ルチアは手紙を畳めないでいた。
窓側のベッドに腰掛けて、便箋を膝に置いている。
読み始めてから、ずいぶん経つ。
二枚あるうちの二枚目を開いたところまでは見ていたけれど、それから紙が動いていない。
机の上には白い封筒がある。
赤い封蝋は割れて、家紋の半分が封筒に残り、もう半分が小さな欠片になって灯りのそばに落ちていた。
消灯まで、まだ少しある。
わたしは壁側のベッドで、写し終わったノートを教科ごとに揃えていた。
十日ぶんあった紙は、今日でようやく全部写し終わった。
ミラの字はまっすぐで、わたしの字は右に倒れている。
重ねると端から少しずつはみ出すので、机に当てて揃え直した。
紙の端がこつこつと二度鳴った。
その音にも、ルチアは顔を上げなかった。
家から来た手紙には母親の話と弟の話が入っていて、弟のところで少し笑う。
返事を書くときには、弟の字がまた崩れていたとか、母親が市場で見つけた布の色がどうだったとか、聞いていなくても話してくることがある。
今日は一度も笑っていない。
便箋を持つ指が、同じ場所を押さえたままだ。
折り目のすぐ上だけが、指先に隠れている。
いつもは読み終えると、一枚目と二枚目の角を合わせ、届いたときの折り目を指でなぞって戻す。
今日は二枚目の下端が寝巻きからはみ出し、灯りの熱でわずかに反っていた。
一度だけ親指が折り目へ動いたけれど、紙を押す前に止まった。
畳めば封筒には戻せる。
戻したあとの置き場所が決まらないみたいに、手だけが紙の上に残っていた。
わたしは揃えた紙を机に置いた。
「ルチア」
返事がなかった。
聞こえていないわけではない。
呼んだとき、便箋を押さえていた人差し指が少しだけ曲がった。
「どうしたの」
ルチアが顔を上げた。
灰青色の目が、灯りの下でも暗く見えた。
泣いてはいない。
目の縁も赤くない。
ただ、口元が動かない。
「何でもないよ」
言い切る前に、声が止まった。
何でもない。
そこまでの形を作って、最後の音だけ出さなかった。
ルチアは膝の手紙に目を落とした。
便箋の端を持ち上げる。
畳むのかと思った。
持ち上げただけで、また置いた。
紙が膝の形に沿って、浅く曲がった。
「……リーネに話したいことがある」
「うん」
すぐに答えた。
答えてから、ベッドの端に座り直した。
わたしたちのあいだには、部屋の真ん中がある。
机が二つと椅子が二脚。
手を伸ばしても届かない距離だ。
近づいたほうがいいのかは、わからなかった。
ルチアは近くに来てほしいとは言っていない。
だからそのまま待った。
廊下を寮監の見回りの足音が通った。
部屋の前は通り過ぎる。
隣の部屋から、水を汲む音がした。
壁が薄いので、器を置く小さな音まで聞こえる。
ルチアは手紙の一枚目を二枚目の下から引き抜いた。
順番を入れ替えた。
また戻した。
「家から、縁談が来てるの」
縁談。
意味は知っている。
貴族の家の子が、別の家の誰かと結婚する話だ。
歴史の授業にも出てきた。
国境の領地同士を婚姻で結んだとか、王家の娘を隣国へ嫁がせたとか。
そういう大きい話の中で使う言葉だと思っていた。
目の前のルチアと、その言葉がすぐには繋がらなかった。
「ルチアが、結婚するってこと?」
「まだ決まってない」
返事は速かった。
何度も自分に言ってきた言葉なのだと思う。
「決まってはいないの。相手の家から、話が来ているだけ」
ルチアは一枚目を広げた。
「王都の上位貴族の家。次男の方だって。わたしより三つ上で、宮廷の仕事に就く予定だって書いてある」
そこまで言って、紙を少し押しやった。
「会ったことあるの?」
「一度だけ。小さいころ、家にいらしたらしいの。でも覚えてない」
「じゃあ、知らない人だ」
「そうだね」
ルチアの声が小さくなった。
知らない人と結婚する。
貴族なら珍しくないのかもしれない。
知らない人と同じ部隊に入れられるのは普通だった。
名前も知らない補充兵と、その日の夜から同じ天幕で寝た。
でも結婚は部隊ではない。
何をするものか、わたしはほとんど知らない。
