窓の内側に白い息が残るようになり、朝だけ開ける窓は鐘までに閉じられ、食堂ではヴェルダへ出る前から消えていた果物の代わりに芋と豆が増えた。
中庭の木は葉をほとんど落とし、石のベンチには朝露ではなく薄い霜がついている。
霜が朝ごとに濃くなるぶん、ルチアが返事を求められた年末までの猶予は減っている。
ヴァイスさんの部屋へ行く曜日は変わらない。
扉が見える椅子も、ぬるい茶も変わらない。
毎週一度、同じ時刻に扉を叩いている。
眠りは、よくなった日と変わらない日が混じっている。
夜に窓を見る回数が一回で済む日もあれば、留め金を何度触ったか数えきれない日もある。
食堂で器が落ちれば、今でも手は先に動く。
ただ、握っていると気づくまでの時間は前より短い。
足の裏を探して、見えるものを数える。
三つで戻れる日も、五つでは足りない日もある。
食堂へ行けば、壁際の席が取ってある。
ミラは頼まれる前から取っていたけれど、今はわたしが頼んだので取っている。
ルチアは母親への返事をまだ書き終えていない。
書く日は隣に座り、書けない日は便箋を見ないで別の話をする。
日常が戻ったというより、戻らないものを混ぜたまま、毎日同じ場所へ行けるようになった。
その日の放課後、本館の掲示板の前に人が集まっていた。
朝にはなかった紙が、いちばん上に貼られている。
学院の紋が押され、四隅を留め具で留めた大きな紙だ。
前にいる生徒の肩越しに、最初の行だけ読めた。
生徒会役員選挙の告示。
その下に、受付の期間と、選ぶ役職が並んでいる。
会長、副会長、書記、会計。
知らない言葉はないけれど、何をする人なのかは会長以外よく知らない。
「レーゲンハルト会長も終わりだな」
任期が終わるという意味だ。
掲示板の下のほうには、前にユリウスが出した通達が貼られていた。
紙の端が少し丸まっている。
新しい告示の影に入って、文字の半分が人の肩に隠れていた。
属国出身者への差別的言動を禁じる。
紙を一枚貼って、人の顔が翌朝から変わるわけではない。
それでもナタルは、あの紙を自分から読みに行った。
鞄を手放している時間が長いと落ち着かず、人の集まりを離れて教室へ戻った。
廊下を曲がると、教室の前に人が立っていた。
金髪が、閉じた窓から入る光を受けている。
二年の学年章。
手には紙の束を持っていた。
「カルヴァスさん」
「会長」
ユリウスは、わたしが来た方向を見た。
「告示を見ていたのかい?」
「はい。人が多くて、上のほうしか読めませんでしたけど」
「明日の朝には空くと思うよ。今日は貼ったばかりだから」
ユリウスは紙の束を持ち直した。
両腕で抱えるほどではないが、片手では端が垂れるくらいある。
「少し、時間をもらえるかな」
「大丈夫です」
教室には誰もいなかった。
机の上に鞄が一つある。
わたしのだ。
中に入ると、ユリウスは教壇には行かなかった。
いちばん前の机へ紙を置いた。
束の下が机に当たり、乾いた音がした。
わたしは自分の席から鞄を持ってきて、机の脚のそばへ置いた。
そのまま前の席に座る。
ユリウスは向かいの椅子を引いた。
前に生徒会室で話したときは、机を挟んで紅茶が二つあった。
今日は紙がある。
ユリウスが束を二つに分けた。
「これが、帰省届の書式変更に関する書類」
左側の上にある紙をこちらへ向けた。
「こっちが、ヴェルダ戦争の教科書記述を改訂するための議題提出書」
右側にも紙が重なっている。
題名は読めた。
その下は字が細かい。
知らない役職の名前と、日付と、判が並んでいる。
「普段の仕事や通達とは別に、僕の任期中に仕組みとして残せたものだ」
ユリウスは二つの束の間に指を置いた。
「二つだけ」
紙の枚数は二つではない。
帰省届のほうだけで十枚近くある。
教科書のほうはもっと多い。
「二つって、これ全部でですか」
「紙の数ではなく、やったことの数だよ」
