小屋を出たのは、まだ暗いうちだった。
峠を越える馬車は朝に一本しかない。乗り遅れれば、もう一晩ここで寝ることになる。
寝台は板の上に薄いものを敷いただけで、寝返りを打つと下が鳴る。壁が薄いので、鳴った音は隣まで届く。
昨夜、隣で起きた音は一回だった。
一昨日は二回だった。
数えるつもりはないのに、数のほうが残っている。減ったことに気づいて、気づいたところで何をするわけでもない。ナタルに言うことでもない。
外に出ると、霧が下に溜まっていた。
谷の底だけが白くて、上は晴れている。この時間の霧は日が上がれば切れる。切れるまでのあいだ、下から来るものは見えない。前は、この時間に動いた。
荷は包み一つだ。
行きと同じ重さで、中身も同じだった。着替えと、紙が一枚。
持って帰るものは、何もない。
ミラに宿題を持っていけと言われた。向こうで何か食べて、好きだったら覚えてくればいいと。
食べたものは湯だった。器が二つしかない家で、二つのうちの一つをもらって飲んだ。味を思い出そうとすると、縁の欠けたところが先に出てくる。欠けた側が口に当たらないように、少し回して持った。そこは覚えている。
甘いものは無かった。蜂蜜も無かった。
あの谷から甘いものが消えて何年になるかは、数えれば出る。数えないでおいた。
関所までは上りが続く。
ナタルが先に立った。
行きも、この子が上の道を選んだ。崩れる場所を覚えている人間が先頭にいるのがいちばん速い。
ルチアの息が、途中から短くなった。
前を行くわたしの背中しか見えない位置にいるので、こっちが速度を落としても気づかれない。落とした。落としたことは言わない。
先生は後ろから来た。歩幅が変わらないので、後ろの音だけで距離がわかる。
ヴァイスさんはその前を歩いていた。荷が小さい。三か月ぶん通ってきて、この人が重いものを持っているのを見たことがない。
道が折れるところで、一度だけ下を見た。
昨日下りてきた道は、白いものの下にあった。谷の口も、その先も見えない。
下りてきた道を目で押さえておくのは癖だ。押さえられなかった。
白いものは動いている。待てば切れる。
待たなかった。
見えないままで、上を向いた。
関所の柵が、坂の上に出ていた。
兵が二人、荷を開けさせた。
行きと同じ手順だ。包みを開いて、中を見て、閉じる。わたしのは開いて三つ数えるほどで終わった。入っているものが少ないと早い。
先生が紙を出した。
一枚に二人ぶん書いてある紙だ。局の名前が上にあって、判が押してある。
一 カルヴァス。
二 フォルケ。
兵が上から下まで読んで、それからわたしとナタルの顔を順に見た。
行きは名前と顔を合わせていた。今日は数を合わせている。二人出て、二人戻る。合っていれば紙のほうは終わりだ。
減った数を確かめる紙を、わたしは前に見たことがある。
前の週のと今週のを並べて、消えている番号を数える。数えると人数が出る。あれと同じ書式で、今日は減っていない。
兵は紙を先生に返して、柵の横木を上げた。
名前が書いてあるのはこっちで、受け取るのはあっちだ。
行きも同じだった。あのときは手順として見ていた。今日は、手順の中の自分の位置のほうが先に目に入った。
乗り換えの馬車は、坂を下りたところに止まっていた。
王国側の馬車だ。幌が高い。行きに乗ってきたのと同じ大きさで、五人でも膝が当たらない。
積み替えを待つあいだ、柵の脇に立っていた。
谷のほうから、荷車も上がってくる。
待っているうちに二台通った。一台目は幌をかけた大きいので、御者のほかに二人乗っていた。紙を出して、兵が見て、それで上がった。荷は開けなかった。
二台目は小さい。片側の車輪が減っていて、荷は麻の袋が積んであるだけだった。乗っているのは一人だ。
柵の手前を通ったとき、干した草の匂いがした。
薬に使うほうの草だ。前線では、傷に当てる前に葉を潰して匂いを確かめた。間違えたものを当てると腫れる。
袋の口は一つずつ縛ってあった。数えたら九つある。あれを積んで、ここまで上ってきたことになる。
その一人は、柵の手前で止められた。
