

右から掘った。掘った日が三つとも違う。右がいちばん古い。

 

右が隊長だ。

 

わたしを庇って死んだ、という言い方は、あとで人に説明するようになってから使い始めた言い方だ。あのときは何が起きたのかもわかっていなかった。背中を押されて、転んで、起き上がったら人が上に乗っていた。重かった。声は聞いていない。

掘ったのは、その日の夜だ。手が震えていた記憶はない。震えていたら掘れない。

 

人の名前を覚えるのがうまい人だった。

補充で来た子の名前を、その日のうちに呼んだ。名前を先に呼べばそいつは動く、と言っていた。動かない奴を怒鳴るより早い、とも言っていた。

 

名前を覚えるのがうまかった人の上に、名前の書いていない土がある。

 

真ん中は、隣を走っていた子だ。

 

背中に受けた。前を向いたまま、二歩ぶん走ってから倒れた。倒れてから止まった。わたしはそのとき止まらないで、次の遮蔽まで行った。行って、そこで自分の袖についているものを払った。払ってから、次の場所を探した。

夜になってから戻って、掘った。掘る場所は、右の隣にした。隣にすると決めたのは、そのときだ。

 

左は最後だ。冬に近い時期で、土が硬かった。

 

背が低くて、前歯のあいだが少し開いていた。笑うとそこが見える。走るのが遅くて、隊のいちばん後ろにいた。荷を持たせると、持ちすぎて怒られた。

名前が出ない。

 

出ないことに、いま気づいた。

 

顔は出る。声も出る。呼ばれたときの返事の仕方まで出る。名前のところだけが空いている。

探した。頭の中で、音の頭から順に当ててみた。二音のと三音のを両方やった。掌に指で書いてもみた。書いても、書いた形が返事をしない。

いつからなのかもわからない。掘った日には、まだあった。名前を呼びながら埋めた気がする。そのあとのどこかで、こぼれた。こぼれた日に、こぼれたと気づいていない。

 

下を見た。

ナタルは十歩下に立っている。聞けば出るかもしれない。あの子は音を覚えるのがうまい。呼ばれ方の音なら、残っている見込みはある。

 

聞かなかった。

 

聞けば、あの子も探しにいく。

探して出れば、それでいい。出なかったときが困る。二人とも出なかったら、その時点で本当に無くなる。いまはまだ、わたしが忘れているだけという形で置いておける。片方が忘れているのと、両方が忘れているのは、別のことだ。

 

置いておける、という言い方はずるい。

ずるいのはわかっている。それでも聞かなかった。

 

覚えていなくていいことは、全部残っている。

升目の座標は一回で入る。足音の数え方も、防具の隙間も、羽の模様も残っている。残っていてほしいほうが、こうやって抜ける。抜ける順番を決めているのは、わたしではない。

 

わたしは全員の顔を覚えている。

全員の名前を覚えている、と思っていた。三つのうちの一つで、もう合っていない。

 

ここには三人いる。

小隊は三人ではない。

 

副隊長はここにいない。火の回った陣地でわたしの腕を引いた人で、翌月に別の谷で死んだ。埋めたのはわたしではない。誰が埋めたのかも知らない。

詠唱の速かった人もいない。背が高くて、声が低かった。朝、起きたらいなかった。いなくなった日の話は、誰もしなかった。

同じ村から入った三人は、最初の冬に消えた。順番は覚えている。三人とも、この斜面ではない。

 

いちばん年下だった子も、ここにいない。

どこに埋まっているのかを、わたしは知らない。

さっき、あの家で、聞かれなかった。

 

もし聞かれていたら、答えられなかった。

 

下の村では、割った石に名前が彫ってある。十四枚あった。彫った人は彫り方を持っている。字の底が丸くなる彫り方で、鑿ではない何かで、彫って、粉を払って、また彫る。

石があれば彫れる。道具と、彫る人がいれば。

 

わたしは持っていない。

字は書ける。汚いけれど書ける。書くものが、ここにはない。持ってこようという考えが、出発の前に一度も出なかった。三週間あって、荷は一つで、その中に何を入れるか毎晩考えていたのに、一度も出なかった。

 

 

 

手を、真ん中の草の上に置いた。

 

土は冷たかった。

日が当たっているのに、草の下は冷たい。斜面は風が抜けるから、と考えて、考えても何にもならないことに気づいた。

少し押した。沈まなかった。二年で締まっている。

 

