道に出る手前で、足を止めた。
村から下りる道は、途中で分かれる。片方は谷の口へ下りて、馬車を乗り換えた関所につながる。もう片方は斜面の縁を回って、上の平らに出る。
分かれ目に石が積んである。腰くらいの高さで、四つ重ねて、いちばん上が平たい。誰が積んだのかは知らない。わたしが連れて行かれる前からあった。
ナタルの手を離した。
指の力を先に抜いてから離した。急に離すと、離されたほうが驚く。
「上に行きます」
先生が斜面を見上げた。
上のほうは草の色が薄い。岩が近いところには土が乗らないので、高くなるほど地面の色が出る。先生の目は、その薄いところで止まった。止まってから、こっちには戻ってこなかった。
「下にいる」
それだけ言って、道の脇に寄った。
昨日、この人は道と草地の境のところで、口を手で覆って立っていた。
上には墓しかない。行かないでいられる理由があるなら、あったほうがいい。
ヴァイスさんが荷を地面に置いて、こっちに来た。
近くまでは来ない。三歩ほど手前で止まる。この人の止まる位置は、面談室でも道の上でも変わらない。
「一つだけ確かめます」
「はい」
「引き返す約束は、生きています」
「はい」
「上に着いてからでも、途中でもいい。下りてきたことが失敗になる、ということはありません」
「はい」
「誰と行きますか」
そこで少し詰まった。
選ぶ形で聞かれたのが初めてだったからだ。前線では、誰と行くかは上で決まっていた。決まったものに「はい」と言う。そこは早かった。
答える前に、ナタルが歩き出していた。
分かれ目の石を回って、上の道に入っている。足音はしない。
「ナタルと」
「わかりました。わたしは下にいます」
ルチアが半歩ぶん前に出た。出て、止まった。
口が開いて、閉じた。それからもう一度開いた。
「わたしも、行っていい?」
「うん」
「近くには行かないから」
「うん」
そう答えたら、ルチアは肩を少しだけ下げた。
先生が一度だけ口を開いた。
「時間は気にするな」
馬車は明日の朝だ。今日はもう、下りるだけでいい。
そう言われて、初めて、時間のことを勘定していた自分に気づいた。日の位置と、下りにかかる時間と、暗くなるまでの余りを、上を見上げたときからずっと計算していた。癖だ。前線では、明るいうちに戻れるかどうかで行くか行かないかが決まった。
計算をやめた。
やめても、日は同じところにある。
上の平らを横切った。
昨日通ったところだ。炉の石も、杭の穴の二列も、見たままの場所にある。
変わっているのは風だけだ。昨日は奥の建物のところで回った。今日は斜面を下りている。内側に入っていないのを、歩きながら二回、鼻で確かめた。二回とも草と濡れた土だけだった。
奥の建物には近寄らなかった。平らの反対側を歩いた。
平らの端から先は、道ではない。
斜面に沿って、人の歩いたところだけ草が短い。二年経っても短いままだ。踏まれた土は硬くなって、そこだけ草の入り方が変わる。
炉の石から上へ、二十と少し。
数えてはいない。数えなくても足のほうが知っている。
途中で膝から下が重くなった。
登りだからではない。峠を越えてきた日のほうが息は上がっていた。上がっていても足は動いた。今は動くのに重い。昨日、この斜面を見なかったときと同じ重さだ。
学院を出る前に、何を言うかを考えた夜がある。
寝台の壁側で、三つくらい作った。作ってから、声に出さずに口の形だけでやってみた。悪くない出来だと思った。
その三つが、いまどこにあるのかわからない。谷に入った時点で、もうなかった。
ナタルは十歩ほど下で止まった。
そこから上には来なかった。
掘っていないほうが先に立つ場所ではない、という止まり方だった。そう決めて止まったのか、ただ待っているだけなのかは、顔ではわからない。この子の顔は、どっちでも同じ形をしている。
