ミラのノートを写していた。
ヴェルダに行って帰るのに十日かかった。授業も十日ぶん抜けている。帰りの馬車で写すつもりだったが、揺れて字にならなかったので、結局こうなった。
ミラの字は丸くて、行の高さが揃っている。写していると、こっちの字が右に倒れていくのがよくわかる。同じ紙の上に並べると、片方だけ坂を下りている。
帰った次の朝、ミラは何も言わないでノートを机に置いていった。
中は教科ごとに紙が分けてあって、上のところに教科の名前が書いてある。日付も入っている。貸すために作った並べ方だ。作ったのは、こっちがいないあいだになる。
魔法理論の五枚目に、余白の絵があった。
器の絵だ。丸の下に足がついていて、上に細い線が三本、うねって立っている。湯気のつもりだと思う。授業を受けながら、腹を減らして、湯気を描いている。
写す必要はない。写した。
放課後の教室には、二人しかいない。
日が低くなって、机の端まで光が来ている。埃が光の中だけ見える。
鞄は椅子の脚のそばに置いてある。置く場所は考えないで決まる。
ミラは一つ前の席に横向きに座って、便箋を広げていた。
三行だけ書いてある。
書き出しの一行と、あとの二行。ペンは持っているが、三行目の終わりで止まっている。ペン先のインクが乾いて、光の当たり方が変わった。
一度、便箋を裏返した。裏には何も書いていない。裏返して、また戻した。
好きな食べ物を一つに絞る、というのを、ミラからずっと言われている。何が好きかと聞かれても自分の中から出てこないので、出されたものを一つずつ食べて、そのたびに判定している。まだ絞れていない。
出発の前に、向こうで何か食べて、好きだったら覚えてこい、と言われた。それが宿題だ。
戻ってきた日、ミラはその話をしなかった。
二日目もしなかった。
戻って三日目の今日、便箋から顔を上げないまま聞いてきた。
「宿題、どうだった」
「湯」
「え」
「湯だよ。器が二つしかない家でさ、片っぽ借りて飲んだ」
ミラがペンを置いた。
「味は」
「んー……縁が欠けてたのが、先に出てくる」
「縁?」
「欠けてないほうを口にしようと思って、回して持ったの。そっちばっかり覚えてる」
指で、器を回す形をやってみせた。ミラが見ていた。
「味は?」
「あんまり覚えてない。ごめん」
「なんで謝るの」
「宿題だから」
「宿題ってそういうんじゃないよ」
「甘いのは」
「無かったよ。蜂蜜も無かった」
ミラが口を開けて、閉じた。
「じゃあ、まだ決まってないんだ」
「決まってない」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。焼けていたのかとも、誰がいたのかとも聞かない。出発の前に引いた線を、同じ場所に引き直している。
聞かないと決めたところは、こっちにもわかる。
わかるのに、その線の内側から、ミラの話が一つも出てこない。
前線に、戻ってきた奴を見るときの見方がある。
歩き方と、荷の持ち方と、返事が返ってくるまでの速さを見る。歩けるか、使えるか、後ろに下げるかを決めるためだ。決めるのは短い時間でやる。長く見ていると、決めたくなくなる。
その見方で、三日、ミラを見ていた。
決めることは何もないのに、見ていた。
数えると、いくつか出てくる。
年号が多すぎる、頭がパンクする、という話をしなくなった。
うちの菓子を持ってくる、という話も言わない。持ってはくる。言わないで置いていく。
手紙が来た日に「母さんがさ」と切り出すのが、なくなった。手紙は来ている。受付の棚から取っているのを見ている。
食堂で先に食べ始めるのも、なくなった。待つのが嫌いな子なのに、こっちが座るまで匙を持たない。
