わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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波紋

ミラの字で、自分の名前を書いてもらった。

 

立候補の受付を済ませた翌日の朝、まだ一つ目の鐘も鳴っていない部屋で、ミラはわたしの机に大きな紙を広げている。

窓の外は白み始めたところで、ルチアは窓側のベッドに座り、膝の上で毛布を畳んでいた。

隣の部屋から来たミラは制服に着替えているのに、片方のおさげだけが少し緩い。

 

「動かさないでね」

 

「動かしてないよ」

 

「紙じゃなくて机。さっきからちょっとずつ寄ってる」

 

見れば、机の脚が床板の継ぎ目から指一本ぶんずれていた。

ミラが紙の上へ身を乗り出すたびに押しているらしい。

 

「わたしじゃないと思う」

 

「わたししか触ってないから、わたしだね」

 

ミラは机を引き戻し、紙の上へ定規を置いた。

端から端まで線を引くのではなく、文字の下になるところへ薄い印をつけている。

 

わたしが昨日、生徒会室で書いた立候補届は、ユリウスが一度読んでから受付の箱に入れた。

名前、学年、立候補する役職。

立候補の理由を書く欄もあった。

 

そこには、まだわからない、と書いた。

 

受付をしていた上級生が二度読んだ。

二度目は、字が読めなかったからだと思う。

ユリウスは何も直さず、これは本人が書く欄だからとだけ言った。

 

紙は受け取られた。

わからない、と書いても、立候補はできた。

 

ただし掲示用の紙は、遠くから読める字で書くようにと言われた。

候補者本人が書いても、手伝ってもらってもいい。

それでミラに頼んだ。

 

「もう一回、読むよ」

 

ミラが下書きの紙を持ち上げた。

 

「副会長候補。リーネ・カルヴァス。一年A組。ヴェルダ公国出身」

 

最後の一行で、ペン先が紙の上に止まっている。

 

「ほんとに出身まで書くの?」

 

「書く」

 

「書かなくても、名前だけで知ってる人は知ってるよ」

 

「知らない人には、わからなくなるから」

 

隠して出るなら、たぶん名前を出す意味が半分なくなる。

何の半分なのかは、まだうまく言えない。

 

ミラは「そっか」と言い、ペンを紙へ下ろした。

何度か練習したあとの字だから、迷いなく進む。

 

副会長候補。

 

文字の下が、薄くつけた印に揃っている。

 

リーネ・カルヴァス。

 

丸みのある字だ。

わたしの名前なのに、わたしが書くより立って見える。

自分で書くと、最初は気をつけていても、カルヴァスの終わりまでに全部右へ倒れる。

軍の報告書は、読めればよかった。

読めないときも、書いた本人を呼んで聞けば済んだ。

呼ぶ前に死んでいたら、別の人間に聞いた。

 

掲示板の紙は、書いた本人を呼ばなくても読めないと困る。

 

「きれい」

 

ルチアがベッドから言った。

 

「でしょ」

 

ミラは「でしょ」と繰り返して、すぐに胸を張った。

 

「リーネちゃんが書くと、名前が逃げていくからね」

 

「右に進んでるだけだよ」

 

「行の外まで進んだら逃げてるの」

 

最後に、ヴェルダ公国出身、と書かれた。

その一行も、上と同じ高さで収まっている。

強くも弱くもならない。

 

ミラは紙を持ち上げ、窓から入る朝の光に透かした。

 

「よし。にじんでない。曲がってない。字も間違ってない」

 

「名前を間違えたら困るね」

 

「三回見たから大丈夫」

 

ミラは紙を机へ戻した。

乾くまで触らないよう、両手を広げてわたしを止める。

 

触るつもりはなかった。

でも止められると触りたくなって、端から指一本ぶん手前に指を置いた。

 

わたしの名前は、乾くまで机の上にあった。

一つ目の鐘が鳴る前にはインクが指につかなくなり、紙を両手で持って本館の受付へ運んだ。

受付にいた昨日の上級生は、紙を置く場所を空けてから、両端を持って受け取った。

机の端には、候補者が出した紙が役職ごとに重ねてある。

会長候補の束がいちばん厚く、副会長候補の束には三枚あった。

 

上級生は昨日の立候補届を箱から出し、掲示用の紙と横に並べた。

役職、名前、学年の順に、指で追って確かめる。

最後の一行で指が止まった。

 

「ヴェルダ公国出身、も掲示するんですね」

 