三つ目の岩の手前で止まった。
岩は三つとも動いていない。いちばん上のが平たくて、下の二つは尖っている。この並びを目印にした。位置を覚えていないと、あとで来られなくなる。あとで来る人がいるかどうかは、あのときは考えていない。
草の色が、そこだけ違う。
周りは葉の太いのが膝まで伸びている。三つのところだけ、細くて背の低いのが生えている。掘り返した土には、まず細いほうが入る。埋め戻した土はあとから沈んで、沈んだところに水が残る。残るところと残らないところで、生えるものが変わる。
だから見ればわかる。
三つ、並んでいる。
間はそれぞれ、腕の長さより少し広い。掘れる幅がそれしかなかった。
石は置いていない。
名前もない。
石なら、隣にある。
うちの墓だ。
三つの並びのすぐ横に、平たいのが一つ立ててある。腰より低い。わたしが生まれる前からある。
この石の下に、うちの人が入っている。母も入っている。
村の墓は、この斜面にまとまっている。
土が薄いので、掘れるところが限られる。どこなら掘れるかを、村は昔から知っていた。うちの人は代々ここに入る。よその家はよその家の場所がある。
三つをここにしたのは、そのためだ。
掘れるとわかっている土が、ここしかなかった。十三の子供が一人で掘るなら、掘れる場所を選ぶしかない。選んだときは、そういう理屈で選んだ。ほかの理屈があったのかどうかは、いまでもわからない。
石のほうは見ないで、しゃがんだ。
くぼみは浅い。踏めば足首が少し落ちる程度だ。土が薄いところなので、膝の深さで岩に当たった。当たってからは横に広げるしかなかった。広げて、戻して、上から踏んだ。踏むのはよくないと思ったけれど、戻した土は踏まないと風で飛ぶ。
シャベルは一本しかなかった。
先の欠けたやつで、石に当たるたびに手のひらに来た。掌が裂けたのは三つ目の途中で、そこからは布を巻いて掘った。掌の傷はもう残っていない。体の傷は残らないほうが多い。
近くで、羽の音がした。
草の茎に、黒い羽のが止まっている。羽の付け根に白い筋が二本。毒はないほうだ。見た瞬間に判じている。前線ではそれが要った。水場のそばで毒のあるほうに刺されると、腕が使えなくなる日が出る。
ここでは要らない。
要らないのに、体は毒のあるなしを先に済ませてしまう。済ませてから、何にも使わないで終わる。
順番も覚えている。
右から掘った。掘った日が三つとも違う。右がいちばん古い。
右が隊長だ。
わたしを庇って死んだ、という言い方は、あとで人に説明するようになってから使い始めた言い方だ。あのときは何が起きたのかもわかっていなかった。背中を押されて、転んで、起き上がったら人が上に乗っていた。重かった。声は聞いていない。
掘ったのは、その日の夜だ。手が震えていた記憶はない。震えていたら掘れない。
人の名前を覚えるのがうまい人だった。
補充で来た子の名前を、その日のうちに呼んだ。名前を先に呼べばそいつは動く、と言っていた。動かない奴を怒鳴るより早い、とも言っていた。
名前を覚えるのがうまかった人の上に、名前の書いていない土がある。
真ん中は、隣を走っていた子だ。
背中に受けた。前を向いたまま、二歩ぶん走ってから倒れた。倒れてから止まった。わたしはそのとき止まらないで、次の遮蔽まで行った。行って、そこで自分の袖についているものを払った。払ってから、次の場所を探した。
夜になってから戻って、掘った。掘る場所は、右の隣にした。隣にすると決めたのは、そのときだ。
左は最後だ。冬に近い時期で、土が硬かった。
背が低くて、前歯のあいだが少し開いていた。笑うとそこが見える。走るのが遅くて、隊のいちばん後ろにいた。荷を持たせると、持ちすぎて怒られた。
名前が出ない。
出ないことに、いま気づいた。
