「あの祭りの夜を忘れたのか」
朝の掲示板に、その一行が増えていた。
わたしの候補者用紙の上ではない。
触れば規則違反になるとわかっていたのか、隣に貼られた学院新聞の号外、その余白に炭で書いてある。
文字は太く、最後の「か」だけが下へ長く伸びていた。
急いで書いたのか、書いた人の癖なのかはわからない。
号外の見出しは、もっときれいだった。
属国出身の元兵士、副会長へ立候補。
その下に、昨日わたしが話したことが短く載っている。
出身地の記載は本人の希望。
隠して出るなら、名前を出す意味が半分なくなる。
残りの半分はまだわからない。
言っていないことは書かれていなかった。
学院新聞の上級生は、言ったことを短くすることがあると話していた。
本当にそのとおりだった。
ただ炭の一行は、上級生の帳面にはなかった。
「これ、消したほうがいいんじゃない?」
ミラが声を抑えて言った。
掲示板の前には、昨日より人が多い。
一つ目の鐘が鳴る前なのに、廊下の真ん中まで生徒が広がっていた。
前を通る人は歩調を落とし、号外の見出しと炭の文字を続けて読む。
ルチアは掲示板に触れず、留め具の位置を見た。
「受付の人に言おう。学院新聞の人にも」
「うん」
わたしは炭の文字をもう一度読んだ。
忘れてはいない。
花火の音がして、気づいたときには上級生が地面にいた。
わたしの前腕の形が首に残っていた。
謝りに行くと、その人はかすれた声で、近づかないでくれと言った。
その声も、歩幅も、肩の高さも覚えている。
廊下で先に見つけて曲がれるように覚えた。
忘れたから立候補したわけではない。
でも覚えていると紙に書いても、あの人の首から痕が消えるわけではない。
「人を殺した人間が、生徒会に入るのか」
後ろで男の声がした。
振り返る前に、別の声が返した。
「祭りで死んだ人はいないだろ」
「祭りの話だけじゃない。元兵士だぞ」
「戦争なら、兵士は人を殺すんじゃないのか」
「だから駄目だって言ってるんだ」
話していたのは二人とも上級生だった。
片方は腕を組み、片方は号外を指で示している。
こちらに気づくと、指を下ろした。
声を止めたのは一人だけだった。
「敵国の兵士が生徒会?」
人の輪の向こうで、女の子が友達に聞いていた。
「敵国じゃなくて、属国でしょ」
「戦争した相手じゃない」
「でも今は同じ学院の生徒だよ」
「同じだから何?」
返事は、人が動く音に混じった。
昨日は、わたしの字がきれいだという声も聞こえた。
一年でも出られるのかと確かめる声があって、パンを食べながら通り過ぎる人もいた。
今日は、立ち止まった人が次の人を呼んでいた。
炭の文字を見せるために呼んでいる。
名前と一緒に、噂も広がっていく。
「あの子、前にもやってるよ」
今度は、すぐ近くから聞こえた。
一年の女子生徒が、声を小さくしている。
小さくしているけれど、聞こえる距離だ。
「女子寮で上級生の首を絞めたって」
「部屋に入ってきた人を、でしょ」
「だからって首を絞める?」
「それは、そうだけど」
あの夜、上級生は足音を殺して部屋へ入り、手にインクの瓶を持っていた。
わたしは腕を取り、背中を壁に叩きつけ、前腕を喉に当てた。
ミラの声がなければ止まらなかった。
どこを切れば、正しい話になるのかわからない。
侵入したところまで言えば、わたしのしたことを軽くできる。
喉を押さえたところだけ言えば、上級生のしたことが消える。
両方言っても、怖かった側の体には何も戻らない。
「リーネ」
ルチアに呼ばれた。
いつの間にか、掲示板ではなく炭の文字ばかり見ていた。
「受付へ行こう」
「うん」
人の輪から離れようとしたとき、別の紙が目に入った。
号外の下に、細長い紙が挟まっている。
四隅を留めたものではない。
上だけを一本の留め具で刺し、下はぶら下がっていた。
誰かの手書きだった。
反王国分子と繋がる者を、学院の役職に就けてよいのか。
最初の一行だけ、少し大きい。
その下には名前が二つあった。
ナタル・フォルケ。
カイ・ドラッヘ。