そのへんの石を三つ拾って、置こうかと思った。

拾って、並べて、それで何になるのかがわからなかった。置いた石は、知らない人が見れば、ただ石が三つ並んでいるだけだ。知っている人はもう、ここに来ない。

拾わなかった。

 

立った。

 

口を開けた。

何も出なかった。閉じて、もう一度開けた。

 

出る形が、一つだけあった。

 

「第七歩兵小隊、カルヴァス」

 

そこまでは出た。

低くて、平らな声だった。報告の声だ。

 

続きが出なかった。

 

報告には受け取る人がいる。書いて置いてくるのとは違う。渡して、受け取った人が何かを返す。ヴァイスさんが面談室でそういう分け方をした。あのときはよくわからなかった。

受け取る人がいないところで報告を始めると、始めたところで止まる。

 

第七歩兵小隊は、もうない。

番号を書いた名簿もない。公文書は焼けたか、向こうに持って行かれたか、どちらかだ。名前を言う先が、国ごと無くなっている。

それでも口が最初に出したのが、その番号だった。二年で入ったものは、そういう入り方をしている。

 

口を閉じた。

 

風が斜面を下りてきた。

草が一方向に寝て、戻った。

 

石のほうを見た。

 

日が回って、正面に当たっていた。削った面が明るい。明るいので、苔の乗り方がよく見えた。

下の半分に厚く乗っている。上は薄い。雨は上から来るので、上のは流れて、下に溜まる。

 

昔は、乗っていなかった。

 

母が落としていた。ここに来るたびに、爪の先で。

爪でやると石が傷まない、と言っていた。彫りがもともと浅いから、硬いものを当てると消えるとも言っていた。わたしは横で見ていた。手伝えと言われた記憶はない。落とし終わるまで、待っていた。待っているあいだ何をしていたかは、覚えていない。

 

いまは厚い。

 

落とす人がいなくなったからだ。

落としていた人が、この下に入っている。

 

いちばん新しいのが母だ。

 

その前が父だ。戦争の前に入った。わたしが六つか七つのころで、顔のほうはもう出てこない。出てくるのは、そのあと母がここへ来る回数が増えたことと、来ると長くかかるようになったことだけだ。

その前が母の母。さらに前は、会ったことのない代の人たちになる。名前だけ、母から聞いた。石を挟んで並べるのではなくて、同じ穴に順番に足していく。うちはそういう入り方をする。

 

兄も妹もいない。うちは三人で、いまは一人だ。

 

父が入って、うちに大人の男がいなくなった。後ろについてくれる氏族もない。

村から人を出せと言われたとき、うちから出せるのはわたしだった。当時はそういうものだと思っていた。いまでも、半分はそう思っている。

 

母のときに足したのが、いちばん最後だ。そのあとは、足す人がいない。

 

手を伸ばした。

 

爪を立てて、下の端から少しだけ削いだ。乾いた苔は粉になって、指の腹についた。爪の中にも入った。

削いだところに、溝が出た。

 

指でなぞった。

 

浅い。角が丸くなっている。文字の形は指に入ってくるのに、それが何の字かは出てこない。字を読むのは目の仕事で、指の仕事ではない。目でも読めなかった。

 

この石は、ちゃんとしている。

 

面を削って、字を彫って、立ててある。道具を持ってきて、時間をかけてやった仕事だ。母のときも、村の人が同じようにやった。穴を開けて、入れて、石を戻した。やる順番があって、その順番どおりにやってもらっている。

 

隣は、そうではない。

 

三つの印は岩だ。もとからそこにあった岩で、わたしが置いたものではない。目印にしただけだ。石を削るものも、彫るものも持っていなかった。持っていこうという考えも出てこなかった。

シャベルは先が欠けていた。夜だった。一人だった。十三だった。

できることをやった、とは思う。思うけれど、その隣に、ちゃんとしたのが立っている。

 

そこでやめた。

 

全部落とすには時間がいる。時間なら、気にするなと言われている。

ただ、落としてしまったら、次に誰が落とすのかという話になる。次はたぶん、無い。

半分だけ苔の乗った石にして、手を離した。

 

埋めるところを、わたしは見ていない。

 

