わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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演説

講堂の後ろの扉が閉まる音を、壇の脇で聞いた。

 

重い木が石の枠に当たった音は、入学式の日にも聞いた。

あのときは後ろの壁際に座り、右手が何もない腰へ動いた。

 

今日は壇上へ上がる順番を待っている。

右手はポケットの上にあった。

中には、四つ折りにした原稿が入っている。

昨日の夜、ルチアが眠ったあとまでかけて書いた。

用紙や決まりからこぼれた話を聞くこと。

選ばれたら生徒会へ持っていくこと。

できない約束はしないこと。

 

何度も書き直したので、最初の紙より字が小さくなり、途中から右へ倒れている。

それでも最後まで、自分で書いた。

 

前の候補が喋っている。

実技場を使える時間を広げる話だ。

放課後に組ごとの時間を決め、希望が重なった日は生徒会で調整するらしい。

ちゃんと副会長の仕事の話になっている。

 

拍手が起きた。

前の候補は頭を下げて壇を降りた。

 

壇の横で進行表を持っていたユリウスが、わたしの名前を読んだ。

 

「副会長候補、一年A組、リーネ・カルヴァス」

 

講堂の椅子が一度に鳴った。

誰かが座り直した音だ。

小さい咳が二つして、止まる。

 

「時間は同じだ。始めてくれ」

 

「はい」

 

一段目へ足をかけ、三段しかない壇をすぐに上がりきった。

 

入学式の日は、ここへ上がる人間を下から見ていた。

壇の右に通用口。

左側には大きな窓。

正面の入り口までは、椅子の列を挟んでまっすぐ。

後方の扉と左手奥の扉も合わせれば、出口は三つある。

 

あの日と同じだ。

建物は何も変わっていない。

 

変わったのは、立っている場所だけだった。

 

演台の前まで行き、木の縁に両手を置く。

左手の指先が震えている。

右手も、置いてから震えているとわかった。

 

講堂を見渡した。

 

前のほうにルチアとミラが並び、ナタルは右の壁際に立っている。

ヴィクトルは中央より少し前で腕を組み、マーレンは後ろの列にいる。

 

教員席にはドルフがいた。

わたしが立候補したことを、融和政策の成果だと言った人だ。

今日は、その成果が喋るところを聞きに来たのだろう。

 

グレン先生も最後列の後ろにいる。

原稿を見てくださいと頼んだとき、この人は見んと言った。

教官は候補者を選ばん、自分で書け、と。

 

書いた原稿は、ポケットの中にある。

取り出そうと思った。

右手を演台から離し、制服の脇へ下ろす。

紙の角が布越しに指へ当たった。

 

最初の一行は覚えているし、その次も、その次も昨日書いた。

 

でも目の前に並んでいる顔を見たら、書いた順番とは別のものが先に出た。

 

「わたしは、入学試験を受けていません」

 

声は思ったより普通だった。

教室で答えるときと同じ高さだ。

 

講堂のあちこちで、短い声が上がった。

椅子の軋みが続く。

知っている人もいる。

知らなかった人もいるらしい。

 

「収容所で審問官に選ばれて、ここに送り込まれました。融和政策の一環です」

 

「わたしがここへ来たのは、入学試験で才能を認められたからではありません。審問官に、利用価値があると判断されたからです」

 

喉が乾いていた。

候補者が順番に使う演台なので、水は置いていないのだろう。

舌を上顎につけて離しても、それだけでは足りなかった。

 

「わたしは十三歳で剣を渡されました。三日だけ訓練を受けて、前線に送られました。二年間、ヴェルダ公国軍の第七歩兵小隊にいました」

 

ポケットの紙には、こんなことは書いていない。

書いた原稿はまだ取り出せる。

ここで止めて、最初から読めばいい。

右手はポケットの上で止まったまま、紙を掴まなかった。

 

講堂の後ろで誰かが一度だけ咳をした。

 

「人を殺しました」

 

声が講堂の天井へぶつかった。

自分の声なのに、耳の奥が痛んだ。

腕が震え、演台の縁を掴む指へ力が入る。

 