手紙を書く場所も変わった。前は食堂の隅で、書きながら口に出していた。今日はもう誰もいない教室にいる。
制服の袖口が繕ってある。前は繕っていなかった。糸の色を近いのに合わせてあるので、光の向きが変わるまで気づかなかった。
今日も、来てすぐ焼き菓子を一つ机に置いていった。
包みは家のやつだ。紙の合わせ目が同じ折り方をしている。置くとき、何も言わない。前は、うちの新しいやつだから食べてみて、と一続きで喋っていた。
席は取ってある。
謹慎で部屋から出られなかったあいだも、壁際の出口に近いところに盆が二つ置いてあったらしい。ルチアが言っていた。ミラは言わない。
戻った日の夕方、食堂の入口で足が止まった。
壁際に盆が二つ置いてあって、片方の前にミラが座っていた。座って、匙を持たないで待っていた。パンは冷めていた。冷めたパンが置いてあるということは、取ったのが早い時間だということだ。
出発の前に、何日で帰るのかと聞かれた。十日、たぶん、と答えた。ミラは、じゃあ十日目から毎日取る、と言った。
実際に戻ったのが何日目だったか、こっちは数えていない。何日ぶん取ったのかも聞いていない。聞いても言わない。
こっちの話は聞く。焼き菓子は持ってくる。ノートは貸す。
自分の話だけが、ない。
「ミラ」
「んー」
「家のこと、まだ大変なの」
ペンが止まった。
止まっていたものが、もう一段止まる止まり方をした。
「なんで」
「言わなくなったから」
「言ってるよ、いろいろ」
「いろいろは言ってる。自分のは言ってない」
ミラがこっちを見た。そばかすのところに光が当たっている。
「大丈夫だよ、うち」
速かった。
用意してある答えは速い。考えて出す答えには、出る前に一拍ある。
前線で、そこの道は通れるかと聞かれたときの返事がそうだった。通ったことのある道の話をするときは、思い出すぶん遅れる。通ったことがないのに通れると言うときだけ、速い。
速い返事は、前に作ってある。
「言っていいんだよ」
「何を」
「ミラの、大変なほう」
ミラが便箋の端を折った。折って、指で押さえて、また伸ばした。
「わたしのほうが大変とか、そういうのないから」
「あるでしょ」
「ないってば。うちのなんて、お金の話だもん」
便箋の端を、また折った。同じところを折るので、そこだけ白くなっている。
言い方を探した。うまいのは出てこない。
出てきたのは、前線の話だった。
「前線でさ、怪我した奴が並ぶと、順番を決めるんだよ」
ミラが顔を上げた。
「腹をやられたのが先。腕の切り傷は後ろ。それは決まってるからいいの。困るのはね、後ろのやつが、自分から後ろに行くこと」
「……自分から?」
「うん。おれのは軽いんで、って言うの。手も挙げない。並びもしない」
包みの紙を、指で押さえた。押さえると音が鳴るので、離した。
「軽いって自分で言った奴が、いちばん見られないんだよ。誰も見てないから、夜に熱が出ても気づかれない。朝いない、ってなる」
言ってから、繋がっていない気がした。ミラは怪我をしていない。順番を決める人もここにはいない。
それでも、近いことを言っている。
「ミラが小さいって言ったら、わたし、そのまま信じるよ」
「信じていいよ。ほんとに小さいもん」
「信じたら、聞かないもん。聞かないで、そのままにしちゃう」
ミラが口を開けて、閉じた。
たぶん、そうなる。人の顔色を読むのは体が勝手にやるけれど、読んだあとで何もしないことがある。読むほうは前線で覚えた。そのあとどうするかは、誰にも教わっていない。
「あとさ、並べなくていいよ。ミラのと、わたしの」
「並べてないよ」
「隣に置いたらちっちゃい、って言ったじゃん」
ミラが便箋のほうを見た。
「並べる場所、こっちが作っちゃったんだと思う。だから、そこは気にしないでいいよ」