顔は出る。声も出る。呼ばれたときの返事の仕方まで出る。名前のところだけが空いている。
探した。頭の中で、音の頭から順に当ててみた。二音のと三音のを両方やった。掌に指で書いてもみた。書いても、書いた形が返事をしない。
いつからなのかもわからない。掘った日には、まだあった。名前を呼びながら埋めた気がする。そのあとのどこかで、こぼれた。こぼれた日に、こぼれたと気づいていない。
下を見た。
ナタルは十歩下に立っている。聞けば出るかもしれない。あの子は音を覚えるのがうまい。呼ばれ方の音なら、残っている見込みはある。
聞かなかった。
聞けば、あの子も探しにいく。
探して出れば、それでいい。出なかったときが困る。二人とも出なかったら、その時点で本当に無くなる。いまはまだ、わたしが忘れているだけという形で置いておける。片方が忘れているのと、両方が忘れているのは、別のことだ。
置いておける、という言い方はずるい。
ずるいのはわかっている。それでも聞かなかった。
覚えていなくていいことは、全部残っている。
升目の座標は一回で入る。足音の数え方も、防具の隙間も、羽の模様も残っている。残っていてほしいほうが、こうやって抜ける。抜ける順番を決めているのは、わたしではない。
わたしは全員の顔を覚えている。
全員の名前を覚えている、と思っていた。三つのうちの一つで、もう合っていない。
ここには三人いる。
小隊は三人ではない。
副隊長はここにいない。火の回った陣地でわたしの腕を引いた人で、翌月に別の谷で死んだ。埋めたのはわたしではない。誰が埋めたのかも知らない。
詠唱の速かった人もいない。背が高くて、声が低かった。朝、起きたらいなかった。いなくなった日の話は、誰もしなかった。
同じ村から入った三人は、最初の冬に消えた。順番は覚えている。三人とも、この斜面ではない。
いちばん年下だった子も、ここにいない。
どこに埋まっているのかを、わたしは知らない。
さっき、あの家で、聞かれなかった。
もし聞かれていたら、答えられなかった。
下の村では、割った石に名前が彫ってある。十四枚あった。彫った人は彫り方を持っている。字の底が丸くなる彫り方で、鑿ではない何かで、彫って、粉を払って、また彫る。
石があれば彫れる。道具と、彫る人がいれば。
わたしは持っていない。
字は書ける。汚いけれど書ける。書くものが、ここにはない。持ってこようという考えが、出発の前に一度も出なかった。三週間あって、荷は一つで、その中に何を入れるか毎晩考えていたのに、一度も出なかった。
手を、真ん中の草の上に置いた。
土は冷たかった。
日が当たっているのに、草の下は冷たい。斜面は風が抜けるから、と考えて、考えても何にもならないことに気づいた。
少し押した。沈まなかった。二年で締まっている。
そのへんの石を三つ拾って、置こうかと思った。
拾って、並べて、それで何になるのかがわからなかった。置いた石は、知らない人が見れば、ただ石が三つ並んでいるだけだ。知っている人はもう、ここに来ない。
拾わなかった。
立った。
口を開けた。
何も出なかった。閉じて、もう一度開けた。
出る形が、一つだけあった。
「第七歩兵小隊、カルヴァス」
そこまでは出た。
低くて、平らな声だった。報告の声だ。
続きが出なかった。
報告には受け取る人がいる。書いて置いてくるのとは違う。渡して、受け取った人が何かを返す。ヴァイスさんが面談室でそういう分け方をした。あのときはよくわからなかった。
受け取る人がいないところで報告を始めると、始めたところで止まる。
第七歩兵小隊は、もうない。
番号を書いた名簿もない。公文書は焼けたか、向こうに持って行かれたか、どちらかだ。名前を言う先が、国ごと無くなっている。
それでも口が最初に出したのが、その番号だった。二年で入ったものは、そういう入り方をしている。