紙を出していた。兵が読んで、返して、何か言った。声は届かない。
男は同じ紙をもう一度出した。兵はもう受け取らなかった。
それから男は荷車の轅を持って、来た方に向き直した。押して戻すので、向き直すのに手間がかかっていた。
戻る道は下りだ。
下りに荷車を押して戻るのは、上るより難しい。車輪が勝手に走る。片側が減っているので、まっすぐにも行かない。
わたしはそれを見ていた。
たぶん、通していいかどうかの紙だ。
大きいほうには出て、小さいほうには出ないものが、この柵のところにある。それがどういう決まりなのかは知らない。商いの話だ。わたしの知っている種類の紙ではない。
知らないまま、荷車が坂を下りていくのを、最後まで見た。
「行くぞ」
先生の声で、目を戻した。
積み替えはまだ終わっていなかった。
ナタルが柵の内側の石に座っていた。
腰の高さの石で、上が平たい。座るために置いてある石ではないと思う。座れるから座っている。
わたしは隣に立った。座らなかった。座ると、立つのに一拍かかる。
「終わったな」
ナタルが言った。
「うん」
「次はいつだ」
「わからない」
紙が来れば来る。来なければ来ない。
自分で来ることもできる。峠の馬車の値段は、今度は自分で見た。手が届かない額ではない。休みの日数と、行って戻る日数を並べれば、足りるかどうかは出る。
「来ようと思えば来られる」
そう言った。
ナタルは何も言わなかった。
コップの縁をなぞるときの動きを、指が石の角でやっていた。角を二回なぞって、止めた。
「お前は来い」
「ナタルは?」
「わからん」
それで終わりだった。
わからんは、行かないという意味ではない。行くという意味でもない。この子のわからんは、そのまま置いておくやつだ。前線でもそうだった。答えを出さないで置いておける人間は、置いておける時間が長い。
ナタルが立った。
立って、馬車のほうへ行った。足音はしなかった。石の上でも、しなかった。
先生の荷は二つあった。
「先生、一つ持ちます」
「いい」
「持ちます」
一拍あった。
それから、先生は下のほうの一つをこっちに寄越した。寄越すまでが少し長かった。
受け取ったら、思っていたより軽かった。
出発の前に、面談室で、この人は頼まれていた。
戻ってきたら、あなたも面談に来てください。命令ではありません、お願いですと言われて、考える、と答えた。答えるまでが長かった。あのときの長さと、いまの一拍は、たぶん同じところから出ている。
行くのか行かないのかは、聞かない。
聞けば、この人は答える。答えられる形に整えてから答える。整える手間をかけさせるのは、いまではない。
荷は、持たせてもらえた。
持てるものは、それだけだ。
ヴァイスさんは、そのあいだ三歩ほど離れたところに立っていた。
この人の止まる位置は面談室でも道の上でも関所の前でも変わらない。
ナタルが先に乗った。
外の見える側に座った。
行きは、降りるほうに近い端に座っていた。幌の下の、いちばん暗いところだ。今日は反対側にいる。膝を寄せて、外を向いている。
わたしはそれを見て、口を開けかけて、閉じた。
聞くことでもない。
理由があるのかもしれないし、その席が空いていただけかもしれない。顔からは、どっちなのかも出てこない。この子の顔は、どっちでも同じ形をしている。
わたしは端に座った。
降り口に近い。悪くない席だ。ここからなら、幌の外に一歩で出られる。
ルチアが隣に来た。
先生が奥に座って、ヴァイスさんが荷を膝に載せた。
馬車が動いた。
下りは速い。
行きに息の変わった高さを、今日は逆から通った。
岩が減って、木が増える。丈の低い草が、途中から膝の高さのものに変わる。ここから下は雨が届く。届く高さと届かない高さのあいだに線があって、その線は目に見える。
森に入った。
炭になって折れた木が、また出てきた。
折れた面が黒い。周りに細いのが生えている。緑と黒が同じ場所にある。行きに見たときと同じ景色だ。同じ景色なのに、右と左が入れ替わっている。それだけで別の道みたいに見える。