ナタルには、元ヴェルダ兵、カルヴァスと同じ小隊、と添えてある。
カイには、王国への帰順を拒み、ヴェルダ語を教え、焼失集落の名を刻む者、とあった。
知っていることと、知らないことが混ざっている。
ナタルと同じ小隊だったのは事実だ。
学院では同じ教室にいて、食堂でも中庭でも話す。
カイとは帰郷したときに会った。
石板の前で話した。
カイは帰順の登録をしていない。
子供にヴェルダ語と歌を教えている。
焼けた村の名前を十四枚の石に彫った。
反王国分子という言葉を、本人が自分に使ったことはない。
わたしも使っていない。
「これ、誰が書いたの」
ミラが紙の下を覗いた。
名前はない。
紙を見ても、どこから来たのかはわからない。
帰郷に同行したのは、先生とヴァイスさんとルチアとナタルだ。
村には残っている人もいた。
関所では兵が紙と顔を確かめた。
ヴェーバーさんは、わたしたちが来る日を知っていた。
どこで誰がカイの名前を書き、どうやって王都まで運んだのか。
考えれば候補はいくつも出る。
候補が出るだけで、答えにはならない。
「ナタル」
ミラが人の輪の外を見た。
ナタルが廊下の真ん中に立っていた。
昨日と同じ場所だ。
壁には寄っていない。
人の輪にも入っていない。
紙を読める距離まで来ていた。
名前のところを見ている。
表情は変わらない。
「それ、違うよ」
ミラが細長い紙を指した。
「違わないところもある」
ナタルが言った。
声は平らだった。
「同じ小隊だった。今も話す。そこは合ってる」
「でも反王国分子って」
「それを書いた奴は知らん」
ナタルは紙から目を離した。
「カイと会ったのも、本当だ」
「うん」
わたしは頷いた。
「石のところで話した」
「何を」
ミラが聞き、すぐに口を閉じた。
こちらの顔を見て、次の言葉を待った。
「何が残ってるか、聞かれた」
「何が?」
「わたしの中に、ヴェルダが」
答えは出なかった。
あのときは一つも数えられなかった。
カイはわたしに、王国を倒せとは言わなかった。
学院を出ろとも、剣を持てとも言わなかった。
焦って持つと、持たされたものを持つことになると言った。
そこまで話す前に、二つ目の鐘が鳴った。
人の輪が動き始めた。
細長い紙の下端が、制服の袖に何度も擦れた。
受付へ知らせに行く時間はなかった。
ルチアが、一コマ目が終わったら自分が行くと言った。
教室へ向かう流れに入る。
後ろで、炭の一行を読む声がした。
その次に、ナタルとカイの名前を読む声がした。
わたしの名前から始まった紙に、二人ぶんの名前が増えていた。
一コマ目が終わる前に、先生が教室へ来た。
授業をしていたのはドルフ先生だった。
王国の歴代の条約について黒板へ書いている途中で、扉が開いた。
グレン先生は教室の中へ入らず、入口からわたしを見た。
「カルヴァス。来い」
ドルフ先生が黒板の前で振り返った。
「授業中ですが」
「承知している」
「急ぎですか」
「急ぎだ」
短いやり取りだった。
ドルフ先生は、わたしに行ってきなさいと言った。
声はいつもの授業と変わらない。
鞄は置いていく。
筆記具だけ机へ戻し、教室を出た。
廊下へ出ると、グレン先生はもう歩き始めていた。
歩幅はいつもと同じだ。
教官棟の二階まで、何も言わなかった。
執務室の机には、封を切った書状が置いてあった。
前に処分を告げられたときと似ている。
あのときは先生がわたしたちの部屋へ来て、書面を机の上に置いた。
今日はわたしが呼ばれて、机の前に座る。
湯呑みは一つだけだった。
先生の分もない。
「読め」
書状がこちらへ向けられた。
紙は厚い。
上に家名と紋があり、字は細く揃っている。
創立祭において、当家の子が頸部を圧迫され、医務室へ運ばれたこと。
相手の生徒に二週間の自室謹慎と定期面談が命じられたこと。
その後、本人が謝罪に来たこと。
処分と謝罪について、学院から書面で知らされたこと。
そこまでは、知っている。
謝罪を命じたとは書いていない。
そこも、事実どおりだった。
次の行で指が止まった。