口を閉じた。
風が斜面を下りてきた。
草が一方向に寝て、戻った。
石のほうを見た。
日が回って、正面に当たっていた。削った面が明るい。明るいので、苔の乗り方がよく見えた。
下の半分に厚く乗っている。上は薄い。雨は上から来るので、上のは流れて、下に溜まる。
昔は、乗っていなかった。
母が落としていた。ここに来るたびに、爪の先で。
爪でやると石が傷まない、と言っていた。彫りがもともと浅いから、硬いものを当てると消えるとも言っていた。わたしは横で見ていた。手伝えと言われた記憶はない。落とし終わるまで、待っていた。待っているあいだ何をしていたかは、覚えていない。
いまは厚い。
落とす人がいなくなったからだ。
落としていた人が、この下に入っている。
いちばん新しいのが母だ。
その前が父だ。戦争の前に入った。わたしが六つか七つのころで、顔のほうはもう出てこない。出てくるのは、そのあと母がここへ来る回数が増えたことと、来ると長くかかるようになったことだけだ。
その前が母の母。さらに前は、会ったことのない代の人たちになる。名前だけ、母から聞いた。石を挟んで並べるのではなくて、同じ穴に順番に足していく。うちはそういう入り方をする。
兄も妹もいない。うちは三人で、いまは一人だ。
父が入って、うちに大人の男がいなくなった。後ろについてくれる氏族もない。
村から人を出せと言われたとき、うちから出せるのはわたしだった。当時はそういうものだと思っていた。いまでも、半分はそう思っている。
母のときに足したのが、いちばん最後だ。そのあとは、足す人がいない。
手を伸ばした。
爪を立てて、下の端から少しだけ削いだ。乾いた苔は粉になって、指の腹についた。爪の中にも入った。
削いだところに、溝が出た。
指でなぞった。
浅い。角が丸くなっている。文字の形は指に入ってくるのに、それが何の字かは出てこない。字を読むのは目の仕事で、指の仕事ではない。目でも読めなかった。
この石は、ちゃんとしている。
面を削って、字を彫って、立ててある。道具を持ってきて、時間をかけてやった仕事だ。母のときも、村の人が同じようにやった。穴を開けて、入れて、石を戻した。やる順番があって、その順番どおりにやってもらっている。
隣は、そうではない。
三つの印は岩だ。もとからそこにあった岩で、わたしが置いたものではない。目印にしただけだ。石を削るものも、彫るものも持っていなかった。持っていこうという考えも出てこなかった。
シャベルは先が欠けていた。夜だった。一人だった。十三だった。
できることをやった、とは思う。思うけれど、その隣に、ちゃんとしたのが立っている。
そこでやめた。
全部落とすには時間がいる。時間なら、気にするなと言われている。
ただ、落としてしまったら、次に誰が落とすのかという話になる。次はたぶん、無い。
半分だけ苔の乗った石にして、手を離した。
埋めるところを、わたしは見ていない。
誰がやったのかは聞いていない。
聞ける相手なら、昨日、目の前にいた。縄をなっていたあの老人は、母の名前でわたしを呼んだ。呼べるということは、知っているということだ。
聞かなかった。
聞いたら、その日のことを、あの人にもう一度言わせることになる。
カイが言っていた。生きてる人に聞くのは、もう一回言わせることだ、と。あれは石に何を彫るかの話だったけれど、たぶん、同じことだ。
石に向かって、口を開けた。
「……元気です」
さっきより高い声だった。報告のときの高さではない。誰にも届けるつもりのない言い方で、口だけが動いた。
「学校に、行っています」
間が空いた。
次を探しているのではない。いま言ったものを、自分で聞いている時間だ。
「屋根が、あります」
「ごはんが、出ます」
「冬に、外で寝ることは、もう、ありません」