誰がやったのかは聞いていない。

聞ける相手なら、昨日、目の前にいた。縄をなっていたあの老人は、母の名前でわたしを呼んだ。呼べるということは、知っているということだ。

 

聞かなかった。

 

聞いたら、その日のことを、あの人にもう一度言わせることになる。

カイが言っていた。生きてる人に聞くのは、もう一回言わせることだ、と。あれは石に何を彫るかの話だったけれど、たぶん、同じことだ。

 

石に向かって、口を開けた。

 

「……元気です」

 

さっきより高い声だった。報告のときの高さではない。誰にも届けるつもりのない言い方で、口だけが動いた。

 

「学校に、行っています」

 

間が空いた。

次を探しているのではない。いま言ったものを、自分で聞いている時間だ。

 

「屋根が、あります」

 

「ごはんが、出ます」

 

「冬に、外で寝ることは、もう、ありません」

 

一つずつだ。

続けて言おうとすると、途中で息のほうが先に行く。区切って、置いて、また次を拾う。番号のところで止まったのが嘘みたいに、拾えば言える。

 

「湯を、もらいました。昨日」

 

「甘いものは、王都にあります。銅貨で、買えます」

 

言うことは、まだいくらでもあった。

そのまま続けようとして、隣が目に入った。

 

「……隣に、三人います」

 

言ってから、順番が違うことに気づいた。

 

人を引き合わせるときは、名前からだ。ミラは誰かを紹介するとき、必ず名前から言う。

 

一人目を呼んだ。

 

隊長の名前だ。名前を先に呼べばそいつは動く、と言った本人の名前を、いちばん先に呼んだ。声にすると、返事の声まで一緒に来る。

 

「わたしを、庇った人です」

 

「補充で来た子の名前を、その日のうちに覚える人でした」

 

二人目を呼んだ。

 

「隣を、走っていました」

 

「わたしより、足が速かったです。最後まで、前を向いていました」

 

そこまでは、言えた。

 

三人目のところが、空いた。

 

顔は出る。声も出る。前歯のあいだが空いていたのも、荷を持ちすぎて怒られたのも出る。

名前だけが無い。

 

紹介するのに、名前が無い。

 

三人ぶん言うつもりだった。

二人ぶんしか言えない。三つ掘って、二つしか渡せない。

 

隣に置いたのは、ここなら掘れるとわかっていたからだ。そう思ってきた。

掘れる場所は、ほかにもあったかもしれない。あのときのわたしが、ここを選んだ。選んだ理由を、いま、うまく言えない。言えないまま、三人を母の隣に並べて、二人ぶんの名前しか持ってこなかった。

 

続きは、まだ喉の下に溜まっている。溜まっているのに、置く先が足りない。

 

顎の下が濡れていた。

 

いつからかはわからない。濡れているのに気づいて、それから頬を触った。順番が逆だ。

落ちる先は足元だ。土が乾いているので、落ちたところだけ色が変わる。数えられる。数えないでおいた。

喉が鳴った。そこからは、止め方がなかった。声が出ている。形になっていない声だ。息を吸うところで引っかかって、引っかかったまま、また出る。

拭かなかった。拭くと、拭いたぶんだけ何かをしたことになる。

 

隊長が死んだ日は、出なかった。

掘っている間も出なかった。土を戻して、踏んで、下りて、次の日にはまた動いていた。あの二年で一度も出ていない。収容所の半年でも出ていない。昨日、あの家で湯の器を持っていたときも出なかった。ナタルは肩が二回動いて、布に染みができた。わたしはそのあいだ、自分の喉のところを確かめていた。

 

二年経って、ここで出ている。

 

紙なら、あとから書けるだろうか。

部屋に戻って、机で、時間をかけて。字が汚くても、書いてしまえば形にはなる。

書くとしたら、宛名を一つ空けたまま書くことになる。空けたまま出す手紙のやり方を、わたしは知らない。

 

ナタルが横に来た。

 

上がってきた。

さっきまでは下で止まっていた。ここには来た。

 

来て、立った。

わたしの左に立った。左は斜面が開いていて、下から上がってくるものが見える。わたしは右にいる。右は岩で、上が塞がっている。

 

分けている。

 

言わないで分けた。夜番と同じだ。二人で座ると、いつもこうなる。

ここには見張るものがない。誰も上がってこない。それなのに、体のほうが先に持ち場を決める。

 