数えなかった。行きも数えなかった。
数える癖はあるのに、ここでは数える意味が出てこない。
集落を二つ通った。
屋根の色が半分だけ新しいほうの集落で、新しい屋根が一つ増えていた。
行きに数えたのを覚えている。あのとき七つで、今日は八つある。十日で一つだ。
一つ増えたのがわかったのは、位置が端だったからだ。真ん中に混ぜて葺かれていたら、たぶん気づかなかった。
その先で、農地が来た。
刈り取りの終わった畑と、終わっていない畑が混じっている。行きに見た、倒れたまま茶色くなっている畑は、そのままだった。
刈る人がいないから、と行きに答えた。答えたときは、それで済んだ。
今日は、その先が少し出てきた。刈る人がいないのは、去年の冬にいなくなったのか、その前なのか。いなくなった先がどこなのかは、道からは見えない。
見えないものの話は、そこで止めた。
正午を過ぎたころ、揺れが変わった。
土から石になった。
石を敷いて、隙間を詰めてある道だ。継ぎ目で下から突かれるのが、同じ間隔で来る。数えられる揺れになる。
石はここまで敷いてある。
ここから向こうには敷いていない。敷くか敷かないかを決めた人が、どこかにいる。
行きに、同じ場所で石が切れた。
切れたところで体が一度、構えた。石を敷くのは、そこまでを自分の国だと思っている人間のやることだ。石の切れた先には、下がる場所がない。負傷者を送る先も、崩れたときに引く線もない。そう思って、それから、そこがわたしの生まれたほうだと気づいた。
今日は逆から入った。
規則的な揺れが戻ってきたときに、肩の力が落ちた。落ちてから、落ちたことに気づいた。
体は、石のあるほうを安全だと覚えている。
覚えてしまっているものを、あとから並べ替える方法を、わたしは知らない。
ヴァイスさんなら何か言うかもしれない。並べ直すのが、あの部屋でやっていることだ。今日は聞かない。聞かないで、揺れの拍だけ数えた。
風が幌の下に入るようになった。
日が傾いて、道の左から吹く。ルチアが肩を縮めた。
膝に掛けていたものを持ち上げて、半分をこっちに寄せた。何も言わないで寄せた。
そこで、口から出た。
三音の言葉だ。最初のところを伸ばす。
出そうとしていなかった。
ルチアが顔を上げた。
「今の、何?」
「……あ」
言われてから、出たことに気づいた。
口の中に残っている形をたどってみた。たしかに、こっちの言葉ではない。
「ありがとう。ヴェルダ語で」
「そうなんだ」
ルチアは膝のものを直して、それからこっちを向いた。
「教えて」
「え」
「今の。教えて」
わたしは少し考えた。
考えることは特にないのに、間が空いた。教えるという段取りを、口が知らない。
もう一度、同じように言った。
ルチアが真似た。
短い。
最初のところが伸びていない。伸びていないと、別の言い方になる。別の言い方でも通じるかというと、通じないと思う。通じない理由は説明できない。
「最初のとこ、もっと伸ばす」
「どのくらい?」
「……どのくらいだろう」
測ったことがない。
測る必要のあるものだと思っていなかった。母がそう言っていた。市の人もそう言っていた。伸ばす長さについて、誰かに教わった記憶はない。
膝を指で三回叩いた。
一つ目を置いてから間を空けて、あとの二つを詰めて叩いた。
「一つ目がこのくらい。二つ目と三つ目は、これの半分」
「一、二、三じゃないんだ」
「うん。頭が長い」
「なんで」
「そういうものだから」
答えになっていない。
なっていないのは自分でもわかった。文法の説明は持っていない。習っていないものは、理由のところが空のまま入っている。
人に何かを教えるのは、久しぶりだった。
村の学校で、年下の子に字を教えたことがある。
教えた形は覚えている。線を先に引いて、順番に足していく。どこから書くかを決めておくと、あとが崩れない。あのころは、そのくらい丁寧に書けた。
教わったほうがどうなったかは知らない。
今のは字ではない。順番も引けない。