一つずつだ。
続けて言おうとすると、途中で息のほうが先に行く。区切って、置いて、また次を拾う。番号のところで止まったのが嘘みたいに、拾えば言える。
「湯を、もらいました。昨日」
「甘いものは、王都にあります。銅貨で、買えます」
言うことは、まだいくらでもあった。
そのまま続けようとして、隣が目に入った。
「……隣に、三人います」
言ってから、順番が違うことに気づいた。
人を引き合わせるときは、名前からだ。ミラは誰かを紹介するとき、必ず名前から言う。
一人目を呼んだ。
隊長の名前だ。名前を先に呼べばそいつは動く、と言った本人の名前を、いちばん先に呼んだ。声にすると、返事の声まで一緒に来る。
「わたしを、庇った人です」
「補充で来た子の名前を、その日のうちに覚える人でした」
二人目を呼んだ。
「隣を、走っていました」
「わたしより、足が速かったです。最後まで、前を向いていました」
そこまでは、言えた。
三人目のところが、空いた。
顔は出る。声も出る。前歯のあいだが空いていたのも、荷を持ちすぎて怒られたのも出る。
名前だけが無い。
紹介するのに、名前が無い。
三人ぶん言うつもりだった。
二人ぶんしか言えない。三つ掘って、二つしか渡せない。
隣に置いたのは、ここなら掘れるとわかっていたからだ。そう思ってきた。
掘れる場所は、ほかにもあったかもしれない。あのときのわたしが、ここを選んだ。選んだ理由を、いま、うまく言えない。言えないまま、三人を母の隣に並べて、二人ぶんの名前しか持ってこなかった。
続きは、まだ喉の下に溜まっている。溜まっているのに、置く先が足りない。
顎の下が濡れていた。
いつからかはわからない。濡れているのに気づいて、それから頬を触った。順番が逆だ。
落ちる先は足元だ。土が乾いているので、落ちたところだけ色が変わる。数えられる。数えないでおいた。
喉が鳴った。そこからは、止め方がなかった。声が出ている。形になっていない声だ。息を吸うところで引っかかって、引っかかったまま、また出る。
拭かなかった。拭くと、拭いたぶんだけ何かをしたことになる。
隊長が死んだ日は、出なかった。
掘っている間も出なかった。土を戻して、踏んで、下りて、次の日にはまた動いていた。あの二年で一度も出ていない。収容所の半年でも出ていない。昨日、あの家で湯の器を持っていたときも出なかった。ナタルは肩が二回動いて、布に染みができた。わたしはそのあいだ、自分の喉のところを確かめていた。
二年経って、ここで出ている。
紙なら、あとから書けるだろうか。
部屋に戻って、机で、時間をかけて。字が汚くても、書いてしまえば形にはなる。
書くとしたら、宛名を一つ空けたまま書くことになる。空けたまま出す手紙のやり方を、わたしは知らない。
ナタルが横に来た。
上がってきた。
さっきまでは下で止まっていた。ここには来た。
来て、立った。
わたしの左に立った。左は斜面が開いていて、下から上がってくるものが見える。わたしは右にいる。右は岩で、上が塞がっている。
分けている。
言わないで分けた。夜番と同じだ。二人で座ると、いつもこうなる。
ここには見張るものがない。誰も上がってこない。それなのに、体のほうが先に持ち場を決める。
ナタルは何も言わなかった。
しゃがまなかった。手も出さなかった。石を見て、それから斜面の下を見た。
左手が握られていた。
親指が外に出ている。中に爪が当たる握り方だ。あの握り方をしたあとの掌には、三日月の形が残る。昨日、わたしの手を握ったときにも残っていた。
言わないほうがいい。
言えば、この子は手を開く。開いて、開いたことを見られたと思う。そのぶんが、あとで別の形で戻ってくる。
だから見なかったことにした。
先生に対して、昨日、同じことをした。二日で二回だ。見なかったことにするやり方だけは、わたしはうまい。