「仲間が死ぬのを見ました。昨日まで隣にいた人が、次の朝にはいなくなりました。わたしの小隊は、ほとんど全滅しました」

 

返ってくる音がない。

 

食堂なら食器が鳴る。

教室なら誰かが紙をめくる。

三十人が黙っていても、椅子やペンの音はする。

この講堂には、それより多くの人がいる。

それなのに、息を吸う音まで聞こえた。

 

「教科書には、ヴェルダ戦争は『正当な領土回復』と書いてあります」

 

教科書の一二八頁。

何度も試験に出た言葉だ。

正解の欄へ、そのまま書いた。

 

「わたしの村は焼かれました。わたしの家も、なくなりました。教科書には、村の名前も、そこにいた人の名前も書いてありません」

 

故郷の村の名前は、ここでは言わなかった。

言えないからではない。

あの音を、ドルフの教科書の横へ置きたくなかった。

 

「わたしは、その教科書で勉強しています。その言葉を覚えて、試験を受けています。正解は、わたしの村を焼いた側の言い分です」

 

声が震えた。

大きく出したからではない。

喉の奥で、別のものが引っかかっている。

 

ドルフは組んでいた両手をほどき、片方を椅子の肘掛けに置いている。

その指だけが、二度動いた。

この人の顔がどういう意味なのかはわからない。

予定していた話と違うことだけは、わかった。

 

「わたしが副会長へ立つことに、反対している人がいます」

 

さっきより低い声が出た。

叫んだあとの喉は狭く、息が擦れる。

 

「属国の兵士が、生徒会の役職につくのはおかしい、と」

 

一人だけの話ではない。

新聞の余白に書かれた言葉も、廊下で聞いた声も、被害を受けた上級生の家族が学院へ送った書状も、全部同じではない。

怖いと書いた家族の言葉を、属国だから駄目だという言葉へ混ぜてはいけない。

 

「わたしは、学院で人を傷つけました。怖いと思う人がいるのは、当然です。傷つけられた人と、その家族が、わたしを役職につけたくないと思うのも当然です」

 

前のほうで、一人が俯いた。

誰なのかは見えない。

 

「それとは別に、ヴェルダの兵士だったから反対だという人もいます」

 

マーレンを見た。

赤い髪の下の目と合った。

逸らされなかった。

 

「その気持ちは、わかります」

 

声を押し出すたび、喉が狭くなる。

 

「わたしの仲間が、あなたの家族を殺したかもしれない。それは事実です」

 

兄のことを聞いたのは、放課後の教室だった。

あのときマーレンは、あんたの仲間が兄を殺した、それは事実だと言った。

わたしは、自分が殺した相手の名前を知らない。

だから、そうかもしれないとしか答えられなかった。

 

今日は、それだけでは足りない。

 

「わたしも、殺しました」

 

声は大きくなかった。

 

叫んだときより、遠くまで届いた気がした。

 

マーレンの右手が膝の上で左手を握り、重なった指の関節が白くなった。

何を考えているかはわからない。

わたしの言葉で、兄のことをどう思ったのかもわからない。

ただ、こっちを見ている。

 

「どちらかだけを、なかったことにはできません。わたしの村が焼かれたことも、ヴェルダの兵士が王国の人を殺したことも、わたしが人を殺したこともです」

 

一度息を吸ったが、肋骨の下が硬く、うまく入らない。

 

演台から両手を離した。

掴んでいると、指へ入る力が増えていく。

両手を体の横へ下ろすと、震えが隠れなくなった。

 

「わたしを、融和政策の象徴にしたい人がいます」

 

ユリウスを見た。

ユリウスは壇の脇で、何も言わず立っている。

 

最初に会ったころ、この人もわたしを融和の象徴として見ていた。

それを自分で認めた。

今も、わたしが立つことに使い道があると思っている。

隠さずに言ったから、わたしは話を聞き続けた。

 

「わたしは、そうじゃない」

 

胸の中に残っていた息を全部出した。

 

「象徴でも、成功例でも、道具でもない。王国が使う駒でも、ヴェルダが使う駒でもない」

 

ヴェーバーさんの声が浮かんだ。

祖国のために使える。

あの言葉が、「する」なのか「させられる」なのかは、まだわからない。

 