長い間があった。
廊下の向こうで、扉が閉まる音がした。遠い。
「……ずるい、そういう言い方」
「ずるいかな」
「ずるいよ。言うしかなくなるじゃん」
「うん。言ってほしい」
ミラの目に、光が溜まった。
溜まってから落ちるまでが長い。落ちる前に、ミラが手の甲で押さえた。押さえたので、落ちる場所が変わっただけだった。
「……奨学金、まだ綱渡りなの」
声が詰まっている。
「今月の実技、下から五番目だった。剣、構えるだけで腕が震えるんだよ。振ってもないのに。詠唱は五語目で舌がもつれる。筆記で押し上げてるけど、押し上げきれてないの」
「うん」
「次の申請、成績表を付けるの。今の点だと、たぶん通らない。通らなかったら、来年ここにいない」
「うん」
「帰って、店に入るの。それは、べつにいいんだけど」
ミラが袖で目のところを拭いた。
「母さん、泣くと思う。無理させたって言って、泣くの。わたし、それがいちばん困る」
「うん」
「あと、仕送りが十日遅れた。遅れたって手紙には書いてない。でも来る日でわかる。母さん、遅れたことは絶対書かないから」
「うん」
「店も、よくなってない。ぜんぜん」
そこで息を吸って、鼻をすすった。
「でも、こんなの言えないでしょ」
「なんで」
「なんでって……リーネちゃんの隣に置いたら、ちっちゃいでしょ。お金の話だよ。順位の話だよ」
「小さくないよ」
「小さいってば」
「来年ここにいないかもしれない、って話でしょ。小さくないよ、それ」
ミラが何か言おうとして、口が止まった。
「お金の話だから小さい、っていうのが、わかんない。お金がないと来年いなくなるんでしょ」
ミラが黙った。
包みの紙を、また指で押さえた。今度は音が鳴っても離さなかった。
「わたし、来年も、ミラに席取っといてほしいんだけど」
ミラが顔を上げた。
「頼んだことなかったなと思って。取ってもらってばっかりで」
ミラが泣きながら笑った。
笑ったので、押さえていたほうも落ちた。落ちて、便箋の端に丸い染みが一つできた。ミラが慌てて袖で拭いて、紙が波打った。
「にじんだ」
「書き直せば」
「書き直すよ。三行だけだもん」
ミラが話し始めた。
一度出ると、続けて出る。前線でもそうだった。黙っている奴に一つ出させると、そこから全部出てくる。出したあとに困るのは本人だが、出さないでいるよりはましだ。
「うち、菓子屋なんだけどさ」
「うん。南通りの」
「菓子だけじゃないの。ヴェルダの山のほうから、薬草と、染料の原料を仕入れて、王都で卸してた。それが本当の稼ぎだったんだって。菓子は表の店」
「うん」
「薬草って、どこが買うの」
「治癒院と、薬屋。ヴェルダの山のは効きが違うんだって。父さんがそう言ってた。ほんとかどうかは知らないよ。でも、その効きが違うやつを買いにくる人が、ちゃんといたの」
「今は」
「今は来ない。無いものは売れないから」
ミラが便箋の端をまた折った。
「山を越えて背負ってくる人たちがいたの。その人たちが来なくなって、そのあと村が焼けたって聞いて」
ミラが便箋をどけて、机に肘をついた。
「道が止まって、そのあと、峠のところで紙がいるようになったの。通っていい紙。大きい商会には出るけど、うちみたいなのには出ないんだって。父さんが二回行って、二回とも出なかった」
紙。
峠で見たものが、そのまま上がってきた。
坂の上に柵があって、荷車が二台通った。一台目は幌をかけた大きいので、御者のほかに二人乗っていた。紙を出して、兵が見て、それで上がった。荷は開けもしなかった。
二台目は小さかった。片側の車輪が減っていて、麻の袋が積んであるだけだった。乗っているのは一人。
柵の手前を通ったとき、干した草の匂いがした。傷に当てるほうの草だ。袋の口は一つずつ縛ってあって、数えたら九つあった。