「お母さんは、その人がいいって?」
「家がいいの」
ルチアはそこで一度息を止めた。
止めたことがわかるくらい、胸元が動かなくなった。
「アルヴェイン家は中位の家だから、上位のお家と繋がれるのはとてもいいことなの。弟の将来にもいい。父の仕事にも。領地の商いにも」
「ルチアには?」
聞くと、灰青色の目が上がった。
「ルチアにとって、いいことはあるの」
しばらく返事がなかった。
「母は、あると思ってる」
「ルチアは?」
「わからない」
今度の返事は遅かった。
「知らない方だから悪い方だとも言えないの。きちんとした家の方で、勉強もされていて、乱暴な噂もないって。母はこれ以上何を望むのって言う」
言い終わったあと、ルチアは膝の上で手を組んだ。
その下に便箋がある。
紙の真ん中に指の関節が当たって、少しへこんでいる。
「お父さんは?」
「お前が決めろって」
「決めていいんだ」
「そう聞こえるでしょう」
ルチアの口元が少し曲がった。
笑ったのではない。
「でもその次に言うの。相手のお家にはもうずいぶん待っていただいている。こちらの返事次第では、弟の将来の後ろ盾にも差し障るかもしれない。領地の借り入れも、来年には見直しがある、って」
「それは」
決めていい、とは違う気がした。
前線でも似た言い方があった。
志願する者は前へ出ろ。
出なくても罰はない。
そう言った上官が、出なかった者の顔を一人ずつ覚えていた。
次の危険な任務に誰が回るかは、そのあと決まった。
選べる形をしているだけで、選んだあとのことは先に置かれている。
「断ったら、家に迷惑がかかるってこと?」
「たぶん」
ルチアが言った。
本人にも、どこからどこまでが本当に起きることなのかわからないのだと思う。
父親は、何も約束していない。
何も脅してもいない。
起きるかもしれないことを並べただけだ。
「最初に話が来たのは、いつ?」
「学院に入る前」
「そんな前から?」
「うん。入学するから、在学中は待っていただくことになったの。勉強を終えてから決めればいいって」
ルチアは指をほどいた。
押されていた便箋が少し戻る。
真ん中に浅い皺が残った。
「最初は、本当にそれでよかった。三年あると思ってたから。三年あれば、何か変わるかもしれないって」
ルチアは一枚目の上端を持ち、こちらからも字の並びが見えるように起こした。
細い字で紙の端まで埋まっている。
途中に短い空きがあって、その下から筆圧が少し強くなっていた。
「ここまでは弟のこと。新しい先生と合わないとか、冬用の靴がもうきついとか」
指が空いた行を越え、その下で止まった。
「ここからが縁談のこと。お相手のお家から、いつまで待てばいいのかと聞かれたって」
「毎回、入ってるの?」
「入ってる。最初は最後に二行だけだったの。今は一枚目の半分」
ルチアは便箋を膝へ戻した。
「返事には、弟のことも授業のことも書けるの。母が送ってくれた布がきれいだったとか、先生が厳しいとか。最後まで書いて、縁談のところだけ残る」
「残したまま出すの?」
「前は、勉強が落ち着いたら考えますって書いた。その次は、実技に慣れてから。その次は、学院で初めての冬を越してから」
言いながら、ルチアの親指が紙の角を押した。
折り目ではないところに小さな曲がりができ、指を離しても戻らなかった。
「返事を書くたびに、次の言い方を探したの。でも今日はもう、考えますだけでは返せない」
学院は三年制だ。
まだ一年目が終わっていない。
「今日の手紙には、年末までに返事がほしいって書いてある」
卒業までではなく、今年の終わりまでだ。
「早くなってる」
「うん」
「どうして」
「相手の方にも、ほかのお話があるから。これ以上待たせるなら、こちらにも受けるつもりがあるのか示さないといけないって」
わたしはルチアの引き出しを見た。
閉まっている。
あの中には、封蝋のついた手紙が何通も入っている。
部屋替えの日、荷物を運んだときに見た。
ルチアは一通ずつ、奥にしまった。
「星を見た夜も?」