ナタルは何も言わなかった。

しゃがまなかった。手も出さなかった。石を見て、それから斜面の下を見た。

 

左手が握られていた。

親指が外に出ている。中に爪が当たる握り方だ。あの握り方をしたあとの掌には、三日月の形が残る。昨日、わたしの手を握ったときにも残っていた。

 

言わないほうがいい。

言えば、この子は手を開く。開いて、開いたことを見られたと思う。そのぶんが、あとで別の形で戻ってくる。

 

だから見なかったことにした。

先生に対して、昨日、同じことをした。二日で二回だ。見なかったことにするやり方だけは、わたしはうまい。

 

それでよかった、とは思わない。

ただ、いまここで手を開かせる言い方を、わたしは持っていない。

 

前は、自分の分になると手が空で戻ってきた。

ミラのお母さん宛ての手紙は手伝えた。あれはミラのぶんの言葉だ。人の分は言えて、自分の分は言えない。そういうものだと思っていた。

 

さっきのは、自分の分だった。

 

膝が抜けた。

 

決めていない。決める手順が動く前に、下から抜けた。斜面で膝が抜けると、上体だけが先に行く。

手をついた。

 

ついた先が、石だった。

 

日の当たっている面は温い。さっき土に置いた手は冷たかった。同じ斜面の、同じ日で、触るところで逆になる。

両手を石に置いていた。置いてから、置いたことに気づいた。

 

低いところに来たので、見え方が変わった。

石の縁の向こうに、くぼみが三つ並んでいる。石と三つが、同じ高さに見えた。立っているときは、石のほうが上にあった。

 

「……ただいま」

 

 

 

振り返った。

 

ルチアは斜面の途中にいた。

平らの端から、五歩か六歩ぶん上がったところで止まっている。手を前で組んで、こっちを見て、それから足元を見た。上げて、また下げた。

上がってこない。上がっていいかどうかを決めかねている立ち方だ。

 

わたしは手を伸ばした。

 

伸ばしてから、伸ばしたことに気づいた。

体が先に出るのは、いつものことだ。いつもは、先に出た体が誰かの喉のあたりに向かっている。今日は手だけが出た。開いて、上に向けて、そのまま止まっていた。

 

ルチアが上がってきた。

草を踏む音が五つぶん。

 

握られた。

 

温かい。指が細い。爪のところが丸い。何度も触っている手だ。

体は固まらなかった。固まらなかったことを、あとから確かめた。肩は上がっていない。息も詰まっていない。

 

「ルチア」

 

「うん」

 

「ここ、三人いるの」

 

ルチアは草の色の違うところを見た。

何が違うのかは、たぶんわかっていない。細いのと太いのの差は、知っていないと見えない。

 

それでも、そこを見て少し頭を下げた。

 

知らない人に、知らないまま下げた。

名前も聞かなかった。どうして三人なのかも、なぜ石がないのかも聞かなかった。聞かれたら、わたしは半分しか答えられなかった。

 

握られている手のほうが、少し強くなった。

強くなって、すぐ元に戻った。ルチアの手は震えていない。震えているのはこっちだ。震えているのに、離したいとは思っていない。両方が同時にあることが、前はわからなかった。

 

三人で、三つのくぼみの前に立っていた。

誰も何も言わなかった。日が岩のほうへ寄って、影が三つの上まで伸びてきた。

 

 

 

下りるとき、一度だけ振り返った。

 

三つのくぼみは、離れると見えなくなった。

草の色の違いは近くでしかわからない。離れれば全部同じ色だ。来年の夏には、たぶん、近くでもわからなくなる。細いほうが負けて、太いほうが入ってくる。

 

それでいい、とは思わなかった。

よくない、とも思わなかった。土はそういうふうにできている。

 

石だけは、まだ見えた。

離れても形が残っている。石は草に負けない。負けないように石にしてある。それを知っている人たちが、あそこを作った。

 

石の見えるところに、三つも入っている。

石を目印にすれば、たどり着ける。そう思ってから、思いついたのが今日だったことに気づいた。掘った日には、そこまで頭が回らなかった。

 

平らを横切って、分かれ目まで戻った。

 

先生は道の脇に立ったままだった。立ち方が、行きに見たときと同じだった。動かないで待つのは、この人の得意なほうだと思う。

ヴァイスさんは荷のそばにしゃがんでいて、こっちを見て、立った。

 