「はい」

 

「わかりました」

 

聞き返されなかった。

紙の端へ判を押すことも、字を直すこともなかった。

上級生は立候補届を箱へ戻し、掲示用の紙を三枚の上に重ねた。

 

「これで受け取ります。掲示は担当がします」

 

ちょうど廊下の向こうから、留め具の入った小箱を持つ別の上級生が来た。

受付の上級生が、副会長候補は四枚です、と告げる。

掲示担当は束の枚数を数え、わたしの紙をいちばん上にした。

乾いた紙が、上級生の腕に載って受付を離れる。

 

「あ、行っちゃった」

 

ミラが背伸びをした。

 

「貼るところ、見たいの?」

 

「まっすぐ貼ってくれるか気になる」

 

「曲がってたら直してもらえばいいよ」

 

「最初からまっすぐがいいの」

 

掲示担当は廊下を曲がり、紙は見えなくなった。

追いかけるわけにもいかないので、朝食を取りに食堂へ向かった。

 

ミラはパンを食べながらも二度、掲示板の方を振り返った。

食堂からは壁しか見えない。

二度目にルチアから「見えないよ」と言われ、ようやく前を向いた。

 

朝食を終えて本館へ戻るころには、紙を持っていった上級生の姿はなかった。

 

 

 

掲示板の前には、朝から人が集まっていた。

 

本館へ入る生徒の流れが、正面の階段へ向かわず、途中で左へ曲がっていく。

曲がった先に掲示板がある。

立ち止まる人と、後ろから覗こうとする人と、そのまま通り過ぎる人が重なり、廊下の幅が半分になっていた。

 

昨日まで一番上にあった選挙の告示は、左へ移されている。

代わりに、役職ごとの候補者名が中央に並んでいた。

 

会長候補が三人。

副会長候補が四人。

書記と会計にも、それぞれ名前がある。

 

掲示板の右下に、昨日の紙が貼られていた。

 

人の肩の隙間から、ミラの字が見えた。

名前の最初だけだ。

 

リーネ。

 

続きは前にいる男子生徒の背中で隠れている。

 

「カルヴァス?」

 

近くで誰かが読んだ。

 

「あの子?」

 

「一年の?」

 

声が一つずつ増える。

 

「ヴェルダの?」

 

そこだけ、少し小さかった。

 

前にいた生徒が振り返った。

わたしを見つけ、隣の子の袖を引く。

引かれた子もこちらを見た。

 

声が止まるところと、止まらないところがあった。

 

「本人だ」

 

「本当に出たんだ」

 

掲示板を見た生徒が廊下を歩き、教室へ入る。

次に来た人が読む。

一度読んだ人が、後から来た人を連れて戻ってくる。

 

名前は紙から動かないのに、読んだ人だけが増えていく。

 

「どうして副会長?」

 

知らない女子生徒が、友達に聞いていた。

 

「レーゲンハルト会長が頼んだんじゃない?」

 

「じゃあ会長の後継?」

 

「副会長だって」

 

「でも一年でしょ」

 

「一年でも出られるんだよ」

 

「ふうん」

 

最後の子は、掲示より朝食の続きを気にしていたらしい。

小さなパンをちぎって口へ入れながら、そのまま階段へ向かった。

 

別の二人は、ヴェルダ公国出身の一行を指で示している。

 

「これ、書く必要あるのかな」

 

「本人が書いたんじゃない?」

 

「字、きれいだね」

 

「そこ?」

 

笑う声がした。

嫌な笑いではない。

少なくとも、わたしにはそう聞こえた。

 

少し離れたところでは、上級生が腕を組んで紙を読んでいる。

読み終えても動かず、会長候補の紙とわたしの紙を順に見比べていた。

隣の生徒が何か言うと、首を横に振った。

何を話したかは、人の声に混じって聞こえない。

 

入学式でも、名前を呼ばれた。

 

リーネ・カルヴァス、一年A組。

 

立ち上がると、六十人くらいの視線が集まった。

ヴェルダ、属国、融和政策のと声が上がった。

あのときは呼ばれたから立った。

呼ばれる順番も、立つ場所も決まっていた。

 

前線の名簿には、名前が縦に並んで番号が振ってあった。

前の週と今週の紙を並べ、消えた番号を数えた。

融和政策局から来た紙にも、一 カルヴァス、二 フォルケとあった。

 

紙に名前が載ることは、初めてではない。

 

