放課後、受付でもらった選挙運動用の紙を机へ広げた。
前にミラが清書した候補者掲示用紙は、誰が立ったかを知らせるものだった。
今度のポスターには、候補者が何をするつもりなのかを書く。
「白いねえ」
ミラが紙の上へ両手を広げた。
「白い紙だからね」
「そういうことじゃないの。何も決まってないってこと」
教室に残っているのは、わたしとミラとルチアだけだった。
机の上には大きな白紙と、生徒会の決まりを書き写した紙がある。
昨日の朝に貼られた細長い紙も、学院新聞の余白にあった炭の文字も、もう剥がされている。
それでも廊下では、ナタルとカイの名前や、祭りの夜のことを話す声が聞こえた。
選挙運動は予定どおり始まった。
「絵を描く?」
「何の?」
「風の魔法」
「紙が切れるよ」
「本物を当てないでよ。絵だよ、絵」
ミラが手元の紙へ丸い渦を描いた。
風より、丸まって寝ている虫に見える。
「今から風になるところだから」
「まだなってないんだ」
「リーネちゃんと一緒だね」
何になる途中なのかは、わたしにもわからない。
「絵より先に、伝えることを決めよう」
ルチアが決まりの紙を指した。
副会長は会長を補佐し、不在のときは代わりを務め、役員会へ議題を出す。
書いてあることは読んだが、自分が何をするかは別だった。
決まりに書かれた仕事をそのままポスターへ移しても、ほかの候補と同じことしか言えない。
わたしが副会長になって初めてすることを、白いところへ置く必要があった。
「帰省届を変えます、は?」
「もう変わったよ」
「じゃあ、教科書を変えます」
「わたし一人では変えられないよ。できない約束はしたくない」
ミラが頬杖をついた。
「できないこと多いね、副会長」
「まだ候補だよ」
用紙を変えたのはユリウスだ。
わたしがしたのは、帰省先を書く欄で手が止まったことを話しただけだった。
あのときは、書く住所がないなら空ければいいと思っていた。
困っていると自分でわかっていたわけでもない。
ユリウスへ話して初めて、用紙のほうに足りないものがあるとわかった。
でも用紙の欄にも決まりにも入らず、誰へ話せばいいかわからないことなら、ほかの人にもあるかもしれない。
「そういう話を聞くのは、できる」
「聞いたあとは?」
「選ばれたら、生徒会へ持っていく」
ルチアが下書きの紙へ書き、ミラが横から覗き込んだ。
「それなら約束できる?」
「聞くことと、持っていくことなら。変えられるとは書けないけど」
「じゃあ、それも書こうよ」
できると書いたことが、できなかったときの重さは知っている。
前線では人数の足りない命令も、間に合わない命令も紙に書かれて届いた。
無理だとわかっていても、受け取った側はそのとおりに動くしかなかった。
選挙の紙に、同じことは書きたくない。
三人で言葉を選び、ルチアが別の紙へ三行にまとめた。
用紙に書く欄がないことや、決まりからこぼれた困りごとを、聞かせてください。
選ばれたら、聞いたことを生徒会へ持っていきます。
できない約束はしません。
「最後、いる?」
ミラが聞いた。
「いる」
「候補らしくないよ」
「候補らしい嘘よりいいよ」
「それはそう」
ミラはすぐに引き、清書用の紙を広げた。
「まずリーネちゃんが書いて」
「ミラが書くんじゃないの?」
「一回、全部入るように書いてみて」
上に名前を書き、その下へ三行を続けた。
最初はゆっくり書けたのに、後半になるほど字が小さくなった。
「リーネ、字もっと練習しなよ」
「練習してるんだけど……軍の報告書の癖が抜けない」
ミラはわたしからペンを取った。
「報告書なら急いだほうがよかったのかもしれないけど、ポスターは逃げないよ」
同じ幅へ三行を清書し、最後の一行だけを大きくする。
副会長候補リーネ・カルヴァス。
用紙に書く欄がないことや、決まりからこぼれた困りごとを、聞かせてください。
選ばれたら、聞いたことを生徒会へ持っていきます。
できない約束はしません。
「最後だけ大きいね」
「そこがリーネちゃんだから」
ルチアは乾きかけたポスターを見てから、下書きを重ねた。
「貼っただけでは読まない人もいるよね」
「いると思う」
「じゃあ、話を聞いてもらえるように頼んでみる」
「誰に?」
「まずは、わたしが話せる人に」
選挙運動用のポスターは、翌朝、候補者掲示用紙とは別の場所に貼られた。
候補者が使える廊下の壁に、ほかの主張と並んでいる。
一人は、委員会同士の連絡を早くすると書いていた。
一人は、実技場の使用時間を広げると書いていた。
わたしの紙だけ、できない約束はしません、が一番大きい。
ミラはそれを見て、やっぱりもう少し小さくてもよかったかもしれないと言った。
貼り直しはしなかった。
昼までに、何もしない候補なのかと話す声が聞こえた。
できないことを最初から言うほうが信用できる、と返す声もあった。
どちらも、廊下を通りながらポスターを読んだ人の声だった。
放課後、ルチアと一緒に本館の二階へ上がった。
上級生の教室が並ぶ階だ。
窓際に残っていた二年の男子生徒二人へ、ルチアが声をかけた。