「道具は使いましたか」

 

「使ってないです」

 

「わかりました」

 

それだけだった。

効いたかどうかは聞かれない。この人は、使ったかどうかしか聞かない。使わなかったと言っても、顔が変わらない。

 

先生が歩き出した。

歩幅がいつもと同じだった。うしろを歩いても距離が変わらないので、下りは楽だ。

 

ナタルは先頭に出た。

下りの道を選ぶのはこの子だ。行きも上を選んだ。崩れる場所を覚えている人間が先に立つのが、いちばん速い。

 

村のほうを、もう一度見た。

 

屋根は三つ。煙は一つ。

 

あの人がどこにいるかはわからない。下の町か、南の谷か、どこかの家の中だ。家の中は公の場ではない、という線の内側で、子供に読みと書きと数の言い方を教えている。歌は十九。全部を知っていた人は去年の冬に死んだ。

 

お前の中にヴェルダは何が残ってる、と聞かれた。

数えろと言われた形だった。数えられなかった。制服も、言葉も、教科書も、向こうのものだ。出てくるものが一つもなかった。

 

いま、一つだけ言える。

 

あの三つがどこにあるかを知っているのは、たぶんわたしだけだ。

ナタルは掘っていない。三つには石も名前もない。新しい地図には、この村ごと載っていない。

石は隣にあるけれど、あれはうちのぶんだ。石の横に三つあることは、石には書いていない。書いてある人間が、わたしのほかにいない。

 

それが残っているものなのかは、わからない。

持っていると言えるのかもわからない。ただ、持たされたものではない。誰にも渡されていない。掘ったのはわたしの手だ。

 

戦い方は見つかったか、と聞かれた。

見つかっていない、と答えた。答えようがなくて答えた。

 

いまも見つかっていない。

 

今日、あの三つの前で、報告は途中で止まった。

番号のあとが続かなかった。第七歩兵小隊、と呼びかけているうちは、そこから先が無い。

 

呼び方を変えたら、言えた。

元気です、から始まって、屋根の話と、ごはんの話と、冬の話まで言えた。区切りながらだが、言えた。人の分は言えて自分の分は言えない、そういうものだと思っていたのに、言えた。

宛名だけが二つで止まっている。書くとしたら、そこを空けたまま書くことになる。空けたまま出す手紙のやり方を、わたしはまだ知らない。

 

最後の一言は、ただいま、だった。

言うつもりはなかった。膝が抜けて、石に手がついて、そこで口が動いた。組み立てたものではない。

あそこに寝ているのは、家の人と、小隊の人だ。二年のあいだ、その二つは別の場所にあった。片方は帰るところで、片方は帰らないところだ。同じ土に並んでいるのを見て、口のほうが先に一つにした。

 

先に動くのは、いつも手のほうだった。

 

上に行くと決めたのも、わたしだ。

行けと書いてある紙は来た。紙には墓のことは一行もなかった。あの分かれ目で上を選んだのは、紙ではない。誰にも聞かれていないし、誰も見ていない。それでも選んだ。

成果として数えるなら、どう数えるのかがわからない。ただいま、が何かの成果になるのかどうか、数える枠がない。

数えられないけれど、起きた。

 

ルチアの手は握れた。

ミラが手紙で詰まったとき、ミラのぶんの言葉なら出せた。

屋根の上で、ナタルと黙って並んでいられた。何も言わないで隣にいられるのは、誰にでもできることではない。

先生の授業で寝た。あの人の前で、体が沈んだ。

 

どれも戦い方ではない。剣でもない。

 

わたしの手が覚えているのは、人を壊す動きばかりだと思っていた。

喉の位置。手首の内側。防具のないところ。倒れた相手にもう一度当てる形。全部そのまま入っている。今日も、上に行っただけで足が持ち場を選んだ。

 

でも手は、もう一つ覚えている。

誰かの手を握る。誰かの隣に立つ。誰かの言葉を、その人のぶんだけ探す。

 

それが戦い方になるのかは、わからない。

なるとしても、どういう形になるのかがわからない。

 

今夜も関所の下の小屋で寝る。壁の薄い部屋だ。明日、峠を越える。

 

わたしはまだ、自分の戦い方を知らない。

 

知らないけれど、今日、体が先に出したのは、開いて上を向いた手だった。

 

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