処分されたはずの生徒が、なぜ学院を代表する役職に立候補できるのか。
もう一度読んだ。
その下には、当家は投票の結果へ口を出すものではない、と書いてある。
ただし処分記録のある生徒の立候補を学院が受理した理由と、在校生の安全をどう考えているか、回答を求める。
最後まで、辞退させろとは書いていなかった。
退学させろとも書いていない。
書いていないけれど、軽い紙ではない。
「あの人の家ですか」
「そうだ」
祭りで地面に倒した上級生。
わたしが謝り、近づかないでくれと言われた人。
「読ませてよかったんですか」
「お前についての書状だ」
「家の人は、わたしに読ませるつもりで書いてないですよね」
「学院へ書いた。学院がどう扱うかは、こちらが決める」
先生は机の向こうに座った。
「お前に隠したまま、こちらだけで答えを作るつもりはない」
書状へ目を戻した。
相応の処分を求める、という前の書状を、わたしは読んでいない。
処分の会議に出たこともない。
決まったあとで、先生から聞いた。
今回は、決まる前に紙がこちらへ来ている。
「正しいと思います」
言うと、先生の眉が動いた。
「何がだ」
「怖いと思うところです。あの人は今も同じ学院にいるので。わたしが候補になって、名前が大きく出て、役職につくかもしれないって聞いたら、家の人は心配すると思います」
「それだけか」
「処分されたのも本当です」
二週間、部屋にいた。
授業へ出ず、食事を運んでもらった。
記録に残ると聞いた。
その記録がどこにあるのかは知らない。
でも無くなったわけではない。
「立候補をやめます、って返したほうがいいですか」
先生はすぐには答えなかった。
机の上の書状を二本の指で押さえ、少しずれた角を戻した。
「それを俺に決めさせるな」
低い声だった。
「命令してもらったほうが楽か」
前にも同じことを言った。
謝りに行くかどうかを決めたときだ。
謹慎と定期面談が処分だった。
謝りに行くことは、先生が選択肢を渡し、わたしが選んだ。
命じられたから行ったのではないと、先生はそこだけは譲らなかった。
「……たぶん」
「なら、なおさら言わん」
先生は書状から手を離した。
「この家の恐怖は本物だ。お前が立候補を選んだのも本物だ。片方で片方を消すな」
「両方あると、どうするんですか」
「考える」
短い。
いつもと同じ言い方だ。
「学院もですか」
「学院はすでに考え始めている」
「会議したんですか」
「した」
そこから先を待った。
先生は少し間を置いた。
「ブラントは、お前の立候補を支援すべきだと言った」
朝の授業の黒板が浮かんだ。
条約の年が並び、その前にドルフ先生が立っていた。
「どうして」
「融和政策の素晴らしい成果だからだ」
先生はそのままの言葉で言った。
「属国出身の生徒が自ら役職へ立つ。学院が政策を正しく実行してきた証拠になる、と」
「支援って、何をするんですか」
「そこまでは決まっていない。ブラントが主張した。会議で決定した事実ではない」
「わたしが立候補した理由、先生たちに聞かれましたか」
「俺は聞かれた」
「なんて答えたんですか」
「本人に聞けと言った」
「ドルフ先生は?」
「聞いていない」
机の上の書状を見た。
家の人は、わたしを使おうとして書いたのではない。
あの人が同じ学院で安全に学べるのか、説明を求めている。
そこをドルフ先生の話と同じにしてはいけない。
「この書状は、違います」
「何がだ」
「使おうとしてないです。怖いから聞いてるんだと思います」
先生が一度頷いた。
「そうだ」
「一緒にしたら駄目ですよね」
「ああ」
全部を反対でまとめると、書状に書かれた首の痕が薄くなる。
「返事はどうするんですか」
「学院が書く。立候補を受理した手続きと、今も続けている措置を答える」
「今も?」
「実技の組と動線は分けたままだ。相手にも面談を用意した」
相手側にも面談が用意されたことは、今初めて聞いた。
「面談を受けてるんですか」
「そこはお前に話すことじゃない。必要なら今も受けられる。それだけ知っておけ」
「お前が返事を書く必要はない」