ルチアの指が止まった。
「弟が風邪を引いたって言ったとき」
「あの手紙にも、縁談のことが書いてあった」
初めて聞いた。
あの夜は弟の風邪が治ったことと、字を間違えたことしか話していなかった。
わたしも、それしか書かれていないと思っていた。
「あのときは、わからなかった」
「言えなかったから。弟の話ならできたの」
「食堂で読んでた手紙も?」
「うん」
「祭りの前に、便箋を裏返したのも?」
ルチアは頷いた。
「ずっと一人で読んでたんだ」
「家の手紙だから」
「同じ部屋なのに」
言ってから、責める言い方に聞こえた。
「違う。なんで言わなかったのって、怒ってるんじゃなくて」
言葉を探した。
「わたし、聞けたのに」
出てきたのは、それだった。
「聞いたら、ルチアは言えた?」
ルチアは少し考えて、首を横に振った。
「たぶん、言えなかった」
「そっか」
わたしはベッドから下りた。
ルチアが顔を上げる。
近づいて、机の椅子を一脚引いた。
床を擦る音が大きかったので、持ち上げて運ぶ。
ルチアのベッドの正面ではなく、少し斜めのところに置いた。
椅子の前脚はベッドの角から半歩離れ、座れば扉も机も見える。
ルチアの膝とは向かい合わない。
わたしたちの膝の間には、椅子一脚ぶんの空きが残っていた。
向かい合うと、見られたくないときにも顔を見せなければならない。
隣に座ると、触れるかもしれない。
斜めなら、どちらもしなくていい。
椅子に座った。
「続き、聞いていい?」
「うん」
ルチアが便箋を撫でた。
折り目に沿って、上から下まで一度だけ。
「リーネのことは、家に言ってない」
「わたし?」
話が急にこちらへ来た。
背筋が少し伸びた。
「わたしのこと、何を言うの」
「それが、わからないの」
ルチアは困ったように眉を下げた。
「同じ部屋の子。友達。学院でいちばん一緒にいる人。それなら書ける」
「うん」
「でも、それだけを書いたら、違うでしょう」
ルチアの隣にいると落ち着く。
いないと落ち着かない。
「違うね」
答えると、ルチアの目が揺れた。
「リーネは、わかるの?」
「何て呼ぶかは、わからないよ」
「……うん」
「でも友達って書くだけじゃ、足りない」
ルチアの指が、便箋の上から離れた。
膝の横に落ちる。
「家には、なんて言えばいいのかな」
「わからない」
「友達だけでは足りない人がいる、って?」
ルチアはわたしを見ていた。
「リーネには、もっと近くにいてほしいの」
声が少し震えた。
「助けたいんじゃないの。守りたい、とも少し違う。わたしはリーネと一緒にいたい」
「わたしも、ルチアと一緒にいたいよ」
返事は、すぐに出た。
「それじゃ、名前はつけないの?」
「今は、つけない」
ルチアが便箋の端をつまんだ。
「名前をつけたら、リーネは、その名前の正しいやり方を探すでしょう」
「……探すね」
「でしょう」
ルチアの口元が、ほんの少し緩んだ。
「わたしはリーネに正しくしてほしいんじゃない。隣にいてほしいの」
灯りの芯が小さく鳴った。
途中で声が掠れて、最後の音は弱かった。
「うん」
ルチアはわたしの「うん」を待った。
待ってから、膝の上の手紙に目を戻した。
「だから縁談を断りたいの」
さっきより、はっきりした声だった。
「わたしが一番わかってる。リーネがいるから断りたいって」
ルチアは二枚目を一枚目の上へ重ねた。
角がずれているのに直さず、母親の字を手のひらで隠した。
「今までは、まだ決められないって書けばよかったの。学院で勉強したいから待ってくださいって。それは本当だった」
「今は違う?」
「勉強したいのも本当。でも、それだけじゃない」
隠した手に力が入り、紙が手のひらの下で鳴った。
「断りますって一行なら書けるかもしれない。でも母は、どうしてって聞く。お相手に問題があるのか、学院で何かあったのかって。何もありませんって書いたら、受けなさいって戻ってくる」
「理由を書いたら?」
「リーネのことを書くことになる」
ルチアの声が低くなった。
隣の部屋へ届かないようにしているみたいだった。
