食堂の扉が背中で閉じた。
盆の上で、器と匙が触れた。さっきまでの食堂より小さな音なのに、廊下ではやけに響いた。
持ち直して歩きかけ、足が止まる。
返却口は食堂の中だ。わたしは盆を持ったまま出てきていた。
扉の取っ手へ手を戻した。開けると、食堂の音が一度に押し寄せる。
ヴィクトルは自分の席に座っていた。周りにいた者も、もう匙を動かしている。こちらを見た者がいたかもしれない。確かめず、壁沿いの返却口へ向かった。
汁物は半分残っている。パンには手をつけたが、ほとんど味を覚えていない。
器を傾けると、冷めかけた汁が豆と一緒に深い桶へ落ちた。返却口の上級生は何も言わず、空いた器と盆を受け取った。
もう一度、食堂を横切る。今度は手ぶらで扉を押した。背中で扉が閉じるまで、振り返らなかった。
冬の空気が、制服に残った食堂の湯気を冷ましていく。
教室へ戻るなら右だ。
足は左へ向いた。
午後の実技で使う訓練場は、渡り廊下の先にある。授業までには、まだ時間があった。
教室へ戻って席につけば、誰かがこちらを見る。何か聞かれるかもしれない。
言った言葉なら覚えている。
「わたしの兄が命をかけた戦争を、お前の偏見の道具にするな」
声は震えなかった。あれを言ったことに迷いはない。
属国だから駄目だという言葉の下へ、兄の死まで敷かれることだけは許せなかった。だから立った。リーネのためではない。食堂の向こう側にいたあいつの顔は、一度も見なかった。見れば言うべきことが鈍る気がした。
迷いがないのは、そこまでだ。
ヴィクトルは聞いた。
お前は、あいつを許したのか。
答えなかった。答えられなかった。
渡り廊下の屋根から、溶けた霜が落ちた。石の手すりに当たり、細かな雫が袖へ飛ぶ。拭っても、冷たさが布に残った。
訓練場へ続く扉を押した。冷たい風が正面から入ってくる。
午前の雨で、地面の色は濃くなっていた。屋根の下には木剣の返却台が並び、その奥で防具を干す横木が濡れている。まだ誰もいない。
返却台の前を通り、壁際の庇の下を歩いた。靴の底に泥がつく。一歩ごとに、踵の形が残った。
歩きながら、答えられなかった理由を探した。
考えたことがなかったからだ。許すのか、許さないのか。その形で考えたことが、一度もなかった。
兄が死んでから、わたしが持っていたのは問いではなく怒りだった。誰を憎めばいいのかも知らないまま、顔のない影を憎んだ。怒っているあいだは、兄を忘れていないと思えた。それで足りていた。
影に顔がついてからも、同じだった。憎めばいいと決めた。
決めたのに、あの顔は一度も、わたしの決めた形に収まらなかった。
教室で向き合った日。あいつの笑顔は、わたしが兄の話をする前から失敗していた。憎み返す敵の顔でも、謝って許しを求める顔でもないまま、あいつはそこに立っていた。あのときは、それが何なのかわからなかった。今もわからない。
祭りの夜。喉を押さえられた上級生を、わたしはほかの三人と板に乗せて運んだ。すれ違ったあいつは教官に腕を取られ、俯いて、自分だけではまっすぐ歩けずにいた。見ていられず、板へ目を戻した。あの夜から、あいつを影へ戻せなくなった。
翌朝には、ナタルの部屋を訪ねていた。何を確かめに行ったのか、今も自分で言えない。
それから何か月も、何も決めなかった。同じ教室で授業を受け、同じ返却台の木剣を使い、近づかず、憎み直すこともしなかった。
顔を上げると、足跡は訓練場の三辺を回っていた。最初の一歩が、すぐ先にある。
足が止まった。
あと一辺を歩けば、四角が閉じる。
ヴィクトルの問いを、もう一度思い出した。
許したのか。
その問いへ戻れば、リーネを敵のままにできる。許さないと答えれば、憎しみは元の位置へ戻る。兄を忘れないために握ってきたものを、許さないという答えに読み替えられる。
今まで考えたこともなかった形なのに、昔からそこにあったような顔をしている。
許すか、許さないか。
その枠の中にいるかぎり、リーネは敵でいてくれる。敵なら、何が起きても憎しみへ戻せる。
人を庇っても、兄を殺した側の動きだと言える。人の喉を押さえれば、やはり敵だと言える。笑えなくても、震えていても、兄を殺した側であることは消えないと言える。
どこからでも、同じ答えへ戻れる。
これは答えを探す問いではない。
リーネを敵にしておくための枠だ。
靴を上げた。最初の足跡へは重ねなかった。三辺だけを土に残し、四角の内側を斜めに横切った。
自分の足跡が、内側から見えた。庇の下を、壁に沿って、同じ歩幅で回っている。考えていたつもりで、決められた道しか歩いていなかった。
返却台へ戻る。冷えた木の端に手を置いた。木剣が同じ長さで並んでいる。
握れば型を始められる。足を置き、腰を落とし、決められた順に振ればいい。父の道場で、考えたくない朝には何度もそうした。型のあいだは、型のことだけ考えていられる。
今日は握らなかった。
返却台から離れ、訓練場の中央へ出る。
兄を殺したのは誰だ。
これまでは、ヴェルダの遊撃隊だと答えてきた。間違いではない。