それでよかった、とは思わない。
ただ、いまここで手を開かせる言い方を、わたしは持っていない。
前は、自分の分になると手が空で戻ってきた。
ミラのお母さん宛ての手紙は手伝えた。あれはミラのぶんの言葉だ。人の分は言えて、自分の分は言えない。そういうものだと思っていた。
さっきのは、自分の分だった。
膝が抜けた。
決めていない。決める手順が動く前に、下から抜けた。斜面で膝が抜けると、上体だけが先に行く。
手をついた。
ついた先が、石だった。
日の当たっている面は温い。さっき土に置いた手は冷たかった。同じ斜面の、同じ日で、触るところで逆になる。
両手を石に置いていた。置いてから、置いたことに気づいた。
低いところに来たので、見え方が変わった。
石の縁の向こうに、くぼみが三つ並んでいる。石と三つが、同じ高さに見えた。立っているときは、石のほうが上にあった。
「……ただいま」
振り返った。
ルチアは斜面の途中にいた。
平らの端から、五歩か六歩ぶん上がったところで止まっている。手を前で組んで、こっちを見て、それから足元を見た。上げて、また下げた。
上がってこない。上がっていいかどうかを決めかねている立ち方だ。
わたしは手を伸ばした。
伸ばしてから、伸ばしたことに気づいた。
体が先に出るのは、いつものことだ。いつもは、先に出た体が誰かの喉のあたりに向かっている。今日は手だけが出た。開いて、上に向けて、そのまま止まっていた。
ルチアが上がってきた。
草を踏む音が五つぶん。
握られた。
温かい。指が細い。爪のところが丸い。何度も触っている手だ。
体は固まらなかった。固まらなかったことを、あとから確かめた。肩は上がっていない。息も詰まっていない。
「ルチア」
「うん」
「ここ、三人いるの」
ルチアは草の色の違うところを見た。
何が違うのかは、たぶんわかっていない。細いのと太いのの差は、知っていないと見えない。
それでも、そこを見て少し頭を下げた。
知らない人に、知らないまま下げた。
名前も聞かなかった。どうして三人なのかも、なぜ石がないのかも聞かなかった。聞かれたら、わたしは半分しか答えられなかった。
握られている手のほうが、少し強くなった。
強くなって、すぐ元に戻った。ルチアの手は震えていない。震えているのはこっちだ。震えているのに、離したいとは思っていない。両方が同時にあることが、前はわからなかった。
三人で、三つのくぼみの前に立っていた。
誰も何も言わなかった。日が岩のほうへ寄って、影が三つの上まで伸びてきた。
下りるとき、一度だけ振り返った。
三つのくぼみは、離れると見えなくなった。
草の色の違いは近くでしかわからない。離れれば全部同じ色だ。来年の夏には、たぶん、近くでもわからなくなる。細いほうが負けて、太いほうが入ってくる。
それでいい、とは思わなかった。
よくない、とも思わなかった。土はそういうふうにできている。
石だけは、まだ見えた。
離れても形が残っている。石は草に負けない。負けないように石にしてある。それを知っている人たちが、あそこを作った。
石の見えるところに、三つも入っている。
石を目印にすれば、たどり着ける。そう思ってから、思いついたのが今日だったことに気づいた。掘った日には、そこまで頭が回らなかった。
平らを横切って、分かれ目まで戻った。
先生は道の脇に立ったままだった。立ち方が、行きに見たときと同じだった。動かないで待つのは、この人の得意なほうだと思う。
ヴァイスさんは荷のそばにしゃがんでいて、こっちを見て、立った。
「道具は使いましたか」
「使ってないです」
「わかりました」
それだけだった。
効いたかどうかは聞かれない。この人は、使ったかどうかしか聞かない。使わなかったと言っても、顔が変わらない。