「少しよろしいですか」
「副会長候補のカルヴァスさんです」
「知っている」
片方が窓のほうへ体を向けたまま答えた。
「選挙の演説を、聞いていただきたいんです」
「演説なら、候補者全員のものを聞く決まりだろう」
「席にいることと、話を聞くことは違います」
「話だけでも聞いてほしいと、お願いに来ました」
「君は、何をするつもりなんだ」
「人の話を聞きます。用紙や決まりに入らなくて、誰にも出せなかった話です」
「それで?」
「選ばれたら、生徒会へ持っていきます」
「持っていけば、変わるのか」
「わかりません」
「ずいぶん頼りない候補だな」
「できると言って、できないよりはいいと思っています」
「それで票をもらえると?」
「入れるかどうかは、聞いたあとで決めてください」
「君も、この候補の運動を?」
「はい」
「名前を聞いても?」
「ルチア・アルヴェインです」
「アルヴェイン家の?」
「長女です」
二人とも、こちらへ向き直った。
「失礼しました。ご令嬢とは知らず」
「わたしへの失礼はありません」
「それより、カルヴァスさんの話を聞いていただけますか」
「アルヴェイン家は、この候補を支持しているのですか」
「家の話はしていません。わたしがお願いしています」
「しかし」
「家の名前がなければ、聞くかどうかも答えていただけませんでしたか」
「演説は聞きます」
「わたしが何を話すかは、アルヴェイン家とは関係ありません」
「わかっている」
「ありがとうございます」
ルチアが頭を下げた。
わたしも続けた。
二人から離れ、階段へ向かう。
「聞くって言ってくれたね」
「うん」
「家の名前を出したら」
「うん」
「ああなるのは、知ってた?」
「知っていたつもりだった」
「よかった?」
「役に立ったのは、よかった」
「でも名前で聞かれたのは、喜び切れない」
「次も頼む?」
「頼む」
「聞いてもらうところまでは、できるから」
「その先で何を話すかは、リーネが決めて」
「うん」
上級生の教室からルチアと階段を下り、一階で別れると、演説の順番を確かめるため、生徒会室のある二階へ戻った。
生徒会室の扉を開けると、ユリウスが一人で机に向かっていた。
「ちょうどよかった」
ユリウスが顔を上げた。
「呼ばれてましたか」
「呼びに行こうと思っていた」
ユリウスの前には、ほかの書類と重ねていない紙が一枚あった。
上の一行はこちらからも読める。
副会長候補リーネ・カルヴァスを支持する。
字は細く、まっすぐだった。
生徒会の通達で見たユリウスの字だ。
「それ、わたしの名前ですか」
「そうだ」
「何に使うんですか」
「僕からの応援文にするつもりだった」
「だった?」
「まだ決めていない」
「君を副会長候補に頼んだのは僕だ。その理由と、君を支持する理由を、生徒会長として明らかにしたほうがいいと考えた」
「どこに出すんですか」
「掲示するか、演説の日に僕が読む」
「会長が、わたしを応援するんですか」
「そのつもりで書いた」
紙には、見えている一行の下にも文字が続いていた。
「自分で書きます」
「演説の原稿は、自分で書きます」
「君の原稿を書こうとしているわけではない」
「応援文も出さないでください」
「会長の言葉で応援されたら、会長の贔屓だって言われる。わたしの言葉で立たないと意味がない」
掲示板の前で、レーゲンハルト会長が頼んだのではないかという声を聞いた。
「会長の意見で票が入ったら、わたしに入った票ですか」
「選挙では、誰かの支持を受けることもある」
「それでも、会長の言葉は大きすぎます」
「僕は君に立候補を頼んだ」
「立たせた以上、当選してほしい。僕が持っている影響を使えば届く相手がいるなら、使いたいと思っている」
「うん」
「今も、その考えは変わらない」
ユリウスは応援文を持ち上げた。
破らずに二度折り、文字を内側へ入れて書類挟みへしまった。
「これは出さない」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。書いたのは僕の都合だ」
「演説の原稿は」
「まだ白いです」
「そうか」
ユリウスは、候補者全員へ渡している演説時間と順番の紙を一枚取った。
わたしは最後から二番目だった。
紙を受け取る。
生徒会室から一年A組へ向かう途中、本館二階の廊下でグレン先生と会った。
先生は教官棟から戻り、本館側の渡り廊下口を出たところだった。
「演説の原稿、見てもらえますか」
「見ん」
「教官は候補者を選ばん」
「自分で書け」
「はい」
一年A組へ戻ると、最後の鐘から時間が経った教室に誰もいなかった。
窓の外から、実技場で木剣のぶつかる音が間を置いて届いていた。
廊下を通る足音も、もう少ない。
黒板には最後の授業で書かれた術式が半分残っていた。
自分の席へ座り、ポスターを作ったときの下書きを机に置いた。
その隣へ、演説用の白紙を並べる。
何を話すかはまだ決まっていない。
それでも最初の一行だけは、自分の字で書けた。
「わたしは、リーネ・カルヴァスです」