剣を振った者がいた。夜襲を命じた者がいた。兄の体を止めた刃か魔法があった。それが誰のものか、わたしは知らない。リーネだったかもしれない。違う者だったかもしれない。わからないことを、わかったことにはできない。
あいつが子供の頃から戦地にいたことは、本人が隠していない。
それでも、あいつが戦争を始めたのではない。
子供だったことを理由に、殺された側を軽くはできない。上級生の喉に残った痕も消えない。同じように、憎み続ければ兄の死が正しく扱われる、ということにもならない。
それだけで終えると、別の問いが残る。
兄はなぜ戦地にいた。
兄は王国の騎士だった。ヴォルフの家に生まれ、父の道場で剣を学び、任務を受けて戦地へ出た。夜襲が増えたと手紙に書いても、帰ってはこなかった。
戦争は続いた。兄が死んでも続いた。あいつのような子供が兵士になるほど、長く続いた。
誰かが戦争を始めた。誰かが任務を出した。誰かが、死者の名を紙へ書いた。
その誰かを、わたしは一人も知らない。
ただ、兄を戦地へ送る決定をした者は、当時、王国を動かしていた側にいた。子供が兵士になっても戦争を止めなかった者も、同じ側にいた。
今も、そこにいる者がいるのかもしれない。もう退いた者も、死んだ者もいるかもしれない。
何も知らない。名も、顔も、今の地位も。
それなのに、リーネの顔だけは知っている。
手の届くところにいる一人へ、知らない者たちのぶんまで憎しみを向けてきた。
喉の奥が詰まった。息を吸うたび、制服の襟が首へ当たる。
続きを考えれば、父の道場と、母が守る家名まで疑うことになる。
わたしは騎士になるためにここへ入った。母が一人で守ってきた家を継ぐ。兄が歩いた道を歩く。そうすれば、兄の死を誇りの中へ残せると思っていた。
戦死通知の一行が浮かぶ。王国のために戦って死んだ、とあった。
違う読み方が浮かんだ。
兄は王国のために死んだ。
王国が、兄を死なせた。
腹の奥が強く縮んだ。唾を飲もうとしても、喉を通らない。膝へ手をつき、口を閉じたまま息を吐いた。昼に食べたパンの味が戻り、舌の奥が酸っぱくなった。
二つを同じこととして受け取るのは、まだ無理だった。
王国のために死んだのだと思えば、兄は騎士の務めを果たしたことになる。母が守る家名の中へ戻せる。
王国が死なせたのだと認めれば、父の道場も家名も、兄を送り出したものへつながる。母が耐えてきた年月まで、何のためだったのかわからなくなる。
今は、そこから先へ進めない。誰が命じ、誰なら止められたのかを知らないまま、王国の一語で片づけることもできない。
だが、浮かんだ読み方を消すこともできなかった。兄を殺したのはヴェルダ兵だけだと、前と同じようには言えない。
しばらくして、腹の縮みが少し緩んだ。体を起こす。
訓練場の入口から声がした。午後の準備に来た生徒たちだった。二人が木剣の束を運び、一人が防具を抱えている。こちらに気づき、短く頭を下げた。わたしも返した。
一人で考えられる時間は、もう長くない。決めるなら今だと思った。
兄が死んだことは消さない。リーネの小隊が人を殺したことも消さない。あいつ自身が人を殺した可能性も、学院で人を傷つけた事実も、子供だったというだけで軽くしない。
それでも、ヴィクトルに問われて初めて見えた枠を、これからも持ち続ける必要はない。
許すか、許さないか。
その枠を置く。
リーネは、わたしが許してやる相手ではない。敵として兄の記憶を背負わせる相手でもない。
戦争の中で、別の場所にいた一人だ。わたしと同じように、したことと、されたことを抱えた一人だ。上でも下でもない。
そう見る。
そして、必要なときには同じ側に立つ。事実ではない言葉が使われたときは止める。属国という一語で、あいつのしたことも、されたことも決められそうになったときは、違うと言う。
あいつが正しいからではない。好きだからでも、友達になりたいからでもない。
対等な相手へすることとして、それが筋だからだ。
決めた途端、また腹が縮んだ。今度は堪えきれず、返却台の脇へ顔を向けた。
何も吐かなかった。酸っぱい唾だけが口に溜まり、何度飲み込んでも消えない。
兄は最後の手紙に、嫌な剣だ、と書いた。
その剣を使う相手と同じ側に立つと、自分で決めた。兄の死を踏み越えたように思えた。
型は体に残っている。肘をどこまで絞るかは、今でも自分で正しい位置へ持っていける。だが、そこへ押し込んだ兄の手の重さは、もう出てこない。
怒りまで手放して、次に何が消えるのかを、わたしは知らない。それが怖い。
決めたことが正しいとも思えない。それでも、兄を忘れないために、目の前の一人を敵にし続けることは、もうできない。
手のひらを見た。
あいつが人を庇って跳んだ日、部屋へ戻っても手は冷たいままだった。今日は温かい。
できないと認めた手が温かいことまで、嫌だった。
木剣の束が返却台へ下ろされた。木と木が重なり、乾いた音が続く。
準備に来た生徒が増えた。湿った土へ、いくつもの靴が入っていく。
一人が最初の辺を踏み、次の一人が二辺目を横切った。防具を運ぶ生徒の踵が、三辺目を崩した。
わたしが歩いた足跡は消えていった。
四辺目のないまま、わたしの足跡は踏み崩された。