「わたしは、ただの生徒だ」

 

声が裏返った。

喉の奥が切れたように痛い。

それでも、次の息は入った。

 

「ヴェルダに残って、抵抗を続けている人がいます。焼かれた村の名前を石に刻んで、失くなりそうな歌を覚えて、子供にヴェルダの言葉を教えている人です」

 

カイを反王国分子と呼んだ紙があった。

わたしはその呼び方をしない。

カイも自分をそう呼ばなかった。

 

「その人の怒りはわかります。わたしより、ずっとたくさん覚えているものがあることも知っています」

 

カイの戦い方は、言葉だ。

石と、歌と、子供の声だ。

 

「でも、わたしは違う方法を選びました。ここにいることを選びました」

 

目から水が落ちた。

頬を通って顎まで来た。

拭かなかった。

拭けば、いま何をしているのかわからなくなりそうだった。

 

講堂の前の列が滲んだ。

人の顔はもう見分けられない。

 

次の言葉を出そうとして、息が詰まった。

喉を開こうとすると、浅い音だけが出た。

叫ぶための息を使い切ったらしい。

 

足の裏を探した。

靴の中は温かい。

壇の木は硬い。

 

演台の角。

窓の桟。

ルチアの水色の髪飾り。

ミラのおさげ。

石壁の継ぎ目。

 

五つ。

 

講堂だ。

壇上にいる。

誰も近づいてこない。

 

長く息を吐き、一度では足りずにもう一度吐いた。

 

「……戦争の話をしました」

 

叫びは止まった。

声は掠れている。

 

「でも、本当に話したいのは、ここでの話です」

 

ポケットの中の原稿とは違う。

でも、いま話していることも、ここへ立った理由だ。

 

「入学した日、食堂でごはんを食べました。五分もかかりませんでした」

 

あの日の盆を覚えている。

パンと、豆の煮込みと、焼いた肉。

壁際で、出口の近く。

 

「前線では、食べられるときに食べないと、次があるかわかりませんでした。ゆっくり食べたら取られました。食べている途中で動くこともありました」

 

目の前にあるものを口へ入れて飲み込み、手を止めないことを体が覚えていた。

 

「でも周りの人は、ゆっくり食べていました。お喋りしながら、笑いながら、一口ずつ食べていました。わたしだけ、空になったお皿の前にいました」

 

「ああ、ここでは急がなくていいんだって、その日に思いました」

 

思っただけではできず、五日目も二分か三分で食べ終わった。

ルチアに、ゆっくり食べていいんだよと言われても、手は止まらなかった。

 

「すぐには、できませんでした。今も、気づくと先に食べ終わっています」

 

ここは原稿に書いていない。

昨日まで、演説で言うつもりもなかった。

 

「でも、食べ終わったあとも席に座って、友達が食べるのを待つようになりました。ルチアに、もう少し座っててと言われたら、座っています。たまに、四分くらいかけて食べられる日もあります」

 

「まだ遅くはないです。みんなよりずっと速いです。でも、急がなくていいことは知りました」

 

講堂は静かだった。

さっきの静けさとは違う。

体を小さくしてやり過ごす静けさではない。

わたしの次の言葉を待つ静けさだった。

 

「好きな食べ物を聞かれて、答えられませんでした」

 

ミラと食べた昼の弁当が浮かんだ。

豆の甘煮、卵焼き、川魚、つぶした芋。

全部おいしいと答えて、怒られた。

 

「二年間、好きとか嫌いとか考えたことがなかったからです。食べられるか、食べられないか。いま食べるか、残すか。それだけでした」

 

今も、自分の中から一つを取り出すのは苦手だ。

目の前にあれば、冷たい果物も、胡桃のパンも、砂糖漬けもわかる。

 

「友達が、王都の市場で砂糖漬けを買ってくれました」

 

「橙色の果物でした。三切れ入っていました。最初に果物の酸っぱさが来て、そのあと砂糖の甘さが来ました」

 

舌の上に、あの日の甘さが戻る。

本当に戻ったわけではないのに、指についた蜜まで覚えている。

 