「一つやるのに、こんなに要るんですね」
「帰省届のほうは、これでも少ない」
少ないらしい。
わたしは左の束を見た。
最初の紙の下に、見たことのある用紙が挟まっている。
事務室の棚にあった帰省届だ。
前の用紙には、帰省先住所という欄があった。
五文字の下に、住所を書くための線が一本ある。
あの線の前で手が止まった。
今見えている用紙は、下のところが違う。
「学院に残る」
声に出して読んだ。
帰省先住所の上に、小さな四角が二つある。
帰省する。
学院に残る。
どちらかに印をつける形になっていた。
学院に残るほうを選べば、住所の欄は書かなくていい。
その下には、休みのあいだの食事についての欄もある。
「通したんですか」
「通した」
ユリウスの返事は短かった。
「次の休みから、この用紙になる。帰る場所がない生徒だけのための欄にはしなかった。家があっても学院に残る生徒はいるから、全員が同じところを選ぶ」
「そうなんですね」
前の紙を作った人は、わたしみたいな生徒を考えていなかった。
新しい紙は、わたしだけの紙ではない。
学院に残る。
それを選べる人間の中に、わたしも入っている。
指で四角には触れなかった。
まだ提出する紙ではない。
「判を三つもらうだけで済むと思っていた」
ユリウスが束の端を揃えた。
「実際には、最初に出した一枚が三度戻ってきた。一度目は寮の名簿との照合。二度目は事務室が写しを回す先。三度目は、休み中の食事を誰が数えるか」
「駄目って?」
「駄目とは書かれない。確認を要する、と書かれて戻る」
それは知っている言い方に少し似ていた。
決まっていない、考えておく、確認する。
上の人が使うと、そのまま消えることもある言葉だ。
「戻るたびに、出したんですか」
「出した。書き足して、また出した」
ユリウスの指が、紙の角を一度押さえた。
「最後は、残る生徒の食事代を先に集める欄を足して、通した」
「ごはんの数だったんだ」
「最後に書かれていたのは、そこだ。食堂は寮の名簿で、残る人数をもう知っていた」
「じゃあ、同じ数をもう一回書いたんですか」
「書いた。最初の二つを足したあとで、最後にそれを書いたら判が揃った」
必要な数は、最初からあった。
足りなかったのは、同じ数を書く欄だった。
「止めたかったんですか」
「そう書いた紙はないよ」
ユリウスは三度戻ってきた束を指で押さえた。
「ただ、理由を一つ埋めるたびに、次の理由が来た」
「ありがとう、ございます」
少し遅れて出た。
ユリウスがこちらを見た。
「礼をもらうために持ってきたんじゃない」
「でも、わたしが止まったところだったので」
「君が教えてくれたから、僕は気づいた」
「それでも、やったのは会長ですよ」
紙が三度戻ってきたとき、わたしは知らなかった。
食事の欄を足したのも知らない。
知らないところで、この人が出し直していた。
「じゃあ、ありがとうございますで合ってます」
ユリウスはすぐには答えなかった。
「……受け取っておくよ」
右側の束に目を移した。
教科書の題名が書いてある。
ヴェルダ戦争の記述改訂について。
「こっちは?」
「まだ動いていない」
「通らなかったんですか」
「通るかどうかを決めるところまで行っていない。生徒会の議題として提出し、記録に残した。検定記録の写しと、改訂を求める理由も添えてある」
一枚めくると、赤い線の入った紙の写しがあった。
文字のまとまりが、四角く囲まれている。
欄外に短い字が二つ並んでいる。
教育上不適切。
対外配慮。
「最初の草稿には、焼かれた村の名前と、民間人の死者の数があった」
ユリウスの声は平らだった。
「検定で消された。手違いではない。読んだ人間が、残さないと決めた」
わたしは赤い線を見た。
村の名前は写しの中でも小さい。
知っている名前はなかった。
知らないだけかもしれない。