でも今度の紙には、番号がない。

誰かに書かれたのでもない。

自分で受付へ出して、ミラに頼んで書いてもらった。

 

同じ名前なのに、置かれ方が違う。

 

「リーネちゃん」

 

後ろからミラの声がして、肩ではなく袖の先を引かれた。

 

「そこにいると、みんな本人と紙を見比べるよ」

 

「もう見比べられてる」

 

「気づいてたなら離れようよ」

 

ミラはわたしの袖を持ったまま、人の少ない壁側へ移った。

ルチアがその後ろからついてくる。

さらに少し離れてナタルがいた。

 

ナタルは掲示板へ近づかない。

廊下の真ん中に立っているが、人の輪の外にいる。

こちらを見ると、顎を一度引いた。

 

「読んだ?」

 

聞くと、ナタルは目だけを掲示板へ向けた。

 

「遠くから読める」

 

「ミラの字だからね」

 

「そこ、大事だから」

 

ミラが言った。

 

ルチアは掲示板ではなく、周りの生徒を見ていた。

灰青色の目が、右から左へゆっくり動く。

 

「こんなに立ち止まるとは思ってなかった」

 

人が一人抜け、掲示板が少し見えた。

副会長候補の四枚のうち、わたしの紙の前が一番混んでいる。

 

「立ち止まることには、なったみたい」

 

わたしが言うと、ミラがこちらを見た。

 

「それ、立候補した理由?」

 

「まだわからない」

 

「そこはまだなんだ」

 

「昨日と今日は、そんなに離れてないから」

 

「でも名前は出たよ」

 

「うん」

 

副会長が何をするのかも、まだ全部は知らない。

授業の合間に生徒会の決まりを読みに行くつもりではいる。

読む前からわかったことにするのは無理だ。

 

ミラが紙の端を見て、口元を少し上げた。

 

「ちゃんとまっすぐ貼ってある」

 

それで満足したらしい。

 

二つ目の鐘が鳴った。

掲示板の前にいた生徒たちが、一斉に教室へ向かい始める。

足音が廊下へ広がった。

 

わたしたちも流れに入った。

 

後ろで、また誰かが読んだ。

 

「リーネ・カルヴァス」

 

振り返らなかった。

呼ばれたわけではない。

 

わたしがいなくても、わたしの名前はそこに残っている。

 

 

 

教室へ向かう廊下の途中で、ヴィクトルが待っていた。

 

窓と窓の間の石壁に背を預け、腕を組んでいる。

人を待つときの姿勢には見えない。

通り道を塞いではいないが、こちらが近づくと壁から背を離した。

 

ミラの歩幅が少し狭くなる。

ルチアも足を止めかけた。

 

「先に行ってて」

 

言うと、ミラはヴィクトルを見た。

 

「でも」

 

「教室すぐそこだよ」

 

見えるところに教室の扉がある。

周りには登校中の生徒が何人もいて、こちらを見ながら通っていく。

 

ナタルは何も言わなかった。

教室の扉まで行き、開けたまま中へ入った。

ミラとルチアも続く。

ルチアは扉を閉めなかった。

 

ヴィクトルが、その扉を一度見た。

それからわたしへ戻す。

 

顎は上がっていた。

入学したころと同じ角度に見える。

 

「属国の人間が副会長だと?」

 

声は大きくない。

教室まで聞かせるためではなく、わたしに届く大きさだった。

 

「まだ候補だよ」

 

「同じことだ。お前が何をするつもりだ」

 

「まだわからない」

 

ヴィクトルの眉間に皺が寄った。

 

「わからない?」

 

「うん。でも立候補はした」

 

「何をするかも決めずに?」

 

「決めてからじゃないと立っちゃいけないとは、書いてなかったから」

 

「決まりの話をしているんじゃない」

 

ヴィクトルの腕がほどけた。

右手が左の肘から離れ、体の横へ落ちる。

 

「役職に就こうという人間が、何をするかもわからないと言っているんだ」

 

「だから調べるよ。まだ受付が終わったところだし」

 

「調べればわかると思っているのか」

 

「少なくとも、読まないよりはわかると思う」

 

ヴィクトルの口が閉じた。

奥歯のあたりが一度動く。

 

廊下を上級生が二人通り、わたしたちを見た。

一人が足を緩めたが、もう一人に押されて先へ行った。

 

「誰が投票すると思う」

 

ヴィクトルが言った。

 

「わからない」

 

「またそれか」

 