「甘いって思いました。おいしいって、声に出ました。好きだって思えました」

 

胸の奥が狭くなった。

 

「おいしいと思えたことが、嬉しかったです。そんな普通のことが嬉しい自分は、普通じゃないんだと思いました」

 

あの日はそこまで考えず、ただ甘くて、おいしかった。

後から何度も食べて、好きだとわかった。

 

「でも今は、砂糖漬けが好きだと言えます」

 

前の列では、ミラが口元を押さえ、その隣でルチアの頬が濡れていた。

 

「夜は、静かすぎて眠れませんでした」

 

窓の留め金。

二階から地面までの高さ。

正面の木立。

壁際へ寄せた背中。

 

「戦場では、静かな夜は、何かが来る夜でした。虫も風も止まったら、誰かが近づいているかもしれない。だから静かになるほど、眠れませんでした」

 

前線では寝息を真似ても、首の脈は起きたままだった。

 

「学院でも、毎晩窓を見ました。目を閉じると、朝には冷たくなっていた人や、助けないで走った場所が出てきました。今も、夜中に起きます。夢も見ます」

 

治った話にはできない。

手順は一つも減っておらず、夜に一度か二度起き、留め金と下と木立を確かめる。

 

「でも、眠れる夜もできました」

 

ミラの寝息は深くて規則正しく、ルチアの寝息はそれより浅く長かった。

 

「最初のルームメイトは、横になったら二分で眠る子でした。その寝息を聞いていると、ここでは夜に眠っていいんだと、少しずつ体が覚えました」

 

「今のルームメイトは、わたしが返事をするまで、おやすみを待ってくれます。夜中に目が覚めても、その子の寝息が聞こえると、一人じゃないとわかります」

 

「今も眠れない日はあります。でも、友達の寝息が聞こえる部屋で、朝まで眠れる夜があります。授業中に眠って、先生に起こされない日もあります」

 

「手を繋いでもらいました」

 

両手を体の前へ持ち上げると、何も握っていない手の震えが講堂の全員に見えた。

 

「震えました」

 

最初にルチアの手が触れたとき、体が固まった。

抱きつかれたときは、優しい手なのに頭より先に体が逃げ、突き飛ばした。

 

「手を伸ばしても、あと指一本ぶんのところで止まる日がありました。そういう日は、ルチアが手を引いて、別の話をしてくれました」

 

何人かの視線が、ルチアへ向いた。

ルチアはそちらを見なかった。

 

「でも、握り返せる日が来ました」

 

中庭の長い影。

掌を上に向けて待つ手。

指先が触れ、掌を重ね、指の付け根から手首まで震えた。

 

「まだ震えます」

 

いまも震えている両手を開いた。

 

「握れない日もあります。でも、握り返せます」

 

泣いているのはわかっていた。

目の下が冷たい。

喉が何度も詰まる。

それでも、立っている。

 

「わたしは、ここで知りました」

 

「ゆっくり食べていいことを、ここで知りました」

 

「好きなものを持っていいことを、ここで知りました」

 

「眠っていいことを、ここで知りました」

 

「壊れていても、ここにいていいことを、ここで知りました」

 

誰も動かなかった。

 

入学許可証の裏に、心的外傷の兆候ありと書かれていた。

読んでも意味がわからなかった。

グレン先生に、お前は重傷だと言われても、大丈夫ですと笑顔を出した。

 

壊れているなら直さなければ使えないと思っていた。

動けるなら壊れていない。

動けなくなったら置いていかれる。

 

でも、握れない日は握らなくていいと教わった。

眠れない夜があっても、朝になれば隣に人がいた。

器の音で匙を握っても、そのあと指を開けば、同じ席に座っていられた。

 

「この学院が、わたしにそれを教えてくれました」

 

「教科書ではありません」

 

「融和政策の理念でもありません」

 

「ここにいる人たちが、教えてくれました」

 

ルチアとミラ。

ナタル。

グレン先生。

 

同じ教室で木剣を合わせる人たち。

名前を呼んでくれた人。

怖かったと言いながら、席を取って待っていた人。

一人だけではない。

違うやり方で、同じ場所にいてくれた。

 