焼けた村は一つではない。
「今の教科書を直すには、学院の中だけでは終わらない。僕の任期中には、一頁も変わらない」
「じゃあ、これは何のためですか」
わからないので聞いた。
ユリウスは紙を戻した。
「次の会長が、同じ場所から始められるようにするためだ。僕がいなくなっても、議題として残る。検定記録をどこまで調べたかも、この束に入っている」
「次の人が、やらないって決めたら?」
「そこで止まる」
返事はすぐだった。
「止まるんだ」
「止まる。記録に残したから必ず進むとは言えない。次の会長が棚に置いたままにすることもできる」
ユリウスは、できる、と言った。
そんなことはありませんとは言わなかった。
「だから引き継ぐ。何を見たか、なぜ出したかを直接話す。それでも続けるかどうかは、次の人間が決める」
次の歴史の授業でも、正当な領土回復という行はそのままだ。
それでも、この束は前にはなかった。
「二つだけ、って言いましたけど」
「うん」
「一つは通って、一つはまだなんですよね」
「そうだ」
「同じ二つに数えていいんですか」
ユリウスが少し考えた。
「僕は数えることにした。通ったものだけを数えたら、教科書のほうは最初から無かったことになる」
その言い方で、石板を思い出した。
十四枚。
村と集落と谷の名前。
彫っても村は戻らないと、カイは言った。
それでも彫っていた。
ユリウスは石を彫らない。
紙に残す。
「これを見せるために、来たんですか」
「半分は」
「あとの半分は?」
ユリウスが二つの束を自分のほうへ引いた。
端を揃えてから、手を離した。
「頼みたいことがある」
「はい」
「その前に、選挙についてどこまで知っている?」
「今日、告示が出たのを知ってます。会長と副会長と、あと二つ選ぶ」
「書記と会計」
「それです」
「役員は、生徒が立候補し、生徒の投票で選ばれる」
「一年でも出られるんですか」
「出られる。会長に出る者は上級生が多いが、副会長には一年生も出られる」
知らなかった。
生徒会は、上の学年の成績がいい人が先生に決められてなるものだと思っていた。
「立候補したら、何をするんですか」
「まず名前が告示される。そのあと、定められた期間に自分の考えを伝える。最後に講堂で話す機会があり、投票になる」
「話す」
「演説だ」
ユリウスが壇上でやるものだ。
わたしにはできる気がしない。
「難しそうですね」
「簡単ではない」
ユリウスは否定しなかった。
「それで、頼みというのは」
一度、息を入れた。
「副会長に立候補しないか」
最初は、言葉の意味を取り違えたと思った。
副会長に立候補する。
誰が。
「わたしが?」
「君に頼んでいる」
「わたし、属国出身ですよ」
「知っている」
「元兵士です」
「それも知っている」
「人の喉を押さえて、謹慎にもなりました」
「知っている」
「知ってて言ってるんですか」
「知っているから、言っている」
ユリウスの声は変わらなかった。
演説の声ではない。
前に生徒会室で、本気で融和政策を信じていると言ったときの声に近い。
「どうして」
「僕は、生徒会の中からできることを探した。帰省届の欄を増やし、教科書の議題を残した。でも、僕に見えるものには限界がある」
ユリウスは左の束に手を置いた。
「僕は帰省届を毎学期、何も考えずに書いていた。君が手を止めたと聞くまで、あの欄が誰かを紙の外へ出していることに気づかなかった」
次に、右の束へ手を移した。
「教科書も同じだ。検定記録を読む権限は二年前から持っていた。一度も開かなかった。君が、教科書と自分の記憶がずれていると言うまで」
あの生徒会室で言った。
わたしの村は焼かれた。
教科書には正当な領土回復と書いてある。
帰省届に書く住所がない。
言い方がわからなくて、事実を三つ並べた。
最後に出たのは、同じ教室にいるのに同じじゃない気がする、だった。