「はい」
「ただし知らなかったことにはさせん」
先生は書状を自分のほうへ戻した。
「候補を続けるかは、お前が決めろ。書状を軽く見るな。書状だけで決めるな」
「難しいです」
「知ってる」
席を立つと、先生が書状を封筒へ戻した。
「カルヴァス」
扉の前で振り返った。
「朝の紙は剥がさせた。出どころは、まだわからん」
「カイの名前が書いてあったやつ」
「見たのか」
「はい」
先生の目が少し細くなった。
「フォルケと話したか」
「同じ小隊だったのは本当だって。カイと会ったのも本当です」
「それ以外は」
「反王国分子って呼び方は、誰がしたのかわかりません」
「それでいい。わからんものを決めるな」
「はい」
廊下へ出た。
教室へ戻れば、ドルフ先生の授業の続きがある。
朝の噂は、昼には食堂へ移っていた。
食堂は混んでいた。
冬に入ってから、温かい汁物を出す窓口の前に列ができる。
盆を持った人が席の間を通り、濡れた外套を入口の掛け具へ寄せている。
わたしたちの席は、いつもの壁際だった。
ミラが取った。
今日は四人ぶんある。
わたしとルチアとミラとナタル。
座る前に、ミラが椅子の上を布で拭いた。
何もこぼれていないのに拭いたので、手を動かしたかっただけだと思う。
「そこまでしなくても汚れてないよ」
「わかってる」
「じゃあ、なんで」
「なんでも」
布を畳み、盆の下へ押し込んだ。
ナタルは壁際ではなく、通路側に座った。
最近はそこが増えた。
背中に壁がなくても食べられる日が増えている。
わたしはその向かいに座った。
汁物の湯気で、向こうの席が少し白い。
匙が器に当たる音が重なる。
三つ先の長机で、ヴィクトルが立っていた。
座るところだったのではない。
食べ終わって立ったのでもない。
盆は机に置かれたままで、料理にはほとんど手がついていない。
周りに五人ほどいる。
同じ一年も、上級生も混じっていた。
「属国の人間が副会長だと?」
ヴィクトルの声は、朝の廊下より大きかった。
食堂の音を越える大きさだ。
「次は何だ。属国人の騎士団長か。冗談じゃない」
近くで、そうだという声がした。
誰の声かは見えない。
湯気の向こうで、二つの頭が動いた。
「立候補は誰でもできるんじゃないの」
別の席から女の子が言った。
「できることと、していいことは違う」
ヴィクトルが返した。
「あいつは元ヴェルダ兵だぞ。王国兵を殺した側の人間だ。学院でも二度、人の喉を押さえた」
食堂の音が少しずつ減った。
全部は止まらない。
遠い席では話が続いている。
窓口では器が渡され、盆が木の台に当たっている。
近いところから静かになった。
「祭りの夜、何人が見た。あれを役員にするのか」
返事はなかった。
同意していた人も黙った。
困った顔で汁物を混ぜる人がいる。
聞こえないふりでパンを食べ続ける人もいる。
どれが賛成で、どれが反対なのかは、顔だけではわからない。
ヴィクトルはこちらを見ていた。
目が合った。
何か言うべきだと思った。
何を言うのかは出てこなかった。
元ヴェルダ兵なのは本当だ。
王国兵を殺した側なのも本当だ。
学院で二人の喉を押さえた。
副会長にしていい理由を、わたしはまだ持っていない。
「ヴィクトル」
声がした。
大きくなかった。
それでも近くの音が止まった。
マーレンが立っていた。
わたしたちの席から、通路を一つ挟んだ向こうだ。
一人で座っていた。
椅子を引いた音を聞いていない。
短い赤毛が、窓から入る白い光を受けている。
ヴィクトルが顎を上げた。
「なんだ」
「お前の反対の理由は何だ」
マーレンは机から手を離した。
両腕を体の横へ下ろしている。
掲示板の前にいたときと同じ立ち方だった。
「属国の人間だからか」
「当然だろう」
ヴィクトルは間を置かなかった。
「敗戦国の人間が、王国の学院で役職に就く。順序が逆だ」
「元兵士だからでも、祭りで人を傷つけたからでもなく」
「それもある」
「最初に出たのは、属国だから、だ」
ヴィクトルの口が閉じた。
周りの生徒は動かない。