男は紙を出した。兵が読んで、返して、何か言った。男は同じ紙をもう一度出した。二度目は受け取らなかった。
それから男は轅を持って、来たほうに向き直した。下りに荷車を押して戻すのは、上るより難しい。車輪が勝手に走る。片側が減っているので、まっすぐにも行かない。
見ていた。最後まで見て、商いの話だと思った。
決まりは知らないから、知らないままで見た。
「それにさ」
ミラが続けている。
「今はもう、王都の大きいところが直接ヴェルダまで行くようになったんだって。関所の向こうに店を出して、山の村から直に買うの。そうなると、間に入るうちみたいなのは、いらないの」
「お父さんは、今どこ」
「北のほう。町を順番に回ってる。焼けた村の代わりになるところを探して、ひと月に一回帰ってくるかどうか」
ミラがペンの尻で便箋を軽く叩いた。
「店は母さんが一人で開けてる。だから手紙、いつも母さんの字なの」
「うん」
「わたし、返事に、父さんは忙しいんだねって書くの。毎回それ。寂しいとは書かない」
「なんで」
「書いたら、母さんがもっと心配するから。父さんだって遊んでるわけじゃないし」
そう言って、ミラは便箋のほうを見た。三行で止まっているやつだ。
書けないことを抜いていくと、三行になる。
覚えがある。報告書は書ける。書けないところを抜いても、報告書は形になるからだ。形になるので、そのまま出せてしまう。
ミラが膝の上の手紙を広げ直した。
「これね、半分は、わたしの心配なの。ちゃんと食べてるか、寒くないか、風邪ひいてないか。それが先に来るの。店の話はいつも後ろ」
「読んでよ」
「やだよ、恥ずかしい」
そう言いながら、指で行を追った。追って、途中で止めた。
「ここだけ、字が強いんだよね」
「なんて書いてあるの」
「融和政策のおかげで、大きいところが直に買いに行けるようになりました、って」
ミラが手紙から目を上げた。
「母さん、腹が立ってるときだけ、そういう書き方するの。丁寧なまま、字だけ強くなるの」
その言葉は、こっちに来た紙にも書いてあった。
局の名前が上にあって、判が押してあって、一と二の番号が振ってある紙だ。あれには、帰れ、と書いてあった。
ミラの家に来たほうには、いらない、と書いてある。
「ヴェルダの村の名前、書いてある?」
「え」
「焼けたっていう、その村」
ミラが手紙をめくって、そこだけ読み上げた。
三つの音の名前だった。
うちの村は二音だ。谷の名前の付き方には決まりがあって、水のあるほうと、風の抜けるほうで頭の音が違う。三音のほうは、峠に近い側の付き方だと思う。
思うだけだ。
「知ってる?」
「知らない」
「そっか」
「焼けたのは一つじゃないから」
言ってから、言い方を間違えたと思った。
訂正しなかった。訂正すると嘘になる。
ミラが手紙を膝に置いた。
「ミラ」
「うん」
「帰りに、峠のところで荷車を見たんだ」
見たままを、順に話した。
話しているあいだ、ミラは一度も口を挟まなかった。挟まないで、袋の数のところだけ、指を折って数え直していた。
「そのときはさ、荷物の話だと思って見てたんだよ。紙の決まりとか知らないから」
「その人、どうなったの」
「わかんない」
「わかんないの」
「坂の下まで見たとこで、馬車が動いちゃって。戻って出直したのかもしれないし、そのままかもしれない。そこは見てない」
見ていないことを、見たみたいには言えない。
「ミラのお父さんが二回もらえなかったの、あの紙だよね」
ミラが黙っている。
「あの紙が下りないのと、わたしの村が焼けたのは、繋がってるよ」
ミラの肩が動いた。
「別のところで起きてるだけで、同じ戦争だよ」
長い間があった。