あれは演説ではない。
聞いていたのも、ユリウス一人だった。
「君は、僕が知らないところで止まる。止まって、なぜ止まったかを、自分の知っている言葉で話せる」
「話せなかったですよ。あのときも、なんの話かわからなくなったって」
「それでも話した」
「途中で笑って終わらせました」
「それも含めて、聞いた」
ユリウスの目は逸れなかった。
「君が壇上に立てば、今まで答えずに済んだ人間も、属国出身者が役員になることを考えないといけなくなる」
言っていることは、半分くらいわかった。
半分はわからない。
「それって、象徴にしたいってことですか」
ユリウスの指が止まった。
紙の端に置いていた指だ。
止まってから、手全体が紙から離れた。
「……最初は、そう考えた」
声が少し低くなった。
「正直に言う。君が候補として立てば、融和政策を信じる生徒にも、反対する生徒にも届く。属国出身者が立候補した、という事実は強い。僕がこの話を考え始めたとき、最初に見たのはそこだった」
「今は違うんですか」
「全部は違わない」
ユリウスは紙の角を揃えようとして、一枚だけずらした。
「君が立てば、僕の望む選挙に近づく。できれば当選してほしい。断られれば困る」
収容所で聞いた「使える」は、王国のために働かせるという意味だった。
今ユリウスが見ているのは、自分の望む選挙のためにわたしを壇上へ置くことだ。
置く場所は違っても、人を何かのために使うところは同じかもしれない。
「だったら、やっぱり象徴ですよね」
「そう見ている部分はある。ただ、君に僕の原稿を読ませるつもりはない」
「じゃあ、何を話せばいいんですか」
「それも、僕が決めることではない」
「何も決まってないんですね」
「決まっていない」
ずいぶん大きな話を持ってきたのに、中身は空いている。
わたしが立つ。
わたしが話す。
何をするかは、わたしが決める。
その空き方は、少し怖い。
「僕は、君の演説を聞いたことはない」
ユリウスが言った。
「君が大勢の前で、自分の国について話すのも聞いていない。僕が聞いたのは、生徒会室で、君が僕一人に話した言葉だ」
入学試験を受けていない。
村が焼かれた。
帰省届に書けない。
「あのとき君は、僕の考えを変えるために話したのではなかったと思う」
「変な感じがするって言いたかっただけです」
「それで、僕は変わった」
ユリウスは二つの束を見た。
「僕には書けなかった言葉だった。君は、自分が止まった場所を話した。それが僕には届いた」
褒められているのかは、よくわからない。
うまく話せなかったことを、うまく話せなかったまま使われている感じがする。
「でも会長に届いたからって、ほかの人にも届くかわからないですよ」
「わからない」
「票も入らないかもしれない」
「その可能性はある」
「わたしのこと、嫌いな人もいます」
「いる」
「怖がってる人も」
「いる」
全部認める。
「立ったら、もっと言われるかもしれない」
「そうなると思う」
「止めないんですか」
聞くと、ユリウスは少し黙った。
「止める理由を、僕が作るべきではないと思っている」
「危ないからやめたほうがいい、とか」
「危ないところは伝える。それでも決めるのは君だ」
「会長が頼んだのに?」
「頼んだ。だから、断っていい」
「断ったら困りますか」
「僕の考えた選挙の形は変わる」
困らないとは言わなかった。
「それでも、断った君を説得し続けるつもりはない」
「副会長になったら、教科書を変えられますか」
「一人では変えられない」
「帰省届みたいなのは」
「見つけられれば、議題にはできる。だが、通るとは約束できない」
「属国の生徒が、同じになるんですか」
「それも約束できない」
できないことばかりだ。
でも、たぶん本当だ。
できますと言われるよりは、数えやすい。
「会長は、わたしに何をしてほしいんですか」