匙を器の上で止めた人が、そのまま持っている。
マーレンの声は変わらなかった。
「わたしの兄は、ヴェルダ兵に殺された」
食堂の奥で、器が一つ置かれた。
硬い音だった。
「お前にとっての属国の人間は、わたしにとっては兄を殺した側の人間だ」
マーレンはヴィクトルだけを見ている。
こちらは見ない。
「お前より、わたしのほうがリーネを憎む理由がある」
名前を呼ばれた。
ヴィクトルの顎が下がった。
「なら、なぜ」
「属国だから駄目は、理由ではない」
マーレンが一歩、机から離れた。
「あいつがしたことを言うなら、事実を言え。元兵士だったことを問うなら、何をしたのかを問え。属国という一語で全部を済ませるな」
ヴィクトルの右手が開いた。
指が曲がり、拳になる前に止まった。
「お前は、あいつを許したのか」
マーレンは答えなかった。
「わたしの兄が命をかけた戦争を、お前の偏見の道具にするな」
声は最後まで震えなかった。
マーレンはこちらを見ないまま、机の盆を持った。
器と匙が小さく鳴った。
ヴィクトルの横を通り、食堂を出る。
扉が閉じた。
ヴィクトルは立ったままだった。
遠い席から先に話し声が戻り、近くでも匙が器に触れ始めた。
ヴィクトルは自分の席へ座ったが、汁物には手をつけなかった。
ナタルは閉じた扉から器へ目を戻し、ミラは盆の下の布を指で押さえた。
ルチアだけは、わたしを見ていた。
ルチアが小さな声で言った。
「食べよう」
わたしも匙を持った。
汁物はまだ温かかった。
「やめたほうがいいのかな」
匙を器へ戻す音が、自分で思ったより大きかった。
三人がこちらを見る。
「立候補。わたしが立たなかったら、朝の紙にナタルとカイの名前は書かれなかった。ルチアが受付へ行くことも、ミラがずっと気にすることもなかった。マーレンも、今のことを言わなくて済んだ」
ミラの眉が寄った。
「書いたのはリーネちゃんじゃないよ」
「でもわたしが立ったから書かれた」
「それは、そうかもしれないけど」
違うとは言い切らなかった。
「みんなが嫌な思いをするなら、やめたほうがいいのかなって」
「みんなって、誰?」
ルチアの声は静かだった。
「ルチアと、ミラと、ナタルと。マーレンも」
「わたしは嫌な思いをしてないよ」
「朝、受付まで行ったでしょ」
「行くと決めたのはわたし」
「紙を剥がす話までした」
「話したかったから話したの」
ルチアはわたしから目を逸らさなかった。
「迷惑だったかどうかを、リーネがわたしの分まで決めないで」
口が閉じた。
ミラが盆の下から布を出し、こぼれていた水を拭いた。
「わたしも、勝手に書いた人には腹が立ってる」
布を畳んでから、こちらを見る。
「でもリーネちゃんが立ったことに腹を立てたんじゃない。そこは一緒にしないで」
「うん」
ナタルは器から顔を上げなかった。
「ナタルは。名前、書かれたよ」
「見た」
「嫌じゃないの」
「嫌だ。書いた奴に腹が立つ」
すぐに返った。
「お前がやりたいなら、やれ。やりたくないなら、やめろ。周りの顔色で決めるな」
「顔色、見ちゃうんだよね」
「知ってる」
前線では、戻ってきた仲間の歩き方と返事の速さを見て、歩けるか、使えるか、後ろへ下げるかを決めた。
学院に来てからも、顔を見れば次に何をすべきか探してしまう。
今日も食堂で、同意した人と黙った人を数えようとした。
周りの顔色を命令に変えていた。
命令なら従うだけで、自分で選ばずに済む。
マーレンが出ていった扉は、もう閉じている。
なぜこちらを見なかったのかは聞いていないし、ヴィクトルへ言ったこと以外はわからない。
祭りで倒した人の家族が怖がっている事実は忘れない。
あの人が今も同じ校舎にいて、わたしの名前を見聞きすることも変わらない。
朝の紙にナタルとカイの名が書かれたことも、マーレンが答えずに出ていったことも消えない。
それでもやめるかどうかを周りの顔に決めさせるのは違う。
立候補届を出したのは、命じられたからではなかった。
わたしは、敵国の兵士としても、融和の成果としても、立候補していない。