「まだ投票の紙も出てないから」

 

「属国の人間に票を入れる者がいると思うのか」

 

答えようとして、やめた。

いる、と言えば、見ていないものを見たことになる。

いない、と言えば、朝の顔を一つにまとめることになる。

 

「わからない。でも、立つことに意味があると思った」

 

ヴィクトルが鼻を鳴らした。

 

今も腕は組まれていない。

右手が一度開き、また閉じた。

拳にはならず、指を曲げただけで止まる。

 

「意味」

 

言葉を確かめるように、ヴィクトルが繰り返した。

 

「意味があれば、副会長になれるのか」

 

「それは投票で決まるんでしょ」

 

「負けても、立ったからいいと言うつもりか」

 

「負けたら、負けたってことになるよ」

 

「なら何の意味がある」

 

そこは、わたしも全部はわからない。

わかっているところだけを探した。

 

「掲示板の前で、みんなが立ち止まってた」

 

ヴィクトルの目が細くなった。

 

「わたしが立たなかったら、属国の人間が副会長になっていいかなんて、今日考えなくてよかった人がいる」

 

「考えさせるために出たのか」

 

「そうなるとは思った」

 

「迷惑な話だな」

 

「そうかも」

 

「否定しないのか」

 

「立ち止まりたくなかった人もいるだろうから」

 

ヴィクトルの顎が少し下がった。

見下ろす角度ではなくなり、同じ高さに近づく。

 

廊下の向こうで鐘が鳴る。

授業開始の一つ前だ。

教室の中から椅子を引く音が続いた。

 

ヴィクトルは教室の扉を見た。

開いたままだ。

ミラの顔が扉の陰から半分だけ見えて、目が合うとすぐ引っ込んだ。

 

「意味があると思った、か」

 

ヴィクトルがもう一度言った。

 

「それだけで、どこまで立っていられるか見ものだな」

 

「うん」

 

「返事をするな」

 

「わかった」

 

ヴィクトルはわたしの横を通り過ぎた。

 

肩は当たらなかった。

広く避けたわけでもない。

すれ違えるぶんだけ間を空け、そのまま教室へ入る。

 

教室に入ったヴィクトルは、自分の席へまっすぐ行った。

誰とも話さない。

 

わたしも後から入った。

 

ミラが席へ着く前に寄ってきた。

 

「何言われたの」

 

「何するつもりだって」

 

「それで?」

 

「まだわからないって言った」

 

「そのまま言ったの?」

 

「うん」

 

ミラが額に手を当てた。

 

「もうちょっと候補らしい言い方なかった?」

 

「候補らしい言い方がまだわからない」

 

ルチアが隣の席で、小さく息を漏らした。

笑ったらしい。

 

「そこは正直でいいと思う」

 

「ルチアまで」

 

ミラは言いながら、自分の席へ戻った。

 

ナタルは教科書を開いている。

こちらを見ずに、一言だけ言った。

 

「聞こえてた」

 

「廊下だもんね」

 

 

 

一コマ目の休み時間、知らない二年生が教室へ来た。

 

扉のところから一年A組を覗き、「カルヴァスさん、いる?」と聞いた。

教室の何人かが同時にこちらを見た。

 

手を上げると、その人は机の間を通ってきた。

胸の学年章は二年で、髪を短く切った女の子だった。

手に小さな帳面を持っている。

 

「副会長に出た人だよね」

 

「はい」

 

「掲示に、ヴェルダ公国出身まで書いたのは、あなたが決めたの?」

 

「はい」

 

「どうして?」

 

「書かなかったら、知らない人には、わたしがどこから来たのかわからなくなるから」

 

女の子は掲示板のある方を見た。

 

「出身を隠したくなかった、ということ?」

 

「隠すなら、名前を出す意味が半分なくなると思いました」

 

「残りの半分は?」

 

「まだわかりません」

 

「そこは決まってないんだ」

 

「昨日、立候補したばっかりなので。生徒会の決まりも、これから読みます」

 

女の子は閉じていた帳面を開き、二本の線が引かれた頁にペンを走らせた。

 

「出身は本人の希望で記載。隠して出るなら、名前を出す意味が半分なくなる、と」

 

書いたものを声に出して確かめる。

 

「そこまで載るんですか」

 

「候補者の紹介に使うかは、ほかの人の話も聞いてから決める。でも言ってないことは書かないよ」

 

「言ったことは?」

 

「短くすることはある」

 