ユリウスはすぐに答えなかった。
窓の外で、部活動へ向かう生徒が二人走っていった。
足音が遠ざかる。
「僕が見落とすものを、見落としたままにしないでほしい」
ユリウスは窓へ目をやり、すぐに戻した。
「そうしてくれれば、僕は助かる。でもそれは僕の頼みで、君が引き受ける理由とは別だ」
「今日、決めないと駄目ですか」
「告示の受付が終わるまででいい」
「何日ですか」
日付を教えられた。
指を折るほど長くはない。
「考えます」
「わかった」
ユリウスは二つの束を重ねて抱え、立ち上がると椅子を机の中へ戻した。
「答えは、どちらでも受け取る」
教室を出ていった。
紙を置いたときの乾いた音だけが、しばらく耳に残った。
次の面談の日、ヴァイスさんは茶を二つ置いた。
いつもどおり、ぬるい。
片手で持てる温度だ。
わたしは扉が見える椅子に座っている。
ヴァイスさんは扉に背を向けた側だ。
壁には、棚を外した跡が四本残っている。
机と窓の桟と、ヴァイスさんの湯呑みが見える。
数える必要はなかった。
平気なときにも数える。
今日は平気なのかと聞かれると、少し違う。
最初に、渡された道具を使った回数を聞かれた。
食堂と廊下で一度ずつ、夜に二度と答える。
ヴァイスさんは、効いたかとは聞かなかった。
「今日は、ほかに話したいことがありますか」
「あります」
「どうぞ」
急かさない。
わたしは鞄から紙を出さなかった。
ユリウスの書類の写しはもらっていない。
告示の紙も持ってきていない。
「生徒会の選挙があるんです」
「はい」
知っているのか、今聞いたのかはわからない。
「会長に、副会長へ立候補しないかって言われました」
ヴァイスさんは表情を変えなかった。
「そうですか」
それだけだった。
「驚かないんですか」
「あなたは驚きましたか」
こっちに戻ってきた。
「驚きました」
「どの言葉に」
「副会長と、立候補と、わたしが、が一緒に来たところです」
「分けると、どれがいちばん遠いですか」
考えた。
副会長は、何をする人かまだ全部知らない。
立候補は、自分から名前を出すことだ。
わたしは、わたしだ。
「立候補です」
「なぜですか」
「自分から、みんなに見えるところへ出るから」
入学式では名前を呼ばれた。
呼ばれたから立った。
収容所では審問官に来いと言われた。
言われたから前へ出た。
前線では番号で呼ばれ、命令で走った。
自分から立つのは、そのどれとも違う。
「断りたいですか」
「わかりません」
「受けたいですか」
「それも、まだ」
ヴァイスさんは茶を一口飲んだ。
「では、わかっていることから話してください」
わかっていること。
「会長は、わたしが立つと意味があると言いました」
「どんな意味ですか」
「属国出身の元兵士が、副会長になるために名前を出す。そうすると、学院の人が、今まで答えなくてよかったことに答えないといけなくなるって」
「あなたは、それをどう聞きましたか」
「使われるんだと思いました」
口に出すと、思っていたより硬い言葉だった。
「本人にも聞きました。象徴にしたいのかって」
「会長は何と」
「最初はそう考えたって。今も、わたしが立つことの利益は見てるって」
「それを聞いて、どうしましたか」
「まだ座ってました」
ヴァイスさんの目尻が少し動いた。
笑ったのではない。
「帰りませんでした」
「はい」
「話の続きを聞きました」
「なぜですか」
「嘘じゃなかったから」
あの人は、象徴として見ていないとは言わなかった。
完全に違う人間になったとも言わなかった。
「使われる可能性があるとわかっていても、話を聞く理由にはなったんですね」
「使われるのは、慣れてます」
言ってから、違うと思った。
慣れているから平気だ、という言葉は前にも使った。
怖がられるのは慣れている。
大丈夫です。
なんでもないです。