外で誰かが走っていく音がした。廊下ではなく、中庭のほうだ。
「……知ってた」
ミラが言った。
「知ってた」
「うん」
「一人で、ずっと思ってた。手紙にヴェルダって書いてあった日から。うちの帳簿と、リーネちゃんの体は、同じところから来てるって」
「言わなかったね」
「言えるわけないでしょ」
ミラがこっちを見た。目が赤い。
「言ったら、リーネちゃん謝るもん」
「……」
「絶対、自分のせいだって思う顔するもん。飴くれた人の村が焼けたのも、うちの店が傾いたのも、リーネちゃんは一つも決めてないのに。決めた人は別にいるのに」
喉のところまで来ていた。
ごめん、の形をしていた。
「……いま、言いそうになった」
「言わないで」
「言わない」
言わないと言ったのに、まだ喉のところにある。押し戻しておかないと、そのうち勝手に出る。
飲み込むのは得意なほうだ。二年、そればっかりやっていた。
「がんばって言わない」
ミラが噴き出した。噴き出してから、そのまま机に額をつけて、声を出して泣いた。
さっきのとは違う泣き方だった。さっきは詰まる音がしていた。今のは詰まっていない。
背中が上下している。おさげの片方が机に落ちて、そこだけ光っている。
手を、机の上の、少し離れたところに置いた。
触らなかった。
行きの馬車で、こっちがそうしてもらった。返事の形が組み立たないでいるとき、ルチアが手を触らずに置いた。あのときは何が置かれたのかわからなかった。
同じ置き方になった。
ポケットに手を入れた。
硬いのが二枚あった。数えるまでもなく、二枚で何が買えるかは知っている。市場の屋台で、小さい包みが一つだ。菓子屋の帳簿の桁とは、並べる場所が違う。
手を出した。
峠の紙は、こっちが持っている紙とは種類が違う。局の判が押してある紙は、あの兵の前では役に立たない。帳簿は見たこともない。仕入れ先の村は焼けていて、焼けた村は元に戻らない。
出せるものが、一つもない。
前線で出せるものがないときは、夜番を代わった。
代われば、その晩だけは寝られる。寝ても翌日は同じだが、その晩は寝られる。
ここには夜番がない。代われるものが、何もない。
一つもないまま、そこに座っていた。
光が机の端から落ちた。
床のほうが明るくなって、天井の隅が暗くなった。夕方はいつも、そういう順番で来る。
ミラが起き上がって、便箋を新しいのに替えた。
にじんだほうは畳んで、鞄に入れた。捨てなかった。
ペンが動き始める。書いて、止まって、また書く。
こっちはノートに戻った。魔法理論の六枚目は図が多い。図は写すのに時間がかかる。
机の端の焼き菓子を割った。
硬いので、割れ方が揃わない。大きいほうを、ミラの手が届くところに置いた。
ミラは顔を上げないで取って、口に入れた。取るのは速い。
しばらく、紙の音だけしていた。
「ねえ、リーネちゃん」
ペンが止まっている。
「うん」
「うち、昔、ヴェルダの人が来てたの」
「うん」
「山越えてきて、店の裏に荷を下ろすの。薬草の袋と、染料の袋。言葉に癖があって、最初は半分くらいしか聞き取れなかった」
ミラがペンを置いた。
「わたし、小さいころ、飴もらったの。ヴェルダの飴だって言ってた。硬くてね、蜂蜜の味がして、口の中で長く残るの。あれ、王都には売ってなかった。あの人が来るときだけ、もらえた」
「うん」
「手を出すと、掌にころんて落としてくれた。ごつごつした掌だった。荷背負う人の手」
ミラが自分の掌を見た。
「父さんが、その人と店の奥で酒飲んでたの。言葉が半分しか通じてないのに、二人とも笑ってた。わたし、それを隙間から見てた」
「うん」
「あの人たちの村だと思うんだよね。焼けたの。わかんないけど」
わかんないけど、と言ってから、ミラは黙った。