先生が歩き出した。
歩幅がいつもと同じだった。うしろを歩いても距離が変わらないので、下りは楽だ。
ナタルは先頭に出た。
下りの道を選ぶのはこの子だ。行きも上を選んだ。崩れる場所を覚えている人間が先に立つのが、いちばん速い。
村のほうを、もう一度見た。
屋根は三つ。煙は一つ。
あの人がどこにいるかはわからない。下の町か、南の谷か、どこかの家の中だ。家の中は公の場ではない、という線の内側で、子供に読みと書きと数の言い方を教えている。歌は十九。全部を知っていた人は去年の冬に死んだ。
お前の中にヴェルダは何が残ってる、と聞かれた。
数えろと言われた形だった。数えられなかった。制服も、言葉も、教科書も、向こうのものだ。出てくるものが一つもなかった。
いま、一つだけ言える。
あの三つがどこにあるかを知っているのは、たぶんわたしだけだ。
ナタルは掘っていない。三つには石も名前もない。新しい地図には、この村ごと載っていない。
石は隣にあるけれど、あれはうちのぶんだ。石の横に三つあることは、石には書いていない。書いてある人間が、わたしのほかにいない。
それが残っているものなのかは、わからない。
持っていると言えるのかもわからない。ただ、持たされたものではない。誰にも渡されていない。掘ったのはわたしの手だ。
戦い方は見つかったか、と聞かれた。
見つかっていない、と答えた。答えようがなくて答えた。
いまも見つかっていない。
今日、あの三つの前で、報告は途中で止まった。
番号のあとが続かなかった。第七歩兵小隊、と呼びかけているうちは、そこから先が無い。
呼び方を変えたら、言えた。
元気です、から始まって、屋根の話と、ごはんの話と、冬の話まで言えた。区切りながらだが、言えた。人の分は言えて自分の分は言えない、そういうものだと思っていたのに、言えた。
宛名だけが二つで止まっている。書くとしたら、そこを空けたまま書くことになる。空けたまま出す手紙のやり方を、わたしはまだ知らない。
最後の一言は、ただいま、だった。
言うつもりはなかった。膝が抜けて、石に手がついて、そこで口が動いた。組み立てたものではない。
あそこに寝ているのは、家の人と、小隊の人だ。二年のあいだ、その二つは別の場所にあった。片方は帰るところで、片方は帰らないところだ。同じ土に並んでいるのを見て、口のほうが先に一つにした。
先に動くのは、いつも手のほうだった。
上に行くと決めたのも、わたしだ。
行けと書いてある紙は来た。紙には墓のことは一行もなかった。あの分かれ目で上を選んだのは、紙ではない。誰にも聞かれていないし、誰も見ていない。それでも選んだ。
成果として数えるなら、どう数えるのかがわからない。ただいま、が何かの成果になるのかどうか、数える枠がない。
数えられないけれど、起きた。
ルチアの手は握れた。
ミラが手紙で詰まったとき、ミラのぶんの言葉なら出せた。
屋根の上で、ナタルと黙って並んでいられた。何も言わないで隣にいられるのは、誰にでもできることではない。
先生の授業で寝た。あの人の前で、体が沈んだ。
どれも戦い方ではない。剣でもない。
わたしの手が覚えているのは、人を壊す動きばかりだと思っていた。
喉の位置。手首の内側。防具のないところ。倒れた相手にもう一度当てる形。全部そのまま入っている。今日も、上に行っただけで足が持ち場を選んだ。
でも手は、もう一つ覚えている。
誰かの手を握る。誰かの隣に立つ。誰かの言葉を、その人のぶんだけ探す。
それが戦い方になるのかは、わからない。
なるとしても、どういう形になるのかがわからない。
今夜も関所の下の小屋で寝る。壁の薄い部屋だ。明日、峠を越える。
わたしはまだ、自分の戦い方を知らない。
知らないけれど、今日、体が先に出したのは、開いて上を向いた手だった。