話を終わらせるための言葉だった。
「違います」
自分で言い直した。
ヴァイスさんは待っている。
「慣れてるから受けてもいい、ではないです。慣れてるから、使われる形が少しわかる、です」
「どんな形ですか」
「会長の言葉を読まされるなら、たぶんわかります。王国に感謝しています、とか、学院に来られて幸せです、とか」
どちらも嘘ではない。
そこだけを切り取れば、使いやすい。
「本当のことでも、そこだけ言わされたら、違うものになります」
「会長は、言葉を決めないと言いましたか」
「はい。何をするかも、何を話すかも、わたしが決めるって」
「あなたはどう思いますか」
「だから困ってるんです」
「なぜ」
「決めてくれたら、やるかやらないかだけで済むので」
命令なら、従うか従わないかだ。
言われたことができるかも数えられる。
何をするかから決めろと言われると、数えるものがない。
「カイに言われたことがあります」
ヴァイスさんは黙って待った。
「俺の戦い方は変わった、って。剣じゃなくて言葉だ。石と、歌と、子供の声だって」
「それから、わたしに言いました。お前の戦い方は、まだ見つかってないんだろうって」
「あなたは何と答えましたか」
「見つかってない、って答えました」
カイは、そうか、と言った。
「そのあと、探してるとも言えない、何を探せばいいかがわからないって」
あのときと同じ答えだ。
「カイは、焦って持つと、持たされたやつを持つことになるって言いました」
ユリウスから立候補を渡された。
持てば、戦い方になるのか。
ユリウスに持たされたものを、自分のものだと思うだけなのか。
「だから、会長に言われたから立ったら、持たされたものになります」
ヴァイスさんは茶を一口飲んだ。
湯呑みを置く音がしても、次の言葉は来なかった。
でも断る理由が、持たされたくないからだけなら、ユリウスに言われたことが決めたのは同じだ。
「……ならないです」
「断るほうも、会長に言われて決めたことになるから」
「それは、あなたが選んだことですか」
声は静かだった。
「会長に言われたからではなく」
答えは出なかった。
ヴァイスさんは待った。
廊下を人が一人通った。
足音が扉の前を過ぎ、遠くなる。
茶を持った。
ぬるいままだ。
「教室で、ミラにヴェルダの話をしたことがあります」
「どんな状況でしたか」
「放課後で、二人だけでした」
ミラが母親への手紙を書いていた。
わたしは帰り道で見た荷車のことを話した。
「ミラの家は、ヴェルダから薬草を仕入れていました。戦争で道が止まって、村が焼けて、今は大きい商会だけが関所を通れます」
「わたし、そのとき初めて言えたんです。わたしの村が焼けたのと、ミラの家が傾いたのは、別のところで起きてるだけで、同じ戦争だって」
「そのあと、村の隣にあった市の話をしました。蜂蜜を壺で売ってて、匙で一杯だけ味見させてくれるところです」
「話そうと決めていたんですか」
「違います。ミラが、昔ヴェルダの行商人に蜂蜜の飴をもらったって言ったから、勝手に出てきました」
「誰かに頼まれましたか」
「頼まれてないです」
「話したことで、何が起きましたか」
「ミラが手紙に書きました。市があったそうです、って」
壺と、匙一杯ぶんだけが手紙に入った。
「あれが戦い方かは、わかりません」
「そうですか」
ヴァイスさんはそれ以上言わなかった。
「でも立候補するなら、決めないと」
「何を決める必要がありますか」
「立候補するか、です。戦い方の名前じゃなくて」
「わたし、会長みたいには話せません」
「そうでしょうね」
すぐに返ってきた。
「そこ、否定しないんですね」
「会長と同じ話し方をする必要がありますか」
「演説って、ああいうものじゃないんですか」
「私は選挙の演説を教える立場ではありません」
「ただ、あなたは会長一人に届く言葉を話した。ケーニヒさん一人にも話した。それは事実です」