帳面の二行目を指で示された。

わたしが話した文より、ずいぶん短い。

 

「決まったら、もう一度聞きに来てもいい?」

 

「はい。そのときは、決まったところを言います」

 

女の子は帳面を閉じて帰っていった。

 

その後ろ姿を見送ると、前の席の男子生徒が振り返った。

 

「あの人、学院新聞の人だよ」

 

「新聞?」

 

「学院の行事とか試合の結果を書いて、月に一度出すやつ。知らない?」

 

「知らなかった」

 

「じゃあ今の、載るかも」

 

隠して出るなら、名前を出す意味が半分なくなる、と紙に書かれるのか。

それは言った。

でも、わからないまま残っている半分は帳面に入っていない。

 

「候補って大変だね」

 

男子生徒はそう言って、前へ戻った。

声には、少し面白がる響きがあった。

 

反対側の窓際では、三人が次の魔法理論の課題を見せ合っている。

一度もこちらを見ない。

 

教室全部が選挙になったわけではない。

 

次の授業が始まれば、黒板に術式が並ぶ。

ミラは五語目のところで教科書を睨み、ルチアは一行先を読んでいる。

ナタルはページをめくるのが少し遅い。

ヴィクトルは教官に当てられれば、いつもの丁寧な言葉で答える。

 

わたしの名前が掲示板に出ても、授業は同じ時刻に始まった。

 

 

 

昼休みが終わる少し前、マーレンが掲示板の前に立っていた。

 

食堂から戻る途中、廊下の向こうに短い赤毛が見えた。

掲示板の正面。

人の輪には入らず、少し離れた位置に一人で立っている。

 

わたしは廊下の角で足を止めた。

 

隣を歩いていたルチアも止まる。

 

「どうしたの?」

 

「マーレンがいる」

 

ルチアは廊下の先を見た。

 

マーレンは動かない。

腕は組んでいなかった。

両手を体の横へ下ろし、顔をまっすぐ掲示板へ向けている。

 

二人、三人と生徒が前を通り、そのたびに紙が隠れた。

わたしの名前を声に出す人も、ヴェルダ公国出身の行で隣を肘でつつく人もいた。

 

人が入れ替わっても、マーレンは同じ位置に立っていた。

 

こちらからは横顔しか見えない。

目がどの行に止まっているのかもわからない。

 

呼びかけなかった。

 

掲示板には、わたしの名前と、ヴェルダ公国出身という一行がある。

 

やがてマーレンが動いた。

 

掲示板から一歩下がる。

こちらを見ず、教室の方へ歩き始めた。

 

わたしたちのいる角まで来る前に、別の廊下へ曲がる道はない。

そのまま近づいてくる。

 

ルチアが半歩ぶん横へ寄った。

 

マーレンはわたしたちの前まで来た。

 

目が合った。

 

何も言わなかった。

 

足も止めない。

わたしとルチアの間ではなく、壁側に残った幅を通り、教室へ向かっていく。

 

歩く速さは普段と同じだった。

 

振り返ると、赤毛は教室の扉の向こうへ消えた。

 

「長かったね」

 

ルチアが言った。

 

「うん」

 

わたしたちも教室へ戻った。

 

 

 

放課後、掲示板の前には誰もいなかった。

 

最後の鐘が鳴ってから、ずいぶん経っている。

部活動へ向かう足音も減り、廊下の窓から入る光は床の端まで届かなくなっていた。

 

一人で掲示板の前に立つ。

 

朝は人の肩で隠れていた紙が、全部見える。

 

副会長候補。

リーネ・カルヴァス。

一年A組。

ヴェルダ公国出身。

 

一日のあいだに、紙の右下だけが少し浮いた。

留め具は外れていない。

空気が乾いて、紙が反ったらしい。

 

指で押さえたくなったが、掲示物には触れないようにと下に書いてある。

手を下ろしたまま見る。

 

ミラの字は、わたしの名前を右へ逃がさない。

最初の文字から最後の文字まで、同じ高さに収まっている。

 

背後で足音がして、体が先に振り返った。

 

廊下の端を、知らない上級生が通っただけだった。

上級生は掲示板を見て、わたしを見た。

何も言わずに歩いていく。

 

足音が遠ざかる。

 

もう一度、紙へ向き直った。

 

掲示板に背を向けて歩き出すと、背後で浮いた紙の端が一度鳴った。

 

明日は今日より多くの人がわたしの名前を知っている。

 

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