できることは、自分でもう一度言って、聞かせることだけだ。それでもこっちが先に持っていて、向こうが持っていないものを渡している。形は同じだった。
ルチアはもう一度やった。
今度は伸びすぎた。
伸ばしすぎると、間延びして、呼ぶときの声になる。遠くの人を呼ぶときは、たしかに頭を長く引く。似ているけれど別だ。
「長い」
「難しい」
「難しくないよ。三つしかないもん」
「三つしかないのに難しいの」
ルチアが眉のところを下げた。困った顔で笑うので、こっちも口の端が動いた。
そのとき、前のほうから短く声がした。
ナタルだ。
一度だけ、その言葉を言った。
外を向いたまま言って、それきり黙った。こっちを見ていない。
ルチアがナタルの音を真似た。
近くなった。
「今の、近い」
「ほんと?」
「うん。ナタルの喋り方のほうが、元のに近い」
ナタルは何も言わなかった。膝を抱えたまま、外を見ている。
訛りはこの子のほうが強い。学院の教科書を読むのが遅いのも、そこだ。遅いのは、こっちの音を先に持っていたからだ。
ルチアが四回目をやった。
出た。
頭が長くて、あとの二つが短くて、終わりが少し上がる。
言った本人が、言ったあとで自分の口を押さえた。押さえてから離して、もう一度言った。二度目も出た。
「できた」
「できたね」
ルチアがこっちに向き直った。
それから、わたしに向かって、その言葉を言った。
礼を言う言葉として言った。
さっきまでは音を練習していただけで、意味のほうは横に置いてあった。今のは、そうではなかった。
わたしは返す言葉が出てこなくて、黙った。
黙ってから、笑った。
遅れて出た。口の端が先に上がるやつではなくて、下のほうから来て、あとから顔になるほうだ。
ルチアも笑った。
自分の発音がおかしかったから笑ったのだと思う。わたしのは違うところで笑っている。それでも二人で笑っているので、外から見れば同じに見えるのだろう。
ヴァイスさんが目を開けていた。
いつから開けていたのかは見ていない。開けて、こっちを見て、また閉じた。何も言わなかった。
先生は外を見たままだった。
横顔が動かなかった。この人は、聞こえていても顔を動かさない。
しばらく、揺れの音だけになった。
ルチアは覚えた言葉を、声を出さずに口の形でやっている。膝の上で指を三回叩いて、また口を動かす。
覚え方が丁寧だ。この子は弟に何かを教えるとき、いつも図を描くと言っていた。教わるほうも同じやり方をするらしい。
わたしは膝の上の包みに手を置いて、考えていた。
墓の前では、途中で止まった。
番号と、自分の名前だけが出て、そこで終わった。
さっきのは、止まらなかった。
出そうと思っていなかったから止まらなかったのか、相手がルチアだから止まらなかったのかは、まだ分けられない。
出たものは、向こうに入って、形を変えて戻ってきた。四回かかった。
戻ってきたとき、体は何もしなかった。
肩は上がらなかったし、息も詰まらなかった。あとから確かめたので、確かめている時点で、もう終わっている。
あの言葉を人から向けられたのが、最後にいつだったかをたどってみた。
市の帰りだ。
荷を二つに分けて、母が軽いほうをこっちに寄越した。買ってもらったのはこっちなのに、あっちが言った。歩きながら言ったので、こっちは前を向いたままだった。
そういう場面で出る言葉なのだと思う。膝の上のものを半分寄せられたときに口から出たのは、たぶん、そこと繋がっている。
村の名前を、口の中で作ってみた。
二音だ。母が呼んでいた呼び方と、外の人が呼ぶ呼び方が少し違う。どっちも知っている。
息だけ出た。
そこは変わっていない。
骨と筋と皮膚しかないところで止まる。三音のほうは通って、二音のほうは通らない。どっちが長いとか短いとかの問題ではないらしい。
通るものと通らないものが、同じ日の同じ馬車の中にある。
片方が出たから、もう片方も出るということにはならない。並べても、混ざらない。
こっちの言葉は、まだ渡せない。
でも一つは渡した。
数えろと言われた。