「だから、わたしはここに立っています」

 

胸元の学院章へ手を置いた。

鷲が剣を掴んだ紋章だ。

降伏の日に見たものと同じ形。

 

「送り込まれたからではありません」

 

審問官に選ばれた。

ヴェーバーさんが名前を挙げた。

王国にもヴェルダにも、わたしの使い道がある。

それでも、いま立っている理由までは渡さない。

 

「ここにいたいからです」

 

声がまた震えた。

もう押さえなかった。

 

「ここが、わたしの居場所だからです」

 

言えた。

 

「わたしに投票してください、とは言いません」

 

選挙の演説としては、おかしい。

候補者なら、最後に票を頼むものだ。

でも、その言葉は出なかった。

 

「でも、ここが、わたしにとって何なのかは、知ってほしかった」

 

両手を下ろした。

 

「それだけです」

 

終わった。

頭を下げた。

涙が鼻先から床へ落ちた。

顔を上げる。

 

講堂は静まっていた。

今度は次の言葉を待っている静けさではない。

もう次はない。

 

そこで、ようやく気づいた。

 

副会長になったら何をするか、一言も話していない。

話を聞くことも、生徒会へ持っていくことも、できない約束はしないことも。

帰省届にも、教科書にも触れなかった。

ポケットの中には、演説の原稿がそのまま入っている。

一行も読んでいない。

 

あーあ。

 

選挙に来たのに、選挙の話をしなかった。

いまから原稿を出すことはできる。

すみません、本題を忘れていましたと言って、最初から読めばいい。

時間は、たぶんもう過ぎている。

ユリウスの進行表を見ればわかる。

 

壇の横を見た。

ユリウスは手元の進行表をそっと伏せた。

時間を示す札にも触れない。

何も言わなかった。

 

応援文は持ってきていない。

書類挟みにしまうところを見た。

だから、いま講堂に残っているのは、わたしが喋った言葉だけだ。

原稿も自分で書いた。

壇上で勝手に出てきた言葉も、自分の口から出た。

 

後悔はなかった。

 

選挙の話をしなかったことは、まずかったと思う。

でも、やり直したいとは思わない。

 

講堂の全員がこちらを見ている。

泣いた顔のまま、笑顔を出していない。

口の端を上げてもいない。

軽く流す言葉も、何も浮かばない。

ただ立っていた。

 

ぱん、と一つ音がした。

反射で肩が動いた。

手は腰へ行かなかった。

 

もう一つ、同じ音。

 

ミラが両手を叩いていた。

泣いて、鼻を赤くして、それでも腕を大きく動かしている。

 

三つ目が隣のルチアから重なった。

 

前の列の誰かが続いた。

少し離れた場所から、別の音が重なる。

 

拍手だった。

 

講堂全部ではない。

手を膝に置いたままの人もいる。

教員席でも、動かない手がある。

それでも、少なくなかった。

 

一つずつだった音が重なり、天井へ返ってくる。

扉の音とも、金属の皿が落ちる音とも違う。

同じ音が何度も続いているのに、逃げる場所を探さなくていい。

 

ヴィクトルは拍手をしていなかった。

組んでいた腕を解き、両手を膝へ置いている。

こっちを見たまま、顎を引いた。

 

マーレンも拍手をしていない。

膝の上で握っていた手はほどけていた。

目が赤い。

瞬きを一度しても、赤いままだった。

 

何を思ったのかは、わからない。

兄のことをどう置いたのかも、わたしには決められない。

 

ナタルは壁際に立っている。

拍手はしない。

壁から背中を離し、両手を体の横へ下ろしていた。

 

グレン先生は、後ろの壁で小さく頷いた。

一度だけ。

教官は候補者を選ばんと言った人の、それだけだった。

 

拍手はしばらく続いた。

ユリウスが止めなかったので、次の候補を呼ぶ声も来ない。

わたしはもう一度、講堂へ頭を下げた。

ポケットの中で、読まなかった原稿の角が指に触れた。

 

顔を上げると、壇の脇で最後の候補が待っていた。

 

読まなかった原稿をポケットに残したまま、わたしは、選ばれるために立った壇を降りた。

 

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