「書かないで断ったら、母に嘘をつく。書いたら、帰ってこいと言われるかもしれない。だから返事の一行目が決まらないの」
胸の奥が冷えた。
「それ、わたしのせい?」
ルチアが顔を上げた。
「リーネのせいじゃない。わたしが選んだことだから」
「でもわたしがいなかったら、断る理由はなかったんでしょ」
聞いてから、膝の上で指を握った。
また、自分のせいにしようとしているのかもしれない。
ミラにも、言ったら謝るから言えなかったと言われた。
決めた人は別にいるのに、と。
今回は別の人ではない。
ルチア本人が、わたしだと言っている。
「いなかったら」
ルチアは一度、息を吸った。
「断る理由がないまま受けてた。それは、もっと嫌だ」
「もっと?」
「うん」
ルチアは便箋を持ち上げた。
二枚とも。
手が震えて、紙の角が細かく揺れている。
「相手が悪い方じゃなければ、嫌だと言えないまま結婚してた。家のためになるから。弟のためになるから。わたしに悪いことが起きるわけじゃないから」
「でも嫌なんだ」
「嫌」
今度は、すぐに言った。
「リーネがいなければ、その嫌だっていうのを、一生知らなかったかもしれない」
紙の揺れが止まらない。
「それなら、知らない方が楽だった?」
「楽だったと思う」
ルチアは答えた。
「でも戻りたくない」
わたしは感じず、考えず、命令された通りに動く方を選んで生き残った。
間違っていたとは思わない。
あの場所では、それしかなかった。
受ければ、自分の嫌が残る。
断れば、家に何が起きるかわからない。
わたしと一緒にいたいことは、家に言う言葉がない。
「お母さんに、わたしのことを言ったら、どうなるの」
「わからない」
ルチアは紙を膝に戻した。
「怒るかもしれない。そんなものは一時の迷いだって言うかもしれない。学院を辞めて帰ってきなさいって言うかもしれない」
「辞めさせられるの?」
「家が学費を出しているから」
そうか。
学院にいることも、家と繋がっている。
手紙に返事をしなければ、手紙だけで終わるわけではない。
「お父さんは」
「わからない。父は、わたしの話を最後まで聞くかもしれない。でも聞いたあとで、家の話をすると思う」
父親を嫌っている言い方ではなかった。
最後まで聞くことと、ルチアの望みを選ぶことは別らしい。
「弟には?」
ルチアの目が、初めて紙から外れた。
机の上の封蝋の欠片を見る。
「言いたくないんじゃないの。言ったら、あの子は、じゃあその人を連れて帰ってきてって言うと思う」
声が少しだけ柔らかくなった。
「ぐちゃぐちゃの字で?」
「たぶんね。名前を間違えて書くと思う」
「わたしの名前、難しいかな」
「カルヴァスのヴァが崩れると思う」
一瞬だけ、ルチアが笑った。
本当に笑ったのだと思う。
目元が先に緩んで、それから口元が動いた。
でも笑いはすぐに消えた。
弟が受け入れても、家の話は消えない。
母親の手紙は膝にある。
「言えないんだ」
「うん」
「わたしが女だから?」
「それもある」
ルチアは自分の両手を見た。
「それだけじゃない。名前もないから。わたしたちは、何ですって聞かれたら、答えられない」
「一緒にいたい人」
口から出た。
ルチアが顔を上げた。
「それじゃだめ?」
「家への返事には、たぶん」
「そっか」
手紙には書けない。
でもここでは通じた。
「ルチアはどうしたいの」
「断りたい」
「うん」
「でも断るって書けない」
「うん」
「母に迷惑をかけたくない。弟の将来も、父の仕事も」
「うん」
「でも受けたくない」
「うん」
「ごめんね、こんな話」
「こんな話って何」
ルチアがこちらを見た。
「ルチアの話でしょ。聞くよ」
言うと、ルチアの目の縁が赤くなった。
涙は落ちなかった。
落ちないようにしているのか、まだ出るところまで来ていないのかはわからない。
「リーネの話と比べたら」
「比べないよ」
「でも戦争とか、村とか」
「ルチア」
名前を呼んだ。
止めるためではなく、続きを聞くために。
「わたし、ルチアの家のこと、何もできないよ」