石板の前で、お前の中にヴェルダは何が残っているかと聞かれて、一つも出てこなかった。制服は支給で、教科書は向こうのもので、試験の正解は村を焼いた側の言い分だ。数えるものがなかった。
いま数えるなら、三音の言葉が一つある。
それで答えになるとは思っていない。
言葉を一つ教えたところで、あの人の彫っている石は一枚も増えない。歌は十九のままだ。全部を覚えていた人は去年の冬に死んで、そこは戻らない。
ただこっちから出て、向こうに入った。
入ったものは、ルチアの中で、ルチアの発音で残る。わたしが忘れても、あっちに残る。
残し方の一つだとは、思う。
これが戦い方なのかどうかは、まだわからない。
石の道が続いていた。
継ぎ目の揺れが規則的に来る。数えられる揺れだ。数えなくても、体のほうが拍を取っている。
外の景色は、王国の色になっていた。
畑が四角い。境に石が積んである。道の脇に木が並んで植えてある。植えた人がいる並びだ。あの谷にはこういう並びが一つもなかった。木は生えているところに生えていた。
見たものを、順番に置いてみた。
順番にならなかった。
草の色が違う三つのくぼみと、村の名前を彫った十四枚の石板は、並べても同じ高さにならない。片方は誰にも知られていなくて、片方は知らせるために彫ってある。並べると、どちらかが薄くなる。
置き直すのをやめて、近いところから来るのに任せた。
井戸の前で、三人の目がナタルにだけ向いた。わたしには向かなかった。
向かない理由のほうを、あの人たちは知らない。知らないまま、目だけが正確に分けている。
そのあとに、外套に泥のついていない人が来た。
歩いてきた人の外套ではなかった。柔らかい言い方をして、祖国のために使えると言った。
使えるという言い方を、あの人はいい意味で使っている。収容所で同じ言葉を聞いたときは、そういう意味ではなかった。同じ言葉が、置く場所で向きを変える。
全部、見た。
見たものは消えない。学院に戻っても、消えない。あそこに何もなかったことにはならない。
紙が来て、行った。
紙には、出身地域への帰省と書いてあった。墓のことは一行も書いていない。
あの折れ角で、白いのが切れるのを待たなかった。あれは紙にやらされたことではない。
局の紙には番号が振ってある。一と二だ。
あの人の言い方では、わたしは、いつか祖国のために使える人間だった。
先生は、兵士じゃない、生徒だと言った。あれは言われて嬉しかったほうだ。嬉しかったけれど、決めたのはあの人だ。
どれも、こっちが決めたものではない。
ここから先は、自分で決める。
決めると言って、決める中身はまだ出てこない。戦い方も、そこに入っている。
出てこないのに、戻ってから起きることなら、いくつも出る。
食堂に行けば、壁際の席が取ってある。頼んでいないのに取ってある。いつから取っているのかを、こっちは知らない。
面談は十六回目になる。回数はこっちが勝手に数えているだけで、ヴァイスさんは一度も言わない。
授業が溜まっている。ノートを写させてもらうことになる。写させてもらうと、余白の落書きまで写ることがある。
これも、こっちが決めたものではない。
同じ言い方なのに、向きが逆だ。
番号を振られるのと、席を取っておかれるのは、頼んでいないのに来るところまでが同じで、そこから先が違う。
頼んでいないのに来るものは、ずっと、避けるか身構えるかのどちらかだった。
ミラの席には、行く。
出てこないのと、止まるのは、別だ。
止まらないと決めた。
あの折れ角で上を向いたのと、同じ種類のものだ。誰にも聞かれていないし、誰も見ていない。
「リーネ」
ルチアが呼んだ。
「うん」
「大丈夫?」
行きの馬車で、同じように呼ばれた。
あのときは返事の形が組み立たなかった。口は開いたのに、息だけが出た。ルチアは二度目を呼ばないで、わたしの手のそばに自分の手を置いた。触らないで、置いただけだった。
今日は、返す形がある。
「大丈夫じゃない」
「うん」
車輪が石の継ぎ目を越えた。
下から一つ突き上げて、幌が鳴って、また同じ間隔に戻った。
「それでも、一歩ずつ進んでいこうと思う」