こっちからも、一つ出てきた。
探して出したのではない。ミラが飴を出したので、勝手に上がってきた。
「うちの村の隣の谷に、市が立ってたよ」
ミラが顔を上げた。
「月に一度。歩いて行くの。片道が長いから、暗いうちに出る」
「歩いて?」
「馬車はないよ。着くころに日が上がってて、着いたらもう人がいる。早い時間のほうが物がいいから、みんな早く出るの」
「どんなとこ」
「屋根はないよ。地面に布を敷いて、その上に置いて売るの。入口の右手が食べ物で、奥が布と革。蜂蜜は右の奥の一角にあった」
「蜂蜜」
「ヴェルダは砂糖がないから、甘いのは蜂蜜。壺に入ってて、量り売り。いくらぶんって言うと、その場で量ってくれる」
ミラが目を丸くした。目を丸くする顔は、前から変わっていない。
「母さんはいつも同じ量を言った。それより多く言ったことは、一度もない」
「多く言えばいいのに」
「売る人が毎回、もう少し入れとくよって言うの。母さんは毎回、それでいいですって言う。二人とも、言うことが決まってるの」
「決まってるのに、毎回言うんだ」
「毎回言う。毎回同じ顔でやるんだよ」
「味見は」
「させてくれるよ。店の人の匙で。一杯だけ」
「一杯だけ」
「一杯。二杯目はない」
「けち」
「けちだね」
ミラが笑った。
「母さんと二人で行って、帰りは荷を分けて持つの。重いほうを母さんが持って、軽いほうをこっちに寄越すんだけど、寄越し方が下手で、こっちのがだんだん重くなってくる」
言いながら、そこで一度止まった。
匂いのところまでは来た。壺の口を開けたときの匂いまで来て、味のところで止まる。止まる場所はいつも同じだ。
同じだとわかっているのは、二か月かけて同じあたりを回ったからだ。
「その集落、今はもう誰もいないよ。焼けて、戻ってきてない」
「誰もいないんだ」
「うん」
ミラがペンを取った。
「それ、書いていい?」
「何を」
「壺の話。量り売りの」
「いいよ」
「母さん、たぶん、あの人たちのこと思い出す。飴の人の。蜂蜜の味だったから、あれ」
「名前、書く? その集落の」
「やめとこう」
「なんで」
「書いたら、たぶん探すよ。地図で。載ってないから、探しても出てこない」
ミラがペンを止めた。
「載ってないんだ」
「うん」
「そっか」
ミラが書き始めた。
書いて、消して、また書いた。消したところが黒く残る。もう一箇所、同じことをした。
「うわ、跡ついた」
「書き直せば」
「いい。書き直すと、また消すもん」
ミラが便箋を持ち上げて、そこだけ読み上げた。
「ヴェルダには、蜂蜜を壺から量って売る市があったそうです。味見をさせてくれて、匙で一杯だけだそうです」
「そうです、なんだ」
「だって、わたし行ってないもん」
そう書くほうが正しい。行っていない人間が、行った顔で書かないほうがいい。
ミラが便箋を光にかざした。消した跡が二つ、透けて見えた。
「母さんの手紙、いつもこうなんだよね。同じところ二回も三回も書き直してあるの。心配性だから」
「似てる」
「似てない。あっちは字がきれいだもん」
跡のあるほうを、そのまま封に入れた。
ミラが封をして、鞄に入れた。
「明日、出す」
店は傾いたままだ。奨学金も綱渡りのままだ。峠の紙は、明日も小さい荷車には下りない。
こっちから出せるものは、やっぱり一つもなかった。
ノートに戻った。六枚目の図は、線が一本足りていない気がする。写した図と、写す前の図を並べて、どこが足りないのか探した。
「リーネちゃん」
「うん」
「明日も、席取っとくから」
「うん。取っといて」
断らなかった。断る理由を探すのも、やめた。
隣で、鞄の留め具が鳴った。
便箋の中に、壺と、匙が一杯ぶん入っている。
それが明日、南通りまで行く。