ルチアは黙った。
「貴族の決まりも知らない。相手の家に何て言えばいいかもわからない。断ったら、本当に弟くんに何が起きるのかもわからない」
「返事は考えられないけど、話は聞くよ」
ルチアの目から、一つ落ちた。
紙の上ではなく、寝巻きの膝に落ちた。
濃い色の布に、小さな丸ができる。
ルチアが目元を指で拭った。
二つ目は落ちなかった。
「リーネ」
「うん」
「わたし、返事を書かないといけない」
「うん」
「断るって書けるか、まだわからない」
「うん」
頷かなかった。
頷くと、決めろと言っているみたいになる気がした。
声だけ返した。
「今日、書くの?」
「無理」
ルチアは紙を見た。
「今日は、読んだだけで無理」
それでいい、とは言えなかった。
今日書かなくても、期限が一日近づく。
「いつ書く?」
「わからない」
「そっか」
灯りの油が減っている。
芯のまわりの火が、さっきより低い。
消灯の鐘まで、もう長くない。
わたしは手紙を書けない。
村には宛先がない。
軍では報告書しか書かなかった。
ルチアにもらった一行の手紙に返すのに、十五分かけて、髪がきれいだと書いた。
正しい断り方なんて、わかるはずがない。
「わたし、手紙の書き方はわからないけど」
ルチアが顔を上げる。
「ルチアが返事を書くとき、隣にいることはできるよ」
言ってから、今座っている椅子を見た。
正面でも隣でもない。
少し斜めの位置。
「隣じゃなくて、ここでもいいけど」
ルチアが鼻をすすった。
「隣がいい」
「じゃあ隣にいる」
「書けなくても?」
「書けないときも」
「ずっと?」
「消灯までなら」
ルチアが目を丸くした。
「そこは朝までって言うところじゃないの?」
「朝まで灯りつけたら寮監に怒られるよ」
小さく息が漏れた。
笑い声だった。
目は赤いままだった。
「じゃあ、消灯まで」
「うん。次の日も、消灯まで」
「何日かかるかわからないよ」
「その日も隣にいるよ」
「授業は?」
「授業は行く」
「そこも休むって言うところじゃない?」
「赤点増えるから無理」
ルチアがもう一度笑った。
今度は途中で声が詰まった。
笑いながら、泣きそうな顔をしている。
どちらかにはならなかった。
「……うん」
ルチアは便箋を持ち上げた。
今度こそ畳むのかと思った。
一枚目と二枚目の端を合わせる。
合わせて、折り目に指を置く。
そのまま動かなかった。
まだ畳めない。
「今日は、ここまでにする?」
「もう少しだけ、持ってる」
「うん」
椅子から立って、元の場所へ戻そうとした。
「リーネ」
呼ばれて、止まる。
ルチアがベッドの端を少し空けた。
手で叩いたりはせず、自分の体を窓側へ寄せて一人ぶんの場所を作った。
そこに座った。
肩は触れなかった。
寝巻きの袖と袖のあいだに、指二本ぶんくらい空いている。
正面には机まで何もなく、立とうと思えばすぐ立てる。
ルチアは手紙を膝に置いたまま、前を向いていた。
わたしも前を向いた。
机と椅子が二つずつあって、窓が一つある。
壁側のベッドには、写し終わったノートが積んである。
机の灯りの横に、割れた赤い封蝋がある。
部屋は、昨日までと同じ形をしている。
「ねえ、リーネ」
「うん」
「さっき、一緒にいたいって言ってくれたでしょう」
「言ったね」
「忘れないでね」
「忘れないよ」
今ここで交わした約束を、忘れたくなかった。
ルチアは何も言わなかった。
少しして、肩が触れた。
寄ってきたのか、力が抜けただけなのかはわからない。
触れているのは袖の布同士だけで、正面には立てるだけの空間が残っている。
足を床につけたまま、その重みを受けた。
消灯の鐘が、遠くで鳴り始めた。
ルチアは手紙を畳まない。
二つ目の鐘で机の灯りが揺れた。
三つ目が鳴る前に火を消さないといけない。
一拍だけ待ってから立った。
灯りに手を伸ばす。
灯りを落とす直前、膝の上の便箋が見えた。
便箋は畳まれないまま、母親の字で書かれた「年末までに返事を」の一行だけを、消灯前の火にさらしていた。