「一人ずつです」
「はい」
「講堂には、もっといます」
「はい」
数が違う。
一人に話すのと、全員に話すのは違う。
「怖いです」
口から出た。
言ってから、喉が狭くなった。
「人が多いのも嫌です。でも、市と蜂蜜の話は、ミラに言わされて話したんじゃない。自分から出た言葉でした。講堂でも自分で話して、それを別の意味にされるのが怖いです」
王国に感謝していると言えば融和の成功にされ、村が焼かれたと言えば王国を恨んでいることにされる。
どちらも本当の一部で、一部だけではわたし全部にならない。
「全員が、あなたの望んだとおりに受け取るとは限りません」
「だったら、立たないほうが安全です」
「そうかもしれません」
「でも」
続きが止まった。
立たないほうが安全だ。
名前は掲示板に出ない。
壇上にも立たない。
何も言わなければ、言葉を取られることもない。
教科書は変わらない。
それは、わたしが立たないからではない。
わたし一人が立ったところで、変わるとも限らない。
二つを繋げるのは違う。
帰省届は変わった。
ユリウスが変えた。
わたしは止まった話をしただけだ。
ミラの手紙には、市があったことが入った。
わたしは思い出したことを話しただけだ。
どちらも、最初から大きいことをしようとして始めたわけではない。
「わたし、何をしたいかは、まだわかりません」
「はい」
「副会長になって何ができるかも、ほとんど知りません」
「調べる必要がありますね」
「選ばれないかもしれません」
「そうですね」
「使われるかもしれない」
「はい」
「話せないかもしれない」
「その可能性もあります」
膝の上で手を開いた。
震えてはいない。
震えていないから平気なのではない。
体は、まだ起きていないことには静かなことがある。
告示の紙を思い出した。
会長、副会長、書記、会計。
受付の終わる日。
ユリウスは、答えはどちらでも受け取ると言った。
ヴァイスさんは、立てともやめろとも言わない。
誰も決めない。
決めるところだけが、こちらに残っている。
前線では、残されるのは嫌だった。
指示がない時間は、次に何が来るかわからない時間だった。
決める人が死んだら、いちばん階級の高い人間を探した。
今は、探してもいない。
「決めたら、怖くなくなりますか」
「いいえ」
ヴァイスさんは即答した。
「決めたあとに、怖さが増すこともあります」
「増えるんだ」
「名前が告示されれば、今は想像でしかない反応が、実際に返ってきます」
「やめたくなるかもしれません」
「そのときは、そのときのあなたが考えます」
「今決めたことと違っても?」
「状況が変われば、選び直すこともあります。今の選択が嘘になるわけではありません」
選び直していい。
それは前線にはなかった。
一度出た命令は、撤回されるまで命令だった。
撤回が届くころには、終わっていることもあった。
立候補したあとに何が起きるかは、わからない。
何を話すかも決まっていない。
ユリウスがどこまでわたしを見て、どこから先を候補として見ているのかも、きれいには分かれない。
わたし自身も、立つことに何か使い道があると思い始めている。
それなら、ユリウスだけが人を使おうとしているわけではない。
怖い。
使われるのも、使うのも。
自分の言葉が、自分の手を離れるのも。
それでも、何も決まっていないからやめるのは違う。
何かが見つかったから立つのでもない。
これを戦い方と呼べるからでもない。
まだ見つかっていないまま、選ぶ。
湯呑みを机に置いた。
ヴァイスさんは待っている。
扉は見えている。
立てば、いつでも出られる。
出ないで、椅子に座ったまま言った。
「副会長に立候補します」
声に出しても、怖さは消えなかった。
何を話すかも、何をするかも、まだ決まっていない。
「……わたしが選びます」